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2008年10月 アーカイブ

2008年10月07日

神仏は妄想である。156

日蓮の、絶対主観主義は、まず、念仏宗に、向けられる。
この、現実を見ずに、極楽往生という、妄想の世界を求めている念仏宗は、何事かということである。
法然に対する、罵詈雑言は、甚だしい。

さらに、苦悩に喘ぐ人々を助けることのない、本覚思想も、何物でもない。

そして、何を思ったのか、法華経を流布することによって、この現実世界を、変革するというのである。
それの、端的な方法が、題目である。

おかしいでしょう。
念仏などしていて、この現実世界を救えるか、と言いつつ、それと、同じように、題目を唱えて、この世に、浄土を、建設するというのである。

念仏は、死後の世界で、日蓮は、この世に、浄土である。
違うように、見えるが、彼の行動を見れば、実は、同じことなのであるが・・・

だって、日蓮は、何も、していないのです、よ。現実世界に。

その前に、法華信仰でも、その行を唱題するという行為は、平安期から、持経者と呼ばれる、民間の布教者たちによって、行われていたのである。
それは、下賎な人とも言われる人々に、広められていた。
簡単な、方便の行と言われて、正統的な、仏教からは、度外視されていたのである。

それを、日蓮は、取り入れた。

面白いのは、日蓮の、法華経の読み方である。

法華経は、釈迦が、仏滅後に、衆生を救うために、この経典を、地湧 じゆ、の、菩薩に、授けたとある。
しかし、末法の、それも、何も知らない衆生が、出来ることは、知れている。
仏が、万人の成仏を願い、この経典を授けたと、信じれば、どのうよにすれば、いいのだろうかと、考える。最も、易い方法である。

題目、それだと、直感的に、悟ったと、言うが、思い付きであろう。
念仏も、あるし、ね。

日蓮が、佐渡に流された時、更に、その考えを深めて、とんでもない、妄想を起こす。

つまり、仏が、授けた法とは、実は、法華経ではなく、その題目だったというのである。

それでは、ここで、法華経について、書きたいところだが、それをすると、膨大な量になるので、後にする。

日蓮の、思い込みは、自分が、法華経の地湧の菩薩だと、信じたことである。
勿論、それまでも、我が、我がという意識、自己意識肥大は、十分にあったが、受難を受けて、さらに、精神的に、変調をきたしたのである。

例えば、あの、鎌倉時代である。
時の執権北條氏に、念仏攻撃を超えて、それを、許している、幕府の過ちを正すと、立正安国論を提出するというのであるから、仰天である。
心ある、学者は、宗教レベルを超えて、念仏のような邪悪な宗教を、野放しにする、鎌倉幕府に、訴えるという、行為である、と書くが、そんなものではない。あまりに、道を外している。要するに、狂気である。

とても、通常の神経ではない。
その時代の、身分感覚から見ても、信じられない行為なのである。

その、提出した後で、すぐに、念仏宗が、日蓮を、襲う。
それは、幕府の誰かが、目を通して、とんでもないことを、書いていると、念仏宗に、教えたのであろう。

ここで、何故、日蓮が、幕府に対して、そのようなことが、出来たのかという、問題に、ズレた、感覚の者が、日蓮の出生の秘密があるという。
それは、やんごとなきお方の、落胤ではないかというものである。

漁師の息子などではない。実は、日蓮は、公家の血を引くもの、など等の説である。
故に、幕府は、無視出来なかった、云々である。

事後預言ならば、何とでも言える。

仏法の、良し悪しを、正しく判断し、正法をもって、国を安泰にすることこそ、幕府の役割である。との、忠告は、気違い沙汰である。

それは、地獄に落ちる行為であると、高々と宣言するという様。
時代が、違えば、病院行きである。

中世はみだりに他宗を誹謗することはタブーの時代だった。まして権力批判など問題外である。一時期アウトローとみなされていた法然流の専修念仏も、この時期には体制仏教の一翼を担っていた。その根絶を主張し、幕府の怠慢を言葉鋭く糾弾し、北條時頼や後鳥羽院が地獄へ堕ちたと公言する日蓮は、客観的にみれば明らかに許容される一線をふみ超えていた。日蓮がみずから望んで嵐の中に突入していくのである。
佐藤弘夫 偽書の精神史

それを、法難というから、呆れるのである。
日蓮は、仏陀の教えを知らない。
自業自得、因果応報。
中道の心。
戦うのではない。戦う場所から、逃れるのである。それが、仏陀である。

仏教の中で、日蓮宗系は、兎に角、戦うとい言葉が好きである。
仏陀の、教えを知らない。
しかし、正法である、仏法であると、言う。
こういうのを、手がつけられないと、言う。

日本政府は、どこかの、無人島を、日蓮宗系の人々に、開放し、そこで、好きなだけ、題目を上げて、意気揚々と生活できるように、すると、いい。
そこでこそ、仏法の国であると、認めて、日蓮島として、特別地区に指定すると、いい。

日蓮を見ていると、信じるという行為の、最極端を見るようである。

伊豆に流罪の前後から、法華経の行者であると、名乗るようになり、更に、激しく、すべてを、批判した。いや、非難である。

法華経は、最高の法である。
その、正法を、信奉する、我が、何故、このような、受難を受けなければならないのか。
すると、法華経には、なんと、自分のことが、書かれているではないか。

つまり、仏滅後に、この経典を、実践する者、三類の強敵が、現れて、様々な試練が、降りかかるというものである。

私は、何度も、信仰とは、極めて個人的な情緒であるゆえ、それに対して、否定することは、無いと、言った。
しかし、盲信、狂信、という、逸脱した、勿論、信仰は、一度、逸脱して、冷静な意識に戻るものであるが、それを、続行させる意識とは、病である。

法華経とは、ファンタジーである。
当時、書かれた時代の、ファンタジーである。

真理とか、真実などというものは、星の数ほどある。
唯一とか、正法とかは、信じる人のみに、通じることである。

正気に戻れ、と、言う。

神仏は妄想である。157

ここで、もう一度、鎌倉仏教というものを、俯瞰してみる。

平安末期の、既成仏教団体は、退廃し、大寺院などは、僧兵を抱えて、争い、既得権益に、あぐらをかいて、腐敗の限りであり、そこから、新仏教運動として、選択仏教が、生まれたというが、実は、多く、誤りであることをいう。

当時の、世相は、仏教が言う末法の時代だという、感覚、感じた方が、大勢であった。しかし、時代は、いつも、激動の中にあり、取り立てて、末法などという、危機意識は、特別のものではない。
ただ、末法、末法だと、言いつつ、我の、思い、信仰、信じるものを、掲げたのである。
勿論、その、危機意識を否定するものではないが、末法思想というものは、仏教の教えには、無いものである。

中国の一人の僧の、思い付きである。
それに、振り回されたと、私は言う。
ただし、末法とは、実は、全然別の意味がある。時代を区切って考えるようなものではないのである。それについては、今は、省略する。

鎌倉時代は、確かに、大寺院の、世俗化が、ピークに達していた。
しかし、伝統仏教、つまり、南都仏教などは、教学の体系化が、進められ、多数の著作もなされた、充実した、時期でもある。

そして、非常に評価すべきは、宗派を超えた、研究がされたということである。
複数の行法の存在を認めて、それらを、共に学び、実践し、肯定するという、融和的な、活動が、行われていた。

つまり、そこから、アウトローになったのが、法然をはじめとする、鎌倉仏教の祖師たちである。
要するに、自己顕示欲である。
ただし、衆生、民を救うという、大義があった。
だから、辛うじて、許されるのである。

面白いのは、大寺院が、荘園領主へと、変貌することによって、荘園経営に、必要な、農業、土木などの、技術が、養われていたということである。
更に、暦や、天文の知識である。

更に、医学である。
医学に関しても、寺院は、最先端をいっていたのである。
加持祈祷などによる、病気治しのみならず、古代以来の伝統を学び、医学を専門とする、僧たちもいたのである。
漢方や、針灸という、最高レベルの治療法も、行っていた。

こうしてみると、一概に、既成仏教の、退廃ばかりを言ってられないのである。

芸術、文芸などの、分野でも、大きな功績を果たした。

つまり、寺院は、今の、総合大学のような、役割も担っていたといえるのである。

ちなみに、新仏教の始祖たちも、皆、一度は、その門を入っている。

しかし、それはあくまで知識の次元の話だった。彼らがひとたび現実に対する主体的な問題関心に立って、既存の学問体系に収まりきらない疑問を抱いたとき、旧仏教の教学はもはやそれに応える術をもたなかった。
佐藤弘夫

日蓮を、良く解釈すれば、既存の仏教では、現実の、人々の苦難を救えない。そして、更に、仏は、この塗炭の苦しみにある、人々を救わないという、強い思いを抱いたといえる。

すると、求めるべきは、仏、釈迦仏陀であり、更に、その深い奥にある、仏の本体である。つまり、釈迦仏陀を、世に出現させた、久遠実成の仏というもの。本地としての、釈迦との、出会いである。

この世に、生まれた釈迦を、超えたところの、仏の存在を、希求したといえる。

何故、あれほど、他宗を攻撃出来たのかといえば、日蓮の、本地の仏と、出会ったという、確信である。
しかし、その確信は、勿論、妄想である。

本地の、久遠の仏から、聞いたと、信じた、題目の、大徳である。

問題は、ここである。
法然も、聞いたという。日蓮も、聞いたという。道元も、聞いたという。
本地の仏の言葉である。

それを、はい、そうですか、とは、頷けないのである。
それは、各々が、聞いたものであり、それは、それ、である。
何故、それが、すべての人に、すべの人の救いに当たるのかとは、主観である。
これを、絶対主観という。

それならば、一神教の言う、神と、何の変わりもない。

これが、唯一であるという、方法である。
法然も、道元も、そして、この、日蓮も、実に、おめでたいのである。

ただ、いえることは、天皇、貴族、社会的権力の持つ者が、救われる仏教を、民衆に、提示したという、功績である。
果たして、今となってみれば、功績なのか、否かは、考えるところである。

それ以後、およそ700年に渡り、日本人は、仏教徒と、呼ばれるほど、仏教信徒となったのは、彼らの功績であるからか。

再度言うが、念仏と、題目とは、何ら変わりは無い。
唱えるという行為自体に、何の変わりも無い。
故に、日蓮は、特別に、念仏を攻撃した。

時の権力者に、念仏を止めさせなければ、日本は、滅ぶとまで言うその、嫌悪感は、どこから、くるのか。
それは、似ているからである。
似ているものを、嫌悪するのは、人間の、根源的、心情である。

念仏ではなく、題目を唱えろというのである。

実は、法然と、日蓮の問題意識は、同じであると、私は言う。

差は無いのである。
共に、衆生、多くの民を救うという、大義である。

これは、日本における、特異なものである。
仏教は、本来、教学の優劣については、論じたが、他宗の、教えや、実践的行為を、無用であるとの、議論はされないのである。
インド、中国の、仏教でも、見られないことである。

実は、彼らは、新しい仏法というものを、創作したともいえる。
仏法というものの、オリジナルを、変更したのである。
それは、我が、本地の、本来の仏と、逢ったという、確信である。

何度も言うが、それは、彼らの妄想である。

空海の理論的ともいえる、妄想から比べると、彼らは、理論的には、劣る。しかし、盲信、狂信という意味からは、空海を超えている。

2008年10月08日

神仏は妄想である。158

空海は、インド・バラモンの呪術を持って霊的存在に対処する。
日蓮は、それを、真似て、陀羅尼で、対処する。

日蓮は、法華経の行者と自ら名乗り、霊的存在と対処し、その弟子たちも、行者として、霊的存在に対処した。
それは、現在も、行われている。

彼らの、言葉にすると、不成仏霊ということになる。
それは、日蓮宗系の、霊能者などにも、引き継がれて、法華経を持って、霊的存在に対処するという形である。

空海の、真言密教の方法と、日蓮宗系の、所作には、違いがあるが、それは、専門的というか、個々人で、違うゆえに、一概に、書くことは、出来ない。

ここで、面白いのは、成仏、不成仏という言葉である。
一体、何を基準として、不成仏というのか。
それは、単に、幽霊という形で、現れる霊に対する所作でもある。

マスコミなどが、放送するものは、それである。
見える形で、霊的存在を、示すものだから、放送という形を取れるが、見えなければ、出来ない。

人に霊が、憑いて、何やら喋らせたりする。
それを、取り除くという方法である。
霊の存在を、信じない人には、催眠術のように、見える。

それ以前に、不成仏霊について、少し言う。

あちらの世界に行けない霊である。
つまり、この世に、留まり、浮遊する。
何故か。
思いである。強い思いが、そうさせる。
しかし、子供の霊などもいる。
強い思いがなくても、いる。何故か。
よく解らないのである。

死んだということを、意識しない場合が、多い。
何故か。
死後の世界を、受け入れないからである。

事故多発地帯に、多く幽霊が、出ると言われる。
それは、そこで亡くなった人が、そこに、留まるからである。
その霊を、不成仏霊と言う。

私の言葉にすれば、次元移動出来ない、霊であり、不成仏ではない。
人間は、成仏するものではない。というより、成仏というものは、観念である。

仏になる。
死んだら、仏になると、観念するという、誤りである。

それでは、日本の伝統では、命 みこと、になると言う。
自然に隠れた存在になると、考えて、お隠れになると言う。
つまり、次元を別にするということである。

総称して、神になるとも、言う。
しかし、一神教の神観念ではない。
超越した、存在ではない。
この世に、また、あの世に、超越した存在は無い。
それは、信仰である。
信じる行為で、それを、生み出す。

我は、神であると、出て来るモノは、霊である。
単なる、霊である。
新興宗教の教祖たちは、皆、この、霊に、やられた。

迷い、浮遊する、そして、成仏せずに、苦しむ霊を、読経により、引き出し、それらを、納得させて、成仏させるという、行がある。

確かに、それは、事実としてある。
霊が、障り、不調和を起こすというものである。
それなりに、処置をすると、それが収まり、正常に戻る。
しかし、これが、実に、難あり。
確認する術が無いのである。

霊的能力者と言われる者たちは、多くは、精神疾患的である。
また、人格としても、未熟である。
自己顕示欲によって、成る人もいる。

多く、霊的能力があると、言う人は、何のとりえが無いゆえに、その自己顕示を満たすべく、霊的能力があると、演じる。

それの、恰好の、お経が、法華経である。
悪魔のお経であるから、言霊が強い。
特に、漢訳されたことにより、更に、それが増した。
いずれ、法華経について、書くことになるが、内容は、ハリーポッター並の、ファンタジーである。

釈迦仏陀が、最後に説いた教えというが、それは、後世の人の、言うことであり、根拠が無い。
しかし、多くの人が騙される。
騙されるような、お経である。
つまり、如何様にも、解釈が出来るのである。

白隠という、禅師も、最初は、法華経を、単純なお経と見ていたが、次第に、法華経の、凄さが、解ったという。それは、単に、法華経に、取り込まれただけである。

漢訳された時、妙法蓮華経と、訳された時、魔が入った。
みょう ほうれんげ きょう
妙法は、つまり、真理の法は、蓮華の、つまり、蓮の花の如くにあり、である。

大乗仏典というものは、後々、編纂されたものであり、誰が書いたのかも、特定出来ない。
創作の話から、あれほどの、教義を作り出すものであるから、相当に、おかしい、変なものである。

文学として、扱った時のみ、正しい。

南無阿弥陀仏も、おかしいが、創作の、お経に、帰依するという、南無妙法蓮華経は、更に、おかしい。
それが、本地の仏から、出たものと、信じた日蓮は、おかしい。
その、おかしさに、気付いて、いなければ、法華経を唱える者は、地獄に落ちるということになる。

仏教は、経典を掲げて、宗派を起こす。
新興宗教では、阿含経を掲げるものもある。涅槃経を掲げるものもある。
甚だしいのは、般若心経のみで、詐欺のような、宗教を立てる者もある。

霊を祓うと、一心に、般若心経を唱える集団もある。

三蔵法師玄奘の漢訳が、日本の大乗仏典の多くである。
玄奘は、法相宗を起こした。
その、法相宗の、教義というか、考え方を知らないで、唱えるという、愚行である。

玄奘は、大乗を学ぶために、命懸けで、天竺に旅した。
最高学府ナーランダにて、学び、唐に戻り、翻訳をはじめた。
そこでは、大乗のみならず、小乗も、学びつくした。
とんでもない程の、優秀な頭脳により、最高学府の、最高に達したのだ。

玄奘の、教えには、仏に成れない者がいるというものがある。
人を五種に、分けて、最後の、一種に、仏に成れないものがいると、打ち立てた。

これが、天台との、違いである。
最澄は、お育ちが良いのか、人は皆、仏に成ると、掲げた。
天台宗は、名門である。
鎌倉仏教の、祖師たちは、皆、これに習った。
大きな間違いの元である。

天台という、新興宗教が、仏教を堕落させ、破壊し、とんでも仏教にした。
以後、日本仏教は、誤り続けて、今日に至る。
その、天台とは、中国僧、天台チギによる。
三千大千世界というものを、立てた。一念は、三千世界に通じるというものである。

ちゃかす訳ではないが、五千でも、六千で、なんぼでもいい。要するに、心の広さを言うのである。しかし、天台は、仏の世界を言う。

そして、もし、この三千世界を主にして、経典を解釈するというなら、それなりの、直感的解釈がある。
何事もそうであるが、人類は、先のものを批判することによって、生成発展してきた。
その、批判の精神とは、精神進化の、成果である。
批判の精神を、失うことは、精神的死を意味する。
いずれ、それについても、書くことにする。

さて、
人を、皆、救うというから、大乗仏教はいいという、お馬鹿な、仏教家や、識者がいるが、あれは、生業である。
それで、食っているのである。
ホント、いい気なものである。

私は、このエッセイを書いて、食っていけないのである。
それでも、書くというのは、わかるかなーーー
芸術活動である。

2008年10月09日

性について11

もう少し、脳を見る。

脳下垂体は、頭部の真ん中にある。眼の奥である。
大脳の前面に、付着している、小さなものである。
やや、前頭よりに、下方に垂れている。

前葉、中葉、後葉と、茎がある。

後葉は、神経下垂体ともいい、茎を通って、間脳視床下部に、つながる。
それは、視床下部から、神経を受け取るということ。

後葉には、多くの、無髄神経線維が集まる。
その、神経は、有髄神経と、無髄神経に分けられる。

有髄の方は、髄鞘という物質があり、無髄には、それが無い。

髄鞘は、脂肪質の物質で、保護するためにある。

後葉は、内分泌液を分泌するという説だったが、そうではなく、視床下部の神経細胞が分泌して、それを、神経線維が運んでくるという、しくみが、解った。
神経分泌現象と、呼ばれる。
それは、神経線維と、神経線維の間を、運ばれてくるのである。

さて、前葉は、胎児が発生してくるとき、本来は、口を形成する細胞からくるが、それが、腺となり、後葉、つまり神経からきた部分と一緒に、脳下垂体となったのである。

中葉は、色素の出来かたで、三種の細胞は、分かれる。
後葉を、ニューロ下垂体、前葉は、アデノ下垂体と、呼ぶ。

ニューロ下垂体は、働きとして、いくつかの、ホルモンを分泌して、血液に送り、臓器の働きを、促す。

一つに、抗尿ホルモンADHを出す。これは、腎臓にいって、尿量を調節する。あまり、尿を作らないように、作用する。

もう一つは、ADHが、ワゾレッシン、オキシトチンという、物質を含んでいる。
ワゾフレッシンは、抗尿に、オキシトチンは、乳腺に作用する。

アデノ下垂体は、二つの細胞群を含んでいる。
一つは、クロモフォーデ細胞で、染色性のないもの、もう一つは、クロフィル細胞で、色素に染まる細胞である。

この細胞は、酸性色素エオジンや、酸性フクシンに、よく染まる細胞と、塩基性色素であるヘマトキシリンによく染まる細胞との、二つに分かれる。
この、酸性細胞が、成長ホルモンを出し、泌乳ホルモンと名づけられていた、プロラクチンを、出す。

塩基性色素に染まる、細胞は、向性腺ホルモン、向甲状腺ホルモン、向副腎皮質ホルモンを出す。

アデノ下垂体の働きは、諸ホルモンの働きのことである。

次に、向性腺ホルモンの、ゴナドトローピンという総括名で、二種類あり、一つは、卵細胞刺激ホルモンFSHで、もう一つは、黄体形成ホルモンLHである。

これらは、女性のもつものだが、男性では、FSHとLHをかねた間質細胞刺激ホルモンICSHである。

LHとICSHは、化学的には、同一物質であり、男性も、女性でも、LH、ICSHと、呼ばれる。

これ以上になると、専門的になるので、省略して、次に続ける。

脳下垂体から出る、ゴナドトローピンは、男性では、睾丸の成熟と、その機能や活動を調節している。

卵胞刺激ホルモンである、FSHは、脳下垂体から、直接、精子の生成を促す。
脳下垂体は、また、逆に、睾丸からの、影響を受けている。

前葉ホルモンは、睾丸が外に出るのを、促進する。
睾丸は、最初、卵巣と同じように、腹腔の中にあったものだが、それが下がり、陰嚢の中に入った。これは、自然の発育で、外に出る。

男らしさ、女らしさを作るものは、脳下垂体の、ゴナドトローピンが元だ。
ゴナドトローピンは、男では、睾丸のテストステローンを、女では、卵巣のエストラジオールと、プロジェステローンを分泌させ、それが、全身に回り、男、女らしさを、作る。

ところが、副腎皮質の内分泌により、男らしさ、女らしさに、変化することが、わかった。

副腎皮質とは、左右の腎臓の上についている、小さな臓器である。

腎臓は、尿をつくるが、副腎は、それとは、何の関係もない。

副腎皮質は、二層に分かれ、外側を、副腎皮質、内側を、副腎髄質と名づけている。

この、副腎髄質の出す、内分泌物質は、アドレナリン、ノンアドレナリンである。
性の問題には、関係ない。
性に関係があるのは、副腎皮質である。

副腎皮質の、出すホルモンは、性ホルモンと、よく似ている。
すべて、ステロイドで、八つホルモンがあり、それらを、一括して、コルチコイドと、名づけている。

更に、コルチコイドは、五十種にも、及ぶのであり、その働きは、三種に、分けられる。

オキシコルチコイドといわれ、三大よう素の新陳代謝に関係するホルモンである。
デスオキシルコルチコイドは、体内のミネラルの新陳代謝に関係する。
副腎皮質の性ホルモン。性腺の作用がある物質である。

いかに、複雑な構造で、性が、成り立つかということである。
それは、脳と、密接に関係しているのである。
性が脳であるという、理由を書いている。

そこから、見えるものは、結果的に、人間の性のあり様である。
脳科学、大脳生理学、心理学、文化人類学、哲学、思想、宗教、民俗学等々、様々な分野を見渡して、性というものを、見るという、試みをしているのである。

勿論、私は、素人であるから、気が楽である。
勝手、気ままに、性を探るのである。

性について12

性と脳のことに関しては、また、追々と書くことにする。

その前に、一つ、私は、提案する。
性というものは、本能かということである。
性欲というものは、本能であるかというのは、今は、誰も疑わないようである。それは、性欲本能説である。

自然に、持って生まれたもので、それにより、子孫を作り、それは、自己保存の本能とも、言われる。
性欲に、関わるすべてのことは、本能である。
これは、一つの観念であるという、提案である。

私は、性欲即本能とは、考えられなくなっていると、思っている。
それは、人間の進化である。

後々で、また脳について書く時に、それを、説明するが、単なる本能であると、考えている人は、大きな間違いを起こしている。
子孫を作るから、自己保存だというが、子孫を生めない人もいる。
どうしても、子孫を作らなければならないとしたなら、一夫多妻でなけばならない。
一夫一婦制で、子孫が出来ない人もいるからだ。

本能とは、何か。
生まれつき自然に体に備わった、生理的反応のことである。
意思に反して、起こるものである。
それでは、男が性的に興奮して、勃起するのは、本能であると言える。
だが、それで、性交を求めるとは、ならない。
マスターベーションという、最高の方法がある。

もし、性欲が本能だとすれば、それを、罪と考えた、宗教の多くは、実に誤りである。
完全に、誤っている。
本能ではなく、人間の何かによって、なるものだという、考え方があって、性欲抑制を、心の修行のように、考えたのである。

実に、狭い考え方を持って、性欲を本能だと、観念してきた、長い年月がある。

自然科学、文化人類学の検討が、実に必要になってきた。
性欲とは、本能であるが、人間の性行動は、本能ではないと、いえるのである。

人間の性行動は、作られてゆくものである。
それが、脳の発達によるものであるということ。

私は、バーチャルセックスという言葉が出来た時に、いよいよ、人間の性が、変容すると、思った。

例えば、インターネットの画面を見て、その接続に、本物そっくりの、女性器を取り付けて、バーチャルセックスが可能になる。
あるいは、セックスロボットが、現れて、セックスの相手をしてくれる。
時代は、そのように、向かっている。
それは、また、人間だけが、出来ることである。

子孫を作るための、性から解放される時代が、来たのである。
更に、子孫は、別に、セックスが、無くても、作られる技術は、十分に発達した。
試験管ベービーなどは、当然になってゆく。
甚だしいものは、男同士、女同士でも、子供が、作られる時代になる。

生物学的のみに、進化しているのではない。
人間は、その脳と、精神も、進化しているのである。

再度言えば、性欲は、最早、本能ではなく、文化と進歩と共に、新しく拓かれるものなのである。

性教育の、あり方も変わってくる。といいうより、今まで、正しい性教育が、為されていたかという、問題もある。

今までの、性教育は、生理学的、機能的、性の教育であり、人間の総合性としての、性教育が為されていないのである。

つまり、教える者たちが、性というものの、本来の姿を知らないのである。
すべては、古い観念により、それを、信じたものである。
何ら、創意工夫がなく、また、人間性の、性ということも知らないのである。

食の栄養については、溢れる程の情報がありながら、性の情報は、実に、少ない。
極端に、医学的、極端に、エログロ的、極端に、宗教、道徳的。更に、極端に、差別的なのである。

四十代の男が、若い女と、付き合い、妊娠すると、子供はいらない、堕胎せよと言う。そして、結婚はしない。女は、泣く泣く子供を堕ろし、男との、別れを決意する。しかし、男は、少し熱が冷めると、また、女に、二人で楽しもうと、誘う。

これは、実際に、私が相談を受けたものである。
その、男の親も、男と、同じ考えであるというから、驚いた。
私は、激怒したが、道徳的な人なら、皆、激怒するであろう。

何故、激怒するのか。
女を道具、セックスの道具のように、扱うからである。
更に、無意味な堕胎を促す、という無謀である。

しかし、このような、男が、非常に多くなっている、現実がある。
果たして、既成の観念で、何か、導くことが、出来るのか。

もう一つ言う。
結婚する相手はいる。しかし、別にセックスだけの関係の女が、妊娠し、生むといわれたと、悩んだ男がいる。
友人には、一ダース程、女に、堕胎させた男もいる。一人位ならば、堕胎させても、というのである。

上記、道徳なるもの、何の影響も、いや、道徳などは、何もないのである。

果たして、このような、時代性に、今までの性の観念で、考えていいのだろうか。

そして、更に、ジェンダーの問題から、ゲイ、レズビアンの問題から、性に関しては、今までにない問題が、持ち上がっている。

一夫一婦制の、結婚制度に関しても、更に、検証しなければならない。

結論的に言うと、人間は、性欲大脳化が、完全に出来上がっている。
生物学的に言えば、性行動は、本能ではなく、実に、人間の文化的行動であるといえるのである。

人間の性のあり様は、文化というものを、抜きにして語れないのである。
それでは、文化とは、何かといえば、伝統、文明、その他諸々の、要因によってなるものの、総称である。

性は、文化なのである。

ちなみに、性活動は、成人した、男女であれば、例え、去勢されたにしろ、障害があるにしろ、性活動は、行われるのである。

実は、一夫一婦制というのも、性の大脳化によるものなのである。

ますます、性というものの、世界が、広がってくるのである。

2008年10月10日

性について13

これから、雄の体、男の性感、雌の体、女の性感ということについて書くが、その前に、性、というものを、考える上で、現代、避けられない問題であり、性、というものを、根元から、考える、テーマが、出て来た。
それを、提言する。

トランスジェンダーである。
性同一性障害と、いわれる。
体は、男だが、心は、女であり、その逆もある。
医学では、それを認定し、治療、つまり、性転換を勧める。また、法律も、それを、認めて、戸籍の変更が出来るようになった。
マスコミにも、登場して、世の中に認知されはじめたと、いえる。

だが、その、性同一性障害には、もっと、複雑なものがある。
複合性同一性障害と、私は、名づけている。

実際、私は、そういう人たちと、文通を通して、その悩みを聞いた。

どういうものか。
一人の女の子がいる。
男の体になりたいと、希望している。
そこまで、通常の、性同一性障害である。
しかし、それからが、複雑なのである。
男の体になって、男と、愛し合いたいというのである。

その逆もある。

女として、男と、愛し合いたいのではない。男として、男と、愛し合いたいのである。
今は、女の体である。
実に、複雑な、心理状態である。

男の子が嫌いではない。ただ、自分が女の子として、扱われるのが、苦痛であり、更に、男の体になって、男の子と、恋愛を希望する。
このような、問題を、今、世の中で耳にすることはないが、現実に、彼女、彼らは、いるのである。

