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   <title>木村天山　告知版（ブログ）</title>
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   <updated>2008-07-24T20:25:08Z</updated>
   <subtitle>藤岡宣男のプロデューサーでもある、音楽事務所オフィスＴＷ２代表の木村天山による、手記です。

告知版の過去ログは、こちらのブログへ逐次移行して行きます。

リンク集
		告知版過去ログ（2006年9～2007年1月）
		藤岡宣男ホームページ　　木村天山ホームページ
		オフィスＴＷ２/日本カウンターテナー協会</subtitle>
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   <title>アボリジニへの旅１４</title>
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   <published>2008-07-24T20:24:19Z</published>
   <updated>2008-07-24T20:25:08Z</updated>
   
   <summary>アボリジニの、土地権運動が、はじまった、きっかけは、１９６６年である。 ノーザン...</summary>
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      アボリジニの、土地権運動が、はじまった、きっかけは、１９６６年である。

ノーザンテリトリーに住む、グリンジの牧夫たちの、ストライキからである。
多国籍企業の、ベスティ社を相手取り、給与と、労働条件の改善を要求した。
牧場労働を拒否し、ウエーブヒル牧場の一部を占領して、約一年間を、かけた戦いだった。
それが、次第に、自己決定権と、土地権へと、発展したのである。

そして、二年後の、１９６８年、東北部アーネムランドにある、イルカラのアボリジニが、鉱山開発を行っていた、ナバルコ社を相手取り、訴訟を起こしたのである。
私たちが、出向いた、イルカラである。

１９３１年に、アーネムランドが、保護区指定されているにも、関わらず、首相が、一部の鉱山リースを許可したことを、受けてのものである。

しかし、この訴訟は、１９７１年、ノーザンテリトリーの最高裁の判定で、敗訴するのである。

裁判所は、土地が、アボリジニに属しているとは、認めなかったのである。
先住民の、土地所有権という、思想は、オーストラリアの法律に含まれていないとのこと。
つまり、アボリジニの、土地権を否定したのである。

それから、イルカラのアボリジニの、運動がはじまる。
首相への、嘆願である。
政府は、しかし、鉱山採掘は、アボリジニの経済発展にも、寄与するという、認識を示した。
その時代背景で、行われた、１９７２年の選挙で、アボリジニの土地権が、重要な争点の一つとなったのである。
労働党の、ウイットラム政権が、成立した。

早速、首相は、アボリジニの土地権に関しての、調査機関となる、王立委員会を組織する。

そこで、調査された、報告書で、アボリジニ保護区の土地管理局への信託、鉱物採掘についての、アボリジニの拒否権、伝統に基づく、土地権要求のための、調査委員会設立、アボリジニの土地購入を可能にする、団体の設立という、四の提言がされた。

それを、実行したのは、１９７５年に、政権を担当した、自由党フレーザー政権である。

翌年に、アボリジニ土地権法を、成立させたのである。

長年に渡り、痛めつけられてきた、アボリジニとっては、画期的な法律である、等々の、アホな学者がいるが、何のことは無い。当たり前のことである。
元はといえば、誰の土地だったのか。

しかし、歴史の、流れである。もう少し、見てゆく。

ノーザンテリトリーのアボリジニは、これにより、安定した土地権と、経済の発展の可能性を得ることになった。

これも、本当ではない。

しかし、歴史の流れである。もう少し、みてゆく。

この法律に基づいて、１９８０年までに、約９８００キロメートル、ノーザンテリトリーの、約７，３パーセントの広さが、アボリジニに返還されたのである。
その動きは、さらに進み、現在では、約３０パーセント以上を、アボリジニが、所有しているという。

実に、馬鹿馬鹿しい限りの、話である。
何故、すべての土地にしないのか、である。

１９９０年代までに、オーストラリア全土の、１５パーセントが、アボリジニの所有となったという。
私が滞在した、ケアンズのある、クイーンズランドは、最後まで、認めなかったのである。

アーネムランドは、悠久の時から、先祖が住んでいた土地である。
それが、１９７７年に、所有を認められたというのだから、呆れる。

私が、出会った人々は、そのアーネムランドのアボリジニの中の、北東に住む、ヨォルングの人々である。

ヨォルングとは、彼らの言葉で、人間という意味である。
お解りか。
彼らは、人間であると、認識しているのである。

その彼らの、文化は、イギリス人の頭の程度では、決して、理解し得ないほどの、複雑なシステムを、持つ。

ヨォルングは、伝承と、伝統を基にした、まとまりのある、地域集団を、構成するが、その定義は、不明で、困難を極めると、心ある学者は言う。

外部の者が、見て、違いの明確さは、言語体系であるという。

ヨォルングとは、同じく、ヨォルングという言語を共有する人の集団を意味する。
その、言語は、約５０の言語に区分けされる。方言と、考えると、解りやすい。
方言は、誤解される、というから、それらを、まとめて、ヨォルング言語と読んでもいい。

アーネムランドの中の、アボリジニの中でも、ヨォルングは、特に複雑な、社会構成を成している。
更に、その神話である。独特な精神文化を持ち、それらは、すべて、神話で語られるのである。

創世神話に現れる、祖先の霊が、ヨォルングを旅して、あらゆる存在を、創造してゆく。
その、祖先の霊を、ここでは、特別に区分けして、精霊と呼ぶ。
その精霊は、さらに先祖たちに、言語、神話、踊りなどの、必要なすべての、ものを、与えた。
その神話に基づいて行われる、儀礼は、ヨォルングの人々に、共有される。

人類学者たちは、彼らを呼ぶのに、色々な名称を使ったようである。
ご苦労さんである。

ここで、面白いことは、神とか、仏とかいう、人間と、隔絶したものではなく、祖先の霊を精霊として、さらに、その精霊が、彼らの先祖に、色々と、教えたという。つまり、先祖崇敬の、民族であるということだ。

先祖の前を、祖先と呼んで、別にしておく。
すぐの、先祖は、祖先に、色々と、教えられて、こうして生きてきたのである、という、考え方である。

だから、目の前にあるものは、すべて、祖先と、先祖の姿なのである。

私が、それを、すぐに理解できたのは、日本民族が、そのようだからである。
つまり、先祖を神として、御祭りし、自然の、あらゆる働きも神と、観て、先祖と、自然の共鳴により、成り立つ、我々の人生であるという、考え方である。

総称して、大和心と、言う。
彼らは、目の前のもの、祖先と先祖であると観る。
私たち、日本人も、同じく、自然との共生、共感によって、生きるのである。
更に、日本の祖先と、先祖は、自然の中に、お隠れになるのである。

彼らと、同じではないか。

彼らは、それを、目の前のもの、先祖の夢であるという。
私たち、日本人は、目の前のもの、神遊ぶというのである。自然の様のことである。

さらに、深く、ヨォルングの精神と、その組織を、語れば、終わらなくなるので、以下、省略することにする。

ただ、ドリーミングということに、ついては、もう少し、説明したと思う。
それもまた、日本の、事挙げせずという、心得に通じていて、語らずに、ドリーミングで、伝えるという。それは、所作で、伝えていた、大和民族と、同じである。

言葉で、伝えると、誤るということを、十分に知ってのことである。

どうであろうか。
言葉で、何事かを伝えた、民族の有り様は、すべて、言葉にかき消されて、しまいに、解釈の仕様で、いかようにでも、相成ったという、ザマである。

彼らは、絵によって、伝える。
日本は、所作と、最低限の言葉、和歌の伝統、歌道によって、伝える。

絵によって伝えた民族の代表格は、ケルト民族である。
私が、このアボリジニ追悼慰霊の旅の前に、出掛けた、カレン族の村も、所作によって、伝えていた。

最も、象徴的だったのは、注連縄である。
日本では、神の領域としての、結界の意味がある。
カレンの村も、それである。
更に、年中、家の玄関に、注連縄が張ってあるのだ。
祭りの時の、場所にも、注連縄が、張られて、その中で、儀式が、行われる。

そして、それらの、民族に共通するものは、自然観である。
自然を、支配するという、傲慢不遜な、考え方は無い。
自然の内に、生きるというものである。

更に、深まると、私は、自然なのであるという、極みに至る。

日本が、滅びる、更に、滅びているのは、中国と、同じく、自然を破壊しても、金に目が眩むということである。

いつから、日本の、特に為政者たちが、中国人のようになったのか。
厳密に言えば、漢民族のようになったのか。
もう一つ、おまけに、あの、西洋の、自然支配の、思想を、いつから、受け入れて、傲慢不遜に、自然を破壊し始めたのか。

自然は、私であるから、自然を破壊するめことは、私を破壊することなのである。

ほんの百年たらずしか生きられない者が、何ゆえ、使い切れないほどのお金のために、土地を転がし、自然を破壊し、先祖の夢を、無残に壊すのか。

こういう、状態を、自害して、果てよという言葉になるのである、私の中では、である。

ちなみに、私が、出掛けた聖地の、ドリーミングには、蛇と、睡蓮の花というのは、彼らのトーテム、つまり、ご神体のようなものであった。
先祖を、蛇としたものは、生命力のものであり、睡蓮は、その精神だと、私は、勝手に、想像する。

      
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   <title>アボリジニへの旅１３</title>
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   <published>2008-07-24T09:33:56Z</published>
   <updated>2008-07-24T09:34:48Z</updated>
   
   <summary>１９７６年、アボリジニ土地権利NT法、が成立する。 政府は、北部準州、ノーザン・...</summary>
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      １９７６年、アボリジニ土地権利NT法、が成立する。

政府は、北部準州、ノーザン・テリトリー全域を、アボリジニの土地権の請求を認める法律を制定した。

この法律は、アボリジニの出自を持つ人を、アボリジニとし、伝統に従い、特定の土地を使用し、占有できる権利をもつアボリジニのために、北部準州が、その土地を貸すというものである。

ここで言うところの、伝統とは、部族、個人の持つ伝承と伝説、儀礼や信仰である。
今も語り継がれる、ドリーミングをもち、ドリーミングに登場する儀式を、行っていることが、条件である。

この法律により、北部準州の、アボリジニは、土地返還請求をはじめた。
現在、二割程度の土地が、アボリジナルランドとして、アボリジニの所有になっている。

このことは、アボリジニたちの、神話の力が、土地を返還する上で、必要不可欠となったことである。私は、画期的なことだと、考える。

それは、この法律によって、他の地域でも、土地返還請求が、出されるようになったからである。
その時、その土地に、まつわる、ドリーミングを語ることができ、聖地などを、正確に伝承していることが必要になる。
神話が、ただの神話に留まらず、かつての、自分たちの土地に関する、権利を主張することの出来る、手立てとなったのである。

この、ドリーミングは、説明するに、実に、難しいことである。
後で、少し、私が出掛けた、ゴーブ付近に住む、ヨォルングたちの、ドリーミングについて、考察するが、文字で、説明することの、限界を、感じるものである。

つまり、アボリジニの知的水準は、恐ろしく高いのである。

土地返還に関しては、また、実に難しい問題がある。
それは、先祖代々、その土地を、所有していたという、証明を、文化人類学的知識をもっても、語ることが必要なことである。

問題は、アボリジニのことを、非アボリジニの人に、理解させるという、とても、大変な作業をしなければならないことだ。

ここで、青山晴美氏の、アボリジニで読むオーストラリア、から、引用する。

このプロセスは、科学的で西洋実証主義的な考え方と方法論により証明されなければなりません。・・・・

アボリジニ文化のように歌や踊りや神話として伝承され、文字ではなく語りとして受け継がれ、目に見えない精神性を重んじてきた文化を、西洋の実証主義によって判断し証明することには根本的に無理があります。アボリジニ自身が文化を分析し裁判所で口頭証言をしても、「白人」の裁判官からは信頼するに足りないとして却下されてしまうことがあります。結果として、本来アボリジニ文化に備わっていない信念や情報が構築される可能性もあります。まさに、アボリジニ文化の意味は、オーストラリア社会の複雑な力関係によってつくりだされているのです。

アボリジニの、あらゆる面を破壊しておいて、今度は、それを、出せという、その勝手都合の良さを何と言うべきか、私は、知らない。

さらに、問題なのは、都市に住む、アボリジニである。
彼らは、おおよそ、混血児である。
白人との、混血を、パートアボリジニとされ、定義されるアボリジニの枠に入らないということになっているのである。

