テラの会の活動は、戦争犠牲者追悼慰霊から、はじまった。
それは、私の潜在的な、長年の希望だった。
最初に、サイパンに出掛けた時に、日本軍の幽霊が出ると言われた、20数年前を、思い出し、その頃から、何かしら、今の活動を促す心得が、出来ていたように、思う。
今でも、まだ、日本兵の幽霊が出るという場所がある。
幽霊などは、存在しないという人には、理解出来ない話である。
だから、私の活動は、極めて個人的な、活動なのである。
悲しいではないか。
国の命令で、何も恨むことのない、他国の人を殺しに行くのである。しかし、逆に、殺されることも、多々ある。
死んで、幽霊になっているとしたら、こんな悲しいことはない。
ガダルカナルでは、戦士より、餓死の方が多かったという。
餓死して、死んで、幽霊になっているとしたら、こんな悲劇なことは、無い。
私でよければ、行きましょうと、いうことだ。
勿論、多くの人が、追悼慰霊を、行っている。しかし、それでも、漏れている人がいる。私は、その人の霊のために行く。
その人の、霊とは、肉体と、霊が、死によって、分離されてある、霊のことである。肉体は、土に返る。それでは、霊は、どうなるのか。とりあえず、想念のままにある。
悄然と佇む、霊もいるだろう。未だに、である。
以下省略。
さて、回るところは、戦場となった、アジアの国が多い。
そこに行き、そこの人々との触れ合いから、子供服の支援が、始まった。自然な行為である。
ついでに、支援する。
それ以外の、大義名分は無い。
屁理屈も無い。
そうして、何度か、繰り返して、追悼慰霊を行っているうちに、どんどんと、活動の範囲が広がった。
コンサートも、その一つである。
昨年、6月のタイ・チェンマイを皮切りに、12月のバリ島での、コンサートである。
そして、ガムランとの共演は、前代未聞だった。
それは、バリ島の、歴史に残る。
大袈裟ではない。
日本の歌と、舞踊を、ガムランと共に、行ったのである。
そして、今年の5月は、更に、歴史的なコンサートであった。
ガムランと、日本の舞の、共演である。
更に、辻知子が、絽の着物の、黒留袖という、正装にて、コンサートに参加したことは、バリ島はじまって以来のことである。
異文化との、交流が、何の抵抗もなく、スムーズに行われた。
画期的と言わずして、なんと言うのか。
更にである。
辻知子の、CDが、バリ島に流れるということ。
そして、更に、藤岡宣男の歌声が、バリ島に流れるのである。
これは、私の成功である。
世界の入り口バリ島で、藤岡宣男の歌声を、流せるというほど、私の幸せはない。
来年は、バリ島の至る所で、藤岡の歌声が、流れる。
バリ島には、テラハウスという、ゲストハウスが、出来る。
活動の拠点が、出来るのである。
日本文化のセミナーと、日本語セミナー、及び、定期コンサート等々。
また、バリ島ウブドゥの芸術の村の一つ、クトゥ村の奥にて、テラハウスがあるという、行幸である。
そこから奥へは、観光客は、ほとんど入らない。
地元の人々の暮らしの中に入って、滞在出来るという、ゲストハウスになる。
さて、次に、タイである。
ただ今、チェンマイにて、コンサートを開催しているが、次は、バンコクにて、開催する予定である。
そして、タイは、バンコクを、拠点にすべく、ただ今、計画中である。
バンコクから、ベトナム、ラオス、カンボジア、そして、ミャンマー・ビルマである。
追悼慰霊だけではなく、衣服の支援を続ける。
バンコクに、衣服を運び、それを、各国に運ぶのである。
勿論、私の個人的活動である。
更に、コンサートを開催して、日本の歌を紹介する。
追悼慰霊は、昨年の、チューク諸島から、更に、ラバウル、ガダルカナルへと、続く。
そして、オーストラリア、アボリジニの犠牲者である。
ほとんど、それは、知られていない。
日本人の、犠牲者ではない。
当時、アボリジニの村に、軍事施設があったことにより、日本軍が、攻撃している。
また、当時は、原住民であった、アボリジニは、オーストラリア政府から、同化政策を取られて、瀕死の状態である。
誰も、日本軍攻撃の事実を知らない。
ダーウィンという、町のことは、戦争博物館で、知られている。
オーストラリア政府も、日本政府も、無視していたのである。
今年の一月、オーストラリア政府は、議会で、正式に、原住民族である、アボリジニに、謝罪した。
ちなみに、今年の六月、日本政府も、アイヌ民族を、原住民族であると、認めたのである。
これを、時代性という。または、時代精神という。
長かった。本当に、長かったと思う。
原住民族に対する、無礼は、極まりなかった。
アボリジニの、戦争犠牲者など、物の数ではなかったという、悲劇である。
私は、極めて個人的な活動として、追悼慰霊を、行う。
前代未聞、初めてのことである。
しかし、それは、密かに行う。
仰々しく、行うことは無い。
私の個人的、情緒である。
この世は、地獄である。
あの世に、地獄など無い。
この世が、地獄なのである。
一人の物思いなど、何ほどのものか。
歴史は、多くの人を犠牲にして、成ってきた。
決して、侵されることのない、場所にいて、云々することは、容易い。
私は、悲しむ人と共に、悲しむことを、選ぶ。いや、それは、すでに過去のものになった。私は、過去と、共感するのである。
何度も言うが、それは、私の、極めて個人的、情緒である。
他の何物も、それには、介入できない。
私は、組織を持つことなく、ただ、個人として、それを、行う。
それで、善し。
言うことも無い。
時を経て、私の行為も、無虚に帰すことを、知っている。
それで、いい。