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神仏は妄想である。132

畢竟じていわく、居士の悟道するか、山水の悟道するか。たれの明眼あらんか、長舌相・清浄身を急著眼せざらん

ちょうぜつそう しょうじょうしんを きゅうぢゃくせざらん

このくだりは、まさに道元ならではで、朱筆ものです。
結局、居士は悟って山水と一致してしまった。とすると、悟ったのは居士なのか。悟った居士の姿が、もし山水そのものと一致するならば、居士が悟ったというよりも、山水が悟ったのだというほうが正しいのではないか。
栗太勇

こういうのを、悟り病という。
更に、言葉遊びという。

人間が悟ったという瞬間には、山それ自体、川それ自体が己の姿を表しているのであって、もはや人でもなく、山水でもない。煌々と輝く真実そのものがむき出しになる。
ならば、山水そのものが悟ったと言ってもいっこうに差し支えない。
栗田勇

悟りとは、真実の姿をあきらかにするという、妄想である。

この世に、真実など、あろうかう。
事実があるのである。

更に、このような、自然との一致などということ、今更である。
万葉集を、読めば解る。

一体、何ゆえに、このような、迷いに陥るのか。
それは、病である。
気の病なのである。

この、禅の言葉に騙されて、皆々、その気になっている様は、実に滑稽である。
つまり、知ったと勘違いするのを、知ったと、思い込むのである。
禅というものは、実に、愚かな、世界である。

そこに、真実だとか、仏だとかを、入れ込むと、一丁上がりである。
アホらし。

み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間なくぞ 雨は降りける
その雪の 時なきが如 その雨の 間なきが如 隈もおちず 念ひつつぞ来る
その山道を
天武天皇御製

み吉野の、耳我り嶺に、止む時もなく、雪が降る。
間断なく雨が降る。
その雪が止む時もなく、その雨が絶え間なく降り続くように、山道を、思いに沈み、ひたすらに、歩いて来たことである。

思いつつぞ来る
これを、迷いと、禅者は、言うだろう。
生きるということは、この、思いつつ来る、行くことである。
雪にも雨にも、一体となり、思いつつ、行く、来るのが、生きるということであろう。
つまり、人生の捉え方である。

禅の、捉え方には、作為がありすぎる。

渓声山色の功徳によりて、大地有情同時成道し、見明星悟道する諸仏あるなり

十二月八日、明けの明星を見て、釈迦が、悟り、仏陀となるのである。

それに、真似て、空海は、明けの明星が、口に飛び込んできたというから、魔界関与である。

道元は、修行者として、最も、理想的な、坐禅というものを、行為した。
それは、釈迦の教えたものである。
そして、その坐禅は、出家者がするものであり、在家、つまり、一般の人のするものではなかった。
釈迦は、一般の在家というか、在俗の人には、それを、勧めていないのである。

釈迦の教えの、八正道という、物の見方、考え方がある。
その最後に、正定というものがある。
しょうじょう、である。
それは、出家者のものである。
それほど、正定は、難しいことである。

道元も、弟子たちのために、教えを書いたのであろう。
今、しかし、それを、一般の者たちが、読む。

私も、それで、批判する。

しかし、釈迦が、仏陀となった、悟りというものを、誰も、知ることは出来ない。
極めて個人的な、情緒である。
更に、大乗仏教では、その仏陀を神格化して、ついに、神様のように、扱い、対立させて、仏陀、そして、仏という存在を、置いた。
一神教と、変わらない。
だが、こうも言う。
仏と、仏と、釈迦という仏陀は、違うのであると。
数多の仏が、永遠の仏陀として、存在する。
釈迦も、その一人である。

久遠実成の、仏というものがある。
釈迦も、その仏に向かう仏である。

道元は、更に、釈迦の悟りの、時、それを、禅では、機ともいう。
禅機である。

山も時なり、海も時なり、時にあらざれば山海にあるべからず

「有時」の「有」とは存在のことであり、「時」とは時間のことです。つまり「存在と時間」といえばドイツのハイデッカーの著作の名前とまったく同じです。彼やフランスのサルトルなど二十世紀の実存哲学者の思想を、道元は何百年の昔にすでに先取りしているのだから驚きです。

存在と時間などというとむずかしく聞こえますが、基本的には、時間というものは二つあるということです。一つは時計の針が指し示していく客観的、物理的な時間。もう一つは、おもしろさに時を忘れるというように、時計の針とは無関係な、主体的な時間というものがある。
栗田勇

松も時なり、竹も時なり、時は飛去するとのみ解会すべからず
道元

ところが道元は、飛躍的というか独特の考え方をしている。実は、時間についてあれこれ考えているわれわれ自身、実際は時のまっただ中に投げ込まれているのだということをまず言う。そういう観点でみれば、仏法といい、悟りという真実の法則は、皆、時が姿を現したものである。世の中のありとあらゆる現象は実は時間そのものが姿を現したものである、形をとったものであるという考え方が出てくる。
栗田勇

時は、流れるものではなく、様々な、在り方の根本であるという、考え方になるという。

山も、海も、時そのものであるというのだ。

このように、どんどんと、迷いの道に入り込むのである。

それならば、松尾芭蕉の言う、松のことは、松に、竹のことは、竹に聴けという、言葉の方が、実際的である。

もし、道元が、仏法に迷わずに、大和言葉で、その、思想を語れば、実に、有意義な、哲学、思想を、生むことが出来たと思う。

道元は、釈迦の唯一の教えとしての、禅と認識した。
それは、つまり、釈迦の悟りの、あの時を、求めたということである。
そして、耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び、釈迦の、その時の、機を求めた。
それが、道元の著作のすべてである。
これは、確かなものなのであると、何度も、繰り返し、繰り返し、確認するために、飛躍的な、言葉の数々を吐いたのである。

釈迦の悟りの、ある機は、去ってはいない。今も、その時である。今も、その機である。
実に、真面目である。

道元の、本質は、生真面目なのである。
坐禅という、一つの修行方法が、とても、道元には、合っていたのである。

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2008年08月10日 13:16に投稿されたエントリーのページです。

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