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2009年02月 アーカイブ

2009年02月01日

もののあわれについて322

源氏「いかなるやうぞ。いとかかる事こそまだ知らね」と、いとものしと思ひて宣へば、いとほしと思ひて、命婦「もて離れて、似げなき御事とも、おもむけ侍らず。ただ大方の御物づつみのわりなきに、手をえさし出で給はぬとなむ見給ふる」と、聞ゆれば、源氏「それこそは世づかぬ事なれ。物思ひ知るまじき程独り身をえ心に任せぬ程こそ、さやうにかがやかしきも道理なれ。何事も思ひしづまり給へらむと思ふにこそ。そこはかとなく、つれづれに心細うのみ覚ゆるを、同じ心に答へ給はむは、願ひかなふ心地なむすべき。何やかやと世づける筋ならで、その荒れたるすのこに佇ままほしきなり。いとうたて心得ぬ心地するを、かの御ゆるしなくともたばかれかし。心いられし、うたてあるもてなしには、よもあらじ」など、語らひ給ふ。


源氏は、一体、どうしたことだ。今まで、こんなことは、あったことがないと、大変、不快そうであるので、命婦は、気の毒に思い、お話にもならない、不釣合いな、ご縁と申し上げたことは、ありせん。ただ、何事にも、むやみに、物恥ずかしくされるので、お手も、出さないのだと、思いますと、申し上げる。
源氏は、それこそは、世づかぬことなれ、情が無いと言うだと、言う。
物心つかない頃とか、我が身を思う通りに出来ない頃ならば、恥ずかしがるのも、解るが、もう、万事において、分別がついていると思えば、言うのだ。
どうしたわけか、何も手がつかず、先も短い気がする。こちらと、同じような心境なら、お返事を下されば、願いも叶うと思うが。
何やかやと、色恋沙汰ではなく、ただ、あの荒れた、すのこ、縁の所で、しばらく、お話がしたいのだ。
何とも、おかしな、気持がするが、姫のお許しがなくても、お前が、何とか、段取りを、つけてくれないか。
やきもきさせたり、酷い仕打ちは、しないだろうなと、お頼みになる。


さやうにかがやかしきも道理なれ
道理とは、物事の、ことわり、である。
かがやかしき、とは、恥ずかしい、赤面するという意味。

その荒れたるすのこに佇ままほしきなり
すのこは、ぬれえん、濡れ縁である。
建物の周囲に、設けられてある。縁側。
男の訪問を、最初は、すのこにも、座らせないのが、礼儀である。

なほ、世にある人の有様を、大方なるやうにて聞き集め、耳とどめ給ふ癖のつき給へるを、さうざうしき宵居などに、はかなきついでに、さる人こそとばかり聞え出でたりしに、かくわざとがましう宣ひ渡れば、なまわづらはしく、女君の御有様も、世づかはしく、由めきなどもあらぬを、なかなかなる導きに、いとほしきことや見えむ、なんど思ひけれど、君のかうまめやかに宣ふに、聞き入れざらむも、ひがひがしかるべし。父親王おはしける折にだに旧りにたるあたりとて、おとなひ聞ゆる人もなかりけるを、まして、今は浅茅わくる人もあと絶えたるに、かく世にめづらしき御気配の漏りにほひ来るをば、なま女はらなども笑み設けて、「なほ聞え給へ」とてそそのかし奉れど、あさましう物づつみし給ふ心にて、ひたぶるに見も入れ給はぬなりけり。

なににせよ、このお方が、世の女の話を、よそ事のようにして、聞いていらして、実は、深く耳に留めている癖が、ついているとは、知らずに、座が白ける様子から、話題を探していた、宵。
ふっとした、話のついでに、「こういう方がおいででと、だけ申し上げたのに、このように、改まり、何度も、催促されるので、いささか、煩くもあり、また女君の様子も、付き合い上手ではなく、なまじ、手引きをして、お気の毒な事が起こるかもしれないと、思う。
でも、君が、これほど、真剣におっしゃるのに、知らぬ顔も、出来ないし、意地が悪いと、思われる。
姫の御父上様が、ご存命の時でさえ、時世に取り残されたところだからと、お訪ねする人もいなかったのだから、今では、更に、荒れ果てたお邸を、訪れる人はいないので、このような、世にも、稀な、お方のお手紙を拝見すると、なっていない女房なども、笑顔になり、これは、お返事なさいませと、お勧めするが、姫は、大変な恥ずかしがりやで、全然、読むこともしないのである。
と、作者は、命婦の心境を、語る。

浅茅わくる人もあと絶えたるに
荒れ果てた邸に、訪ねる人である。

なま女
つまらない、未熟な女房のこと。


命婦は、「さらばさりぬべからむ折に、物越しに聞え給はむ程、御心につかずは、さても止みねかし。また、さるべきにて、仮にもおはし通はむを、とがめ給ふべき人なし」など、あだめきたるはやり心はうち思ひて、父君にも、かかる事なども言はざりけり。

命婦は、それでは、都合の良い時に、襖越しに、お話をなさつてください。
お気に召さなければ、そのまま、おやめ下さい。
それとも、また、ご縁があり、暫くの間なり、通いになりましても、咎める人もいません。
などと、浮気で、調子に乗る女ゆえに、ふと、そう思い、父である、兵部大輔、だゆうに、も、何も話さなかった。


とがめ給ふべき人なし
後見人が、いないという。
要するに、干渉する人がいないのである。

命婦一人の思いと、作者の思いが、綴られる。

作者は、命婦を、あだめきたるはやり心はうち思ひてと、言う。
何事にも、調子に乗る女と、言うのである。

女が、女に対しては、実に、厳しい目を向けるのである。

それが、この、段の面白さでもある。

いつの世も、女が、女を見る目と、品定めする目は、厳しいものがある。

命婦は、姫が、控え目であり、更に、超不細工であることを、知っているのであろう。
それで、源氏に対しても、程々にと、意見するのであるが、源氏は、気づかない。
見ないうちは、解らないのである。

2009年02月02日

もののあわれについて323

八月廿余日、宵過ぐるので待たるる月の心もとなきに、星の光ばかりさやけく、松の梢吹く風の音心細くて、いにしへの事語り出でて、うち泣きなどし給ふ。いと良き折かななど思ひて、御消息や聞えつらむ、例のいと忍びておはしたり。月やうやう出でて、荒れたるまがきのほど疎ましく、うちながめ給ふに、琴そそのかされて、ほのかに掻き鳴らし給ふ程、けしうはあらず。少し気近う今めきたる気をつけばや、とぞ、みだれたる心には、心もとなく思ひ居たる。人目しなき所なれば、心安く入り給ふ。命婦を呼ばせ給ふ。


葉月、二十日過ぎ、夜更けまで出ない月が、待ち遠しい。
星の光だけが、冴え渡る。
松の梢を吹く風の音も、心細く、姫君は、昔のことなどを、語り、涙する。
命婦は、丁度よい折だと、お便りを、差し上げ、君は、いつものように、お忍びで、いらした。
月が、次第に登り、荒れた、まがきのあたりを、照らすのも、気味悪く思っていらっしゃるのではと思う。
命婦に勧められて、姫の弾く琴の音も、まんざらではない。
少しは、優しく、今流行りなところを、持たせたいと、浮ついた心から、命婦は、物足りなく思うのである。
人目の無い所であるから、君は、気兼ね無しに、お入りになる。
命婦を呼ばせた。


自然描写が、美しい。
非常に、微妙、曖昧な、風景描写である。

松の梢の吹く風の音心細くて
そこに、星の光ばかりさやけく、のである。
月は、出ない。

荒れたるまがき
竹や柴で、作った垣根である。
それが、見苦しいのである。
つまり、姫の境遇に、重ねられる。

こういう、情景を、後に、侘しいと、言うようになる。
そして、その、侘しさが、美の意識によって、侘びとして、茶の湯などに、生かされることになる。

侘びはまた、寂びを、伴うのである。
共に、自然が醸し出す、風情であり、それを、そのままに、少しの、手を加えて、美に、仕立て上げるという、感性の、細やかさは、言いようが無い。

人工的といわれる、寸前で、止まる。
その、止まるべき、程度を、美意識として、認識した。
自然無視の、姿勢ではない。
自然を、最大限に、生かし尽くすのである。

自然が、無ければ、この、日本の美も、美意識も無い。

今しも驚き顔に、命婦「いとかたはらいたきわざかな。しかじかこそおはしましたなれ。常にかう恨み聞え給ふを、心にかなはぬ由をのみ、いなび聞え侍れば、自ら道理も聞え知らせむ、と宣ひ渡るなり。いかが聞え返さむ。なみなみのたはやすき御ふるまひならねば心苦しきを、物越しにて、聞え給はむ事聞こ召せ」と言へば、いと恥づかしと思ひて、姫「人に物聞えむやうも知らぬを」とて、奥ざまへいざり入り給ふ様、いと初々しげなり。うち笑ひて、命婦「いと若々しうおはしますこそ心苦しけれ。限りなき人も、親などおはして扱ひ後見聞え給ふ程こそ、若び給ふも道理なれ。かばかり心細き御有様に、なほ世をつきせず思し憚るは、つきなうこそ」と、教え聞ゆ。さずかに、人の言ふ事は強うもしなびぬ御心にて、姫「答へ聞えで、ただ聞けとあらば、格子など鎖してはありなむ」と宣ふ。命婦「すのこなどは便なう侍りなむ。おしたちて、あはあはしき御心などは、よも」など、いとよく言ひなして、二間の際なる障子、手づから、いと強く鎖して、御褥うち置きひき繕ふ。

お出でになるのを、今初めて知ったような顔をして、命婦は、本当に困りましたことです。こういう方が、お出でになりました。いつも、ご返事がないと、小言を申されるのですが、私の一存ではと、お断りしますと、それでは、仔細は、私が言うと、かねがね仰っておいででした。
どう、お返事したものでしょう。
普通の人の、気軽な、お出ましとは違います。お気の毒ですから、襖を隔てて、あちらの、申し上げることを、お聞きくださいと、言うと、決まり悪いと、思い、姫は、お話など、出来ませんと、奥の方へ、引っ込んでしまうのも、うぶな様子である。
命婦は、微笑んで、いつまでも、お子様でいらっしゃるのが、気がかりでございます。
どんな身分の方でも、親御がいらして、お世話なさり、後見する間は、子供でいても、いいものですが、頼る人のいないご様子で、いつまでも、引っ込みじあんでは、おかしうございますと、教える。
とは、言うものの、人の言うことを、強く拒まない性格なので、姫は、お返事は、しませんが、ただ、お聞きするだけなら、格子に錠をして、お会いしますと、言う。
命婦は、縁側などは、失礼です。無理に軽々しいことを、考えるなんて、そんなことは、などと言いつつ、客間との間の、襖に、命婦が、自ら、錠を下ろして、座布団を、用意する。


しかじかこそおはしましたなれ
姫に、話たことを、省略するという、描き方である。

奥ざまへいざり入り給ふ様
同時は、室内では、立って歩くことなく、膝行、いざって動いた。
今では、茶室などで、そのようないざり方をする。

あはあはしき御心
軽率な、軽薄なという意味。

よも
よもしたまはじ、の、略である。
まさか、そんなことは、である。
ここでは、まさか、そんなことを、なさることはない、である。

御しとねうち置きひき繕ふ
敷物。綿のない座布団。

細やかなる、様子が、見て取れる。

姫の言葉である、ただ聞けとあらば、格子など鎖してありなむ、とは、姫のプライドであろうか。

お話を、伺えといえば、障子を隔てて、聞きましょうと、言うのである。

作者は、矢張り、姫にも、敬語を使っている。

この、物語の格調の高さである。

もののあわれについて324

いとつつましげに思したれど、かやうの人に物言ふらむ心ばへなども、夢に知り給はざりければ、命婦のかういふを、あるやうこそは、と思ひてものし給ふ。乳母だつ老い人などは、曹司に入り臥して、夕まどひしたる程なり。

姫は、大そう恥ずかしいようだ。
このような人に、受け答えするような、心得などは、少しも知らないので、命婦が、あるやうこそは、あるべきようにあるということを、知りぬいていると、姫は、任せきるのである。
乳母などの、老人は、部屋に引きこもり、うつらうつらしている、時間である。


姫にとっては、いや、命婦にとっても、大イベントである。
源氏の君を、迎え入れるのである。

若き人二三人あるいは、世にめでられ給ふ御有様を、ゆかしきものに思ひ聞えて、心げさうしあへり。よろしき御衣奉りかへ繕ひ聞ゆれば、正身は、何の心げさうもなくておはす。


若い女房二三人は、起きている。
世間で評判の、その様子を見たいと、皆、いそいそとしている。
命婦が、相当な衣装をもって、着替えさせ、繕うが、本人は、いっこうに、いそいそともせずに、いるのである。

ゆかしきものに思ひ聞えて
ここでいう、ゆかしきは、後の、床しいである。
奥床しいという言い方もある。
源氏の姿が、ゆかしいものと思う、その、ゆかしいとは、何か。
世間で評判の、姿は、なかなか目にすることのできないものである。
現代の、ゆかしい、という意味とは、違う。しかし、ゆかしい、という言葉は、この頃から、使われていたということだ。

この場合は、目にすることが、出来ない、珍しさである。
更に、高貴でなければならない。
手の届かない、高貴な、御姿という意味である。
それが、変転してゆく様が、面白い。

男は、いとつきせぬ御様を、うち忍び用意し給へる御気配、いみじうなまめきて、「見知らむ人にこそ見せめ、何の栄あるまじきわたりを、あないとほし」と命婦は思へど、ただ、おほどかにものし給ふをぞ後やすう、さし過ぎたる事は見え奉り給はじと思ひける。「わが常に責められ奉る罪さりごとに、心苦しき人の御物思ひや出で来む」など、やすからず思ひ居たり。

男君は、まことに、限りなく美しい姿で、目立たぬように、注意していたが、すみずみまで整えて、目のある人には、見せたいほどである。
ものの見栄えの無い所なので、命婦は、お気の毒だと、思うが、姫君は、おっとりとして、いらしっしゃるから、心配ない。出過ぎたことは、しまいと、思っていた。
自分が、いつも、責め立てられる責任を逃れようして、手引きし、姫君の、物思いの種に、ならないかと、心配するのである。


物語で、男と女が、逢う場面では、皆、男、女と、書くだけである。
そこでの、身分には、触れない。
ここにも、紫式部の、意気がある。
粋とも、いうか。

命婦が、わが常に責められ奉る罪さりごとに、というのは、源氏が相手である。奉ると、敬語をつける。
いつも、源氏に責められて、責任を負わされるというのである。
それは、女に逢う手引きのこと。
源氏の横暴である。お前が悪いのだ、早く逢わせろ、なのである。

君は、人の御程を思せば、ざれくつがへる、今やうのよしばみよりは、こよなう奥ゆかしうとおぼさるるに、いたうそそのかされて、いざり寄り給へる気配、忍びやかに、えびの香いとなつかしう薫り出でて、おほどかなるを、「さればよ」と思す。年頃思ひわたる様などを、いとよく宣ひ続くれど、まして近き御答へは絶えてなし。源氏「わりなのわざや」とうち嘆き給ふ。


君は、姫君の身分の高さを知り、洒落た今時の、気取り屋よりも、さぞ奥床しいと、予想していた。
女房たちに、勧められて、いざり寄る様子は、物静かで、心ほぐれる、衣被香、えびの香が、漂い、いかにも、おっとりとした風情である。源氏は、やっばりと、思うのである。
久しい以前から、思い続けているということを、言葉巧みに、告げる。
手紙でさえ、返事が無いのだから、口からの言葉も、全く無い。
困ったことだと、お嘆きになるのである。


こよなう奥ゆかしう
とても、奥床しいという。
ここでは、現代に使われる、奥床しさという意味で、受け取る。

えびの香いとなつかしう薫り
衣からの、香が、懐かしく、薫るという。

これは、現代文に、訳す事が出来ない情景である。

懐かしいとは、しみじみと、切々と、と、訳してみるが、懐かしい薫りという言葉に、適わないのである。

旅先で、風景を見て、懐かしく感じる。
それは、切々と、風景が心に、迫ってくる。
どこかで、見た風景だと、思う程、心が、その風景に引き付けられる。
それを、懐かしいと、言う。

初めて逢う人にも、懐かしい気持というものがある。
知っていた人のようである。
それを、懐かしいという。なつかし
大和言葉の、骨頂である。

2009年02月11日

フィリピンへ

この旅を、どのような形で、書き始めるかと、考えた。
色々な、切り口がある。
そして、その切り口が、多い。

兎に角、驚きであり、見なければ理解出来なかったこと、多々ある。
すべては、現場で起こっていることなのである。

三日目の朝、ようやく、ホテルの電話から、実家に連絡できた。
ホテルの部屋の電話ではない。大型高級ホテルでなければ、部屋から、国際電話など、かけられない。
ゲストハウスの電話からである。

そこで、母から、妹が、逝ったと、聞かされて、絶句した。
覚悟は、していたことだが、昨夜、11:30分に亡くなったという。

私は、妹の見舞いに、12月と、1月に出掛けている。
今まで、冬の時期に、出掛けることはなかった。
14年振りのことである。

妹を手当てしながら、妹は、よく来てくれたよねー、と何度も言った。
早く、体力を回復して、免疫療法を受けると、言っていた。
札幌の、病院なら、来て貰っても、いいねーと、言っていた。
しかし、妹は、確実に、一月中には亡くなることが、解っていた。

肝臓癌は、骨にも、胃にも、肺にも、転移していた。
お腹は、膨らんでいた。

その、夫と、私と、弟だけが、それを、知っていた。

旅の計画では、明日、四日目で、レイテ島に渡るはずだった。

その前に見た、マニラのスラム、街中の路上生活の人々、そして、妹の死によって、私の気力は、甚だしく落ちた。

最初のゲストハウスから次の、ゲストハウスに移る前に、同行のコータと、大喧嘩をして、部屋を別々にしていた。

同行のコータは、私より、感受性が強い。
それゆえ、衝突することも多い。
ただし、嫌いな人ならば、許せないと思うことも、好きな相手だと、許せる。これは、当たり前である。

冷静に考えて、悪かったと思う方が、謝って、終わる。
今回は、コータが、謝った。

まだ、寝ているコータの部屋に入り、持ち物を取り出して、私は、妹を偲ぶ歌を、
延々と書き続けた。

妹との、最後の会話は、
万が一のことを考えて来たんだ。フィリピンに出掛けている間に、アンタが死ぬかもしれないし、私が死ぬかもしれないし。
もし、あんたが、死んだら、兎に角、真っ直ぐに行きなさいよ。
光に向かって、真っ直ぐに行けばいいんだ。
そして、向こうに、落ち着いて、皆を守れば、いいんだから。
迷ったら、守れないからねー。

妹は、うん、とうさんも、迎えに来るべさ、と言った。

その、父は、何度か、妹のところに、来ていた。
勿論、肉体はないから、気である。
気を霊と、言ってもいい。

成人式の、翌日の夜に、亡くなった。
息子と、自分の着た振袖を着た、姪の成人した姿を見て、大そう喜んだと言う。
はじめて、自分の息子を、こんなに立派になったと、誉めたという。

女として、妻として、母親として、妹も、成長し、そして、亡くなった。
正式には、崩、かむあがり、したのである。

病室の窓から入る太陽の光に、手を合わせて、私は、何かに祈りたくなったら、太陽を拝めばいいんだと言った。

私の、手当てを、気持いい、気持いいと、感激していたので、これは、すべて、太陽からの、光だと、言った。
この光で、生きているし、死後も、この光に、照らされる。

天照る光だと、私は、はじめて、妹に教えた。

死に近づいて、素直な妹を、善しと、思った。

ちなみに、私の、手当ては、治す手当てではない。相手の、治癒力を引き出す手当てである。

臓器が、癌に、侵されて自然に、命尽きると、思われた。時間の問題である。
妹は、札幌から、三時間のバスに乗らなければならない、田舎町に、私が来ることを、済まない、済まないと、何度も言った。
日帰りすると、六時間、乗ることになる。
大変な、疲れを感じる。

兄ちゃん、もう、来なくて、いいからねー
札幌の病院に行ったら、来て頂戴

それが、最後の別れだった。

マニラのゲストハウスの部屋で、バスタオルを口に当てて、泣いた。

悲しくて
切なくてなお
妹を
泣きながら呼ぶ
我はあはれか

母よりも
我よりもまた
先に逝く
妹あはれ
あはれやあはれ

異国にて
愛しき妹を かなしきいもを
弔うは
縁のゆえの えにしのゆえの
慟哭にあり

喪失の
思いは天に
マニラの空
妹の思い
満ち満ちてあり

妹よ
我は泣くなり
人の世の
儚きことの
夢の如くに

妹の
弔いをする
マニラにて
貧しき人を
拝み奉らん

レイテ島行きを、中止した。
そして、マニラにての、追悼慰霊と、支援活動を決定した。

予定変更は、今までの旅では、なかったことである。
更に、マニラという街の、有り様も、今までになかった。

フィリピンの歴史を鑑みて、更に、その政治を見て、人々の、性質を見て、現状を見て、お化け屋敷のような、街の様子を、克明に記すことだと、思う。

一時的に、私達は、マニラに、自縛させられたのである。

2009年02月12日

フィリピンへ2

朝、九時半の飛行機である。
前日の夕方、成田に向かった。
もし、雪でも降れば、バスか止まる。九時半の飛行機には、二時前の七時半までに行かなければならない。そのためには、部屋を五時半前に出ることになるので、前日にした。

チャイナエアラインである。
台北で、乗り継ぎ、その日の夕方、マニラに着く。

食事の時間以外は、寝ていた。
台北での乗り継ぎは、飛行機が遅れたので、すぐだった。

マニラの時間は、日本より、一時間遅い。
四時に着いた。日本時間では、五時である。

夕方の混雑している道を、タクシーに乗って、マニラ市内の、エルミタ地区のゲストハウスに向かう。
有名ホテルではないゆえ、タクシーが、迷った。

エルミタ地区は、繁華街である。
ジプニーという、乗り合いバスが、甚だしく多い。
昭和30年代の、トラックを改造したような、乗り合いバス。排気ガスが、また、酷い。
街中は、排気ガスと、外で、肉類などを焼く、煙で、濛々としている。

一泊、1000ペソの部屋である。2000円である。
円が強くて、大変得をしたように思う。

それ以下の、部屋は、後で知ることになるが、下が飲み屋で、その上に部屋があるという、へんてこなホテルである。
つまり、下で、飲んで、女と話が決まると、上の部屋にということなのだろう。

何件か、見て回ったが、泊まれる部屋ではなかった。

ゲストハウスは、1000ペソが、相場である。
そんな中でも、良い部屋は、1600ペソなどもある。

さて、最初の夜である。酷かった。
一晩、ほとんど、うとうとした眠りだった。
兎に角、煩い。
道路に面していて、車の音のみか、深夜になると、人の話し声から、歌う声、奇声である。