さて、もう一つは、ニューハーフといわれる、存在である。
これは、世界的には、レディボーイと、言われる。
日本独自の言い方が、ニューハーフである。

体は、男のままでも、女装し、女のように、振舞いたいのである。
それは、また、複雑で、男の体のままに、女を、装う場合と、ジェンダーのように、女の体にする者もいる。

だが、ジェンダーと、混同しては、いけない。

レディボーイは、男が、基本である。
そこに、覆うように、女というものがある。

であるから、女の体になった、レディボーイと、男の体のままの、レディボーイがいる。
そこの、違いは、それぞれの、心情の違いである。

そして、今まで言われる、ゲイ、レズビアンという、同性愛、更に、バイセクシャルといわれる、同性異性と、関係できる者。

身の回りには、それらの人々が数多くいる。
しかし、普段は、何も、表現しない故に、解らない。

家族さえも、それを、知らないという、場合も多々ある。

更に、欄外として、女装趣味というものがある。
それは、単に、着飾ることによって、昇華しょうとするもので、上記の者には、当てはまらない。

ある美少年が、女装して、電車に乗り、男に、女として、認められて、誘われ、憤慨した様を、聞いたことがある。
彼は、自分の女装趣味を楽しんでいるのであり、女として、見られ、男に、誘われることは、望んでいない。彼は、男なのである。

私は、ここで、人間の性というものの、無限定の様を、言うのである。
観念で、性、という、有様を、決め付けると、話しは、先に進まない。
簡単に言えば、何でもありの世界が、人間の性であると、知って欲しいのである。

それは、何度も書くが、人間の性の大脳化の所以である。

さて、タイでの、レディボーイの活躍は、目覚しい。
そこから、得た情報は、実に、考えさせられるものだった。

トランスジェンダーと、複雑に絡まりあい、実に、百人百様の姿があった。

一つに、男の体のままに、レディボーイを名乗るものである。
ペニスを持った女とでもいう。
彼らには、哲学がある。

一人曰く。
どうしても、女の体には、構わない。だから、自分は、男の体のままに、女になり、男の体のままに、男と愛し合うというものである。
それでは、ゲイに近い感覚であろうと、思うが、ゲイとは、ニュアンスが違う。

セックスは、フェラチオ、アナルセックスであり、相手が、求めれば、レディボーイの方が、男の役割を演じることもある。

そして、もう、一人は、言う。
女の体にして、男と愛し合う。
性転換して、レディボーイになる者である。

それは、人口膣を持ち、よくよく、見定めなければ、男は、解らない。
現に、相手のいるレディボーイが、彼は、全く女と信じて疑わないというのである。
本気で、相手のために、性転換したと、告白しても、信じて貰えず、子供が出来ない体であると、結婚を、相手のために、拒んでも、相手は、結婚を求めるという話も聞いた。

再度言うが、世界が、混沌としているように、人間の性も、混沌としているのである。
それを前提に、性、というものを、考える時代に突入したのである。

例えば、浅草の、ベテランソープ嬢に、聞いた話である。

女遊びも過ぎれば、通常のセックスでは、最早、満足せず、何を求められるかといえば、アナルへの刺激だそうだ。
彼女は、指でも、棒でも、何でもいいから、アナルに、入れてくれと、何度も言われたという。
そうしなければ、勃起しないというのだ。
勿論、ゲイではない。女と、セックスする、男である。

ここ、ここに至った時、人の性は、逸脱するというのか、変容するというのか。そこには、異常というものはない。
あるのは、試みである。

人間の性は、いつからか、試みになってきたのである。

文明の進化と、共に、人間の性の営みが、試みの性になってきたということを、言う。

女好きの、二十代の若者が、酒に酔い、その場の、雰囲気で、男に犯されたという。
そういうことが、多々ある時代である。

少年愛、同性愛、衆道、男色の歴史は、後々触れることにするが、人類の歴史が、書かれる前から、それらの、行為は、大いにあった。

エジプトの、壁画に、男に犯される男の、絵がある。

更に、インドの性愛の歴史を見れば、百花繚乱である。

性について、の、エッセイが、手に余る程、広がり行くのである。

もののあわれについて282

すこし立ち出でつつ見わたし給へば、高き所にて、ここかしこ僧房ども、あらはに見おろさるる。ただこのつづらをりのしもに、同じ小柴なれど、うるはしうしわたして、きよげなる屋、廊などつづけて、木立いとよしあるは、君「なに人の住むにか」と問ひ給へば、御ともなる人、「これなむ、なにがし僧都の、このふたとせ籠り侍るなる」君「心はづかしき人住むなる所にこそあなれ。あやしうもあまりやつしけるかな。聞きもこそすれ」など宣ふ。

すこし外に出て、庵室の前を、歩きながら、その辺りを御覧になる。
高い場所なので、あちこちの寺が、いくつも、隠れることなく、見える。
九十九折の下に、他と同じ小柴垣根であるが、見事に作られている。
小奇麗な、家や廊などを建て続けて、植木も、趣がある。
君は、誰の住む家かと、お付の者に問う。
お供は、これは、あの、何々僧都が、ここ二年、お籠もりしている、寺です。
君は、気詰まりな、人の住んでいる所だ。我ながら、粗末な恰好で、来たものである。私が来たと、知れたら、困るな、と仰る。


心はづかしき人
気の置ける人。
こちらが、恥ずかしくなるような、人である。

あやしうも あまり やつしけるかな
自分の姿が、余りにも、粗末である。

僧都とは、僧正に次ぐ、位の僧である。

きよげなるわらはなど、あまた出で来て、あか奉り花をりなどするも、あらはに見ゆ。共人「かしこに女こそありけれ。僧都はよもさやうにはすえ給はじを、いかなる人ならむ」とくちぐちに言ふ。おりてのぞくもあり。共人「をかしげなる女こども、わかき人、わらはべなむ見ゆる」と言ふ。


美しい童女たちが、出て来て、仏様に、水を差し上げたり、花を折る様子が、よく見える。
「あそこに、女がいる。僧都は、まさか、女を置いているのではないだろうな」と、口々に言う。
降りて、覗く者もいる。
「美しい娘や、若い女房などが、います」と、言う。

あか奉り
仏に供える水。梵語である。
閼伽と、書く。

君はおこなひし給ひつつ、日たくるまままに、いかならむとおぼしたるを、供人「とかう紛らはせ給ひて、おぼしいれぬなむよく侍る」と聞ゆれば、しりへの山に立ち出でて、京のかたを見給ふ。

君は、勤行を行っていたが、熱が出ないかと、気にしていた。
供人が、なにゆえ、お気を紛らわせて、気になさらないことです、と申し上げるので、
庵室の後の山に、登り、京の方を、御覧になる。

はるかに霞みわたりて、よもの梢そこはかとなうけぶりわたれるほど、君「絵にいとよくも似るかな。かかる所に住む人、心に思ひ残すことはあらじかし」と宣へば、供人「これはいとあさく侍り。人の国などに侍る海山のありさまなどを御覧ぜさせて侍らば、いかに御絵いみじうまさらせ給はむ。富士の山、なにがしのたけ」など語り聞ゆるもあり。また西国のおもしろき浦々、磯のうへを言ひ続くるもありて、よろづに紛らはし聞ゆ。

遥かに、霞がかかり、その一帯の、木々の枝の先も、はっきりと、見えないほどである。
けぶり、わたれる
霞に、曇る様である。
君は、絵に描いたようだ。こんな所に、住む人は、この美しさを、堪能しているんだ。
仰ると、供人が、これは、まだ山も浅く、つまり、それ程、高くなく、景色も、平凡ですと、言う。
遠い国などの、海や山の、景色を見ましたら、どんなに、絵が素晴らしく、立派でございましょう。富士の山は、何々の岳は、などと、お話する者もいる。
また、西国の、趣ある、あちらこちらの、海岸の景色を言う者もいて、気を紛らわせるのである。

ここで、面白い表現は、絵になるというのは、風景の美しい様を、絵として、見るということである。
絵に描いたようだと、訳したが、実は、そのものを、絵として、認識しているのである。

絵に描いたような、素晴らしさというのは、実は、変な表現である。
絵は、それを、写しているのであり、そのものではない。
そのものが、絵よりも、勝れているのだが、表現として、絵のように、美しいと、言う。

この、言い方を、よくよく、考えてみると、日本人の表現のさまというものが、理解できるのである。

間接的に、あるものを、褒め称えるという、表現を、日本人は、好むようである。
そのもの、ずばり、は、避けるのである。
何故か。
それを、失礼に当たると、思う。
何故か。

奥床しいのである。
奥床しさとは、存在するものを、一端、突き放して、見る。
それは、所作にも、通じるものであり、特に、奥床しいという場合は、女性の所作に、言われるようになる。

実は、この奥床しさは、芸道に、生きてゆく。
控え目、抑制の効いた、美学である。

抑制の効いた美学は、後に、世阿弥の花伝書について、書くときに、テーマにしたいと、思う。
もののあわれ、というものの、また一つの、心象風景は、奥床しさでもある。

だから、ここの、風景の美しさを、言うのに、素晴らしい、絵、ですという、訳が、正しい。
それ自体を、絵と、見るのである。

描いたものが、絵ではない。
そのものが、絵なのである。

基本的に、西洋の美学では、語り得ないものであることを、知るべきである。

日本の、絵、とは、心の風景を描くものであり、写実ではない、ということを、言う。

2008年10月11日

もののあわれについて283

供人「ちかき所には、播磨の明石の浦こそなほことに侍れ。なにのいたりふかきくまはなけれど、ただ海のおもてを見わたしたるほどなむ、あやしくこと所に似ず、ゆほびかなる所に侍る。かの国のさきの守しぼちの娘かしづきたる家、いといたしかし。大臣の後にて、出でたちもすべかりける人の、世のひがものにて、まじらひもせず、近衛の中将をすてて申し賜はれりけるつかさなれど、かの国の人にも少しあなづられて、「なにのめいぼくにてか、またみやこにも帰らむ」と言ひて、かしらもおろし侍りにけるを、すこし奥まりたる山ずみもせで、さる海づらに出で居たる、ひがひがしきやうなれど、げにかの国のうちに、さも人の籠り居ぬべき所々はありながら、深き里は人ばなれ心すごく、わかき妻子の思ひわびぬべきにより、かつは心をやれるすまひになむ侍る。

長くなるが、当時の、様子が、よく解る。
また、人の噂話などの、面白さがある。

訳す。
供人は、近い所では、播磨の明石という浦が、なんと申しましても、格別でございます。
別に、趣が深いという所でも、ございませんが、ただ、海を、見渡した風景は、妙に他の場所と違い、ゆったりとしている様子です。
あの国で、前の長官をして、近頃、出家しました者が、娘を、非常に大事にしている家が、とても、大したものです。
大臣の子孫で、出世するはずだっのですが、随分と、変わり者で、人付き合いもせずに、自ら、臨んだはずの、近衛の中将の身分を捨てて、その国の者にも、少し軽く見られていますが、「なんの面目があって、都などに帰るか」と、剃髪しましたが、世捨て人らしく、山に住むこともなく、海の前に暮らしているのは、間違っているようですが・・・
それは、あの国の中には、出家者の、籠居に適した所は、いくらでもありますが、山奥の片田舎は、家人も、恐ろしく感じられて、若い妻子が、辛いと思い、また、一つには、自分の気晴らしにもした、生活なのでしょう。

さいつごろまかりくだりて侍りしついでに、ありさま見給へに寄り侍りしかば、京にてこそ所えぬやうなりけれ、そこら遥かに、いかめしう占めてつくれるさま、さは言へど、国のつかさにてしおきける事なれば、残りのよはひゆたかにふべき心がまへも、二なくしたりけり。のちの世のつとめも、いとよくして、なかなか法師まさりしたる人になむ侍りける」と申せば、君「さて、その娘は」と問ひ給ふ。


せんだって、下向した際に、様子を見るため、立ち寄ってみましたら、京でこそ、不遇のようでしたが、あたり一帯を占めて、いかめしく邸宅を構えて、なんと申しても、国の長官でしたから、余生を安楽に送れる準備もしてあり、極楽往生を願う、勤行も、立派にいたして、出家してから、かえって、より立派になったようでございます。と、申す。
君は、して、その娘は、と、問い掛ける。

供人「けしうはあらず、かたち心ばせなど侍るなり。代々の国のつかさなど、用意ことにして、さる心ばへ見すなれど、さらにうけひかず。「我が身のかくたづらに沈めるだらあるを、この人ひとりにこそあれ、思ふさま異なり。もし我におくれて、その心ざし遂げず、この思ひおきつる宿世たがはば、海に入りね」と、常に遺言し侍るなる」と聞ゆれば、君もをかしと聞き給ふ。人々、「海竜王の后になるべきいつきむすめななり。心だかさ苦しや」とて笑ふ。

供人は、器量も、気立ても、悪くないようです。
代々の、国守などが、格別の心遣いをして、求婚の意志をもたらすのですが、入道は、全然、承知しません。
自分が、このように、受領などに、零落したのさえ、残念なのに、子供は、娘一人だけ。特に思うところがある。もし、わしに、死に遅れて、望みが果たせないならば、われの考えていた運が外れたら、海に入って死ね、と、いつも、遺言しているそうです。と、申し上げる。
君は、面白い話と、聞くのである。
供人たちは、海の竜王の后にでもなる、箱入り娘なのだろうう。
気位の高いこと、恐れ入ると、笑うのである。

かく言ふは播磨の守の子の、蔵人より今年かうぶり得たるなりけり。供人「いと好きたる者になれば、かの入道の遺言破りつべき心はあらむかし。さてたたずみ寄るならむ」と言ひあへり。供人「いで、さ言ふとも、田舎びたらむ」と言ひあへり。


そのように、言うのは、今の播磨の守の子であり、蔵人から、今年、五位下に叙せられた者である。
供人は、大変な道楽者であるから、その入道の遺言を、破ってしまう、気はあるのだろう。
それで、その辺を、うろつくのだろう。
と、言い合う。

供人「いで、さ言ふとも、田舎びたらむ。幼くよりさる所に生ひいでて、古めいたる親のみに従ひたらむは」「母こそゆえあるべけれ。よき若人、わらはなど、都のやむごとなき所々より、類にふれて尋ねとりて、まばゆくこそもてなすなれ。なさけなき人なりてゆかば、さて心安くてしも、え置きたらじをや」など言ふもあり。

供人は、そんなことを、言っても、娘は、田舎じみでいるのだろう。小さな時から、そんな所に育って、古臭い親に、育てられたんだから。
母親の方は、由緒ある人らしい。相当な、女房や、女の童など、都の、邸宅からかき集めて連れ出したという。眩しいほどに、飾りたてているようだ。
国守に、酷い者がなって、赴任したら、そんなに、いい気になって、家には、置いておけないだろう。
などと、言い合う。


なさけなき人なりて
これは、娘が、田舎ものになってしまうとか、母親が、都の生活を、忘れてしまうという、意味にある。
情け無き人、とは、趣の無い人。風情の無い人と、考えてもいい。

当時の噂話である。
今の時代と、変わらない。

君「何心ありて、海の底まで深う思ひ入るらむ。底のみるめもものむつかしう」など宣ひて、ただならずおぼしたり。かやうにても、なべてならず、もてひがみたる事好み給ふ御心なれば、御耳とどまらむをや、と見奉る。


君は、どんなつもりで、海に飛び込めだのと、思いつめたのだろうか。
大袈裟すぎて、人は、なんと聞いたのか、と仰る。
ただならずおぼしたり
心が動くのである。興味が、湧いたのである。
このような、話でも、意外な事が好きな性質ゆえに、お耳に、止まるのである。と、供人たちは、想像する。

ベトナムへ

今回の旅を、書き始めるに当たって、非常に良い問題提起を、受けた。

それは、バンコクに出た、5日の日曜日、チェンマイから、慧燈財団の小西さんが、わざわざやって来られて、色々と、お話を聞いた中にあった。

チェンマイで、日本のボランティア団体、NPO関係、そして、地元の、ボランティア団体の人々が、集い、ディスカッションをしたという。
その時、タイ側の人から、こんなことを、日本側の人々が、質問されたという。

日本人の、ボランティア団体の、主旨は、何ですか。
欧米のボランティアの人々の、目的は、キリスト教の布教であると、解りますが、日本の人の、目的が、解らない。
日本国内でも、助けを、必要としている人がいるでしょう。それなのに、何故、タイに来て、ボランティア活動をしているのですか。
そこには、どんな目的があるのですか。
タイを、何か別の目的で、支配したいのかと、考えてしまいます。と、言ったという。

日本国内でも、何にもやらない者が、それに似たような、海外ボランティアをする前に、日本国内の、助けを必要としている人のために、云々という人がいる。

これについて、論じていると、終わらないエッセイになるので、ある程度の、結論的、見解を書く。

ボランティアをするのに、どこの場所などに、拘る必要はない。
国内で、する人もあれば、海外でする人もいる。
それは、どちらでも、いい。

その人の、体質や、性格などによるものだと、思われる。

国内で、しないで、海外でするとは、云々という言う者、それでは、何をしているのかといえば、何もしてないのである。
こういうのは、言葉遊びの何物でもない。

一つ、私の例を、上げると、衣服支援をしているが、それは、すべて、一度着たものである。
一度、人の手を通した衣服を貰うということに、抵抗ある、日本人は、多い。
中には、貧しくても、人様の着たものなど、着られないという人もいるだろう。そして、プライドがある。
幼児、子供の場合も、その親が、受け取るとは、限らないのである。

更にである。
私の、衣服支援は、実に、支援は、困難であり、至難であると言う。
どんなに、貧しいといわれる人にも、生きる尊厳のブライドというものがある。

投げ捨てるようにして、支援をすれば、受け取るどころか、怨みに、変わるだろう。

私は、日本から、衣服を持ってきました。
もし、必要であれば、差し上げたいと思います。
と、必ず言う。

更に、ある年齢の人々には、中学生、高校生程度の人には、いずれ、日本は、あなたたちに、助けてもらうことがあります。そのために、友達になりたいと、思います。
よろしければ、必要なものを、差し上げます。

ラオスで、支援した、スタッフは、一度、二三枚の、衣服を、持参して、村人のところに行き、このようなものを、持ってきましたが、必要ですかと、尋ねて、支援している。

差し上げることは、至難の業なのである。

更にである。
私は、対面での、支援をしている。
一人一人との、語り合いである。
観念の、語り合いではない。

世界の平和について、いくら、語り合っても、平和は、訪れない。しかし、そうして、世界の平和について、語り続ける、アホが、多い。

さて、もう一つ、実に、ゆゆしき、問題がある。
法人として、活動しているように、見せかけて、実は、単なる、金集めである。
それらは、現地の人の見抜かれている、はずである。
しかし、日本では、見抜けない。

タイで、優雅に、暮らすために、ボランティアに似たことを、行い、日本での支援金を、集めるという、面々である。

つまり、それは、商売なのである。
そのように、ある、団体もある。

組織が大きくなれば、なるほど、使途不明金が、多くなる。

結論は、私は、私個人による、支援をするということである。
NPOなどの、法人にしない。
責任も、私一人に、帰結する。

ちなみに、私は、日本国内でも、支援活動をすることにした。
沖縄は、ホームレス天国である。
温かいからだ。
それでは、沖縄には、テラの会の、根幹である、戦争犠牲者の追悼慰霊を、するために、出掛けるので、そこで、衣服支援をするというものである。

私の、活動の根幹は、あくまでも、戦争犠牲者の追悼慰霊である。
日本人だけではない。
日本が、攻撃したり、また、日本軍のために、働いた人々の、追悼慰霊である。

この、追悼慰霊がなければ、私の支援活動も無い。
意味を成さない。
追悼慰霊と、いう、目に見えない行為を、支援という一つの、目に見える形にしたのである。

そして、衣服とは、現在只今、日本では、フリーマーケットや、リサイクルバザーでも、衣服の大半は、売れずに、処理するために、金がかかると、聞いている。
この、豊かな日本では、良質の衣類が、捨てられている。

私も、衣類の捨てる日に、少しばかり、近所を歩いてみた。
すると、そこに、捨てられた物は、すべて、着られるものである。
驚いた。
衣服も、使い捨てなのかと、思えた。

それを、拾い、洗濯をして、干してみると、新しいものと、変わらないのである。

また、今回、ベトナムの人と、お近づきになれた、多くの縫ぐるみは、すべて、私が、拾ったものである。

ゴミ袋に、一つ分である。
何の、問題もないものだった。
その、一つ一つを、点検して、私が、袋に詰めたのである。

貧乏人の、私が、志して、支援をするのは、捨てられる物なのである。
それを、貰って頂くのである。

支援は、至難の業であり、支援は、実に困難な行為なのである。

もし、日本人に、拾った物を、上げたら、何と言われるか。

日本には、物に、心が宿るという、考え方がある。
私は、一度捨てられた物に、心を込めて、差し上げる、という、行為を、アジアの国で、行っているのである。

そこには、何故、日本で、云々という、議論の次元ではないという、こと。

私の、活動は、実に、多岐に渡るテーマを、見いだす。

追悼慰霊から、支援に、至り、更に、それぞれの国の、福祉政策の在り方を、見るもの。
日本が、立派な福祉国家であることが、解る。
勿論、上を見れば、キリが無い。

さて、もう一つは、トランスジェンダーの問題である。
この頃、NHKが、それらの問題を、多く取り上げるようになったという。
その、真意はよく解らないが、今の日本は、テレビの全体主義が、闊歩しているから、一応は、良い事だと、言っておく。

タイの、歓楽地パタヤでは、トランスジェンダーによる、トランスジェンダーのための、福祉施設がある。
公的機関ではなく、アメリカと、タイの有志による、寄付によって、行われている。
今回は、そこで、長い時間、多くの情報を得たのである。

更に、ゲイによる、ゲイのための、施設もある。
次は、そこに、行く計画である。

明治維新は、多くの国の有様を、見聞したことにより、開国と、大政奉還という、大事業を行った。
外の国を、見なければ、我が国の有様を、判断するには、足りないのである。

後進国には、日本では失われた良き文化を見る。
それを、保護しつつ、新しい時代や、世紀に生きる、生き方を、模索する、人々がいる。

私は、それを、30円から、50円程度で、食事が出来る、屋台で食べつつ、考えている。

そんな場所に、そんな安いゲストハウスがあったの。
その辺りに、立つ、売春婦や、体を売る、レディーボーイに、尋ねると、親切に、教えてくれる。

巷の情報は、彼女たち、彼らに、適わない。

バンコク、スクンビットの一角の、中小路で、一人の女性から、日本語で、声を掛けられた。
傍に、座る、物乞いのおばさんがいる。
この、おばさんは、可愛そうな人、20バーツ上げてください。

どうして、日本語ができるの。
学校で、習ったの。
あなたは、何をしているの。
会社が、潰れて、今は、悪いことをしているの。

悪いこととは、売春である。
私は、食べるためにすることで、悪いことは、一つも無いと言った。
そうした出会いが、私の活動の根幹である。

ベトナムへの、長い旅がはじまる。

2008年10月12日

ベトナムへ2

1954年から、1975年の十年間の、ベトナムでの、死者数は、米軍が、58000名強、ベトナム側は、300万人である。

名高いベトナム戦争の、犠牲者である。

アメリカ人が、一人死ぬと、ベトナム人が、50人死ぬのである。しかし、ベトナム人の犠牲者は、民間人も含むので、更に多いはずである。

ベトナム戦争の大義は、ドミノ理論であった。
つまり、南ベトナムが、共産主義の手に落ちると、タイ、インドネシア、フィリピン、日本などの、アジア諸国が、ドミノゲームのように、次々に倒される危険がある、というものである。

1954年、ディエンビエンフーで、フランスが大敗して、北が勝利した時、アメリカ政府は、アメリカ在住カトリック教徒の、ゴー・ディン・ジエムを担ぎ出し、北緯17度線を、軍事境界線として、ベトナム共和国を急遽設立し、ジエムを大統領に据えた。

そして、南と、北を、ジュネーブ協定で、分離を認めさせたのである。

それはまた、北の、急進を好まない、中国の考えとも、一致した。

一方、ホーチミンは、この戦争を、植民地から、ベトナム民族を解放する、民族解放の戦いと、意味づけた。

さて、この、ホーチミンとは、今のホーチミン市のことである。
つまり、人の名を冠して、名づけられた町である。
昔は、サイゴンと、言った。
サイゴン陥落とは、ベトナム戦争終結の言葉とされた。

私は、ホーチミンに出掛けた。
現在のベトナムを、理解する上で、ホーチミンについてを、語ることが、必至である。

ホーチミンは、1890年5月19日に、ゲアン省ナムダン県キムリエン社、つまり、キムリエン村で、生まれた。
本名は、グエン・シン・クンである。

父は、グエン・シン・サックといい、彼は、第三子である。
父のサックは、村で寺子屋の先生をしつつ、勉強を続けて、1901年に、科挙に合格する。
科挙とは、官使東洋試験である。

だが、サックは、フランスが祖国を植民地にしたことを、憤慨する、愛国者であった。
それゆえ、フランス保護の下にある、官使の生活に馴染むことが出来ず、結果、アルコール依存症が原因で、トラブルを起こし、失職する。

クンは、父親の窮状を助けるために、フランスに渡り、定期航路の雑用係りに就いて、ベトナムと、フランスを往復しつつ、父親に仕送りを続けた。

そして、父の愛国の精神を受け継ぎ、フランスにて、祖国の独立を要求する、運動に参加するようになる。

1919年、ベルサイユ講和会議にて、アメリカの、ウッドロー・ウイルソン大統領に直訴しようと、ベトナム人の祖国解放のための八項目要求、という請願書を作成した。
その時、ベトナムの代表として、ホーチミンが使用した名前が、グエン・アイ・クォックというもの。クォックとは、愛国者という意味である。

グエンという苗字は、ベトナムで、一番多い、苗字であり、ベトナム人の愛国者ということで、たちまち、ベトナムの人々の間に、知れ渡った。

そして、政治的活動をしているうちに、左化、左傾してゆくのである。
更に、フランス社会党の創設メンバーとなるが、フランス人の、植民地の惨状に対する理解の無さに、憤ることになる。
その時、レーニンの、植民地問題に関する理解ある論文を読み、急速に、共産主義に、親近感を抱くようになる。

更に、フランス共産党の創設に参加するということになり、その後、コミンテルンのメンバーとして、モスクワに移住するのである。

それから、ベトナム解放のために、本部を説得して、活動の中心を、中国に移すことになる。

ここで、問題は、民族解放を求める、愛国の精神が、それを、理解するという共産主義というものに、曳かれたのであり、共産主義に曳かれたのではないということである。
ここのところを、理解しないと、ホーチミンの主義を、理解出来ない。
共産主義が、主ではない。
民族解放という、愛国精神が、主体なのである。

色々な、研究家が、ホーチミンの思想について語るが、私は、ここのところで、明確にしておきたいと、思う。

方法の問題である。
主義の問題ではない。

自主独立、自主統治である。
それは、後でも語るが、ベトナムの今後の、民主化のために、必要なことである。
現政権である、ベトナム共産党の、共産共和国ではなく、民主共和国にならなければ、発展は無いのである。

1941年、ホーチミンは、30年ぶりに、祖国に戻り、祖国解放のために、指導力を発揮する。

1945年8月から9月にかけての、権力の真空の間に、一気に、独立を勝ち取るのである。

9月2日に、ベトナム民主共和国の独立を、一方的に宣言し、初代国家主席に就いた。

翌年、46年から始まった、第一次インドシナ戦争を指揮する。
54年、先に書いた通り、フランスに致命的な敗北を与えて、戦争に勝利する。

だが、大国が指導権を握る、ジュネーブ会議にて、北緯17度線を軍事境界線とされ、ホーチミンも、従わざるを得なかったのである。

その、カラクリは、東西冷戦が始まり、ベトナムも、その最前線の一つとなっていたからである。

そして、間も無く、ベトナム戦争が勃発する。
ホーチミンは、70歳を超えていたが、軍事問題では、最高指導者として、国民を鼓舞し続けた。

1969年9月2日に、亡くなった。

一旦、ホーチミンについては、置いて、おく。その思想については、実に謎に包まれているのである。


初めての、共産国に入国するという気持ちは、何とも言えないものだった。
事前に、ホーチミンには、公安や、私服警察などが、至るところにいて、見張りをしていると、聞いていた。
更に、路上では、喧嘩などしては、公安に捕まるということも。
また、観光客のための、警察も、緑の制服で、至る所にいるのである。

私が感じたのは、タクシーなどを頼む時も、私服警官のように人に頼むと、ボラれないで済むというものだった。
その人が、警官が否かは、確認できないが・・・

観光客のための、というより、それも、観光客を見張るというものと、考えて良いと思う。

道端で、一人の幼児を抱えて、宝くじを売る、女性に、縫ぐるみを差し上げた時、歩いていた一人の男が、俺にも、と言い、近づいてきたと、すると、至る所から、人が駆けつけて、縫ぐるみを下さいと言う。
その時、矢張り、人が集うので、公安、警察の人が、近づいて来たと、スタッフが言う。

すべての、縫いぐるみが無くなり、人も去って、安堵したが、集会が、禁止されているとのこと。
着物姿の日本人が、人を集めて、何をしているのか、ということになるのである。

