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もののあわれについて375

宮のお前に御消息聞え給へり。源氏「院におぼつかながり宣はするにより、今日なむ参り侍る。あからさまに立ち出で侍るにつけても、今日までながらへ侍りにけるよと、乱りごこちのみ動きてなむ。聞えさせむもなかなかに侍るべければ、そなたにも参り侍らぬ」とあれば、いとどしく宮は目も見え給はず沈み入りて、御返りも聞え給はず。大臣ぞやがて渡り給へる。いと堪へ難げにおぼして御袖も引き放ち給はず。見奉る人々もいと悲し。


大宮のお前に、お手紙を差し上げた。
源氏は、上皇様が、会いたいと仰せられるので、今日、参上いたします。
少し出るとあっても、よくも、今日まで、生きながらえていたことと、悲しみが湧いて、ご挨拶を申し上げるのも、かえって、悲しいことでしょうから、そちらへは、参上いたしません、と、あるので、いっそう、大宮は、涙で目も見えず、泣き沈み、お返事も、申し上げない。
大臣が、急ぎ、お越しになった。
こらえきれない思いで、袖も顔から、離さない。
それを、見る人々も、たいそう悲しい思いである。

大宮とは、源氏の妻の、母。

大将の君は、世をおぼし続くる事いとさまざまにて、泣き給ふさま、あはれに心深きものから、いとさまよくなまめき給へり。大臣久しうためらひ給ひて、大臣「よはひのつもりには、さしもあるまじき事につけてだに、涙もろなるわざに侍るを、ましてひる世なう思ひ給へ惑はれ侍る心を、えのどめ侍らねば、人目も、いと乱りがましく、心弱きさまに侍るべければ、院などにもえ参り侍らぬなり。ことのついでには、さやうにおもむけ奏せさせ給へ。いくばくも侍るまじき老いの末に、うち捨てられたるが、つらうも侍るかな」と、せめて思ひ静めて宣ふ気色、いとわりなし。


大将の君は、亡くなった方の思いに溢れて、あれこれと思い出が、湧き上がり、泣かれる様子は、あはれに心深き、真実、心に深いものがある
それが、また、見た目美しく、優雅である。
と、それは、作者の言葉である。
大臣は、長い間、気を静められて、年を取りますと、それほどではないことでも、涙が出ます。その上に、涙の乾く暇もなく、悲しみます、この心を、慰めることができません。人の目にも、取り乱した、姿でございます。
院などへも、参上できませんので、何かのついでに、そのようなことで、申し上げてください。
余命の少ない、この老いの身に、子に先立たれたことが、辛いことです。
強いて、心を静めて、おっしゃる。
実に、切なそうである。

君も度々鼻うちかみて、源氏「後れ先立つ程の定めなさは、世のさがと見給へ知りながら、さしあたりておぼえ侍る心惑ひは、たぐひあるまじきわざになむ。院にも、有様奏し侍らむに、おしはからせ給ひてむ」と、聞え給ふ。大臣「さらば、時雨もひまなく侍るめるを、暮れぬ程に」と、そそのかし聞え給ふ。


君も、たびたび、鼻をかんで、生き残るのか、先立つのか、定めは、分からないという、この世の中の習いです。
しかし、事に、接して、知った悲しみは、例えようもないことです。
院にも、この様子を、奏上しましたら、ご推量くださるでしょう。
と、おっしゃる。
大臣は、では、時雨も、止むことがないようです。暮れないうちにと、促すのである。


うち見まはし給ふに、御凡帳のうしろ、障子のあなたなどのあき通りたるなどに、女房三十人ばかりおしこりて、濃き薄きにび色どもを着つつ、皆いみじう心細げにて、うちしほたれつつ居集りたるを、いとあはれと見給ふ。


うち見回すと、御凡帳の後ろや、襖の向こう、その他の、開いて、見通しになっている処などに、女房たちが、三十人ほど集まり、濃い色や、薄い色の、様々のにび色の、喪服を着て、皆、心細く、涙を流して座っているのを、あはれと、ご覧になる。


大臣「おぼし捨つまじき人もとまり給へれば、ひとへに、思ひやりなき女房などは、今日を限りに思し捨てつるふるさとと思ひくんじて、長く別れぬる悲しびよりも、ただ、時々慣れつかうまつる年月の名残なかるべきを、嘆き侍るめるなむことわりなる。うちとけおはします事は侍らざりつれど、さりともつひにはと、あいな頼めし侍りつるを、げにこそ心細きゆふべに侍れ」とても、泣き給ひぬ。

大臣は、お見捨てされないはずの、御子も、ここにいますので、いくらなんでも、ついでの際には、お立ち寄り、くださらないはずはないと、心を慰めています。
考えの浅い、女房たちは、この場所は、今日を限りに、お見捨てになるのだと、ひたすら、悲観して、永久の別れの悲しみよりも、今まで、お仕えしていた年月が、跡形も無くなくなるのであろうと、嘆いているようです。無理も、ありません。
ごゆっくりと、してくださることは、ございませんでしが、でもいずれはと、あてにならない事を、頼みにしていました。まことに、心細い、今宵ですと、言いつつ、涙が流れるのである。


源氏「いと浅はかなる人々の嘆きにも侍るなるかな。まことに、いかなりともと、のどかに思ひ給へつる程は、おのづから御目かるる折も侍りつらむを、なかなか今は何を頼みにてかは怠り侍らむ。今、御覧じてむ」とて出で給ふを、大臣見送り聞え給ひて入り給へるに、御しつらひよりはじめ、ありしに変わる事もなけれど、うつせみの空しきここちぞし給ふ。

源氏は、なんとも、浅はかな、皆様の嘆きです。
たとえ、どんなことがあろうとも、後々には、呑気に考えていた頃には、自然、ご無沙汰することもありましょうが、かえって、今は、何を頼みに、なまけましょうか。
今に、きっと、お分かりになります。
と、言いつつ、お出かけになるのを、大臣は、見送られて、部屋に入ったところ、室内の装飾などは、今までと、何も変わることはないが、何か、抜け殻のように、空しい気持ちになるのである。

源氏のいなくなった、空虚さというものを、描く。
亡き娘の死と、源氏のいなくなるという、無いということの、虚しさを、大臣を通して描く。

二重の、空虚というものを、描く。
それも、あはれ、というものの、風景である。
人生には、このような場面が、幾度かあるものである。

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2009年06月28日 01:06に投稿されたエントリーのページです。

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