一晩で、諦めた。

安いので、レイテ島に行くまで、泊まるつもりが、翌日、チェックアウトの時間に、出ることにした。
スタッフは、皆とても、親切で良かったが、部屋が、悪すぎる。

私達は、支援物資を持って、移動した。
その前に、ある程度、地図を見て、少し歩いていたので、検討は、つけていた。

元は、個人宅だった、ゲストハウスである。
共同トイレ、バスだったが、部屋が綺麗で、完全に、下界と、切り離された家の奥なのである。プールもあった。

ところが、その周辺が、スラムだったということが、今回の旅の予定を、狂わせた。

部屋を移る前に、同行のコータと、大喧嘩をした。
何気ない、言葉のやり取りが、私を激怒させた。
このようなことは、多々ある。

私が、激怒すると、手がつけられない。
私は、一人で、荷物を持ち、ハウスを出た。
別々に、行動しても、いいと、思った。

汗だくになって、歩いた。コータが、後を付けて来る。
そして、タクシーに乗ろうと、話しかけるが、無視した。
何度か、呼ばれたので、道端で、大声で、怒鳴った。

お前のような、傲慢な者と、一緒にいられるか。
それは、歌を歌う声より大きく、周囲の人々が、立ち止まるほどの、大きさだった。

私の、怒りは、死んでもいいと思うほど、強いもので、自分でも、驚くばかりの、迫力なのである。

タイの、タクシー運転手ならば、銃で撃つほどのものだろう。

帰りのチケットをコータに、渡して、別々にと、思ったが、さすがに、コータは、それは後でと言い、タクシーを捉まえた。

ゲストハウスには、すぐに、着いた。
もし、タクシー運転手が、ぼろうとしたら、私の怒りは、完全に、タクシー運転手を殺すか、私が殺されていただろう。

ゲストハウスでは、二つの部屋を取った。
こんなことも、はじめてである。

コータと一緒にいなくないのである。

感情が激する人間は、本当に危ないものである。

私の部屋は、まだ、入ることが出来なかった。コータは、部屋に入り、疲れで、寝たようである。

私は、一人、その周辺を歩いた。
レストランが多く、ゲストハウスも多い。
そして、何より、現地の人の住まいがあった。

よく言って、長屋のような住まいであるが、路上生活をしている人も多い。

子供達が、遊んでいた。
汚い服を着ている子は、まだいいが、上半身裸の子もいる。

昼を過ぎたので、一件の屋台で、食事をすることにした。
フィリピンでいう、作り置きのスパゲティと、イカの丸焼きである。イカの中には、トマトと、玉ねぎが入っている。

160円ほどで、サービスに、スプライトがついた。
翌日、軽く食中りをした。
一日、下痢が続いた。
作り置きの、スパゲティのような気がする。
イカは、完全に焼けていた。

漸く、ホテルに戻り、部屋に入った。
大きい、ダブルベッドである。

二階に、三つ部屋がある離れのような作りの部屋である。

その周囲に、部屋が、点在するという、豪華さである。
1000ペソは、安い。

コータは、一号の部屋、私は、三号の部屋だった。
二号の部屋には、白人の男女のカップルである。

それが、また、悪かった。
夕方から、彼らは、セックスをはじめた。
最初は、ドアをノックしているのかと、何度か、ドアを開けたが、誰もいない。

何の音かと、耳を澄ませた。
すると、隣の物音である。

白人の、セックスは、兎に角長い。
五時間ほどしていたようである。
そのうちに、激しい音音音である。

壁を突き破るのかという程の音である。

横になって、体を休めようと思っていた私は、彼らのセックスの音で、横になるだけで、眠ることも出来なかった。

まだ、30前後の二人である。
それは、理解する。

漸く、終わったようで、最後の、激しい音が、止んだ。

そして、二人は、それぞれ、シャワーを浴びて、プール沿いの、パラソルで、食事を始めた。

私も、一緒にセックスをしていたかのように、ぐったりと、疲れた。

そんな時に、ノックである。
コータだった。

どうしたら、許してもらえますか
との、コータの言葉である。

コータの何気ない言葉に激怒したのである。
反省しての、お詫びである。

怒りとは、相手に対する怒りと、正すという怒りと、自分勝手な怒りと、色々ある。

所違えば、常識も違うので、そんなことでは、怒らない。
何気ない言葉は、許すが、一緒にいる者の、何気ない言葉には、怒りが必要なこともある。

コータは、まだ若い。

怒られた方がいい時もある。

私は、コータが好きだから、一緒にいられる。
また、それ程の怒りは、嫌いでは、起こらない。

コータを部屋に入れて、二人で、水を飲んだ。
夜は、焼肉を食べることにした。

あんたがいるから、安心して、この活動が出来ると、私は、言った。
感受性が高くなければ、私の主たる目的である、追悼慰霊の、お手伝いは、出来ないのである。

霊的な所作には、必ず、もう一人が、必要なのである。
その訳は、追々と、書く。

フィリピンへ3

焼肉屋は、日本人経営の店であった。それは、店員が、日本語を話すから、解った。

二人で食べて、1500ペソ程度で、3000円であるから、大変高い値段である。勿論、日本では、比べ物にならない程、安い。

私が、安いとか、高いというのは、現地の通常の価格に対してである。
200円程度の食事が、普通ならば、高いのである。

その日は、アルコールは、飲まなかった。
疲れると、てきめんに、アルコールを欲しない。

その店を、出て、少し歩き、ショーのあるレディボーイの店に入った。
コータが、あらかじめ、調べていたのだ。
日本のニューハーフショーは、フィリピンが発祥である。
それを、初めて、日本に紹介したのは、札幌の、ある店だった。
当時は、画期的だった。

男が、女より美しくあるという、触れ込みであった。

私も、その店で、初めて、ニューハーフショーを見た。
もう、25年ほど前である。

だが、フィリピンでは、廃れた。
今も、その手の店は、あるが、あまり、客が入らない。

その店も、老舗であった。しかし、最初は、私達二人だけが、客だった。
そのうちに、二組の客が入って来た。日本人である。

あまり、煩いので、私達は、ショーの前に店を出た。
音も、会話も、煩いのである。それに、英語だから、疲れる。はりきっているのは、解るが、そのテンションについてゆけないのである。

二人の、レディボーイに、ご馳走して、会計は、3000ペソを超えた。6000円である。大変な出費だった。

それで、明日も来て、である。
日本人は、金持ちであると、見ている。
それ程の、出費をして、得るものは、無かった。
大半は、お金がなく、手術をしていない、男の体のレディーである。

それから、ぶらぶらと歩いて、通りの角の店の前の椅子に座った。
そこが、ゲイの店であることが、解ったのは、日本語が出来るフィリピン人に逢ったからである。
日本に、働きに来ていたという、二人のフィリピン人男性に逢った。
更に、その彼氏は、オーストラリア人であった。そして、その友人の、マレーシア人も、日本で働いていたことがあるという。
四人でいたテーブルの横に、座ったのだ。

マレーシア人から、貴重な話を聞いた。
彼の、家の近くに、日本兵の墓があるという。しかし、今は、誰も訪れる人がなく、墓は、荒れているという。
もし、私達が、来るなら、案内するというものだった。
コータが、英語で、私達の活動を話したことで、その話になった。

確かに、マレーシアに慰霊に行く人は、聞いたことがない。
これは、貴重な情報であるから、コータに、彼の連絡先を聞いて貰った。

彼らは、大変親切だった。何か、必要ならば、協力しますと言う。
私は、一時間ほど、マッサージがしたいと言うと、近くにあるので、案内すると言う。
男のマッサージ師がいる店だというので、案内して貰うことにした。
コータをそこに置いて出掛けた。

タイのような、マッサージは無い。
オイルマッサージが、一時間で、サウナ、風呂付で、900ペソである。高い。しかし、折角案内してくれたと、受けることにした。

その時、何気なく、時計を見た。
その時計を、暫く見つめていた。
10:30であった。
もうこんな時間なのかと、思った。
日本時間では、11:30である。丁度、妹が亡くなった時間である。
それを、知らずに、私はマッサージを受けていた。
その、技には、納得したが、後が悪い。
マッサージの男は、色気で、挑発してきた。
終わる頃だったので、次の時にということで、断り、早々に、店を出た。

コータが待つ店に行くと、皆で楽しそうに会話していた。
私は、座らずに、そのまま、帰ることにした。
一人のフィリピン人の男は、電話番号まで、書いてくれ、何かあったら、連絡をと言う。
だが、一度も、連絡しなかった。

マニラの風に、慣れていないせいか、疲れた。
そのまま、ゲストハウスに戻り、別々の部屋で、寝た。

道で少年から買った、花をコップに生けた。20ペソだった。
マニラでは、少年少女も働いている。
お金がなくて、学校に行かない子もいる。
義務教育は、お金が掛からないが、文具などを買えないのである。
朝も昼も、夜も働く子がいる。

幼稚園児のような子も、花売りをしている。家族総出で、花を売り生活をしているのだ。
食って、寝るために、多くの人が、苦労している。当たり前のことだが、それが、目に見えて解るのが、マニラである。
これは、政治の問題でもある。
追々書くことにする。

フィリピンは、乾期である。
二月に、本格的な夏になる。
ところが、私には、少し涼しく感じられた。
夜は、涼しいというより、少し寒さを感じる。

部屋で、窓を開けていたが、寒さを感じた。
昼間も、とても暑いという感じは無い。
ただ、涼しいが、汗をかくのである。
不思議な暑さだった。

しかし、日に日に、暑さが増した。
帰国する頃は、昼間は、特に暑いのである。夜も、暑い。次第に、真夏に向かっていた。

ゲストハウスは、シーツのようなものを掛けて寝る。
毛布は、無い。
夜中は、少し寒い。
二日目の、夜である。

三日目の朝、どうしても、日本に電話をしたいと思った。
家族は、フィリピンに行くことを、凄く心配していたので、安心させたいと思った。勿論、妹の状態も、聞きたかった。

ゲストハウスの電話を借りて、実家に電話をした。
母が出た。
私だと、解ると、妹の名を言い、逝ってしまったと泣いた。
昨日の夜、11:30だと言った。

私に連絡したが、電話が繋がらなかったと言う。
タイの携帯電話で、フィリピンでは、繋がらないのだ。

兎に角、母を慰めて、また電話すると言い、電話を切った。

覚悟していたことである。
フィリピンに出掛ける前に、冬の北海道の実家に、14年振りに、戻った。
妹の手当てをするためである。
そして、最後の別れであった。

部屋に戻り、暫く、声を上げて、泣いた。
父のときは、納得し、安心したが、矢張り、妹は、若い。
母よりも、私よりも、先に逝った。
悲しい。
ただ、悲しい。

人が死ぬのは、悲しい。
理屈も何も無い。
落ち着いてから、歌を読み始めた。
妹との、思い出が、宝物になった。

悲しくて 切なくてなお 妹を 泣きながら呼ぶ 我はあはれか

2009年02月13日

フィリピンへ4

三泊目も、同じゲストハウスで、予定であれば、その日、レイテ島行きの、飛行機のチケットを、予約するはずだった。

コータの部屋に行き、妹が亡くなったことを告げた。そして、ここに、もう一泊すると、言った。

そのまま、下に降りて、主人に、今日は、一つの部屋でお願いすると言うと、すべて予約で一杯になっているという。つまり、ここから、出なければならない。
確かに、予約表には、すべての部屋に名前が記されていた。

知る人ぞ知る、穴場なのかもしれない。
ガイドブックにも、載っていないのである。

それでは、致し方ない。
私は、ガイドブックで、ゲストハウスを探したが、大体ゲストハウスの様子が解ったので、期待出来ないと思い、安いホテルを探した。
一件だけ、それを見つけた。
少し遠くのホテルで、荷物があるので、ジプニーに乗って行くことにした。

ジプニーは、車の前に行き先が書かれているが、そんなものを見て、判断している暇はない。
方向が同じならば、乗ってしまう。
大体、7,5ペソで、乗れる。15円である。
実に、便利で、安い乗り物である。

タクシーや、自転車を改造して、人を乗せるものがあり、誘われるが、一度も使用しなかった。

観光客を狙った、タクシーの、とんでもない事件も多かった。
全然別の場所に連れて行き、そこで、待ち構えていた連中と、客のすべてを奪い、そのまま置き去りにするというもの。
殺されないだけ、幸せであるが、それも、大変な被害である。

知らないということは、事件に巻き込まれる、第一条件である。

何せ、銀行や、大手ホテルのガードマンは、小型の機関銃を持ち、少し小さなホテルや、コンビニのガードマンでも、拳銃を持つ。

兎に角、どんな場所にも、ガードマンが、銃を持つ国なのである。

ジプニーでも、深夜を過ぎると、危険だと、言われる。
スリや、強盗である。
マニラにいると、潜在的に、危機意識を持つ。
安心していられないのだ。

コータは、信号待ちしている時に、知らぬ間に、腰に巻いていた、物入れの、チャックが開けられたのを、後で気づく。何も入れてなかった場所だったから、良かった。財布などは、すられていただろう。

ジプニーを利用して、昼間に動くのは、実に楽しいものだった。
ただし、排気ガスを、モロに受けるので、喉がやられる。
車の半数が、ジプニーだと、考えてよい。

さて、荷物をまとめて、ゲストハウスを出た。
そして、ジプニーが走る通りまで、出ることにした。

その通りは、地元の人の長屋があり、路上生活の人もいる。
道では、子供達が、遊ぶ。

子供を抱いた、女を見た。
私は、そこで、一つのバッグを開けて、彼女に、子供用の服を渡した。
彼女が喜んだ、と、思ったら、次々と、子供達が、集ってきた。
大人も、老人もやってきた。

子供達の服は、薄汚れている。
手を出されて、私は、一つ一つを、手渡したが、それも間に合わない程、人が集ってきた。

突然の、衣服支援になった。

一つのバッグが、空になった。
私は、両手を上げて、もう無いと、日本語で言った。
大人たちは、サンキューと、お礼を言う。

コータが、写真を撮るために、カメラを出していたが、間に合わない程の、速さだった。

更に、荷物を持って、歩いた。
すると、後から、子供達が、ついて来る。

街角に来た時、ジプニーを待つため、歩みを止めた。
一人の女の子が、私には、これ一枚しかないのと、着ているシャツを示した。

また、ぞろぞろと、子供達が、集ってくる。
私は、もう一つのバッグを開けることにした。
すると、子供達が、整列する。

一人一人に合うサイズを、渡してゆく。
ところが、どんどんと、数が増えるのである。
渡しても、渡しても、数が減ることが無い。

控え目な、男の子を見つけて、男の子用の、衣服を上げる。
男の子達も、集まってきた。
次から次と、渡す。

そのうちに、混乱してきて、勝手に、バッグから、取り出す子もいる。
そして、取り合いになる。

私と、もう一人の、大人が、子供達を静かにさせるために、両手を上げて、抑えた。
しかし、衣服は、残り僅かである。

到底、皆に、差し上げられないのである。
ついに、最後の一枚を渡して終わった。
まだ、貰っていない子もいるが、しょうがなく、私達は、急ぎ足で、次の交差点に向かった。

その場から、去るしかない。

ところが、子供達が、後をつけてくる。
急いで、止まっている、ジプニーに乗った。
すると、四人の女の子が、ジプニーに乗り込んでくるではないか。

運転手が、それを見て、車を降りて、子供達を、追い払う。
ところが、走り出すと、また、子供達が、乗り込んでくる。
また、車を止めて、子供達を、棒で、追い払う。そうして、何度か、運転手は、それを、繰り返さなければならなかった。

子供達は、私は、これしかないのと、叫ぶ。
一枚しか、服やズボンが無いというのだ。

ようやく、子供達を、振り払って、車は、スピードを上げた。

凄まじい、子供達の、形相が、忘れられない。
皆、痩せていて、栄養状態が、悪い顔色をしていた。

最初のゲストハウスの、受付の、お姉さんに、子供達に、お金は渡さない方がいいと、言われた。食べ物を渡す方が、いいということ。
お金を渡すと、それで、シンナーなどを買うという。

子供も、現実逃避で、シンナーに頼るということか。
後で、空腹や、不安などから、逃れるために、シンナーを吸うと、解った。

マニラは、フィリピンの首都である。それが、このような状態なのである。
後は、推して知るべしである。

私達は、漸く、一泊、1500ペソのホテルに到着した。3000円である。
部屋は、空いていた。
ツインルームを頼んだ。

部屋は広く、昔の豪華ホテルであろう。
しかし、兎に角、古い。古い作りであるから、空間が広いのである。

私は、少し放心状態になった。
今のは、何だったのか。
支援物資の、半分以上を上げたのである。
予定に無いことだった。マニラで、支援をする予定ではなかった。

フィリピンへ5

フィリピン、メトロ・マニラは、マニラ首都圏として、マニラ市をはじめ、17の行政地域の集合体である。

フィリピン最大の島、ルソン島の、中央に位置する。
西は、マニラ湾であり、北には、パンパンガ川によって、造られた広大な扇状地であり、南は、大小様々な火山が連なる。

私が、出掛けたマニラは、南地区になり、特に観光地としての、エルミタ地区と、マラテ地区である。
その南に、国際空港の、ニノイ・アキノ空港がある。
そこから、エルミタ地区までは、タクシーで、30分程度である。
道が空いていると、20分も、かからない。
料金は、230ペソから、300ペソ程度である。

観光地には、観光地の注意がある。
スリ、詐欺、窃盗などである。
夜は、特に注意である。

和食のレストランも多く、値段は高めだが、時々なら、安心する。

その地区に、10日間滞在することになったという、顛末である。

一度、空港に近い、バクラランという所に、ジプニーで出掛けたが、大変な道だった。
渋滞し、空気は、汚いし、乗り心地は、悪いしである。

帰りは、そこから、高架鉄道に乗って、戻った。その方が、楽々だった。

少し辺りを、動くのは、ジプニーであるが、遠くに行くなら、高架鉄道である。

実は、バクラランで、泊まりたいと思ったのだが、ホテルを回って、驚いた。
汚い、臭いのである。
その駅の周辺は、言い表せない程、混雑していた。
地元の、市場が多く、人人人である。

暑さと、人の波で、眩暈がした。

さて、乗り物では、カレッサという、馬車もある。そして、バイクで走る乗り物、トライシクルである。それに似たもので、自転車で、二人程度を乗せて走る、サイドカーである。

エルミタでは、特に多いが、料金が高い。40ペソと、言われる。80円である。
観光用である。

バクラランから戻り、ホテルで、休み、マニラに居ることに覚悟を決めて、それでは、どうするかと、思案した。

まず、残りの衣服を配ること。そして、慰霊を行う。
その場所は、二箇所である。

サンチャゴ要塞と、マニラ湾での、慰霊である。

ただし、どのようにするのかは、行ってみなければ、解らない。

コータにそれを告げて、食事に出ることにした。
ホテル沿いにあった、地元の人が行く、食堂に向かった。

春雨と、イカの煮付けを注文した。
ライスは、どうかと言われて、春雨で、十分だったので、断る。
兎に角、安いのである。
二人で、100ペソ程度。200円である。

昨日食べた、焼肉が、1500ペソ、3000円であるから、安さが解る。

いつもそうであるが、決して、日本円で、考えない。
現地の価格で、考える。

日本円で、考えると、大した事はないと思うが、それを続けていると、お金が続かない。
観光ではない。
慰霊と支援である。
贅沢なことは、よほどでなければ、慎む。

ただ、水と、氷には、注意する。
現地の水は、飲まない。
必ず、ミネラルウォーターと言う。

食事を済ませて、部屋に戻り、支援物資の内容を、確認する。
子供服も、少しあり、大人用が残っている。更に、ぬいぐるみ、である。これには、手をつけていない。
果たして、ぬいぐるみは、ここでは、喜ばれるだろうかと、思った。

荷物が少なくなるということは、嬉しいが、レイテ島に行けないということが、心残りだった。

ベッドで、少し休む。
妹のことを思い出す。
一日置いて、通夜、そして、葬儀である。

コータが、携帯電話を、フィリピン用に使用出来るようにしてくれた。
そのお蔭で、私は、毎日、実家に電話することが、出来た。
そして、通夜、葬儀の時間に合わせて、私も、妹の霊位に、祈った。

切なく、悲しいことだが、私の活動を知っていることで、妹は、ただ、存在感を持って、私に、コンタクトしてきた。
一度だけ、夜に出掛けようとした時、兄ちゃん止めな、という言葉が浮かんだので、部屋にいることにした。

葬儀の時間は、海辺に出て、太陽に祈っていた。

私の見ているものを、妹も見ている。
祝詞は、唱えない。
静かに、黙祷を捧げた。

すべてが、終わったであろう、時間に、実家に電話をすると、無事に滞りなく、済ませたと、母が言うのを聞いて、安堵した。

お知らせは、一人にだけした。
父の時は、多くの人に、志をいただいたので、今回は、私の密葬にした。

夜、コータと、和食の店に出掛けた。
歩いて、10分程の所である。
その間には、夜の店が、並んでいる。

兎に角、古い建物である。
そして、木造建てが多い。
更に、小道に入ると、地元の人の屋台が、並ぶ。
道端で、食べ物を売るのである。

その、炭焼きの煙が、目に染みる。
排気ガスと、それで、喉もやられる。
ジプニーから、タクシーから、車は、大混雑である。
その間を、抜けるように歩く。信号が、数えるほどしかないのであるから、車の間を、歩くしかない。

ベトナムの、ホーチミンを思い出した。
車の間を、走るように、向こう側へ渡るのである。

どんなものかと、私は、刺身定食にしてみた。
コータは、トンカツ定食である。
それぞれ、280ペソ程度。600円である。二人で、1200円。だが、ビールを一本注文し、支払いの段になると、サービス料と、税金で、15パーセント加算される。
料金が、高い程、それらも、高くなるから、私にすると、とても高い食事代に感じられる。

明日、慰霊と、支援をすることにした。
場所は、スペイン時代の、要塞、イントラムロスの中にある、サンチャゴ要塞である。

イントラムロスの中には、マニラ大聖堂があり、最古のカトリック教会、サン・オガスチン教会がある。

サン・オガスチン教会は、戦争でも、破壊されなかった教会であり、私は、是非、そこを見たいと思った。
当時の、想念が残り、色々なことが、解ると思った。

食事を終えて、早々にホテルに戻った。
コータは、夜の街に出るというので、今回は、部屋の扉を開けておくことは、出来ないと、鍵を、持たせた。
だが、幸運なことに、私の部屋の前は、ガードマンが、夜も常駐し、更に、十字架まで掛けられてある、神聖な場所である。

部屋の前なのである。
コータが、感心していた。

ここにねー、泊まることにー、なってたのーかーなー、である。
現に、ここに、最後の日まで、泊まることになった。

2009年02月14日

神仏は妄想である。194

上座部仏教に対して、大乗仏教は、何と、新たな経典を創作した。
そこに現れる、仏陀は、歴史的人物ではなく、理想的存在として、描かれる。

更に、大乗の徒達は、初期には、一切の物を、所有しなかった。
民衆の間から、起こった運動である。
といえば、聞えはいいが、その経過を見ると、とんでもない、化け物に、発展してゆくのである。