ちなみに、最も、貧しい人は、宝くじや、ガム、ティッシュを売り歩く。
日本では、道端で、配られるティッシュである。

一度、私は、夜の食事をしてい時、物売りが、しつこくて、大声を上げて、怒った。
すると、あたり一面が、静まり返った。
皆、私を注目した。
これは、ヤバイと思った。

騒然とした雰囲気は、他の国では、見られないものだった。
私の、怒りまくりは、共産国では、ご法度である。

元々、声が大きい私だが、ホーチミンでは、怒るのを、抑えると、決めた。

2008年10月13日

ベトナムへ3

成田から、ベトナム航空に乗り、ホーチミンに到着したのが、現地時間で、午後二時半である。
日本時間では、午後12時半。
二時間、早い。タイと、同じである。

バンコクに向かう人が、このベトナム航空を使う。

私は、ホーチミン三泊の予定である。

速やかに、入国審査を終えて、ベトナム、ホーチミンに出た。
ベトナム空港の前から、タクシーに乗る。

荷物を持って出ると、必ず、タクシー、タクシーと、近寄って来る者あり。
ハウマッチ。
15ドル。

ちょっと、待って、と、向こうにいる、お姉さんのいる、タクシー乗り場に行く。
ハウマッチ。
8ドル。

何で、15ドルと、8ドルなの・・・
勿論、8ドルの方に乗る。

ベトナムでは、ドルと、ベトナムのドンが、両方使えるのである。
これがまた、私の頭を、こんがらかせるのである。
一ドル、15000ドンである。
つまり、日本円の百円が、約一万五千ドンなのである。

これで、私は、老化防止をする。

タクシーに乗り、知った風に、行き先を告げる。
初めての、場所である。
一泊、22ドルの部屋のある、ホテルの名を告げる。

22ドルは、約2200円である。
そのホテルは、無かった。というより、名が変わっていた。
ある、旅行雑誌に、出ていたホテルである。
しかし、何とか、そのホテルであるということで、探し当てた。

兎に角、二人で、泊まるダブルベッドの部屋が、空いていた。

東南アジアの国は、一部屋の料金である。
一人につきの、料金ではない。
一つの部屋についての、料金である。

日本の、ビジネスホテルの、シングルルームの広さの部屋だった。しかし、設備は、整っていた。
綺麗な部屋である。

しかし、後の、二泊は、他のホテルにしようと、思った。
もっと、安いホテルがあると。
その付近は、多くのホテル、ゲストハウスがある。

夕方の、ホーチミンである。

まず、用意するものは、水。
水を買うために、荷物を置いて、外に出る。
ホテルの前に、コンビ二がある。

ベトナム、ドンでの、買い物である。
空港で、一万円をドンに替えた。
約、150万ドン。

水は、五千ドンから、一万ドンまである。
一番安い、五千ドンの水を、二本買う。
そして、周囲の状況を見るのである。

コーヒーを飲むために、一件の店に入る。
ベトナムは、コーヒーの国であると、知ることになる。
ブラックコーヒー。
驚いた。
出てきたコーヒーの、味は、抹茶のようなもの。コーヒーのエキスのようなものである。
初めて、コーヒーのそのままを、味わった。
コーヒー本来の、甘さである。

非常に濃い。その濃い加減が、コーヒー本来の、甘さを引き出している。

私は、お湯を、貰った。お湯で、割るのである。
到底、飲めないのである。
濃すぎる。

ベトナムは、コーヒーの産地で、有名である。

茶の湯を、やっていたので、茶本来の味というものを、知っていたことが、幸いした。
苦味にある、甘味である。
そして、その、香り。
ベトナムでは、それが、当たり前のコーヒーなのである。

支払いの時、二人分で、三万ドン。約、200円である。

支払いの後で、私は、いつも、ドルに換算し、そして、日本円に換算した。ボケない、頭の体操である。

さて、ベトナムで、最初に食べたのが、フォーである。
米の麺による、スープ麺。
薄味で、実に美味しく感じた。
何も、味付けをせずに食べて、私は、十分だった。

最初は、レストランのような店で、食べたが、それからは、屋台、路上で店を出している所で、食べた。
一万ドン程度、つまり、75セント、約75円である。

朝の食事は、フランスパンと、玉子焼きで、二人で、八千ドン。
二人で、百円もしない、朝食である。

フランスパンは、どこにでも売っていた。
フランスの植民地時代に、ベトナムの食生活が、大きく影響を受けたのである。
一本の長さが、日本で売られているものより、半分である。
もう少し食べたいと、思う量だ。

泊まったホテルは、9月23日公園の近くで、有名なベンタイン市場にも、歩いて10分の場所で、ホーチミンの中心部である。
旅行誌では、フアングーラオ通り付近となる。

そこは、ホテルや、ゲストハウスが、混在している。
三泊の予定だったので、翌日からは、もっと、安いホテルを探し、二泊することにした。

ただ、小路を歩いて、とんでもない場所にも、ホテルがあることを、知った。
庶民の、買い物通りのような場所に、突然、ホテルがあるというもの。

細い路地に、所狭しと、肉や野菜、生活必需品が、売られていた。
観光客は、決して行かない小路を、私と、スタッフは、歩いた。

勿論、着物を着ているから、日本人と、すぐに解る。
ベトナム人は、笑わないと、知った。
特に、戦争体験者の世代は、ニコリともしない。
その、彼らに、微笑みをもたらしたものが、縫ぐるみであったという、驚き。

同じ路を通ると、私に手を上げたり、微笑む人が、現れた。
インターネットカェフに入ると、お姉さんが、何と、私の持ってきた、縫ぐるみを、二つ持ち上げて、私を歓迎した。
小さな、二つの縫ぐるみを、私の知らないうちに、持っていた。

一変に、無くなった時、彼女も、手を出していたのだろう。

それから、物売りのおばさんたちが、また、親切にしてくれるのである。

ホーチミンの人は、何かあると、必ず、二三人が、寄って来るようになった。
言葉は、解らないが、色々と説明してくれるのである。

ベトナムには、二度と行きたくないという人もいる。その気持ちも、解る。笑わないベトナム人は、怖いのである。
しかし、それも、打ち解けると、変わる。
ただし、二三日の旅では、それ以上を知ることはない。
だが、人間である。
タクシー運転手が言う。
良い人もいる。悪い人もいる。
どこも、同じである。

縫ぐるみと、衣服を街中で、配ったことで、次に行く時は、私を知る人がいるというのが、楽しみである。

ある小路の前で、衣服の大きなバッグを持った私に、やーというように、声を掛けて、案内する、屋台のおばさんがいた。
案内した先は、小路の中にある、小さなホテルである。
私が、ホテルを探していると、思ったようだ。
そんな、親切は、考えられないという、ベトナム人である。だが、矢張り、人情は、健全にある。

私の活動を見ていた、屋台のおばさんたちは、実に親切にしてくれた。

ベトナムへ4

私は、ホテルの部屋で、ゆっくりと、眠れるタイプである。
よく、人には、不思議がられるが、ホテルでは、何も無いからである。
電話も無い。今は、携帯があるが・・・海外では、無用である。
本も読まない、書くことも無い。要するに、眠ることしかない、空間になるのだ。

ゆっくり寝るためには、ホテルが一番であると言うことは、旅寝が良いということである。

最初の日は、夜九時に寝た。
ただ、いつもより早いため、深夜二時頃に目が覚めて、しょうがなく、缶ビールを飲んだ。
それから、また、寝て、朝五時過ぎに、目覚める。

ホーチミンの朝は、早く、五時過ぎから、人が動き出している。
朝の屋台の、準備である。
そして、お客は、六時を過ぎると、やってくるという。

七時頃に行くと、すでに、混雑している状態である。

まず私は、ホテル並びの、レストランに入り、コーヒーを注文した。
濃いコーヒーをお湯で割り、砂糖を入れず、ブラックで、味わいを楽しむ。しかし、慣れていないせいか、胃に負担が大きい。

屋台の朝食は、明日からにしようと、そこで、サンドイッチを頼む。
屋台の値段に比べると、五倍程、高いのである。

ある程度のレストランだと、英語が出来るウエイトレスがいる。
そこで、少しばかり、色々なことを尋ねた。

日本から、少し衣服を持ってきている。必要な人はいるかと、尋ねると、沢山いると言う。
どの辺りに持って行けばいいかと、また、尋く。
地図で、私たちの泊まるホテルから近い、大きな通りの辺りを指し、ここに沢山の人が住んでいて、衣服の必要な人は、いるという。

こんな、街中でも、と、思った。
もっと、郊外になるのではないかと、思えたが、違った。
本当は、車をチャーターして、町を抜けて、村村に、行くつもりだったが、ホーチミンの街中で、衣服を渡せるとは、と、ウーンと、考えた。

しかし、街中を歩けば、貧しい人こそ、街中にいて、暮らしていると、知る。

町を抜けて、村に向かえば、ほとんどは、農業をしている人々である。
後で、ベトナムの、経済政策について書くが、農業に従事する人々は、今、大変な状況にある。

兎も角、それでは、ホーチミンの街中を歩いてみることにした。

その前に、チェックアウトが、正午なので、二泊するホテルを、探すべく、付近を歩くことにした。

ホテルの状態を知りたいということもあり、手当たり次第に、アタックした。
そして、それぞれの部屋を見せて貰う。

ホテル料金は、すべて、ドルである。
20ドル前後が、相場である。
30ドルも出すと、高級感がある。
つまり、三千円程度で、良い部屋に泊まれるのである。
ただし、高級ホテルは、200ドルを平気で、超える。二万円である。まあ、日本では、普通の料金である。

私には、興味の無いホテルである。

別に、貧乏旅行を、気取る訳ではないが、安くて、良いホテル、ゲストハウスに泊まるということが、楽しいのである。
高級ホテルにはない、現地の人との、交流がある。
それは、追々書いてゆく。

一時間以上も、回ってみた。それも、一丁角である。
随分とホテルがある。

その中で、一泊、15ドルの部屋があるという、ホテルに着いた。
早速、部屋を見せてもらうが、その前に、受付の女の子が、一人用ですと、言った。
一人用なら駄目かと、二人で話していると、女の子が、一人用でも、二人で、泊まれますと、言う。

変な話であるが、日本のように、一人一泊、幾らではない。部屋、一つについて、幾らなのである。
だから、三人で、泊まっても、15ドルなのである。

さて、私たちは、部屋に案内された。
ところが、一階から、二階、そして、三階と上がるが、階段が長いのである。
えー、まだ、上るの。

その部屋は、四階にあった。
ホテルは、五階建てである。

私は、息を切らせていた。

広くて良い部屋である。
古いが、設備も整っている。つまり、ホットシャワーであり、エアコンもあり。
大きな、ベッドが、どんと、置いてある。
天井が高く、一面窓で、開放感に溢れる。

天井が高いということは、階段が長いということ。
いちいち、あの、長い階段を上るということになる。
しかし、15ドルは、安い。

いい、いい、とは、言いつつ、スタッフが、私に、大丈夫と、尋く。
階段のことである。
エレベーターが無いということが、致命的である。
しかし、もし、若ければ・・・勿論、私も若いが、即決まりである。

フロントに、戻り、後で来ると言って、一度、ホテルに戻ることにする。

その間に、二件のホテルを見たが、矢張り、四階のホテルの部屋が、一番安い。

面白いのは、日本人だと知ると、まず、一番高い部屋を紹介される。
それで、決まりだと、相手が、思いこむ。
金持ちに見られるのである。

22ドルの、小奇麗なホテルの部屋に戻り、さて、どうすると、二人で、相談する。
問題は、ただ、階段である。
ただ、それだけでである。
それなら、問題はないということになった。
最後の私の、答えは、運動になる、という結論である。

二泊で、30ドルは、安い。
三千円である。
あの、ホテルに決めた。

早速、荷造りをして、チェックアウトの準備である。

支援物資を運んで、あの四階を上るというのが、難だったが、閃いた。フロントに、支援の衣服の二つのバッグを、預けるのだ。
ああ、これは良いアイディアだった。

最初のホテルに、泊まり続けると、余計に、12ドルかかる。その金額は、それからの、すべての食費分である。

私は、荷物を持って、意気揚々と、次のホテルに向かった。
歩いて、五分もかからない、場所である。

ホテル探しのお蔭で、その辺りの地図が頭に入った。

午前十一時前でも、部屋が空いていれば、チェックイン出来るのである。

中小路を、見下ろせる、大きな窓から、辺りの風景を、眺めて、満足した。
バスタオル二枚のみの、シンプルな備品。
歯ブラシも、二本セットがあった。シャンプー、リンスの、使いきりのもの、それぞれ、一つ。
これで、十分である。

昔、私は、日本で言うところの、高級ホテルに、泊まった経験は多いが、何故か、今の方が楽しいのである。
何故か。
根っからの貧乏好きなのであろうと、思う。
それで、今は、イメージが貧乏なので、貧乏なのである。
だが、それを、楽しめるというのは、傲慢であることを、知っている。
ホーチミンの人に、私は貧乏ですなど言えば、軽蔑されるだろう。

貧乏人が、ベトナムになど、来れるものではない。
意識を認識し、それを判断するということは、実に、難しいものである。

2008年10月14日

神仏は妄想である。159

「立正安国論」にみられる日蓮の抱いた疑惑そのものは必ずしも新しいとは言えない。・・・
そこに古代風の「鎮護国家」にむすびついた一種の「神国思想」がみられる。また内乱を通しての犠牲者と、そこに生ずる無常観は当時の誰しも抱いたところである。或いはなぜ天災地異がくりかえされるのか。鎌倉の大地震や、疫病飢餓の発生を深く憂えているが、これも当然のことだ。内乱と天災と疫病と、歴史とは恐怖の歴史だとい実感に立っていることは、いずれの出家にも共通している。
亀井勝一郎


文応元年、1260年、日蓮、39歳の時、北条時頼に、立正安国論を、提出している。

その中で、驚くべき日蓮の、稚拙さは、誤った神仏を拝むからであるという、ことだ。
国家が、題目を選択して、皆、題目を唱えれば、国家安泰であるという、実に、飛躍した、病ともいえる、提言である。

日蓮は、歴史を、お勉強する暇が、なかったといえる。

正しい教えこそ、国を救うという、鎮護国家と、国家が、奨励する、正しい教えを言う。
それは、国会戒壇である。つまり、国の戒壇を法華経に置けということである。

この、無茶苦茶な、言論に、果たして冷静に、対処できるだろうか。
様々な問題を抱えて、日夜、様々な方法を指示しなけばいけない、為政者が、真っ当に、受け入れることが、出来るだろうか。

空海と、比べると、非常に、稚拙で、劣る行為である。
空海は、決して、そのような方法ではなく、既成事実として、着々と行為した。
天皇の目の前に、寺を建てる。
私には、これだけの、力がありますと、内外に、広告宣伝するという、やり方である。

どちらが、大人か、一目瞭然である。

さて、私が、思うに、何故、念仏宗、特に法然を攻撃し、更に、道元禅を、攻撃したかである。

浄土宗は、釈迦の分身の阿弥陀仏を有縁の仏と思ひて、教主を捨てたり。禅宗は、下賎の者、一分の徳有て父母を下ぐるがごとし。仏をさげ、経を下す。これ皆本尊に迷へり。
日蓮 開目抄

モンゴルが襲来した時、真言宗、その他の、祈祷が全く無意味であると主張した。
ただ、法華経によってのみ、国難を救うことが出来るというのである。

日蓮は日本国の棟梁なり。予を失うは日本国の柱を倒すなり。只今に自界反逆難とて、どうしうちして、侘国侵逼難とて、この国の人々他国に撃ち殺さるるのみならず、多くいけどりにせられるべし。建長寺、寿福寺、極楽寺、大仏、長楽寺等の一切の念仏者、禅僧が寺搭をば焼きはらひて、彼らが頸を由比の浜にて切らずば、日本国はほろぶべし。
日蓮 撰時抄

このような、言葉を見れば、躁病的誇大妄想と、いえる。


まさに狂信独善の人という以外にないが、ただここで見のがしえない一事がある。それは実際に頸を切られそうになったり、流刑に処せられたのは日蓮自身であり、彼を迫害したもののなかに、徒党を組む念仏者が多かったということである。狂信独善の人のようにみえる背後に、実は日蓮の信仰の秘密がある。
亀井勝一郎


法華経の信仰は、何によって、身証されるかという、問題である。
それは、受難を、もたらすものでなければならなかったという、秘密である。

法華経に書かれる言葉は、法華経を広めるには、難が降りかかるという、実に、驚くべき詭弁がある。

迫害に耐えることによって、法華経の真実が、現れるという、信仰である。
別の言い方をすれば、マゾである。

日蓮は、躁病的誇大妄想の、自作自演を演じたということである。

今になってみれば、この、日蓮の無作法、病的行為を、皆々、やや肯定し、意志の人などと、持ち上げているが、生業である。

亀井勝一郎も
すべての信仰のめざしている「無私」を、彼も決して忘れなかった。
と、言うが、違う。

本当に、そうならば、日本国のために、勝手に、祈り、その安泰を願うはずである。
我、日本国の棟梁なりと、言うならば、何故、黙々と、日本国のために、祈らないのか。

俺を、認めろ。俺を、認めろと、言うのである。

私は、戦争犠牲者の追悼慰霊行為を、行っているが、そこでは、多くの人、淡々として、出来ることを、している人が大勢いることが、解った。
彼らは、世に訴えるより先に、行為行動している。
現地の人との、触れ合いで、日本兵が、お世話になったことを、身を持って、行為し、感謝している。
私は、それを、見る、聞く度に、明るい気持ちになる。
世に主張せずに、淡々として行為する者、その者こそ、日本国のために、行為しているのであると、観るのである。

日蓮は、何をしたのか。
何一つ、実績あるものを、為していない。
飢餓にある人々を、救ったのか。
死者を葬ったのか。

あの時代、黙々と、死者を、弔った無名の僧たちがいる。
そこから、葬儀が、僧侶に手になるという、事実がある。

私は、日蓮という、誇大妄想の、宗教家より、無名の、僧たちの、悲しみを、釈迦仏陀の、教えを、実行する者として、受け入れている。

様々な、問題を抱えた、為政者に対して、更なる混乱を、巻き起こし、自作自演で、迫害されたり、流されたりして、故に、日蓮の、仏法は、正しいなどと、ほざく様、だだ、見苦しいのである。

日蓮の言い方で、日蓮を評すれば、彼は、インド魔界の、バラモンの神々の系列を汲むモノが、指導して、日本を、混乱させるために、送られた者であると、言う。

日本には、あのような、破壊的な人物は、生まれない。
新しい時代を、切り開くために、織田信長という、破壊者を、生んだが、全く、それとは、意を異にする。

織田信長が現れなければ、日本の歴史は、実に遅れたであろう。
近代を、拓いたのである。
そして、役目を終えると、50を前に、死んだ。

神仏は妄想である。160

「専修」せんじゆ という言葉は、念仏にむすびついてのみ語られるが、唯一の信以外のすべてを、雑修余行として斥けるという意味に解すれば、鎌倉仏教の祖師たちはすべて「専修」である。たとえば比叡山風の八宗兼学とか、密教と浄土教をともに学ぶとか、そういう態度から脱却した。
亀井勝一郎は、日本人の精神史に、そう書く。

そういう態度から、脱却して、選択仏教、専修を選んだ。
その訳は、衆生を救うためである。
その、傲慢極まりない、救済意識は、如何ともし難いのである。

更に、悪いのは、私は、救われない者だという、罪悪感溢れる、自己顕示の意識である。
それを、信仰の深さと、解釈、解説したのは、誰か。
皆々、教団から、金を得る者である。

救われ難き身であるから、弥陀の本願があるという、手前勝手な、思索を、深いと、理解した、自称知識人たちである。

さて、亀井は、その後に、こう続ける。

西行は密教の行者であり、浄土教の信者であり、法華経の持者であり、神ながらへの畏敬者であった。雑修の苦悩の涯まで歩いて行って、ついに唯一の信に達し得なかったことを私はさきに語った。結局は文学が障りとなったのではなかろうか。
と、言う。

これは、逆である。
文学が、救いになったのである。

唯一の信とは、何か。
そりは、唯一の拘りであり、実に、偏狭極まりないという、信仰態度である。
あの、一神教という、非寛容、実に、排他的な信仰になるのである。

しかしひきつづく乱世は、祖師たちに、ひとえに「捨てる」ことを迫った。同時にすべての改革能力とは、ただ「専修」にのみ発すると言ってよい。法然の場合をみても、そのために様々の紛争が起こり、同門からの意義異端も出たが、「専修」という態度がいかに強烈な変革力であったかを示すものであろう。信仰の厳密化による純化が根本になければ、末法の錯乱を生き抜くことは出来なかったのだ。
亀井勝一郎

上記は、評価のし過ぎである。
彼らは、そのようにしか、生きられなかったのである。

信仰の厳密化による純化など、ある訳が無い。
単なる、拘りである。
そして、それは、妄想である。

阿弥陀仏とは、創作想像の、モノである。
更に、末法などいう考え方は、釈迦仏陀が、教えたものではない。
ちなみに言うが、その後に、弥勒菩薩という、魔界の、仏が、この世を救うという、お話も、お話であり、仏陀は、そんなことを、一言も、言わないのである。


いずれの信仰においても、それは「自我」意識から出たものではないということだ。日蓮の場合は、法華経自体の生命を「強情」に表現したたけである。「私」の非寛容というものではない。法然や親鸞の態度は実に寛容にみえる。他の信仰に対してことさら非難せず、また非難をうけても、謙虚な受動的態度をとったが、しかし唯一の信仰に徹しようとしたかぎり、そこには他の信仰へのきびしい拒絶がある。親鸞にあっては、その拒絶は沈黙のうちになされる。
亀井勝一郎

ちなみに、亀井氏は、親鸞への、帰依を申し出ている。
それにより、彼らを理解しようとする、気持ちは、良く解る。しかし、評価のし過ぎである。

専修とは、自我意識であり、まさしく、私の、意識である。

亀井氏は、さらに
この場合もむろん「私」のはからいであってはならない。寛容、非寛容ともに、各個人の精神として語るべきではなく、「専修」の場合の自己放下の「行」心として語らなければならないものであり、根本は仏心に発する。
と、言う。

この、根本である、仏心というものは、妄想である。

この、法然、親鸞、日蓮に、共通するのは、仏法の破壊者といわれたことである。
既成仏教から、破壊者と言われる理由は、実に多い。それだけ、革新的だったとも言える。

彼らの、功績は、信仰というものを、一般的に、広めたことである。
いや、仏教というものを、大衆化したことである。
お上が崇めていた、仏というもの、それを、大衆に提供したのである。
それにしては、随分と、大掛かりである。

兎に角、乱世を、末法の世と、考えて、危機意識を持って、世の中に対したということは、意義がある。

ただし、それらは、皆、考えようなのである。

彼らの、名は、今でも、残っているが、彼らより、世の中に尽くした者たちがいる。
僧という名で、活動した者である。

その一人、忍性にんしょう、という僧は、日蓮に、雨乞いの祈りで、徹底的に攻撃された僧である。

忍性は、その師匠の叡尊の、福祉事業を、更に進めて、非人の救済と、教化に尽くし、更に、らい病者の救済に当たった。
87歳で没するまで、189箇所に橋を架け、道を作ること71箇所である。
井戸も、33箇所掘り、浴室、病院、非人所と、設けた。

その行為は、行基や、空海によって、行われたが、次第に衰微していった。

このような、事業は、国家的であり、貴族、将軍などの、財政的援助がなければ、出来ないことである。
伽藍仏教も、そういう意味では、力があった。
忍性は、鎌倉幕府と、密接な関係もあり、常住していたというから、支援を受けて、福祉事業を為すことが、出来たのであろう。

しかし、今は、名も知れない僧である。

日蓮と、霊験を競ったというが、真偽は、解らない。
ただ、日蓮により、徹底的に、攻撃されている。
つまり、権力の側にいる者という意識が、日蓮をそうさせたのであろう。
忍性の行為は、外見のものであり、信仰に、基づくものではないという、日蓮の判定なのであろうが、それでは、日蓮は、何をしたのか。

戦うために、雨乞いの祈りをするが、福祉事業などには、目もくれない。
兎に角、権力者に、我を、我を、と売り込みである。

忍性のような、僧は、多くいた。
ただ、歴史に書かれないからである。

何故、法然や親鸞、日蓮が、歴史に書かれるのか。
それは、騒いだからである。
騒いだ者ほど、書かれるのである。

既成仏教に、物申すことなく、黙々として、目の前の、社会に奉仕した、名も無き僧たちを、忘れてはならない。
つまり、彼らこそ、鎌倉仏教の底辺にいた者たちである。
そして、それが事実である。

彼らは、念仏により、救われるだの、題目が、仏の云々という、騒ぎを起こすことなく、今、出来ることを、したのである。

今、出来ることを、する、人々によって、歴史は、作られる。

鎌倉仏教の、祖師たちは、名は残したが、残念ながら、一時期のものであった。
それは、彼らの、時代性にある、時代性妄想だったからである。

また、そこからしか、求めようがなかったとも、言える。

知らないものは、無いものであるから、仏教経典にしか、求めるべきものは無いのである。
その中での、料理であり、特別なものではない。

だが、文学に貢献したことは、実に大きい。

亀井氏の、総括は、以下である。
ただ信仰とはそもそも何か。その最も純粋で徹したすがたが、鎌倉仏教の祖師たちによってはっきりと示された。日本の全仏教史だけではなく、精神史全体からみても、空前あるいは絶後と言っていいほどの精神的大事件だったのである。

そして今、私は、日本仏教史の、空前絶後といってよい、神仏は妄想である、を、書く。
日本が、大乗仏教を受け入れて実践しているのだろうか。
全く、亜流である。
チベット密教により、多きな影響を受けた、天台密、真言密という、密教の、瑣末な、仏教という、偽の仏教を、大乗と、言うだけである。

彼らの、仏教は、作られた妄想の、仏教という、御伽噺である。
事実の、釈迦仏陀の、教えとは、遥かに遠いだけではなく、別物である。
次元が違う。

日本仏教は、商売であり、宗教などというものではない。

いずれ、このことについては、徹底的に書く。

2008年10月16日

ベトナムへ5

安くて、快適な、少し階段がしんどいホテルに、落ち着いた。

何度も、階段の上がり降りをしていると、次第に、慣れてきたが、普段あまり、歩くことの無い生活を、痛感した。
しかし、私は、運動やスポーツは、しない。絶対に、しない。
あれ程、体に悪いものは、無いからである。

普通の生活をしていれば、人間の体は、自然に、健康体になるようになっている。
要するに、何事も、適度にしていれば、いいのだ。
食べ過ぎ、呑み過ぎ、やり過ぎが、一番悪いのである。

その反対の、節制というものも、度を越すと、体に悪い。

そんなことは、普通に考えていれば、解ることである。
更に、生きていることが、一番健康に悪い。
死ねば、すべて解決する。

二年続けて、胃痙攣のような痛みに、襲われた。
三年目に、検査をして、胃潰瘍であると診断され、更に、胃カメラを飲んで、検査をすると、ピロリ菌によるものとのことで、ピロリ菌除去の薬と、一年程、薬を飲み続けて、完治した。
しかし、私は、ガンであることを、望んだ。
ガン保険を掛けていて、ガンと、診断されると、大金が、貰えるのである。

楽しみにして、行きつけの病院に行くと、先生が、胃潰瘍と、十二指腸潰瘍と言うので、がっくり、した。

今なら、初期の胃ガンならば、一週間ほどの入院で済む。
それに、保険会社に、怨みがあり、何とか、大金を取ってやろうと思っていたのである。

この話は、旅日記に関係ないので、以下省略する。

さて、その部屋から、何度も出掛けた。
食事をするため、水を買うため、インターネットをするため、そして、衣服の支援をするためである。

縫ぐるみの話は、書いたので、衣服支援の話である。
大半を、道端で、差し上げることになった。
ホーチミンの街中である。

東京の街中で、衣服支援をするようなものである。
その、大半は、子供を連れて物売りをしている、女性たちであった。

私は、一々、子供服を持っています、必要ですかと、尋ねて、必要だといわれると、バッグを、開いて、その子に合うサイズの服を探した。
それを、周囲の人も見ている。
そして、私たちを、微笑みつつ、見ている。

ベトナムの人は、笑わないと、言った。本当に、彼らを、笑わせるのは、至難の業である。
しかし、子供服を差し上げていると、皆、私たちに、微笑むのである。

さて、少し難しい話になるが、ベトナム経済について、書く。

1986年に、ベトナム共産党は、ドイモイという、刷新政策を採用した。
中国の、改革・開放路線から、八年後のことである。

その同じ年、ソ連では、情報公開と、ペレストロイカ、刷新政策を掲げた。

ベトナム共産党は、従来の社会主義の政策では、時代に適応せずに、機能不全を起こしていると、自覚していたのである。
特に、改革派のリーダーたちが、目覚めた。

ベトナムの大きな問題は、ベトナム戦争の後遺症である。
敗者となった、南ベトナムの、サイゴン、現在のホーチミンを中心とする、南部が、勝者である、北の首都であるハノイと、その周辺の、北部より、経済的に発展する条件と、要素が、揃っていたことである。

しかし、敗者が、生成発展し、勝者である、北が、それを追いかけるという図は、政治的に、不可能であった。
そこで、考え出されたのが、南部、中部、北部という、それぞれの地域で、独自の発展を考えるという、戦略を立てることになるのだ。

ところが、ベトナムは、戦争でも、経済でも、多々試練を受ける。
ソ連の崩壊によって、東側の経済支援が、止まった。
故に、財政破綻である。

1986年から、1990年の、インフレ率は、774パーセントである。

国家が管理する経済システムを、計画経済という。
国民の生活が、国によって、丸抱えされる、システムである。
しかし、この制度では、簡単に言うと、皆、同じである。つまり、誰もが、皆、同じ服を着て、同じものを食べて、没個性を生きるしかない。
しかし、果たして、そんな生活が、続くだろうか。
まして、世界の状況が、次第に、明らかになる時代である。

