称名は無観でありたい。無観たるべきなのである。有観ならば、まだ至純な称名とはいえぬ。称名にはどこまでも純他力の声質がなければならぬ。称名とはわれを棄て去って、仏に一切をまかせきることである。それが南無阿弥陀仏の一声である。
柳宗悦
念仏の至境を尽くしたとして、一遍上人の和歌を載せる。
主なき 弥陀の御名にぞ 生まれける となへすてたる 跡の一声
あるじなき みだのみなにぞ うまれける となへすてたる あとのいっせい
我を無くして、称える念仏には、主は無い。
称え捨てたるとは、我を捨てた、跡の南無阿弥陀仏なのである。
要するに、すべてが、念仏になるという心境である。
我を捨てるという、心境を、理想とした、時代である。
確かに、我を失う程、のめり込む念仏はあるだろうが、我を捨てるというのは、詭弁である。
捨てるのではなく、失うのである。
それを、我を捨てたと、思い込む、病である。
一つに、仏典を、歴史書と同じように、認識した、過ち。
事実ではない、創作の物語を、事実と、信じて、阿弥陀仏というものの、世界である、極楽があると、信じた過ち。
我を捨てるという心境を、失うと、認識しなかった、過ちである。
事実ではないが、真実であるとは、詭弁である。
確かに、そのような、真実観というものが、あってもいいが、この場合は、信じさせるための、根拠としているのである。
衆生を、貶めるものである。
我という、意識、我執とも、言うが、それを、捨てるというが、我を、捨てて、果たして、何事かの、行動が、取れるだろうか。
我を、捨てるとは、精神病である。
まして、阿弥陀仏に、すべてを任せきってしまうという、心境は、如何にしても、責任能力の無い、病にあると、いえる。
ただ、私が、理解するに、茶の湯の手前をしている時に、手前に没頭する故に、手前をしている、自分というものの、意識が、無くなる、失う場合がある。
忘我の感なのであるのか。
それでは、鮨職人が、無意識のうちに、握りを作る時、我というものを、忘れているのであろうか。
客と、歓談しつつ、手は、自然に握りを作るという、行為にある、時、我というものを、捨ているのであろうか。
それらは、皆、勘というものである。
これは、甚だしい力と、書く。
人間の、素晴らしい能力として、あるものである。
そのような、状態を、我を忘れると、表現するのならば、理解する。
しかし、念仏を称えるという行為に、我を捨て切るという、境地は、それとも、違うのであろう。
つまり、一種の悟りの境地を言うのである。
念仏を称え続けることは、自力である。
だが、絶対他力でなくなては、ならない。
ここで、空しい、他力、自力の、議論というものがあるが、実に、机上の空論となる。
だから、称えさせていただく。
そして、南無阿弥陀仏が、南無阿弥陀仏を称えるなどという、へんてこりんな、心境になる。
人間は、瞬間的に、我を忘れたように、思える時が、あるといえる。しかし、我を忘れることは、出来ない。
我を失うことは、できる。
更に、ある病理に、拍車をかけるのである。
・ ・・それ故には、選ばれざる者、許されざる者、天才ならざる者、弱き者、愚かなる者等々、無数の大衆があろう。これらの者たちは、ほとんど宿命として聖道の門をくぐることができぬ。だが仏の慈悲はこの悲嘆をそのままに放置するであろうか。これに答えて建てられたのが浄土の法門である。それ故この教門は須らく易行の道でなければならぬ。そうして他力の教えでなければならぬ。
柳宗悦
聖道の門とは、自力の法門である。
次第に、病が深くなる。
選ばれざる者とか、小さく哀れな者とか、脆さ、弱さ、愚かさ、そして、罪に泣く者というのである。
更に、救われる値打ちの無い者とくる。
むき出しの貧しさ、全く無力な、自分というものを、意識する者。
自我を立てぬのが称名である。そのことは何を意味するのか。衆生を済度しようとする慈悲そのものに、凡てを働いて貰うことである。その慈悲を素直にそのまま受け取ることである。称名はここで自力の行ではなく、全く他力の行だと分かる。称えるというより称えさせて貰うのであって、どこまでも受身である。ここで受身とは小さな自己が捨てられたことを意味する。そのことはまた残りなく他力が働いていることを意味する。
柳宗悦
この方の、南無阿弥陀仏という、書は、この繰り返しである。
自分が悩んでいることに、人を引き込もうとする、念仏行者であることに、気付いていない。
我の中で、勝手に、七転八倒している様を、持って、他力というのである。
江戸時代の儒学者の中には、それを見て、彼らは、無きものに、屁理屈をつけて、人を騙すと、見抜いた者もいる。
阿弥陀も、観音も、何もかも、仏教のモノ、存在しないものであると、喝破した。
我が念仏の力で往生が出来ると思うのは間違いである。往生は念仏自らに備わったおのれなりの功徳なのである。
柳
このように、考えることを、迷いと認識しない、病である。
良く解釈すれば、思索を深めていると、いえる。
しかし、それは、策士策におぼれるが、如きものであり、思索に溺れるのである。つまり、それは、迷いである。
念仏自らに備わった、おのれなりの、功徳なのである。
おおよそ、法然から親鸞、一遍までに至る、道である。
この上に、罪悪感という、観念が積み重なり、浄土門は、益々と、病深く、迷いの境地に達するのである。
一人相撲で、七転八倒している様、実に、哀れである。
妄想の、阿弥陀仏、ミーアミダーバという、観念である。
極楽を拓いた仏であるという、観念。
勿論、浄土という、ものも無い。
人の頭で、捏ね繰り回し、作られた観念である。
柳氏も、明確に、大乗経典は、創作であると、いう。
事実ではないが、それは、歴史の真実、人間の真実の姿であるという。
ここには、毛ほどの、説得力も無い。
架空のお話であり、議論のための、議論であり、言葉遊びの何物でもない。
私は、ただ、当時のものとして、それを、否定しない。
その世界しか、知らないのである。
それ以上を、求めることは、酷である。
知らないものは、無いものである。