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慰霊旅日記 5

タイ、南部の、スラー・ターニーは、丁度、南部の真ん中にある。
その対極、西は、有名なプーケットだ。

私たちは、エアアジアという、国内線で、スラー・ターニーに向かった。
チケットは、キャンペーン価格で、約2500円という、安さである。

しかし、これが、きつかった。
空港から、町に出るには、一時間以上もかかり、接続のバスも少ない。
降りた時、空港の前に止まっていたバスが、サムイ島行きのバスである。

要するに、バスと船との、チケットなのだ。
本当は、スラー・ターニーに一泊してから、行き先を決めるはずだったが、面倒臭いので、そのバスに乗り込んだ。
つまり、サムイ島に、行くことにした。
それが、何と、飛行機、バス、船と、九時間の、移動になった。

二日後に、それが、腰にきて、痛みだしたほどだ。

港のドン・サクという場所まで、二時間近くも、かかった。
そして、船で、一時間半である。

体が、ゆらゆらした。

サムイ島は、野中が、大学生の頃に来ていた。
八年ほど前である。
その時に、泊まった、ゲストハウスを目指したが、港からは、ミニバスで、30分以上もかかった。
本当に、乗り物の、一日だった。

サムイ島は、多くのビーチがある。
私たちが向かったのは、ポプットビーチである。

それが、幸いした。
後で、島の繁華街がある、チャウエンビーチに出掛けて、愕然とした。
東京の青山辺りにあるような、店店店である。

ポプットビーチの、ゲストハウスは、ワンベッドの部屋が空いていた。
ダブルベッドの部屋である。

一泊、600バーツである。
野中が、驚いた。
以前は、200バーツだったのだ。

コテージになっていて、プライベートな感覚であり、部屋は良かったが、価格の上昇に、野中は、時の流れを、痛感していた。

そして、ゲストハウスの、何から何まで、高くなっていた。
水も、四倍である。
要するに、海の家感覚の、値段である。

実は、私も、15年くらい前に、お弟子さんから、コサムイに、行ってみてください。いい、島ですよと、言われていた。
それを、思い出していたが、その時の、お弟子さんの言う島ではないことは、確かだった。

ただ、目の前のビーチが、救いだった。

朝明けの、光は、夕日以上に美しいものだった。
朝の早い私は、その光景を楽しんだ。

到着した時間が、遅かったので、翌日は、のんびり、ゆっくりした。
昼の食事だけは、ビーチを歩いて、魚を食べに行った。
そして、屋台の店から、大量に水を買った。

一本分で、四本買えるのである。
当然、安い店から買う。ついでに、ビールも買った。
ビールの値段も、二倍以上だった。

野中が、昔を懐かしむので、物価が、高くなったんだと、慰めた。
辺りに、多くのゲストハウスや、高級ホテルも、建ったのだ。
猛烈に、島の様子が変化したのである。

私は、久々に、海に入った。
そして、頭を洗った。
海水で、体を洗うことは、清めになる。
海水に、浸っているだけで、体の毒素が、抜ける。

一日を、そうして、過ごした。
部屋には、エアコンが無いから、兎に角暑い。扇風機だけである。
夜も、暑くて、どうしようかと、思ったが、疲れたせいか、眠ることが出来た。

ベッドには、シーツ一枚である。
その、シーツを被って寝るのだ。それで、十分である。

朝、日の出る前に、涼しくなるのが、心地よかった。
そして、朝日の赤い輝きである。

窓も、ドアも、開け放して、風を通す。
二日目に雨が少し降った時は、本当に、心地よかった。

その雨が止み、夕方、私たちは、島最大の繁華街のある、チャウエンビーチに向かった。

六時を過ぎると、すべての、乗り物の料金が倍になる。
50バーツで乗れるソンテウが、100バーツになるのだ。

チャウエンビーチには、驚いた。
バリ島の繁華街である、クタ地区よりも、完成度の高い街になっていた。
これが島なのかという、驚きである。
更に、レストランの並びは、渋谷、青山辺りのものである。
洗練された、ビル、店舗である。

野中が来た当時、ゲストハウスの主人は、馬鹿にされたという。
こんな所に、ゲストハウスなど建てて、誰が来るのだと。
しかし、五年を過ぎると、次々と、ゲストハウスが建ち始め、更に、大型ホテル建設である。そして、高級リゾートホテル。

ある時から、サムイ島に目をつけた、不動産業者が、島の人にとっては、高く、しかし、不動産業者にとっては、タダのような、価格で土地を買いあさった。
そして、バンコクの金持ちが、ホテル業界に参入するという、筋書きである。