しかし、計画経済から、市場経済に移行するというのは、ただ事ではない。

そのために、必要なインフラの整備などを、考えても、気の遠くなるような、大事である。

ベトナムの最大の問題は、今も、解決されていない。
それは、経済の核である、鉄が作れない、石油の精製が出来ず、原油を輸出して、更にそれを、輸入するという。
そして、通貨主権が確率していないことである。
現在の、ドンも、オーストラリアで、造られている。

最大の問題は、共産党の一党独裁である。

ここで、共産主義の、理想的哲学を云々しても、始まらない。
本当の共産主義によれば、中国や、ソ連とは、違う理想的な、共産主義が、実現するという、アホや、馬鹿の話を、聞いていられる場合ではないのである。

ベトナムを、指揮しているのは、20名ほどの、リーダーであるという。極端な、中央政権である。
それも、旧ソ連で、教育された、爺さんたちであるから、万事休すということになる。
すでに、ソ連は、崩壊して、もう、旧ソ連で、学んだものが、生かせる時代ではない。

余談であるが、共産主義国家とは、汚職天国国家である。

現在の、ベトナムも、ご多分に漏れず、汚職花盛りである。
日本の、ODAによる支援政策で、日本側の代理店が、ベトナムの役人の口利に、大金が、賄賂として動いたという話は、私が、ベトナムに出掛ける前だった。

勿論、汚職は、民主国家にも多いが、共産国家は、半端ではないということである。
中国を上げるまでもないが、金持ちは、共産党の幹部に関係する、親子兄弟、親戚である。

王制廃止しても、それに変わる存在が、共産主義幹部ということで、話にならないのである。

さて、それでは、国民の暮らし、その経済活動は、どのようになっているのか。

これをまた、書くのは、大変なことであるが、それを、知らなければ、ベトナムでの、支援活動の道が、見えないのである。

極貧から、貧しさへと、言われるが、ベトナムの農村などは、また、極貧に近づいているのである。

実は、私がベトナムに興味を、持ったのは、ベトナム戦争ではない。
約、20年前のことである。
日本の、ドックフードの会社が、ベトナムの海岸地方の、小魚を買い漁って、その漁民たちが、それにより、食べ物にも困り、塗炭の生活を強いられていると、聞いた時である。

金にあかせて、日本が、とんでもなく、傲慢に振舞っていた時代のことである。

申し訳ないなー、と思っていた。
だが、その時期は、私も、金儲けに、奔走していた時期である。
一人で、五人前の仕事をして、普通のサラリーマンの十人前の、年収があった時期である。

今は、人に貰って食う生活である。
ホント、人生って、楽しいものである。
今、現在、私の部屋には、人から頂いた米が、50キロある。

2008年10月17日

ベトナムへ6

ホーチミンで、衣服の半分ほどを、差し上げた。
残りの半分は、タイのパタヤで、差し上げたいと思っていた。
縫ぐるみは、ホーチミンで、ほとんど、なくなっていた。ゴミ袋一枚分の、分量だった。
別の、バッグに、少しだけ、残っていたのみ。

ここで、気の重いことを書く。
ホーチミンにて、サイゴン川で、慰霊の儀を、執り行おうと思っていた。
しかし、それさえ、間々ならない気分で、過ごしていた。

町の至る所、空気の違う場所が、多かった。
霊的空間である。

これは、私の妄想である。と、言っておく。
やたらに、疲れて、精神的に、動揺するのである。
これは、単なるものではない。単なるとは、通常の、幽霊が出るというようなものではない、ということである。

結局、慰霊の行為は、行わずに、タイに向かった。
しかし、バンコクからホーチミン、そして、日本に帰国する日、五時間という余計な時間があり、一度、空港を出て、サイゴン川で、慰霊した。
それは、後で、書く。

私は、衣服を街中で、差し上げつつ、あるカトリック教会に出た。
大きな教会である。
あえて、名前は、記さない。

ほとんど、霊の溜まり場となっていた。
重い空気が、教会を覆い尽くしている。
ルルドの聖母の祈りのコーナーも、その隣の、聖母のコーナーも、恐ろしく、空気が重い。
聖母のコーナーとは、聖母に、色々な名称をつけて、奉るのである。
無原罪の聖母とか、ルルドの聖母とか、である。

無原罪とは、聖母マリアには、初めから、原罪がなかったという、教会の、教義である。
聖母信仰は、新しい土地に、キリスト教を根付かせるために、縦横無尽に利用された。
日本では、聖母観音と言われるように、である。

聖堂には、入れなかった。
通常は、カトリック教会の、聖堂の扉は、いつも、24時間開いているものである。
開かれた教会である。
しかし、ホーチミンでは、危険が[危ない]ために、ミサ礼拝の時間以外は、閉じているのだろう。
どうしても、入りたい場合は、司祭館に申し出れば、聖堂に入ることが、出来る。

教会の上空に、多くの霊的存在が、集っていると、感じた。
しかし、私は、一切の霊的所作を行わなかった。
教会の上空を、天国と、思い込んでいるならば、致し方ないのである。

ベトナムには、その他、仏教も、イスラムも、中国寺院もある。
私のホテルの並びには、小乗仏教の寺院があり、毎朝夕、読経していた。
朝は、五時に鐘が鳴る。
その寺院も、自由に入ることは、出来なかった。
いかに、ドロボーさんが、いるかということだ。

また、カオダイ教という、習合宗教もある。不思議な国である。

これでは、慰霊の儀など、到底出来るものではないと、感じたのである。が、矢張り、最後の最後に、執り行った。そして、来る度に、それを、行おうと思ったのである。

ベトナム人の、信仰については、また別の機会に、書くことにする。
私も、まだ、調べつくしていないし、それについて、ベトナムの人と、話をしていない。

ただ、精霊信仰のようなものもあり、非常に不気味な、供え物で、精霊信仰のような行為をしているのを、見た。
鳥の丸焼きに、線香を幾本も立てて、その周囲に、水や、何やかにやと、奉っていた店もある。
ブラジルの、黒魔術のような感覚で、それを、見た。

そして、単に、線香だけを、家の前に、捧げているだけのものも、見た。
タイの、精霊信仰とは、違うものである。
タイの場合は、可愛らしいのである。楽しい感じがするのだが、ベトナムの場合は、少し違う。
重いのである。

また、多く見たのは、中華系の信仰である。
仰々しいのは、開店する店の前に、沢山の茶碗に、水やご飯、鶏肉、豚肉などを置いて、御祭りしているものである。
また、天神というものか、二体ほどの像の両側に、いつも、赤い電燈を点けている。
たまに、タイでも、見掛けるものである。

道端に、線香のみが、数本あるものもある。

自然に、身についた浮遊霊に対する所作であると、思う。
東南アジアは、浮遊霊の、宝庫ともいえる。
それらが、精霊として、扱われるのである。

私が感じたのは、それではない。
塊と、表現するのが、一番合っている。
空気の圧さを感じさせる、塊である。
これは、戦争犠牲者の霊であろうと、思う。

既存の宗教は、それの、清め祓いが、出来ない。
例えば、小乗仏教というか、仏教には、本来、死者のための、慰霊という行為は無い。また、キリスト教も、無いのである。

仏教は、仏になるための教えであり、キリスト教は、天国に入る教えである。

先祖崇敬、慰霊は、皆、民族宗教による。

小乗に支配される国では、人生をそのまま受け入れるという、諦観派である。
今の状態は、前世での、結果であると、考えるから、その現状を受け入れる。そして、布施をすることによって、来世を良くしようとする。
それが、タイでは、タンブンと言い、お寺に、寄進するのである。
貧しい人に布施をするより、まず、お寺に布施する。

ただ、救いは、タイは、福祉政策が無いゆえ、お寺が、それを、する。
少年僧の受け入れは、実に、見事な、福祉である。
寺に入れば、食べて、学べるのである。

ただし、女には、それが無い。
それで、ようやく、人々の懇願で、タイの寺でも、女子部を作るところもあるという。ただし、それは、少年僧の下に位置し、少年僧の予算の、余りで、行うという。

貧しい少女たちは、そこで、食べて、学ぶことが出来る。
しかし、予算が、足りない。
慧燈財団の小西さんが、その施設を視察した。
女の子たちに、何か足りないものがありますかと、尋ねると、バスタオルと、生理用品だと、答えたという。
そこで、小西さんは、160人分のバスタオルを、寄付したという。

ベトナムの、福祉政策は、どうかといえば、無いに、等しい。
これは、また、改めて、書く。

仏教の、供養という行為は、仏、菩薩、そして、生きている貴い人にするものである。
死者に対する、回向というものは、随分と後のことである。
つまり、死者に読経するという形は、仏陀滅後、1500年経てからである。

読経は、すべて、我が身の功徳のためである。
キリスト教の祈りも、神に対する、感謝と賛美である。イスラムも、然り。
道教、儒教も、様々ないみにおいて、現世利益が、主である。

死者に対する、所作は、後々、付けたしのように、行われるようになった。

イエス・キリストは、死者は、死者に任せるがよい、との、名言がある。
それより、神の国と、その義を求めよ、なのである。

確かに、因果応報、自業自得が、事の理であるから、死者の霊も、それに任せられる。だが、である。

それは、認識不足である。

死者の霊の存在の有無を論じるのではない。
在るものなのである。
その証拠が、地場の、磁気である。
宗教施設に出掛けて、具合の悪くなる人は、それを、体で、感じるものである。
霊感など、必要無い。それを、感じる人がいる。

ベトナムへ7

ベトナム共産党の、計画経済の話を書いた。
そして、それを、市場経済に移行するという、試みが、なされた。

ドイモイ、という、刷新経済である。
今までは、国が、丸抱えでやってきた、国民は、非常に戸惑ったはずである。
何せ、お金など、使用することがなかった人々である。

その混乱は、余りある。
1986年12月からの、市場経済の様を、俯瞰してみる。

確かに、ドイモイ政策が、軌道に乗り出すと、ベトナムは、少しつづ、インフレから脱し、市場経済システムが、うまく推移して、ある程度の体制が、整えられた。

1989年に、東西冷戦状態が、終結して、社会主義は、機能しなくなる。
市場経済を導入して、それを成功させるべく、歩むこと以外に道がないことを、知ることになる。

ベトナムは、カンボジアとの、和平の成功もあり、国際社会は、ベトナムに対する、経済制裁を解除して、国際社会への、復帰を促した。
それは、実に、良きことだった。
国際社会から、孤立しては、どうしようもない。
未だに、国際社会から、平気で孤立し、国民を、塗炭の苦しみに、追い込めている、アホな国もある。

勿論、共産主義を、掲げて、全体主義にある、国である。

最も、ベトナムの、経済を変容させたのは、アメリカとの、関係だった。

その前に、1991年に、中越戦争以来断絶していた、中国との国交を正常化している。

ベトナム戦争終結して、20年を経た、1995年7月、長い交渉の末に、アメリカとの、国交正常化が、成立した。
その直後、アメリカの承認を受けて、アセアンに加盟することが、許された。

これにより、国際社会に、完全復帰したのである。
最大のポイントである。

1996年以降は、インフレも、4,9パーセントと、安定する。
年間GDP成長率は、約7パーセント。
一度それが、下がったのは、97年の、タイからはじまった、アジア通貨危機の時である。

そして、21世紀に入ると、成長率7,5パーセントと、堅調な経済成長である。

一人当たりの、平均所得が、二倍以上になるという状況である。
ドイモイ政策の直後は、一人当たりの、GDPが200ドルだったのが、2006年の、20年後は、約600ドルになるという状態である。
20年で、三倍になるというのは、僥倖である。

ただしである。
世界の基準で見ると、年間200ドルというのは、一日50セントであり、一日一ドルという基準を満たしていない、極貧である。
それが、三倍になって、一ドル50セントになったというもので、貧しさは、極貧から、抜け出たということである。

ちなみに、日本の場合は、2006年の、一人当たりは、三万五千ドルである。
五十分の一の、GDPである。

国連開発計画が、毎年発行している、人間開発指数というもので見れば、日本は、大体、十位以内にあり、ベトナムは、2005年で、177カ国の105番目である。

しかし、国民の生活は、確実に、豊かになったといえる。
国民の生活を、ミクロ経済という。
全体経済を、マクロ経済という。
マクロでは、問題があっても、ミクロでは、改善されたと、考えていい。

ただし、である。

ここからが、ベトナムの大きな、問題である。

この、二十年間の経済を、俯瞰すると、発展、成長といっても、実際は、経済の根本を、築いていないというのが、実感である。

ベトナム自体が、新たなる産業を起こし、国際的に通用するような、物を生み出していないのである。
発展成長は、単に、外国政府からの、ODA、そして、国際金融機関の融資、外国企業の、直接投資などによるものであり、外国からの、支援や、投資によって、輸出額が、伸びているだけである。

その間、ベトナムがやったことは、石油、米、コーヒー、海産物、野菜、果物などの、一次産物の輸出だけである。

つまり、ベトナム経済の発展成長とは、幻想なのである。

経済成長著しいベトナムの、云々というのは、嘘なのである。

ベトナムには、実は、一次産物しか無いのである。

原油産出が、年間1200トン以上あっても、自国では、精製出来ず、シンガポールに輸出し、そこで、精製されたものを、輸入しているという、仰天。

そして、大規模な製鉄所が無いために、ほとんどの、鉄鋼製品を輸入しているのである。

産業化出来ないということは、蓋を開ければ、実は、何も無いということと、同じである。

これについては、戦争後遺症を、見なければならない。
実は、ベトナム戦争を、私は、語りたくないのである。
それには、大きな負い目がある。

私自身の問題ではない。
日本の、ベトナム戦争に対する、態度と、平和運動をした者どもの、怠慢やるせない、怒りの思いがあるからである。

例えば、あの頃、ベトナム戦争反対を掲げた世代は、今、何をしているのだろうか。
青春の思い出として、思い出しているとしたら、アホ、馬鹿、間抜け、もう一つ、ついでに、自害して果てろ、である。

平和行進など、誰でも出来る。
サルでも、犬でも、猫でも、出来る。
ベトナム戦争を終結させたのは、誰であろう。
ベトナム人である。

途中で、誰も止められなかった。
そして、それは、日本の太平洋戦争にも、行き着く問題なのである、私には。

最新兵器の、アメリカとの、戦いに、ベトナム人は、着の身着のままで、戦った。
特に、南で戦う民族戦線のベトナム人は、アメリカ軍から略奪したり、闇市の横流しされた武器を使うという、ゲリラ戦を、戦った。

それを、調べて、私は、反吐が出た。

アリと象の戦いと、言われたという。

それでも、ベトナムは、アメリカを大敗させた。
その、ベトナム人の、戦闘的能力は、どこから、くるものなのかと、私は、ベトナムに、ベトナム人に、非常に興味を持ち、更に、畏敬の思いに溢れた。

ベトナム人と、友人になれば、世界に怖いモノ無しであると、思った。

嫌でも、ベトナム戦争を見渡し、そして、日本が、ベトナムと、特に友好関係を結ぶことを、考える。

タイ、ベトナム、ラオス、カンボジア、インドネシア、マレーシアなど、東南アジア、東アジアとの、連携が、日本の存続に関わる、大事なのである。

そこまで、この、ベトナムの旅日記で、書こうと思っている。
ただし、これが最後のベトナムでははない。
最初のベトナムである。

足繁く、ベトナムに通い続ける覚悟があって、こうして、検証して、書くのである。

2008年10月18日

性について14

1976年、シェアー・ハイトが、ミリオンセラー「ハイト・レポート」を出版した。

ハイトは、この本で、女の70パーセントは、通常のセックスにおいて、ほとんど性的満足を得ていないと、書いたのである。

更に、女のオーガズム、つまり、イク感覚は、クリトリス起源であり、膣内おいて、挿入を繰り返す行為は、情緒無視の単細胞行為であると、言うのである。

女の、性器の形状は、クリトリス、尿道口、それらを守るように、大陰唇、その奥に小陰唇がある。
大陰唇を、クリトリスと、勘違いしている、男が多いのが、驚きであった。
ある男が、酒の席で、彼女のクリトリス、すげー伸びるんだと、話していたのを、聞いて、愕然としたことがある。
今は、そんなことは無いと、思うが。

クリトリスの生理的動態について、言う。
男の射精における、単純な快感に比べると、女の快感は、千差万別である。
百人百様の様がある。
更に、その日によっても、違う。

女の、オーガズムを多重型という。
数千年の間、雌から、女へと、進化するにしたがい、多重型オーガズムを獲得していったといえる。

それは、男のような、単純型から、のけぞり、失神、その他諸々、幾通りの、パターンがある。

同じ女でも、心理状態、体調によっても、それは、変化する。

「モアリポート」によっても、女の七割が、果てた振りをすることが、報告された。

まず、オーガズムの脳波を、見る。

脳波は、安らぎの、アルファ波、緊張の、ペータ波、その中間の、シータ波がある。
女の、絶頂のときに出るのが、シータ波である。
瞑想などの時も、このシータ波が出るといわれる。
実は、このシータ波が、何故出るのかということは、まだ、解明されていない。

女の場合、このシータ波というものは、頭部中央の広い範囲に、約20秒間も出る。
男の場合は、範囲が限られて、更に、シータ波を、抑制する働きがあるようである。
これは、原始の感覚が、残っているせいかと、思える。
性交中でも、油断出来ないという意識があるのだろうか。
しかし、現在は、獰猛な動物に襲われることはない。
今なら、旦那のいない時に、ベッドでセックスしていて、旦那が、いつ帰っても、すぐに対処出来るようにと、抑制する程度であろう。

クリトリスは、ペニスと、同じ器官である。
海綿体で、出来ている。
ペニスより、小さなせいで、感覚受容器の密度が、高いから、敏感である。

クリトリスを、中心にして、陰核脚という、ハの字型の脚があり、この、脚は恥骨に付いている。
オーガズムの際に、クリトリスを覆っている、包皮小体が、恥骨に引っ張られ、まわりの包皮が伸びて、クリトリスが、隠れる。
クリトリスは、多少勃起して、引っ込んでしまうのである。

女が興奮して、クリトリスが、勃起し、丸見えになるというのは、誤りである。

女のクリトリスは、通常、陰核包皮に覆われて、隠れている。
約、89パーセントの女が、そうである。
性的に興奮して、膨張し、露出するのである。
そして、オーガズムの時に、引っ込む。

クリトリスの勃起は、ペニスの勃起とは違う。
色々な触覚受容器や、圧の受容器のバチニ小体が、詰まっているので、触れたり、圧迫しりする刺激に、敏感に反応し、充血が起こる。

クリトリスは、仮性包茎のペニスのようなものである。
故に、強い刺激は、逆効果である。

男が、クリトリスに、指や、舌を這わせて、愛撫する時には、極めて、静かに、軽やかでなければ、ならない。

男は、女の体について、良く知らないゆえに、兎に角、強く刺激を与えると、感じると、勘違いする。
ある、相談を受けて、いつも、セックスが痛みで、苦痛だという、若い女がいた。
それは、相手の男の問題であるから、彼を連れてくるように言った。
そして、私は、彼女に、席を外させ、彼に、図に描いて、女性器を説明し、更に、愛撫の仕方を、教えた。

彼は、驚き、恐れた。
何も知らなかったのだ。

特に、クリトリスは、感じると思い、激しい愛撫というより、拷問のような、愛撫を、繰り返していた。
触れるか、触れないか程度の、刺激で、どんなに感じるかを、私は、彼の手のひらで、教えた。
手のひらは、強く刺激すると、何も感じない。更に強くすると、痛みを感じる。しかし、そっと、手のひらに、指を這わせると、少し、くすぐったい快感が起こる。
彼は、それで、クリトリスへの、愛撫を、悟った。
仏の悟りより、それは、実際的だった。

彼は、私に済みませんと、言い、二度と、強い刺激は、与えませんと言って、納得した。

更に、彼は、挿入の時に、どのようにしたら、相手が感じるかと、尋ねてきた。

実は、挿入によって、クリトリスは、刺激されることは、まずないのである。
すると、女は、何を快感とするのか。

膣への、圧迫感が、精神的感受性によって、ある種の快感を得る。
つまり、愛情である。
彼を受け入れているという、女の愛情である。

確かに、挿入の動き、ピストン運動によって、小陰唇に圧力を加えて、その動きが、クリトリスに、加わり、間接的に、刺激を与えて、快感を得ることもある。

そして、これは、奥伝であるが、膣壁の、上にある、Gスポットという場所がある。
指を入れて、確認すると、膣壁の上に、ザラザラとした、部分がある。
そこを、ペニスによって刺激されると、快感を得ると言われる。

膣内は、ほとんど無感覚であるが、そこだけは、感じる。
秘密の場所である。
私は、そこを、突くように、意識して、ペニスを出し入れすることだと、アドバイスした。
少し、反りぎみの、ペニスが、好まれるというのは、そういうことである。

その後、女たちから、彼氏のセックス指導を頼まれたが、断った。
五人前の仕事をしていた時期であり、到底、時間的に、無理だった。

知り合いの若者たちには、セックス本を、買って、良く学ぶようにと、アドバイスするのが、精々だった。

一番、困った相談は、私をイカせた後で、彼が、大人のオモチャで、イクのですという、相談だった。
どうしたらいいでしょう。
私の方が、どうしだんでしょう、である。

つまり、大人のオモチャ常習者で、その感覚でなければ、ペニスが、快感を感じなくなったのである。
ちなみに、大人のオモチャの膣は、本物より、凄い。
締まり、自由自在である。
ああ、と、溜息をつくしかなかった。

性について15

処女膜、ギリシア語では、ハイメン。

処女膜について、本当に知っている、男は、何人いるのだろうか。

散々遊んだ男が、結婚には、処女、乙女を、選ぶという、傲慢である。
更に、浮気は、散々するが、妻の浮気は、許さない。
男というものは、実に勝手なものである。
しかし、これを読むと、きっと、仰天するだろう。

処女膜とは、膣を、部分的に、塞いでいる、粘膜の層である。
その語源は、サンスクリット語の、縫い目という意味である。

ギリシャ語の、ハイメンは、婚姻の神の名でもある。
「すでに夜とはなりぬ。松明の輝きは彼方より揺らぎ、古えの歌、永久に若さ溢るる歌は聞こえたり。ハイメン、ハイメナス」
結婚式に歌われた、ギリシアの歌である。
しかし、実は、処女が、犯された時、神の助けを求めて、叫ぶ結婚の叫び声から、生まれたものである。
つまり、結婚初夜に、新婦が、痛みで、叫ぶのである。

何故、処女膜というものがあるのか。
実は、よく解らない。

ある学者は、未熟な男、弱い男、老いた男との、セックスを避けるためのものだという。
つまり、処女膜という、防御膜を突き破ることが、出来る男だけが、セックスできるというものだ。

基本的には、健康な子孫を残すために、あるものだというのだ。

多くの動物は、何らかの、未熟な、処女膜を持つが、それは、自然に破れる。しかし、人間だけは、妊娠が可能になるまで、体を保護するというのだ。

これは、女が、ある程度まで、成熟しなければ、妊娠してはいけないという、ことである。

実は、この処女膜とは、古代から、様々に、扱われてきた。

処女は、セックスに、血を流す。その、血が、古代人には、恐怖だったという。
故に、夫となる、男との、関係の前に、多く、儀式的に、処女膜を、破るための、行為が、行われる。

凌辱。
その、第一歩は、必ず危険が伴う。
故に、この行為は、宗教的ともいえる、感覚で、行われた事実がある。

例えば、神官や、それに、準じた、名のある人に、任せられた。
あるいは、この危険な行為は、身分の低い人、全くの他人に、任せられた。

それを行うことで、悪魔的ともいえる、処女凌辱の汚染に対処したのである。

ある部族、社会では、指や、原始的道具によって、人工的に処女膜を、破壊する女がいたという。

未来の夫を、守るという意味で、行われた事実がある。
更に、処女には、何の魅力も感じないという、部族もいた。要するに、誰も欲しがらない女は、何かが欠けていると、考えるのだ。

さて、我が国、日本では、どうか。
驚いた。

各地に、処女膜を、破る、儀式があった。

まず、結婚が決まると、ある地域では、この土地の、名士のような人に頼み、処女を、凌辱してもらう。
更に、別の地域では、新郎の、友人の幾人かに、新婦の初夜を、凌辱してもらうというものだ。

そういう、地域では、最初の子は、夫に似ないと言われる。当然である。

古代は、また、処女の持つ、魔術的超能力が、信じられていた。
我が国も、そういう時期や、地域がある。

結婚前に、処女を失えば、部落、部族全体に、その、魔的危機に陥ると、信じられた。

原始人は、ある特定の場合、種族の存続に関わるような場合、セックスを抑制することによって、願いが、叶うと、信じたようだ。

処女を大切にするという、考え方は、時代を経て、築かれてゆくことになり、最初は、その逆だったのだ。

五千年位前の、時代、つまり、旧約聖書の頃は、処女を、重大に考えていたことは、記述によって解る。
申命記によると、花婿を騙して、処女だと偽っていたことが、露見すると、花嫁は、石打の刑で、殺された。

また、逆に、花嫁が、処女であるのに、処女ではないと、非難した婿は、罰金を科せられ、離婚することが、出来なかった。
ただし、その頃は、一夫多妻である。

処女が、白い服を、着るというのは、広く、多くの民族に見られる。
私が、タイのカレン族村に、出掛けた時も、処女の女は、幾つになっても、白い民族衣装を着ていた。

そして、結婚によって、それは、着られなくなる。
つまり、白以外のものを、着ていれば、処女ではなく、誰かの妻であるという、印である。
勿論、姦淫は、タブーである。

日本の、ある地域では、明治の後半まで、嫁入りが決まると、母と娘で、処女凌辱を頼むために、村の年配の男の元に、出掛けたという、報告がある。

また、婚礼で、婿を酔わせて、初夜を、村の若者で、奪うことが、当然という、地域もある。
村特有の、結びつきの、行為であると、言われる。

処女を大切に思うあまり、膣の一部を、縫い合わせて、セックスが出来ないようにしたという、部族もある。
陰部封鎖を、性器に適用した部族もいる。
つまり、大陰唇に、リング、針を固定し、性行為が、出来ないようにした。

それとは、別に、割礼をする部族も、起こった。
聖書にある、男の割礼を、女にするというもので、それは、女に性の快楽を、教えないというものである。
実に、女性蔑視である。
それは、今も行われている地域がある。

極めつけは、貞操帯の、登場である。
旧約聖書に、その記述があり、更に、西洋では、12世紀に、それが紹介されて、用いられた。
十字軍の遠征によって、東方から、持ち帰った情報であるとされる。

それを、最初に作ったのは、イタリア人である。
当時のイタリアでは、性の放蕩三昧だった。
色恋沙汰に、明け暮れていた時代である。
そして、それが、西洋全体に広まった。

ところが、そこで、問題が起こった。
ワギナを塞ぐことは、出来ても、アナルを塞ぐことがなかった。
つまり、アナルセックスが、出来るということである。
そこで、遂に、アナルまで、塞ぐ、貞操帯が、出来たという。
女の歴史は、実に、悲しいものである。

貞操帯の呼び名である。
フロレンスの帯である。それが作られ、使用された、地域が解るというもの。
貞操の鍵、鉄の下穿き、ビーナスの帯とも、呼ばれた。

現存している、貞操帯は、1406年、ベネチア人によって、処刑された、残虐な専制君主、フランチェスコ二世の作ったものである。
ベニスのドゥカーレ宮にある、武具コレクションに混じってある。

2008年10月19日

ベトナムへ8

ホーチミンの市内を、歩いて驚くことは、交通状態である。
バイク軍団が、凄まじい。
信号が少なく、道路を、横断するに、決死の覚悟がいる。

バイク軍団と、車の様子を見て、向こう側に渡るのだが、走っている中に、身を置いて、歩くという、危険極まりない、横断である。
しかし、それも、次第に慣れてくると、スリル満点になる。

市民は、慣れているのか、平然として、車とバイクの走る道を横断する。
年寄りは、両手を上げて、渡る人もいる。

そして、ホーチミンの道路は、サーカスを見ているような、状況なのである。
何せ、一台のバイクに、家族全員が乗っていたり、大きな荷物を積んで、奥さんとおぼしき人が、後ろ向きに、その荷物を落とさないように、抱いている、という。

道路に面した、店先で、じっと、その様を見ていても、飽きないのである。

そんな中、シクロという、自転車のタクシーがある。
また、自転車で、手漕ぎのものを、始めて見た。

更に、屋台を横につけて走るバイクもある。
日本の法律では、違反だらけの、状態。

一時間も、歩くと、緊張感で、疲れる。
衣服を担いで、街中を歩き、時々、オープンカフェで、ココナッツジュースを飲んで休む。
浴衣などは、汗だくで、背中に、生地が、ぴったりと、くっついてしまう。

トイレは、タイと同じであるが、時に、驚くべきトイレがあったりする。
普通のホテル、レストランなどは、まだ、ペーパーも用意されているが、そんなものが、一切無いトイレもある。
要するに、大便は、水洗いである。
お蔭で、私は、その必要がなかったが、ペーパーを持参しても、流しては、いけないトイレもある。
手動の水洗トイレである。

泊まっていたホテルも、紙は、流さず、横にある、ゴミ箱に入れるタイプだった。
一度、無意識に、紙を落として、同行の野中に、怒られた。
しかし、尻を拭いた紙を、横の箱に入れるというのは、抵抗がある。