初期の頃は、どの団体でも、理想を掲げて、それなりに、納得する、活動を展開するが、次第に、物を所有するようになる。
堕落である。

大乗の徒達は、創作した、経典の、読誦を、最も功徳があると、それを、勧めた。今に至るまで、そのようである。

大乗は、利他行を強調する。
つまり、人のためである。今で言えば、ボランティア活動に近い運動である。
慈悲の精神というものを、高く掲げたのである。

そして、生きとし生ける者、すべてを救うという。
自分が、彼岸に達する前に、まず他人を救うという。
それを、行う人を、菩薩と、呼んだ。

誰でも、衆生済度の誓願を立て、実践する者は、菩薩である。

ここに、大きな落とし穴がある。

その、菩薩行は、凡夫には、中々出来ないことであるから、諸仏、諸菩薩に、帰依して、その力によって、救われ、その力によって、実践するという、妄想を育てた。

信仰の対象は、超人的な仏陀であり、三世十方に渡って、無数に、多くの諸仏の出世、その存在を証明するという、蒙昧に陥ったのである。

仏の中でも、アクシュ仏、阿弥陀仏、薬師如来などが、熱烈な信仰対象となった。
勿論、架空の存在である。

更に、菩薩を作り出した。
弥勒、観世音、文殊、普賢菩薩である。

諸仏、諸菩薩に対する信仰は、多数の仏像を生む、きっかけを与えた。
像を拝むという、行為が、起こった。

それは、中央インドの、マトゥラーと、西北インドの、ガンダーラ地方が主として、仏像制作を行った。
マトゥラーは、インド美術の伝統であるが、ガンダーラは、ギリシャ美術の影響が強い。

大乗の、教化法は、民衆の精神的素養、傾向に、適合するように、された。つまり、迎合である。
そして、現世利益というものを、打ち出した。
仏、菩薩を信仰すれば、多くの富み、幸福が得られるというものである。

特に、重要なことは、バラモンの得意技である、呪術を用いたことである。
これは、効いた。
ところが、これが、大乗仏教を堕落させる、大きなポイントになったのである。

呪術とは、陀羅尼と、言われる文句である。
空海などが、それを、密教として、特に、強調して使用した。

それでは、経典は、どのように創作されたのかといえば、それ以前に民衆の間で、語られていた仏教的説話を元に、更に、以前の仏典から借用し、戯曲的構想の形を取りつつ、その奥に、深い哲学的思索を、忍ばせるかのように、作られたのである。

宗教的文芸作品である。

ここで、改めて、文芸作品であることを、明確にする。

そして、あらゆる、宗教経典は、文芸作品であり、そこから、逃れ得ないものであるということ。

つまり、如何様にも、解釈可能である。

キリスト教の、プロテスタントが、分派を、重ねたのは、それである。
聖書解釈の、都合で、如何様にでも、解釈出来ることから、新派が出来た。
どんどんと、好き勝手に、キリスト教を、名乗られるのである。

それに、似たのが、鎌倉仏教である。

日本の、大乗仏教は、中国思想が、加味されて、更に、複雑奇怪な、化け物のように、姿を変えた。

大乗仏典の、根本的思想は、空観である。
一切諸法、つまり、あらゆる事物が、空であり、それそれが、固定的な実体を有さないという、考え方である。

それは、考え方であり、真理であるというものではない。
真理といえば、妄想である。

原始仏教においても、世間は、空であると、説かれたが、般若経典では、その思想を更に、進めた。

玄奘訳の、大般若波羅密多経は、一大読み物である。

当時の、小乗、説一切有部等が、法の実有を唱えていたのに、対して、それを攻撃するために、更に、否定的に響く、空という、観念語を、般若経は、繰り返す。

それは、固定的な法という、観念を抱いては、ならない。
一切諸法は、空であるという。

一切諸法は他の法に条件づけられて成立しているものであるから、固定的・実体的な本性を有しないものであり、「無自性」であるが、本体をもたないものは空であると言わねばならぬからである。そうして、諸法が空であるならば、本来空であるはずの煩悩などを断滅するということも、真実には存在しないことである。
中村元

それを、体得することが、悟り、無上正等覚、むじょうしょうとうかく、であるとする。

その他に、悟りは無いという。

これを、突き詰めてゆくと、自分が衆生を済度すると思えば、それは真実の菩薩ではない。救う者も、救われる者も、空である。
救われて到達する境地も、空である。
身相をもって、仏を見てはいけない。
あらゆる相は、皆、虚妄である。
諸々の相は、相ではない。
それを知ることで、如来を見るという。

如来には、所説の教えは無い。
衆生を導く目的を達したならば、捨て去られるものである。

この、実践的認識を、智慧の完成という。
布施、持戒、忍辱、精進、禅定の、五つと、六波羅蜜という、六つの完成を得るというのだ。

与える、戒めを守る、耐え忍ぶ、務めに励む、静かに瞑想する。
という、五つの完成によって、六波羅蜜という、六つの完成に至るというのである。

諸仏、諸菩薩を対象にした信仰形態は、どうなったのか。
それらも、空ではないか。

仏教愛好者たちは、この、空観というものに、翻弄されて、無いものを、在るものと、思い込み、錯乱してゆくのである。

また、在るものを、無いものとして、認識するという、逆転作用に、迷い続けているのである。

勿論、死ぬまでの、暇を潰すというなら、何も言うことは無い。

大乗仏典は、次々に、新しい経典を、創作して、楽しい遊びに、没頭してゆく。
あること、無い事、自由自在に、お話を創り続けて、今に至る。

人間とは、実に、愚かなものである。
架空のお話に、一喜一憂するという、少女趣味を、地で行く。

仏教は、思春期の少女のためにある。

神仏は妄想である。195

もう少し、インド思想史の仏教を見る。

空の実践としての慈悲行は現実の人間生活を通じて実現される。この立場を徹底させると、ついに出家生活を否定して在家の世俗生活の中に仏教の理想を実現しようとする宗教運動が起こるに至った。
中村元

その、代表的な、経典が、維摩詰所説経である。ゆいまきつしょせつきょう
維摩詰という在家の資産家が、主人公となり、出家者たる、釈尊の弟子たちを論破して、追及し、畏敬させ、その後に、真実の真理というものを説いて、彼らを指導するという、作り話である。

その、究極の境地を、言葉では、表現できない、不二の法門として、維摩は、沈黙を持って、教えたという。

明らかに、大乗仏教の、小乗を貶める創作である。

その後も、在家の運動を讃える、経典が著される。

それらを、釈尊が、肯定するという、筋書きである。

更に、華厳経が、著される。

事事無碍の、法界縁起の説に基づき、菩薩行というものを、説く。
菩薩行には、自利と利他の二つがあるが、菩薩は、衆生救済という目的が、自利であるから、自利は、即、利他ということになるというものである。

この経典では、菩薩の修行の段階を、十段階に分けて、十地という説にいたる。
第六地のところで、十二因縁を説き、善財童子という者を、主人公に、五十三人の元に教えを乞い、最後に、普賢菩薩の教えを受けて、究極の境地に達するという、創作である。

更に、浄土教の誕生である。
これは、法然、親鸞、浄土宗で、触れたので、省略する。

ただ、念仏によって、死後、極楽に生まれるということで、それでは、現世とは、どういう意味を持つものかという、議論がなされたという。
兎に角、議論の議論をし続けたようである。

そして、
大乗仏教徒は小乗仏教徒を極力攻撃しているけれども、思想史的現実に即していうならば、仏教の内の種々の教説はいずれもその存在意義を有するものであると言わなければならない。この道理を戯曲的構想と文芸的形式をかりて明瞭に表現した教典が法華経である。
中村元

更に、中村元は、
ところで種々の教えがいずれも存在意義を有するのは何故であろうか。それらは肉身の釈尊の所説ではない。
と、明確にしている。

それは、久遠の仏という、意識である。
時間的、空間的限定を超えた、絶対者、諸法実相の理である、仏という、存在であると、認識したからである。

勿論、妄想である。

更にである。
インド、民衆の、本生譚から、取り入れた、人である釈迦仏陀は、永遠の昔に悟りを開いて、衆生を教化してきた存在として、位置づけたのである。
人間、釈迦は、単なる方便であるという、誇大妄想である。

そうして、仏身論というものが、急速に展開する。

法華経の態度が、更に、発展して、大般涅槃行などという、仏教以外の、異端説といわれるものも、取り入れての、経典創作が行われた。

仏教の所説を理解する上で、インド思想史は、欠かせないものである。
それは、仏教というものが、インド思想史において、様々に変転していく過程を見ることで、仏教という、宗教に至る過程が、理解出来るからである。

そして、それは、思想として、認識するが、宗教としての、価値ではない。
また、更に言えば、インド思想史は、思想即宗教という、形になっていったという、ことが、理解出来る。
宗教の成り立ちを知る上で、必要な、教養である。

つまり、宗教とは、作り上げて行くものなのである。

その支持者が、信者となり、信徒となり、次第に、組織化され、更には、建物を建てて、職業宗教家の発生である。

在家信仰活動も、結局は、職業宗教家というものを、生み出したのである。
この、矛盾に、彼らは、答えない。
何故か、既得権益というものを、持つに至ったからである。

建物を建てて、信徒を要すれば、物質的に、豊かになる。今で言えば、金が集まる。それでは、やめられない。そして、堕落以上の、体たらくであり、もはや、その、主である、仏教ならば、釈迦仏陀の、教えは、無に等しい。
ただ、暇な者が、作り上げた、小理屈、屁理屈に、準じて、のうのうとして、教団、教派というものに、甘んじているのである。

更にである。
そこから、新しい団体を作り出して、教祖の、自己顕示欲が、満たされ、それに、集まる者どもが、甘い汁を吸うために、教祖を、祭り上げるという、寸法である。

信者に、段階を設けて、教師や、布教師などの、称号を授けて、更に、教団を太らせる。そこには、高邁な理想などない。世俗まみれである。

政治に関与するに至っては、もはや、手のつけられない、集団になる。
更に、政治家も、それらに、媚を売り、票を集める。
新興宗教の数々に、入信して、票を集める政治家もいるほどである。

商売の基本である、貧乏人から、広く金を集めるという、方法を地で行くのが、それである。

信徒から、集めた膨大な、金で、資産を増やし、果ては、結局、子々孫々に譲り渡す手配をする。

それは、世俗の家系よりも、甚だしく、劣るものである。
こうして、宗教というものが、成り立つ過程を知るのである。
彼らは、何一つ、確定したものを、提示しない。
すべては、人の妄想の故のもの。
それを、金に変換していて、平気である。

宗教により、心が、救われるということは、有り得ない。もし、そうだとするならば、それは、皆々、勘違いである。
勘違いのまま、死に、勘違いのまま、霊として、浮遊するという、悲劇である。
これを、悲惨と言う。

2009年02月15日

フィリピンへ6

スペイン時代の、イントラムロスについて説明するために、スペインのやったことを、俯瞰してみる。

ここで、非常に問題がある。
日本の歴史という時、日本という国は、北海道から、沖縄までの、範囲を言う。
フィリピンという国の歴史を、語る時、果たして、いつの時代から、フィリピンという国を、語ることが、出来るのかということである。

フィリピンという、領域で、語るとしたら、それは、スペインが、マニラに根拠を置き、ルソン島、ビサヤ諸島、ミンダナオ島北部海岸で、植民地化と、カトリック化がされた、キリスト教社会が成立してからのことである。

それに、山地非キリスト教、南部のイスラム社会が含まれるようになるのは、何と、20世紀に入って、アメリカの支配が本格化してからである。

ミンダナオ島や、スールー諸島は、早くから、インド文化を取り入れて、王国を形成していた。
マレー海域世界西部の、マレー半島、スマトラ島、ジャワ島などに影響を受けていたのである。

東部は、長く、首長制社会が続いた。
そして、15世紀の半ばに、本格化した、商業時代に乗って、イスラムが伝来し、ヨーロッパ勢力によって、キリスト教の刺激を受けて、17世紀に、イスラム王国が、誕生した地域である。

商業時代に関することを、書き続けてゆけば、長い物語になるので、省略する。

今に至る問題の、根本は、スペイン時代にあると、考えるので、スペインの植民地政策を、見ることにする。

スペインの、アジア進出は、コロンブスの西方航海による、大陸発見と、マゼランの世界周航途上での、太平洋発見を経て、具体化したものである。

1494年、スペインと、ポルトガルは、トルデシーリャス条約を結んだ。
それは、ブラジルをはぶく、新大陸をスペインのものとし、1529年の、サラゴサ条約は、フィリピン諸島をスペインの領土とするものだった。
それにより、スペインの勢力範囲は、西方航海途上の、新大陸、インディアス、太平洋、フィリピン諸島となったのである。

スペインが、フィリピンをアジア進出の拠点として維持するには、インディアス、つまり、メキシコと結びつけることが必要だった。

1565年に、ミゲル・ロペス・デ・レガスピが、初代総督になって、セブに拠点を置いた。
そして、フィリピンと、メキシコを結びつけるために、アグスチヌ会の修道士であり、航海士ウルダネタらに、太平洋横断帰路発見の、任務を与えた。
その年のうちに、一行は、メキシコに帰着し、19世紀に至る、スペインの、支配が開始されたのである。

その後、レガスピ総督は、地域間交易の中心、マニラを攻撃して、1571年に、マニラ市を設置する。
植民地首都としたのである。

これ以降、約250年間、マニラと、メキシコを結ぶ、ガレオン貿易が、フィリピンの生命線となった。

マニラ・ガレオン貿易は、中国の、絹、生糸、陶磁器などのアジア物産を、メキシコへ輸出し、新大陸の銀を輸入して、関税収入のみならず、赤字財政補填金や、官僚、兵士などの、輸送、本国の指令の受領にも不可欠だった。

植民地フィリピンの、最高権力者は、軍事、行政、そして1861年まで、司法権を握っていた総督だった。

しかし、ここが、ポイントである。
フィリピン統治の特色は、世俗の権威による、支配が、カトリック教会だったことである。

16世紀初頭以来、インディアス統治の正当性の論争が、起こった時、スペイン王により、新発見の土地に、福音伝道をという使命が、支配の正統的原理とされた。
被征服民のカトリシズム受容は、スペイン国王の権威に服することを意味するものとなった。

それゆえ、レガピス総督は、セブに根拠を置くと、すぐに、アグスチヌ会士を通して、現地の、首長と、その配下に、洗礼を施したのである。

特に、産物の無い、また防衛に軍事費がかかる、フィリピンの支配は、ただ、キリスト教世界の建設と、住民の改宗ということが、テーマとなったということが、私は、大きな歴史のポイントであると、理解する。

諸島各地への、布教活動は、ローマではなく、各派修道会が、担った。

教区教会、広場、町役場を中心に、町が、作られ、修道会士は、教区司祭として、住民の教化に当たり、各地において、スペイン植民地支配を貫徹すべく、民を監視した。

カトリック化された住民を、インディオと呼ばれたが、ダトゥやその一族は、町長や、他の役職を与えられた。
植民地権力と、住民の、仲介役で、徴税や、労役の徴発を負った。

カトリックは、植民地化をすすめる上で、多大な貢献をした。
住民支配の、最も良き手段だった。

勿論、地場の信仰形態もあった。
それらの、宗教者たちは、反発したが、カトリック信仰のゆえに、住民達も、複雑な形相を帯びた。

確実に、カトリックの教えが、浸透していったという事実が、実に、不思議である。

更には、スペイン支配に反対しても、独自に、カトリックの信仰を掲げて、自治を行うという、島まで、現れた。

18世紀初頭以来、各諸島に広がった、パション、つまり、キリストの受難の生涯を描いた長編叙事詩の、詠唱が、各自の解釈を主体的に行う契機となり、カトリックが、植民地支配を推し進めたが、また、それが、抵抗する論理を与えたとも、言えるのであり、実に、複雑な形相である。

19世紀から、20世紀初頭の、フィリピン革命の核となった、秘密結社、カティプーナンの思想も、パションの論理を元に、作られた。

マニラに、絞れば、タガログ地方では、所有地の拡大に努める修道会に対して、農民達が、立ち上がるという、事態も起きた。

それから、フィリピン革命に動きはじめることと、信仰と絡まってくるのである。

一つ、面白いのは、1767年以降に、スペインの政策転換で、教区司祭が、インディオ、つまり、スペイン系、中国系の在俗司祭を登用するということになったという。
しかし、それも、インディアス各地の独立、本国の政治的混乱を背景に、スペイン人修道士が、教区司祭に、返り咲いたことから、更に、在俗司祭の権利擁護運動が起こったのである。

その先頭に立った、司祭三人が、処刑されるという事態になり、革命への布石となった。

ここまで、淡々として、歴史を俯瞰したが、スペインは、南米でも、カトリックの信仰により、支配を強化するという方法を取り、更に、一億人の命を奪うという、暴挙をなしている。

植民地支配と、信仰の問題は、切っても切れないのである。

宗教とは、何か、である。

日本が、キリシタンを禁止した訳も、ここにある。

キリスト教信仰を、許せば、結果は、植民地化されるという、時代性があったという、事実である。

よくよく、このことを、考えてみる必要がある。

2009年02月16日

フィリピンへ7

サンチャゴ要塞のある、イントラムロスに向かうため、ホテルを、10時過ぎに出た。
ジプニーを乗り継いで行くことにする。

兎に角、あちらの方角に走る、ジプニーに乗る。
途中で、別の道に行く時に、声を掛けて、降りる。

地図を見つつ、ジプニーに乗って、大きな曲がり角に来たので、運転手に、マニラカテドラルと言うと、運転手が、降りろと言う。別の車に乗れと、言っている。と、それらは、すべて、勘で、感じ取る。

少し歩いて、イントラスロスの入り口に辿り付いた。
国立博物館辺りであることが解り、別のジプニーに乗る必要もなかった。

ここは、16世紀、スペインが統治の根拠とした場所であり、周囲には、城壁が作られ、当時は、スペイン人と、その混血である、メスチーソのみが、住むことを、許されていたという。

12の教会、大学、病院などがあったが、第二次世界大戦の、日本軍と、アメリカ軍の戦闘により、破壊された。

その中で、唯一、戦禍を逃れた教会がある。
サン・オガスチン教会である。

道を要塞に進んで行くと、左手に、建物がある。

教会なので、入れると、思っていたが、聖堂の前で、止められた。
つまり、博物館のようになり、入場料が必要なのである。

聖堂の門は、閉じられて、横の入り口から、入る。

重い空気である。

1599年から1606年にかけて、建てられた。
見て回る順番がある。
私は、兎に角、聖堂に入りたかったので、そちらに、向かった。

聖堂は、日本では、お御堂ともいう。

当時としては、大変な建物である。
印象は、呪いの館である。
教会とは、思えない気がある。

祭壇のある横の部屋に、スペインの最初の総督、レガスピの遺体が置かれる、礼拝堂がある。

多くの人の、犠牲の上に建てられたものなのであろう。
とても、強い、波動を持つ。
強力な磁石のような、感覚である。

ちなみに、この教会は、世界遺産に登録されている。

さて、それぞれの部屋を見て回る。
色々なタイプの十字架が、掛けられていた。

どれもこれも、不気味である。
十字架に慣れている私も、あまりの、祈りの想念に、絶句した。
どのような、祈りを捧げていたのだろうか。

独断と偏見の祈り。
地元民を、改宗させるべくの、祈りである。

従わない者は、どうされたのか。
それを、想像した。

これから向かう、サンチャゴ要塞は、スペイン人が、刑務所として、作り上げた、地下牢獄である。
その中に、入れられた人は、単なる罪を犯した者だけではなく、当時の統治に、反対する者や、改宗しない者を、入れたであろうと、想像する。

地場の、信仰形態も、あっといわれる。今は、それが、どんなものだったのか、解らない。

想像すれば、地霊信仰であると、思われる。
その土地に対する、信仰である。

教会の権力の、凄さは、様々な、儀式用具に表れている。
そこにある、想念を外せば、本当に、芸術的文化財である。

カトリックという、宗教的正義を、もって、地元民を、支配するという、傲慢は、大航海時代の、特徴である。

現在のフィリピンでは、キリスト教、カトリック文化が、無くてはならないものである。
人々は、そこにおいて、心を一つにする。
一見、伝統のように、見えるが、それは、単なるカトリック教会の、支配の成果、成功の証である。

正しい神の教えという、傲慢不遜は、余りある。
その根底には、ユダヤ教の、旧約聖書の、教えが底流にあり、異教徒は、家畜のように扱うというものがある。または、殺してもいいのである。
殺人罪が成り立つのは、同じ者同士の場合であり、異教徒の場合は、罪にならないという、恐るべき教えである。

旧約の神は、あなたがたに従わない者は、私が呪い殺すという。
呪いと、嫉妬、殺人の神が、それである。

原始キリスト教と、カトリック教会とを、一緒にしてはいけない。
原始キリスト信者を、皆殺しにして、新しい教会、ローマカトリックを建てたのである。

不気味な、様々の聖人像を見て回り、複雑な心境で、教会を後にした。

その次は、マニラ大聖堂、カテドラルである。
そこには、マニラの司教がいる。

私が行った時、お告げの祈りが、行われていた。
お告げの祈りとは、聖母の対する祈りで、正午に、行われる。そして、朝と、夕方である。

熱心な信者たちの、祈りの中で、私は、祭壇の近くに進み、跪いた。

驚いたのは、正面に、十字架ではなく、聖母像である。
十字架は、その下、祭壇の、右横に、立てられていた。

聖母信仰を、前面に出した、布教形態である。
これにも、作為がある。
聖母信仰は、穏やかな、支配を画策する。
攻撃的ではない、緩やかな強制である。

この、大聖堂は、戦争で破壊され、1954年から、58年にかけて、建てられた。その時、神奈川県知事も、援助したとある。

プロテスタントは、聖母信仰を、認めない。
聖書主義であり、根本は、主イエスに対する信仰が、問われるのである。

カトリックは、公会議において、聖母信仰を認めた。それは、聖書の教えより、大切なものになるという。
創られてゆく、教義である。

聖母の対する祈りとして、ロザリオの祈りが、奨励された。
日本で言えば、念仏のようなものである。
聖母の祈りを、繰り返し唱えるもの。

世界に、出現する、聖母マリアも、ロザリオの祈りを、奨励するという。
そして、更に、カトリック教会の正統性を説くのである。

聖母の出現は、事実であろうが、それを、本当に聖母であると、判定する何物も無い。

ルルドの聖母は、ローマ法王が、認可して、世界から、巡礼に訪れるが、果たして、聖母なのか、悪魔なのかは、解らない。
奇蹟が起きるという、事実を持って判断するだけである。
奇蹟を起こすという、危険極まりない事実をもって、認可するのである。

奇蹟を、起こすのは、悪魔の仕業である。

私も、聖母の祈りを唱えた。
それは、挨拶である。

相手が、如何なるものであるか、ではなく、支配する者ならば、挨拶する。

ミサが始まったので、私達は、教会から、出た。

フィリピンへ8

サンチャゴ要塞は、イントラムロスの突端にある。
川縁に面している。

実に見事な造りで、よくぞ造ったと思えた。
すべて、石である。
石を掘り、大きな穴を造り、それが、幾つもある。

日本軍が占領した時、この穴に市民を閉じ込めて、満潮になり、水死させた。
地下牢であるから、逃れられないのである。

しかし、それ以前にも、スペイン人によって、多くの人の命が、奪われている。

上から見ると、単なる穴であるが、下に降りる石段を下り、中を覗くと、真っ暗闇である。だが、その、中は広く、すべてつながっている。

さて、慰霊である。

多くの観光客がいる。

どこで、慰霊の儀を執り行うかと、周辺を歩く。

その中には、フィリピンの英雄とされる、ホセ・リサールの記念館がある。
後で、彼のことは、紹介する。

リサールは、その場所で、処刑されるまで、生活していたという。

比較的人のいない、広場を、見つけた。
一人、木陰に、機関銃を抱いた、ガードマンがいた。
彼とは、一緒に写真を撮った。

最初は、不審に思ったことだろうと、思う。

木の枝を、一本頂いて、御幣を、作る。

太陽が出でいるので、太陽に向かい、神呼びを、行う。
暫く、神呼びを行っていると、何と、フィリピンの国鳥といわれる、ツバメに似た、ロイヤル・ターンという、鳥が、突然のように、群れをなして、飛んできた。そして、私の上で、大きく回るのである。

