2005年5月8日 ロンドン・インディペイント紙
歴史的に名高いメッカ、かのイスラム教揺籃の地が、宗教的狂信者による前例のない猛攻撃によって埋もれつつある。この聖地の豊かで何層にも積み重なった歴史のほとんどすべてがいま、消えてしまおうとしている。・・・いまや、預言者ムハンマドの実際の誕生の地は、サウジの宗教権威者たちの黙認のもとで、ブルトーザーで壊される危機に直面している。宗教権威者のなかでも強硬な一派によるイスラム教解釈が、自らの遺産を消滅させることを強いているのである。・・・・
だが、メッカーーーあるいはシャルトル、コークミンスター、ノートルダムの大聖堂、シュダゴン・パゴダ、京都の寺院、あるいはもちろんバーミヤンの大仏像―――をブルトーザーで壊そうとする無神論者がこの世にいるとは、私には信じられない。ノーベル賞を受賞したアメリカの物理学者スティーブン・ワインバーグが言うように、「宗教は人間の尊厳に対する侮辱である。宗教があってもなくても、善いことをする善人はいるし、悪いことをする悪人もいるだろう。しかし、善人が悪事をなすには宗教が必要である」。ブレーズ・パスカル(パスカルの賭けのパスカルである)も似たようなことを言っている。「人間は、宗教的な確信をもっておこなっているとき以上に、完璧かつ快活に悪をなすことはない」
ドーキンス
私は、ドーキンスの「神は妄想である」という本を、引用して、神仏は妄想である、を、書いている。
ドーキンスは、一神教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を、主にして、神というものの、正体を書く。
私は、それに、仏という、ものも、取り上げている。
神と、仏の違いは、神とは、完全無欠に、人間と、隔絶したものである。対立しているのである。
人間は、神の子であるといっても、決して、神には、なれないし、ならないのである。
仏は、人間が、成ることの出来るものである。
仏に成るために、仏教という、宗教がある。
しかし、その、仏教も、矢張り、仏というものを、隔絶しているのである。
仏というより、その手前の、菩薩を見ても、良く分かる。
つまり、菩薩を拝む対象としているのである。
更にまた、開祖、教祖を、拝むということもある。
極めて、一神教の要素が、漂うのである。
勿論、多くの、如来、菩薩、等々があり、それぞれが、信仰の対象になっている。
勿論、それらは、皆、人間の妄想の、産物である。
観念である。
日本の仏典の、多くを漢訳した、玄奘三蔵法師は、天山山脈を越える時に、観世音菩薩を、念じて、越えた。
だから、観世音菩薩が存在するのではない。
多く、玄奘を論ずるものは、観音様の加護により、等々の、気味の悪い話をするが、玄奘ほどの、頭脳明晰な者が、それに、迷うはずもない。
しかし、玄奘は、次に生まれる時には、観世音菩薩の元に、生まれたいと願うという、可愛らしい祈りを捧げている。
その、玄奘が漢訳した、般若経では、観自在と、訳している。
観世音と、訳したのは、クマラジューである。
死ぬ思いをしての、天竺大旅行を終えた、玄奘が、観音様を、観自在と、訳したのである。
つまり、それを、観念と知っていたということである。
故に、自らを観るところに在るものと、訳したのである。
大乗仏教を、徹底的に学んだ、玄奘は、それらを、人間の観念であると、見抜いていた。しかし、それは、方便であると、知っていた。
方便がなければ、教えは、成り立たないのである。
定義を、置かなければ、話が、始まらないのである。
方便は、定義であった。
人間の、無明を知る者、それは、無明を知らない者に、まず、対立したものを、置くことで、説教が始まると、知っている。
仏という、超越したものを、置くのである。
しかし、それは、仏陀が、教えたものではない。
仏陀は、超越したものを、認めなかった。
超越するとしたならば、それは、私である。と、気付いたのである。
更に、重大なことは、仏陀は、行為を持って、行為したのであり、その教えは、行為するものだった。
故に、人は、行為によって成るものに成るというのである。
教えは、一代で、終わるように、仏陀も、一代で、終わった。
以後、仏陀の教えは、堕落し、今、現在の如くである。
仏教の教義は、皆、古代インドの、思想を、持っての、言葉遊びである。
私が言いたいことは、宗教というもの、すべて、一神教に似るということである。
つまり、対立したものを、置いて、それに、祈る、拝むという行為である。
仏陀は、祈ったか。
静かに考え、静かに行為し、静かに、歩くのみである。
崇めるという、気持ち、心理は、古代信仰の、太陽信仰から、発している。
それは、すべての民族の元の、心情である。
崇拝するものは、太陽であった。
それの、名残が、対立した、神や仏を、置くという、宗教というものに、出来上がった。
ちなみに、宗教という観念は、キリスト教から出たものである。
侵略した、土地土地の、部族の信仰を、見た者が、キリスト教とは、違う信仰形態がある、と、それを、研究するべく、宗教という観念が出来上がった。非常に、歪なものである。
それらの、部族信仰は、発達途上のものであり、いずれは、キリスト教に行き着くと考えた。
しかし、根がアホである。
行き着くはずなどない。
要するに、キリスト教という、ものの見方、考え方しか、頭に無いから、理解出来ない。アホであろう。
人間は、自分の内に無いものは、見えない、理解出来ないのである。
宗教学というものが、他信仰の理解と、相違点を考えるものになっていったのである。
人間は、単細胞の者が多い。
一神教は、そういう人間にとって、理解しやすいものである。
この節の目的は、私たちが聖書から道徳を得るべきではないと立証することではない(私は個人的にはそう思うが)。私の目的は、私たち(そしてここにいる大部分の宗教を信じる人々が含まれる)が事実の問題として、聖書から道徳を得ていないと実証することにあった。
ドーキンス
しかし、道徳もなにも、宗教指導者たちの、傲慢な、無知振りを見れば、明らかであるが、手の付け様も無い、状態に、陥っているのである。
私は、提案する。
是非とも、精神医学の立場から、彼ら、宗教指導者の、病理を、解明して欲しいと。
あれは、病気であろう。
そう、こころの病である。
一人が、狂えば、病院行きだが、大勢が狂えば、宗教となる。
つまり、宗教とは、狂った者たちの、集団であるということである。
と、言うことは、手のつけようが無いと、判断する。
それらが、世界を、指導しているのである。
この世は、地獄である。