所違えば、常識も違うのである。

屋台のおばさんたちは、実に、親切で、持ち物に関して、よく注意された。
要するに、引っ手繰られるので、持ち物は、体から離してはいけないということ。
カメラなどは、首から下げるように言われる。

屋台で、物を食べている時も、荷物は、手から離さないようにする。
私は、そんなことはなかったが、ベトナム人が、ベトナム人に、引っ手繰られることも、多々あるという。

道路を歩く時は、荷物は、車道の方に持たないなど、色々と、気を使った。
それは、日本も、同じである。
いつ、どんな、不運があるか、解らないのである。

だから、無事であることは、実に、幸せなことである。

さて、ベトナム人は、笑わない。
特に、戦争体験者の年代は、笑わないのである。
いつも、厳しい顔付きをしている。
しかし、仁義というものがある。

こんな体験をした。
靴磨きの、少年が来た。しかし、私は、下駄を履いている。ところが、少年は、中々、去らないのである。
年は、18という。
色々、お互いに、だとだとしい、英語で会話していた。

靴磨きは、二万ドンである。
話をしていると、情が出て、肩を揉むことが出来るかと、尋くと、出来るというので、それじゃあ、肩を揉んでもらうことにした。

暫く、肩を揉んでもらうと、本物の肩マッサージが、やって来て、売り込むのである。
しかし、私は、断った。
少年に、二万ドンを渡そうとした。
二万ドンを出すと、横にいた、マッサージ師が、二万ドンでは、足りない、二十万ドンだと、言うのである。

いかにも、ボッタくりである。
何故、少年の貰う金に、注文をつけるのか。後で知るが、その分け前を貰うのである。

私が、二万ドンで、と少年に言っていると、横にいた、相当年配の男性が、一言、何か言った。すると、マッサージ師は、すごすごと、退散した。

様子では、止めろと、言った雰囲気だ。
ボルなとでも言ったのか。

戦争体験者の年齢である。
泊まっていたホテルの、オーナーも、そうだった。
挨拶しても、決して笑わない。
いつも、苦虫を潰したような、顔付きをしていた。
しかし、不機嫌なのではない。
そのように、なってしまったのだ。

笑えない、人生を送ってきたのである。

ベトナム戦争体験者である。

戦争の後遺症を見渡すと、戦争は、未だに終わっていないというのが、現状である。
アメリカ軍が使用した、枯葉剤の影響は、今も、脈々と続いている。
これについて、書くことは、一冊の本になってしまう程、今も、その被害に苦しむ、多くの人がいる。

日本の原爆症に似る。

それを、見れば、アメリカが、キリスト教の国だとは、到底考えられないのである。
原爆や、枯葉剤を用いることが、出来る国であるということ。
これを、忘れてはならない。

更に、七十代から、九十代の、身寄りの無い高齢者が、30万人いると、言われる。
戦争によって、配偶者、子供たちが、死んでしまったのである。
その高齢者も、戦争犠牲者である。

更に、その人々の政府の対応も、戦争の後遺症があり、南ベトナム政府であった、南ベトナム解放民族戦線であった、北ベトナム側にいたかで、大きく違う。

ベトナム戦争とは、世界の人が認識する言葉であり、ベトナムでは、坑米救国戦争である。
そのもの、ズハリ、アメリカから、国を救う戦争である。

ベトナム戦争の定義は、人により、多少の違いがある。

広く定義する人は、1954年から1975年とする。
フランスが大敗して、ジュネーブ協定により、ベトナムから撤退する1954年を起点とする。

アメリカが、フランスに次いで、戦争を継続したと、考える。
そして、最後のアメリカ人が、サイゴン陥落により、ヘリコプターで、脱出する、1975年4月30日を、終わりとする。

フランスとの、戦いを、第一次インドシナ戦争とし、そして、次のアメリカとの、戦いを、第二次インドシナ戦争とする。その戦争をベトナム戦争という人もいる。

もう一つの、見方は、1960年、アメリカが、軍事顧問団を派遣して、実質的に、戦争への関与を始めた年から、73年とする。

南と北の、内戦の場に、アメリカが、介入してきた時期のみを、ベトナム戦争と定義するものである。

いずれにせよ、63年から、72年までの、10年間、アメリカ軍が、軍事行動を起こしたのである。

アメリカ軍の最大の介入時期は、68年で、その時は、50万人の兵士が、投入された。

そして、アリと象の戦いになる。

戦争は、膨大な数の犠牲者と、国土が荒廃する。
北の民族戦線側が、勝利して、国際社会が、ベトナムと、認定したのである。

しかし、ベトナムの不幸は、続く。

その後の、カンボジアとの、戦いである。

その意味付けは難しい。
ベトナム人は、カンボジアでの、ポル・ポト派による、人民の虐殺を止めるための、ヒューマニズムに基ずく行動であるとの、認識がある。

それは、国境地帯に住むベトナム人の、農民も、巻き込まれて、多数殺された事実もあるからだ。
ポル・ポト派は、何百万という人の命を、奪った。
残虐極まりない、その様である。
共産主義という、名の元に、殺戮の限りを尽くした。

ナチスドイツの、残虐を言うならば、共産主義という、名において、どれ程の、人の命が、無意味に、虐殺されたことか。

だが、国際社会は、ベトナムの行為を、カンボジア侵攻と、認定した。

これは、私の感情論であるが、それならば、あの、悪魔のポル・ポトの行為を、世界は、ただ、黙って見ていたということになる。
もし、時代が違えば、国連主導で、多国籍軍を派遣していたのではないか。

しかし、歴史を見ると、ベトナムは、カンボジア侵攻によって、11年間、国際的孤立を招き、経済は、疲弊した。

「この国際社会という中には、中国の意図と観点が大きく影響している。中国が「ヴェトナムを懲罰する」と称して中越戦争を起こした理由として、カンボジアへのヴェトナム群の進出を「侵攻」と認定しなければならなかった。中越戦争は中国のイニシアティブと米国の承認のもとに、ヴェトナムを叩くための戦争だった。大国の横暴という非難を避けるための自己正当化の理由として、ヴェトナムの行動は断じて「侵攻」でなければならなかった。だが、中国サイドの解釈を許すような傲慢さが、ヴェトナム戦争に勝利した当時のヴェトナム共産党指導部にあったと思う」
と、ヴェトナム新時代の著者、坪井善明さんの記述である。

2008年10月20日

ベトナムへ9

ここで、一度、ベトナムから、離れることにする。

ホーチミンでは、三泊した。その後、私たちは、バンコクに向かった。
ボッタクリのタクシーではない、正規の運賃を支払う、タクシー乗り場が、ホテルの並びにあった。

8ドルが、相場だと知っていたので、前日、予約をして、確認した。
確かに、空港までは、8ドルである。
そこには、運転手ではない、何の役目なのか、必ず、受付の者がいた。特に、事務所がある訳ではない。

もしかしたら、政府関係の、旅行者向け担当の、職員かもしれないと、思った。
その人に、8ドルを支払うと、それで、オッケーである。

バンコクまでは、一時間半の飛行機の旅であるが、出国手続きが必要だ。

私たちは、ホテルを九時過ぎに出た。
丁度、車や、バイクの込み合う時間帯を、空港に向かった。
海外では、兎に角、早め早めに、行動するようにしている。何が起こるか、解らない。

比較的スムーズに車は、進んだ。といっても、大変な道路事情である。
カーレースのような、運転に、感心して、乗っていた。

一時の飛行機であるから、11時までに行けばよい。
しかし、車は、10時前に到着した。

次の時は、路線バスを利用しようと、思っている。何せ、3000ドンである。
15000ドンが、一ドルであるから、25セントということになる。
また、路線バス乗り場も、知ったので、それで空港まで行くことにする。

ホーチミンの、タンソンニャット空港は、こじんまりとしている。日本の地方の、空港のようである。

まだ、登場手続きが始まっていないので、空港内の、唯一の、オープンカフェに入り、コーヒーを頼む。
何と、8ドルである。
とんでもない、料金で、驚いた。

しかし、空港は、どこも値段が高い。
私は、どうどうと、買い置きの、果物などを、取り出して、そこで食べることにした。そうそう、ヨーグルトも、あった。

私の旅の楽しみは、地元のスーパーや、商店で、買い物をすることである。
時に、それらを、すべて食べられないで、日本に持ち帰ることもある。
しかし、それは、違法である。
果物などの、生ものは、持ち込み禁止。

トイレに立ちつつ、ボードを見て、手続き開始を、待つ。
二度目のトイレの時に、手続き開始の、点滅である。

ベトナム航空の、チェックインカウンターに向かう。
混雑していないのが、いい。
待つことなく、スムーズに手続きが進み、そのまま、出国手続きに向かう。

そこで、また、あの、ブーである。
荷物をベルトに乗せて、門をくぐる時に、ブーと鳴る。
面倒だが、着物の袖の物を、すべて出す。
しかし、腹を指摘された。
これは、脂肪だと、言いたかったが、言葉が解らない。

担当の女が、帯を取れと指示する。また、ここで、裸になるのか。
グアムの空港で、パンツ一貫になったことを、思い出した。
ここは、穏便に、穏便にと、静かに、帯を解く。

同行の野中が、ライターを袖に入れるから、ブーと鳴るのだと言う。
最初から、ライターを取り出して、籠に入れるべきだと、言う。
解った、解った。

私の場合は、声が大きいので、相手を威圧するらしいのである。
最初に、大声を出すと、相手は、怯む。
しかし、生来のもの。どうしようもない。
だが、兎に角、穏便を心がける。

驚いたとこは、出発ロビーには、日本人が多い。
皆、ホーチミンを通り、バンコクに向かう人なのである。
そして、韓国人である。

喫煙室に入ると、日本語と、韓国語が、耳に入る。
飛行機に乗り込むまで、一時間半を、私は、喫煙室に出たり入ったりを、繰り返した。

喫煙室というのは、実に、面白いのである。
密室で、多くの人が、タバコを吸う。そして、それぞれの会話である。
聞くともなく、聞いていると、しょうもないことを、話していたりする。

フリーツアーで、旅行している人もいるようで、何となく浮かない顔をしていたりする。
ただ、旅の疲れのみで、旅の楽しみを感じていないようである。
中年のおじさんが、一人旅なのであろう。バンコクの旅行案内を、真剣に見ている。
カップルは、倦怠感に溢れている。
旅の間は、セックス三昧で、それだけで、疲れるのだろう。

韓国人の、おじさんたちは、元気である。
缶ビールを飲みつつ、タバコを吸い、大きな声で、談笑している。

若者の、一人旅の姿を、あまり見なくなった。
それより、三十代の男の姿が、目立つ。
バンコクで、どこの売春宿にするかと、思案している風情である。

日本で出来ない遊びを、思う存分、バンコクで晴らす、そんな雰囲気。
と、それを、想像する私の、想像力も、貧弱である。

だが、証拠は、ある。
後で、バンコクの、スクンビット地区に、行くが、そこで、立つ、売春の女、レディーボーイから話を聞くと。日本のサラリーマンの、お客が多いという。
少しの時間しかない。その少しの時間を、立ちんぼの、女と、また、レディーボーイと、過ごすというのである。

彼女たちは、売春宿より、断然安い。
一時間の、ショートだと、1000バーツである。約、3300円。
二時間で、2000バーツ。約6600円。
女好きでも、レディーボーイを買う日本人が多いと、聞いて、驚く。

レディーボーイ曰く、だって、私たち、男なの体、知り尽くしているのよ。
そりゃあ、そうだ。元は、男である。

さて、いよいよ、飛行機に乗り込む。
客が、意外に少ない。これは、寝られると、思った。

日本と違い、すべてのお客が機内に入ると、出発である。
時間通りではない。
さっさと、飛び立つ。
私は、それが、気に入っている。もたもたするのは、嫌いだ。
はい、全員乗りました。よし、行くぞ。
そして、動き出す。

カンボジアの上を飛んでいる、と、私は、窓から、下の風景を見下ろす。
近いうちに、カンボジアにも行く。
王国であるから、いい。王様のいる国には、親近感が、持てる。

カンボジアは、ポル・ポトによって、知的階級が、皆殺しにされて、一番必要なことは、教育である。
勿論、貧しさは、また、格別であろう。
日本のボランティア団体も、多く活動している。
特に、学校建設である。

一時間半の、飛行時間であるから、忙しい。
お絞りが、出て、飲み物があり、食事である。

オチオチ、寝てられない。
三席に体を、横たえていると、乗務員に起こされる。
飲み物は、何。
えーと、オレンジジュース。
ビールや、ワインもある。
しかし、私は、飛行機の中で、アルコールを、飲みたいとは思わない。

食事が終わり、横になっていると、着陸の準備です、という、アナウンスが流れる。
と、聞える。ベトナム語であるから、解らないが、機体が、激しく揺れるので、下降しているのだろう。

落ちることなく、バンコク、スワナプーム空港に、到着である。

あー、懐かしい。
私は、この空港が、大好きである。
なんか、自分の物のように、思えるのである。ホント、お目出度い。

入国、そして、荷物を受け取り、市内へ出る。

ここからである。
今までの方法を、止めた。
そのまま、外に出ると、タクシー乗り場がある。そこには、決められたタクシー乗車の場所と共に、個別にタクシーを売り込む人たちで、ごった返している。
私は、あえて、そこを避けて、出発ロビーに上がり、そこから、外に出る。

そこには、客を乗せて、到着したタクシーがいる。
そのタクシーを捕まえるのである。
戻りの、客がいるというのは、彼らにとっては、実に得である。
そこでは、こちらの言い分が通る。

空港から、直接、パタヤに向かう。
1500バーツで、交渉した。だいたい、それくらいで、まずまずである。
普通の車で、タクシーではなかった。
安いと、1300バーツでも行く。
何でも、相場というものがある。
あまり、叩いても、気分が悪いことになる。

約4500円である。
パタヤまでは、一時間ほどかかる。
高速道路も含めての値段であるから、納得。

パタヤのことを、説明しつつ、旅を進めてゆく。

ベトナムへ10

パタヤ
バンコクから、高速道路に乗ると、約一時間少しで、着く。
昔、私が出掛けた時は、三時間ほどかかった、記憶がある。
その、昔出掛けた時、それほどの歓楽街とは知らず、ただ、滞在していた、三日間、散歩を楽しんでいた。

その時、日本からのツアー客のおじさんたちが、夕方になると、ホテルロビーに集い、皆で、出掛けていたのは、集団売春に行くためとは、後で知る。

ビーチ沿いに、色鮮やかな電灯をつけて、女たちが、客を呼ぶ姿は、今も変わらない。
そこで、女と交渉して、一夜を買うということも、知らなかった。

ただ私は、タイという国に行ってみたいという気持ちだけで、バンコク、パタヤへの、フリーツアーに、申し込んだ。

今、まさか、こんな活動をするために、パタヤを、訪れるとは、全く知らない。

1960年代、ベトナム戦争に従軍していた、アメリカ兵の、保養地、娯楽地として、拓かれた町である。

今では、日本人のみならず、欧米人にも、人気のアジアを代表するリゾート地としてある。

そして、ゲイ天国、更に、レディーボーイ天国である。
ゲイが遊ぶなら、パタヤである。また、レディーボーイが、普通にいる。

私は、二年前に、ある人の付き合いで、パタヤに来ている。
バンコクと、パタヤで、一週間滞在した。
それが、タイ国王在位、60周年記念式典の日に、バンコクにいた。
天皇陛下と、同じ日程だったと、後で知る。

バンコクのホテルロビーで、その式典を見ていた。
以前の、タイ旅行記にも、書いた記憶がある。

チャオプラヤー川での、式典の様も、丁度通りすがりに見た。
市民は、王様の黄色のシャツを着て、バンコク市内は、黄色で、埋まっていた。

その式典の際、国王は、つねに、天皇陛下の隣で、親しくお話していたという。
国王は、天皇に、特別の思い入れがある。
その一つに、今は、当たり前になった、淡水魚である、鯛に似た魚を、昭和天皇が、国王に贈った。国王は、それを、増やし、川に放流して、それが、今タイの国民の上質な蛋白源になっているという。

バンコクの、スワナプーム空港に、飾られる、その時の記念写真でも、天皇皇后陛下は、前列、国王と、王室の、次に並ぶ。
私も、その前で、写真を撮ってきた。

丁度、その場に、空港の清掃職員たちが、地べたに座り、休んでいた。
私が、写真を撮るのを、見て、皆、微笑んでいた。

良く私が、タイの人に、キングオブ、プーミポン、ジャパニーズ、エンペラー天皇、ベストフレンドと言っている。
変な英語だが、内容は、通じる。

タイに行き、国王の歌が流れると、起立し敬意をはらい、国王のことを、好きだと言うと、必ず、嬉しそうに、ありがとう、と言われる。

バンコク、スクンビットのナナ駅近くの、屋台連合のような、場所で、朝七時頃、コーヒーを飲んでいると、皆、出店の準備で、大忙しである。
そんな時、国王の歌が流れる。
私たちは、起立して、それを、聞いている。

そんな私たちに対して、その屋台の皆は、現地の人と同じように扱う。いや、それ以上に、親切にしてくれる。

色々と、話はあるが、先に進まないので、省略する。

唯一言、軍事力の無い、権威というものが、平和を、もたらす。
それを、私は、ゆるやかな、王制という。
天皇は、その存在の象徴である。日本の象徴だけではない。
無形の権威というものの、象徴である。
その、権威の幻想は、国家幻想として、非常に有効に生かされるものである。

老荘が、言う、道にある、無用の用とは、無形の権威のことである。
私は、そのように、解釈している。

さて、今回、パタヤに行くというのは、遊びたいからだ、と言えば、納得するであろうから、遊びに来たと言う。

一つは、衣服支援であり、一つは、トランスジェンダーの、施設見学と、その、取り組みを知りたいということである。

衣服支援は、ベトナムで、半分程、差し上げた。
残りを、パタヤである。
縫ぐるみは、数点残っていた。別のバッグににも、忍ばせていた。

縫ぐるみは、ビーチで働く人の、子供たちに差し上げた。
一人の子に、上げると、その親が、まだ、あすこにいると、言うので、ビーチに行くと、幼い子が、一人いて、差し出すと、すぐに受け取った。その横に、眠っていた、幼児の横に、一つを置いた。
その親は、手を合わせて、お礼を言う。

パタヤでも、縫ぐるみは、売られている。
キティーちやんも、ドラエモンも、ある。だが、すべて、大型であり、あれは、男が女に、プレゼントして、セックスのきっかけにするようである。

縫ぐるみが、友好の物になるとは、全く考えなかった。
やってみなければ、解らない。
それらは、すべて、私が、ゴミの日に、拾い集めたもので、その一つ一つを、選別して、バッグに押し込んだものである。

勿論、差し上げるものであるから、清め祓いをしてある。

さて、問題である。
15年ほど前、パタヤで、とんでもない事件があった。
五十代になる、日本人の男が、幼児を数名部屋に、連れ込み、性的暴行を行ったというもの。
幼児の、叫び声に、近所の人が駆けつけると、幼児を犯そうとしていたという。
即座に、警察である。
その場で、逮捕された。

貧しい子供たちに、物を上げたり、食べ物を与えたりして、性的行為をする者、多々あり。
児童買春ではない。
幼女、児童暴行である。

まだある。
今度は、女である。
日本では、教師をしていた女が、浜辺で、物売りをしている、少年を、ホテルの部屋に連れ込み、犯したというもの。
女が、少年を犯すというのは、どんなことか、想像するが、勃起させて、自分の膣に入れたのでろあうと、想像する。

パタヤでの、日本人に対する、感情は、最低最悪になった。

売春で、生活を立てている、真っ当な、売春という、仕事がある。
そうではなく、全く、性的対象にならない、幼児、児童を、性的対象にするという、稚拙である。

それが、私の心に、記憶として、沈んでいた。
それが、今回の、衣服支援の主旨である。
つまり、名誉挽回である。

着物を着て、バッグを持って、パタヤを回った。
現地の人に、手渡したかったのである。

最初は、スラムに向かった。
一つ、スタッフが覚えていた、バラック小屋が立つスラムに向かったが、着いてみると、スラムは、見事に、アパートが立ち並んでいたのである。
きっと、政府の指示により、そのように、スラムを変えたのであろう。

住む家が、そのようになると、住む人の気持ちも、変わる。
経済的に、以前と、同じでも、気持ちが違う。

小屋のような、雑貨屋さんの、ベンチで、休み、さて、どうするかと、考えた。
スタッフが、タイ語で、その店のおばさん、あいるは、おばあさんに、子供の衣服があるが、必要ですかと、尋ねた。
すると、おばさんは、必要だと言う。

それでは、と、スタッフが、取り出し始めたが、私は、シャツを三枚だけにした。
これでは、私の主旨が違う。
私は、一人一人に、差し上げたいのであり、支援をしてくれた人にも、手渡しで、差し上げると、言っていると、スタッフに言った。

幾人かの、子供が、お菓子を買いに来た。
そこで、私は、彼らに、シャツを取り出して、日本語で、プレゼントと言って、差し出したが、受け取らない。

アパートに住むようになり、少し意識が変わったのだろう。
しかし、アパートから出て来る、女は、厚化粧して、何の商売をしているかは、解る。
子供たちの、衣服も、決して、粗末なものではない。

私は立ち上がり、戻ることにした。

そこを、抜ける時、一人の男の子がいた。
父と母もいた。
私は、子供用の、ズボンを取り出して、必要でいすかと、母親に尋いた。
母親は、頷く。
私が、それを差し上げると、バイクに跨り、出掛ける前だった、父親が、コープクンカップ、ありかとうと、言う。

物を差し上げるということが、どんなに大変なことか。
くれてやる、のではない、差し上げるのである。

支援は、至難である。
どんなに、貧しくても、生きる尊厳という、プライドがある。

アイアム、ジャパニーズ
私は、差し上げる度に、そう言う。
勿論、着物を着ているから、当然、日本人であることは、解るだろう。しかし、あえて、私は、日本人ですと言う。

2008年10月21日

ベトナムへ11

パタヤでのホテルは、日本から予約していた。
インターネット利用の場合は、割引になるということで、一泊だけを、予約したが、思わぬほどに、格安だった。
一泊、700バーツが、400バーツで、泊まれるのである。
約、1300円である。更に、朝食付である。
それならと、ホテルは、そこに決めて、三泊することにした。

ノース・パタヤと、サウス・パタヤの真ん中辺り、中心の少し奥に入った場所である。
そのまま、西に歩くと、ビーチに出る。
ただし、ビーチには、一度だけ、支援物資を担いで行ったのみ。
物売りが、煩いので、一切行かない。

朝は、ホテルの朝食で、十分で、昼、夜の食事を、近くの、食堂でする。
現地の人の、食堂である。

昼は、麺類を食べた。
好きな麺を指差して、ポークと言えば、豚肉が入り、チキンと言えば、鶏肉が入る。本当は、シーフードにしたいが、庶民の店には、無い。
40バーツ程度である。130円程度。

今回は、屋台の果物を、よく買って食べた。
スイカ、パイナップルが、美味しい。
そして、焼きとうきびと、紫芋の焼き芋である。
果物は、10バーツで、焼き芋などは、20バーツ。

衣服のバッグを持って、汗だくになり、喉が渇いて、路地の屋台に行き、スイカと、パイナップルを、食べた。
両隣に、麺類と、お惣菜の屋台があった。
一人の女の子が、お手伝いで、小さなビニール袋に、タレを入れて、ゴムで縛っていた。

そこで、私が、女の子に合う、可愛い服を取り出して、スタッフに、タイ語で、必要ですかと、言わせた。
すると、傍の母親が、声を上げて、喜んだ。
女の子も、それを、持って笑みを浮かべる。
いい光景である。

スタッフが、この辺りに、子供たちは、いますか。
日本から、子供の服を持ってきて、必要な人に、上げていますと、タイ語で言うと、何と、いるという。
どこに。
ここに。

ここ。
そう、ここ。私の子供は、男の子が、四人いますと言う。
つまり、男の子の物が、欲しいと、いうこと。
そこで、私は、四本のズボンを出した。
大きさは、どうか。
丁度いい。コープクンカー、ありがとう、と、何度も言う。

こんな所で、支援するとは・・・

屋台で、物売りする人は、女性が多い。それで、家計を支える。場合によっては、女手一つで、子供を育てている。

母親は、感謝の気持ちを、言葉では足りないようで、手を差し出してきた。
握手をした。すると、女の子も、手を差し出す。
その前に、手を合わせて、お礼を言うのである。

私は、日本人です、と言うと、両側のおばさんたちも、解る解る、ジャパニーズスタイルと、着物を指す。

暫く、立ち話をした。
果物が、甘いとか、名前の知らない果物の、説明を受けたりと。
その大半は、解らない。タイ語である。

ズボンを差し上げた母親は、私に、スイカをもう一つと、勧めてくれたが、もう大丈夫と、断った。
次も、又来ますと言って、歩き始めた。

気温は、それほど高くないが、物を持って歩くと、汗だくになる。

そこは、サウス・パタヤの方面になり、少し町外れになる。
しかし、その小路を歩くと、バーが多い。
こんな場所に、バーがあるよと、スタッフに言うと、そうだそうだ、この辺りだよ、ゲイタウンはと、言う。
よくよく、看板を見ると、良いボーイの店とか、男の何とかという、看板が多い。

つまり、地元のゲイの集う場所なのである。
ボーイズタウンである。
街中の、ゲイバーではない。つまり、男の子たちを、売る店ではなく、地元のゲイの出会いの場所なのである。
街中には、ゲイ・ショーパブもあり、男の子たちが、パンツ一つで、舞台で踊り、指名を受けるのを待っているバーもある。

私も、一度、そこに飲みに出たいと思っていた場所である。
しかし、結局、夜になると、疲れて、一度も、出かけなかった。

だが、昼間は、男の姿より、女の方が多い。
準備のための、掃除などをしているのだろうか。
中には、食事をしている女もいる。

オープンにしているので、椅子の腰掛けようと思えば、腰掛けられそうである。

しかし、その周辺は、夜になると、テーフルと椅子を出して、本格的ゲイスポットになるようである。

パタヤは、ゲイと、レディボーイのことを知らないと、面白くない町である。

さて、余談だが、パタヤでは、世界のレディボーイ大会が、行われる。
今、マスコミに出ている、はるな愛という、レディボーイは、そこに出て、四位になったが、実は、日本人で、特別賞を取ったレディボーイがいる。

私と同じ、北海道出身で、今は、故郷に帰って、ブログで、色々と書いている。
それは、スタッフが、調べていた。
まだ、レディボーイの存在が、知られていない時期の、快挙を成し遂げた、レディボーイであるとのこと。

その、スタッフが、いよいよ、レディボーイの施設への、侵入を果たすために、苦心惨憺して、レディボーイを演じることになったが、どういう訳か、その気になって、パタヤでは、私と同行する以外は、レディボーイとして、通したのである。

やれば、やれるものである。
勿論、顔立ちなどに、ある程度の要素が必要であるが、元から、色白なので、うまく化けることが出来たのである。

しかし、最初は、放任していたが、一度、その化粧に、私は、つい、アンタ、それなら、レディボーイではなく、吉本になってしまうよと、言った。
レディボーイの前に、お笑いだと、言った。
それは、彼の心を、傷つけたらしく、部屋に戻ってすぐに、顔を洗い、化粧を落とした。

悪かったと、思い、私が、化粧の伝授をした。
実は、私は、北海道にいた頃、テレビに十年ほど出ていて、おおよそ、化粧の仕方を知っていた。

出演する前に、スタイリストから、化粧されるのである。
私は、男用の化粧が嫌で、いつも、女性ベースにしてもらっていた。
男用の化粧は、顔が少し黒っぽくなるのである。

それで、女性ベースの化粧法を、少し知っていた。
また、カウンターテナーの藤岡宣男が、出演前に、化粧をしていたのを、見ているので、自然に覚えたのである。

知っているのに、何で早く教えてくれないと、怒りつつ、彼は、私の言うとおりに、化粧をした。
すると、何と、自然な化粧で、美しい女の子の顔になったのである。
成功である。

私の教訓。
いつも、自然に化粧をするように。そして、肌のために、潤いを忘れないこと。
絶えず、顔を気にすること。
そうして、話していると、センセイ、もしかして、本当は、化粧したいんじゃないの、である。

これで、私が美しくなったら、世の中の人は、どうなるの。
子供、産めないだけで、何でも出来る人になるよ、と、大声で、答えた。

力むことはないのだが、疲れが、出始めていたのである。

スタッフは、自信を取り戻し、翌日、レディボーイの福祉施設に、一人で、出掛けた。
そして、半日、戻って来なかった。

もののあわれについて284

供人「暮れかかりぬれど、おこらせ給はずなりぬるにこそはあめれ。はや帰らせ給ひなむ」とあるを、大徳「御もののけなど加はれるさまにおはしましけるを、こよひはなほ静かに加持などまいりて、出でさせ給へ」と申す。「さもある事」と皆人申す。君もかかる旅寝もならひ給はねば、さすがにをかしくて、君「さらば暁に」と宣ふ。

供人が、暮れかかりました。おおこりにならなくなったようでございます。それでは、お戻りいたしましょうと、言う。
上人は、御物の怪などが、加わっております。今晩は、ここで、静かに加持などされて、明日、お出まし遊ばしませと、言う。
供人も、もっともなことと、言う。
君は、こうした旅寝の経験が無く、何と言っても、興味をそそられて、では、明日の夜明けに、と、仰せになる。