国を上げての、観光地化である。
誰の、策略か。
私は、全く、興味を持てない島になった。
島の文化が無い。全く、それらしきものが、感じられない。

島の信仰対象を尋ねると、男根と、女陰の岩があるというのみ。
じいさん岩と、ばあさん岩と言う。
そんなはずはないと、思うが、誰も知らない。

申し訳程度に、ピーの祠があり、ビッグブッダの像もある。そのビーチを、ビッグブッダビーチともいうが、それだけである。

何も無い。
あるのは、小奇麗で、料金の高いレストランである。
ちなみに、日本食のレストランに入った。
日本の料金と、大して変わらない。しかし、勿論、日本の料理とは、比べられない程、質は落ちる。

結果、地元の人の屋台や、食堂が一番良かった。

島の人口は、増えたが、それらは、皆、出稼ぎである。
多くは、東北部、イサーンから来た人が多かった。
私の泊まったゲストハウスの浜で、マッサージをしていた女性もイサーンの出身である。母親と、妹との、三人暮らしである。

そして、そのマッサージの小屋の前に、遊びに来ていた、中学生の女の子も、イサーンから、やって来ていた。兄弟たちと、一緒に暮らす。

子供服は、この子を通して、イサーンからやって来た、子供たちに、上げることにした。

最初は、スラー・ターニーの郊外の子供たちに、配ろうと思っていたが、大方、その子に上げることになった。

話を聞いているうちに、段々と、環境状態が解り、イサーン出身の人々が住む、バラック小屋の多くが建つ、一角があり、そこに住むということだった。
家も無い人々は、まず、そこから、生活が始まる。

子供服を、持ってきたが、必要かと、尋ねると、頷く。
そこで、部屋に連れて、服を見せた。
彼女の背格好に合うものが多く、一つ一つに、目を輝かせた。
そして、友達も、沢山いると言うので、それではと、一つのバッグに、私は詰め込んだ。

更に、小さな子供は、いるかと尋ねると、頷く。一つ一つを見せると、いるいると、言う。
幼児の靴も、三足あり、これは、どうかと、尋ねると、それも、いるという。
彼女の頭の中に、皆の顔が、浮かんでいたのだろう。

こうして、突然の子供服支援が、整った。

決して、彼女の服装は、汚くなかった。
黄色のTシャツに、短パンを穿いていた。
女の子らしく、清楚に、美しかった。
持っていた、白い服などは、彼女を、より可憐に美しく飾る。私も、それが、嬉しかった。

バッグ一杯に詰めた衣服を、彼女は、持って行った。
野中が、途中まで送った。

すぐに、兄弟たちのところに、持って行ったという。

私に、支援してくれた人の顔が、浮かんだ。
喜んで貰ってくれる人がいることを、一緒に、喜んでくれるだろうと、思った。
一度、手を通した物を、他の人に上げるのは、抵抗があるという人たちだ。
日本では、そういう意識になっている。
それでは、喜んで貰ってくれる人のいる所に、持って行こう。それが、私の単純な行為である。

これは、実は、善行でも何でもない。単なる、付けたしの行為である。もし、善行だと思えば、それは、実に難しい行為である。悪行の方が、遥かに、易しい。
彼女は、私に、コープクンカー、ありがとう、と言った。そして、私も、ありがとうと、言った。

善を行う行為は、悪を行う行為以上に難しいことを、知らないと、ボランティアという行為は、意味を成さない。

ただ、私は、一言、はっきりと、私は、日本人ですと、言った。
口には、出さないが、貰ってくれて、ありかとう、だった。

世の中には、多くの指導者、指導的立場の人がいる。
しかし、それが、指導者であり、指導的立場であると、思わせることから、堕落が始まる。

その存在を、無にする、つまり、風にような存在になることの出来る人こそ、指導者に、相応しい。
そういう、無名の人の行為により、世界は、平和に向かうことを、私は知っている。

一人一人が、神の子である、仏である、菩薩である等々の、妄想ではない。
人間として、素晴らしいモノになること。

あの、私をバイクに乗せてくれた、おじいさんは、単なる知らない人だった。
偶々、私を乗せてくれた。
私を降ろすと、さっと、風のように去った。

それは、心地よい風だった。
それでよい。

私も、そのようになりたい。
ただ、日本人であることのみ、伝えたい。

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2008年05月02日 19:10に投稿されたエントリーのページです。

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