感応。
霊的感応が、生き物を通して、表現することは、多々ある。
しかし、これは、私の妄想だと、思ってもらっていい。
私も、妄想だと、思っている。
意味はない。ただ、鳥達が、飛びたかったのであろう。

祝詞を献上する。
ただし、日本語であるから、日本兵には、理解出来るだろう。

祓い清めの、言霊を、唱えて、更に、祝詞を続けた。

日本の兵士に、語り掛けた。
国にお帰り下さい。故郷にお帰り下さい。母の元にお帰り下さい。靖国に、行きたい方は、靖国に、お戻り下さい。

送りの、音霊 おとたま、で、霊位を先導する。

普通は、それで、御幣を川に流して終わる。
しかし、日本兵だけではない。
ここでは、多くの人が亡くなっている。

憐れみの讃歌を唱える。
憐れみの讃歌を歌う。
キリエレイソンである。

主よ、憐れみ給え、キリストよ、憐れみ給え。

多くは、キリスト教徒として、亡くなっている。

私が、キリスト教徒の祈りを上げることには、何の問題もない。
アベマリアの祈りも、上げる。

そして、清め祓いを行う。
四方を清め祓う。

コータが、ここだけではなく、別の場所でも、しようと言うので、御幣を持って、回った。
そして、四方を清め祓いつつ、歩いた。

時に、観光客が、足を止めて見ていたが、それに反応している間は無い。

突端に出て、私は、石の囲いの上に上がり、清め祓いをして、再度、キリエレイソンを唱えた。

目の前を流れる河は、バッシング川である。
船が行き来する、大きな流れである。

心に、未練があり、何度も、哀れみの讃歌を唱えた。

再度、太陽を拝して、引き上げ給えと、唱えた。

最後に、御幣を、川に投げ入れる。

だが、何と、見ると、遊歩道があり、その遊歩道の上に、落ちたのである。

遊歩道の存在を知らなかった。

コータが、一度、ここを出て、外から回って行こうと言うので、それに従った。

その時も、少しばかり、支援物資を持っていた。それが、幸いした。
遊歩道は、長く、その歩道の上で、生活している人が多数いた。

最初に出会った親子は、母と娘三人である。
バッグを開けると、丁度、女の子用のものがある。
一つ一つ取り出して、差し上げた。

懐かしい付き合いの人のように、私に接してくれた。
六歳くらいの、女の子は、私に、最高の挨拶である、手を取り、それを、額につけて、敬意を表した。
一番、小さな子は、両手を合わせた。

遊歩道には、まだまだ、人がいて、大人用の、男物を、差し上げつつ、要塞に、向かった。

中には、付いてくる男もいる。
漸く、御幣の落ちた場所まで出た。

御幣を拾い、再度、清めて、心を込めて、流すために、川に投げ入れた。

驚いた。

どんな大きな、木も流れているのである。
しかし、投げ入れた御幣が、一、二、三というように、沈んだのである。

見ていた男が、声を上げて、指を指した。
あーあー

私達も、驚いて見ていた。
見る見る間に、沈んだ。

今までに、こんなことは無い。
必ず、流れてゆく。

川の底に、引っ張られるようにして、沈むのである。

強烈な霊位の想念を、感じない訳にはいかなかった。

実は、マニラ湾の、慰霊の際も、見る見る海に沈んだのである。

何故、浮かないのか。

カトリックでは、聖水という、清めの水がある。
それは、悪魔祓いなどにも、使用される。
しかし、カトリックの祈りと、その方法では、清めも祓いも、出来ない。
ただ、上から、ペタペタと貼り付けるようなものである。
つまり、覆い隠すことしか、出来ない。

それは、清め祓いという、感覚がないからである。

発掘調査で、人骨などが出ると、他国の人は、何でもないが、日本人の中には、具合が悪くなる人が、出る。
そういう時は、神主による、清めを行って貰うと、直るという。

日本人には、特別な感受性があるのだ。

この、清めという行為は、実に自然なものであり、自然によって成るものである。
自然の、あらゆるものが、清める。
風、水、草木、空気も、そうである。

私の、清め祓いは、太陽によるものである。
太陽光によって、清め祓う。

太陽を天照る光として、日本人は、特別に扱ってきた。
太陽は、毎日天に上がる。ゆえに、そのままで、清めている。
しかし、人為的に起こした、穢れ、汚れは、人為的に、太陽光を、もって、清め祓う。

私が、太陽に、拍手を打つのを、不思議そうに、観光客が見ていた。

キリスト教は、太陽も、神の被造物と認識する。
更に、自然も、神の創りたもうものである。

日本には、それらの、神観念は無い。
日本には、自然共感と、共生の心のみである。

自然を神という言葉を使うならば、神と言うのである。

その象徴が、太陽、天照る光である。

その、光によって、私は、清め祓いを執り行う。

兎に角、フィリピンの慰霊は、大変なことであると、知った。
霊的にも、大変なことである。
何一つ、浄化されていないと、判断した。

2009年02月17日

フィリピンへ9

1896年から98年にかけて起こった、フィリピン革命により、近代国家としての、歴史がはじまるといえる。

96年八月末、カティプーナンという秘密結社のメンバーが、身分証明書を破り捨て、スペインに対する、忠誠を破棄した。
結社は、メンバーは、人民の子らの中でも、最も尊敬すべき協会という意味である。

反乱は、タガログ地方から始まった。

メンバーの中心は、マニラの労働者街出身者が多く、マニラの有力者の支持を得ていた。
地主、商人、町の役人、教師、弁護士などで、彼らは、地方の中学で、スペイン語を修めていた。

1897年に、カティプーナンの主導権を把握したのは、エミリオ・アギナルドである。
彼は、中国系の血をひき、マニラの南西の町の町長だった。

その革命に、間接的に影響を与えたのが、ホセ・リサールだった。
中国系の血をひく、タガログ人であり、スペインに留学して、医師になった。
彼は、スペイン系修道会と、原住民協力者の悪行を暴露した二つの小説を書いて、人の知るところとなる。

リサールは、武力蜂起や革命を求める、変化のシナリオを提供したのである。
それに影響を受けたのが、ボニファシオであり、リサールの小説にある、武装蜂起の道を、選んだ。

だが、リサール自身は、その活動に参加しなかった。
彼は、母なるスペインから、独立するためには、人々には、更なる教育が必要だと、信じていた。

彼が、英雄視されたのは、1896年に、銃殺隊によって、処刑されたことからである。

処刑の意味は、反植民地主義の小説を書いたこと。革命の指導者たちに、影響を与えたことである。

だが、リサールの死が、知らされると、タガログ地方のみか、革命の火は、全国に広がった。

97年には、フィリピン全土で、治安が悪くなり、革命運動が、激しくなった。
合言葉は、リサール万歳である。

1879年半ばに、アギナルド率いる革命軍が、スペイン軍によって、マニラ北方の山間部に、退却せざるをえなくなる。
その年末、両者は、アクナバルト協約と呼ばれる妥協策により、アギナルドと側近は、多額の金銭と引き換えに、香港に、亡命することになった。

革命の第一段階が、これで終わった。
しかし、武装集団と、スペイン軍、スペインに忠誠を誓う民兵との間で、小規模ながら、戦闘は、続いた。

革命第二期は、1898年の、アメリカが、スペインに、宣戦布告したことから、始まる。

フィリピン独立を支援すると、アメリカの約束を信じた、アギナルドは、米海軍の軍艦で、フィリピンに戻り、革命軍を編成する。
更に、6月12日に、フィリピン独立宣言をする。

その後、米軍が、マニラ湾で、スペインの艦船を撃沈させ、マニラを占領する。

フィリピン革命軍も、至る所の、スペイン軍事基地を攻撃、包囲して、7月8月には、スペイン側が、降伏する。

1899年、1月23日、マロロス議会は、6月12日の独立宣言を批准し、共和国政府を、樹立する。

しかし、それも、束の間だった。
何と、アメリカは、その前月に、二千万ドルをスペインに支払い、フィリピン諸島を、スペインから、買い取ったのである。

米軍は、フィリピン人のマニラ立ち入りを、禁止したため、99年2月に、地方の支配権を巡り、共和国軍と、米軍の戦いが始まったのである。

アギナルドは、1901年5月に、捕らえられたが、配下の者達が、1902年4月の、降伏まで、戦うことになる。
革命は、終わった。
次は、アメリカ統治時代である。

スペイン統治時代は、カトリシズムによって、フィリピンの精神的支柱が、出来たといえる。
では、アメリカ統治は、何をもたらしたのか。

アメリカ軍の手に落ちた地域から、地方首長選挙が行われた。
更に、アメリカは、1907年10月までに、フィリピン諸島を統治する、フィリピン委員会をもって、当たった。
その次に、第二次フィリピン委員会が、発足し、統治上の立法、行政機関として、機能する。

アメリカの、フィリピン統治の重要な文書は、1898年12月の、アメリカ大統領マッキンレーの、恩恵的同化政策である。

第二次フィリピン委員会は、恩恵的同化政策を、推し進めた。
それは、段階的に、アメリカ統治下において、フィリピン人に、どのように、自治を与えてゆくかということだった。

その結果は、制限選挙による、フィリピン議会の設立である。

1907年10月に、フィリピン議会が発足した。

それは、二院制立法議会の、下院に当たるもので、上院は、アメリカのフィリピン委員会が当たるものである。要するに、形だけを、取り入れたのであり、支配は、アメリカである。

立法、行政の、大幅なフィリピン化が行われたのは、ハリソン総督時代である。
1916年の、ジョーンズ法制定である。
それは、フィリピン自治法であった。

そして、その年、委員会は、廃止される。

立法府は、上院、下院共に、フィリピン人によって成立するものになった。

1921年から、27年の、ウッド総督時代は、フィリピン議員と、対立したが、その後は、次第に、改善された。

そして、1935年11月、フィリピン・コモンウェルス、独立準備政府が発足し、ケソンが大統領に、オスメーニャが、副大統領になった。

だが、この政府も、1941年12月に、日本軍の攻撃により、ワシントンにて、亡命政府となったのである。

これから、日本の侵略の時代が始まる。

以上を総括すると、アメリカにより、フィリピンは、アメリカ型政治形態を学んだのである。

更に、アメリカは、教育と言語を通して、自国の文化と、価値観を浸透させたということである。

教育用語が、英語にされたということは、実に大きなことである。

フィリピンのエリートは、アメリカの教育を受け入れ、また文化的嗜好も、アメリカを受け入れて、高い社会的地位を保持したといえる。

現在も、5歳から、英語教育がはじまる。
これは、日本が、英語教育を導入するに、大変大きな、示唆を与える。
果たして、フィリピンは、英語教育で、幸せになったかということである。
幸せ感覚は、極めて個人的な、嗜好であるが、フィリピンという国、全体にとっては、如何なることだったのかということを、見るべきである。

マニラという、首都でありながら、路上生活者や、今日の寝場所、食べ物を求める人で、溢れている。

更に、フィリピンが得るお金は、海外に、出稼ぎに行く人々によると、聞くのである。

英語により、海外に出るに、英語が出来るから、不便ではないというような、問題ではない。
もっと、根本的な問題がある。
フィリピン人としての、自己統一性である。
それが、問題である。

フィリピン社会に、蔓延した、アメリカ的志向の呪縛は、独立後も、続いた。
今も、続いていると、私は、見ている。

2009年02月18日

フィリピンへ10

それでは、日本占領時代は、どうだったのか。

その前に、フィリピンは、実は、日本に占領されることを、恐れていた、東南アジアの唯一の国であるということだ。

1935年に、米国主導で発足した自治植民地フィリピン・コモンウェルスは、46年に予定されていた、独立後の、国防に備えて、陸軍を発足させ、アメリカから、ダグラス・マッカーサを最高軍事顧問に迎えていた。
1937,38年と、マヌエル・ケソン大統領は、日本を訪れて、日本政府外相と会談し、日本からの不侵略の言葉を得ようとしている。

1931年の満州事変以降、大陸侵略を進め、宗主国アメリカと、対立を深める隣国と、どのように付き合うべきかを、模索していた。
日本政府は、それに対して、繰り返し、領土侵略の無いことを、強調した。

ところが、事実は、大軍をもって、全土を勝伯したから、驚いた。

これに対して、米軍と統合されたフィリピン陸軍は、日本軍と、激しく戦火を交えた。
しかし、42年5月に、降伏するのである。
各地で、米比軍のゲリラが活動したが、ケソン大統領は、ワシントンに、亡命した。

現地自活の、原則から、日本軍は、食料を現地で調達する。
アメリカとの、植民地経済関係を切断されたフィリピンを襲った、食料、物資不足に、拍車をかけて、日本軍は、日々の糧に不足する人々から、怨まれたのである。

やがて、米軍から補給を受けた米比軍ゲリラの、日本軍抵抗が、本格化すると、日本軍は、ゲリラ、民間人を問わず、討伐に打って出た。
日本軍による、残虐行為は、1943年、夏以降、バナイ島など各地で、起こる。

さて、このように書いたが、日本軍の行為の前に、必ず、残虐行為と、書かれることは、どういうことなのか。私も、それに倣って書いたが。

戦争であるから、そのすべてが、残虐行為である。
日本軍の行為については、いつも、残虐行為という、言葉がつくのである。
これには、作為がある。

私も、準じて、残虐行為と、書くが、実に、変だと思っている。

日本軍は、フィリピンの、戦前の自治政府を継承する、政治エリートとの、協調で、事態を乗り切ろうとした。
ホセ・P・ラウレルを大統領とする、共和国を独立させたのである。

それは、フィリピンを占領地としてではなく、日米の決戦場として、見ていたことが、挙げられる。

これが、フィリピンの悲劇だった。

戦争末期、日本軍は、各地で、全国的な抵抗に遭う。
日本と、米比軍との、烈しい戦闘は、全土を巻き込み、111万人にのぼる、戦争犠牲者を出した。

また、それにより、60億ドルにのぼる、物的損害を与えた。
それは、東南アジア最悪の状態だった。

日本による、占領と、戦争の悲惨な果てに、マッカーサーが、アイ・シャル・リターンとの、約束を守ったことで、圧制からの解放者として、受け入れられたのは、当然のことだった。

しかし、それはまた、戦後の、フィリピンに、長く制約を与えることになる。

スペイン統治時代から、この戦争を経て、更にアメリカの影響下にありつつ、国造りをしたフィリピンという国は、あまりに、翻弄され過ぎた、結果の果ての姿が、今も残る。

ただし、面白い事実がある。

日本占領時代に、戦前のフィリピン文化を、欧米一辺倒であると、刺激を与えて、東洋への回帰を訴えた日本の文化宣伝により、占領をチャンスと捉えて、独自の民族文化を探り、タガログ語などによる、民族語の作品を追求した、知識人、芸術家たちがいる。

だが、フィリピンの人には、日本という国が、裏切り者の、ユダに象徴される、イメージが、付きまとったことは、否めない。

占領初期、日本の軍民問わず、マニラにあった、欧米からの、豊富だった、物質在庫を軍票という、紙幣で、買い漁り、酒色に耽った日本人の姿は、今もなお、続いている。

フィリピンの人には、略奪する、日本人のイメージが、付きまとう。

只今も、フィリピン旅行に行く、日本男性の多くは、売春が目当てである。
それこそ、酒色に耽るために、マニラに出掛ける。

私も、多くの日本人男性を見た。
多くは、50代を中心に、遊びに来ていた。

まず、売春の実態である。
日本円にして、書く。
売春行為は、3000円程度からある。

私達が、昼食をするために、誘われた、店では、入ると、女が10名ほどいて、驚いた。
食事のための、テーブルが、二つである。
コータが、どう見ても、おかしいと言う。

店先の、料理を選び、食事をしたが、雰囲気が、食堂ではない。
物を運んでくる女の子の、笑顔が、実に、微妙である。

私が、女達に、マッサージと、声を掛けた。
すると、オッケー、マッサージ上手と、日本語で返ってきた。
幾ら
すると、後に居た、婆さんが、一人、4000円という。

エッ、4000円。そんな高いマッサージ・・・

コータが、小さい声で、売春だと、言う。

婆さんが、後から、あなたたちなら、3000円で、いいと、言った。

ホテル近くなので、よく、その前のおじさんに、声を掛けられたが、あやふやに返事をしていた。

そして、街中を歩けば、必ず、売春斡旋の、おじさんたちに、声を掛けられる。実に、しつこいのである。
日本人には、特にそうだということに、気づいた。

女、女、女と、声を掛ける。
タイでは、それに対して、アイライク・ボーイと言うと、引き下がったものだが、そんなことを言うと、男もあるよ、と言われ、男の斡旋もするという。更に、いらないと言うと、おかまも、あるよと、言われる。

ほとほと、参った。

ついに、顔見知りになった、おじさんに、つかまり、変な建物の、二階に連れられた。
昼間だったので、私は、興味もあり、着いて行った。

女が、20名以上いて、歓声を上げた。
マネージャーという、現地の男が、握手を求めてきた。
とりあえず、ビールですかと言うので、笑ってしまった。

昼間から、酒を飲む趣味は無い。
いらない、カラオケかというと、違うと言う。
女を見てくださいと、言う。

私は、すぐに立ち上がり、店を出た。
おじさんが、追っかけて来る。
そして、言う。
フィリピン料理、美味しい。こっちこっちと、店に、引っ張る。

つまり、おじさんは、客を見つけられず、腹ペコだった。
私は、おじさんに、ご飯をご馳走した。
コータも、同じような、経験をしたようだ。

食べ終えた、おじさんに、色々と、内容を尋ねた。
女は、七日間、一万円で、キープ出来るという。

そうして、男は、旅の間、女を確保するのである。
だが、同じ女で飽きる男は、毎日、女を買う。
一度、日本人の男が、三人の、売春婦を、ホテルに連れて入るのを、見た。
三人でも、一万円程度である。

さて、フィリピンでは、日本人の孤児たちが、今も生まれている。
説明しなくても、解るだろう。

戦争孤児も、日系人が多い。
その、日系の孤児たちは、二万人とも、三万人とも、言われる。

マニラ日本人会は、その、日系孤児たちの、学資援助を行う。
ただし、まだまだ、足りない。

ホテルフロントの、女の子の給料は、二万円。真っ当な、マッサージをしている者の、給料は、一万円程度。
勿論、それでは、暮らせない。
私達が、衣服支援をしていると、言うと、ホテルフロントの女の子は、姉には、子供が三人いる。服が欲しいと言った。
残念ながら、今回は、足りなくなり、差し上げられなかった。

上記の、おじさんは、田舎から出てきて、マニラで、呼び込みをしているが、田舎には、女の子一人、男の子二人、そして、妻と、女親がいると言う。
自分でさえ、食べのが、やっとである。仕送りなど出来ないのである。

このような、話を書けば、キリが無い。

売春に関しては、否定はしない。
成人が納得して、生活の糧を得るのである。暮らしを立てている者に、何を言えるか。
理想論は、フィリピンには、通用しない。

それは、貧しい国すべてに、言える。

戦後の日本も、売春により、外貨を稼いだ。
韓国も、中国も、同じである。
女の股が、生み出すものは、子供だけではない。
お金も、生み出すのである。
何も言うことは無い。

性について41

それでは、19世紀の、精神分析を開始した、フロイトを見ることにする。

フロイトは、初めて、子供のセクシャリティを発見した。

幼児の旺盛な、セクシャリティ、多形倒錯的なセクシャリティの、発現があり、五歳くらいから、思春期に至るまでの、潜在期となる。
この間に、子供は、知的、道徳的に著しい成長を遂げて、セクシャリティに関する、すべてのことを、抑圧するという。

その抑圧は、フロイト以前は、性生活、セクシャリティは、生殖能力と混同され、更に、性というものが、思春期から始まるものと、されていた。

勿論、フロイトは、幼児のセクシャリティが、成人と同じような形で、発現するというのではない。

幼児の、性衝動は、多種多様で、発現は、うつろいやすい。
厳密な意味では、エロティックなものとは、いえない。

それを、前提にして、幼児にも、性感帯たる性質を備えているという。
そうした刺激は、まず、口腔領域、次に肛門領域に移り、さらに、身体全体にまで、広がる。

口は、口唇的性器である。
おしゃぶりが、性的能力の、発見への道を拓き、肛門部位を、制御する練習が、マスターベーション的なものと、見なされた。

これら、性的刺激の最初の諸形態は、前性器帯と、呼ばれるものである。
口と、肛門という、消化器の、両極に関わる。

人間は、考える葦ではなく、人間は、考える、管なのである。

口唇期、肛門期、その次が、性器である。
性器が、支配的な役割を、演じる、男根期が、続く。

ここに至り、マスターベーションを、免れることが、出来なくなる。

1905年に、刊行された、セクシャリティの理論に関する三つのエッセー、とともに、マスターベーション、1910年のウィーン精神分析学会での十四の議論と、題された、論文は、マスターベーションを、精神分析学から、捉えようとした、新しい試みである。

三つのエッセーで、子供のセクシャリティを、擁護し、マスターベーションが、重要な位置を占め、自己性愛的快楽の、特権的な表現であると見なしている。

子供の、オナニズムは、子供に普遍的に見られる、性活動の一つに他ならないということである。

この、基本概念を維持しつつ、思春期のマスターベーションと、それに、伴う空想の問題にまで、広げてゆく。

フロイトによれば、男根期は、同時に、エディプス・コンプレックスの時期でもある。
そこには、去勢不安が、隠される。
性器に手を触れる、子供に対してされる、脅迫によって、誘導される不安である。

何らかの、混乱により、この、コンプレックスの解消が、妨げられると、この時期を、越えて、マスターベーションが持続すると、考えた。

フロイトが、提示した、マスターベーションの、三つの段階である。

幼児のマスターベーション
性的充足のための、すべての自己性愛的活動がある。
小児のマスターベーション
四歳くらいからはじまり、すでに明確に、性感帯に固定される。
子供の第二期、四年目くらいに、はじまるマスターベーションを、尿道性愛的なものと、見なしている。
この期間は、フロイトが、後に、男根期として、記述することになる。

尿道性愛と、男根性愛とは、非常に密接に関連しあうのである。
子供の、遺尿は、マスターベーションと、同じものと、解釈される。
フロイトは、夜尿は夢精に対応すると、言う。

さらに、肛門括約筋の収縮に付随した、快感の性化と、マスターベーションの快感とが、大便を漏らす子供と、肛門粘膜の快感とが、関連づけられてゆく。

思春期のマスターベーション
子供のオナニズムと、関連するが、潜在期によって、隔てられ、性の発展段階は、潜在期によって、二つに、分けられる。
男根期と、思春期に、確立される、本来の意味での性器体制の二つである。

思春期には、それまでの、部分的性感帯の優位の下に、服従して、部分衝動は、最終的快感の達成のために、協力するとなる。
思春期の、マスターベーションは、小児期の、マスターベーションの、延長にあると、いう。

