朝霧のをかしきほどに、御前の花ども色々に乱れたる中に、女郎花いと盛りに見ゆ。をりしも、殿出でて御覧ず。一枝折らせたまひて、凡帳のかみより、「これただに返すな」とて、賜はせたり
女郎花 さかりの色を 見るからに 露のわきける 身こそしらるれ
おみなえし さかりのいろを みるからに つゆのわきたる みこそしらるれ
と書きつけたるを、いととく
白露は わきてもおかじ 女郎花 心からにや 色の染むらむ
朝霧の、美しい時期。御前とは、中宮彰子のいる、土御門殿の前庭である。
花々が、色乱れて咲いている中に、女郎花が、盛りに咲いている。
土御門の主人、道長が、それを御覧になり、一枝折らせて、これに対して、平凡な返しではなく、素早く返しをせよ、と、仰せられた。
露に染められた美しい女郎花の花の色。分け隔てして、露の置かない、私の醜さが、身に沁みて感じます。
いととく
道長が、それに素早く返した
白露は、そなたの言うように、分け隔てしているわけではない。
女郎花は、美しくなろうとする、その心で、美しく染まっているのだ。
これは、紫式部日記の、寛弘五年秋のところに出でくる。
道長の
心からにや 色の染むらむ
が、実にいい。
その心にて、自ら色を染めている。
擬人法であるが、心は、物でもあった。
花というものに、心を投影する、能力は、現代人の、数倍、いや何千倍の力を持っていた。
心からにや
もののあわれ、というものも、それである。
物は、心の写しである。
東大大学院医学系研究科の坂井克之準教授による報告である。
見た意識がないほどの短時間、何かを見せて、それで行動が変化することを、サブリミナル効果という。
見えた時は、考えて行動を選べるが、見えないと、すべての過程が、脳で無意識のうちに進行するため、自分の行動を制御できない。
では、見たという意識は、どのようにして生じるのか。
目に入った情景は、網膜に映り、後頭部にある脳の1次視覚野に投影される。
ただ、この段階では、まだ、見た、とはいえない。
「情報を受けた1次視覚野が活発に活動して脳の様々な、領域に情報が伝わり、それが、再び戻ってきて、見たと、意識される」と言う。
そこで、更に、国際電気通信基礎技術研究所、脳情報研究所の、神谷之康研究員は、先行する脳の神経細胞の動きから、その後の、体の動きを予測する研究をしている。
それによると、腕を動かす前から、一部の神経細胞の活動が活発になる。
この時、意識に上がっていない、情報が、その神経細胞の活動に、介入したら、どうなるのか。
神谷氏は、動きが変わる可能性があると言う。
脳内に、複数の認知の過程があり、自身も関与できない情報が表現され、行為が生まれる可能性を、脳科学は示唆している。自由な意思が、行為に介入する余地があまりないことも、ありうる、ということになる、と言うのである。
さて、その一方で、脳は、数々の情報を瞬時に、摂取選択している。
つまり、脳の働き以前の、何かがあるということになる。
自由な意思決定をしていると、思い込んでいる可能性もあるということだ。
花を見て、それを、我が心と思う、もののあわれ、というもの、それは、脳以前の何かの、介入があるとも、言える。
脳以前のもの、それを、心として、大和心は、確実に、存在すると、私は、思う。
多くの花々の中から、女郎花が、強烈に意識される。
何故か。
女郎花に、何かを託しているのである。
それが、心、である。
さかりの色を 見るからに
正に、盛りの色を観るのである。
それは、心に在るものである。
心に無いものは、見えない。
脳は、気付く必要の情報には、気付き、必要の無い情報には、気付かないという。
その、主体は、心、なのである。
更に、言葉を扱う、脳の働きに、また、大和言葉の、特徴がある。
脳科学者、黒川伊保子さんは言う。
日本は、その主な国土である日本列島を、歴史上すべて失うことなく、DNAの系譜がまるまる途絶えることもなかった。同じ土地で、似たような骨格の人々が、一つの系統の言語を何千年も培ってきたことになる。
言語の構文とか、狩猟民族とか、宗教とか、風土とか、そんな違いをあざやかに超えて、母国語のありようという点で、日本と英国は似ている。前者は神の住む国で、後者は妖精の棲む国である。ファンタジーを作らせたら超一流の国である。
日本語の語感が作り出す、豊かな情感の世界、・・・意味を突きつけ合う合理的な会話の裏で、語感によって交わしている、意識の対話があることを。
日本語の存在価値は、今、「嘘」になろうとしている。数千年に及ぶともいわれる日本語の中でも、おそらく、初めての出来事のはずである。
日本語はなぜ美しいのか より
この方の危機意識は、理解する。
母語を、正しく学ぶことがないと、言語の、つまり、精神の浮浪者になるのである。
日本語を正しく身につけることの前に、英語教育をしたならば、どんなことになるのかと、危惧するのである。
私も、そう思う。
これについては、いつか、別枠で、論じる。