問題は、より複雑化していく。

これ以上になると、非常に専門的知識を、必要としなければならない。

先の、青山晴美氏の、引用をする。

アボリジニ文化の新しい解釈によって、アボリジニであること、すなわちアボリジニ性は、社会的に構築されるものとして理解されるようになってきました。・・・・

人のアイデンティティや文化は、自然発生的で、変容することのない本質的なものだという理解をやめなければならないという意見が、アボリジニ学のヨーロッパ系学者のあいだからだされました。本質主義は、似非科学に裏付けられたレイシズム(人種主義)や、アボリジニ虐殺を容認した政治体制、そしてオーストラリアを含む多くの植民地体制の土台になったともいわれて批判されはじめたのです。

それは、大変に良いことであるが、結局は、それも、ヨーロッパ主導の、考え方である。
それを、待つしかないという、不合理である。

220年に渡る、白人支配、植民地政策の果てに、原住民の、あり方が、問われるという、不幸である。

しかし、後戻りは、出来ない。
更に、オーストラリアは、新しく、進んで行かなければならない。

私が、祈りを捧げた、聖地ガインガルも、まだ、その土地所有が認められていない。
しかし、街は、それを容認して、その聖地の保護を形ばかりでも、行っている。

少しは、アボリジニに対する、敬意があると、感じる。
しかし、その聖地を、その周辺を、生きたアボリジニの所有にすることが、急務である。
その時、私は、一つ考え方ことがある。
それは、他者が、結局的に、その聖地を、聖地として、認識し、そのように扱うことで、所有権の請求に弾みがつくのではないかということだ。

他者とは、私のように、日本から出掛けてきて、アボリジニの聖地に、巡礼するというものである。
それを、既成事実にしてしまう、方法ということもある。
実は、その、付近のヨォルングたちの、ドリーミングは、実に、複雑で、理解困難であることが、解ったのである。

私が出向いた、アーネムランドの、ゴーブは、ノーザンテリトリーの中でも、特殊な地域である。
ヨォルングという、グループの行動範囲は、他のアボリジニより、広い地域になっている。
さらに、幸運なことは、他の地域、アーネムランド以外の、地域は、一般の入植者が入る前に、保護区として、指定されたことにより、南部では、当たり前だった、白人の、暴力、虐殺を経ていないのである。

彼らは、この地域で、20世紀に入る前まで、他との接触を持たずに、数家族単位の集団で、季節ごとに移動し、離合集散を繰り返して、狩猟採取の生活を送ることができたのである。

それは、つまり、複雑な、伝承を維持できたということである。

現在、約五千人のアボリジニが暮らす。

ただ、私が、衣服支援に出掛けた、イルカラという場所は、ゴーブの町から、20分程度の所にあったが、そこが、鉱山開発のために、アボリジニたちが、強制的に、移住させられた場所である。

実は、そのから、土地所有請求の、また、土地権利運動のはじまりの、場所ともなったのである。

この、保護区に入るには、政府からの、許可書が必要である。
それを、受け付ける前段階がある。
それは、アボリジニによる。
私たちの、請求が、即座に受理されたのは、衣服支援という、ボランティア行動だった。
本当は、追悼慰霊の行為が、私には、主なのであるが、それは、中々、理解されない。

日本人でも、理解しないことであるから、あちらの人が、理解しないのは、最もなことである。

私は、先の大戦で、アボリジニの方々も、犠牲になった場所があるという、情報を得て、オーストラリア行きを、決定した。
はっきり言えば、オーストラリアという国には、何の魅力も感じなかった。

私が、行くと、決めたのは、原住民の犠牲者に対して、一体誰が、その追悼慰霊をしたのかということが、問題だった。
ダーウィンには、戦争記念館があり、日本軍に攻撃を受けて、市民が犠牲になったと、大々的に、うたうが、アボリジニの犠牲者には、誰もが、無関心である。
当然であった。
激しい差別を受けていた訳であるから、彼らが、死のうが、生きようが、どうでもいいのである。

無視された存在である。

私は、日本人として、その良心として、アボリジニの犠牲者のために、追悼慰霊の儀を行うべくの行動だった。

そして、それを、調べることで、アボリジニの歴史を、知ることになり、愕然としたのである。

和人が、アイヌ民族にしたこと、それ以上のことが、解った。

そして、今年、オーストラリア政府の、アボリジニに対する、正式謝罪と、六月には、日本政府が、アイヌ民族に対して、先住民族と、認める、国会決議を、行ったという、象徴的、事柄があった。

沖縄への、追悼慰霊の儀を、考えていた時でもあり、それらが、私の中で、結びつき、実に、多くのことを、学ぶことになった。

勿論、それは、私の仕事でもなんでもない。
私の個人的、活動であるから、お金になることもなく、学者ではないから、適当なことを言って、生活の糧を、得ることもない。

ただ、心の命ずるままに、行動を開始した。
そして、今、後戻り出来ないことになっている。

私の、聖地での、祈りと、追悼慰霊の行為は、ヨォルングの人には、何の抵抗もなく受け入れられたのは、彼らの常識にあるからである。

追悼慰霊の儀を終わり、一人のアボリジニの女性が、野中に訊いた言葉が、スピリットは、どうなったのか、という言葉だった。
その通訳を、受けて、私の方が、驚いた。

私が、天に昇ったというと、その女性は、安堵の表情で、頷いた。
とても、印象的だった。

複雑な、ドリーミングのことについて、後で、説明するが、それは、私の理解では、大和心と、同じものだった。

今、目の前にあるものは、先祖の夢である、という、考え方は、私を、絶句させたのである。

      
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   <title>アボリジニへの旅１２</title>
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   <published>2008-07-23T21:23:30Z</published>
   <updated>2008-07-23T21:24:24Z</updated>
   
   <summary>アーネムランド、ゴーブにて、詠む歌 風乾く　ただ今ゴーブは　冬という　されど椰子...</summary>
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      アーネムランド、ゴーブにて、詠む歌

風乾く　ただ今ゴーブは　冬という　されど椰子の木　夏の如くに

二十歩の　街の中心　タウンという　我が故郷の　町よりも小

アボリジニ　焚き火して　食う男たち　昔を偲ぶ　伝承(つたえ)にありて

聖地から、戻って、街に向かう時に、三人のアボリジニの男たちが、焚き火をしているのを見た。
ヨーと手を挙げて、挨拶し、近づくと、一人の男は、眼が不自由だった。
私たちを、誰か知らないと、思い、私は、日本人です。今、聖地で、祈りましたと言った。
すると、一気に顔が和らぎ、私たちを、受け入れる。

焚き火には、スーパーで買ったと思える、牛肉を、焼いていた。
肉を切るものは、缶を壊して作ったものである。
器用に、それで肉を切る。
私たちの水を少し欲しいと言うので、ボトルのまま、差し上げた。
すると、缶の中に水を入れ、その中に、肉を小さく切って、入れ、それを、焚き火の上に置いた。

少しばかり、そこに、いたが、別れて、街に向かった。

仕事なく、やることなく、飼い殺しにされている様である。
政府の、支援金で、生活するという。

時々に、道端で、アボリジニの人々に出会った。
ヨーと、挨拶すると、誰もが、挨拶を返す。

新しき　学説出たる　人類の　祖先はここの　アボリジニになると

民族の　すべての特徴　備えたる　アボリジニなり　歴史覆る

オセアニア　アジアに近き　ゆえなれば　アジアと共に　歩めかしとぞ

発見されたから、古いとされる。
見いだされないものは、無いものである。
それが、考古学の限界である。

今どこか　さらに眠れる　古きもの　それありて知る　歴史ゆえに

歴史も、人の創造である。

さて、アボリジニを苦難の極みに、導いた、独善、傲慢な、宣教師たちの、有様を言う。

宣教師たちは、アボリジニの大人を、改心、改宗させることの、難しさを知り、スムーズに、キリスト教徒にすべく、子供に注目する。
そして、強制的に、親から子供を手放すように仕向けたのである。

子供たちは、遠く離れた、教団施設に、送られることになる。
サリン事件の、あの教団を、思い出させる。

これは、アボリジニの、完全崩壊に、結びつく。
世代から世代へと、受け継がれるべき、伝承の子供たちが、いなくなるのである。

子供たちは、全く異質の、文化的環境に置かれ、アボリジニの儀礼、儀式、伝承を、学ぶことが、できなくなったのである。

教団ごとに、運営される生活は、多少の違いがあっても、キリスト教という、枠の中、ヨーロッパの文化という、枠の中に入れられて、更に、洗脳されることになる。
子供たちは、アボリジニと、ヨーロッパの文明の、中で、隔絶されるのである。
つまり、どちらにも、属せないという、悲劇である。

アボリジニの若者は、英語を話し、西洋の服を着て、西洋文化を、善と教えられて、そのように、行動する以外に道はなかった。
それを、見た、アボリジニの長老たちは、絶望した。

重要な、親族関係のつながりが、崩壊することになる。それは、アボリジニの根本的な、崩壊である。

更に、食生活である。

宣教師が、配布する、小麦粉と、紅茶が中心になり、狩猟採取民としての、バランスの取れた、食生活が、崩壊したのである。

宣教師から、配布される食料によって、白人に依存する生活が、当たり前となる。
自然と一体となって、生きていた、アボリジニが、その伝統から、切り離されてゆくのである。

イギリス人が、紅茶を飲むのは、その、劣悪なイギリスの水のせいである。彼らの飲む水は、泥水のようであり、臭いのである。これを、誤魔化すために、紅茶を用いた。
茶の歴史には、そんなことは、書かれていない。
インドからの、茶葉を、紅茶にしたのが、イギリスだというが、それは、苦肉の策だったのだ。

その、食生活が、いかに、不健康なものであるか。
キリスト教精神も、不健康であるが、それも、実に、不健康を、もたらした。
紅茶に、砂糖を、たっぷり入れて飲むようになり、それが、今、多くのアボリジニを、糖尿病にしている。

砂糖の加減が、解らなかったのだ。

若者たちの、指導者が、宣教師になったことは、アボリジニの長老たちの、資格も、剥奪することになる。

アボリジニを、絶滅から、救うという名目で、アボリジニの文化を、破壊するという、キリスト教の神、本来の、姿を、現したといえる。

怒りと、嫉妬と、呪いの神である。
人間を、追い詰めて、追い詰めて、そして、赦しを与え、支配するという、手口は、悪魔のやることである。

更に、それは、白人入植者たちの、土地獲得を、有利に進めることにもなったのである。
要するに、宣教師たちは、アボリジニの子供を、飼ったのである。

今、現在も、このキリスト教の、布教精神が生きていて、同じ事を、様々な土地、国で、行う。
彼らの言う、アガペの、無償の神の愛という、お説が、いかに嘘であるかが、解る。
やり取りなのである。要するに、取引である。
決して、無償ではない。
助けます、しかし、神を信じなさい。そして、我々と、同じように、生きることなのですというのである。

イギリスの食事は、今でも、世界的に、最低の食事である。
イギリス料理などというものは、無い。

フランス料理は、ベトナム、ラオスによるもの。
中華料理は、日本の、会席料理によるもの。
イタリア料理は、おおよそ、イタリアによる。
アラビア料理は、アラビアによる。

実際、欧州という土地は、また、イギリスも、豊穣ではない。
彼らが言うところの、文化、文明などは、ほんの少しの間のことである。
中国、インド、アジア各国、日本などの、文化、文明の、足元にも、及ばない。
ただし、中国の場合は、共産党が、悠久の歴史を、抹消して、善しとしているから、アホも程が過ぎるが、目も当てられない状態である。その、漢字文化は、日本にて、花開いている。

インドの、現在の貧しさは、イギリス統治が、原因である。
何もかも奪い、産業革命なるものを、為したのである。
あれは、イギリスが、起こしたのではない。植民地から得た、財によって成ったのである。

歴史を、書きなおすべきである。特に、日本の教科書の、世界史を、書きなおす必要がある。

次に、私は、これからの、オーストラリアの国としての、取り組みを、検証する。
今、オーストラリアは、国の神話を、求めて、さ迷う。
その神話造りには、アボリジニが、欠かせないのである。
今年の新年に、政府が、アボリジニに、正式謝罪したのは、大きな訳がある。

国家を、造るものは、精神である。その精神の、大元に、神話が必要不可欠である。
つまり、国家幻想を、持たない国は、続かない。
ソ連が、崩壊したように、神話と、国家幻想を、もてない国は、崩壊する。