おこらせ 給はずなりぬる
気分転換が、出来た。
具合がよくなったようだ。

暮れかかりましたし、ご気分も、良くなられたようですので、お戻りいたしましょう。
ところが、大徳、僧は、物の怪なども、関わっているようですし、今晩は、静かに、祈られて、云々という。

作者も、源氏という地位と、立場の人間に対する、それぞれの人の心模様を、描いているが、それは、当時の、上に対する態度である。


しかし、私は、紫式部の、描く、風景から、それを、見ようとしている。
日本人の心にあるもの、である。
貴族階級のみに、あるものではない。

源氏に対して、作者も、常に敬語を用いている。
そのような、立場のお方という、設定であるから、当然、敬語という書き方をする。しかし、それは、何も、源氏のみに、いえるのではない。
一般庶民も、その奥床しさ、心の動きに、もののあわれ、というものを、表現していたのである。

身分の低い者を、作者も、分けて書くが、それは、当時の身分の有り様を知るには、参考になる。
しかし、それは、参考になる程度のことである。

貴族社会に、おける、もののあわれ、ならば、源氏物語を、書く必要は無い。
万葉から、流れている、心情と、心象風景が、源氏物語の根底にあるとみて、私は、源氏を、探っているのである。

日もいと永きに、つれづれなれば、夕暮のいたう霞みたるに紛れて、かの小芝垣のもとに立ち出で給ふ。人々は帰し給ひて、惟光ばかり御供にて、のぞき給へば、ただこの西面にしも、持仏すえ奉りて、行ふ尼なりけり。簾少し上げて、花奉るめり。中の柱に寄りいて、脇息のうへに経を置きて、いとなやましげに読み居たる尼君、ただ人と見えず、四十余ばかりにて、いと白うあてに、痩せたれど、つらつきふくらかに、まみのほど、髪の美しげにそがれたる末も、なかなか長きよりもこよなう今めかしき物かな、とあはれに見給ふ。


日も永く、する事もないので、夕方、深く霞みがかかっているのに、紛れて、あの、小柴垣の家に、お出かけなさる。
供人たちは、帰し、惟光だけを、連れて、覗かれると、先ほど見たのは、西向きの座敷に、仏を据えて、勤行する尼だったのだ。
御簾を、少し巻き上げて、花を供えるらしい。
中柱に、寄りかかって、脇息の上に経を置き、ひどく大儀そうに、読経している。
それは、並の人では、なさそうである。
四十過ぎで、色が白く、上品で、痩せてはいるが、顔立ちは、ふっくらして、目元、髪が、見た目にも、綺麗に切り揃えている。その、端も、長いより、かえって、親しみのあるものだと、感心して、御覧になる。

当時の尼は、髪を剃らず、肩の辺りで、切り揃えていた。
それを、表現し
あはれに 見給ふ
心を、動かされたのである。

何につけ、心を、動かされることを、あはれ、という。
形容詞が、動詞や名詞にまで、高まる。
それは、すべて、前後の言葉による。

清げなるおとな二人ばかり、さては童女ぞ出で入り遊ぶ。中に、十ばかりにやあらむと見えて、白き衣、山吹などのなれたる着て、走り来る女ご、あまた見えつる子供に似るべうもあらず、いみじく生ひ先見えて、美しげなるかたちなり。髪は、扇を広げたるやうに、ゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。

綺麗な、女房が二人ほどと、そして、女の童が出たり入ったりして、遊ぶ。
その中に、十くらいの、白い下着に、山吹の重ねの、着慣らしたものを着て、走ってきた、女の子は、大勢の子供たちの中でも、比べ物にならないほどで、今から、成長した後の姿が、思いやられる、可愛らしい器量である。
髪は扇を広げたような、末広がりで、豊かに、ふさふさしていて、顔は泣いて、真っ赤にしている。

山吹などの なれたる着て
山吹色の着物で、袷の着物である。
袷とは、裏地がついている、秋冬物の、着物である。

いみじく 生ひ先見えて
おいさきみえて
成長した後の姿が、想像出来るのである。

それは、他の子供とは、明らかに違う容姿である。

この、女の子が、藤壺に似ているのである。
実は、藤壺の兄の、蛍兵部卿 ほたるひょうぶきょう の、娘である。
母親を早く亡くし、祖母である尼に、引き取られていた。
源氏は、まだ、そのことを、知らない。

物語は、こうして、面白く展開する。

もののあわれについて285

尼君「何事ぞや、童女と腹立ち給へるか」とて、尼君の見上げたるに、すこし覚えたる所あれば、子なめりと見給ふ。女児「雀の子をいぬきが逃がしつる。ふせごのうちに籠めたりつるものを」とて、いと口惜しと思へり。此の居たるおとな「例の、心なしの、かかるわざをして、さいなまるるこそ、いと心づきなけれ。いづかたへか罷りぬる。いとをかしうやうやうなりつるものを。烏などこそ見つくれ」とて立ちて行く。髪ゆるやかにいと長く、めやすき人なめり。少納言の乳母とぞ人言ふめるは、この子の後見なるべし。

尼君は、どうしたのですか。
他の童と、喧嘩でも、しましたかと、言いつつ、尼君の、見上げた顔に、少し似たところがある。源氏は、尼の子供なのだろうと、思われる。
女子は、雀の子を、犬君が、逃がしたと、言う。籠の中に入れていたのにと、残念がるのである。
そこにいた、女房が、あの、心なしの、つまり、アホの、とか、お馬鹿なという意味で、こんなことをして、また、叱られると、困ったものだ。どこへ、行きましたか。とても、可愛くなりましたのに、烏などに見つけられては、大変ですと、言い、立って行く。
髪は、ゆったりとして、長く、器量も悪くない女である。
少納言の乳母と、皆が言うが、この子の、世話役なのだろう。

尼君「いで、あな幼なや。言ふかひなうものし給ふかな。おのがかくけふあすにおぼゆる命をば、何ともおぼしたらで、雀慕ひ給ふほどよ。罪得る事ぞと常に聞ゆるを、心憂く」とて、「こちや」と言へば、ついいたり。つらつきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたる額つき、かんざし、いみじううつくし。ねびゆかむさまゆかしき人かなと目とまり給ふ。さるは、限りなう心をつくし聞ゆる人に、いとよう似奉れるがまもらるるなりけり、と思ふにも、涙ぞ落つる。

尼君は、ああ、なんて幼いこと。しょうがないこと。
私が、今日、明日と、知れない身の程になっているというのに。
雀を追いかけているとは・・・
罪になりますよと、いつも、言うのに。困りますよ。と、言う。
さあ、ここへと、言うと、傍に膝をついた。
顔立ちは、とても、あどけなく、眉の辺りが、朧で、子供らしく、掻き上げた額ぎわや、髪の具合が、大変可愛らしい。
大きくなる姿を見ていたい人だと、源氏の目が止まる。
それは、実は、深い思いで思慕する、あのお方に、とてもよく、似ているので、目が離せない。
と、気づくと、涙が、こぼれるのである。

まもらるるなりけり
いつの間にか、じっと見つめているのである。

その、似ているお方とは、帝、つまり、父の后である。
それを、思い、女童を見て、涙するとは、恋とは、このように、感傷的にさせるものであると、この頃からの、心境である。

恋によって、今まで、気づかなかったものや、事に、思いを馳せるように、なる。

この、恋の心の、様々な動きから、人間は、多くの心模様を知ったと、解釈するのが、大和心である。
そして、もののあわれ、というものの、原型と、考える。

尼君、髪をかき撫でつつ、「けづる事をもうるさがり給へど、をかしの御ぐしや。いとはかなうものし給ふこそ、あはれにうしろめたけれ。かばかりになれば、いとかからぬ人もあるものを。故姫君は、十ばかりにて殿におくれ給ひしほど、いみじう物は思ひ知り給へりしぞかし。唯今おのれ見棄て奉らば、いかに世におはせむとすらむ」とて、いみじく泣くを見給ふも、すずろに悲し。幼なごごちにも、さすがにうちまもりて、伏目になりてうつぶしたるに、こぼれかかりたる髪つやつやとめでたう見ゆ。

尼君は、女の子の髪を、手で撫でながら、言う。
櫛を入れるのを、嫌がるけれど、いい、御髪だこと。他愛無くおいでなのが、気がかりで、たまりませんよ。
これくらいになれば、こんなではない人もいるのです。
亡くなった姫様は、十ばかりで、殿様に、先立たれましたが、その時分でも、ちゃんと、お解りになりましたよ。
今日にも、私が、見捨てたら、どうして、暮らすというのでしょう。と、言いつつ、泣く。
それを見て、源氏も、悲しい気持ちになるのである。
子供心にも、さすがに、悲しい気持ちになり、尼を、じっと、見つめ、伏目になって、うつむくと、顔にかかった、髪が、つやつやとして、見事と、思えるのである。

いとはかなうものし給ふこそ あはれにうしろめたけれ
現代文に、訳すのが、ためらわれる、箇所である。

いと はかなうものし 給ふこそ
あはれに うしろめたけれ
はかないことと、気づかずにいる。それは、大人の世界では、頼りなげに見えるのである。
それが、あはれに、気がかりなのである。

子供が、大人になる、過程で、一つ一つと、何かを棄ててゆく。
成長とは、子供の世界を、捨ててゆく行為なのである。

だが、それは、捨てているようで、しっかりと、心の中に、仕舞っておくということも、出来る。
子供心は、潜在意識に、隠されるのである。

あはれ、とは、子供心への、憧憬の名残とも、いえる。
あの、無心に生きる心への、憧れである。
すべてに、感動した、あの幼い心、こそ、もののあわれ、というものの、原風景であったと、気づくのである。


源氏物語が、すでに、すべての小説、文学を書き込んでしまったという、考え方が出来る。故に、作家は、何度か、源氏物語に、戻るという。
勿論、作家が皆々、源氏物語を、求めるという訳ではないが、ここには、すべてが、書き尽くされたと、感じ取る力が、作家には、必要である。
文学は、永遠であるが、そのテーマは、繰り返されて、時代に合わせて、語られる。
しかし、人間がいる限り、人間のテーマは、変わらない。
変わりようがない。ただ、変容するだけである。

2008年10月22日

ベトナムへ12

レディボーイの、福祉施設に出掛けた、スタッフが、中々戻らないので、六時前に、電話をした。
すると、今戻るところだという。

五時間ほど、その施設で過ごしていたことになる。
その報告が、楽しみだった。
しかし、私は、簡単に書くことにする。
いずれ、彼が、詳しく書くことになると思う。

タイ政府の支援ではなく、アメリカの民間団体と、タイの民間団体が、支援金を出して、レディボーイのための、レディボーイによる、万相談所だった。

どんな相談にも、のってくれるのが、自分と同じ、レディボーイなのである。
医者の診療もあり、ホルモン投与なども行う。

それで得た情報は、何から何まであったという。
生活のことから、噂話まで、

その、活動は、チェンマイまで、広がっているとのこと。
そして、ゲイ関係の施設とも、連携としているようである。
パタヤには、別に、ゲイの福祉施設もある。

何と、スタッフは、会員になり、会員証まで、持ってきた。

すっかり、レディボーイになっていた。
人生とは、実に面白い。
人は行為によって、成りたいものに、なれるのである。

タイでは、レディボーイで、通したら・・・
そうだね、である。

バンコクに出た時も、レディボーイの恰好で、行ったから、楽しい。
ホテルに、入った時は、女と、認識された。

そこで、面白いことが、起こった。
何度か、出入りしていて、彼が、男用になっていた時、二人で、フロントから鍵を渡して貰った。
その時、フロントの女性が、スタッフに、あなたは、どこへ行くのと、声を掛けた。

その、安いゲストハウスのようなホテルは、フロントが、厳しく出入りを、確認している。それが、安心で、私も、そのホテルに泊まるのである。

一緒ですと、スタッフが答えると、フロントの女性は、私に、あの、もう一人の女性はと、尋ねるのである。

えっーーーもう一人の女性・・・

あっ
スタッフが、何と、日本語に訳すと、私は、おかまです。時々、女になったり、男になったりしますと、説明したのである。

唖然とした表情を見て、私は、笑った。
タイでは、当たり前の感覚で、受け入れるが、まさか、日本の、おかまが、という、複雑な表情である。

一件落着したが、後で、あの女性は、食事の時でも、他のスタッフに、ちょっと、泊まっている日本人がさあー、おかまでさー、などと、噂すると、想像した。

ということで、レディボーイの施設侵入は大成功だった。
アジアのトランスジェンダーの問題に、関わるつもりである。

帰国して、数日後に、韓国で、23歳の役者が、テレビで、ゲイであることをカミングアウトすると、すべの仕事が、キャンセルになり、絶望して、自殺したという、ニュースが、入った。
そして、続けて、そのような、自殺が、続いた。

痛ましいことである。
ただ、ゲイであるということでの、差別である。
韓国でも、ゲイは、盛んである。
しかし、根強い差別がある。それは、キリスト教である。
あの、排他的、非寛容の教えである。
これを、書き始めると、止まらなくなるので、別の機会にする。

その夜、初めて、少し高めの、レストランに行き、ステーキを食べることにした。
二人で、1000バーツの食事をした。
勿論、スタッフは、女に化けた。

生きるということは、演じることである。
親を演じ、子を演じ、男を演じ、女を演じ、夫を演じ、妻を演じる。
演じる時は、徹底して、演じることである。
それが、私の教えである。

私の本来は、何も変わらない。
故に、成りたいものに、なればいい。
私は、木村天山を演じている。

ドロボーは、物を盗んで、はじめて、ドロボーになる。
物を盗みたいと考えている時は、ドロボーではない。
行為して、はじめて、ドロボーになるのである。

聖者になりたければ、聖者を演じるとよい。
演じ続けて死ぬと、聖者として、生きたことになる。

成りたいものになれ、とは、私の教えである。

その端的な、生き様が、レディボーイである。
実に、興味がある。

今日の寝る場所を確保し、今日の食べ物を確保するために、人は生きる。辛いときは、夢や理想を思い描いて、脳内物質の、快楽物質を出して、乗り切る。
生きるとは、そういうことである。

そして、その大半は、死ぬまでの、暇潰しなのである。

暇潰しに、命懸けになるほど、面白いことはない。

老死を逃れることは、出来ない。
事実である。
人は、事実のみを、生きる。
真実などは、人の数ほどある。
真実、真理が、一つであるというのは、支配するための、策略である。
宗教を見れば、解る。
主義を見れば、解る。
あれらは、糞でもくらえ、である。

ステーキは、実に、拙かった。
後悔しても、始まらない。
いつも、家では、北海道からの、贈り物である、ステーキを食べているのである。
板を食べているようであった。

コックが出てきて、私を見るので、頷いて、拙いと思念を送るが、コックは、自信を持っている。美味いと、私が言っていると、信じている。
信じる者は、騙される。

1000バーツ、約3300円と、奮発したのにーーーー

帰りは、屋台で、スイカと、パイナップルを買った。
40バーツ、約130円。

あの、固いステーキ肉を、消化するために、体は、どんなにストレスかと、思いつつ、早々に寝ることにした。

明日の一日は、マッサージに賭けることにした。
パタヤは、実は、タイ全国から、マッサージ嬢が集う場所でもある。
下手も、上手も、色気も、タイマッサージのすべてがある。

今回は、最後に、五十過ぎのおばさんに、目の覚める、マッサージのテクニックを見た。
私は、彼女をマッサージの名人と見た。
彼女の胸には、誇り高い、タイマッサージのライセンスの、名札がついていた。

そして、もう一人は、東北部イサーンから出て来たという、23歳のマッサージ嬢である。
その親切と優しさに、私は、心で泣いた。

ベトナムへ13

タイマッサージは、お寺で、資格を出すのが、正式である。
マッサージをはじめる前に、合掌する。
しかし、それが、今は、あまり見られなくなった。
お寺以外でもマッサージスクールが出来たようである。

三ヶ月、毎日、理論から実技まで、みっちりと、学ぶ。そこで、資格を得て、それぞれ、お勤めしたり、自分で店をはじめたりする。

勿論、お金の無い人は、見よう見まねで、する場合もある。

パタヤは、ありとあらゆる、マッサージ嬢がいる。また、ボーイズマッサージもある。
男だけの、マッサージ店である。
男も女も、受けられるが、ゲイに人気がある。

今回は、すべて、新しい店を探して行った。

ホテル近くにも、数え切れないほど、マッサージの店がある。
最初に出掛けた店は、ホテル並びの店。
タイマッサージ一時間、200バーツ、約660円。

四十代のベテランだった。
強さも、まずまず。
基本通りである。特に、タイマッサージは、下半身、脚と、足裏が中心である。
脚を揉み解すと、体液の流れがよくなり、楽になる。

それと、同じ位に、上半身に、力を入れると、いいと、いつも、思っている。
何も話すことなく、黙って、受けた。
上手の部類に入る。

それから、翌日は、足裏、フットマッサージを受けた。
若い人でも、上手である。

ただ、フットマッサージで、効いたのは、ベトナムで、一度だけ受けた、9ドルのフットマッサージだった。
観光客を相手にする店である。

足裏に、棒で、刺激を与えるもので、タイでも、使用する人もいるが、ベトナムの、それは、非常に強い刺激を与える。
つまり、痛いのである。
私は、その治療法を知っているで、痛みが、後で、楽に変わるので、我慢出来たが、はじめての人は、我慢出来ない痛さである。

勿論、彼女は、強さは、いいかと、聞いた。オッケーと、言って、続けてもらった。

腕を揉み、更に、最後に、背中と、肩をやってくれた。
それがまた、強い。
ベトナム人らしい強さである。

驚いたのは、私の肩の、凝りを、肘で、潰そうとしたことである。
全身を掛けて、肩の凝りを取るという。
これには、感心した。

実に満足して、帰国する前にも、ホーチミンに立ち寄るので、時間があれば、また、来ようと思ったほどだ。

さて、パタヤである。

路地にあるマッサージ店の人々は、人懐っこくて、水ば出すし、終わると、丁度昼時で、食事をはじめている嬢もいた。
そこに、座れといわれ、豚の頭を解体して、茹でたものを、一緒に食べろと言う。

戸惑っていると、一つ、一つと、取って、差し出してくれる。
私は、これが、どの部分かと、気になったが、折角の行為と、恐る恐る食べてみた。

一人の、嬢が、非常に臭い魚の、漬物みたいなものを、もち米につけて、差し出した。
とても、臭いが、食べてみると、美味しい。だが、危険である。一度で、止めた。

更に、もち米を、タレにつけて、差し出してくれた。
辛いその、タレは、タイのいつものもの。
もち米を、タレにつけて、それだけで、食事が終わることもある。

随分と親切である。
明日は、タイマッサージをしに来ると、言って、退散した。

そこの、マッサージ嬢も、多く、イサーンから、働きに出て来ていた。
そこで、働いて、郷里の親に、仕送りをしているのである。

翌日の、朝、開店の十時に、スタッフも連れて、行ったが、まだ、店が開いていない。
休みかと、思ったが、休みだとは、言ってなかったと、並びにある、マッサージ店を、見ると、隣が開いている。その隣は、まだ、開いていない。マッサージ店が、三件並んでいるのである。

隣の嬢たちは、皆、店の前で待機していた。
朝の食事をしている嬢もいる。

店の前に立つと、オーナーが、声を掛けてくる。
それじゃあと、いうことで、スタッフは、フットマッサージを受けることになった。
私は、何にするか、考えた。

タバコをふかした。
そして、皆のいる、店先に座り、嬢たちの、様子を見ていた。
雑誌を見ていた嬢の、隣に座ったので、一緒に、その雑誌を見ることになった。
タイ女性の、モデルたちの、写真が出ている。
隣の嬢が、セクシーと言う。私も、頷く。

どこから来たの。
イサーンから。
そう、私も、ウドンターニ、ノンカーイに行った、よ。
私の町は、その下の方にある。
町の名前を聞いたが、知らない町である。

言葉を交わしているうちに、私は、彼女に、オイルマッサージをしてもらうことにした。
一時間、300バーツが、相場だが、路地にあるためか、250バーツである。

スタッフは、すでに、フットマッサージを始めていた。
私は、オイルなので、中のブースに入る。
腰巻一つで、受けるのが、普通だが、それぞれの店のやり方がある。

彼女は、バスタオルを持って、シャワー室に、案内した。
そこで、シャワーを浴びる。
彼女は、外で、待っていた。
そして、ブースに案内される。
カーテンで、仕切られている、ブースに入る。

どうするのか。
伏せて寝るようにいわれた。
その通りにすると、バスタオルを外された。全裸である。

足から、オイルが塗られて、はじまった。
だいたい、オイルマッサージは、気持ちがよくなり、寝てしまう。
だが、私の場合は、相手が、疲れている場合など、それらを、受けるので、逆に、マッサージが終わると、どっと疲れることもある。

オイルマッサージは、危険である。
若く、健康でなければ、やられる方が、具合が悪くなる。
年配の人には、タイマッサージを、オイルマッサージは、若い人にが、いい。

だんだと、気持ちよく、うとうとする。
そして、背中が終わると、仰向けになる。
このまま、なのか。
この年になると、恥ずかしくなくなり、そのまま、仰向けになる。

彼女は、何事もなく、始めた。
全裸である。
股間に、タオルを当てない。
薄暗いので、いいのか。

これは、しかし、若い男なら、少し困るだろうと、思う。
だが、マッサージを受けていて、勃起する程度が、良い状態だとのこと。
リラックスし、更に、神経が、亢進することなのである。
交感神経の亢進で、勃起する。
しかし、副交感神経も、働く。
それが、うまくミックスして、快適、快感を生む。

やはり、うとうとした。

彼女は、お客主体で、お客が、タオルを求めると、タオルを掛けるのだと、後で気づく。

ゆったりとした気持ちになり、終了した。
その間、向こうで、フットマッサージを受けている、スタッフと、嬢との、会話が弾んでいる。

彼女は、トントンと、私の肩を叩き、起こした。
そして、再び、シャワー室に、案内する。
そこで、シャワーを浴びていると、何と、中に彼女が入ってきた。

そして、シャボンを取り、私の背中から、足まで、洗ってくれるのである。
はじめての、ことである。
更に、胸まで、洗った。
淡々と行う。
私は、彼女に、水がかからないようにして、浴びたが、彼女は、意に介さず、サービスする。

感動した。

それが、終わると、すっと、シャワー室から、抜けて、待っている。
バスタオルで、体を覆い、ブースに戻り、着替える。
その間、ベッドの端に、腰掛けて待っている。

その、控え目な、対応に、私は、思わず、先にチップを出した。
100バーツ。
チップは、20バーツと、決めていたし、また、出さない時もある。しかし、今回は、彼女の行為に感動して、100バーツにした。
それを受け取ると、合掌して、コープクンカーといい、感謝する。

実に、気分の良いものだった。
路地裏の店、特有のものだろう。

次も、機会があれば、彼女に、オイルマッサージをしてもらいたいと、思った。
そう思うのも、はじめてである。
悪い気を受けなかったのである。

2008年10月23日

ベトナム14

明日は、バンコクへという前日の、夕方、ホテルの斜め前の、マッサージ店に入った。

いつも、数名の嬢たちが、料金表を掲げて、客引きをしていた。
そこで、一時間のタイマッサージを頼んだ。

五十代の、おばさんが着いた。
マッサージ室は、三階にあった。細長いビル一つが、マッサージ店だった。
誰もいない、だだっ広い部屋に、ベッドが並んである。
窓際のベッドに案内されて、二時間にした方がいいというのである。
二時間なら、350バーツで、得だよと。

もし、下手糞なら、二時間は、苦痛だと思った。これは、賭けである。
まだ、今日は、お客が一人もいないので、押し売りしているのかもしれない。
オッケーというまで、食い下がるので、オッケーと、答えた。

そして、マッサージがはじまった。
足裏から、脚全体にかけての、マッサージは、巧い。
そして、更に、上半身にきた。
いつもと違う。
このおばさんは、手、肘、足、膝と、縦横無尽に使って、私の体を、少しつづ、ずらしつつ、わき腹まで、揉んだ。
わき腹は、余ほどの人でなければ、事故にもなるので、揉まない。

これは、巧い。
最後になった時、太股の、内側を、足で揉んだから、驚いた。
そして、私の体を、少し横にし、背中を膝で、押すように、揉む。
今までにない、マッサージのテクニックを、幾つも見た。

自分の体重を巧く利用するのも、上手である。
見事だった。
プロの仕事である。

そして、終わり、私は、100バーツのチップを渡した。
そして、素晴らしいマッサージですと、英語で言った。
おばさんは、英語がペラペラである。

そして、言うには、タイマッサージは、二時間必要だという。
一時間では、やり切れないとのこと。
これから、タイマッサージを受ける時は、二時間やるようにしてくださいと、言われたのである。

イートさん、番号15。
店の名刺に、サインをして貰う。
パタヤでの、タイマッサージは、このおばさんに決まりである。
フットマッサージは、前回来た時の、ボーイマッサージ店の一人のボーイである。
力が強く、足裏を、ぐいぐいと押す。足裏は、どんなに強くとも、事故は、起きない。
そして、オイルマッサージは、あの、イサーン出身の、嬢である。

パタヤマッサージの顛末を終える。

さて、私は、バンコクに、バスで行こうと考えていた。が、ホテルに、車チャージの、コナーがあるので、料金を尋ねる。
800バーツ、1200バーツ、1500バーツ以上とある。
お勧めは、1200バーツ、約4000円のコースで、高速料金が含まれている。
800バーツは、高速料金が含まれない。車の質も違うと、後で、スタッフに教えられた。

バスは、一等エアコンバスで、一人約200バーツである。しかし、バス停までタクシーに乗り、降りてから、また、タクシーなど利用すると、色々と、お金が掛かるし、いちいち交渉しなければならない。面倒である。
よしと、1200バーツに、決めた。
出発は、一時である。
チェックアウトが、十二時なので、昼を食べて、行くことにした。

ところが、タクシー運転手は、十二時に、待機して待っていた。
それならと、乗り込んだ。
食べ物は、屋台で買った物が、多少あったので、それを、食べることにした。

バンコクまでの、高速道路は、スムーズに進んだが、バンコク市内に入ると、渋滞である。
スクンビットのナナ駅に近づくと、更に渋滞。

三時を過ぎた。
ようやく、運転手が、横道に入り、一気に、ソイ11に入った。
目印の、セブンイレブンがあったので、そこで、降りる。
旅行雑誌で、見た、ゲストハウスに泊まってみたいと、思ったのだ。
しかし、ほぼ満室で、ツインルームは、一泊しか出来ない。
900バーツである。

確かに、民家風で、緑に囲まれている。が、実に、不自然な感じである。周囲の形態と、違和感があり過ぎる。そして、少し高慢な、態度は、人気があるのだろう。
更に、フロントの横に、セックス目的の方は、お断りしますと、書かれてある。

どういうことだろうか。
つまり、売春する者を、連れ込むなということ、なのであろうか。
ラブホテルのように、使用するなと、いうことか。

確かに、欧米人のセックスは、長時間に渡り、更に、音が大きい。造りの粗雑な、部屋は、隣近所に迷惑である。
それにしても、わざわざ、そんなことを、書くとは・・・
それが、楽しみで、きている人もいるはず。

まあ、それぞれの、ハウスの、方針があっていい。
結局、私たちは、いつもの、600バーツという安いゲストハウスに向かった。
スタッフが、連れ込み宿という、ゲストハウスである。
私は、アンタ、連れ込み宿でも、ゲストハウスに替わりないと言った。私は、気に入っている、のだ。

今回は、オーナーさんが、フロントにいた。
オーナーさんは、日本に、十ヶ月過ごしたことがあるという。ただし、日本語は、ちょっと待って、ありがとう、さようなら、しか、出来ないと言う。
とても、親日溢れる、おじさんだった。

二泊することにした。つまり、バンコク滞在は、そこのみである。

部屋に、荷物を置いて、すぐに、食事に出た。
スタッフは、逢う人がいるので、私一人で、いつもの、屋台連合のような、ビルの横にテントを張っている屋台に出掛けた。
そこで、スープライスを頼む。
しかし、最初、それが、通じないのである。
ライスに、ラーメン丼を、ジェスチャーしたが、それなら、あちらの、麺屋だと、言われる。違う、違う。ライスに、と言うと、おじさんは、ご飯を大盛りに丼に盛る。違う違う。ライスに、スープ、スープという。
ようやく、おじさんは、スープライスかと言う。
ライススープと、スープライスは、違うのか・・・

とても、疲れた。
しかし、次からは、おじさん、私の顔を見ると、スープライスかと、尋くようになる。

何度聞いても、その、スープライスの、タイ語が、覚えられないのである。

食事は、ほとんど、そこでした。
そして、その近くのインド料理の店で、カレーを食べる。
その辺りは、インド、アラブ料理の店が、多い。アラブのテレビ番組を点けている店もある。
黒尽くめの、イスラムの女性の姿が目立つ。
そして、ホテル横の小路は、アフリカ系である。

更に、ナナ駅の付近には、女性、レディボーイの、ゴーゴーバーが、多い。
夕方からは、歩道に、長く、ナイトバザールがはじまるという、混雑さである。

食べ物の、屋台も多く出る。
毎日が、お祭りである。

スタッフは、一人のレディボーイと、逢っていた。
泊まるホテルを教えてくれたのも、そのレディボーイである。
朝から、レディボーイたち、女性たちの、立ちんぼがいる。
その皮膚の色が、多くなった。
黒人の、女性も、白人の女性も、立つようになったのである。
タイ人ばかりではない。

