親鸞の信仰の深さについては、多くの人が、多くのものを、書いている。
現在でも、御用学者や、小説が書けない作家たちが、親鸞様について、書いて、名声を上げ、さらに、本を信徒に買われて、金にもしている。
確かに、物思う人として、見ると、その通り、親鸞は、実に深く物を考えた。
妄想は煩悩に発するにちがいないが、煩悩から離れようとする信仰自体のうちに、実は最も深い妄想がひそんでいるのである。救いについてのそれは自己計量(はからい)である。親鸞はこれと徹底的に戦った人だ。
亀井勝一郎 日本の精神史
私も、そう思う。
そのことがおそらく彼を人々から孤立させた。晩年の彼をはるばる京都までたづねてきてくれた関東の人々に対して、「総じてもて存知せざるなり」と答えたのである。
亀井勝一郎
いづれの行も及びがたき身
地獄は一定すみか
自己の計量したあらゆる救済観念を破壊すること、これが親鸞の戦いである。換言すれば、罪の自覚の深さに応じて、そういう救済観念の空しさを身に沁みて経験してきたということである。
亀井勝一郎
上記、実に理解する。
しかし、それとて、実は、大きな観念の中でのことである。
一番大事な、その観念の枠から、逃れられなかったという。
どんな観念か。
救いとか、罪人という観念である。
この自虐は、どこからのものか。
彼の生まれ育ちにもあろう。
虐待を経験した親は、自分の子供を、虐待する。自分の子供に向かわない場合は、自分に向く。自虐である。
法然は、疑いつつ、念仏すると言う。
崩壊しつくした人間と、弥陀の本願との、どん底における出会いに、信仰の純粋性を見ようとした。
亀井勝一郎
美しい表現であるが、崩壊しつくした人間は、崩壊したのであり、信仰の純粋性を、求められるだろうか。
美辞麗句に、聞こえる。
信仰の純粋性とは、絶対帰依の心であろうか。
多かれ少なかれ、人間は、アホでない限り、人生の一時期に、自分の、どん底を観る時期がある。
親鸞ばかりではない。
ただ、多くの人、語らないだけである。
信仰の純粋性というならば、道元の方が、まともである。
彼も、同じく、文を多く書いたが、親鸞のように、くねくねと、していない。
文においても、一本筋が通っている。
私は、日本の哲学書として、一つを上げれと、言われれば、即座に道元という。
ただし、道元にも、言いたいことは、多くある。後で、それは、書く。
兎に角、阿弥陀の呪術から、阿弥陀というものの、観念から、抜けられず、七転八倒しているのが、親鸞であり、それは、ぐるぐると回る、車に入れられて、同じところを、回っている、ネズミに似ている。
亀井勝一郎も、信仰の最も重要な面は罪の自覚にあることは言うまでもない、という。
ああ、この罪の自覚というものに、振り回されて、今の今までやってきたが、本当だろうか。
当の本人たち、仏教者たちが、本当に罪の自覚を、持ち続けたとは、到底、思われないのである。
仏教者たちであり、仏教家たちではない。
宗教という、団体に、胡坐をかいている僧たちは、話にならない。私の言う、仏教者たちとは、市井に生きる、信仰深い人たちのことである。
罪の自覚に、震え慄いていれば、生活など出来ない。
昔、言われた、不安神経症である。
信仰の深さというもの、精神病理に、どうしても、関わる必要がある。
この話ばかりを、続けていると、嫌な気分になるので、少し、寄り道する。
心が病むということは、どういうことなのであろうか。
大和言葉を、見る。
やむ やアむウ
アウという、母音にゆく。
病むは、止むとも書く。
心の何かが、停止する。思考停止状態でもある。同じ思考を、ぐるぐると、回る。
それでは、日本の伝統は、どうあるのか。
そういう時こそ、自然に向かった。
山川草木に、心を、向けて、樹や、石や、山川海に、カミ呼びをした。
自然を回復し、自然を清め祓い、そして、その自然の前に、祈りを上げた。額ずいたのである。
心、止まる時こそ、自然の恵みを頂いた。
八百万、千代万の神々と、飲み食いし、歌い踊った。