ここで、一つ余計なことを、言う。
国家幻想は必要だが、宗教による、妄想は必要ないということである。
国家、国境を超えて、宗教は、それぞれ独自の、妄想を、人々に与えて、その教線を、広げる。

国家と、違うのは、国家を造る、民族の神話的幻想であり、宗教は、対立を生むもの以外の何物でもない。
民族と、宗教が、手を組むと、どんなことになってきたかは、歴史が、教える。

民族の伝統としての、宗教的情操ではない。
私が言うのは、宗教として、単独の、妄想を、掲げることと、民族が結び合うことである。
それは、独善になり、他を、排斥して、善しとする。

ユダヤ教は、ユダヤ人の宗教であるが、これが、ユダヤ教のみ、取り出して、世界を、裁いたとしたら、どういうことになるかは、見ての通りである。
ユダヤ人が、伝統として、その民族の情操にあるものとの、意識にある、ユダヤ教であれば、何の問題も無い。
しかし、彼らは、唯一の神から、選ばれた、民族であると考え、それを、世界に押し付けようとする時、どんなことになるか。

更にである。
唯一の神を奉ずる者として、活動する、キリスト教が、行う、世界の判定は、世界を混乱に陥れるだけである。

更に、その、キリスト教も、一枚ではない。
カトリック、プロテスタント、英国教会、ギリシャ正教、等々。

もう一つ、唯一の神を、奉ずるイスラムである。
そのイスラムが、徐々に、世界に侵食している様、ありありと見える。
そして、それは、政治的行為も為す。
宗教と政治が、結びつくと、どのようなことになるかは、見ての通りである。

西洋の中世を、見れば解る。



      
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   <title>もののあわれについて２４０</title>
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   <published>2008-07-23T07:19:40Z</published>
   <updated>2008-07-23T07:20:53Z</updated>
   
   <summary>守、「にはかに」と、わぶれど、人も聞き入れず。寝殿のひんがしおもて払ひあけさせて...</summary>
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         <category term="もののあわれについて第四弾" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://countertenor-nobuo.com/tenzan-blog/">
      守、「にはかに」と、わぶれど、人も聞き入れず。寝殿のひんがしおもて払ひあけさせて、かりそめの御しつらひしたり。水の音ばへなど、さるかたにをかしくなしたり。いなか家だつ柴垣して、前栽など心とめて植えたり。風すずしくて、そこはかとなきき虫のこえごえ聞え、蛍しげく飛びまがひて、をかしき程なり。

紀伊の守が、急なことと、言うのを、他の家来は、耳に入れないで、寝殿の東の座敷を、掃除させ、主人に提供した。
宿泊の準備が出来たのだ。
庭に通した、もずの流れなど、地方官級の家としては、凝っている。
わざと、田舎の家らしく、柴垣などがあり、庭の植え込みも、よくできている。
涼しい風が、吹き、どこからともなく、虫の音が聞こえ、蛍が、多く飛んで、たいそう、面白いものである。

人々渡殿より出でたる泉にのぞき居て酒のむ。あるじもさかな求むと、こゆるぎのいそぎありくほど、君はのどやかにながめ給ひて、「かの中の品にとりいでて言ひし、このなみならむかし」と、おぼしいづ。

源氏の、従者たちは、渡殿の下をくぐる水の流れを、眺めて、酒を飲んでいる。
紀伊守が、主人を待遇するために、奔走しているとき、一人でいた、源氏は、家の中を眺めて、前夜の話にでた、中の品に入る家であろうと、その話を、思い出しいてた。

思ひあがれる気色に、聞き給へる女なれば、ゆかしく、耳とどめ給へるに、この西おもてにぞ、人のけはいする。きぬの音なひ、はらはらとして、若き声ども憎からず。さすがにしのびて笑ひなどするけはひ、ことさらびたり。

思い上がった娘だと評判の、伊予の守の娘、すなわち紀伊守の妹であるから、源氏は、はしめから、それに興味を持っていた。
どのあたりの、座敷にいるのであろうと、物音に、耳を立てていた。
この西に続いた部屋で、女の絹ずれが、聞こえ、若々しい、なまめかしい声で、しかも、さすがに、声をひそめて、物を言うのに気がついた。
わざとらしいが、悪い気はしなかった。

格子をあげたりけれど、守、「心なし」と、むづかりて、おろしつれば、火ともしたるすきかげ、障子の紙よりもりたるに、やをら寄り給ひて、「見ゆや」と居たるなるべし、うちささめき言ふ事どもを聞き給へば、我が御うへなるべし。

はじめは、縁の格子が、上げたままになっているのを、紀伊の守が、不用意だと、叱って、今は、戸が下ろされている。
その部屋の、火影が、唐紙の隙間から、赤く、こちらに射していた。
源氏は、静かに、そこに行き、中が見えるかと、思ったが、それ程の、隙間はない。
少し聞いていると、低いさざめきは、源氏が、話題にされているらしいのである。


「いといたうまめだちて、まだきにやむこどなきよすが、定まり給へるこそ、さうざうしすめれ。されど、さるべきくまには、よくこそ隠れありき給ふなれ」など言ふにも、おぼす事のみ心にかかり給へば、まづ胸つぶれて、かやうのついでにも、人の言ひもらさむを、聞きつけたらむ時、など、おぼえ給ふ。ことなる
事なれば、聞きさし給ひつ。

「まじめらしく、早く、奥様を、お持ちになったのですから、お寂しいわけですね。ずいぶんと、隠れて、お通うところがあるようです」
源氏は、そんな言葉に、はっとした。
あるまじき恋を、人が知り、こうした噂を、流されたらと、思うのである。
しかし、話は、ただ事ばかりであり、それらを、聞こうとせず、興味が起きなかった。

式部卿の宮の姫君に、あさがほ奉り給ひし歌などを、すこしほほゆがめて語るも聞ゆ。「くつろぎがましく、歌ずんじがちにもあるかな。なほ見劣りはしなむかし」と、おぼす。守いできて、燈籠かけそへ、火あかくかかげなどして、御くだものばかり参れり。

式部卿の宮の、姫君に、朝顔を贈った時の歌など、誰かが、得意そうに語っていた。
行儀悪く、会話の中に、節をつけて、歌を入れたがる人たちだ。
中の品が、おもしろいといっても、自分には、我慢ではないこともあると、思った。
紀伊守が、燈籠の数を増やしたり、座敷の灯りを、更に明るくした。
そして、主人に遠慮しつつ、菓子のみを、献じた。


源氏「とばり帳もいかにぞは。さるかたの心もとなくては、めざましきあるじなるらむ」と宣へば、守「なによけむ、とも、え承らず」と、かしこまりてさぶらふ。はしつかたのおましに、仮なるやうにて大殿籠れば、人々も静まりぬ。

源氏「我が家は、とばり帳をも、掛ければという歌。大君、来ませ婿にせん。そこに気がつかないのでは、主人の手落ちかもしれない」
「通人ではない、主人で、申し訳ありません」
紀伊の守は、縁側で、畏まっている。
源氏は、縁に近い寝床で、仮寝のように、横になっていた。
付き人たちも、もう、寝たようである。

何気ない、一こまの出来事である。

その中に、当時の風習などが、垣間見える。
源氏物語の、楽しさは、そうところでもある。
少し、見方を変えると、別の風景が、広がる。

庭に、水の心ばえなど、さるかたにをかしくなしたり。
庭に水を引いて、その様、涼しげで、風情ある趣である。

いかな家だつ柴垣
雑木の枝を編んだものである。
それを、田舎風という。

庭は、主人や、住む者の、心模様を、表す。

この後、源氏は、女房の部屋に、忍び込むことになる。

その顛末を書くかどうかと、考えている。
また、その後で、その女の弟を、使用人として、召すという。
この子は、小君というが、その小君と、源氏のやり取りが、面白い。

その小君の、姉との、やり取りに、小君を利用するのであるが、小君も、源氏に愛されるという。
勿論、それを、性愛という形にするのではない。
当時の、風習を見るものである。

源氏が、女性遍歴をしたという物語と、ばかりに、解釈されるが、そこには、裏から見ると、同性愛的、行為の多いのに、驚く。
流石に、紫式部である。
密かに、文の中に、忍ばせている。
最も、当たり前のことであるゆえ、当時の人が読めば、何のことはないのである。

      
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   <title>もののあわれについて２３９</title>
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   <published>2008-07-22T21:39:38Z</published>
   <updated>2008-07-22T21:40:23Z</updated>
   
   <summary>源氏に、女談義を、聞かせる、男たちの話は、面白いが、私のテーマは、もののあわれに...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://countertenor-nobuo.com/tenzan-blog/">
      源氏に、女談義を、聞かせる、男たちの話は、面白いが、私のテーマは、もののあわれについて、であるから、省略して、中に、もののあわれ、について、触れる話があるので、抜き出す。

それは、左の馬の頭の論にある。

事が中になのめなるまじき人の後見の方は、もののあはれ知りすぐし、はかなきついでの情あり、をかしきにすすめる方、なくてもよかるべしと見えたるに、またまめまめしきすぢをたてて、耳はさみながら、美相なきいへとうじのの、ひとへにうちとけたる後見ばかりをして、朝夕の出で入りにつけても、おほやけわたくしの人のたたずまひ、良き悪しき事の、目にも耳にもとまるありさまを、うとき人に、わざとうちまねばむやは。

事が中に　なのめなるまじき人の
妻に必要なのは、家庭を預かることです。
もののあはれ知りすぐし
ここでは、文学的才能とか、文学趣味とか、才気のことを言う。
書き物、物書きを、よくする事を、もののあはれ知りと、解す。
それは、また、歌をよくするという意味でもある。

はかなきついでの情あり　をかしきにすすめる方、なくてもよかるべしと　見えたるに
儚きついでの情あり、とは、矢張り、そのような素質のあるという。
それを良くすることであるが、そんなものは、別に、無くてもいいのだ。

真面目で、形振り構わず、髪を煩がり、耳の後に、はさんでばかりいる。
ただ、物の世話だけを、やってくれる。でも、そんなんでは、少し、矢張り、物足りない。
勤めに出れば、出るで、帰れば帰るで、公のことなど、友人や先輩のことなど、話しすることは、多くある。
それは、他人に言えません。
理解ある、妻にしか話せないのでは、つまらない。要するに、話を聞いてくれる妻がいい。


近くて見む人の聞きわき思ひ知るべからむに、語りも合わせばやと、うちもえまれ、涙もさしぐみ、もしはあやなきおほやけはらだたしく、心ひとつに思ひ余る事など多かるを、なににかは聞かせむと思へば、うちそむかれて、人知れぬ思ひで笑ひもせられ、あはれ、ともうちひとりごたたるに、「なに事ぞ」など、あはつかにさし仰ぎ居たらむは、いかがは口をしからぬ。

この話を、早く聞かせたい、妻の意見も聞きたいと思う。
そうすると、一人でも、笑みが湧いてくる。また、涙ぐまれもする。
また、公のことで、怒りをもっても、我が心に、しまえぬ時、それを話す妻ではないと、思えば、一人で、思い出し、笑う。哀れだと、独り言を言う。
そんな時に、何ですか、と、平然として、こちらの顔を、見るような、妻では、たまらない。

そうして、暫くの談義が、続くのである。
それは、明かし給ひつ、というように、朝まで、続いたのである。

中でも、源氏が惹かれた話は、左の馬の頭の、中流階級の女の話である。
それに、興味を持ち、源氏の、恋愛遍歴が始まるのである。

この巻の、後半に、年上の人妻である、空蝉という女性との、やり取りがある。


からうじて、今日は日のけしきもなほれり。かくのみこもりさぶらひ給ふも、おほい殿の御心いとほしければ、まかで給へり。大かたの気色。人のけはひも、けだかく、乱れたる所まじらず。「なほこれこそは、かの人々の捨てがたく取りいでし、まめ人には頼まれぬべけれ」とおぼすものから、あまりうるはしき御ありさまの、とけがたく恥づかしげに思ひ静まり給へるを、さうざうしくて、中納言の君、中務などやうの、おしなべたらぬ若人どもに、たはぶれごとなど宣ひつつ、暑さに乱れ給へる御ありさまを、「見るかひあり」と、思ひ聞えたり。

ようやく、今日は、晴天である。
このように、宮中にいることばかりでは、左大臣の家の人々に、申し訳ないと、思いつつ、家に行った。
人の気配も、乱れなく、こんなことが、真面目だという、昨夜の談義の者たちは、気に入るだろうと、思った。
源氏は、今も、作法通り、打ち解けない夫人であることを、物足りなく思う。
中納言の君は、中務などという、若い女房たちと、冗談を言い、暑さに、部屋着だけになる、源氏は、それを見て、美しいと思い、それを、幸せだと、思った。