その夜、スタッフは、女装して、私をレディボーイの、ゴーゴーバーに連れた。
ビル全体が、ゴーゴーバーである。
何件もの店が、客引きをしている。

私は、はじめて、ゴーゴーバーに入ることになった。
音楽に合わせて、レディボーイたちが、水着姿で、踊る。
驚くほど、美しい人、可愛らしい人、様々である。
中には、吉本、お笑いという人もいるが、それもまた、楽しい。

しかし、長くは、いられなかった。
音楽と、照明に耐えられない。

私を指名してと、皆々、訴える。
指名をして、店から連れ出すのに、600バーツを払う。そして、後のことは、交渉次第である。

飲み物を運んでくる者も、レディボーイなのであるが、舞台に立てない、ちょっと、面白、レディボーイである。
しかし、必死で生きているのは、伝わる。

オレンジジュースを飲み終えて、清算する。
二人で、160バーツ程度。安い。
すると、子豚顔の、飲み物係りの、レディボーイが、チップ頂戴と言う。
20バーツという、ケチ臭いチップを上げて、退散した。

私のスタッフは、女性に見られたことに、満足していた様子。
そこで、一言。やるなら、徹底して、やるべきだと。
女に、見せるのではなく、女であること。

役者は、それに、見せるのではなく、それに、成るのであり、名優は、それに成るのである。

スタッフは、私に、日舞を教えて欲しいという。しぐさは、学ぶ必要があると、気づいたのだ。
所作は、教育される必要がある。

私は、踊りつつ、ホテルに向かった。
手踊りである。誰も気づかない程度である。

それが、最も楽しかった。
教養というものは、そういうものである。
人に見せるものではなく、私が楽しむもの。それが、教養である。
自己満足の、何物でもない。

蒸した、とうきびと、枝豆を買う。
20バーツ。
屋台のおばさんに、焼いたエビを、勧められたが、100バーツである。それは、高い。私のような、貧乏人には、手が出ないもの。

本当は、食べたいが、我慢する。
その、我慢が快感になる。

酒を飲まずに、早々に寝ることにする。
明日は、チェンマイから来てくださる、小西さんと、会う。

ベトナムへ15

旅の最終日、チェンマイから来られる、小西さんにお逢いする。
約束の時間は、正午である。
有名ホテルのロビーで落ち合うことになっていた。

ゲストハウスから、歩いて、5分である。

その朝、七時を過ぎたので、屋台連合に行く。
屋台連合とは、私が勝手に名づけているので、その辺りに行って、屋台連合と聞いても、通じない。

皆さんと、顔馴染みになった。
向こうから、コーヒーと、聞いてくる。
コーヒーを頼み、その小路で、絞りたてジュースを作るおばさんから、20バーツのジュースを買う。
何も手を加えない、本当のジュースである。
オレンジの甘さのみ。日本の冬ミカンに似ている、ミカンである。

ジュースを飲み、コーヒーを飲んで、何を食べるか、考える。
スタッフは、少年のようになり、私の前にいる。
不思議なことで、レディボーイを続けていると、素になった時、少年のようになるのが、不思議である。
矢張り、少年は、中性なのである。

ここで、少年の美について、書きたいが、それは、性についてで、書くことにする。

実は、一つ書き忘れたことがある。
衣服支援の子供服が、少し余っていた。

スタッフが、マッサージをしたいというので、私がいつも行く、安いマッサージの嬢を紹介した。
私が連れて行った。そのまま、私は、部屋に戻った。
すると、担当したのは、別の中年の女性だったという。

私の紹介した嬢は、中年の女性に、客を譲ったことになる。
それは、中年の女性には、まだ、客がつかなかったので、嬢が、譲ったと思える。
そういう、優しさがある。
皆、苦労しているから、人の苦労が解る。

その中年の女性と、マッサージをしながら、話していると、彼女には、三人の男の子がいて、別々に暮らしているとのこと。
子供たちは、学校で暮らしているのである。

母子家庭で、皆で、暮らせるだけの、収入がないのである。
タイは、福祉政策が、非常に遅れている。

そこで、スタッフが、子供服を、少し持って来ているが、必要ですかと、尋ねた。
彼女は、必要、必要、欲しいと、言う。

マッサージを終えて、部屋に戻った、スタッフは、急いで、残りの、衣服を集めて、彼女に持って行った。
私は、それを見ていた。

戻ってくると、他の者も、出て来て、皆で、それを見て、良質な物で、自分も着れるものがあるという、女性もいたという。
小柄な女性は、子供用でも、着られる。

バンコクでも、必要な人がいる。
都会だからこそ、必要な人がいる。
貧しいゆえに、都会に出て働くという、感覚は、当たり前である。

これは、口伝えで、私たちの活動が伝えられると、ここでも、必要な人は、多くいるのだろうということに、気づいた。

バンコクには、カンボジア、ラオス、ミャンマーからも、働きに出ている人が多い。
ラオスの少女が、体を売れるようになると、立ちんぼになることも、多々あり。

成人になり、覚悟して、体を売るということに、何の問題もない。
寝る場所の確保と、食べることの、権利は、誰にもある。
何ら、恥じることはない。

人様に、世話にならず、自分で、自分の生活を、賄うのである。

実は、パタヤでも、ベッドメークする、女たちと、色々と話すことが出来た。
出稼ぎの人が多い。
丁度、子供服の下に、女性用の、ナイトガウン、寝巻きに出来る物が、数点入っていた。それを、彼女たちに、差し上げた。
大喜びで、それから、私たちは、実によくしてもらった。

一人のおばさんは、子供がいるというので、子供服を見て、選んで貰った。
その選んだ服を、静かな笑みを浮かべて見ていた。
きっと、子供に着せる時の、様子を思い浮かべているのであろう。

差し上げた時に、その場にいなかった女性がいて、元気な女性が、彼女には、何か無いのかと、言われた。
すべての、衣服を出して、彼女に合うものを、探して、渡した。

その時、支援の形の無形さを、思った。
臨機応変である。
必要な人に、差し上げる。

苦労している人は、優しいのである。人の痛みが解る。
そして、自分一人が良くなればいいとは、思わない。助け合う心で、支えあうのである。

バンコクに行く日の朝、ベッドメークで、廊下に座り、待機していた皆と、出掛けに会った。
次は、いつ来るの。その時も、このホテルに泊まるか。
また、このホテルに泊まるので、逢えるよ。
イサーン出身の女性が、皆の代表になり、待っている、と言う。
次は、いつになるのと、言う。
来年、来る。
来年って、いつ。
年が明けたら、来ると、言うと、納得した。

部屋から出る時は、皆、忙しかったが、一人の女性が、私たちが、部屋から、出る時、荷物まで、持って下に降りてくれた。

清算し、チェックアウトが、スムーズに終わるのを、見届けて、さようならと、言って、また上がって行った。

こうなれば、私たちは、彼女たちの知り合いである。
単なる、客の一人ではない。
次に行く時、更に、衣服を持って行けば、必要な人のいる場所を、教えてくれる。
彼女たちが、橋渡しをしてくれるだろう。

そして、本当に切実に、必要な人の存在も、彼女たちは、知っているはずである。

追悼慰霊から、子供服支援、衣服支援になり、そして、人と人の付き合いになり、情けある付き合いになり、その相手が、日本人である。

私の願いであること、成就せり、である。

前置きが長くなったが、小西さんとは、正午に会って、食事をすることにした。

小西さんについては、以前の旅日記は、何度も書いているので、改めて、説明はしない。

タイ北部の、慰霊地については、ほぼすべてを把握している方である。
皆、小西さんを、頼り、取材や、慰霊に訪れる。
マスコミ関係から、政治家、その関連の方々。
要するに、タイ北部の、慰霊については、スペシャリストである。

そして、小西さんは、事実を知る人である。
日本軍、日本兵の、事実を知る人で、それを、しっかりと整理して、書かれると思う。
多くの、誤解や、偏見を取り去り、事実を書くのである。

また、遺骨収集も行い、実際に、日本兵が、どのような亡くなり方をしたのかも、見ている。

更に、タイで、日本人として、生きている。
迎合は、しない。
真っ当な日本人として、国際人である。

海外で、日本人としてあることは、そののまま、国際人なのである。
日の丸を背負うことが、国際人の、第一歩である。
自分の国に、誇りを持てない人を、どこの国の人も、信用しない。

2008年10月24日

神仏は妄想である。161

さて、日蓮のもう一つの顔について、言う。

預言である。
日蓮宗系などの、後の世の人、日蓮には、特別な力が、備わっていたかのように、考える。それを、検証する。

立正安国論の提出から、八年ほど経た文永五年、1268年、正月、蒙古のフビライから国書が、届く。
そして、三年後に、蒙古連合軍が、壱岐、対馬、博多に襲来した。
日蓮は、この事を、自分の忠告を聞かず、逆に、却下した、幕府に対する、懲罰であると、考える。

他国侵逼難、つまり、外国の侵略である。

蒙古の襲来を、預言の的中とみた、日蓮である。
没後は、それが、更に、神格化されて、崇拝の対象となるのである。

未来を見通すことが出来る、預言者という、日蓮像である。
その結果は、憂国の預言者としてのイメージが定着したことは、実に、悲劇である。

確かに、日蓮が、預言した事実はある。
しかし、それは、日蓮自身が言う。
予知能力によって、預言したものではないと。
それは、経典に書かれていることである。
つまり、正法の衰退により、諸難の事々かあると、いうことである。それは、いうならば経典の言葉である。

立正安国論において、金光明経などの、四つの経典を引いた後で、心の迷えるものたちは、みだりに邪説を信じて、正しい教えを受け入れないという、ことである。
それは、念仏をはじめ、他の宗派のことである。

経典の中に、国土の荒廃を見て、教えの正しきもの以外が、流布した場合は、難があるという、言葉である。

当時は、頻繁に災害が起こり、多くの人々が、苦しみに喘いでいた。
それは、誤った教えの故であると、言うのだ。

安国を、願うのならば、正法に従い、それを、流布しなければならないという、独断である。独善でもある。

では、現在の、多くの災害も、そのように、解釈される。
時代は、いつも、動乱であり、災害は、いつもある。
これから、どこかに、地震がありますと言えば、当たる。必ず、世界のどこかで、地震があり、日本は、地震列島である。

あまりにも、稚拙である。

ここで、キリスト教を、持ち出す。
カトリックに対抗して、出来たプロテスタントは、個人と神との関係を、主体にした、信仰形態を、作り上げた。
聖書主義というのも、その一つである。
つまり、教会という、団体を通すのではなく、個人が、直接、神と、向き合うことが出来るという、教義である。

これが、中世、鎌倉の仏教にも、起こったということである。
更に、その蒙昧は、仏を、超越者にしたことである。

人は、直接、本仏に、向き合うことが出来るという、仏を超越的なものとした、妄想である。

それは、あたかも、歴史家などが言う、画期的なことではあるが、内容は、上記のように、とてつもない、妄想である。

つまり、歴史の一過性の、それを通らなければ、理解し得ないという、道である。
それを、通り抜けて、神仏は、妄想であるということに、気づくための、一つの方法だった。

釈迦の真意にかなうものとして、念仏が唯一、題目こそ、救いである、禅が唯一の正しい仏への、道である。
極めて、独善的、排他的な、妄想である。

仏教の真実を見出そうとする命を賭した挑戦によって、彼らは学者の立場を超えて、幾多の歳月を超えて人々の魂を揺さぶり続ける真の宗教者、真の思想家となることができたのである。
佐藤弘夫 偽書の精神史

上記は、ある意味で、正しいが、ある意味では、評価のし過ぎである。
思想家というならば、少しは、納得するが、以後の彼らの、宗門は、ただ、ただ、堕落の一途を辿った。
見て御覧の通りである。

既得権益に乗り、堂々と、偽の仏教を掲げて、宗教として、成り立っている。
信じる者は、騙されるから、未だに、騙されたままに、霊界に行く。
その、霊界は、宗教霊界であり、極楽でも、天国でもない。
おそらく、寺の上空、一メートル程度の、霊界にいるのであろう。

勿論、仏陀は、いない。
霊界でも、念仏三昧、題目三昧で、坐禅をして、これが、仏の道と、やっているのである。
やり切れない。

ちなみに、霊能力者の、一つの妄想を、紹介する。
法然と、日蓮は、一緒に修行しているという。
また、日蓮は、インド魔界の、ある神が、背後で指導していたという。背後霊が、インド魔界の神と言われるモノである。

皆々、妄想なので、私も、妄想をかましてみた。

そして、仏陀の本仏という、超越した考え方は、まさしく、彼らの妄想以外の何物でもない。
思想的には、画期的、前代未聞の行為であろうが、何のことは無い。
時代性によって、生まれたものである。
そして、彼らは、日本人であったということ。
見事に、日本人向けの仏教創作に成功したのである。

中国仏教から、ようやく、我が国の仏教を創作したのである。
創り出したのである。
存在しているモノではない。

編み出したのである。
芸術として、捉えれば、実に、見事な、出来栄えである。
果たして、思想としてみる場合は、どうなのか。
耐えうるものか。

そこで、中世における、偽書の問題を見ることにする。
本当は、中世史を、やりたいが、テーマが違うので、神仏は妄想に、絞ることにする。

神仏は妄想である。162

中国仏教では、多くの偽仏典が、書かれたことを、以前書いた。
それは、日本でも行われる。

勿論、大乗経典自体、偽の仏典である。
偽というのは、創作という意味である。
インドからの、仏典に、漢訳した者の、余計な言葉が、継ぎ足されている、経典もある。

もし、釈迦仏陀の言葉の、事実を知りたければ、初期の経典から、探ることである。
言い伝えられた言葉を、かろうじて、残すのである。
そこから、探ることである。

これが、唯一の仏陀の真実の教えであるという、経典主義は、単なる、独断である。更に、その解釈などは、欄外である。
解釈の方を、重んじているのが、大乗仏教である。

仏陀は、因果応報、自業自得を説いたのであり、すべのことは、個人に帰すという、考え方である。
大きな舟に乗せて、衆生を、彼岸に運ぶなどという、教えは、魔境というしかない。

ただし、それを理想的に、考えるのが、お目出度い、日本の仏教愛好家である。

土台、誰もが、仏になるなどいう、詭弁を信じるという、愚行である。
皆の心に、仏が住むとか、宿るという考え方は、人を騙す手である。
そのような、生ぬるい、信仰というものを、ことのほか好む、日本仏教愛好家である。

親鸞は、愚かにも、父母のために、念仏することはないと、言う。
それは、自分が救われれば、当然、父母を救うというのである。
これが、一般的、信仰の有様である。

人は、人を救うことなど、出来ないとは、考えない。
私は私であり、他ではないのである。

仏陀は、明確に、言う。
我は、我のみである。他は、他のみである。
要するに、個人のことは、個人に帰結する。

救いという観念自体も、どうかと思うが、自分を救うのは、自分である。

仏陀最後の言葉として、己を頼み、真理の法を明かりにせよと言うのである。

もっと、平たく言うと、自分でしか、自分は、救えませんということだ。

だから、仏陀は、生活指導を行った。
心のあり様を、見つめる行為を、指導した。
後は、それぞれの問題である。

人の命に、関与できないと、同じように、人の救いなるものにも、関与できない。
親兄弟でも、である。

さて、日本の中世という、時代は、実に、驚くべき精神構造であった。
中世は、他の時代と、比べて、あまりにも、多面的なのである。
それは、事実もともかく、精神構造が、多面的だということである。

仏教にみに、絞ってみることにする。
鎌倉仏教と、本覚思想である。
本覚思想とは、あらゆる存在が、そのままで、悟りの姿を示しているという、考え方である。
それは、比叡山を中心とした、旧仏教界から、はじまった。
平安後期からの、思潮である。

そして、中世に、現れた、日本書紀の注釈書の出現は、中世神話の、形成である。
更に、鎌倉、南北朝時代にかかる、伊勢を中心とした、神道思想である。
加えて、圧倒的に影響を与えた、密教である。

中世の精神は、実に、混沌としたものである。
それを、一つ一つ、解すとなると、膨大な、原稿を書かなければならない。

中世全体の大きな課題は、乱世の生死の激しさにさらされて、人間とは何か、罪とは何かと改めて根本的な問い直さなければならないところにあったが・・・この人間と罪についての問題意識の関連である。
分銅淳作 亀井勝一郎 日本人の精神史 あとがきより

これを、読むと、最初から、人間とは何か、罪とはなにかを、問い掛けていたかのように、思われるが、それらは、仏教によるものである。

仏教思想が、日本に根付くための、決断の時代でも、あったといえる。

確かに、それは、いずれ通るべき道である。
ただ、仏教にばかり、言えるものではない。

人間と、社会が、成長するために、通らなければならない道だったのが、中世である。
そして、中世から、近世に変革する時も、大きな決断を要する。

中世は、まず、精神の解釈の必要性に、迫られた時期である。
平安からの、たゆたう、ものから、明確にしなければならないもの。
それを、仏の教えに当てた。
それはそれで、評価する。

ただし、それは、その時代性というものであり、それが、そののまま、現代に通じるかといえば、違う。
現代は、現代の時代性により、思索し、思考しなければならない。
中世の、精神を深めることから、それを、為すという考え方も出来るが、別の方法もあるということ。

これ以外に無いと、判定すると、誤るのである。

未だに、中世を、そのままに、選択仏教のように、何かを、選択するという、考え方を持っては、先に進まない。

現代でも、特殊能力によって、私は、知る者である、とか、私は、悟った者であるなどと、言う者が、真理の法を説くというが、真理というのは、その人の真理である。

真理は、一つといいたい、気持ちは、解る。
一つだから、真理というのだという、偏狭な考えに捕らわれている者も、多数いる。

しかし、この、グローバル化した、現代の状況を見渡せば、真理というものが、一つではないということが、解るものである。

しかし、どうしても、真理は、一つという者は、しょうがない、セクトのようになるしかない。または、新宗教である。

それならば、理解する。
しかし、それが、すべてだという時、互いの会話が成り立たなくなり、停止する。そして、何ら、関係は進展しない。

大学を中退せざるを得なかった人がいる。
いじめ、である。
そのセミナーに参加していた者が、その人を省いて、すべて、ある宗教の折伏に遭い、会員になった。
彼のみ、会員になることを、拒んだ。
すると、いじめ、である。

これは、象徴的な出来事である。
これが、唯一と、信じる者によって、世界は、混乱する。

そして、今現在の世界も、それで、混乱する。

イスラムの地に、キリスト教が入ると、それは、混乱の始まりになる。
共に、唯一と信じるからである。

実に、法華経からは、多くの集いや、団体が生まれた。そして、未だに、生まれ続けている。
それを、信奉する人、それだけが、正しいと思い込む。
一人の信仰で、済ませるならば、問題ないが、法華経を奉ずる者、それを、人に説くのである。
信じきると、騙される。
騙されたまま、人に教えを説くのである。

それらが言うことは、正しい教えのみに、正しい知恵というものが、与えられると、言う。それの正さというものの、判定は、誰がするのか。何を持って、正しいとするのか。それは、単に信じるという、心的状態のみである。

実に、浅はかである。

2008年10月25日

ベトナムへ16

小西さんと、食事を終わり、小西さんが、私たちに、どこか行きたいところは、無いですかと、尋ねた。

私は、首相府の、反政府団体、民主主義市民連合が、集結している場所に、行きたいと言った。
それではと、タクシーに乗り向かった。
外務省からは、危険地区に指定されている。

バリケードの張られている、手前で、タクシーを降りて、歩いた。
入り口が、高くなり、簡易の梯子がかけられてある。
そこを、上って、また、降りる。
降りると、身体検査をされた。
危険物の有無を調べるのだろう。

それを、終えて、すぐに、出店が続いている。
私たちは、一つの出店で、パタパタと、拍手替わりの、手のオモチャを買う。
一つ、25バーツである。
小西さんは、お子さんの、お土産に買った。

私は、その、パタパタを、鳴らして歩いた。
更に、バリケードの中では、演説が、繰り返されていて、時々、歓声が上がり、その、パタパタを、鳴らすので、私も一緒に、鳴らした。

そのうちに、両手を上げて、歩いた。
勿論、和服姿の者は、私の一人のみ。
だが、目立つほどではない。
しかし、目を合わせる人は、皆、私に、笑顔を向ける。

集会の周辺は、すべて、屋台で、埋まっていた。
この、集まりに、便乗しての、商売もあった。
服屋さんから、一般の屋台の食べ物屋である。
端的に言うと、お祭りである。

そして、スピーカーから、演説の声が流れる。
私も、何か演説したい気持ちに、駆られた。
すると、小西さんも、そうだと言う。
何か、意見を述べたくなる気分である。

丁度、舞台では、全国から集った、様々な、市民グループの代表が、一人一人、挨拶していたようである。

無料炊き出しのコーナーには、人が列を作っていた。
和やかな、反政府運動という、イメージである。

だが、私が、帰国した日の、午後、ソムチャイ首相の施政方針演説を阻むために、国会を包囲した、反政府派は、一時、首相や、議員を、閉じ込めることになり、警察が、催涙弾を発砲した。
また、与党の政党本部前の、爆発により、二名が死亡した。
朝からの、負傷者は、400人を、超えたという。

簡単に説明すると、ソムチャイ首相は、対話路線を取るつもりだったが、反政府側は、あくまでも、タクシン元首相系の政権の永久追放なのである。

反政府派との、仲介役として、副首相に就任した、元首相経験者の、チャワリット副首相も、混乱の責任を取って辞任した。

ただ、タイの国会議員は、市民運動に対する、催涙弾などの使用に、反対する者多く、それにより、野党・民主党、上院議員などが、抗議のために、国会に出席せず、演説に対する討論も無かった。

ただし、タクシン元首相の追放の時は、五万人の市民が、集ったが、現在は、一万五千人程度で、縮小している。
また、与党側も、進展しない状態に、手詰まり感があり、硬直状態が続く。

連立政権なので、野党・民主党と、他の政党が、連立すると、政権交代が、出来るので、それで、一件落着するのではと、私は、見ている。

要するに、タクシン元首相が、いかに、国を利用して、金儲けをしたかということである。
そのために、法整備も、整えるという、国を売ると言える、やり方である。

タクシンを支持したのは、最も貧しい、東北部・イサーンと、北部である。
金をばら撒き、票を得たと、聞いたが、それは、貸付たのだという。
100バーツで、利息が、1バーツだというから、驚いた。
数である。
金持ちは、どうしても、金持ちになってゆくのである。

勿論、医療費無料などの、政策もあるが、単に、税金を投入して、自分には、関係ない。だから、南部に行った時に、タクシンが、遊説に来たら、殺すという者、多々いたのである。
南部に対する、政策は、何もなしなのである。
更に、南部が、最も税金を払っているという、カラクリである。

南部のマレーシアに近い、一部では、テロが多発して、独立を求めている。
タイの、イスラム圏である。

さて、私たちは、首相府を取り囲んでいる道を、ぐるりと、周り、元の場所に出た。

何の、危険なことはなかった。
逆に、タイ、バンコクの市民と、良い交流が出来たと思う。
私の姿は、一度見ると、忘れられないのである。
着物で、素足の日本人である。

周辺の道路は、渋滞が続いていた。
ようやく、タクシーを捕まえて乗ったが、中々、先に進まない。

あまりに、長くかかったせいか、タクシー運転手が、料金を、まけてくれた。

タクシーを降りた側の、喫茶店に入り、小西さんと、スタッフの野中と、三人で、話した。
特別の話ではないが、私は、わざわざ、チェンマイから、私たちに逢うために出て来てくれた、小西さんには、本当に感謝した。

朝来て、最終便で、チェンマイに戻るのである。

小西さんは、私が、児童買春について、調べたいと言ったことを、心配してくださり、何事かあれば、必ず連絡くださいと言って下さった。

更に、バンコクの風俗に関しても、案内して下さると言う。
ハッポン通りなどの、有名風俗街である。
ボーイゴーゴーバーには、男も女も、ボーイを買いに来るという。
その値段は、男より、女が買う方が、倍高いというから、驚きである。

ハッポンについては、昔から知っていた。
アジアの女たちを、買い漁った男の手記なども、読んでいた。
売春天国タイという言葉が、出来た時、タイ政府が、その撤回を世界的に、呼びかけたことがある。

しかし、貧しい国からは、売春は、無くならない。
振り返れば、敗戦の日本も、戦後長い間、売春で、皆、食いつないできた。
韓国も、売春で、外貨を稼いだ時期がある。
そして、フィリピンも。

私は、売春も、文化であると、見ている。
誤解を、恐れずに言えば、食って寝る場所を、確保するために、売春も、堂々たる、仕事であり、労働である。

ただし、幼児、児童買春は、別物。
それは、罪である。
幼児、児童は、自分で、選択する力は、無いし、保護される権利がある。

児童買春は、人身売買である。
貧しい所から、子供を買い、そして、売る。
買った者は、子供を物として、扱う。
それこそ、基本的人権の無視である。

こんなことを、許せるはずがない。

だが、問題は、それを、買う者がいるという、現実である。
幼児性愛、児童性愛である。
これらは、治療が必要である。

さて、六時を過ぎたので、私たちは、小西さんと、お別れすることにした。

タクシーを待つ小西さんに、私は、大丈夫ですかと、言った。
言った後で、大丈夫ですかと、言われるのは、私の方だと笑った。
本当に、笑って別れた。
感謝である。

丁度、これを書いていた時、ニュースが入った。
タイの、アヌンポン陸軍司令官が、16日、地元テレビに出演し、国会を包囲した、反政府団体、民主主義市民連合の支持者たちに、警察が、強制排除し、死傷者が出たことに、私が、首相なら、辞任すると、痛烈に首相を非難した。

また、地元メディアも、一斉にソムチャイ首相の責任を追及した。
王室、司法も、反政府団体寄りの姿勢を示す。
クーデターについては、介入を否定したが、さらなる衝突の場合は、行政権の停止もありうる、としている。
つまり、軍が介入する可能性である。
また、クーデターを、反政府団体も、望んでいるようである。

そして、もう一つの、問題がある。
カンボジアとの、世界遺産であるクメール寺院プレアビヒア周辺の、国境問題である。
両国の軍高官が、共同パトロールの実施で、合意したが、タイ政局の混乱が、紛争激化の、きっかけとなった。

タイ政府が、カンボジアによる、寺院の世界遺産に登録申請に、同意したことから、民主主義市民連合が、売国行為と、激しく批判した。

更に、市民連合の支持者が、7月15日に、寺院に侵入したことから、両軍の展開という事態を、引き起こしたのである。

いずれにせよ、政権存亡の危機的状態である。
寺院自体は、国際司法裁判所で、カンボジア領と認定されている。国際的には、タイの内政混乱が、紛争激化の原因と、見られる。

王室、司法も、反政府寄りであるということは、先が見えるのである。

タイのプーミポン王は、タイの民主化を望んでいるが、矢張り、王様の指導が必要なのであろうか。
それぞれの、民主化というものがあっても、いい。
タイは、王様主導の民主化であって、いいと思うが・・・

2008年10月26日

ベトナムへ17

私は、王様のいる国、タイが好きである。
無形の権威というものが、社会には必要である。
現国王は、国民の期待に、若い時から、応えてきた。

自らも、出家し、そして、王位を守り、政治的には、中立を保つ。
しかし、ここ一番という時、国民は、王の指示を仰いだ。

現在も、政府側、反政府側も、国王支持である。
国民の、90パーセント以上が、国王支持である。
その、支持率を、保ち続けてきたということは、並大抵ではない。

クーデターの度に、国王の信任を得るということが、前提になった。
世界広しといえども、そのような、国王は、どこにもいない。

宗教界、仏教の主は、主として、政治は、国民にという、国王の意志と、人柄が、そのようにさせるのであろう。

世界の識者は、政治は、国民の手で、修めるべきであり、国王を、持ち出すことのないようにと、言うが、それぞれの、民主化という形があってよい。
国王、絶対君主という、時代ではない。

アメリカが、イラクにアメリカ型の、民主化を、求めても、成る訳が無い。
その土地、民族性によるものである。

天皇が、祈りの象徴であるように、タイの国王も、祈りの象徴として、ありたいと、願っていることだろう。
国民は、誰もが、私を省みなくても、国王は、私のために、祈っておられる。
これこそ、国家幻想の、大元である。

無形の権威である。

しかし、現実問題、選挙によって、選ばれた政治家が、政治を行うべきである。
そして、選挙によって、政治を、修めるべきである。

いつも、軍が、クーデターを起こして、国王の信任を得て、暫定政権を作り、そして、選挙し、政府を立ち上げというのは、お終いにした方がよい。

タクシンの場合は、王制を廃止し、大統領制を示唆したことも、大きな反感を、国民から買ったのである。
やったことも、悪だが、言動も、悪乗りである。

また、問題は、タクシン政権寄りの、政党が存続し、選挙で、勝っていることである。何故か。そこに、何か、意味がある。利権であろうと、思う。
タクシンは、相当に金持ちであるが、実は、タイ国民は、知っている。

タイ国王は、世界で、一番の金持ちである。
正確な数字は、忘れたが、兎に角、世界一金持ちの、国王である。
中華系タクシンごときに、タイという国を、則られてたまるか、というところだろう。

さて、この問題は、そろそろ、省略して、旅の続きを書く。

小西さんと、別れて、私たちは、一度ホテルに戻り、休んだ。
少し、疲れを感じた。
明日、ベトナムを経由して、帰国するのである。

10日間の旅も終わる。
そして、更に、ベトナムでの、五時間あまりに、追悼慰霊の儀を行うと、決めた。

食事である。
何を食べるか。
私は、屋台連合の、スープライスしか、思い浮かばない。

40バーツ、約130円である。
エビと、イカの入った、シーフードを食べる。

スタッフの野中は、レディボーイに逢うというので、別々に行動することにした。
しかし、私は、屋台連合に行くことを言った。
野中が、先に部屋を出た。
30分ほどして、私も、部屋を出た。

