絵に物の怪のつきたる女のみにくきかたかきたる後に、鬼になりたるもとの妻を、小法師のしばりたるかたかきて、男は経読みて物の怪せめたるところを見て
亡き人に かごとをかけて わづらふも おのが心の 鬼にやあらぬ
物の怪の憑いた、醜い女の姿を描いた、背後に、鬼の姿になった、先妻を、小法師が縛り、更に、夫が、お経を読んで、物の怪を退散させようとしている絵を見て。
妻に憑いた、物の怪を、夫が亡き先妻のせいにして、てこずっているということは、我が身の内にある、鬼に、苦しんでいるということでは、ないだろうか。
実に、冷静沈着な判断の歌である。
当時は、不思議な現象を、物の怪として、扱い、加持祈祷などをしていた頃である。
そんな中で、我が身のこころの内にあるものと、看破したということは、実に、冷静であり、真っ当な感覚である。
この、冷静さが、紫式部を、物語作家にしたのである。
我が心の内にある鬼。
心の鬼とは、疑心暗鬼である。
暗鬼、つまり、心の暗闇に存在する、鬼であり、他でもない、我が内にあると、観たのである。
人は、我の妄想を見て、何物かだと、思う。しかし、それは、我の妄想なのである。
紫も、浄土思想に、影響された者であるが、決して、その救いという、観念に流されなかった。
かごとをかけて わづらふも
理由をつけて、煩うが、それは、まさに、我自身であったという。
現代の宗教信者に、聞かせたいものである。
返し
ことわりや 君が心の 闇なれば 鬼の影とは しるく見ゆらむ
お返し
なるほど、言われる通りです。
あなたの心が、また、あれこれと迷い闇ゆえに、物の怪の疑心暗鬼の、鬼の正体を見破ったのでしょう。
これも、冷静な受け止め方である。
あなたも、闇なれば、とは、また、おもしろい。
鬼の影とは しるく見ゆらむ
鬼の影であると、はっきりと、見たのでしょう。
作者の、侍女の歌である。
さすがに、侍女も、鋭い。
絵に、梅の花見るとて、女の、妻戸押し開けて、二三人居たるに、みな人々寝たるけしきいたるに、いとさだすぎたるおもとの、つらづえついていて眺めたるかたあるところ
春の夜の 闇のまどひに 色ならぬ 心に花の 香をぞしめつる
梅の花を見ている絵を見る。
女が、二三人いて、眠っている様。
いとさだすぎたるおもと
年老いた女房であり、おもと、とは、身分ある女房への、敬称である。
その女房が、頬杖をついて眺めている様を、見て。
春の夜の、闇にまぎれて、花の美しさは、見えないが、色気を持たない、心の梅の、香りを、深く味わうことができた。
さだすぎたるおもと、の、心を観て、詠む歌である。
色ならぬ 心の花の
女の、盛りを過ぎて、色気を持たない、枯れた風情の、女の姿である。それに、心の花を、観ているのである。
心の花に 香をぞしめつる
しめつる、占めるのである。
心の花にこそ、香りが、充満している。
花は心 種は技なるべし
世阿弥が、語る。
風姿花伝
心を込めるから、良いのではない。
心を込めるためには、技である種を、持たなければならない。
技を極めてこそ、心の花というものが、十二分に表現できるのである。
もののあわれ、を、所作として、表現する際の、極意である。
いずれ、世阿弥の風姿花伝も、紹介する。
同じ絵に、嵯峨野に花見る女車あり。なれたる童の、萩の花に立ち寄りて、折りとるところ
さを鹿の しかならはせる 萩なれや 立ち寄るからに おのれ折り伏す
同じ絵に、女車、牛車である、なれたる童、物慣れた女の童が、萩の花の前で、佇み、それが、折て、垂れるのを見る。
牡鹿が、いつも、そのように慣らしているのか、童が立ち寄ると、すぐに、萩が、自ら折れ曲がり、頭を下げているようである。
童は、わらは、であり、女の召使のことである。
女の童、めのわらは、と読む。
鹿が、萩の花を、妻として、慕うという、歌が古来からあった。
それを、持っての歌である。
しかならはせる
そのように、という意味で、鹿の縁語とされる。
ならはせる
慣れさせるという、意味である。