おとどりも渡り給ひて、うちとけ給へれば、御凡帳へだてておはしまして、御物語聞え給ふを、源氏「あつきに」と苦み給へば、人々わらふ。源氏「あなかま」とて、脇息に寄りおはす。いと安らかなる御ふるまいなりや。


大臣も、娘の方へ出て来た。
部屋着になっているので、凡帳を隔てた席に着こうとするので、「暑いのに」と源氏が顔を、しかめると、女房たちが、笑った。
「静かに」と、脇息に、寄りかかった様子に、品の良さが伺える。

人間描写が、もののあわれ、である。
文芸的センスに溢れる。

源氏の立ち居振る舞いが、状況にて、自ずと知られるように、描かれるのである。

大和言葉による、風情というものもある。
言葉にも、雅というものがある。
この、雅の中に隠す、あはれ、という、心象風景は、源氏という人物を通して、自然と、沁みてくるのである。

文中では、もののあはれ、とは、文の嗜みなどを、言う。
生活の中に、息づく、歌心である。
それが、いつしか、人の心の、有り様となって、静かに、もののあはれ、というものを、成長させるのである。

歌道とは、和芸の大元である。
文学というものに、まだ、目覚める前の、原始の状態である。
文の学びはあるが、体系としての、文学という意識は、まだ、希薄である。しかし、私がいうのは、明治期に、西洋の文学を取り入れて、文学として、意識したものとは、違う。

和芸としての、文学、つまり、文習いである。

漢籍を、学ぶことで、文というものを、それに、合わせて、学んだが、歌を詠むのは、漢籍を能くする者も、大和言葉による。

源氏物語は、分岐点でもあった。
歌道への、道と、文芸への、道と、まさに、今、生まれでようとしていた。
だが、文芸の中にも歌道は、しっかりと、取り込まれているのである。

歌道無くして、文芸は無いのである。
歌は道であるが、文は、芸の道として、新たに、生まれ出るである。

      
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   <title>もののあわれについて238</title>
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   <published>2008-07-22T08:27:06Z</published>
   <updated>2008-07-22T08:27:53Z</updated>
   
   <summary>ははき　木 光る源氏、名のみことごとしう、言ひ消たれ給ふとが多かなるに、いとど、...</summary>
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      ははき　木

光る源氏、名のみことごとしう、言ひ消たれ給ふとが多かなるに、いとど、かかるすきごとどもを末の世にも聞き伝へて、かろびたる名をや流さむと、しのび給ひける隠ろへ事をさへ、語り伝へけむ人のものいひさがなさよ。さるは、いといたく世をはばかり、まめだち給ひけるほど、なよびかにをかしき事はなくて、交野の少将には笑はれ給ひけむかし。

光源氏、その名で、見事な、人生を、謳歌したように、思われる。自由奔放な恋愛、好色な生活が、世の中に伝えられるようである。
しかし、実際は、それとは、別に、地味な心持、生活であった。
それに、恋愛に関して、後に、誤って伝えられることを、恐れ、異性との関係を、人に知られぬようにしていた。
ここに書くようなことが、伝わっているのは、世間の、噂が、激しいのである。
いといたく世をはばかり
世の中を、憚り、自重して、恋愛、好色には、遠い。
好色物語の、交野少将などには、笑われていたことであろう。

書き出しである。
作者は、実在の物語であると、強く語るのである。
創作の物語を、更に、強く、実在にあるかの如くに、説得する。

ここで、紫式部は、この物語を、すべて作り上げて、書き始めたと想像出来る。
余裕、たっぷりである。

あたかも、人に聞いたかのように、順々に、物語する。
誰かに、話をするようにである。

まだ中将などにものし給ひし時は、うちにのみさぶらひようし給ひて、おほいとのにはたえだえまかで給ふ。しのぶの乱れやと疑ひ聞ゆる事もありしかど、さしもあだめき目なれたるうちつけのすきずきしさなどは、好ましからぬ御本性にて、まれには、あながたちにひきたがへ、心づくしなる事を、御心におぼしとどむる癖なむあやにくにて、さるまじき御ふるまひもうちまじりける。

中将時代は、宮中の宿直所に、暮らして、時々、舅の左大臣の家にゆく。
それで、他に、恋人を、持っている疑いを掛けられたが、世間にあるような、好色な男の生活は、嫌いだった。
まれには、あながたちにひきたがへ
稀に、風変わりな、恋をして、手ごわい相手に、心を打ち込んだりする、癖はあった。

しのぶの乱れやと疑ひ聞ゆる事もありしかど
春日野の　若紫の　すり衣　しのぶの乱れ　限り知られず
伊勢物語

素性も知れぬ女に、一目惚れすることを言う。

この巻は、女の品定めをする。非常に興味深い巻である。
当時の、女性観を知ることが出来る。
少し、深入りする。

なが雨はれまなき頃、うちの御物忌さしつづきて、いとどながい侍ひ給ふを、おほいとのにはおぼつかなくうらめしくおぼしたれど、よろづの御よそひ、なにくれとめづらしきさまに、調じ出で給ひつつ、御むすこの君たち、ただこの御とのい所の宮仕へを勤め給ふ。

長雨とは、梅雨時期である。
帝のご謹慎が、幾日かあり、臣は、家に帰らず、宿直する。
このような日々が続き、源氏の御住まいも、長くなった。
大臣の家では、来ない源氏を、恨めしく思っていたが、衣装や、贅沢な調度品を御所の、桐壺へ運ぶ。
左大臣の、息子たちは、宮中の用をするより、源氏の宿に、通うことが、楽しいのである。


宮腹の中将は、なかに親しくなれ聞え給ひて、あそびたはぶれをも、人よりは心やすくなれなれしくふるまひたり。右のおとどのいたはりかしづき給ふ住みかは、この君もいとものうくして、すきがましきあだ人なり。里にても我がかたのしつらひまばゆくして、君の出で入りし給ふに、うちつれ聞え給ひつつ、よるひる、学問をもあそびをももろともにして、をさをさたちおくれず、いづくにてもまつはれ聞え給ふほどに、おのづからかしこまりもえおかず、心のうちに思ふ事をも隠しあへずなむ、むつれ聞え給ひける。

中では、宮腹の中将は、最も源氏と、親しくなった。
遊戯をするのも、何をするのも、多の物に、及ばないほど、親交を深めた。
大事にしてくれる、右大臣の家へ行くことも、この人は、嫌いである。
結婚した男は、誰も妻の家で、過ごすのだが、この人は、親の家に、立派な居間や、書斎を持っていた。
源氏か出る時は、昼も夜も、学問をするのも、遊びをするのも、一緒だった。
おのづから　かしこまりも　えおかず
謙遜することもなく、敬意を、表することも忘れた。
むつれ聞え給ひける
仲良しである。
しかし、これは、尋常ではない。

睦み合うということである。
誰も言わないので、私が言う。
同性愛行為も、あるという。

当時の、交接は、男女の関係のみではない。実に、曖昧である。
それに、関しては、未分化であり、更に、そのような行為は、自然容認されていて、特別なことだとは、思わないのである。

美貌の源氏であるから、男も、放っておかないのである。

恋とは、女とするもの。
それを、好色という。
男同士の、睦み合いは、自然、当然として、書くこともない。

さて、この巻では、女の多様な姿を、皆が披露するのである。

その前に、

つれづれと降り暮らして、しめやかなるよひの雨に、殿上にもをさをさ人ずくなに、御とのい所もれいよりはのどやかなる心ちするに、おほとなぶら近くて、文どもなど見給ふ。

上記の文、大和言葉である。源氏物語は、すべて、大和言葉である。
物語は、女子供のものという意識があったのは、正式文書、男が書くものは、当時は、皆、漢語である。
漢字平仮名交じりの文は、女房文学といわれ。そして、その、女房文学は、源氏物語で、幕を開けたのである。更に、日本の文学の幕開けでもある。

一日中、雨が降り続き、何もできない様子である。
その、しめやかなる、夕方である。
殿上の役人たちも、少ない。源氏の桐壺も、静かである。
そこで、灯を点して、書物を見ていると、その本を取り出した、置き棚にあった、色の紙に書かれた手紙を、中将は、見たがった。

さて、これから、源氏と、中将の女についての、語りが始まる。
物語は、中将の女の品定めを語る。

更に、そこに、左の馬の頭と、藤式部の丞が、加わり、女談義に、花が咲く。

様々な女の姿を、源氏は、聞くことになる。
特に、左の馬の頭の、中流の女の話に、興味を惹かれる。
これが、源氏の、恋愛遍歴の、始まりになるのである。

      
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   <title>アボリジニへの旅11</title>
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   <published>2008-07-21T20:58:09Z</published>
   <updated>2008-07-21T20:58:40Z</updated>
   
   <summary>オーストラリアに、移住した人々は、どのようなことを行ったかである。 その行為は、...</summary>
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         <category term="旅日記" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://countertenor-nobuo.com/tenzan-blog/">
      オーストラリアに、移住した人々は、どのようなことを行ったかである。
その行為は、一言、野蛮である。

アボリジニを、野蛮というが、言う彼らの行為の方が、もっと野蛮である。
土地の奪い合いによる、戦いである。

しかし、アボリジニに対する暴力を、彼らは、正当化する、屁理屈を持っていた。
社会進化論と、偽の科学である。さらに、ダーウィンの、進化論などを利用するもの、等々である。

タスマニアの政府委員会では、野蛮人の生活をほんの少しでも、考慮することは、価値のないことである。
そして、ある牧場主は、アボリジニを殺すことと、野生の犬を殺すことは、同じことである。
アボリジニは、野獣に似ているので、殺すのが適切である。
激しい、人種差別は、先住民から、土地を奪う、実に便利な口実になったのである。

初期の、移住者たちは、人間の中で、最低の知能と文明しか、持たず、獣に近いものとして、残虐行為の限りを尽くした。

白人と、アボリジニとの関係が、二世代目を迎えた、１８５０年代は、さらに、悲劇的である。

これから、キリスト教の、アボリジニ対する、独善の限りを尽くした、赦されない、行為を、書く。

キリスト教は、アボリジニの精神的破壊を、推し進めたのである。

アボリジニをキリスト教徒にするために、宣教師たちは、教団施設に収容することを、思いつく。
18世紀後半から、19世紀初頭にかけて、欧米では、福音主義運動というものが、起こる。
それが、また、偽善的で、植民地的侵略や、奴隷状態に置かれる、先住民を、悲劇から救い、キリスト教徒のすることだという、独善行為である。

白人の暴力から、救う避難所を与え、アボリジニを異教徒として認識し、その文化を、理解することなく、破壊するという行為である。

最も、悪行は、アボリジニの、儀式、伝承、その精神性を、破壊するという行為である。

この精神は、今も変わらずにある。
一方で、物理物質的支援を続け、一方では、その精神性を、破壊するという行為である。
これほど、不純な行動は、無い。
しかし、知能の低い、キリスト教徒には、それが、解らないのである。
我らは、正しいと、信じている。
これを、手のつけられない者と言う。

キリスト教宣教師の、アホ、バカ、間抜け振りを現すものに、布教に当たり、アボリジニが、キリスト教の恩恵を受けるに値する者か、否かを議論したということである。

呪いの好きな、旧約聖書の中に、ハムの呪いというものがある。
ノアの箱舟の記述にある。
箱舟から出た、ノアの息子たちは、セム、ハム、ヤフェトである。
この三人が、世界の人の大元であると、考える。

ハムには、カナンという息子がいた。

ノアが、葡萄酒を飲んで酔っ払い、天幕の中で、裸で寝ていた。
それを、ハムが、二人の兄弟に告げると、二人の兄弟は、着物を持ち、後ろ向きに歩いて、父の裸を覆う。
二人は、父の裸を見なかった。
それだけである。

酔いから醒めたノアが、言う。
カナンは、呪われよ。
奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ、である。

セムの神、主をたたえよ。カナンはセムの奴隷となれ。神がヤフェトの土地を広げ、セムの天幕に住まわせ、カナンはその奴隷となれ。

実に、意味不明であるが、呪いである。

よって、ハムは、アフリカを中心とする、人類の先祖とされ、アボリジニも、アフリカと、結び付けて考えたという、お粗末さである。
黒い肌の人は、罪を犯した報いとして、奴隷となるように、運命づけられているという、ものである。