もう、顔馴染みになった、おじさんに、シーフードのスープライスと、言う。
夜の屋台は、混雑している。
地元の人が多いが、欧米人もいる。
一つだけ空いていた、道沿いの椅子に座る。

息子なのだろうか、男の子が、運んできた。
食べ始めると、男の子は、お椀に、何かを持ってきた。
私の食べている、どんぶりに、それを、入れようとするので、制して、その、お椀の中に入っているものの、匂いを嗅いだ。
酢である。
スープライスには、酢を、入れると、はじめて知る。

私は、それを、受け取って、少し入れて食べてみた。
悪くないので、もう少し、足した。
長い間に、出来た食べ物には、良い食べ方がある。
更に、生野菜が出ることもある。
こうして、バランスの良い食事を、思いついてきたのである。

衣食住には、民族の心が、宿る。

食べ終わって、さて、どうしようかと、思った。
最後の夜であるから、少し、歩道に並んだ、夜店を見ることにした。
あるならば、ロウソクを買おうと思った。

亡きカウンターテナーの、藤岡宣男に、燈すロウソクである。
ほとんど、バリ島やタイで、ロウソクや、線香、お香を買う。

歩いていると、スタッフの野中に逢う。
今、レディボーイと、別れてきたという。
それで、一緒に、ロウソクを探した。
10個で、100バーツの、ロウソクを見つけて買った。
それで、夜の歩きは、終わりである。

野中は、レディボーイの子と、食事をしたというので、ホテルに戻ることにした。

その、レディボーイの子は、23歳で、両親が無くなり、祖母と暮らす。
女の体になるために、女装して、体を売る。
前回来た時、野中が、声を掛けて、知り合ったのだ。

ショートは、1000バーツ。平均は、2000バーツである。
野中は、前日に、2000バーツを渡している。
話を聞かせて貰い、そのお礼である。
約、6600円であり、高額である。

彼、いや、彼女は、日本円にして、25万円を目指している。
最低の手術費である。

見た目は、女性である。
美しく、可愛い。

ただ、生活費に、一ヶ月、最低でも、日本円で、15000円必要である。
バスで、二時間ほどもかかる、スクンビットに出て来る。
朝、九時頃から、夜の六時頃まで、道端に立つ。
夜に渡っては、仕事は、しないという。
毎日、お客がいる訳ではない。
早く女の体に、ならなければならないので、この仕事で、稼ぐしかないのである。

その辺一帯は、女も、レディボーイも、立つ激戦区である。
だが、皆、仲間であり、仲良しである。

以前来た時より、人数が増えていた。
女が多い。肌の色の違う女もいる。
そして、驚くことは、白人もいるのである。ハーフなのであろうか。

彼女たちは、実に親切である。
その訳は、普通に接してくれる人だからである。
体を売る人ではない、普通の人として、付き合う、話し掛けるからである。
私は、よく、道を尋ねる。一緒に、着いて来てくれることもある。

部屋に戻ると、野中は、彼女のことを、心配していた。
唇に、明らかに、ヘルペスが出来ている。そして、口が臭うという。
絶対コンドームを使うことだと、言ったという。
そして、約束させたと言う。

実は、コンドームや、ラブオイルも、準備して差し上げることもある。
バリ島にも、それらを持って行った。

チェンマイでは、白人のおばさんが、ボランティアで、売春を仕事にする女、男、レディボーイに、コンドームと、ラブオイルを配っている。
ラブオイルは、傷がつかないように、である。
傷口から、菌が入るからである。

先の、レディボーイの、Kは、まだ仕事を始めたばかりで、その時、コンドームを使っていなかった。そこで、野中が、コンドームを渡した。
そのせいか、日本に帰国しから、野中に毎日、電話が来るようになった。
お金を出して欲しいというものだった。

女になって、あなたと、云々という、電話である。
私たちは、それに対して、はっきりと、させるべきだと、お金は無い、ただ、出来ることは、病気にならないように、必要な物を、渡すことしか、出来ないと、言った。

日本人は、お金を、持っているとの、いつもの先入観である。
だが、彼女、Kも、私たちが、安いホテルに泊まり、屋台で、食事をするのを、見て、了解したはずである。

なんてったって、私のタイでの、恰好は、タイ人が、寝る時の恰好をしているとのこと。
そんなことは、露知らず、タイパンツと、ティーャツで、闊歩しているのである。

知らないことは、恐ろしいことである。

マッサージをする時、私のはいている、タイパンツより、上等なパンツを出されて、唖然とすること、あり。
向こうも、変な日本人と、思っていることだろうと、思う。

私の場合は、丸裸が、一番、上等に見えるかもしれない・・・

ベトナムへ18

朝、九時半を過ぎたので、早めに空港へ向かうことにする。
一時間半の飛行時間でも、出国するのである。
二時間前までに、行くこと。
更に、何があるか解らないので、早めに向かう。

タクシーの交渉である。
小西さんから、タクシー運転手が、本当にキレると、必ず殺すという話を聞いた。
車内に、銃を隠し置いているという。

あらあら、それでは、喧嘩は出来ない。残念。
ということで、タクシーを捕まえて、合掌して、サワディーカップと、笑顔で、近づき、英語で、スワナプーム、エアポートターミナルと言って見た。
ハウマッチ。
400バーツである。いいじゃない。500バーツと、言われるかと思った。
勿論、高速料金すべて、含めてである。

一度、カオサンから乗り込んだタクシーは、500バーツで、すべて含むと言ったが、高速料金のたびに、請求し、更に、チップまで、要求してきた者もいる。
また、逆に、突然、捕まえた、タクシーは、300バーツで、高速を通らず、猛スピードで、走った若者がいた。
スタッフ曰く。きっと、暴走族だったんだ、と。

今回の運転手さんとは、和やかに過ごした。ゆったりとした、タイ語で語り掛ける。そして、今度来る時は、呼んで下さいと、名刺を渡された。

実は、今回の旅は、細かなところで、色々と、人の心の機微に触れ、更に、旅が楽しいものになっていた。
こういう、言い方をする。何かに、守られているようである。

怒り心頭ということが、無いのである。
ベトナムの一件を別にしては。

早めについてみると、まだ、受付が、始まっていない。
私は、このスワナプーム空港が、大好きである。
一階に下りる。
大食堂に行く。
旅行客もいるが、矢張り、職員が多い。

入り口で、100バーツ分のチケットを買う。余ると、現金に戻してくれる。
いたいた、私たち二人は、無愛想な女がいることを、確認。
混雑時は、三人の女が、チケット販売にいる。
その女は、真ん中にいた。
スタッフは、その女が嫌いである。あまりの、無愛想にである。

ニコリともしない。
お金を、受け取ると、投げつけるように、チケットを出す。
とっとと、行けという、雰囲気。
しかし、私は、それが、楽しい。
真ん中の女に、お金を出すように、右の女に、差し出した。
どうだ。

こんなことで、意気がっても、しょうがない。
ところが、楽しいのである。

さて、チャーハンを頼む。
安くて、大盛りである。側にある、野菜は、取り放題である。
野中が、それを大量に取る。自分は、食べないので、野菜だけにするつもりだ。
そして、私は、チキンが食べたくて、チキンを指差した。
店員は、笑顔で、チキンを目の前で、パンパンと、切ってくれる。と、更に、ご飯も、盛り付けた。アッ、それは、いらない。と、思っても、言葉が出ない。
一人前が、出て来た。スープもついた。

これは、食べ切れない分量である。

全部で、80バーツ。約270円。

頑張って食べた。一生懸命に、食べた。

野中は、バリバリと、生野菜を食べている。

食べ終えて、残りのチケットを、返金してもらう。
最初から、現金にすれば、いいのにと、いつも、思う。

搭乗手続き開始の、表示が、点滅している。
四階まで、エレベーターで、上がる。
ベトナム航空に進む。

支援物資が、無いので、実に、楽チンである。
出国手続きも、問題無し。

必ず、立ち寄る、アイスクリームを食べる店に寄る。
腹一杯だが、アイスクリームを注文する。

その時、ワンカップで、150バーツで、ツーカップで、300バーツである。
しかし、二つ分の、分量のカップでは、270バーツである。ということは、それを、注文し、それぞれ、一つを食べると、30バーツが、浮くことに、気づいた。
しかし、注文した後である。
次に来た時に、そうしょうと、話し合った。
話し合うようなことではないが、30バーツ得するということが、大問題なのである。

ところが、私は、立ち上がって、二つ頼んだでしょう。
これは、270バーツだから、二つで、270バーツは、駄目と、日本語で、言った。意味が通じたらしく、女は、憮然として、300バーツと、言う。

ああー
駄目、か。
食べていると、別の女の子が、笑顔で、私に挨拶する。
そうだ、二リットルのペットボトルに手をつけていない。次の手荷物検査では、水は、持って入れないと、彼女に、渡す。
コープクンカー。
もう、帰るの、またね。
日本語である。
しかし、意味が通じる。

その子に、手を振り、手荷物検査に進む。
アメリカの飛行機は、次も、検査がある。搭乗待合室に入る前である。
また、検査―――
テロが、本当に、怖いのである。

ベトナム航空は、国際線であるから、食事が出ることを、忘れていた。
あらら、また、食べることに。

まだ、時間があるので、別の待合室の、喫煙室に行く。
勝手知ったる、のである。
誰もいないはずが、職員が、たむろして、タバコをふかしていた。
皆、若い男たちである。

一人の、より、若い男に声を掛けた。
どこから、来たの。要するに、タイのどこの出身と、尋く。
ところが、英語が駄目である。

自分も、英語が出来ないのに、英語が話せるかと、尋く、私。
少しだけ。

それでは、あなたは、男が好きか、女が好きか。
これも、駄目。
野中に通訳を頼む。
しかし、ね。最初に、そんなこと、尋く、の。
いいから、尋いて。

女が好きだって。
残念。私の好みなのに。
野中が、愕然として、通訳しない。

彼は、ターミナルの、警備である。
しかし、そのように、見えない服装をしている。
きっと、エージェントなのだろう。でも、エージェントっていう、意味が、解らない。

特別警備役で、スーツで、警備をしているのであろう。
アラッ、普通の客も、入って来た。私のような人がいるのである。

広くて、大きい、スワナプーム国際空港は、私の好きな場所である。
この、スワナプームという言葉を、覚えるのに、実に時間がかかったのであるが。

ベトナムへ19

ベトナムに到着して、即座に、8ドルのタクシーに乗り、メーソン広場に向かった。
そこには、ベトナムの英雄、チャン・フン・ダオの像がある。

およそ、800年前、日本では、鎌倉時代である。
三度にわたり、ベトナムに侵入してきた、元の大軍を破り、救国の雄となった。

タクシーを降りて、すぐに歩き出し、川沿いに向かった。
慰霊に、相応しい場所を探す。
丁度、川に突き出た、船着場のような、場所があり、そこで、追悼慰霊の儀を、行うことにした。

夕暮れ迫る頃である。

まだ、人影まばらである。
バイクに、カップルが、いた。
スタッフが、白人の夫婦が、じっと、こちらを、見ていたというが、私は、気がつかなかった。

すぐに、用意していた、白紙を、枝に取り付けて、御幣を作る。
枝は、公園の、一枝を貰った。
いつも、その地にある、枝を使う。
榊でなければならないということは、一切無い。

今回は、清め祓いのみであり、神呼びをして、霊位を、置かない。
ただ、言霊により、清め祓いをするのみ。
祝詞を唱えて、しばし、黙祷する。

御幣を太陽にかざして、その、気を頂き、四方を清め祓う。

何と清清しいことであろうか。
私の勝手な、思いである。
これが、私のやりたいことである。

何故、それをするのかと、言われれば、それを、やりたいのだとしか、答えられない。

見える世界は、見えない世界に支えられてある。
それ以外の、言葉は、無い。

いずれは、ベトナムの日本人村にも行くことであろう。
そこは、ホイアンという、ベトナム中部、フエの南にある町である。

来遠橋という、1593年に、日本人が作った橋があり、町のシンボルでもある。
橋を、境に、東側に日本人街、西に中国人街がある。

橋の中央には、舟の安全を祈願する、小さな寺がある。

1999年に、世界遺産に指定された。
ホイアンについては、いずれ旅した後で書く。

ちなみに、フエを中心とした、中部では、日本語熱が、高い。
ベトナム政府は、年間、1000億円を援助する日本に対して、学校教育の場で、日本語授業の選択で、応える。

また、ホーチミンの高校でも、日本語は、選択科目にある。

さて、急ぎ、追悼慰霊の儀を、終わり、私たちは、傍のレストランに入った。
まだ、準備の時間であるようだが、快く、受け入れてくれた。
川沿いに面した、オープンカフェに、座り、ベトナムコーヒーを注文する。

ボーイたちが、まだ、仕事前で、休んでいた。
話をしたいが、英語も、通じない。
ただ、ニコニコと、笑いあうだけである。

ベトナム人が、笑う。
私は、その僥倖に、何度も出会った。

着物の、珍しさもあるのか・・・
解らない。
しばし、そこで、休む。

写真を見ると、最初に撮ったものより、慰霊後の方が、明るいのである。
不思議である。
不思議なことは、この世に、数多くある。
不思議は、不思議で、いい。
偶然でも、いい。
詮索する必要は無い。

空港に行くまでは、まだ時間があるので、ベンタイン市場に歩いて向かう。
しかし、夕暮れ時の、ラッシュである。
車と、バイク軍団の中を、道路を横断するのは、勇気がいる。

とてもじゃないが、怖すぎる。
ビュンビュンと、その走る中を、横切るのである。
心臓ドキドキ。

ようやく、市場に着いたが、疲れた。
本当に、疲れた。

ところが、市場の中は、お終いである。
皆、本日の、後片付けをしている。勿論、食堂も、である。
あららららら
と、思いきや、市場の横の広場に、屋台である。

見事に変身している。

雨が降ってもいいように、テントが、張られている。
そこを通ると、呼び込みが、激しい。
時々、変な日本語で、呼び止められる。

私は、フォーを食べるつもりである。
海鮮のフォーである。
専門店を、探すが、呼び込みに、止められる。
フォーと言うと、オッケーオッケーと、言うが、スタッフの野中が、ここは、専門店じゃないと言うので、また、先に進む。
そして、フォー専門の店に、入った。

ところで、私は、呼び込みを、無視しているのではない。
必ず、声を掛ける。
日本語である。
いい、男だねーーー
可愛いーーー
皆、意味が解るのか、照れ笑いする。

メニューには、日本語も、載っているから、ありがたい。
写真を示し、注文する。
同じものを、二つ注文し、もう一つ、余計なものを、注文したが、忘れた。
料金は、高めである。

三万ドン以上であるから、米ドルでは、2ドル以上であり、日本円では、約200円以上となる。

そうそう、水を買った。
一万ドンである。
あれっ、高い。5000ドンではなかったのか。
すると、野中が、メーカー物だよ、と言う。
観光客用なのであろう。

致し方ない。
この、みみちさは、日本に戻っても、続く。

ベトナムの感覚で、日本の店の、料金を判断するから、とんでもなく、高く感じる。
立ち食いソバが、最も理想的になる。

そして、8ドルで、乗るタクシーの場所に移動した。
と、その前に、公園を通るのである。
その公園で、女の子三人に、話し掛けられた。

高校生が、二人、一人は、大学生である。
英語が、話したいようで、一生懸命に話しかけてくる。

実は、私と、野中は、着物姿である。
話をして気づくと、私たちの周囲に、人が群がっていた。驚いた。
30人以上はいる。
私たちを、見て微笑んでいる。

これは、一曲歌うか、舞うかと、思ったほどである。
しかし、時間を見ると、駄目。
しょうがない。次のチャンスだと、カーモーン、ありがとうと、言って、その場を離れた。

女の子たちは、スイユアゲンである。
何とも、ベトナムの最後は、皆に、送られた気分であった。

8ドルの、タクシーに乗り込み、空港へ、向かう。

2008年10月27日

ベトナムへ20

世界的に見ても、グローバル化が進み、世界が単一市場になると、貧富の差が激しくなる。

私の訪れた、ホーチミンは、急速な勢いにて、外資の導入が行われたことにより、他のベトナムとは、違う。
高級ホテルや、デパートは、欧米、日本と、何も変わらない。

しかし、中部の、農村地帯は、まだ極めて貧しい。
更に、その高原地帯の少数部族は、より深刻な貧しさである。
飢餓寸前の生活を送る人もいるという。

平等という言葉ほど、ベトナムに合う言葉は、無い。
それがあったから、ベトナムは、やってきたのである。

つまり、社会主義の精神が、ベトナム流に解された。
30年以上に渡る戦争である。
その間、庶民は、貧しさは、分かち合うもの、そして、そこから、相互に助け合う、扶助の精神が生まれたのである。

今は、具体的に書くことは出来ないが、ベトナムの人は、一部の人が豊かに成るよりも、全体が平等の方が理想だと、考えている。それは、今もある。
それが、ベトナムを救うのである。

同じ社会主義でも、他の社会主義とは、別物である。
国民レベルにおいて行われる、社会主義である。
支配する者の、社会主義ではない。それは、おおよそ、全体主義に陥る。更に、幹部のための、主義になる。

しかし、問題がある。
矢張り、戦争の後遺症である。
同じ民族が戦った内戦でも、あったということである。
家族でも、南と、北として、戦うこともあったという。

平等思想は、特に北に属する人に共有されるが、南の人とは、別物である。
地域による、政治的、社会的格差というものを、考えなければならない。

簡単に言う。
経済的に貧しい、北の社会主義が、豊かな、南の資本主義を破った戦争であり、北の人が、目にしたのは、サイゴンの、豊かさに溢れ、繁栄した街である。
そこに、北の幹部が大挙して、移住し、公的機関の職務に就いた。
そして、強制的に、社会主義の名の元、南の人を追い出して、自分たちのものにした。それは、勝者である行動である。

更に、悲劇は、社会主義の、最も悪い面である、旧南政府や、軍関係者を、再教育と、称して、強制収容所に入れて、何年間も、強制労働と、思想改造に、従事させたことである。

この行為は、南の人から見ると、占領軍同様に、見えた。
共産党という、占領である。
更に、北と、共に戦った、南ベトナム解放戦線は、戦争中は、その存在を主張したが、前後は、冷遇された。

これは、実に、共産党の悪趣味を見る思いであるが、解放戦線という組織は、実は、共産党の秘密党員で構成された、党の別部隊であったと、宣言したのである。
それは、共産党以外の、愛国主義を基盤にして、解放戦線に参加した南の人の、主体性を、否定したものである。

勝利に導いたのは、共産党であるという、喧伝である。

解放戦線に、参加した人々には、勲章以外、何の特典も、保障もなかった。
それは、勝利を独占する行為であり、その共産党の姿勢に、失望したのである。

更に、共産党は、南の政府関係者、主なる者たちの、子弟には、大学の入学資格を、認めなかった。
この、処置が、中国系の人、南政府関係者の家族たちを、ボートピープルとさせた。

南の人は、北の共産党が、南を征服したのであると、考えるようになるのである。
その、しこり、は、戦後30年を経ても、解消されていない。

しかし、南の政治的敗者である事実がある反面、経済的には、南の方が、急速に発展しているという事実。
その社会も、階層化が進み、利害関係も多様化しているのである。

全体から見ても、南は、北より、益々豊になり、その格差は、四倍から、六倍といわれる。

さて、そこで、ドイモイ政策という、市場経済を導入した、ベトナムは、政治的に、市場経済を主導できる状態ではないと、思われる。

問題は、頭の切り替えである。
共産主義による、共和制では、もはや、先に進まないのは、目に見えている。
民主化である。民主共和国である。

貧しさを分かち合う社会主義から、豊かさを競い合う資本主義への移行は、社会主義では、動きが取れない。

今、ベトナムは、社会主義時代の、生活保障が、廃止され、資本主義社会で、発達した、社会保障は、国家財政不足のために、全く導入されない。

つまり、粗野な資本主義であり、新しい風、新しい考え方を、取り入れなければ、成り立たないのである。

更に、である。
共産党員になる者が、激減しているのである。
特に、若い世代では、極端に少ない。
党員になると、特典、特権が、一杯与えられるというのに、である。

特に、都会の若者には、人気が無い。
当然である。
党の方針に、忠実に従うことを、求められる。
個人的な、自由な発言、思考が、制限される。
更にである、マルクス・レーニン主義、共産党の歴史などを、義務として、強制されて、学ばせられるのである。

研究者ならば、わかるが、すでに、終わった、主義を、学んで、どうするのか。
それは、宗教の教義や、誇大妄想の指導者が、行う方法である。

思考停止にするというのは、最大の悪である。

世界の情報が、手に入る時代、若者は、見抜いている。
キャリアとして、共産党に入ることは、将来的に、マイナスになるだろうと。
それは、終わったものである、という意識からだ。

また、南では、共産党に入ることは、一種の裏切り行為ともなる。
北は、南を、占領した敵だとの、意識であるからだ。

ここでは、これ以上、書くことは、出来ないが、共産党員の特典など書くと、驚くべき、実態が見えるのである。

共産国は、賄賂天国だと、言った。
ベトナムも、然り。

バンコクから、再度、ホーチミンに着いて、市内に出るため、入国することにした。
その時に、税関に出す用紙を提出する。
半券を貰う。
それを、出国の際に、提出する。

今回、スタッフの野中が、出国の際に、それを、見失った。
探していると、係員が、早く来いと、急かす。
賄賂を受け取る、チャンスと、見た。

半券が無い。
10ドルである。
どうでもいいような、半券である。それを、回収する作業に、必ず無くす人もいるとの、想定で、賄賂を得られるのである。

ベトナム、いや、共産国は、この手の、作業が多い。
日本では、お役所仕事とでも、言うか。

実は、その時、私は、スタッフを、怒鳴り散らして、その対応を見たいという、欲求に駆られたが、穏便にという、目標を立てたので、その場を去った。
待合室で、半券が出て来た時も、再度、行って、10ドルを、取り戻そうかとも、思ったが、いやいや、次のチャンスがあると、止めた。
これから、長い付き合いを、しなければならないのである。

ベトナムへ21

簡単に、日本と、ベトナムの関係を、俯瞰する。

1992年のODA再開がなされてから、十数年間に渡る、日本のODAによる、工事の全容には、凄いものがある。

ハノイと、ハイフォンを結ぶ、国道の整備、橋梁の架設、多くの国道の整備がされた。
南部と、北部を分ける、ダナンと、フエの中間にある、ハイヴァン峠のトンネル工事によって、90分もかかった、道が、20分で、通過するようになった。

ハノイのノイバイ空港の現代化、ホーチミンのタンソニャット国際空港の新設も、日本のODAである。

更に、多くの湾岸施設の改修や、下水道の工事、僻地の、小学校建設、などなど、甚だしいほどの、協力である。

2006年には、ズン首相が、来日し、ハノイと、ホーチミンを結ぶ南北高速鉄道と、南北縦貫高速道路、また、ITを中心とした、ホアラック・ハイテクパークの建設を、主要な、三つの、ODA案件として、日本政府に要請した。

兎に角、日本が、ベトナムに、大変な支援をしているということ、である。
これを、両国の国民が、知るべきである。

共に、日本企業の進出である。
トヨタ、ホンダ、キャノンなど、日本を代表する多国籍企業の多くが、ベトナムに工場を持つ。
中小企業の数も多くなり、開発中を含めて、150以上あると、いわれる。

ベトナム政府は、2010年までに、一人当たりの、GDPを、1100ドル程度にすることを、目標としている。

ベトナムが、市場として、次第に成長していることも、重要な要素である。
ホーチミンには、中間層といえる、階層も、出てきている。

二年前の、06年、日本からの、直接投資は、許可ベースで、約14億ドルと、過去最高になった。

中でも、IT産業である。
データ処理、ソフト開発などを、下請けに出すというものが、急増である。

ベトナムに出掛ける、日本人観光客の数は、駐ホーチミン日本総領事館によれば、昨年の、07年は、年間、41万8000人になったという。

更に、私が注目したのは、高齢者の、長期滞在である。
老後の生活を、ベトナムで、過ごすという、高齢者が増えているといわれる。

ベトナムでは、相互扶助の精神が、残り、温かい人情がある。
そして、年長者に対する、尊敬である。
つまり、ベトナム人の、中に、分け入ってゆくと、本当のベトナム人の気質が、現れるということである。

笑わないベトナム人は、実は、深い付き合いで、人情味溢れる付き合いに変容してゆくのである。

それが、今回の私の体験した、成果でもある。
それが、縫ぐるみが、きっかけになったという・・・

そして、衣服の支援である。
まさか、ホーチミン市内で、差し上げることになるとは、予想していなかったのである。

車をチャーターして、ホーチミンから出る計画だった。

これは、個人活動であるから、本当に、ささやかな行為である。
大量の衣類を持っては、行けないが、個人レベルでの、付き合いが出来る。そして、本当のベトナム人の持つ、人情に触れられる。

これからの、抱負を言えば、ホーチミンにて、ベトナムの人との付き合いを、深めて、ベトナム中部の、農村、そして、少数部族の人々に、支援したいと、思う。

日本のボラティア団体、個人的活動と、多くの日本人が、ベトナムにて、奉仕活動をしている。
それは、また、目覚しいものがある。

国際社会の、グローバル化というものを、しっかりと、理解していると、国境を超える。
市民レベルでは、国境を超えているのである。

うまく行けば、市民レベルで、平和を築くことが、出来るはずである。
誇大妄想の、全体主義指導者が、現れなければ。

一番、最初に、提案したことであるが、何故、日本人が、他国で、ボランティア活動をするのか。
日本でも、貧しい人、助けを必要としている人がいる。
当然の話である。

しかし、グローバル化を、理解すれば、国境は、関係ない。
ベトナムの若者が、日本の高齢者介護に、出て来ることもある。

思考も、グローバル化するべきなのである。

国内で、ボランティアする人も、海外で、ボランティアする人も、その、性格と、好みである。
それを、誰も裁けない。
ましてや、何もしない、出来ない者が、それを、批判し、更に、非難することなど、出来ない。

やりたい場所で、やれることを、する。
世界は、一つであることを、その行為に、託す。
素晴らしいことである。

それが、一つの主義や、主張、更に、教義に基づくものではなく、知性と感性と、理性によって、行う。
実に、新しい世紀の、行動である。

人類を救うために、云々という、お説に、惑わされないことである。

特に、日本人の行動は、宗教の布教でもなく、主義の公布でもない。
純粋に、人間としての、行動である。
純粋な人間の行動というのは、これでなければ、いけないという、観念を作らない。

柔軟に対処する。
臨機応変な対応が出来る。

新興宗教の、言い分がある。
本当の救いは、正しい教えによって、人を導くことであると。
それは、物資支援よりも、大切なことであると。
精神の救い、心の救いのみが、正しいというのである。

私は言う。
勝手な、精神であり、勝手な心というものを、作り上げて、それを、救うという、誇大妄想は、救いようがない。

大昔に、日本に仏教を伝えた人々がいる。
命懸けで、海を渡った。それは、時代性である。
その時代に必要とされた。

大昔の、観念から抜け出ない者が、教えを説くのである。

仏教の国に、キリスト教を布教するという、お馬鹿な真似は、止めるがいい。
更に、日本の新興宗教の輩、多数。
教線を広げることが、組織の、発展を促す。商売ではないのである。
それぞれの、土地に、合ったもの、伝統と、伝承がある。
それを、破壊することなく、知性と、理性に従い、行為行動すること。

それ以下に、新しい時代、新しい世紀に、生きるべき道は無い。

人類を救うために、という、言葉は、戯言である。
一人も、救えない者が、何をかいわんやである。

私は、一人の人間も、救うことが出来ないという、真実に立って、行為する。

真理の教えというものは、無い。
あれば、妄想である。
それを、信じると、ほぼ、思考が停止する。
別の人の、人生となる。
書き足りないが、終わることにする。

2008年10月28日

ベトナムへ 和歌を詠む

ホーチミン・サイゴンにて詠める歌


サイゴンの 川辺に祈る 追悼の 波立ち騒ぐ 飛沫吹き上げ

流れ行く サイゴン川に 追悼の 流す涙に 風渡るかな

サイゴンの 風渡るらし 川沿いの 船の行き来を 和やかに見る

渡し舟 行き交う波の 飛沫には 流れの速さ 悲しくもあり


雷の とどろき渡る サイゴンの 川辺の空が 明け開けゆく


ベトナムと 風の有様 変われども 人の生き様 変わることなし

歴史をば 知るということ その国の 人の心を 知ることなりと


今日食べる ことのみありて 生きること 逞しき人 溢れる如く

生き抜いて とにかく生きて 生き抜いて この時の世を 味わいつくす


歴史をば 生きるは我と 気づくとき 目の前のもの 光輝く

旅をする ことを旅する 旅もあり 屋台のフォーの 淡き味なり

人により 人は心を 取り戻す 善き人もそれ 悪しき人も


故郷を 異国の町で 思うなり それ生きるに 変わることなし

ホーチミン 立ち去りがたく 後ろ髪 曳かれる如く 後振り返らず

平和をば 行進した人 ベトナムの 今を知ること なくて安穏


追悼の 慰霊の所作の 床しさを もののあわれに 我は 見るなり

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