更に、フロイトは、マスターベーションに伴う、空想に、とりわけ重要性を、認めた。
神経症患者の多くが、その障害の原因を、思春期のマスターベーションに、起因する傾向があることに、注目したのである。

この、空想に、大きな問題がある。
その、有害性も、その空想にあるとしたのである。
マスターベーションという行為、以前に、その空想に、注目したといえる。

それは、他の方法では、不可能な、エディプス願望の、現われである、近親相姦的空想を想像して、満足せしめる行為であり、それは、後に、性的不能症の原因となるなど、すべての、想像の産物をして、強烈な罪悪感の、源流になるというものである。

今では、フロイト流も、一つの見方として、冷静に判断できる。
この、空想力が、芸術にまで、高まるということを、知らない。
すべて、病理として、扱ったのである。

日本の、精神分析も、欧米から、見習ったものであるが、そのまま、使用することに、無理があった。
一時期、それだけに、絞って、判断しようとしたが、破綻した。
それは、たった一つの方法だったのである。

例えば、フロイト流に、言えば、口唇期が、一生続く人もいる。また、男根期が、肛門期が、一生続く人もいる。

飛躍するが、ウォシュレットという、トイレの機能が、ついて、肛門感覚が、退化してしまったということに、気づく人は、少ない。

あれは、非常に、機能として、賛美されるものだが、使用を始めると、肛門が、鈍化して、肛門に、最初に水をあてないと、便意が、起こらないという人が出てくる。

五十代からの年齢の人は、特にそうである。
更に、一見、清潔に思えるが、全く逆である。

肛門には、それなりの、菌があるゆえに、菌から守られるという。それを、綺麗にするのであるから、非常に、他の菌に、弱くなる。

更に、直腸の動きを、鈍化させるので、直腸癌にも、かかりやすくなるのである。

便をするわけではないが、肛門に、水をあてて、ストレスを解消する人もいる。つまり、肛門性愛の変形である。

慣れると、肛門の中に、水が入るようになり、一種の肛門性交のような、具合になり、その、快感が、たまらなくなる。
要するに、アナルセックスの、変形である。

入れる快感と、排泄する快感を、味わうことが出来るのである。

東南アジアの国々で、便の後で、左手で、尻を拭くというのとは、根本的に違うのである。

2009年02月19日

性について42

1898年に、発表された、神経症の病因論におけるセクシャリティという、論文で、フロイトは、神経衰弱、ヒステリー症候群、不安神経症における、マスターベーションの、病因的役割を、明らかにした。

そこでは、また、強迫神経症の、発生における、マスターベーションの、重要性も、指摘された。

強迫観念の発生は、マスターベーションとの、熾烈な戦いの後に、一定の潜伏期間をおいて、表面に現れるという。
そこでは、マスターベーションが、見かけ上、負けただけで、単に抑圧されているにすぎない。
そこから、生じる、不満足感による抑制は、知的抑制ともなるという。

フロイトの手紙に、
マスターベーションこそ、唯一にして最大の習慣であり、根源的欲求であると、そして、アルコールとか、モルヒネ、タバコといった嗜好品への欲求は、その代替物、代用品に過ぎないという結論に達したのです。
とある。

1919年、子供が叩かれる、との、題された論文で、フロイトは、その頃、一般的だった、性的空想について、論じている。

この空想には、それに続く、マスターベーションによる、甘美な感覚と、羞恥心、罪悪感という、激しい感情とが、混合しているというもの。
そして、最初は、自発的に、やがて、強迫的になり、空想は、果てしなく、反復されてゆく。

更に、マゾヒスティックな空想による、マスターベーション以外では、性的快感を、得られないという、マゾヒストもいるとされた。

フロイトは、男女を問わず、成人の中でも、頻繁に、マスターベーションが行われてると、考えていた。

それに、付随した、羞恥心のせいで、隠されることにより、様々な、神経症の原因となると、判定した。

患者がつねに自分の性的習慣と闘っていることを、そしていつもその闘いに敗れて絶望に追いやられていることを医者が理解すれば、そしてさらに、患者からその秘密を聞き出し、その重みを軽減し、そこから抜け出すために助力しようと努めれば、治療効果は必ずや報われるはずである。
フロイト

医者は、マスターベーションの告白が、得られたら、その習慣を、改めさせることだというのである。

こうした治療は、病院施設で、監視の元で、行われなければならないのである。
そうしなければ、自慰者は、安易な充足手段に戻る。

フロイトは、自慰者を、モルヒネ、コカイン、睡眠剤の中毒患者と、同じように、考えた。

つまり、自慰というものが、為されない場合は、薬物に頼るという、考えだったといえる。
今なら、笑い話である。

医者は、夫婦の、一方あるいは、両方を神経症の危険に晒したくない場合は、夫婦の性生活を、問い、新婚初夜から、妊娠の回数を減らすという目的で、中絶性交、つまり、オナニズムに頼っていないかを、知るべきであるとする。

フロイトは、避妊手段に、経口避妊薬が、発明されることを、願っていたという。

フロイトも、矢張り、古い人間で、
苦労することなく、安易な方法で、大きな目的が達成できるということを、教える、この悪癖によって、人格を堕落させる。
と言うのである。

それに対して、作家、カール・クラウスは、シニカルに、論理を逆転させる。
性交とは、マスターベーションの不満足な代用品に過ぎない。

この言葉は、実に、的を得ている。
現在、マスターベーションの、優位性というものは、セックスを考える上で、重要なものになっていると、思われる。
セックスとは、何かと、問う時、マスターベーションとは、何かを、問うことで、理解される。
そして、性的満足というものは、何かと問う時も、である。

さて、1910年、ウィーンにて、精神分析学学会で、オナニズムおよび、その他の自己性愛的行為についての、議論が交わされた。

それは、自慰論という、題で、その年に、刊行されている。

全員が一致した意見
オナニズム行為に伴う、あるいはその代わりをする空想の重要性について。
M・クラインは、子供の遊戯をマスターベーション的空想の表現と見なす。

オナニズムに起因し、それに結びついた罪の意識の重要性について。
どのような条件においてオナニズムが有害であるかを定性的に決定することの不可能性について。

一致を見なかった種々の見解
オナニズムの身体的影響の否定に関して。
オナニズムの有害性全般の否定に関して。
罪悪感の起源に関して、不満足感から直接に由来するという見解と、そこに社会的要素を認める、あるいはそれぞれの場合について、幼児期オナニズムの偏在性に個人的差異を認める見解とがあった。

最後に、不確かなままに残ってしまった重要な問題
それが確認されたとして、オナニズムの有害性のメカニズムについて。
現在の神経症とオナニズムとの病因論的関係について。

フロイトは、神経症の発生に関して、容易に満足が得られるせいで、幼児的性目標の固着と、心的幼児性の中に、停止したままでいることが、可能になるという点で、明確に、オナニズムの有害な影響を、認めている。

能力が有り余っているとき、高潔であることは、なかなか難しい。オナニズムは、美徳の欠如であると同時に、逆に、欠如の美徳ともなる。
フロイト

それは、
マスターベーションの有害性は、それに伴う罪悪感と結びつき、そこには悪循環のようなものができあがり、罪悪感をなだめようとしてマスターベーション的満足に回帰し、それがまた罪悪感を生み出してしまうのだ。
要するに、思春期以前の子供のマスターベーションは有害ではないとしても、青春期を過ぎて成人の年齢に達してもなお持続する場合には、必ずしも害がなくはないということである。
オナニズムの歴史 ジャック・デュシェ

この後、フロイトの、弟子達の時代が、来るのである。

フィリピンへ11

追いかける
児らの必死の
形相に
ただ哀しくて
あはれに泣く

今着てる
ものがすべてと
児らが言う
支援衣服の
足りなくてあり

街の至るところに、路上生活の人がいる。
ただ、一定していない。
あの、二人の男の子が寝ていた所と、翌日行くと、もう、姿がない。
移動しているのだろうか。

海沿いの道路の、車道を分ける、大きな歩道に、点々として、生活している人たちがいる。
その一つの、家族に、衣服を持って行った。
三世代の路上生活者であった。

おばあさん、と、その子と、孫である。
大人用のものもあり、手渡した。
すぐに、打ち解けて、一緒に写真まで、撮った。

今度は、いつ来るのかと、問われて、しばし、佇む。
半年後と、ようやく、答えて、そんな予定は、無いのだが、喜ばせる。

それだけで、喜んでくれる人はいいが、一度、歩道に寝ている人たちの所に、出掛けた時、食べ物を求められた。
何度か、そういう人たちに出会った。

哀しいが、それをすると、キリがなくなるのである。

一度、朝、路上生活の人々が、並んでいるのを、見た。
何をするのとか、待っていると、食べ物の、提供が、はじまった。
ご飯と、汁物である。
それを、それぞれが、持ってきた、袋や、コンビニの、ゴミ箱にある、カップに、ご飯、汁物と、注いで、もらう。

女親と、女の子は、それを受け取ると、無我夢中で、食べた。
母親は、顔に、ご飯粒がついていることも、気づかない。
壮絶な姿だった。

顔付きを見ると、混血が多い。

フィリピンで、良い生活をと、思えば、政治家か、公務員にならなければならない。
公務員になるには、ツテが必要である。
アホでも、ツテがあれば、公務員になれる。

しかし、何も無い人は、学歴を持つことが、唯一の道である。

一個、30ペソ、60円の、ハンバーグの車屋台を出している青年は、人がいない時に、一生懸命勉強している。
お金を貯めて、学校に行き、卒業するためだ。

しかし、フィリピンにいては、職にありつけない場合は、海外に出る。
英語と、学歴で、海外で、職を探す。

私達は、マニラの、観光地である、エルミタ・マラテ地区から、高架鉄道の先端の、空港寄りの、バクラランという町に出掛けた。

行くときは、ジプニーに乗った。
大変な道だった。
汚く、臭い空気を吸いつつ、30分以上もかかった。

バクラランでは、あまりの、人並みに驚いたが、そこに住む人々の、生活にも、驚いた。
ゴミ箱のような、街である。
市場が広がっているが、そこに、住む家々は、地震がきたら、一変に倒壊してしまうであろう、建物である。

一件の、出店で、ジュースを飲んだ。
住宅街である。
二人の姉妹が、近づいて来た。
そして、下の女の子が、手を出して、一ペソという。
ずっうと、一ペソと言い続けたが、私は、上げなかった。

ただ、溜息ばかりである。
姉妹は、血が違う。
上の子は、白人系の血であり、下の子は、アジア系である。

路上をうろつく、女の子たちが、児童買春の、手にかかる。
連れ去られて、人身売買されるのである。

兎に角、言えることは、政治である。
政治機能の、確実さである。
児童買春撲滅には、法整備が欠かせない。

フィリピンに、麻薬を運び入れる者は、死刑ですと、税関の、記入書に、書かれてある。
同じように、児童買春は、死刑ですと、書くべきである。

女の子たちは、ある程度の、年齢になると、路上から、姿を消す。
売春婦になるのだ。

コータが、変なおじさんから、強引に売春斡旋を受けた時、17歳の、処女は、どうだと言われて、幾らかと、尋くと、500ドルと言われた。五万円である。
コータは、それを買う者がいるのかと、尋くと、日本人なら、買うと答えたという。

コータは、断るのに、何と、私は、おかまなのと言ったという。
それ以来、そのおじさんと会うと、おかまと、罵倒されるという。

フィリピンでも、おかま、という言葉が通用する。
自ら、おかまと、名乗る男もいる。
そして、また、おかまは、多い。

コータが、美容室に行くと、自ら、おかまという、ボーイが相手したという。
明確な、女装をする訳ではない、レディボーイである。

ゲイ専門の、売春夫もいる。
また、ゲイのために、サービスするマッサージさんもいる。

男の、マッサージさんを頼むと、ゲイと、認識される。
であるから、そういうサービスをして、チップを求める者がいる。

フィリピンで、マッサージをするには、エステ系か、マッサージのみの、専門の店である。

盲人だけの、マッサージ店に出掛けた。
一時間、350ペソ、700円である。
実に、上手で、日本の指圧式に近いものだった。
ここに決めて、もう一度と、思ったが、何せ、冷房の効き過ぎで、寒いのである。
それが、難点で、一度だけで、終わった。

エステ系では、オイルマッサージを受けた。
真面目な女で、黙々と、丁寧に、やってくれた。
一月、一万程度の給料で、一人の子供を育てる、母子家庭である。
500ペソ、1000円である。

食事も、ホテルの部屋でするようになった。
スパーから買い物して、それを、食べる。
旅の間の食事は、楽しみであるが、フィリピン料理の、本当の姿が解らないうちに、帰国した。
確かに、街中の地元の人が行く、食堂のものを、何度も食べたが、豚、鶏肉、魚料理である。
一番、私が好きになったのは、春雨である。
しかし、漠然とした、味付けであり、ぴったりこなかった。

日本のラーメン屋は、多い。
ところが、値段が高い。
勿論、日本のラーメンよりは、安いが、フィリピン価格だと、高いのである。
280ペソ、約600円である。
それに、飲み物を入れて、サービス料10パーセントがつくと、日本のラーメンと、変わらない値段になる。

一人、千円以上になると、高いのである、私には。

2009年02月20日

フィリピンへ12

マニラの、エルミタ地区には、巨大デパート、ロビンソンという建物がある。
ほぼ、一丁角を占めている。
日本の、ダイエーと、高島屋、三越などを、合わせたような、デパートである。

その中に入ると、今までの、街の風景が、消える。
まさに、現代の都会にいるのである。

兎に角、中には、レストランが多く、食事をするのに、事欠かない。
世界中のメニューがある。
値段は、決して安くない。
街中の食堂より、倍以上はする。

スパーもあり、その値段を見て回ったが、みかんなど、道端で、売っている物の、二倍だった。矢張り、高いのである。
しかし、混雑振りは、甚だしい。

最も、お客が少なかった時間帯は、開店すぐである。
それから、昼に掛けて、どんどんと、入ってくる。
閉店まで、いつも、一杯である。

だが、一歩外へ出ると、別世界、現実の世界である。

実に、不思議な感じがした。
そして、ある意味、中に入って、ホッとすることもあった。
だが、それは、私の感性が、横浜という都会、日本という、街の有り様に、嵌っているからだろうと、思う。

見慣れた風景を、好むのは、当たり前である。

一度だけ、和食の店に入った。
メニューを見て、値段を見て、矢張り高いと思った。
普通のラーメンを注文したが、味が、味の素だったから、驚いた。

明らかに、手抜きである。
スープの出汁をとっていないのである。
単なる、調味料である。
そして、それでも通用するところが、また、何とも、言いえない。

四階まであり、その四階の、盲人のマッサージ店に入ったのだ。
一階と、四階には、多くレストランが入っていた。
アメリカンフーズの店が、大人気のようである。
食生活も、アメリカを真似ているのだろう。

日本軍の、敗退の後、アメリカ軍の再上陸による、日本軍からの、解放を経て、フィリピンは、1946年4月4日に、共和国として、独立した。

初代大統領マヌエル・ロハスは、われわれの友人であり、庇護者であったアメリカの善意に信頼を託し、わたしは忠誠を誓う、と、まで述べている。

太平洋戦争最大の激戦地だった、フィリピンが、戦禍からの、復興に向けて、アメリカに頼る以外になかったのだ。

独立後、フィリピンは、アメリカと、二つの重要な協定を、結んでいる。
総額6億2千万ドルの、復興支援を供与する協定。
植民地統治時代の、経済関係を事実上継続する、ベル貿易法にもとづく、米比通商協定である。

通商協定は、最初の八年間を、無関税とし、その後の、20年間で、段階的に無関税を回収する関係を、28年間にわたり、維持し、同時に、砂糖、ココナツなど、フィリピンの産物の、対米輸入割当制の規定である。

そして、アメリカは、米国民が、フィリピンの自然資源の開発、利用、公益事業の経営などに、参入できる、内国民待遇を、獲得した。

もう一つは、ルソン島の、中央部、スービックとクラークを中心にした、軍事基地の維持である。

当初は、99年間の使用権だったが、マルコス政権下の、1966年に、91年までの、25年間に、短縮された。

独立後も、アメリカとの関係維持を、つとめて、国家の根幹に関わる、分野で依存関係を保持したのである。

アメリカが、前後10年間で、日本を含めたアジアに対して、支出した援助額は、100億ドルであり、このうちの、22億5千万ドルが、フィリピンに向けられた。

大統領制、上下両院制議会、二大政党制も、アメリカ型である。

また、東南アジアに見られる、独立後の、支配層の入れ替えが無かったことも、特徴である。伝統的支配層に、変化が無かったというのが、今に至るフィリピンに有り様である。

つまり、フィリピンは、エリートと大衆という、区分けが、厳然としてある国なのである。

ただ、産業形態が多様化する中で、新たなビジネス・エリートに、のし上がる人も出たことは、確かである。

また、高等教育の、普及が新興勢力としての、中間層を育てたことも、否めない。
それらも、エリート社会に、連なるグループである。

自由主義思想と、親米反共ナショナリズム、それは、キリスト教徒で、英語を日常語とする、欧米の文化を崇め、伝統文化を、見下すという、アメリカ流民主主義を、手本とする、フィリピンのエリート層を、形作った。

問題は、支配層、エリート層の、特異な贅沢、対米依存が、繁栄を演じたが、その裏には、とてつもない、貧困という、大衆の姿がある。

60年代、農村地帯から、マニラをはじめとした都会への、人口流入が加速した。
そのため、都市部は、恒常的な失業者を生み出した。
その多くが、スラム・スクオッターとして、膨張したのである。
今、現在も、引き続いている問題である。

その結果、都市部では、労働運動、学生運動が広がる。
更に、反米ナショナリズムである。
60年代には、毛沢東主義を、掲げる共産主義勢力も、台頭した。
南部の、ミンダナオ島では、今も、少数派異教徒とされた、イスラム教徒たちが、自治権の拡大や、分離独立を掲げて、武装勢力として、活動している。

そこで、登場したのが、マルコス政権である。
多様化する国民の要求に対して、権力の一元化を図り、都市中間層を中心にした、国民の政治的覚醒、力による弾圧である。

そうして、経済が疲弊していった。

86年2月の、民衆蜂起で、マルコスが追放され、誕生した、アキノ政権下で、上院多数派が、米軍基地の存続協定を否決する。
アメリカと、切れて、その自縛を解き、新たに生まれでようとしたのである。

これを引き継いだのが、ラモス政権である。
経済の再建を掲げて、アジア回帰を掲げた。

そして、エストラーダ政権である。
だが、弾劾裁判という、未曾有の元、大統領の任を解かれた。

現在のアヨロ大統領は、2001年1月に、民衆の支持を得て、誕生した。
貧困の撲滅、汚職の追放、政治倫理の確立、治安の改善、反政府勢力との和平交渉を掲げる。

だが、政治家の、汚職は、凄まじいばかりである。

フィリピンに対する、ODAの取り扱いが、中止にされたことも、汚職の故である。
その新聞記事を、私は、マニラで、読んだ。

汚職大国であるとは、現職議員が吐いた言葉である。

エリートの象徴は、公務員である。
彼らは、たっぷりと、国家に保護されている。
そして、公務員になるためには、ツテが必要である。
簡単にはなれない。
能力主義ではないのだ。

フィリピンの問題は、まだまだ、根が深い。
私は、そのもっともたる問題は、フィリピンの自己統一性であると、思っている。
長い間の、植民地政策により、自らの、自己統一性を、築くことが、出来なかった、悲劇である。

フィリピンへ13

フィリピンの現状を書いても、その背景を知らなければ、より深い理解は得られない。

首都圏のマニラが、このようなのだから、それでは、他の島、地域はどうなのだろうかと、想像すると、想像すら、出来ないのであると、気づく。

政治と経済は、強く結びついている。
単純に俯瞰すれば、富が、一部の人にしか、渡らないシステムが、出来上がっているということであろう。そして、更に、悪いのは、それを解消出来ずに、今の今まで、続いてきたということだ。

旧体制から、引き継がれた一部の、富を占有する人々が、政治も握るということ。
政治家が、国民のための、政治家ではなく、自分の、利益のための、政治家であるといえる。

民主主義とはいうが、フィリピンには、それに似た政治選挙があるだけで、結果は、政治家自らのための、政治家が、大半を占めると、考える。

共産ゲリラや、イスラム反政府活動など、反政府運動は、当然であると、思えるのである。

イスラムは、キリスト教以前から、存在していた、ものであり、分離独立を目指しても、おかしくないと、思うに至った。

改めて、政治の役割というものが、実に大切なものであることを、知るのである。

それでは、少し、日本がフィリピンに、戦後行った、ことを見る。

1956年から、76年の20年間に渡り、日本は、1980億円という、他の賠償受入国の、インドネシア、ビルマ、南ベトナムなどと、比べても、最高額を供与した。

1979年に、はじまった、円借款に無償援助を加えた、日本のODAにおいても、インドネシア、中国、インドに継ぐ、第四位という位置である。

国民一人あたりの、援助額では、主要対象国のなかで、最高額を受け取っている。

1980年代からは、フィリピンにとっても、最大の援助国は、日本である。

援助額の、57,6パーセントを、占めているのである。

昨年から、少しばかり、報道されるようになったのが、ODAの、あり方である。
つまり、フィリピンをはじめとして、外国での、賄賂が不正な、支出として、認定されたのである。

フィリピンの場合は、1986年の、政変の中で、追放された、マルコス大統領が、アメリカに持ち出された、秘密文書によって、賠償や、ODAがもたらした、負の側面を、見せ付けることになった。

それは、インドネシア、ベトナムなどにも、言える。
結果的に見ると、国民のために、支援金が、使用されず、単に政治家と、その一部の者たちのために、使用されているという、事実が、見える。

民主的選挙を、行い、国民の選んだ政治家が、結局、汚職まみれだというとも、多々ある。
それは、歴史が証明する。

問題は、まだまだあるが、次の機会に、譲る。

私達が、三度目に変わった、一泊、1500ペソの、ホテルには、結局、七泊することになった。

広い部屋で、値段の割には、古いが、豪華である。
三階の、深夜は、ガードマンが寝泊りする、前の部屋。そして、十字架がかかる、神聖な場所の前である。

古いだけが、問題だと思っていたが、二日目の朝方、足元から、痒みが起こった。
そして、三日目から、それが、顕著になった。
痒みの箇所を見ると、虫刺されである。
蚊に刺されたような痕がある。

はて、蚊などは、見ない。
四日目に、解った。

ノミ、シラミである。
それは、ベッドだった。
一泊する程度ならば、解らないが、長期間泊まると、解る。

ベッドのマットレスが古く、ノミ、ダニ、シラミの、巣なのである。
その上に、シーツを敷いても、彼らが這い上がってくると、知った。

後の、三泊を続けるか、否か。

中々、納得した、ゲストハウスを見つけることが、出来なくて、結局、そこに、留まったが、後一日という日に、私は、すぐ近くに、同じ値段のホテルを、見つけた。そして、ホテルは、新しいのである。