ハムは、父の裸を見たから、呪われたのか。そして、その息子のカナンに、呪いがかけられるという、不思議である。
カナンを末の息子と、呼んでいる。孫であるが、そう呼ぶのである。

兎も角、19世紀の、宣教師たちは、アボリジニを、キリスト教徒にすること、文明化すること、と、目的を定めた。

アボリジニの文化、言語、儀式等などは、すべて、否定されたのである。

大陸の南半分は、1850年代にヨーロッパ人に、占領されていた。
それから、開拓者たちは、いよいよ、北へと、押し寄せることになる。
それは、アボリジニから、土地を奪い、アボリジニを殺すことだった。

白人の、持ち込んだものは、伝染病と、アルコール、そして、アボリジニ女性に対する、強姦である。
アボリジニの、人口激減の有様である。

1900年代に入ると、アボリジニは、壊滅する、人種と見なされる。

フロッドシャム司祭の言葉。
アボリジニは消えつつある。伝道の仕事は、死に行く人種の枕元で、困難を取り除いてやることだけだ。

ここには、アボリジニは、死ぬ運命であるから、キリスト教徒に改宗させることで、せめて、死後、天国に行くことができるようにと言うのである。

旧約聖書の神が、最も嫌う傲慢さと、偽科学の、考え方である、自民族中心主義、エスノセントリズムというものが、ある。

更に、その傲慢極まりない行為に、拍車をかけたのが、アボリジニ親子の分離政策である。

その前に、再度、アボリジニの、精神文化を言う。

その、世界観は、実に知的レベルの高いものである。
包括的で、全体的であり、関連的である。それは、人間と、他の生命や、自然は、分離しないというもの。
多種多様な、生き物は、すべての自然の有様と、共にある。
人間の有様は、その行為自体に、時間と空間を超えた精神的、宇宙的秩序の表現であるとされる。
それらを、儀式や、歌、儀礼、ドリーミングという方法によって、親から子へと、伝えられる。また、それぞれの、グループ内で、伝えられる。

排他的、キリスト教の考え方とは、雲泥の差がある。
キリスト教では、平和を求められないが、アボリジニの考え方では、平和を、求められるのである。

キリスト教徒が、祈る平和は、自民族の平和であり、異民族、異教徒の平和は、無い。
根本から、違うことが、解る。
しかし、今に至っても、キリスト教徒の頭の程度は、進化しないのである。
これ程、愚かで、野蛮な人種も無いものである。

彼らは、早々に、彼らの妄想する、天国に行くべきであると、私は考える。
または、地球の外で、布教活動をして、堂々と、その、偏狭極まりない、教えというものを、広めるとよい。

私の、慈悲の思想から言えば、
糞して、死ね、というところである。

      
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   <title>アボリジニへの旅10</title>
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   <published>2008-07-21T09:12:37Z</published>
   <updated>2008-07-21T09:13:28Z</updated>
   
   <summary>白人種を最上層に置き、有色人種を、色の順に並べ、最も色の黒い人種を、最下層におく...</summary>
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      白人種を最上層に置き、有色人種を、色の順に並べ、最も色の黒い人種を、最下層におく。
動物は、貝類を最下層にし、昆虫類、魚類、鳥類、獣類をへて、人間の最低の資質に近いとされる、犬、猿、、そして、野蛮な、ホッテントットなどが、くると考えられた。

この、概念は、ギリシャ、ローマ時代から、中世へと、続く。
すべての、生命体は、階層化されていて、その階層には、順列があり、互いに連鎖して、存在すると考える、偉大なる存在の鎖、といわれる、考え方である。

それが、17世紀以降になり、異なる人種を、階層化し、順列をつけるものと、発展した。

更に、私は、それに、キリスト教を、加えるものである。
キリスト教を信じる者が、最上層であるという、傲慢である。

アボリジニを、人間の中での、最下層であり、動物より、わずかに、上の存在として、認識したという。
人類の歴史の中では、もっとも、劣等で、知性は、猿と人の間であると。
物質的文化面でも、文明の度合いからも、ゼロに等しい存在であると、なるのである。

さらに悪いことに、ダーウィンの進化論、種の起源、人間の進化と性淘汰、という、考え方が、拍車をかけたのである。それを、悪用したということである。

この、概念が、当時の人種の概念に、上乗せされて、19世紀の、植民地政策を、推し進めたのである。

更に悪いことが、起こる。
イギリスの、社会学者である、ハーバート・スペンサーは、社会進化論を持ち出して、人種差別を容認する、意見を発表する。
そこでは、競争社会において、生活に失敗した者は、滅びの道を歩むことになるというものである。

私に言わせれば、何のことは無い、弱肉強食の、動物の世界のことであるが、学者となると、社会進化論ということになる。
アホか。

人類の進歩のためには、弱者は、強者に、道を譲るべきだとする、理論が、奴隷制、帝国主義を、推し進めたのである。

社会進化論は、勿論のこと、白人優越主義を、掲げるのである。

西洋文化は、進歩の自然法則に、従い、西洋文化は、世界を支配するように、定められていると、考えるのである。つまり、他の文化は、劣るものであり、滅びるものであるというのである。

ここで、文化人類学者も、よく書かないが、それは、キリスト教文化であるとも、いえる。

ちなみに、西洋文化が、いかに、遅れていたかは、歴史を見れば、一目瞭然である。

西洋が、言うところの、文明国とは、18世紀以降のことである。
それ以前は、世界で、もっとも貧しく、汚い国々であり、知的能力も、劣っていたのである。

文明という言葉は、都市化という意味の言葉の、訳である。
それならば、西洋は、最も遅れていたのである。
だが、都市化というのは、定義が定まらず、それは、つまり、文明というものも、何を持ってなのか、定まっていないということである。

オリエント文明とは、メソポタミア、エジプト文明を指すが、前3500年ほど前に、世界最初の文明と、西洋史は、記すが、誤りである。
それ以前に、アジア、アフリカ、南北アメリカには、文明が、存在していたのである。

ヨーロッパは、アラビアからの学問と、ギリシャ、ローマからの、考え方をもって、ルネサンスを起こした。そして、略奪によって、東洋と、同等に、相成ったのである。
ちなみに、ギリシャ哲学も、アラビアからの、逆輸入であるから、驚くのである。
すでに、アラビアでは、ギリシャ哲学が、翻訳されていたのである。

インダス文明が持つ高い文化が、ヨーロッパに現れたのは、18,9世紀なのである。

まだまだ、いいたいことはあるが、この辺で省略する。
ちなみに、イギリスに、小麦パンが、一般的に普及したのは、何と、18世紀に入ってからである。
つまり、中世では、農民は、小麦のパンを食べることが、出来なかったのである。

さて、社会進化論を、信じた、ヨーロッパ人は、植民地において、先住民に対して、好き放題である。
搾取は、勿論、残虐行為も、なんのその。
19世紀は、世界が、西洋によって、植民地化されてゆくなかで、西洋人以外は、人間性を、奪われるという事態に発展するのである。

アボリジニだけの、問題ではなくなってきたが、オーストラリアでの、アボリジニと白人の関係は、極めて悲劇的なものになったのである。

人種問題の根源は、社会進化論と、キリスト教の影響を、見逃すことは出来ない。

もしもヨーロッパ人がこの大陸に足を踏み入れなかったら、アボリジニは文明に達する道を閉ざされていたであろう。我々は彼らが消え去るのを嘆く必要はない。我々のできる最善のことは、せめて滅びる前の最後の日々を、なるべくみじめでない状況で見送ることである。

これ、学術書に書かれる言葉である。

アボリジニの滅亡は、単に、彼らが持ち込んだ、伝染病と、虐殺である。
劣等人種は、優劣人種に道を譲る。それが、自然の法則である。
それの行為が、何故、許されたのか。
キリスト教の、後ろ盾である。そして、武力と、偽物の科学である。

キリスト教、カトリック、プロテスタント、共に、手のつけられない、独善を持って、アボリジニに対処した。
政治の影に隠れて、今まで為したことの、謝罪など、全く無い。
さらに、今では、アボリジニ側に立つ者であり、彼らを保護していると、思い込む辺りは、救いようがないのである。

順に、彼らの行為を、検証するが、多くの学者は、この問題に触れないのである。
何故か。
チャーチと、チャペルを、敵に回すことが、出来ないからである。
だから、私が言う。

最も、今、ミッションたちの、助けがなければ、アボリジニたちは、困るのである。
そこまで、追い込まれてしまったのである。
だが、私は、真実を書く。
私など、書いたところで、何程のものでなし。
それで、アボリジニの皆さんを、苦境に陥らせることはない。

現在の、オーストラリアの問題は、国家を造るべくの、国家幻想の元であるところの、それは多く、神話による。
神話のある国は、それだけで、国家幻想と成り得るのである。

オーストラリアから、アボリジニを、無くせば、国家の幻想が、無くなる。つまり、神話を、持てないのである。また、新しく、創り出すことは、出来ない。
何故なら、それには、伝承と、伝統が、必要だからである。

私が、追悼慰霊行為を、するのは、天皇陛下のためであると、言ってもよい。
天皇陛下に、お返しする行為と、言っても、問題ないのである。
何となれば、天皇は、日本の神話を、有し、さらに、国家幻想の、理想的な、在り方であるからだ。

今、2668年の伝統の、家系など、作ることなど出来ない。
あの、あのである。共産国の、ソ連が、崩壊し、ロシアと、移行する際に、最も、必要としたものは、神話であり、幻想だった。
それを、一部の知識人たちは、ロシア正教に、求めた。
日本の、国家神道のようなものに、出来ないかと、考えたのである。

ロシアに伝統があるとしたら、ロシア正教くらいだという、驚きである。

オーストラリア政府は、今年の新年に、アボリジニに正式謝罪をしている。
その、同化政策である。更に、親子分離政策にである。
親子分離政策については、後で書く。

オーストラリアは、ゲイパレードで、世界一である。
ゲイだけの村もあるほどだ。
さて、このゲイは、マイノリティーとされて、長い間、辛苦の差別を受けていた。しかし、ここ、ここに至って、政治家を始めとし、あらゆる分野の人々が、ゲイパレードに参加するという、事態である。

アボリジニの差別を、最も理解出来るゲイたちが、更に、気勢を上げると、オーストラリアは、変化せざるを得ない。

アボリジニの神話、つまり、伝承と伝統を、必要不可欠とするのである。
オーストラリアには、アフリカを超える歴史がある可能性もあるという、仮説を立てて、研究も出来る。その際に、アボリジニの、研究が、欠かせないのである。

日本には、古事記、日本書記以前に、国記が、編纂されていたという、事実がある。
聖徳太子が、それに、当たったといわれる。
しかし、それ以前からのものもある。
これが、国家幻想を育てる、神話と、成り得るのである。

私は、日本の古代史を、みるにつけて、一度、ペルシャに渡り、再度、富士山麓に、王朝を拓いた、富士王朝をみている。
その、歴史を加えると、現在の天皇までに、9100年ほどの、歴史がある。

神話を、言い伝えとも言う。
言い伝えを持つ、民族は、生きるに強い。
そして、それぞれの民族にある、神話を、それぞれが、認め、尊重すれば、和を持つことが出来る。

それのない、共産、社会主義の国々は、未だに、迷いにある。
しかし、民が、倒れないのは、それとは別に、伝統としての、行為、それが、宗教行為であっても、あるからである。

王朝が、変わっても、タイには、仏教と、ピー信仰の伝統がある。
タイという国を、作るのは、その、伝承と伝統である。
それは、至るところの、民族にある。国にある。

オーストラリアの、これからを、考えることによって、再度、自国の伝承と伝統というものを、意識してみる。


      
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   <title>神仏は妄想である121</title>
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   <published>2008-07-20T22:14:43Z</published>
   <updated>2008-07-20T22:15:24Z</updated>
   
   <summary>神仏は妄想である、を、書いているが、私は、信仰を否定するものではない。 信仰とは...</summary>
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      神仏は妄想である、を、書いているが、私は、信仰を否定するものではない。
信仰とは、神仏が無くても、あるものである。
更に、信仰とは、極めて個人的情緒にあるもので、他が、侵すことが、出来ないものである。
言えば、それは、一人の人間の尊厳であり、それを、侵すことは、大罪である。

