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もののあわれについて220

世の中の騒がしきころ、朝顔を、同じ所にたてまつるとて

消えぬまま 身をも知る知る 朝顔の 露とあらそふ 世を嘆くかな

長保二年の、冬から、疫病が流行して、翌年になっても、それが衰えず、死亡者が増え続けた。
世の中は、不安に覆われていた。その頃である。
この年の、四月二十五日に、夫が亡くなったのも、疫病によるといわれる。

この身も、いつ果てるかもしれないという儚い命であることを、知っている。
朝顔の花と、露が散る前に、多くの人が亡くなって逝く、この世の儚さを、嘆きます。

消える、は、露の縁語である。
縁語とは、消える、とくれば、露と、なる、結びつきである。

この歌と、同じ心を、今回の、ビルマと、中国の災害を見て、感じた。

戦争でなくても、こうして、多くの人の命が、消えて逝く。
その数の多さに、愕然とし、更に、子供たちが、死ぬということに、嘆きを超えた、悲しみと、哀しみを、感じ、さらに、もののあわれ、というものの、姿を観るものである。

消えぬまの 身をも知る知る
消える、とは、生きている間である。それも、儚いことを、知っている。
知る知るとは、そのまま、詠嘆である。

繰り返すほど、十分に解っているという。
それなのに、世の人は、手の施しようもなく、亡くなってゆくという、この世の姿を、どう、捉えたらよいのかと、深く嘆いている。

世を常なしなど思ふ人の、をさなき人のなやみけるに、から竹といふもの瓶にさしたる女房の祈りけるを見て

若竹の おひゆくすえを 祈るかな この世をうしと いとふものから

世を常なしと、思うのは、作者である。
そして、その子である。
なやみける、とは、病になったのである。
唐竹というものを、瓶に挿して、祈るのである。
これは、呪術のようなものであろう。

若竹のような、幼い、我が子の成長する様の、無事を祈るのである。
しかし、わが身は、この世を、住みづらい、厭わしい場所だと、思っているのだ。

複雑な心境である。


身を思はずなりと嘆くことの、やうやうなのめに、ひたぶるのさまなるを思ひける

数ならぬ 心に身をば まかせねど 身にしたがふは 心なりけり

我が身の上を、思うようにならず、不遇だと嘆くことの思いが、次第に、収まったり、激しくなったりする。そういう、我が心を、観て詠む。

数にも、ならぬ、我が身の願いを、思い通りにすることは、出来ないが、身の上の流れに従うのは、ただ、心のみである。

次の歌も、同じ心である。

心だに いかなる身にか かなふらむ 思ひ知れども 思ひ知られず

私のような者でも、どのような、身の上になったら、満足するのだろうか。どんな、境遇になっても、満足することはないのだと、知っている。しかし、諦めきれないことである。

いつの世も、同じ心を、人は持ち続けているようである。

満足感とか、幸福感というものは、人それぞれ違うのであるが、満足するということが、あるのだろうかと、問う。

寒ければ、暑さを望み、暑ければ、寒さを望む。
人間とは、愚かなものである。
しかし、その、愚かさを、また、愛しいものとして、生きるのである。

思ひ知れども 思ひ知られず
知ってはいるが、それを、納得するには、大変なことである。

我が身を、その心を、静めるのは、大変なことである。

いつの時代も、人は、我が身の心を、静めるために、苦労した。
その心に、付込んだのは、宗教である。
安心立命という、妄想を、教えて、更に、迷わせる。

宗教の蒙昧を、一巡りして、元の心の場所に戻ると、何のことはない。ただ、そのままに、生きるのみである。

信じる、信じる切るというが、実は、信じるということが、如何なることかを、知らないでいる。
そこで、七転八倒して、屁理屈の世界に没入するのである。

観念遊びや、言葉遊びをして、そのうちに、死ぬ。
死ぬまでの、暇を潰す行為なのである、信仰とは。

そういう意味では、仏教は、大いに貢献したが、元に戻ってみると、何も変わっていない。ただ、そのままを、生きれば、良かったということになる。

もののあわれ、というものを、そのままに、生きればよいのだ。
それ以外に、取るべき方法は無い。

人間の想像力は、芸術活動として、善しとしていれば、足りる。
芸術を、拝めば、狂う。

狂ったまま、死ぬのが、信仰というものである。
勿論、その、絶対的自己満足というものを、否定はしない。

真実というものが、あるとすれば、自分というモノが、存在するという、その一点のみである。
存在の確信のみである。
我の実存のみが、真実である。

世間は、虚仮というが、虚仮以外の、どの場所で生きるというのだろうか。
世間にしか、生きられないではないか。

這ってでも、ずってでも、生きなければならない、その場所は、虚仮であると、認識するのは、病である。

ここにしか、生きられないから、ここに、生きているのである。

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2008年06月20日 00:12に投稿されたエントリーのページです。

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