次の時には、そのホテルに泊まることにすると、思ったが、実は、マニラのエルミタ地区にいるのが、限界に達してきたのだ。

目に入るものに、拒絶反応を示す、私の脳である。
見なければ、いいものを、見てしまうからである。

明日帰国するという、夜の食事に出た時は、パニックを起こすのではないかと、思える、心境になった。

レイテ島などの、慰霊に出掛けるならば、マニラに立ち寄らないことだと、思った。
二つの方法がある。
セブ島までの、直行便で行き、そこから、船に乗り、レイテ島に渡る。
マニラに着いても、国内線で、レイテ島に、行く、である。

ただし、ルソン島にも、多くの慰霊の地がある。
フィリピンとも、長い付き合いが始まる予感であった。

衣服を差し上げた人々から、何度も、次は、いつ来るのと、尋ねられた。

私の活動の主たるものは、追悼慰霊である。
衣服支援は、それに準ずるもの。
団体は、作らない。あくまで、個人活動である。
何トンもの、衣服を運べるものではない。ただ、持てるだけ、持つのみ。

手渡しが、基本である。
この行為が、もし、日本と、それぞれの国の人々の、小さな、関係を築くことが、出来ればと、願うのみ。

後は、野となれ、山となれ、なのである。

2009年02月21日

フィリピンへ14

この角に
比日英米
死せる人
柱にすれば
天超える数

フィリピンを象徴する、マニラは、悪夢の街である。
更に、浄化していない霊的存在の、溜まり場である。
その、想念の、烈しいものは、今までに無いものであった。

私は、レイテ島に慰霊に行き、その旅日記で、戦禍について、書くことにしていたが、今回は、マニラで足止めされて、戦禍と共に、未浄化の霊位の存在を、見事に、感得してしまったのである。

更に言う。
フィリピンは、カトリックの国であると、いわる。
しかし、その堕落は、甚だしく、話にならない。その、有様を、書くことも、必要としない。

霊的所作は、マニラ湾でも、行ったが、矢張り、御幣は、海に沈んだ。
見事に沈んだのだ。

その時、私は、御幣の木の枝を、流れやすいようにと、三分割して、投げ入れたのである。しかし、流れない。沈む。

教会は、清め祓いが、出来ない。
言うならば、ペタン、ペタンと、上塗りするだけである。
聖水を掛けても、清められるどころか、怨念となって、漂うという、仰天である。

彼らの天国とは、教会の上空であるから、教会の傍が、もっとも、霊的に、汚れているといえる。

太平洋戦争の、最大の激戦地であった、フィリピンの追悼慰霊は、誰がするのか。

誰もしない。

勿論、日本人の個人的な慰霊により、日本に戻られる、日本兵の霊位は、ある。
しかし、多くの霊位は、そのまま、留まるのである。

スペイン統治時代からの、地元民の虐殺からはじまり、死者は、累々と、蓄積され、その上に、更に、霊位が、蓄積された。

教会は、怨念の溜まり場と化して、役に立たないのである。

その私は、教会を、回っている。
その、聖堂に入り、跪き、祈りを上げた。
祈りは、上昇するが、マニラの教会では、祈りが、ぐるぐると、回るだけである。

エルミタ教会の、サントニーニョのお祭りを見た。
これは、幼きイエズスのお祭りである。
道を踊りつつ、練り歩く。
子供達は、裸足で、踊っていた。
何故、子供達が、真っ黒に、色づけしているのかと、不思議に思った。

途端に、気づいた。
カトリックが、壊した、現地民の文化の、名残であると。
誰も、それに気づかないが、誰かが、カトリックの文化の中に、名残を留めたのである。
それが、唯一の抵抗である。

今は、皆、熱心なカトリック教徒として、生活しているが、潜在的に、もっている、元からの、信仰形態があるのだ。

だが、カトリック教会は、貧民、路上生活の人々に、何か手を差し伸べているのかと言えば、大半のカトリックのボランティア活動は、海外のカトリック教徒たちである。

現在は、イスラムの、モスクも、建てられて、イスラムの信仰を維持することも、出来るようになっている。
私は、そのモスクに出掛けようとも、思ったが、今回は、遠慮した。

モスク周辺は、大変危険であることを、聞いている。また、行くなら、昼間であるとも、言われた。

ミンダナオ島での、イスラム教の反政府軍が、活動していることを、日本では、テロ行為として、考えていたが、違う。
彼らは、元からの、信仰を持ち続けて、本国からの、分離独立を、目指しているのである。
それは、フィリピンの現状を、見れば、納得できた。

このままでは、いつまでも、一部の人たちの、利益のために、使用される存在なのである。
本国の政治に、期待できないのである。
当然であると、思った。

更に、共産ゲリラの活動も、である。
つまり、フィリピンに、革命を、なのである。
それ程、フィリピンは、混迷している。政治的に、経済的に、である。

三代の
路上生活
板につき
ダンボール造り
寝屋を指すのか

物溢れ
物無き所
それぞれに
悲しきことの
多かりきかな

物売りの
物乞いの
必死なる
形相にある
生きるということ

夜に立つ
女・女装者
男娼と
生きんがための
命の戦

裸でも
悲しと思う
こともなき
貧しと思う
こともなき子ら

マニラは、悪夢である。
その、悪夢の国に、戻りたいと、思うフィリピン人は少ない。
日本にて、不法滞在をしている、フィリピン人の気持がよく解る。

夕暮れの
空にかかれる
雲までも
マニラの雲と
成り果てたしや

上には、上の、極みというものがあるが、下には、下の、極みというものがない。ということは、世界には、もっと、凄い、マニラを越える街、街、街があるということである。

夕日にも
適わぬものは
白月の
マニラの空の
あはれなるかな

夕暮れの
マニラの空の
果て無きを
この人の世の
意味無きを観る

これ以上、詮索しても、無意味であろう。
いずれ、フィリピンの戦禍について、書くことにする。

もののあわれについて325

源氏
いくたびぞ 君がしじまに 負けぬらむ 物な言ひそと 言はぬ頼みに

宣ひも捨ててよかし。玉だすき苦し」と宣ふ。女君の御乳母子、侍従とて、はやりかなる若人、いと心もとなう、かたはらいたし、と思ひて、さし寄りて聞ゆ。

侍従
鐘つきて とぢめむ事は さすがにて 答へまうきぞ 旦はあやなき

いと若びたる声の、ことにおもりかならぬを、人づてにはあらぬやうに聞えなせば、程よりはあまえて、と聞き給へど、めづらしきに、源氏「なかなか口ふたがるわざかな、

言はぬをも 言ふに勝ると 知りながら おしこめたるは 苦しかりけり

何やかやと、はかなき事なれど、をかしき様にも、まめやかにも、宣へど、何のかひなし。


源氏
幾たび、あなたの、沈黙に、根負けしたことでしょう。
黙れと、おっしゃらないので、つい、また、申してしまいます。

いっそのこと、嫌だと、はっきりと、仰ってください。どっちつかずでは、苦しいものですと、言う。
姫君の、乳母の子で、侍従と呼ばれている、才走った若い女房が、返歌のないのを、もどかしく思い、きまりが悪いと、姫の方に、寄り、代わって、申し上げる。

侍従
鐘を打って、お話を、やめることは、できませんし、そして、お返事も出来ないとは、どういうことでしょう。

若々しい声で、身分を思わせることなく、姫自身であるかのように、申し上げる。
身分のわりに、馴れ馴れしいと、お聞きになるが、源氏は、珍しい返事に、かえって、何も申せません。

源氏
何もおっしゃらないのは、仰る以上とは、知っていますが、でも、黙っていられることは、辛いことです。

何やかにやと、とりとめないことで、戯れのようにも、真面目であるかのようにも、仰ってみるが、反応は無い。


鐘つきて
八講論議の時、磐という、楽器を打つと、問答を止めて、無言の行をする。
それを言うのである。
今で言えば、講義を聞いて、その後で、沈黙して、黙想するということ。

つまり、言うことは、言わぬことよりも、深い思いがあるというのである。

をかしき様にも、まめやかにも
戯れのようにも、真面目に対処するようにも、ということ。

まめやか、という言葉も、よく使われる。
今でも、まめに、とは、小まめに、気を使う、細々しくという行為になる。

いとかかるも、様変わり、思ふ方異にものし給ふ人にや、とねたくて、やをら押し開けて入り給ひにけり。命婦「あなうたて、たゆめ給へる」と、いとほしければ、知らず顔にて我が方へ往にけり。この若人ども、はた、世に類なき御有様の音聞きに罪許し聞えて、おどろおどろしうも嘆かれず。ただ思ひも寄らずにはかにて、さる御心もなきをぞ思ひける。

こんな風にここに居るのは、おかしいことだと思う。
相手は、特別な考えを持っているのかとも、思い、癪に障る。
そっと、襖を押し開けて、中に入った。
命婦は、あなうたて、あらあら、油断させてしまってと、姫君が、気の毒で、知らぬ顔をして、自分の部屋に戻ってしまった。
若い女房達も、世に類ないご様子と、評判ゆえに、お許しして、大袈裟に嘆く者は、いない。
ただ、思いかけず、不意のことで、まさか、そんな考えはないだろうと、案じたのである。

源氏は、姫の部屋に入ったのだ。
無礼な行為であるが、源氏の君であるということで、女房達も、許している。
ルール違反をしているのである。

正身は、ただ、我にもあらず、恥づかしくつつましきより外の事またなければ、「今はかかるぞあはれなるかし。まだ世慣れぬ人の、うちかしづかれたる」と、見許し給ふものから、心得ずなまいとほしと覚ゆる御様なり。何事につけてかは御心のとまらむ、うちめかれて、夜深う出で給ひぬ。命婦は、いかなら、と、目さめて聞き臥せりけれど、知り顔ならじ、とて、「御送りに」とも、声づくらず。君も、やをら忍びて出で給ひにけり。

姫自身は、ただ、無我夢中で、恥ずかしく、きまりが悪いはがりである。
君は、これがいい。こんなのが、可愛いのだ。初心な人として、育てられてきたのだから、当然だと、大目に見るが、変である。何となく、気の毒に、見える姫の様子である。
何事につけてか御心のとまらむ、こんな状態では、君の心を捉えることが、できないだろう。
君は、酷く、失望して、夜の暗いうちに、お帰りになった。
命婦は、どんな状態かと、目を覚まして、横になったまま、聞き耳を立てていたが、お帰りを、知らぬこととして、見送りをということも、指図しない。
君も、黙って、こっそりと、出て行かれた。

うちうめかれて
つい、失望の声を上げて。
うち 呻く、のである。
君は、失望の声を上げてと、訳してもいい。

それは、追々と理解することになる。
何故、失望したのか。姫の様子にある、何か、言い知れないものである。

2009年02月22日

もののあわれについて326

二条の院におはして、うち臥し給ひても、なほ「思ふにかなひ難き世にこそ」と思し続けて、軽らかならぬ人の御程を、心苦しとぞおぼしける。


二条の院に、お帰りになり、お休みになっても、理想通りの女は、いないと、誰、彼を思っても、身分いやしからぬ、姫君ゆえに、気の毒に、思われた。

思ひ乱れておはするに、頭の中将おはして、中将「こよなき御朝寝かな。故あらむかし、とこそ思ひ給へらるれ」と言へば、起き上り給ひて、源氏「心やすき独寝の床にてゆるびにけりや。内裏よりか」と宣へば、中将「しか。罷で侍るままなり。朱雀院の行幸、今日なむ楽人・舞人定めらるべき由、よべ承りしを、大臣にも伝へ申さむとてなむ、罷で侍る。やがて帰り参りぬべう侍り」と、忙しげなれば、源氏「さらば、もろともに」とて、御粥、強飯召して、客人にも参り給ひて、引き続けたれど、ひとつ奉りて、中将「なほいと眠たげなり」と、とがめ出でつつ、中将「隠い給ふ事多かり」とぞ怨み聞え給ふ。事ども多く定めらるる日にて、内裏に侍ひ暮し給ひつ。


思い悩んでいるところに、頭の中将がやってきた。
ひどい、朝寝ですね。訳がありそうだと、中将が言う。
君は、起きて、気楽な独寝のため、気を許していた。御所からかと、言う。
中将は、そうです。今、退出してきたところです。
朱雀院の、行幸、今日は、その楽人や舞人を、決定すると、昨夜、承りましたが、父の大臣にも、伝えようと思い、退出したのです。すぐまた、参内せよとのことです。と、急ぎの様子。
源氏、それでは、一緒にと、御飯や、強飯を、お取りせよになり、頭の中将にも勧めて、車は、二台並んでいるが、一台に同乗されて、中将は、まだ、眠そうですねと、咎めつつ言う。
隠していらっしゃることが、沢山あるのですねと、お怨み言を言う。
多くのことが、取り決められる日で、一日、御所にいらした。

御粥は、現在のご飯である。
ひとつに奉りて
乗るという、最高敬語である。

二人は、仲が良い。
とがめ出でつつ
咎めることを、言いつつである。

隠い給ふ事多かり
隠していることが、多いのでしょう。

中将は、何を隠しているのか、知りたいのである。
それほど、源氏のことを、思う。

義理の兄弟とはいえ、随分、軽い口をきくのである。
源氏の身分は高いし、しかも、義兄である。
どうしても、ここに、二人の関係の深さを感じる。


かしこには文をだに、と、いとほしくおぼし出でて、夕つ方ぞありける。雨降り出でて、所狭くもあるに、笠宿せむ、と、はたおぼされずやありけむ。かしこには、待つ程過ぎて、命婦も、いといとほしき御様かな、と心憂く思ひけり。正身は、御心の中に恥づかしう思ひ続けて給ひて、今朝の御文の暮れぬれど、なかなか、咎としも思ひわき給はざりけり。


常陸の宮には、後朝、きぬぎぬの手紙だけでもと、思い出せば、気の毒で、夕方になり、手紙があった。
丁度、雨が降り出して、立ち寄ろうとも、思わなかったのである。
あちらでは、後朝の、文が来る時刻が過ぎたので、命婦も、残念だと、悲しく思っていた。
姫本人は、きまり悪く思いつつ、朝来るはずの手紙が、夕暮れになって、届いても、怒ることもない、心境である。

姫が、怒らないのは、それを、知らないということもある。
そんなにことは、初めてのことで、誰も、教えなかった。

男が、女の元から、帰ると、文が、すぐにやってくる。
後朝の文の礼儀である。

源氏
夕霧の 晴るるけしきも まだ見ぬに いぶせさ添ふる 宵の雨かな

雲間待ち出でむ程、いかに心もとなう」とあり。おはしますまじき御けしきを、人々胸つぶれて思へど、「なほ聞えさせ給へ」と、そそのかしあへれど、いとど思ひ乱れ給へる程にて、え形のやうにも続け給はねば、「夜更けぬ」とて、侍従ぞ例の教へ聞ゆる。

源氏
夕霧は、晴れず、あなたは、やさしくない。
そこにこの、雨です。私の気持は、いぶせさ添ふる、滅入るばかりです。

晴れ間を待っていますが、いつになるのでしょう、とある。
お越しにならない様子と、知り、皆は、たまらない気持である。
でも、お返事をと、口々に勧めるが、姫は、益々と、煩悶する様子で、型通りの、返事もできないようであるから、夜が更けてしまいますと、侍従が、いつものように、教える。


結婚の初めは、男は、三日続けて、来るのが、礼儀であるから、皆が、焦ったのである。

つまり、結婚と、同じ扱いに考えたのである。

源氏は、姫との、関係で、余りにも、姫が、気の毒と、思ったのは、秘め事を知らなかったといえる。
何が、どのようなことが、交わりなのかと、知らないという、様子だったのだ。
源氏は、それで、気の毒に思い。さて、どうしたのであろうか。
その行為を、知らない女を、前にしたとき、男は、どうするのか。

2009年02月23日

もののあわれについて327


晴れぬ夜の 月待つ里を 思ひやれ 同じ心に ながめせずとも

口々に責められて、紫の紙の、年へにければ灰おくれ古めいたるに、手はさすがに文字強う、中さだの筋にて、上下ひとしく書い給へり。見るかひなううち置き給ふ。いかに思ふらむ、と思ひやるも、安からず。
「かかる事を悔しなどは言ふにやあらむ。さりとていかがはせむ。我はさりとも心長く見はててむ」とおぼしなす御心を知らねば、かしこにはいみじうぞ嘆い給ひける。



晴れない夜の、月を待つ、私の心を、知ってください。
焦がれる思いは、同じではないとしても。

口々に促されて、紫の紙の、年が経て、古くなっているものに、文字は、さずかに、力強く、中古風の書であり、上と下を、揃えて、お書きになった。
しかし、君は、御覧になり、面白くなくて、そのまま、下に置かれた。
姫君は、どう思っているのかと思うと、心が穏やかではない。
こういうことを、悔しいと、言うのだろうか。だからといい、どうしようもないこと。自分は、それでも、気長に、最後まで、面倒を見ようと思う。と、考えた。
その心を知らず、あちらでは、大変、嘆いていたのである。


我はさりとも心長く見はててむ
それでも、私は、姫を、気長く、面倒みようと思う心が、好色、好き者の、根性である。
はい、さようなら、ではない。
最後まで、面倒を見ることが、好色者の、粋なのである。


姫の書がもまた、源氏を、うんざりさせた。
当時の女性の、書は、流し書きである。
ところが、姫は、力強く、しっかりと、昔風に、書いたのである。

これでは、恋心も、冷める。

大臣、夜に入りて罷で給ふに、ひかれ奉りて、大殿におはしましぬ。行幸の事を興ありと思ほして、君達集まりて宣ひ、おのおの舞ども習ひ給ふを、その頃の事にて過ぎ行く。物の音ども、常よりも耳かしまがしくて、方々いどみつつ、例の御遊びならず。大篳篥・尺八の笛などの、大声を吹き上げつつ、太鼓をさへ高欄のもとにまろばし寄せて、手づからうち鳴らし、遊びおはさうず。御いとまなきやうにて、切におぼす所ばかりこそ、ぬすまはれ給へ、かのわたりには、いとおぼつかなくて、秋、暮れはてぬ。


左大臣が、夜になって、退出されるのに、つられて、君も、大臣邸にいらした。
行幸の楽しさを期待して、若様方が、集まって、お話をされ、めいめいの舞の、数々を習うのを、その頃の仕事にして、月日が過ぎてゆくのである。
楽器の音なども、いつもより、喧しく、皆様、競争での、練習である。
いつもの、音楽の催しとは、違うのである。
大篳篥、おおひちりき、尺八の笛などが、大きな音を立てて、高く吹き上げ、太鼓までも、高欄の傍にころがして、若様方自身が、打ち鳴らし、合奏する。
この有様であるから、君も、暇を見つけられず、是非にと思う所だけは、何とかして、都合をつけて、お出かけになるのだが、あの姫君の所は、ご無沙汰のままである。
そうして、秋が、終わってしまった。

太鼓は、本来、楽人が叩くものだが、今回は、貴族も、縁側近くで、叩くのである。
合奏は、舞のための、音楽である。


なほ頼み来しかひ無くて、過ぎ行く。行幸近くなりて、試楽などののしる頃ぞ、命婦は参れる。源氏「いかにぞ」など、問ひ給ひて、いとほしとはおぼしたり。有様聞えて、命婦「いとかうもて離れたる御心ばへは、見給ふる人さへ心苦しく」などね泣きぬばかり思へり。心にくくもてなして止みなむ、と思へりし事を、くたけていける、心もなくこの人の思ふらむをさへおぼす。

姫君の方としては、頼みにしていたことが、そのままに、月日が過ぎてゆく。
行幸が、近くなり、試楽、音楽会などて、騒いでいる頃に、命婦が、参上した。
源氏が、どんな様子かと、お尋ねになる。
気の毒ではあると、思っている。
姫君の様子を、申し上げて、命婦は、こんなにまで、捨てておかれましたら、お傍の者さえ、辛いことです。などと、泣かんばかりの様子である。
床しい人と、思わせる程度で、止めようと、思っていたのであろうと、命婦の気持を、思う。
その計画を、駄目にしたのは、思いやりが無いと、命婦は、思っているだろうと、思う。
そこまで、源氏は、気にする。


御心ばへは
その心の有様である。


心にくくもてなして
心にくくと、思えばである。

くたいてける
くたしての音便であり、計画を駄目にした。
予想を台無しにしたのである。
砕いてしまった、とも言える。

思ふらむをさへおぼす
相手の思うことを、想像するのである。


正身の、物は言はでおぼしうづもれ給ふもいとほしければ、源氏「いとまなき程ぞや。理なし」と、うち嘆い給ひて、源氏「物思ひ知らぬやうなる心ざまを、懲さむと思ふぞかし」と、ほほえみ給へる、若う美しげなければ、我もうち笑まるる心地して、「わりなの、人に怨みられ給ふ御齢や、思ひやり少なう、御心のままならむも道理」と思ふ。この御しそぎの程過ぐしてぞ、時々おはしける。

その心の有様である。


本人が、物も言わずに、塞ぎ込んでいる様を、思うにつけ、気の毒で、源氏は、あまりに、幼い姫君の、心根を、懲らしてあげようと、思うと、笑って言う。
そのお顔が、若々しく、可憐で、命婦自身も、つい、微笑んでしまいそうになる。
女に怨まれるのも、仕方のない年頃。女に同情がなく、我がままをなさるのも、無理が無いと、命婦は、思う。
源氏は、この行幸の、忙しい準備の時期を、過ぎてから、時々、通うようになった。

いとかうもて離れたる御心ばへは
特に、離れた心、つまり、女を、振り向きもしない心。

もののあわれについて328

かの紫のゆかり尋ねとり給ひては、そのうつくしみに心入り給ひて、六条わたりにだに、かれまされり給ふめれば、まして荒れたる宿は、あはれにおぼしおこたらずながら、もの憂きぞわりなかりける。所狭き御物恥を見あらはさむの御心も、殊になうて過ぎ行くを、また「うち返し見まさりするやうもありかし。手さぐりのたどたどしきに、あやしう心得ぬ事もあるにや。見てしがな」と思ほせど、けざやかにとりなさむも眩し。

あの紫、藤壺のゆかりの姫君を、手に入れてからは、その人を、可愛がるのに、夢中で、六条あたりにさえも、次第に足が遠のくのである。
まして、荒れ果てた、宮邸の事は、可愛そうだと、常に気にかけているものの、何とも、気が進まないのは、仕方のないこと。
むやみに、恥ずかしがる人の、正体を見極めようという、気持も、格別に思わずに、日が過ぎてゆく。
それとは、別に、うち返し見まさりするやうもありかし、反対に、見直すところも、あるのでは。いつもは、暗闇の手探りだから、変に、おかしなところもあるのだろう。きちんと、見たいものだ、とも、思う。
だが、はっきり見る手立てるのも、きわりが悪いのである。


けざやかにとりなさむも眩し
けさやか
はっきりと、明確に。
とりなさむも眩し
取り成すことは、眩しい、つまり、気恥ずかしい、きわりが悪い。

うちとけたる宵居の程、やをら入り給ひて、格子の間より見給ひけり。されど、自らは見え給ふべくもあらず。凡帳など、いたく損はれたるものから、年経にける立処変らず、おしやりなど乱れねば、心もとなくて、御達四五人居たり。御台・秘色やうの唐土のものなれど、人わろきに、何のくさはひもなくあはれげなる、罷でて人々食ふ。隅の間ばかりにぞ、いと寒げなる女房、白き衣のいひしらず煤けたるに、きたなげなるしびら、引き結ひつけたる腰つき、かたくなしげなり。さすがに櫛おし垂れて挿したる額つき、「内教坊・内侍所の程に、かかる者どもあるはや」と、をかし。