この世に罪というものが、あれば、それは、個人の心を、侵すことである。

一応、浄土門を終わるが、まだまだ、仏教については、書く。その所々に、繰り返すことがあるかもしれない。

罪とは、個人の心を侵すことであり、それは、心を有する、肉体を侵すことである。
肉体を侵すとは、殺すことである。
仏陀の、殺生を戒めたのは、それである。
すなわち、心は、肉体である。肉体を、離れて心は、無い。
心身という言葉は、真実である。

これは、このエッセイに余計なことであるが、法然について、最後に、私が彼を尊敬する、行為を言う。

まず、鎌倉時代の精神の幕開けを、万人平等を掲げ、更に、既成仏教が、言わない、女人往生と言い、女性も、男性と、同じ位置に置いたことである。
これは、画期的なことである。
今で言えば、男女平等を説いたのである。
人間として、同じく尊いものであると。

そして、法然は、一切、政治に関与しなかったということである。

流罪を受けた時、法然は、それを、朝恩であると言う。
勿論、皮肉もあるだろうが、決して、激して、批判することなく、恩として、受けるという。念仏禁止令が、発せられて、四国に、流される。その、四国に、念仏を伝えることが出来るのである。これは、恩である。
勿論、それは、禁止令を犯すことであるが、それは、馬耳東風である。

念仏を広めることは、朝廷への、反逆であるが、法然は、いずれの時、それが、解除されることを知っている。
そして、時代は、その通りになった。

天皇という存在を否定することもなかった。何となれば、天皇も、阿弥陀の救いの一人であり、大切な、救われる一人である。

政治は、関わらぬという、姿勢は、この、法然からの、宗教家の有り様であると、見る。
法然は、宮廷政治の中枢にいた者からの帰依を受けている。政治的に、敵対する者をも、法然は、当然の如くに、受け入れ、念仏を伝えている。

更に、天皇家も、例外ではない。
後白河天皇、高倉天皇、後白河の姉である、上西門院、式内親王を、含めて、多くの皇女や女御たちを、教化してきたのである。

更に、平家一門からも、信任を得て、更には、それを、滅ぼした、源頼朝にも、慕われたのである。
これは、宗教家、心を、扱う者の、面目である。

いつでも、政治に口を差し入れることが、出来た。しかし、そのようなことは、一つも無い。一切、政治とは、関わらぬ姿勢を、貫く。

彼は、人の心を相手にする者であるとの、明確な、自覚があった。

そして、私が、最も評価するのは、寺の一つも、建てなかったことである。

宗教家は、人の心を扱うのであり、その他一切は、持たない。
持つはずが無い。

その一点でさえ、法然の真実が、解る。
私が、法然を、評価するのは、それである。

人は、無いものでも、在ると、信じて生きなければならない時がある。
どんなに、苦しい時でも、生きること。そのために、方便があってよい。もし、それが、念仏であるとしたなら、それを、否定する何物も無い。

生きるために、体を売る人、遊女にも、救われると説く、法然の心情を、私も理解する。
生きるために。
それこそ、宗教家が、負うべき問題であり、それこそ、多くの人に寄り添う、行為であろう。
生きること。

往生を信じて、生きられるのならば、私は、それを、否定しない。それどころか、それで、生きられるならば、大いに、念仏するべきである。

生まれたからには、生きねばならない。
どんな、方便を使っても、生きることである。
それが、生まれた者の、真実である。

この世に、真理というものがあるならば、生まれた者は、生きることなのである。

予が遺跡は諸州に遍満すべし。故は如何となれば、念仏の興行は愚老の勧化なり。されば念仏を修せんところは、貴賎を論ぜず、海人魚人が苫屋までも、みなこれ予が遺跡なるべし。
弟子の、法蓮房が、老いた法然を見舞いに、訪れた時に、古来の先徳、つまり、坊さんは、皆、その遺跡、多くは、寺などがあるが、何も無いのである。どこを、遺跡にしたらよいのですかとの、尋ねに、こうして、答えるのである。

念仏というものを、通して、法然は、生きるということを、生きたという点で、私は、評価する。
そして、その、自らの、テリトリーの、明確さである。

心を扱う者、それ以上の僭越行為を成さない。

一人の人間の心を扱うのである。
それ以外の、何に、関与するというのか。

その当時も、天台座主の、慈円は、念仏宗の多くの数に、それを、自分の配下につけるべくの、行動を取る。
法然の、考え方を、徹底批判したのであるが、あまりにも、多くの人が集うのである。それを、天台の支配下に置くべくの行動を取る。

権力志向である。

日蓮になると、国の政治に、口を挟むという、誇大妄想である。

私は、法然を、宗教家の、見本としてもいいと、考えるのである。
それを、引き受けた、親鸞も、寺を持たない。
一遍に至っては、結果、残すものは、南無阿弥陀仏である。
見事な、生き様である。

一切、この世の物という、物を持たない。
故に、後世に残るべき、生き方である。

万人平等、政治に関与せず、建物を、残さない。

これは、宗教の、基本的姿勢である。
彼らの、残すべきものは、その、心である。
法然は、自らの、書き物も、残さない。
法然に関する書き物は、その周辺の者の、手による。

悟るということより、塵一つ残さない行為行動こそ、真っ当な感覚である。

私は、神仏は妄想である、を、書いているので、これ以上の、彼らの生き方には、触れない。

何が、評価できるのか、そして、何を批判するのか。
私の問題は、それである。

信仰とは、極めて、個人的な情緒であると言った。
それは、侵してならない、領域である。

子供が、宇宙を見て、円盤を信じているならば、それを、どうして、否定することか。
それを、信じて、彼が、その謎を解くべく、学びを始めるのであれば、誰が、それを、止められよう。
止めることは、罪である。

罪というものが、あるならば、そういう行為である。
それ以外に、罪と、呼ぶものは無い。

      
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   <title>神仏は妄想である120</title>
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   <published>2008-07-20T12:30:18Z</published>
   <updated>2008-07-20T12:30:50Z</updated>
   
   <summary>浄土門について、書いているが、矢張り、大乗仏教の、大元である、八宗の祖である、龍...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://countertenor-nobuo.com/tenzan-blog/">
      浄土門について、書いているが、矢張り、大乗仏教の、大元である、八宗の祖である、龍樹の論について、書くことになった。
以後、龍樹については、多々書くことになる。

龍樹が創作した、大乗菩薩道というもの、仏に至る道を、五十二にまで、分けている。
十信、十住、十行、十回向、十地、等覚、妙覚である。
十地の一番最初を、初地という。四十一番目である。

これを、真っ当に聞いていたら、頭が、おかしくなる。
一体、仏陀の教えたものは、何で、あったのか。

十地の、最初の初地の位を得ても、すぐに脱落するほど、難しいという。つまり、難行ではないか。修行という言葉が、ここで出てくる。
修行である。
宗教家が好きな言葉である。

一般に、物事を習う時期を、修行する、という言い方をするのは、理解できるが、この、仏教の修行については、理解しにくいのである。つまり、その、判定を、誰がするのかということだ。

龍樹は、あろうことか、仏に至る道は、すべて、難行であるというのである。
そして、もう一つの道、易行道というものがあると、言う。
これが、念仏である。

信方便の易行、つまり、信心を手立てに、易行である。
これが、曲者である。
万人にとっての、菩薩への道は、これしかないというのである。
それが、阿弥陀仏の、念仏の教えだということになる。
それを、親鸞などが、教行信証などで書く。

南無阿弥陀仏で、仏になっていく道で、それを、無所得空という。
それを、仏陀の中道の道だともいう。

こうして、仏陀の実践が、堕落して行くのである。

これを、親鸞は、更に深めて言うと、ある。
親鸞は、龍樹の無所得空を、すべて阿弥陀の願力をそのまま受け止めた姿であると、解釈する。

無所得空とは、何も無いということではなく、妄念が無いということ。
妄念とは、煩悩具足の人間の、物思いである。
更に、親鸞は、自然法爾という言葉を使う。

妄念、我執の人間が、悟れる道は、阿弥陀の願力に、任せるしかない。だから、阿弥陀仏の仏智を、頂いて、念仏を唱えること、いや、それを聞くことによってと、更に深まる様子である。

念仏を唱えるのではない。念仏を聞くのである。
何やら、深まるように、聞こえるが、詭弁としか、言いようが無い。

賜りたる信仰という、境地に行った親鸞であるが、賜りたると言う程のものか。
阿弥陀仏というものは、架空の存在である。
しかし、更に、それをも、方便というであろう。

つまり、それが、迷いの実体である。

つまり、阿弥陀でなくても、何でもいいのである。
兎に角、心を悩ませ、どこか、深みに嵌まり込んでみたいのである。
悩みに悩むことを、好む。更に、自虐を好むのである。

そして、道徳である。
そのように、念仏することも、賜ったのであるから、それに、報恩感謝の心を持って生きることだとの、結論に至る。
仏に、感謝する、生き方である。

あのー
自然と、共生し、共感していた、日本人である。
今更、架空の存在に、帰依して、更に、それから、賜って、信仰させてもらって、念仏を唱えのではなく、聞くのであると、複雑にしなくても、いいであろうと思うが、彼は、そのようにしか、生きられなかった。

仏教という、いや、大乗教という、言葉の世界に、ことごとく、やられてしまった。
更に、浄土門の中でも、信に重きを置く者、行に重きを置く者と、区分けされる。
それが、派閥になり、流派になっている。
勿論、同じようなものであるが、本人たちは、真剣である。
目糞が、鼻糞を、何とかである。

親鸞の、教行信証は、教、行、信を、証するために、書かれた。
つまり、信を重く見たのである。

だが信ずるとは何を信ずるのであるのか。何かを信ずるとする限り、信じられるものと、信ずる己とが向かい合う。畢竟信ずる誰かがある限りは、人がまだ残るではないか。
柳宗悦

と、ここまで、深く考えることになる。

要するに、我と汝という、相対があるというのである。
結論は、相対の無い世界へ、至る道なのである。

不信の者をこそ最も深く相手としているのではないのであろうか。信じる力の如き、上根の者たることを語りはしまいか。もし信を得られずば往生出来ないというなら、幾ばくの人がその幸を受くるであろう。人間の信に頼るのは、まだ自力を認めてのことではないのか。信も一つの力だといえよう。その力に頼らずば往生がかなわぬなら、不信の者は、決して浄土に往けぬであろう。
柳宗悦

そして、行き着く結果は、元の木阿弥である。

我々が往生出来るのでもなく、また我々が他人を往生せしめるのでもない。衆生の往生は既に十劫の昔、阿弥陀仏が正覚を取られたその刹那に決定されているのである。信と不信と、浄と不浄とそんな差別に、往生が左右されるものではない。人間が往生するのであったら、信も必要となろう。浄もなくてはなるまい。だが、往生は南無阿弥陀仏の当体にあるのであって、人間の力に頼るのではない。その故に人間の善悪の如き、浄濁の如き、智鈍の如き、信疑の如き、何の差別が、弥陀の本願を妨げるであろう。
柳宗悦

往生するのは、南無阿弥陀仏の名号それ自らである。

それゆえに、法然は、口に念仏、親鸞は、ただ信に、一遍は、人の如何に左右されないと、言う。

菅原道真
心だに　誠の道に　かないなば　祈らずとても　神や護らん

どうであろか。和歌一首で、彼らの、苦悩を、乗り越えている。

浄土門の行き着いた先は、南無阿弥陀仏が、南無阿弥陀仏を、南無阿弥陀仏するということである。

いい加減して、くれや。

何も口に唱えるものを、持たないという、境地に行き着かなかったのか。

人間、そのまま、生きていればいい。
糞して、寝ていればいい。
どうして、そこまで、行き着かないのか。

阿弥陀仏の存在を知らない者でも、すでに、救われていると、どうして、そこまでに、至らなかったのか。

私は言う。
この世に、生を受けて、更に、生きることが、できるということ、それだけで、十分である。それ以上のこと、僭越行為である。

お天道様は、必ず、東から昇り、西に沈む。
それで、いいではないか。

太陽を拝していれば、すべて、事足りる。

追伸
浄土門については、死ぬまでの暇つぶしの無い人には、学ぶに足る。

      
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   <title>アボリジニへの旅9</title>
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   <published>2008-07-20T01:04:02Z</published>
   <updated>2008-07-20T01:05:02Z</updated>
   
   <summary>16世紀半ばである。 ヨーロッパの様々な、航海者、冒険家たちが、国や王の命を受け...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://countertenor-nobuo.com/tenzan-blog/">
      16世紀半ばである。
ヨーロッパの様々な、航海者、冒険家たちが、国や王の命を受けて、オーストラリアにやってきた。

