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もののあわれについて221

やよひばかりに、宮の弁のおもと、「いつか参りたまふ」など書きて

うきことを 思ひみだれて 青柳の いとひさしくも なりにけるかな

宮の弁のおもと、とは、中宮の女房である。
紫の、宮仕えは、寛弘二年、1005年12月29日である。
この歌は、その翌年、実家に戻っていた歌である。

いつ、お戻りですかという、女房の書き物に。

いやなことを思い悩み、お里に下り、随分と長い時が立ちましたね。

うきこと
憂きこと。嫌なこと。

青柳は、いと、にかかる、枕詞。

返し 歌本になし

かばかりも思ひ屈じぬべき身を、「いといたうも上衆めくかな」と人の言ひけるを聞きて

わりなしや 人こそ人と いはざらめ みづから身をや 思ひ捨つべき


歌本になし、とは、書写した者の注である。

このように、思い悩み、崩れそうになる、私。それなのに、「ひどく、高慢な振る舞いをする」と言う、女房たちがいると、聞いて。

しかたのないこと。あの人たちは、私を、人並みの者と、言わないでしょうが、私は、駄目な者だと、自分で、自分を見捨てられは、しない。

みづから身をや 思ひ捨つべき
自分を捨てられるものか。

宮仕えに出でも、紫は、よく実家に帰っていたことが、非難された。
面白い話がある。
彼女は、顔を、見られることが、嫌だったという。
兎に角、人の前に出て、顔を晒すことに、耐えられなかったのである。
今風に、言えば、実に、シャイだったのだ。

上衆、じやうず
傲慢である。

実家に帰ることが、勝手な振る舞いと、思われたのである。
こういう、誤解は、いつの世もある。

わりなし 
理屈では、どうにもならないこと。
しょうがない、ということを、どう、受け止めるかで、悩みの解決の、糸口が、見えてくる。
人生には、どうにも、しょうがないということが、溢れている。

薬玉おこすとて

しのびつる ねぞあらはるる あやめ草 いはぬにくちて やみぬべければ

薬玉とは、菖蒲、蓬を、五色の糸で通し、玉にしたもので、五月五日に、これをかけると、邪気が祓われると、人に贈ったり、肘にかけたという。
また、簾、柱にもかけた。
今は、こどもの日であり、その所作が、残っている。
菖蒲湯などで、邪気を祓うというのは、今でも、続いている。

隠れていた、菖蒲の根が、今日は、引き抜かれて、姿を現している。そのように、私もいいまでは、好意を現さずにいましたが、このまま、何も言わずに、朽ちてしまいますので、今日は、あなたへの、思いを、お見せする次第です。

返し

今日はかく 引きけるものを あやめ草 わがみがくれに ぬれわたりつつ

お返し
今日は、菖蒲の根を引いて、お言葉をいただきました。しかし、菖蒲の根が、水底に隠れて、濡れているように、私は、家に籠もって、涙に濡れてています。

みがくれ
菖蒲の根が、水に隠れている、水隠れと、紫が、家に籠もる、身隠れを、かけている、掛詞。

引き、みがくれ、ぬれ、は、あやめ草の、縁語である。


土御門院にて、鑓水の上なる渡殿のすのこにいて、高欄におしかかりて見るに

影見ても うきわが涙 おちそひて かごとがましき 滝の音かな

土御門院とは、道長の邸。
鑓水の上なる渡殿のすのこにいて
池に引き込んだ、細い流れ。

高欄に、おしかかり、見るのである。

鑓水に、写る姿を見るにつけ、辛い我が身の上を、思い、涙が鑓水に流れて、この涙のせいだと、恨むが如くの、滝の音。

寛弘五年、1008年の、五月五日は、土御門殿で、法華三十講の行事があった。
その翌日の歌である。

今年は、2008年である。つまり、千年前のこと。
今年は、源氏物語千年紀である。
つまり、この頃、紫式部は、物語を書いていたということだ。

物語の、雅な世界とは、裏腹に、彼女の心は、何によって、このように、切ないのであろうか。

何が、辛かったのであろう。

その時の歌が、後半に日記歌として、載っている。
今は、詮索せず、その歌の時に、観ることにする。

影見ても うきわが涙
影とは、水に映る、我が身の姿である。
うきわが涙とは、うきは、憂きであり、その涙である。

今で言えば、夫を亡くし、シングルマザーとなり、嫌な宮仕えをして、女房たちの、噂話にされ、寂しさと、切なさの、複雑な心境である。

この世は、すべて、人と人との、関係である。
人間関係が、その人の、心模様になる。
誰と付き合うかで、人生が変わってくるのである。

未完の膨大な物語を、書いた彼女は、一人、創作の世界に、没頭するを、得なかったのであろう。

と、すれば、世の憂き事は、実は、芸術活動の種なのである。

もしそれを、軽薄短小な言い方で、表現すると、世の中のマイナスイメージは、芸術という、プラスイメージに、変換できるということである。

ただし、才能が、必要である。
才能の無い者は、さて、どうするのか。
答えは、簡単である。
妄想の、宗教に、没頭するのである。
あたかも、それが、プラスイメージであるか如くに、である。

人間は、思い込みだけでも、生きられるということである。

私の言い方にすると、死ぬまでの暇つぶしに、好きなようにすると、いい、ということになる。
ただし、それを、人に強制するな、ということである。

布教、宣教、折伏、公宣流布など、するなということである。

その前に、自分の尻の穴を、綺麗に、拭くことである。
尻糞をつけるな、ということである。

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2008年06月20日 12:48に投稿されたエントリーのページです。

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