依り代を、作り、つまり、カミの場を作り、ひと時、その場で過ごす。
そして、自己回復を図った。
依り代とは、自分を突き放す場である。樹に、注連縄を張り、樹を依り代として、そこに、我が心を置いた。それを、カミと共に、自然と、共に、共感させた。
真っ当な自己回復である。
人間が生きるのは、自然の中である。
人間が、人間として生きるのは、自然と共にあるときである。
それを、日本は、伝統として、有する。
解りやすく言う。
エコという言葉があり、あたかも、それが正しい行為のように、思っている。また、それを、前提にエコという行為をする。
あれは、自然支配の欧米の傲慢な、考え方であること、明々白日である。
自然は、どんな状態でも、回復する。
台風の大きな被害の後でも、サイクロンから、竜巻の後でも、自然は、自己回復する。その、エネルギーたるや、計り知れないものがある。
その、自然対して、人間がするという、エコロジーという、考えたは、あまりに、浅はかである。
日本の伝統を、もってすれば、まず、自然の清め祓いを成し、自然と、飲み食いすることから、始まる。
対立したものが、自然ではなく、飲み食いする相手が、自然なのである。
木を植え続けた人の話は、感動するが、自然と、飲み食いする人の話には、感動しないという、アホ馬鹿、間抜けの多くなった日本である。
病むことが、回復するのは、自然の中にあってである。
それが、出来ないという人が、便宜上、精神薬を飲むのである。
仏教が、自然と離れた処で、語られ始めて、おかしくなった。
伽藍という、馬鹿馬鹿しい空間である。
それは、寺院という、中にある。
昔、人は、宇宙という、空間にいて、太陽を、主として、カミの懐にあることを、知っていた。
道元は、福井の山に籠もり、ようやく、大地雪満々と、観た。
だから、道元は、健康であった。
なよなよした、文は、見当たらない。
仏教家で、最も自然に対座したのは、田舎に籠もった、道元である。
結果、親鸞も、都に戻り、悩み続けた。
勿論、それも、否定しない。
信徒が、多くなると、その土地を、離れて、出て行く。
語れば語るほど、言いたいことが、遠のくからである。
言いたいことが、遠のく時は、沈黙しているに限る。
言挙げ、しないという、古神道は、それを、知っていた。故に、言葉にしない。沈黙したままである。
人は、言葉という、観念に縛られることを、知っていた。
だから、あーーーー、いーーーー、うーーーー
というように、一音に、思いを託すという、言霊、いや、音霊の所作を、尊んだ。
それは、まさに、自然の様である。
だから、自然と、同化、共生した時、病は、癒える。
自己の罪をかぞえて、救いを計る。人間の妄想にはきりがないのだ。妄想と格闘しつつ、別の妄想にふけるのである。
亀井勝一郎
マスターベーションは、罪であると、教えられてする、マスターベーションは、そうではない場合と、格段の差のある、快感になる。
人の妻と、セックスするなと言われれば、逆に人の妻との、セックスが、通常の何倍にも、快感になる。
技巧を凝らした、セックスをしなくても、罪の意識が、快感を増幅する。
西洋の文学には、そういう話題で、持ちきりである。
それを、深みだとして、日本には無い、精神の云々という、アホの紹介者を、鵜呑みにして、有り難がるという、これまた、アホの皆々である。
日本に、神は、いない、神の不在の文学などという、アホも多かった。
神など、いる訳がないのである。
日本の方が、真っ当であったが、兎に角、白人に弱い。
勿論、白人に弱いのは、日本人だけではない。
中国など、日本に対しては、徹底的に、交戦態度であるが、イギリスに対しては、尻尾を丸める。
白人に弱いのである。
侵略と言うなら、イギリスは、中国の怨敵である。
しかし、白人であるから、頭を上げない。
そうして、アジアの中で、威張り腐っているのである。
日本と中国である。
アホか。
以下省略。
寄り道し過ぎだ。