当時は、テラ・オーストラリアスと呼ばれて、知られざる大陸、巨大な富みに埋もれる大陸という、幻想を抱いていたようである。
1515年から1607年にかけては、ポルトガルと、スペインが、黄金の島と、幻の国を求めて、ジャワの南と、東を航海している。

ポルトガルは、１５２１年から、翌年にかけて、大陸の東海岸に来たが、何も見つけることがなく、引き上げる。
また、１５６７年に、スペイン人のアルバロ・デ・メンダーニャ、１６０５年には、ペドロ・フェルナンデス・デ・キロスが、黄金伝説の夢と、更に、カトリックの伝道活動に加え、スペイン領にするために、ペルーから、航海に出たが、どちらも、オーストラリアには、辿り着いていない。

１６０６年以降、オランダ船が、北部と、西部の海岸を航海し、この地を、ニュー・ホランドと、名づけた。
彼らが、見つけたのは、砂と、ハエ、そして、裸の野蛮人と、奇妙な動物だった。

その後も、何度か、大陸を見つけ出したが、利益になりそうなものを、見出せず、そのまま、置き去りにされる。

価値の無い大陸と、見られた大陸に、目をつけたのが、イギリス人だった。
イギリスが、欲しかったものは、移住者を送ることが出来る、新しい支配地だった。

面白い記述がある。
海賊だった、ウイリアム・ダンピアーという男が、書いた、日記である。
それは、後々、オーストラリアと、原住民に対する、偏見の元となるものだった。

この土地の住民は、世界で一番みじめな人々である。
背が高く、肢体が真っ直ぐ伸び、手足は痩せて、小さく長い。大きな頭、丸い額、隆起した眼を持つ。
顔は長く、不愉快な表情で、決して上品ではない。髪は、ニグロのように黒くカールしている。
肌の色は、ニューギニアの住民同様、石炭のように黒い。
衣服は、身につけていない。腰の辺りにガードルのような木の皮をつけたり、長めの草、三、四本の大枝を、ガードルの中に突っ込んで、裸体を隠している。

特に、彼は、二度に渡って、先住民に関して、生まれつきの醜さとか、今まで出会った多種多様な野蛮人の中で、最も不愉快な外見と最悪の顔の造作をもった人々であると、書く。

これが、アボリジニに対する最初の、そして、以後続く、偏見のはしりとなる。

この当時の、ヨーロッパの考え方が、如実に理解出来る、記述である。
つまり、文明、というもの。
文明人とは、産業世界に生きる人なのである。
そして、最悪なのは、キリスト教徒であること、なのである。

裸でいることは、ヨーロッパの人にとっては、貧しさの何物でもなかった。

彼らには、多く、アボリジニの真実が見えない、見ない思想を持っていたと、言える。
アボリジニたちの、食生活の豊かさなど、思いつきもしないのである。

今でも、そうであるが、欧米、特に、キリスト教徒たちは、自分たちが、理解できないものは、悪であると、考える。更に、推し進めて、悪魔からのものであると、考えるのである。
勿論、悪魔は、彼らの神なのであるが。

時代性というものがある。
野蛮という定義も、変化する。
いつしか、野蛮というものも、文明の悪に侵されていない状態であると、考えられるようになると、高貴な野蛮人という、へんてこな、言葉が生み出される。

１７６９年から１７７０年にかけて、ジェームズ・クック大佐の、遠征隊が、海岸部に接触し、正確な地図を作ることになる。

１７７０年の四月、タヒチから、南に向かったクックは、西に進み、ニュージーランドに着いた。そして、オーストラリアの東海岸に、向かう。
結果、東海岸部を、英国王室のものであるとする、領有宣言をする。

クックの記述を見る。
ニュー・ホランドの先住民は、地上で一番みじめな人々である。
しかし、現実には、我々ヨーロッパ人より、はるかに幸福である。必要以上の情報を得るわけではなく、ヨーロッパで追求されすぎる便利さというものに、惑わされることもない。
彼らは、静寂の中に暮らしている。
地上と海との調和のなかに生きているのだ。
生きるためにすべのものをもっている。むやみに望んだりはしない。
暖かく素晴らしい気候のなかに住んでいるし、空気というものを満喫しているので、衣服の必要性などほとんどない。彼らはこのことをよく知っている。
たとえ衣服を与えたとしても、ただ無造作に砂浜や森の中に、置いておくであろう。
端的にいえば、我々が与えるものなどに、何の価値も見出さないであろう。
自分たちに必要なものは、すべて与えられてあると感じているからだ。
生活は漁業と、狩猟に頼っている。耕作地というものが、ほとんどない。

18世紀の、ヨーロッパの思想は、自然に生きるということは、ロマンティズムとなった。
それが、高貴な野蛮人という、思想である。

しかし、ヨーロッパ文明の傲慢は、その土地を、無主の土地として、イギリス領有宣言し、ジョージ三世国王に、捧げるという、矛盾したものである。

ドリーミング
独自の世界観の中で生きてきた、アボリジニの伝承を、ドリーミングという。それは、文字で、表されるのではなく、絵や、儀式にて、表される。

その中で、白人が来たことを、暗示させるものが、残されている。
私は、学者ではないから、省略する。

結論を言う。

アボリジニの世界観、自然観は、こうである。
目の前にあるものは、すべて、先祖の夢である。

すべては、調和する。

従って、白人に対する態度も、最初は、受け流す、そして、一度拒否する。そして、最後は、受容しようとする。
すべてのものは、調和して、全体の中で生きている、それが、アボリジニの世界観であり、自然観である。それは、また、人生観でもある。

と、このうよに、書くこと自体にも、無理がある。
それは、言葉にできないほどの、強烈なものであると、思うからだ。

私は、日本人として、それを、理解する時、言挙げせず、という、古神道の、考え方に、非常に近いものだと、思う。

白人が来たことを、受け入れるならば、それも、先祖の夢であるから、先祖が、戻ってきたと、考える場合もあるということだ。

だが、白人が来たことは、アボリジニの悲劇の記憶になってゆくのである。

クックの領有宣言の後、イギリスは、使い道のないまま、大陸を放置していたが、フランスの学術隊が、オーストラリア航海をするという報を受けて、俄かに、活気づくのである。

１７８６年二月、東海岸と、隣接した島々の植民地宣言をするのである。
現在の、ニュー・サウス・ウェールズ州である。
八月には、流刑植民地をつくることを、発表する。

１７８７年、五月、初代植民地総督、アーサー・フィリップのもと、囚人約780人を含む、1200人を乗せた11隻の第一次流刑船団が、ポーツマス港を、出航した。

１７８８年、一月二十日、ボタニー湾に到着し、その後、船団は、二十六日、シドニー・コープに、上陸した。

産業革命による、急激な社会の変化に、伴い、犯罪者の増加である。その処置に困り果てた、イギリス政府は、大陸を、最大なる監獄にしようとした。
当初は、犯罪者を、アメリカに、売りさばいていたというから、驚く。ただし、独立戦争後は、不可能となった。
いや、驚くにあたらない。アフリカの黒人を、奴隷として、売りさばいていたのであるから、何とでも、する。

囚人の種類は、二級市民であり、教育を受けていない者が多く、アボリジニの複雑な文化などを、理解出来るような人々ではなかった。
これが、より一層の、悲劇を生むのである。

      
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   <title>アボリジニへの旅8</title>
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   <published>2008-07-19T13:50:12Z</published>
   <updated>2008-07-19T13:51:01Z</updated>
   
   <summary>トンガ出身の運転手さんは、トラさんと言った。 すぐに、覚えた。トラさんである。寅...</summary>
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      トンガ出身の運転手さんは、トラさんと言った。
すぐに、覚えた。トラさんである。寅さん、であると、私は、勝手に覚えた。

トラさんとは、連絡先を、交換して、次に来る時には、あらかじめ連絡して、ダリンブイに滞在すべく、手配してもらうことになった。

私たちは、街の図書館まで、送ってもらい、別れた。
図書館には、インターネットの設備があるからだ。
無料サービスである。
ところが、日本語での書き込みが、出来ない。
折角だが、ただ、見るだけである。

私たちは、図書館から、歩いてモーテルに向かった。
買い物をしていたので、それを、持ってである。
とぼとぼと、歩いた。

そして、広い芝生の前に来た時、二人の女性を見た。
ヨーと、声を掛ける。
ヨォルングの人である。

それが、また、話し掛けてくる。
何と、ジャルーの娘さんと、孫娘である。

私たちに、ジャルーは、午後から、家にいるよ、というのである。
何も、彼女たちは、知らないはずである。
これは、何としても、ジャルーの家に行けということである。

すでに、昼を過ぎているのである。
もう、ジャルーは、家にいるであろうと、推測した。

私たちは、モーテルに戻り、簡単に食事をして、出掛けることにした。

そこは、イースト・ウディ・ビーチという海岸であるから、私は、そこで、追悼慰霊の儀を行うと決めた。
野中が、何か、お土産を持って行きたいと言うので、それなら、お供え物として、持って行き、それを、最後にプレゼントするといい、ということになった。

早速、裏のスーパーに向かった。
牛肉や、飲み物、紅茶などを、買った。すべて、野中が、選んだ。
それを持って、モーテルに戻り、タクシーを呼ぶ。
来たタクシー運転手は、あのイラン人である。

今度は、どこ、である。
ジャルーの家だと言うと、すぐに、発進した。
有名人であるから、知っているのだ。

15分程で、到着した。
砂浜である。
何件かの家が、建つ。更に、テントも、二つある。
そこには、ジャルーの家族が住んでいた。

私たちは、最初の家に入った。
あっちと、その先を指差す。
何も説明していないが、ジャルーに逢いに来たと、思っている。

後の家が、ジャルーの家だった。
そこに、入った。
ジャルーの娘の一人が、絵を描いている最中だった。
挨拶して、自己紹介した。

その絵は、聖地をイメージしたもので、真ん中に、蛇、そして、周囲に睡蓮の花である。
蛇と、睡蓮の花の組み合わせは、ヨォルングの伝承である。
実に、意味深いものである。

あの、聖地の下には、先祖霊が、蛇の姿で眠っているというものだった。
そして、睡蓮の花の咲く時期は、とくに大切な時期なのである。
先祖の夢が、目の前のすべてのものだという、考え方をする、彼らの、最大のドグマを、象徴した絵である。

彼女の口から、意外な言葉を、聞いた。
本当は、ジャルーは、いるはずだったが、突然、ジャルーの妹が亡くなり、儀式のために、出掛けたというのである。

ここまでの経緯を、考えると、当然、ジャルーに逢うものとばかり、思っていた。それが、違った。

しかし、落胆した表情は、見せなかった。
私は、本来の目的を、野中に、通訳させた。

日本から、先の大戦で、被害を受け、犠牲になった、アボリジニの人々の霊を、慰めるために、ここに来たと説明した。

彼女は、何の違和感もなく、それを、受け入れた。
彼女の、夫や、子供たちも、集ってきた。

説明して、すぐに、私たちは、海岸に出た。
砂浜が続く。その先が、海である。

少しばかり高い場所を選び、供え物を置いて、慰霊の準備をした。
いつもは、供え物は、置かない。

神道の祭壇には、多くの供え物が、並ぶ。すべて、決まっている。
神様に、捧げる、地の恵みである。そして、お神酒である。
しかし、私は、一切、置かない。
あちらが欲するものは、ただ、真心だけであるからだ。

ちなみに、土地の霊位などには、供え物を上げる。産土の神々である。

今回は、お土産として、持ってきた物を、供えた。
それは、また、差し上げる、相手にも受け取りやすいと、思った。

一本の枝を折り、御幣として、捧げた。
そして、神呼びをする。
即座に、祝詞が口を付いて出た。
ここでは、祝詞が、唱えられた。

更に、清め祓いの時に、兎に角、飛び跳ねたい気持ちになった。
それを、抑えて、四方を清めた、そして、追悼慰霊の心を持って、神遊びの、音霊をしばらく発した。
素晴らしく、心が、解放される。

そう、私は、このために来たのである。このためだけに、来たのである。

すべてを終わり、後片付けをして、供え物を、再び袋に入れて、ジャルーの家に戻った。
私たちの行為を、見ていた子供が、すぐに、真似て、拍手を打つ。
小さな子は、全裸である。

