時代精神ということについて、ドーキンスの文を引用して書いている。
アメリカのイラク侵攻は、市民のあいだに犠牲者を出したがゆえに広汎な非難を受けているが、しかしそうした犠牲者の数値は、第二次世界大戦において同様の状況で得られたであろう数字と比べれば、桁違いに少ない。ここには、道徳的に許容できることに関する基準の、着実な移行があるように思われる。ドナルド・ラムズフェルは現代でこそこの上なく酷薄でおぞましいことを言っているように聞こえるが、もし彼が第二次世界大戦中に同じことを言ってたとすれば、なにかといえば事を大袈裟に危惧してみせるリベラル派のように見られるだけのことだろう。この数十年に何かが移り変わってしまったのだ。それは私たちすべての中で移り変わっており、宗教とはなんの関連もない。どちらかと言えば、それは宗教のゆえに起こったのではなく、宗教があるにもかかわらず起こるのである。
ドーキンス
宗教があるにも関わらず起こる、という言葉に、同感する。
それが、時代精神である。
時代精神は、宗教を超えたものである。
いかなる、宗教といえども、それには、敵わない。
逆に、宗教のみの、価値観が、時代精神というものに、対立している、または、逆行している。しかし、宗教は、多くの善なることにおいて、それは、我々のゆえのものだと言うはずである。
宗教というものは、厚顔無恥だからである。
時代精神の移行に関して、ドーキンスは、
この移行には、はっきりと認められる首尾一貫した方向性があり、その方向性を私たちの多くは改善と判断するだろう。悪の外延を前人未到の領域まで推し進めたとみなされているアドルフ・ヒトラーがチンギス汗よりも多くの人間を殺したことは疑いないが、彼は20世紀の技術を思うままに使うことができたのだ。そしてヒトラーといえども、チンギス汗が公然としたように、犠牲者の「涙にくれる愛しい近親者」を見て無上の喜びを得ただろうか? 私たちはヒトラーの悪の程度を現在の基準によって判定するが、道徳に関する時代精神もテクノロジーと同様、カリギュラの時代以来移り変わってきたのだ。ヒトラーは、私たちの時代のより慈悲深い基準で測られればこそ、格別に邪悪に見えるのである。
と、言う。
これ以上に、語ることが、あるだろうか。
ドーキンスは、神は妄想である、との、論旨であり、私は、神仏は妄想であるとの、論旨である。
ドーキンスの主は、聖書を聖典とし、その神を奉ずる、ユダヤ、キリスト、イスラム教を、言うが、私は、それに、仏教、とりわけ、日本仏教の、仏を、加えるのである。
勿論、時代精神に、現れても、なお、残存している、宗教というものの、ある意味での、価値というものも、無視してはいない。
しかし、その価値は、教義にあるものではなく、その外側、つまり、芸術、文化的行為にあるものである。
それなくしては、成り立たなかった、芸術作品等々である。
それを、破壊せよとは、言わない。
タリバンのように、破壊しないのである。
そういう意味である。
明治に、廃仏毀釈が、行われた。
その時に、重要な、文化財としての、仏像なども、破壊された経緯がある。
美術工芸としての、価値までも、破壊するという、傲慢な、行為は、無い。
長野の善光寺は、国宝である。
しかし、タリバンなどによると、偶像となり、破壊される。
歴史は、そうして、他宗教、それは、他民族にもなるが、それらを、破壊しつくして、支配が成り立ったが、さて、現代は、どうだろうか。
最早、そのような、時代精神ではない。
果たして、漢訳された、仏典を、漢語で、読経するという、呆れた状態に、時代精神は、合うのだろうか。
例えば、般若心経を、見る。
玄奘訳である。
かんじざいぼさー
ぎょうじんはんにゃはらーみーたーじ
しょうけんご おんかいくう どいっさい くやく
様々な人々によって、解釈がなされ、ハウツー物で、満足する、大勢の人。
知った振りになって、読経し、写経するという。
更に、その深遠な、解釈に酔う。
深遠と、思うのは、単に理解できないということであるが、それを、深遠であると、認識する程度である。
だから、国語能力の無い者が、多く騙される。
それらに、ついてゆけない者は、新興宗教の、耳障りの良い言葉に、騙される。
修行という言葉の意味さえ、知らずに、修行を求めるという、豚のような教祖に騙される。
何の所作も、なくても、感受性の強い者には、簡単に、理解されることが、特別なものになるという、宗教的行為というもの。
文学としての、芸術評価とされるべきものを、信仰するという、仰天である。
時代精神、時代性というものを、理解するならば、宗教の、無知蒙昧に、気付き、騙されることはない。
要するに、解らないことを、解るように、神や仏の名に、すり替えているということに、気付くぺきだが、解らないのである。
そして、神や仏の名において、解った、つもりになるという、傲慢である。
それは、例えば、仏陀の、教えた、憎冗漫であると、気付かない、傲慢さである。
すでに、教義自体に、行為自体に、傲慢があるということに、気付かないのである。
万事休す。
ただ、人間は、見えない物、感じない物、知らない物に、興味を曳かれる。
それが、結果は、神や仏という妄想と、結びつく。
占いというのが、廃らないのも、それである。
占いの、基本は過去を見るというものである。が、それが、未来を見るというものに、変質しても、気付かないでいる。
過去を見るから、未来が見えるという、基本があった。それが、いつしか、未来を予言する、予知するものとして、占いを、誤解して、今まで来た。
宗教も、同じである。