女房たちと、寛いでいる宵の頃、源氏は、そっと、姫の寝殿に入って、格子の間から、内を覗いてみた。
しかし、姫からは、見えるはずがない。
凡帳などは、酷く痛んでいるものの、長年置いてある場所は、変わらず、動かしていないので、姫は、見えず、物足りないが、女房が、四、五人いる。
お膳には、青磁らしい舶来物が見えるが、不体裁で、料理など、風情もなく、粗末なものを、くさはひもなく、おかずもないのである、御前から下げて、食べている。
隅の方で、酷く寒そうにした女房が、白い着物の、言いようもなく煤けたものに、汚れた、しびら、上着を、結び付けている、腰恰好は、ぎこちなく、見苦しい。
それでも、櫛だけは、垂れ加減に挿している。その額の有様は、内教坊や、内侍所に、こんな者たちがいると、おかしく思う。


姫の貧しい生活を、源氏は、見た。
見られている者たちは、まさか、貴人である、源氏に見られているとは、知らないのである。

かけても、人のあたりに近うふるまふ者とも、知り給はざりけり。女房「あはれ、さも寒き年かな。命長ければ、かかる世にも逢ふものなりけり」とて、うち泣くもあり。女房「故宮おはしましし世を、などてからしと思ひけむ。かく頼みなくても過ぐるものなりけり」とて、飛び立ちぬべくふるふもあり。様々に人わろき事どもを憂へあへるを、聞き給ふもかたはらいたければ、たちのきて、ただ今おはするやうにてうちたたき給ふ。

貴人が近くにいることを、知らずにいるのである。
女房は、本当に、寒い年だこと。長生きすると、こんな辛い目にも、遭うものですと、泣く女房もいる。
宮様が、いらした時代を、どうして、辛いと、思ったでしょう。こんな心細いことでも、暮らせば、暮らせるものでしたと、飛び上がりそうなほど、震えている者もいる。
それらの、みっともない様、話し合いを聞いているのが、いたたまれなく、そこを、離れて、今丁度、来たかのように、見せかけて、格子を叩く。

「そそや」など言ひて、燈とりなほし、格子放ちて入れ奉る。侍従は斎院に参り通ふ若人にて、この頃はなかりけり。いよいよあやしう、ひなびたる限りにて、見ならはぬ心地ぞする。いとど、うれふなりつる雪、かきたれいみじう降りけり。空の気色烈しう、風吹き荒れて、大殿油消えにけるを、燈しつくる人もなし。かの物におそはれし折おぼし出でられて、荒れたる様は劣らざめるを、程の狭う、人気の少しあるなどに慰めたれど、すごう、うたていざとき心地する夜のさまなり。をかしうも、あはれにも、やうかへて心とまりぬべき有様を、いとうもれすくよかにて、何の栄なきをぞ、口惜しうおぼす。


女房が、それそれと、言って、燈火を明るくして、格子を開けて、お入れする。
侍従は、斎院にも、奉仕している女房で、この時は、こちらにいなかった。
それゆえ、ますます、みすぼらしい、田舎じみた女房ばかりで、君の目には、勝手が、違うように、見える。
女房たちが、心配していた雪が、降ってきた。
空の様子が、酷くなり、風が吹きすさんで、燈火が、消えてしまった。
それを、点ける、女房もいない。
源氏は、あの、物の怪に襲われた時のことが、思い出されて、荒れている様は、同じだが、邸の構えが狭く、人気があるということで、気を落ち着けていた。
不気味で、嫌な感じがする。
寝付かれない夜である。
しかし、それはまた、それなりに、面白いとも、風情があるともいえる。
普通と違うという家である。
ただ、姫が、引っ込み思案で、無愛想なので、張り合いがないのを、残念に思うのである。

かのものにおそはれし折おぼし出でられて
夕顔の時の、物の怪に、襲われた夜のことを、思い出して。

やうかへて心とまりぬべき有様
訳するのは、難しい言葉である。
様かへて、心とまりぬべき有様
心とまりぬべき
心がひかれる

普通と違う印象を受けるという、感覚である。が、原文の持つ、微妙な感覚は、訳せない。

いとうもれすくよかにて
これも、難しい。
いと うもれ すくよかにて
大変、埋もれ、健よかにてと、変換しても、意味が違う。
姫が、そのようであることを、張り合いがないと思うのである。

大変引っ込み思案で、潤いや優しさに欠けて、取りえもない。
すくよかに、は、形容動詞という、すくよかなり、の、連用形となる。
健よかという意味もあり、無愛想という意味、そして、けわしい、という意味もある。

文法を解読してゆくと、面白みが、欠けるので、省略してゆく。

2009年02月24日

もののあわれについて329

からうじて明けぬる気色なれば、格子手づからあげ給ひて、前の前栽の雪を見給ふ。踏みあけたるあともなく、遥々と荒れ渡りて、いみじうさびしげなるに、ふり出でて行かむ事もあはれにて、源氏「をかしき程の空も見給へ。尽きせぬ御心の隔てこそ理なけれ」と、怨み聞え給ふ。

やっと、夜が明けた。
源氏は、格子を自ら上げて、庭の植え込みの、雪を御覧になる。
人が踏み分けた跡もなく、一面荒れていて、大変寂しげである。
姫君を、振り捨てて、帰るのも、可愛そうだと、思われて、趣のある、空の様子でも、御覧下さい、あなたの、いつまで続く、お心の隔ては、理解できませんと、怨みこどを、申し上げる。

あはれにて
この場合は、可愛そうである。

風景描写の、遥々と荒れ渡りて、いみじうさびしげなるに、とは、実に、それを見る者の、心の様を、重ねる。
つまり、人の心と、風景が、同化するのである。
風景は、心の姿になっている。
私は、それを、驚く。
自然が、対立したものではなく、我と、同じく、また、一緒のものであるという、共感である。


まだほり暗けれども、雪の光に、いとど清らに若う見え給ふを、老人ども笑み栄えて見奉る。老女「はや出でさせ給へ。あぢきなし。心うつくしきこそ」など教へ聞ゆれば、さすがに、人の聞ゆる事をえいなび給はぬ御心にて、とかう引き繕ひて、いさすがに、人の聞ゆる事をえいなび給はぬ御心にて、とかう引き繕ひて、いざり出で給へり。見ぬやうにて、外の方をながめ給へれど、後目はただならず。「いかにぞ。うちとけまさりのいささかもあらば嬉しからむ」と、おばすも、あながちなる御心なりや。


まだ少し、暗い様子の中で、雪の光によって、源氏の君が、たいそう美しく若々しく見える。
老いた女房達が、にこにこして、申し上げる。
早く、お出ましなさいませ。あぢきなし、趣がありません。女は、可愛らしいのがいいです、などと、教えて上げるので、さすがに、姫も、逆らえない様子で、身支度をして、源氏の元に、膝で移動して、出られる。
源氏は、それを、見ない振りをして、外を眺めているが、後目、それは、しり目、つまり横目は、尋常ではない。
いかにぞ、どんなにか、姫の姿を拝見するようになってから、すぐれたところがあれば、嬉しいと、思う。
おばすも、あながちなる御心なりや、とは、作者の思いである。
それは、源氏の勝手な、思いである、というのだ。


源氏の姿を、雪の光に、いとど、清らに若うみえたまふを
雪の光に、照り映える源氏の姿を、美しく、若々しいと、表現する、作者は、しかし、源氏を、直視させない。
あくまでも、読者の、想像に任せる。
それは、この物語に、流れるもの。
何故、源氏の容姿を、描かないのか。
つまり、この物語は、嘘ですということだ。しかし、嘘ですという、作者の、策略が、読者には、あたかも、事実の物語のように、思わせるという。

これが、現代の、文学賞の選考会だと、主人公の顔が、見えない。主語が無い、文章であり、実に、未熟な作品であると、判断、判定されるであろう。
日本の文には、主語が無いというのが、当たり前で、いかに、欧米の文法というものに、侵されたかが、解るというもの。

日本文は、日本の伝統に則り、理解するものであり、欧米の文法で、解釈することが、誤りの元である。
正しさの問題ではない。


えいなび給はぬ御心にて
え いなび 
否である。
え、ではない、御心となる。
え、とは何か。
あいうえお、の、え、の意味は、留めと動き。留める、そして、行為する。一音の意味である。
留まり動くのではない。つまり、姫は、おっとりしているという、訳になるが、原文のイメージは、原文の方が、よい。

文法では、否を、ぬ、で打ち消し、え、では、不可能という意味になり、実に、複雑に、面倒な、解釈になり、ここで、文法というもので、やられる。
物語が、面白くならないのは、この、文法解釈である。
迷路の中に、沈没する。

いなび、を、ぬ、で、打ち消し、その前の、え、で、不可能という意味になっていて、そこで、何がなんだか、解らないが、暇な学者は、姫が、おっとりとしていると、訳すという、段取りである。

だから、私は、文法を、切り捨てて、進む。

文法を、お勉強することを、否定するのではない。
分析を好きな人は、大いに、お勉強するべきである。

後目とは、横目である。
源氏は、まだ、姫の顔を、見ていないのである。
いつも、暗闇の中で、交わるからである。

次に、いよいよ、姫の容姿が、語られる。
その、批評は、凄まじい。
女が、女を判定するのが、いかに、酷いものか。
ここまで、書くかという、程の、散々さである。

源氏の容姿と、比べると、天地の差である。

2009年02月25日

神仏は妄想である。196

2009年2月12日の、朝日新聞夕刊に載った、仏教系大学、花園大学教授である、佐々木閑氏の、日々是修行という、エッセイの一部から。

しかしそもそも釈迦の仏教は、信仰で成り立つ宗教ではない。仏教でも「信じなさい」とは言うが、それは、「釈迦の説いた道が、自分を向上させることに役立つ」という事実を「信頼せよ」という意味である。仏教の「信」とは、信仰ではなく信頼なのだ。この違いは大きい。
信仰とは、「絶対者に正しい存在がこの世にいる」と考えて、その前に自分のすべてを投げ出し身を任せることである。だから神や超越者に救いを求める宗教では、信仰が何より大切な原動力となる。一方、釈迦は絶対者の存在を認めなかったから、そこに信仰の対象というものがない。すべてを任せれば救ってくれる、そういう者はどこにもいないのである。

上記、実に、真っ当な感覚である。
仏教大学に、このような、真っ当な感覚を持つ先生がいることが、それこそ、救いである。

釈迦は、絶対者の存在を認めなかったとは、目から鱗であろう。
それを、釈迦を絶対者に仕立て上げた、大乗仏教というものが、いかに、誤りであるかということ。更に、である。
菩薩や、如来などの、神もどきを、沢山作り上げたということである。

それそこ、信仰の対象を、創り続けたのである。
勿論、釈迦仏陀も、その一人となった。

釈迦の教えには、信仰の対象というものがない、と言い切るのである。
その通りである。

すべてを任せれば、救ってくれるという、者は、どこにもないと言うことも、真っ当である。

それは、他力でも、自力でもない。
それこそ、知恵である。

更に、続けると、

釈迦自身は、普通の人間だ。ただ常人よりもすぐれた智慧があって、「超越者のいない世界で、生の苦しみに打ち勝つ道があること」を独力で見つけ出した。そしてそれを私たちに教えてくれた。だから私たちは、その道を信頼する。釈迦という人物を信仰して、「助けてください」と祈るのではない。釈迦が説いた、その道を「信頼して」、自分で歩んでいくのである。だから、釈迦が完璧な絶対者でなくても少しも構わない。道を信頼する気持があれば、それだけで仏教は成り立つのである。

それだけで、仏教は成り立つのである。
在家信仰を推し進めた、大乗は、これを、幾度も、読むことである。

更に、日本大乗仏教の、愛好者は、僧侶に、師事せずとも、我が身で、釈迦の教えた道というものに、歩み出せばよい。

この、考え方は、多分に、中国思想の匂いがするが、釈迦の教えは、実に、それに近いのである。
老荘思想も、絶対者を置かない。

絶対者を想定すると、妄想は、実に楽々である。更に、お任せするという、安心、あんじんという気持が、心地よい。

主よ、と呼びかける、キリスト教徒は、それだけで、酔いしれる。甚だしい場合は、涙を流す。その救いに預かっていると、信仰しているからだ。
アッラーも、そうである。
ユダヤ教徒も、同じく、全能の神である、主を、信仰する。そして、更に、それが、民族神であるから、やり切れない。

佐々木氏は、信仰と信頼の違いは、大きいと言うが、違いではなく、全く別物である。

帰依するという言葉ほど、上手い言葉は、無い。
絶体絶命の淵に立ち、帰依をするという、心境は、迷いの最高潮である。
それこそ、悪魔の誘いである。

人間として、立つという意識より、優れたものはない。
信仰者の、心理は、幼児心理学で、足りる。
更に、児童心理学を学べば、更に深まる。

宗教の心理は、その程度なのである。

ただし、言っておくが、だからといって、目に見えない世界を、軽んじる者も、甚だしく、愚かである。

唯物論というものは、実に、深いもので、単なる、唯、物ではないはずである。
その、物を、存在せしめている、目に見えない働きというものを、知っての、唯物論である。

見えるものは、見えないものによって、成り立つということを、知らなければ、表だけの、化け物である。

簡単に言えば、樹木には、見えない根があるということ。

見えるものしか、信じませんと、簡単に言う人には、注意しなければならない。
更に、聞えるものは、聞えないものに支えられてある。
聞えないものがあるから、聞えるものを、認識できるのである。

仏教にて、ぐだぐだと、説く言葉は、単なる、パズル遊びに等しい。
こうだから、こうで、だから、こうなり、そして、こうなって、更に、こうなるのである、という、言葉遊びに嵌ると、抜けられなくなる。
それが、信仰病である。

屁理屈、小理屈である。
それを、智慧だと、勘違いして、没頭するのは、学問が足りない故である。

そんな言葉遊びをしていても、どうにもならない。
ただ、どうにかなっていると、信じきるのみである。

ネズミが、クルクルと、輪を回るのに、似ている。
堂々巡りである。
しかし、その堂々巡りで、人生が輝くと、思い切るのである。そして、更に悪いのは、その暗示効果で、事が、上手くいっていると、思うことである。

信仰で、勝ったとは、迷いである。
信仰で勝つことなど、有り得ない。
それは、自己暗示の力である。

奇蹟というような、事態は、悪霊の関与するところのものである。
釈迦が、最も嫌ったのは、それである。
奇跡的な事柄を、特に嫌った。

生まれて、生きることだけでも、奇蹟なのに、それ以上の奇蹟を、求めて、どうする。
太陽が、東から出て、西に没することが、奇蹟である。それ以上の奇蹟はいらない。

事は、奇蹟ではなく、成る様になったのであり、それは、そうなるべくして成ったものである。

2009年02月26日

神仏は妄想である。197

そこで、シャーリプトラよ、如来はこうも考えるのである。「私には知力がある、神通力があると考えて、もし(適切な)方法によらないで、これらの衆生たちに如来の知力や(四種の)おそれなき自信などを私が教え聞かせたとしても、これらの衆生はその教えによっては(輪廻から)出離することにはならないであろう。なぜならば、彼ら衆生たちは五欲の楽しみに執着し、三界の歓楽に執着し、生・老・病・死・愁苦・悲嘆・苦悩・憂悩・惑乱から解脱せず、(それらによって)焼かれ、煮られ、熱せられ、さいなまれているからである。軒も屋根も朽ち果て、(苦悩の)炎に包まれた家にも似た三界から逃れ出ないならば、これらの人々はどうして仏陀の知を享受することになるであろうか」と。
中央公論 大乗仏典 法華経1より

火宅三界とは、有名である。
この三界において楽しんでいるお前たちは、五欲の楽しみをともなった愛欲に焼かれ、熱せられ、さいなまれている。
と、認識したのである。

燃え盛る家にも似た、三界の中にあって、低級な色形、音声、香り、味、触れられるものに、喜びを見出しては、ならない。

この世を、このように、捉えるということである。

ここまで、現実世界、この世を、徹底して、否定するという、根性は、如何なるものか。

延々と、口説く如くに、これらの、話が続くのであるから、相当に、強迫性神経症の持ち主であろう。

くどいほど、説き続けるというのは、魔的である。

釈迦仏陀は、神通力などを、最も嫌った。
それが、如来は、神通力を持ち、衆生に説くが、衆生は、火宅三界にいて、解らないという。

これが、曲者である。

如来という、架空の存在を作り上げて、焦点を誤魔化すのである。
人の心を支配する時、その絶対性を、説く。
帰依させれば、こっちのものである。

衆生は、火宅三界に在るという、認識は、どこからのものか。
インド魔界からのものであろう。

インドの性愛の手引書などを持ち出すまでもない。
快楽というものを、罪の意識に、持ち上げるなどとは、低級な、聖書のやり口と、同じである。

人間の欲望を、救われない理由とする、その根性は、何か。
人の心を、支配したいという、欲望である。

一体、自分達が、どうして、生まれてきたのかを、知らない。
男女の性の交わりから、生まれたのである。それを、否定するのであるから、いい加減にしろということだ。

庭野日敬さんは、それを、
この物語を終わられた世尊は、と書く。
世尊とは、釈迦のことか。
それならば、嘘である。
釈迦仏陀が、語ったのではない。
作者が、語ったのである。

実在の釈尊お一人だけのことでないのはもちろんです。「わたし」というのは、つまり「仏」ということ、「仏」とは、「真理を悟ったもの」なのですから、「真理を悟ったものにとっては、全宇宙がその人のものだ」という大宣言なのです。

法華経の、愛好者は、実に、大という文字が好きである。

宣言では、足りなくて、大宣言という。
創価学会の、言葉の多くは、皆、大がつくという、アホさ加減。
大勝利、大躍進、大信心、大感動、何でも、大をつけて、信者を、鼓舞させる。それに、単純に迷うから、世話がない。

つまり「無我」になるのです。小さな「我れ」をすてるのです。そして、全体に生かされている「我れ」を発見するのです。

言葉遊びの巧みなこと、呆れる。

更に、
すると、「我れ」は宇宙全体にひろがってゆきます。「無我」こそ「宇宙はわがもの」に通ずるひとつの道なのです。そうなると、われわれの心はまことに自由自在です。何ものにもとらわれず、思うようにふるまっても、することなすことがすべて人を生かす行為になってしまうのです。それこそ、仏の境地にほかならないのです。
と、言うのである。

そうして、立正佼成会という、立派な宗教を創り、更に、立派な建物を、建てて、仏の境地とは、笑わせる。
勿論、彼のみだけではない。
すべての、宗教というもの、同じである。
大伽藍を建てて、平然として、仏の境地というものを、説くという、アホさ加減である。

それで、自由自在ならば、何もいらない。
野山に入り、宇宙と一体になって、死ぬまで、生きればいい。
しかし、彼らの、言い分は、衆生を救うというから、堂々巡りである。

何せ、説いた、本人が、仏になったのかどうかは、すべて、自己申告である。

私も、仏であると、大宣言できるのである。
悟りも、自己申告である。
私も、悟ったと、言える。
しかし、一体、何を、どのように悟るのか。

それに関しては、一切の発言は無い。

甚だしいのは、本当の中道を行くなどいう、輩である。
本当の中道など、どこにもない。
もし、中道という、道があるならば、中道とは、百人百様の道である。

更に、仏というならば、それも、百人百様である。
更に、神というものが、在るならば、それも、百人百様である。
これが、事実である。

仏の真理というものは、大嘘である。
真理という言葉は、観念でしかない。

庭野さんは、
真似ごと(方便)からでもはいらなければ、ほんものには達しられないのです。お経を読むのも、説法を聞くのも、静かに考えるのも、人のためにつくすのも、すべて「我」を捨てて全体に溶けこむための修行だといってもいいでしょう。これが「和」の精神です。たとえ一日に一時間でもいい、こういう修行をつづけてゆけば、わずかずつでも仏に近づいていけるのです。そして、いつか仏になれるのです。それを思えば、ほんとうに大歓喜が心の底から湧いてくるではありませんか。
と、言う。

突然、和の心という言葉が出て来る。
不思議である。
和という、精神活動は、仏教の中には、特に、大乗の中には無い。
和を求めていれば、修行など出来ない。

現実逃避の思想を、ここまで、語り得るというのは、魔物の仕業である。

この人は、「我」を捨てるということを、どのように、説明したのか。
一切の説明は無い。

我を捨てて、無我になって、行為することを、言うとしたら、無我とは、何かということになる。

我が、単に無我になるだけで、何も変わっていないということに、気づいていない。

無我という、我であることに、気づかないのである。

大乗の空観は、無我も、空とするものである。

我を捨てて、無我になったということは、我を忘れて行為しているということか。
それならば、欲望に身を任せて、欲望に没頭すれば、我を忘れて、無我に成れる。
セックスは、正に、彼の言う、無我の境地であろう。

要するに、いくら、説明しても、仏の真理というものは、語れないのである。
それは、そういうものが無いからである。
真理というものは、この世にも、あの世にも無いのであるから、どんなに、言葉を尽くしても、語りきれないのである。

語りきれないから、真理だという、アホもいるが。

神仏は妄想である。198

法華経、比喩品第三の終わりには、驚くべきことが、書かれている。

十四のほう法と、仏罰である。
ほう法、ほうぼう、とは、法華経を説いてはいけないという、人間の種類であり、更に、法華経を誹謗中傷することを言う。

その十四である。
驕慢 これは、わかっていないのに、解ったと思い込むこと
以下は、文字が難しいので、内容だけを書く。
怠けたり、余計なことに心を奪われていること
物事の表面だけを見て、根本を知ろうとしないこと
肉体と物質の欲にとらわれていること
何でも、自己流に解釈して、大切な点を理解しないこと
そんなことは、有り得ないことだと、浅はかな考えから、お経を信じないこと
この教えに対して、顔をしかめる、すなわち、反感を表すこと
このお経の真実を疑い、ためらう心を起こすこと
誹謗 このお経の悪口を言うこと
このお経を、読んだり、書いたり、持つ人を軽蔑すること
善いことなのに、憎らしく思うこと
善いことなのに、それに対して妬み心を起こすこと
善いことなのに、それに対して、恨み心を起こすこと

庭野氏の、解説で、ここに上げた。

第一の、解っていないのに、解ったと思い込むこと、は、正に、法華経の信者のことである。

どうであろうか、ここまで、気を回して、この経典に帰依すること、信じさせることを、説いているのである。

それに対する、罰がまた、酷いものである。
庭野氏は、仏は、罰を与えるものではない。それは、その人自身の心が、そのように罰のような、状態になると、言うが、後で、訳された、罰を、転写する。

どこの、世界でも、解っていないのに、解ったと思う者はいる。
何も、法華経ばかりではない。
しかし、先回りして、あたかも、法華経を信じない者は、解っていないのに、解ったと思う者として、判断するという、傲慢極まりない、定義を立てている。

この、一つ、一つを見ると、結局は、法華経を信じない者は、誤りであるということになる。

実に、巧みであるが、実に、また、愚かでもある。

見え透いている。

さらに、広大な(大乗の)経典を受持して、けっして他(の教え)を喜ぶことなく、他(の教え)からの詩は、たとえ一詩たりともうけることがない、そのような人に、お前はこのすぐれた経典を説け。
大乗仏典 法華経より

