紫式部という、名前は、宮仕えをした時の、女房としての、名前である。
当時の女性の名は、皇室以外は、単に女と、言われた。誰々の女、である。
女房の名前は、父や夫の官職の名によって、付けられた。
紫式部は、父の為時が、かつて式部丞、しきぶのじょう、であることから、名付けられた。
何故、紫が、ついたのかには、定説は無い。
紫式部は、世界最初の小説である、源氏物語において、不滅となった。
今年、2008年は、源氏物語、千年紀である。
私は、源氏物語の、自然、風景描写から、もののあわれ、というものを、見るため、その前に、彼女の歌を、読み、その伏線としたいと、思う。
紫式部集である。
和歌、歌の道は、当然の常識だった。
つまり、いつ、いかなる時でも歌を詠むという、教養である。
当然、紫式部も、早くから、歌を読んだ。なにせ、彼女は、頭脳明晰で、漢学者の父が、弟の、惟規、のぶのり、に、漢籍を教える傍で、聞いていて、先に覚えてしまうほどだった。更に、宮仕えの時に、中宮に、漢籍「白氏文集」を進講するほどだったのだ。
この、素養が、源氏物語にも、結実したと、思う。
源氏物語には、794首の歌が、作られているが、紫式部集には、他人の歌も入れて、114首である。
しかし、そこには、娘時代のものから、晩年に渡る歌がある。
作者の、生涯に渡る歌である。
物語で、有名だが、彼女の歌を読むことで、物語への、理解が、更に深まると思う。また、彼女自身が、感じていたものを、歌を読むことで、察することが、出来る。
最も、これ以上に、歌を作ったのであろうが、現存するものは、室町期以降のものである。
それらに、関しては、素人の私であるから、他を参考に。
私は、紫式部の歌にある、もののあわれ、というものを、見つめてゆく。
訳は、私の勝手な訳である。
はやうよりわらはともだちなりし人に、としごろへて行きあひたるが、ほのかにて、七月十日の程に月にきほひてかへりにければ
めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし よはの月かな
幼い頃から、友達になった人に、年頃になって、逢うことができた。少しの時間だったので、顔も、よく見ることができなかった。七月十日の宵の月と、争うように、帰ってしまった。
折角、お逢いしたのに、あなたなのかどうかと、分からないうちに、お帰りになり、夜の月が、雲に隠れるように、心残りでした。
巡りあいと、月とは、深い関係がある。この関係を、縁語という。
素直な歌である。
雲隠れする、夜半の月のようにという、あたりに、ほのぼのとした、心情を感じる。
その人、とほき所へいくなりけり。秋の果つる日きて、あかつきに虫の声あはれなり
鳴きよわる まがきの虫も とめがたき 秋の別れや なしかるらむ
その人は、遠い親に任地に、行くのである。秋の終わる頃、まだ夜明け前の、暗いうちに。
虫の鳴き声が、あわれである。
力なく、鳴く虫の声も、遠くへ行く、あなたを、引き止められないのです。秋の終わりの、この時期です。私と同じく、悲しかったのでしょう。
虫の鳴き音と、私を、共感させている。
私の心を、虫の音が、代弁するのである。
これは、日本人に理解できる、心情である。
物に、心を、重ねて観るという、心である。
私の哀しみが、虫の音に、託される。
擬人法の、最初である。
つまり、虫の音に、私が同化する。
それは、虫の音に、思いを込めるともいう。
自然と、共生、共感して生きた、日本人ならではの、感覚である。
これが、もののあわれ、に結実する。
「筝の琴しばし」といひたりける人、「参り御手より得む」とある返り
露しげき よもぎが中の 虫の音を おぼろけにてや 人の尋ねむ
筝の琴を、借りたいという人が、参上して、手ほどきを受けたいと言う、その時に
露の多い、よもぎの中の、虫の音を、聞きに来る人がいるでしょうか。同じように、こんな私の所へ手習いに来たいというのは。
どうして、私の所などに、琴を習いたいと言って来るのでしょうか、という。
教えるほどの者ではないと、いう。
おぼろけ、にてや
朧である、つまり、どこにでもありそうな、虫の音を、わざわざ、聞くなんて、という、気持ち。いいかげんな気持ちということになるのか。
人の尋ねむ
わざわざ、尋ねてくる人がいるとは。
謙遜しているのである。
ふっと、思いついたような、気持ちが、歌になるという、時代である。
現代も、和歌や俳句を、作る、詠う人がいる。
そういう人は、いつも、題材を探して、色々なものに、心動かされる。
毎日が、新鮮であるはずだ。
心の中に、新たに生まれる風景を、楽しみにする。
心の中に、多くの、掛け替えの無い風景を、持つ人は、矢張り、心豊かな人といえる。
私も、旅先で、歌を詠む時は、実に楽しい。
ふっとした、感情の綾を、見逃さない。つまり、内省である。
静かに、我が心に、聴く時の、静けさがいい。
方違へにわたりたる人の、なまおぼおぼしきことありて帰りにけるつとめて、朝顔の花をやるとて
おぼつかな それかあらぬか あけぐれの そらおぼれする 朝顔の花
方違えというのは、凶の方位に行くために、その方位を吉に変えようと、一時的に、別の場所に一泊して、出掛ける行為を言う。
なおおぼおぼしきこと
何を言いたいのか分からないという意味。
そうして、帰って行った。
つとめて
朝早くである。
朝顔の花をやるとて
朝顔に、男の朝の顔を、掛けている。
よく解りません。それかあらぬか、とは、私と姉とに、色々と、話しかけて、つまり、色めいたことを、語りかけて、明け暮れとは、早朝である。そらおぼれ、とは、空とぼけた感じで、帰った、朝の顔が、朝顔のようで・・・
朝顔と、朝の顔である。
遊び心、十分である。
返し、手を見わかぬにやありけむ
いづれぞと 色わくほどに 朝顔の あるかなきかに なるぞわびしき
返しは、誰の筆跡か、解らないようである。
返歌が、贈られてきたのである。
いづれぞと
どちらの方から、贈られた花かと、考えているうちに、朝顔の花が、しおれてしまった。
なるぞわびしき
切ないことです。
色わく
筆跡を見分けるが、花の縁から、色わくという、思い。
筆跡を、見分けることを、色わく、といい、それを、花の縁に、掛けるという、余裕である。
なんとも、のんびりしていて、いいものだ。
まだまだ、物語への、道は遠い。
その、萌芽も見えないのである。