天皇について言う。
日本は、御祭りの国である。
祭りとは、何か。
御霊祭りである。
御霊とは、何か。
それは、自然に隠れて在る、祖先の御霊であり、自然の、すべての働き、そとて、山川草木すべての、御霊の、お祭りである。
日本の正式、国名は、豊葦原の瑞穂の国である。
よって、最高の、最も、重要な、御祭りは、新嘗祭である。
豊穣の喜びと、感謝の、御祭りである。
さて、天皇の存在は、その、お祭りの祭祀であり、祭司であるということである。
天皇制、云々の話ではない。
天皇の存在は、御祭りにあるのだ。
国民総意の、祭司である。
ここで、私の立場を、明確にしておく。
私は、天皇擁護でも、天皇否定でもない。
どちらでも、ない。
どうでも、いいと思っている。
ただし、私が、日本国民として、その伝統を、守るという意味では、天皇を、否定出来ないのである。
私の、祖父母から、それ以前の、祖先の伝統は、天皇の、お祭りにあるからである。
天皇は、唯一、国民に対して、下、というお言葉を、使用する。
つまり、天皇の上に、権威は、無いのである。
世界で、武力を持たない、天皇家という、存在は日本にしか無い。
一時期、一時的に、天皇家も、武力を、持つことがあったが、それは、天皇家を、守る意味での、市民の心意気としての、武力だった。
天皇家は、武力を持たない家柄である。
唯一、日本は、武力を、持たない家柄に、権威というものを、与えた民族である。
それは、実に、誇りだ。
為政者、宗教指導者、すべて、武力を持った。権威を、武力で、成したのである。
歴史を、見よ。
御祭りの、祭司を、国の祖先の代表とする、天皇という存在である。
皇祖皇宗である、天照大神という、祖先の祖を、戴く国である。
絶対超越者ではない。祖先に続くものである。
これも、世界に無い。
日本には、超越的な、神という観念が無いのである。
それを、具現化しているのが、天皇の存在である。
天皇という存在を、戦争責任者とか、あるいは、共産主義のように、搾取する為政者という、考え方は、出来ないのである。
何となれば、天皇は、戦争責任者でもなく、搾取する為政者でもないからである。
勿論、昭和天皇は、戦争責任を、自ら果たし、国民のために、その命も、投げ出すつもりだった。しかし、何故、生きたのか。
国民のためである。天皇という存在が、無くなれば、日本という国が無くなると、感じた心が、昭和天皇の、すべてだった。
何度も言うが、私には、どうでもいいことである。
つまり、私が、私の先祖との、縁を切り、日本とも、縁を切るのであれば、どうでもいいことである。
しかし、日本の歴史と、伝統に生きる日本人としては、天皇の存在は、無くてはならない存在なのである。
戦後、戦争の犠牲に対して、天皇を、憎むこと、天皇の存在を、卑下すること、さらに、否定することで、その、鬱憤を晴らし、更に、天皇制を、廃止することまで、考える者がいて、実に、愚かな様を、現した。
天皇を、亡き者にすることは、日本の歴史と、伝統を、無き物にすることである。
そして、それを、社会主義、共産主義の者は、望んだ。
すべての、歴史的解釈も、そのように、した。
そして、今に至る。
偏狭な、教育の、お蔭で、日本は、実に、骨抜きになったのである。
日本人であるという、誇りも持てず、知りたいという、子供たちに、国歌も、教えないという、驚きの、教育をするという、アホ振りである。
国際社会に出ても、自国に、誇りの持てない者が、どうなったか。
薬害問題一つを、取っても、国のために、仕事をしなかった、厚生省の、役人、更に、国外に赴任する者、何も、仕事をしなかったゆえである。
すべて、上記の、ゆえである。
御祭りをする、天皇の存在する、国であるという、志を、忘れたのである。
一から、万事、天皇に、相応しい国民に成るという、気概を、失ったゆえである。
私は、晩年、日本人であることを、止める覚悟であるから、言う。
世界に冠たる天皇を、戴く国にありながら、その存在の、尊さを、知らない不幸は、余りある。
タイに、行けば、未だに、仏陀暦である。
日本は、皇紀がある。
今年は、2668年である。
これほど、続いた天皇の、歴史は、世界に無い。
バリ島には、バリ島暦がある。
皆々、それを、誇りにする。
皇紀を、誇りにしないのは、日本人くらいである。
その価値を、知らない不幸は、余りある。
私は、この国の、皆々と、席を同じく出来ないと、考え、晩年は、日本人であることを、止める。
日本の伝統は、他国でも、伝えられると、確信したからでもある。
以下省略。