これは、イスラムの影響であろうか。
大乗の教えのみを、受持して、他の教えを、喜ぶな、であるから、つまり、他の教えに帰依するな、信ずるなであり、こうなると、一神教の、唯一の神と、同じ論調になる。

第十一から、第十四までの、言葉が、ふるっている。
軽善、憎善、嫉善、恨善である。
きょうぜん、ぞうぜん、しつぜん、こんぜん、である。

つまり、善いことなのに、軽蔑し、憎らしく思い、妬み、恨むことを言う。

一体、ここまでの、独善とは、如何なることか。
更に、である。この経典に、皆々、やられてしまったのであるから、唖然、某然である。

日蓮が、一神教の如くに、法華経を説いた信仰というものが、理解出来る。
読み込めば、法華経に、取り込まれて、我を滅してしまう。
この、滅するとは、無我の境地でもなく、空観などというものではなく、単なる、大いなる、迷いである。

彼らは、法華経を奉じない者が、迷いにあるというが、それは、逆である。

それの、仏罰は、長いので、次に転写するが、現代の、差別用語の羅列である。

第六の、不解、ふげ、とは、自己流に解釈して、大切な点を理解しないとあるが、それでは、自己流に解釈しないこととは、何かと、言えば、法華経流に、解釈すること、つまり、法華経が一番正しい教えであることを、認めるということであり、その他の、考え方は、一切、認めないということである。

これでは、宗教戦争が、終わらない訳である。

イスラムの、スンニ派と、シーア派は、同じイスラムでも、対立し、テロ行為を、互いに続けている。
どうしたら、彼らを理解出来るのかと、私は、考える。
スンニ派になり、シーア派になって、そこに入り込んで、理解するしかない。

イスラムを、どのように、法華経の愛好者達は、理解するだろうか。
簡単である。
間違った教えを、信じているからだと、言うであろう。
すると、今度は、法華経愛好者と、イスラムが、戦うことになる。

何故、宗教というものが、他を排斥し、攻撃し、その教えというものを、真理であると、信ずる、または、考えるのかといえば、それが、迷いだからである。

神道系の、霊的能力者が、法華経は、悪魔の好む経典であると、看破したのは、正に、釈迦仏陀の、教えから、遠い、排他的、非寛容の教えだからである。

更に、釈尊という、釈迦仏陀に似せた、仏という存在者を置いて、語らせて、撹乱させたからである。

実在の仏陀ではなく、久遠の仏、久遠の仏陀というものを、創り上げた。

日蓮宗系は、釈迦仏陀の、仏法ではなく、日蓮の仏法が、優っているというのである。
つまり、久遠の仏は、日蓮であるという、極めつけである。

全くもって、話にならない。
それでは、仏法というものを、利用せず、何故、日蓮神として、奉じないのか。
そこに、彼らの、ずる賢さがある。

既成の、仏教という、権威に、あやかり、人々を騙すに、手間が省けるからである。

漫画宗教の、幸福の科学の、総裁も、宗教とは、今までの宗教の上に、更に、進化して、真理を説くものだというような、詭弁を弄する。

仏罰があるならば、彼らこそ、仏罰を、受けるに、相応しい。

実在の、釈迦仏陀を、出汁にして、言いたい放題である。
その、釈迦仏陀の権威を利用しての、自己顕示欲の、宗教創設である。

本当に、真理というものが、あるならば、それを知るということは、この世の物などに、一切、囚われることなく、無一物で、在るはずである。

しかし、見よ。
豪華絢爛たる、伽藍を創り、その生活は、高額所得者の、それである。

それを、信じられるものだろうか。

真っ当な、感覚を持つならば、彼らの、生活に、その教えが、実在するであろう。

国家転覆を計った、あの、おぞましき新興宗教の教祖は、美食の毎日だったという。
自分が入った、風呂の残り水を、信者に売るという、錯乱を起こして、平然としていた。
彼を、宗教家、及び、宗教愛好者は、批判できるだろうか。

更にである。

妄想、甚だしき、教えというもので、お金を集める、宗教家というものを、信じられるだろうか。

地獄の沙汰も、金次第とは、宗教の、あり方を言うのである。

アホでも、高額献金をする者は、その上席に座るという。

はっきり言うが、神仏は、妄想である。
妄想でないモノ、それは、今、目の前にいる、人である。
その人と、関係して、人生というものが、展開される。
決して、神や仏ではない。

事実は、歴然としている。
大切なものは、今、目の前にいる、人である。

私は、今、目の前にいる人に、何が出来るのかと、考えることが、生きるとこであると、思う。

それ以外は、単なる、妄想、詮無いことである。

宗教の、迷いと、蒙昧は、目に余る。

2009年02月27日

神仏は妄想である。199

頑固な人々や、高慢な人々や、正しい修行をしない人々に、お前はこれを説いてはならない。愚か者たちは常に愛欲に酔いしれていて無知であるから、説かれた教えをあしざまに言うであろう。

仏陀の導きとして常に世の中に確立されている私の巧みな方便を誹謗し、眉をひそめて乗り物を捨て去る、このような人がこの世でうける果報が、いかにきびしいものであるかを、お前は聞け。

私がまだこの世にいるあいだにせよ、完全な涅槃にはいったのちにせよ、このようなこの経典を誹謗し、あるいは比丘たちに対して過酷な振る舞いをして彼らがうける報いを、いまや私に聞け。

そして、いよいよ、その、報いの、記述が、はじまる。

これらの愚か者たちが人間としての生を終えてから住んでいるところは、一劫が満ちるあいだ、阿鼻の地獄である。そののちさらに中劫のあいだ、彼らは幾度も死んでは再びそこへ落ちていく。

死んで地獄から去ったときでも、そののちはさらに畜生に生まれてさまよい歩き、まったく弱々しい犬や野牛となって、他のものたちの遊び道具となる。

そのばあい、彼らは、私が最高の菩提を得たひとを嫌悪しながら、色は黒く、斑点があり、腫瘍ができ、身体中がかゆかったり、毛がなかったり、まったく無力であったりする。

彼らは生命あるもののあいだにあっていつも嫌われ、土くれを投げられ、打たれ、泣き叫び、あちらでもこちらでも棒で脅かされ、飢渇に悩まされ、身体はやつれはてている。

仏陀の導きを謗った彼ら愚かな心の持ち主は、さらにラクダになったりロバになったりして、重荷を運びながら鞭や棒でたたかれ、食べ物の心配で思いわずらっている。

さらにはまた、彼ら愚か者たちは、片目でチンバで醜い野干となり、村の子供たちから土くれを投げつけられたり、叩かれたりしていじめられる。

その愚か者は、さらにそこから死んで生まれ変わると、五十ヨージャナにも等しい長い身体の生き物となり、愚鈍でばかで、ただのたうちまわっている。

彼らはこのような経典を誹謗したことにより、足のないもの、胸で這うものとなったのであり、幾コーティもの多くの生き物に噛まれて、非常に激しい苦痛を受ける。

更に、続くのである。
しかし、これほどまでに、誹謗する者に対する、恐ろしい、罰を用意するという、作者の、強迫的観念を、私は、すでに、地獄だと言う。
ここまで、想像できるということが、凄いのである。
そこまで、人を脅して、この経典に、帰依させたいと思うのは、何か、である。


私のこの経典に信を起こさない彼らは、人間の身体を得たときでも、手足が麻痺したり、チンバであったり、セムシであったり、片目であったり、愚鈍であったり、卑賤な生まれであったりする。

このような、記述から、差別意識が、強く起こったのである。
これは、現代の、障害者のことである。
ダウン症の子供などのことを言う。
障害を持って生まれた者を、差別するのである。

この仏陀の菩提を信じない彼らは、世間で信用されず、彼らの口からは腐った臭いが噴出ししていて、その身体にはヤクシャや魔物が乗り移る。

いつも貧困で、弱々しく、他人の召使となって走り使いにこきつかわれる。彼らには病気などの苦痛が多く、よるべもなしに世渡りをする。

中を省略して、

ツンボ、思慮なき者などの、言葉が多い。

さらに、ガンガー河の砂の数のように多くの幾千・コーティ・ナユタもの劫のあいだ、彼は愚鈍な存在としてあり、肢体も不完全である。経典を誹謗することによる結果は、このように禍があるものである。

彼にとっては、遊園地がそのまま地獄であり、屋敷は悪趣の世界に等しい。そこに住んでいる彼には、ロバや野猪や野干や狛が常についている。

たとえ人間の身体を得たとしても、彼は盲目や聾唖や愚鈍なものとなり、いつも貧乏で他人の使用人となる。そのとき、これら諸悪の報いで、彼は飾られている。

以上、長く引用したが、まだまだ、延々と続く。
実に、くどい、記述である。

くどい、つまり、悪魔的である。

宗教家の、くどさは、魔的なものなのである。

一体、何を目的に、この法華経というものが、書かれたのか。
非常に、文芸的ではあるが、非常に、稚拙でもある。

書かれた当時の、状況を、見つめる必要がある。
しかし、この経典によって、更に、多くの妄想が、生まれたのである。

ここで、話を少し、変える。

例えば、この経典を、信奉する者、帰依する者たちが、どのような、神経の持ち主であるかということである。

教え込まれて、法華経の信者になると、まず、偏狭で、愚鈍になる。
排他的で、非寛容になる。
更に、その思い込みは、甚だしいものがある。

ここに、私が相談を受けた、ある新興宗教の信者の話がある。
巨大教団の信者である。勿論、法華経を掲げて、広宣流布するという。

その、ある地方幹部の男が、サラ金からの、借金まみれで、その妻の、姉からの相談である。
その、借金のすべての、金を、妹のためにと、工面したという。
そこで、その男の反応である。
お礼もそこそこに、諸天善神の守護であり、法華経の功徳であると、言ったというから、姉は、空いた口が、塞がらない思いをした。

250万という、その人にとっては、大金を用意したのである。
それを、法華経の功徳であると、思い込む、愚鈍さは、計り知れない。
それを、行為したのは、その妻の姉である。
法華経の功徳ではなく、その姉の、協力、更に、金を工面した努力である。

信仰者というものは、そのように、勘違いが、甚だしく、愚鈍である。

法華経を、誹謗する者が、そのようになるのではなく、法華経を、信奉した者が、そのようになるという、逆転を、誹謗する者として、書いているのである。

更に、ここには、生まれによっての、差別の羅列である。
これが、衆生を救う大乗の教えといえるのか。

脅し、賺し、更には、こけおどしである。

この、蒙昧は、計り知れなく、更に、妄想まみれである。
真っ当に読んで、理解すると、頭が、イカれる。

この、経典により、どれほど多くの人が、蒙昧かつ、愚鈍、そして、妄想のうちに、死ぬことになったのかは、計り知れない。

2009年02月28日

ボランティア再考

ボランティアに関する再考

ボランティアとは、日本語で、奉仕活動、慈善活動、福祉活動と訳すことが出来る。

語源は、ラテン語の、ボランタスであり、その意味は、生きる意味意識である。

つまり、それを、行為することによって、生きる意味意識に目覚めるということになる。更に、相手方に対する、行為は、相手を生かすことにもなる。

ここで、少し、勘違いの多い人がいるので、その考え方を、訂正したいと、思う。

貧しい国に出掛けて、ボランティア活動をすると、よく、貧しいが、心は豊で、笑顔があり、こちらが、癒されたという人がいる。
また、元気を貰った、力を貰った。
更には、日本は、豊かだが、心の豊かさがないと、言った、変な日本評価までする。

上から、下への、奉仕活動や、物を渡す活動には、常に、傲慢という意識が、ついているのだが、それを、知らないようである。

また、例えば、インドのマザーテレサの、活動に、ボランティアの原点を見るという人もいる。

マザーテレサの活動は、ボランティアでは、決してない。
彼女は、はっきりと、神様のために、素晴らしいことをと、言う。
彼女は、神様に捧げて行われているのであり、相手は、誰でもいいし、また、相手の中に神の見るということである。
それは、聞こえはいいが、ボランティアではない。
目的が、別である。

主イエスの、伝導であり、更には、カトリックという、宗教の伝道でもある。

つまり、どこまでも、精神論で、語るのであり、それは、社会的、政治的なものには、ならない。

そして、彼女も、私は、目の前のあることを、するのであり、それには、関わらないと言った。

私は、いつも、私の行為によって、精神論を超えて、考えている。
もし、少しの政治的配慮があればとか、行政が、もっと、サービスを行えばなど、である。

その国の、あり方を、考える。

あくまでも、ボランティア行為は、行為する者に、帰着する。
される側は、与えられたことを、喜ぶが、ただ、それだけに、終わる場合もある。

一方的な、援助という行為は、実に、おかしいのである。

そこで、上記のような、こちらが、勇気と、希望を、貰ったとか、貧しいが、心が豊かな人々だったとか、勝手な思い込みの、自己満足に陥る。

笑顔があるというが、貧しいという、貧しさは、笑うしか方法が無いのである。

本当に、物が無いという、状態を、日本にいては、理解出来ないし、それを少しばかり体験しても、日本に戻れば、何も、変わらないのである。

生きる意味意識というものは、自分の生活や、生き方も、変容するということである。

マザーテレサは、変容しなかった。
ただ、その信仰を、育てただけである。
彼女の、信仰の証としての、行為であり、それは、すでに、世の中から、評価を受けて、やや、偽善的なほどの、行為になった。

多くの人に、影響を、与えたが、それは、彼女の行為ではなく、彼女の語りが多分に、影響を与えた。
それが、彼女の役目だった。
カトリックの信仰である。

動機は、どうであれ、やったことが、善いことならば、言うことはない。
それは、その通りであるが、マザーテレサを、真似ては、ボランティアの精神に、反する。

ボランティアは、実質的、報いを受けるものではなく、生きる意味意識の、充実であるから、すでに、信仰というものでの、活動は、報いを受けているのである。

人道的、利他的行為、思想信条に関わらず、ただ、行為することに意味がある。
そして、一番は、相手方に対する、態度である。

目線を同じくしての、行為でなければ、やらないのに、等しいのである。
つまり、出来るだけ、相手方の、視線に立っての、行為であるということだ。

人を理解するというのは、至難の業である。
それは、支援する、援助するということも、同じである。
至難の業である。
しかし、それを思っても、やらざるを得ないと、心に、命じられる時、奉仕活動というものの、心が、現れる。

こちらの、思想信条を、訴えることや、まして、信仰を、説くなどという行為は、傲慢不遜の何物でもない。

つまり、行為にのみに、徹するということである。
そこには、する以外の、何物も無い。

宗教関係が、奉仕活動をする、という根拠には、必ず、布教という、不純が伴う。

マザーテレサは、ヒンドゥー教徒は、よりよいヒンドゥー教徒に、イスラム教徒は、よりよいイスラム教徒に、仏教徒は、よりよい仏教徒にと、言ったが、しかし、彼女は、カトリックを背負っていたのである。

であるから、それは、詭弁であった。
当時の、法王ヨハネ・パウロ六世も、世界を飛ぶ法王として、他宗教との、和解と、理解を掲げていた。
それに、彼女も、準じるのである。

更に、平然として、世俗的な、ノーベル賞というものを、受け入れた。
すべての、報いを、この世で、受けた。
本来は、彼女の信仰から、天国にての、報いを望むはずだったが、彼女は、この世の、報いを受けたのである。

これで、彼女の信仰心の出何処も、怪しくなった。
主イエスの、言葉に従ったが、変質したのである。

何故、マザーテレサを、引き合いに出したかといえば、最も、ボランティアの、反対を、行為したからである。

宗教家たちの、ボランティア活動は、あくまでも、思想信条の、故であり、それは、ボランティアの思想信条とは、全く別物であるということを、言う。

勿論、行為自体に、何も文句は、つけない。

神の愛の、実践であるのは、詭弁である。
ボランティアは、自然発露の行為である。

だから、貧しい人は心が豊かでなどいう、偏狭な、物の見方は、しない。

矢張り、貧しい人は、心も、貧しくなる。
笑顔でいるしか、方法が無い。

一枚のシャツで、幸せだったというが、洗濯をする間、裸でいることは、幸せであるのか。
もう一枚あれば、洗濯の際に、裸でいなくてもよい。
ただし、どうしても、一枚に、拘るというならば、言うことも無い。

自己完結する、宗教的、あるいは、精神論的考え方は、為政者の、思う壺である。
最も、支配しやすいのである。
昔のように、明確な、国家意識がなかった時代ならば、それでもいいが、今や、それぞれの、国家意識が明確にある。

ボランティア行為は、為政者の、思う壺ではなく、為政者への、強烈な、メッセージ性も、持つべきなのである。

心情的ボランティア行為は、心の自殺行為でもある。
傷を舐めあうような、情緒的ボランティア行為には、危険がつきまとう。
更に、持続しない行為は、嘘である。

更に、ボランティア行為には、孤立無援という、意識がいつも、つきまとうものなのである。
柔軟な姿勢でいいが、行為には、強靭な心の姿勢が、必要なのである。

そして、思想信条を説くものではない。

ちなみに、私の場合は、ただ、大和心を、行為するものであり、それは、他国の人に、説くものではない。
日本人の一人として、在るということで、十分なのである。

そして、私の、意識を棄てられるが、日本人としての、誇りは、棄てられないのである。

それは、マザーテレサの、カトリックと同じではない。
信仰は、意識的なものであり、国民意識は、無意識なのである。

例えば、私が日本という国を、布教しても、宗教の布教とは、意を異にする。
全く、意味が違うのである。

信仰という、独善に、陥らないからである。

大和心については、もののあわれについて、で、多く語っているので、省略する。

性について43

フロイトの弟子たちは、それぞれに、マスターベーションに関する、提案ないし、理解を示したが、それを、一々取り上げることは、省略する。

ここで、マスターベーションを禁止するということについて、時代に先駆けて、精液漏、という著作を出した、マルコ博士の、考え方を、紹介する。

禁欲は、生理的法則に反すると、マルコは述べた。
マスターベーションを覚えてから、それを、禁欲することは、かえって害があると、主張するのである。

以下、彼の文を転写する。
禁欲している青年は、すぐに、何となく気分がすぐれず、不安で、悲しい気分に襲われる。やがていらいらしてぼんやりと夢見がちになり、満たされぬ欲望に心は絶え間なくつきまとわれ、眠りはエロティックな夢に頻繁に乱され、夢精したりすることもある。さらに禁欲を続ければもっと重大な障害を引き起こしかねず、この点から考えると、何も知らぬうちの禁欲のほうが、快楽を知ってしまってからの禁欲よりは、害は少ないということになろう。というのも、後者の場合、本能の力と習慣の頑固さに、さらに性器感覚の後天的活動が付け加わるからである。すでに述べた性格の変化に続いて、脳にも重い障害が起こる。神かがり的な思想、性欲異常、強姦、男色、獣姦・・・

最後の方は、蒙昧である。

マスターベーションを快楽と、認めているのが、決定的である。
ただ、快楽を知ってからの、禁欲が、脳の障害や、性欲異常、男色、獣姦とは、行き過ぎである。

ただし、精神分析時代以降は、マスターベーションに対する、タブーというものが、消滅しつつあったということは、言える。

ただ、フロイトの影響は、長く続く。
結果、性欲行動に対しては、社会が、何らかの、抑圧を加えることであると、その理論による、教育のあり方が、推奨された。
つまり、抑制、禁止、抑圧である。

だが、それとは、逆に、その、抑圧により、神経症の原因となるというもの、である。
結局のところ、フロイトは、制御と強制を選ばざるを得なかったといえる。

そこで、反旗を翻したのが、弟子の、ウィルヘルム・ライヒである。

彼は、オーガズムの治療的効用を説き、性的抑圧を、権威主義的社会に連なるものとして、見たのである。

マスターベーションを、小児期および思春期のセクシャリティにおけるまったく正常な過渡的一形態であると、強調する。
彼は、それは、全くの無害であると、主張した。

青少年が、マスターベーションを始めるにさいして、両親や教会の偏見に毒されずにいるかぎりにおいては、無害であると、画期的な見解を、述べた。

初めは、誰もが、健全であったのに、それが、脅されて、酷い悪いこと、更には、罪意識まで、植え付けられるということに、反論したのである。

更には、マスターベーションには、何ら害がないのに、それに対する、罪悪感を植えつけるために、身体的、心理的な障害をもたらすのであると、述べた。

更に、性的、社会的秩序が性的関係の障害となるという問題が、問題であると言う。
そうした、障害のせいで、若者は、退行し、実現可能になった、自然目的から、逸脱した行為、小児的な空想に、後戻りすると。

つまり、マスターベーションは、開放的機能を果たすと、掲げたのである。

私は、ここに、初めて、マスターベーションの、目的、更に、マスターベーションの人間性というものを、発見したと思う。

動物は、基本的に、マスターベーションをしない。
更にである。
マスターベーションの歴史の豊かな民族の、芸術性は、実に高いのである。
それは、つまり、マスターベーションとは、人間としての、証であるともいえるのである。

その他、フロイトの弟子達は、様々な、見解を述べるが、ライヒで、十分であろう。

だが、結果的に見ると、社会は、マスターベーションに対しての、偏見と、禁止解除が、遅々として進まなかった。
私は、それは、宗教ゆえであるという。

宗教の基本的姿勢は、人間の欲望を、手玉に取り、それを、握ることで、支配するという、実に、悪知恵の持ち主たちが、支配する。
罪悪感を、植えつけて、信者を、威圧するというのは、特に、キリスト教の、お得意な、やり口である。

あなたは、罪人であると、堂々と言うあたりが、実に、傲慢不遜である。
人の罪など、構っている暇がない程、罪深い者が、指導者なのであるから、手がつけられない。

さて、罪悪感と、不安に結び付けられた、マスターベーションの有害性が、最終的に、放棄されるのは、1940年の、ホルトの論文である。

子供の病気、という本である。

それが、テキストとなり、ついに、「こうした禁止は、教養のない人々の間ばかりではなく、時して、医者の間にさえも見られる、という、見解になったのである。

そこに、至るのでには、様々な人たちの、努力があった。

例えば、古代ギリシャ、ローマでの、頻繁に行われた、オナニズムの歴史を説く者。

1947年の「児童および青少年の心的発達」という本を書いた、ピションは、「男性のマスターベーションは、かつて言われていたような恐ろしげな障害をもたらすものでは決してない。しかし、それには疲労が伴う。児童や青少年においては、やり過ぎれば、心臓にいくらか負担がかかることになる」と書く。

実際、心臓に負担がかかるのは、45歳前後からの、マスターベーションであることは、現代の、日本社会である。

ストレスの多い、中高年が、マスターベーションをして、心臓発作を起こすことは、有り得る。
一回の、射精にかかる、体力消耗は、100メートルを、全力疾走した時の、ものと似ていると言われる。
中高年の、マスターベーションは、その感触を楽しむことを、主にした、マラソン型マスターベーションが、理想である。

射精をしない、マスターベーションを、楽しむべきである。
後で、マスターベーション、及び、セックスの最高指導の、手引きを紹介することになるが、中高年、高齢者も、性を楽しむべきなのである。

しかし、それは、若者時代の、回想ではない。
新しい、性の楽しみ方である。

中高年の場合の、マスターベーションは、射精しない、感触の楽しみを続け、何度かに、一度、射精の快感を得るという、マスターベーションの、極意がある。

もう少し、この歴史を俯瞰してみる。

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