供え物を、娘さんの前に置き、報告した。
彼女は、じっと、私を見つめた。
理解している。

儀式を、最も大切にしている、アボリジニである。
説明はいらない。

彼女は、何度も、私たちに礼を述べた。
供え物も、喜んだ。

しかし、皆、一応に、ジャルーが家にいると、私たちに教えたのである。
何故か。
そして、そのジャルーは、妹さんが亡くなり、儀式のために、出掛けた。

皆と、写真を撮った。
子供たちが、楽しそうに、私たちの周りに集う。
写真を撮ると、私の膝に、乗った子もいた。

そして、もう一軒の、娘さんの家に行った。
野中が、娘さんに、話しかけている。
子供たちも、出て来て、私たちに、挨拶する。

ジャルーの孫娘たちは、皆、可愛い。年頃の子は、美人である。
おかあさんが、私に、スピリットは、どうなったのかと、訊く。
野中が、通訳してくれた。

私は、天にあると、答えると、深く頷き、納得した。

実は、この行為も、皆、何の抵抗もなく、受け入れているのである。
その時、車が到着した。
ジャルーの奥さんが、帰って来た。
野中は、奥さんに初めて逢うので、感激していた。
白人男性も、降りて来た。
そして、私たちに、日本語で、挨拶した。
妻と娘が、日本語教師をしているという、日本通の白人だった。

私たちが、奥さんに、事の顛末を説明すると、その男性は、シントーと、言った。
イエス、オールド神道である、と、私は答えた。

奥さんは、大変喜んでくれた。
丁度、イダキの材料となる、ユーカリの木を切り倒してきたと言う。
先ほどの家にも、造りたての、イダキが、何本も置かれていた。
奥さんは、野中に、あなたが欲しいなら、分けて上げると言う。それが、野中の、悩みになるのであるが、後で書く。

男と、女の儀式は、区別されていると、書いた。
夫の、妹が亡くなっても、彼女は、ここにいる。その儀式は、別グループのものである。

また、車が来た。
今度は、ジャルーの後継者である、息子さんだ。
野中も、初めて逢う。
皆が、集い、大変な賑わいになった。

彼は、ジャルーから、すべてを、伝承されている。
つまり、次の長老である。

私は、素晴らしい出会いをした。

ここで、余計なことを書く。
奥さんと一緒に、同行していたのは、キリスト教の、ミッション系ボランティアである。アボリジニたちを、助ける組織を作っている。
そこまでは、よい。
私が、奥さんの、膝を心配して、手を当てて、祈りますと言うと、横から、ここの人々は、キリスト教徒ですと言う。
カトリックかと、訊くと、違うという。
プロテスタントの一派である。
実は、カトリックと、プロテスタントの、ボランティア縄張りの、暗黙の、確執がある。

それぞれが、アボリジニを、信者に、取り込むために、様々な、ボランティア活動を行うのである。

彼は、私を牽制したのである。
他の宗教に、対する態度は、一神教は、特に激しい。

彼らは、それが、偽善であるとは、気付いていない。
非常に、有意義なことをしていると、信じている。
アボリジニの伝承と、伝統を破戒したのも、彼らである。そして、アボリジニの精神を、破壊する行為を続けて、今は、それらを、助けていると、信じているのである。

その、矛盾にすら、気付いていないのである。
重病である。

彼らは、自分たちが、理解出来ないものは、悪であり、悪魔からのものであると、考える。
勿論、悪魔的なのは、彼らである。

自分たちの価値観以外のものを、受容出来ないのである。

彼は、私たちに、非常に好意的だったが、それと、これとは、別物である。

私は、野中から、ジャルーは、カトリックのアボリジニの、まとめ役をしていると、聞いていた。
キリスト教と、上手に付き合っていかなければ、アボリジニの生活が、成り立たないのである。そこまで、追い詰めたのも、キリスト教徒である。

アボリジニたちは、表向きは、キリスト教徒となり、伝承と伝統は、守りつつある。苦肉の策である。
それは、見ていて、痛々しい。

タクシーを呼んでもらい、モーテルに戻ることにした。
その間に、息子さんや、奥さんと、写真を撮った。
息子さんは、少しアホのように、見せる演技をしている。多くの摩擦を、避けたいのであろう。それも、心が痛んだ。
ジャルーの後継者であるということでの、ストレスは、大きいはずだ。
ジャルー亡き後、彼は、すべての重責を負うのである。

様々な、思惑を持った者、大勢いる。
アホを演じていなければ、ならないほど、辛いことはない。
私たちにも、今、サッカーの練習をして来たという。

私の肩を抱き、写真に収まった。

タクシーに乗り、私は、野中に言った。
慰霊の時、どうしても、飛び跳ねたくなった、と。
それは、彼らは儀式の時に、飛び跳ねるからだよ、と言う。
あっ、そう。

      
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   <title>アボリジニへの旅7</title>
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   <published>2008-07-19T04:09:49Z</published>
   <updated>2008-07-19T04:10:52Z</updated>
   
   <summary>イルカラに出掛けて、疲れた。 帰りも、同じイラン人の運転手だが、もう、言葉は交わ...</summary>
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      イルカラに出掛けて、疲れた。
帰りも、同じイラン人の運転手だが、もう、言葉は交わさなかった。

単なる、疲れではない。
私は、部屋に入り、もう、どこにも出て行きたくないのである。
野中が、お湯を沸かして、紅茶を煎れた。

書くのを、忘れたが、アートセンターでの、最後は、楽しかった。
野中が、一本の、イダキを買うため、色々と、探っていたのだが、その、イダキを吹く音がするので、館内に入り、更に、職員専用の、広場に出た。

おばさん二人が、イダキの、絵模様を描いている。
そして、子供たちが、野中と、一緒に、イダキを吹いているのである。

館内には、イダキを売る専用の部屋があるが、子供たちのために、子供に合わせた、イダキを陳列している場所もある。
子供たちは、好きに、吹いていいのだ。

7歳から、10歳前後の子供たちが、イダキを吹く。
上手だ。
野中の音とは、また、違う。
更に驚いたのは、子供たちが、イダキの伝統曲を、暗譜していることである。

私は、感激して、聴いていた。すると、子供たちは、いよいよ、盛んに吹くのである。
女の子もいたが、それは、男の子のものであるから、聴くのみである。しかし、女の子たちは、男の子たちを、見守りつつ聴くのである。

男の世界と、女の世界が、明確に分かれている。
それが、また、イギリス人を誤解させたのであるが。

野中が、女の子に、訊いた。
吹かないの。知っているけれど、私たちは、吹かないの。
知っているが、私たちは、吹かないという。それは、男のものである。

儀式も、男と、女の儀式は、違う。

また、もう一つ、明確に、区分けされているものがある。
陰陽という、考え方が、東洋思想にはあるが、アボリジニには、イリチャと、ドゥワァという、区分けがある。
それは、子供の頃から、教えられる。
非常に難しいことなので、後で書く。

私は、一生懸命に、イダキを吹く子供たちに、何かをプレゼントしたかった。
そこで、思い出したのが、野中が、皆、ペロペロキャンディが好きだということだった。

私は、センターの前にある、スーパーに、走った。
そして、キャンディーを、買った。
一袋に、四個セットの、キャンディーが入っているものを、三個買った。全部で、12個である。
それを、ばらして、子供たちに、配った。
わーーーと言って、子供たちが、集った。

子供服の時とは、大違いである。
もう一つ、もう一つと言う子もいる。

その時、丁度、タクシーが来たので、早々に退散した。

私は、部屋の前のコーナーに、座り、タバコをふかした。
野中も、出て来た。
野中には、ペットボトルの水を買って来て貰うことにした。

私は、浴衣を脱ぎ、シャワーを浴びて、タイパンツに、着替えた。
そして、ベッドに横になった。

時々、ギャギャーと鳴く、オウム、ホワイトカカトゥという鳥の鳴き声が聞こえる。
この鳥は、白くて美しいが、鳴き声が、喧しい。
頭についている、冠が、特徴的だ。

そういえば、この、ホワイトカカトゥが、聖地に行く私たちに、一羽、案内するように、着いて来ていた。あたかも、案内する如くである。

その夜も、早々にベッドに就き、寝た。

最後の日である。
ダリンブイに行くことを、止めたので、追悼慰霊の儀を、どうするかと、考えた。

朝、モーテルに備え付けの、インスタントコーヒーを、飲んで、考えた。
兎に角、一度、街に出て、少し買い物をしようと思った。

この日に、起こることは、想像もしていない。
何が起こるかは、その時に解る。

ぶらぶらと、歩いて、道沿いにある、カトリック教会に、入った。
扉が開いている。
つまり、安全な街なのである。

プロテスタントの、チャペルにはない、聖母の像がある。
聖水もある。
祭壇の前で、写真を撮る。
父と子と精霊の御名によりてアーメンと、唱える。

私の少年時代は、カトリック教会の思い出ばかりである。
思い出は、人生である。

今、跪くことはしないが、思い出は、大切である。
未だに、最初に手にした聖書と、祈祷書を、持っているのである。
ボロボロである。

今回は、実は、ロザリオを持って来ていた。
何かのためにである。
ロザリオの祈りは、聖母を通して祈るものである。
アベマリアへの、祈りである。聖母を通して、イエスに行くものである。
プロテスタントとの、論争が、最も、大きい問題である。
聖母像は、偶像である。

人は、何故、祈るのか。
そして、祈りとは、何か。
古神道では、明確である。
いのり
い宣り、である。言葉は、すなわち、言霊であり、それは、音霊が、動くものである。
イ音は、受け入れる意味である。
のオ、とは、オの、送る音である。そして、更に、りイと、受け入れる。

言葉自体が、動くのである。
故に、言葉は、カミであるとする。
カミとは、霊である。つまり、言葉は、霊なのである。
霊は、目に見えないものである。音も、目に見えないが、耳に聞こえるものである。
耳に聞こえないものも、ある。
最後は、だから、黙祷という姿勢になる。
慰霊の儀を、執り行って、解ることは、黙祷の意義である。
最高の祈りは、黙祷である。

教会を出て、別の道から、繁華街に向かった。
すると、二人のヨォルングが、道端に座っている。

私は、ヨーと、声を掛けた。
おじいさんである。
二人は、手を上げた。

そして、一人の老いた、おじいさんが、私に話し掛けた。
それが、何と、長老と言われ、世界的な、イダキの名手である、ジャルーの、兄弟だったのだ。

実に、親しげに、話し掛けるのである。
私は、タバコを二人に差し上げた。
すると、私に何やら言うのである。
別のおじいさんが、言った言葉に、野中が、驚いた。

先生、と、私を呼ぶ野中。
ジャルーの、弟さんだよ。
そのおじいさんは、私に、歌を歌う者だと言った。

野中は、おじいさんに、一度逢っていますと言った。
コタです。
野中は、一度、ジャルーに逢いに、ここに来ている。
コタ。
はい、コタです。

それから、驚くことばかりが、続いたのである。

兎に角、ジャルーの弟さんは、私と、以前からの付き合いのような親しさである。
そして、ジャルーは、今日から、ここにいると言うのである。
そこに、家族も、やって来た。
彼の、娘たちである。
私は、皆に、タバコを差し上げた。

暫くの会話である。

ようやく、私たちは、買い物をするために、スーパーに向かった。
野中は、ジャルーが、いると、興奮していた。
逢えるかもしれないという、思いであたろうと、私は、思った。

買い物を、終えて、私たちは、また、来た道を戻ると、先ほどの、家族が、皆揃っていた。
私は、再び、おじいさんの、横に座った。

野中が、何か話す。
お金が無くて、車を待っていると言う。
要するに、タダで乗せてくれる車を、待っているのである。

彼らは、スキービーチに帰るのだ。

私は、それなら、一緒にそこに行くと、言った。
タクシーを呼んでくださいと、家族の人に言った。

娘の一人が、飛び出すように、タクシーを、呼ぶために、走った。
一台の、ワゴン車が来た。
七人、それに乗った。

20ドルである。
私たちの好意を、運転手は、理解したのだ。

その、ビーチは、実に美しいビーチで、昨日のアメリカ人のカップルが、教えてくれた場所である。

15分ほどして、おじいさん、二人が降りた。
私たちも降りて、最後の握手をし、写真を撮った。

そして、娘さんの家に向かった。
その、ビーチの道は、両側に、海があり、見るに値する風景である。

一軒の家の前に、車が止まり、皆が、降りた。
私たちも、降りて、矢張り、写真を撮った。
次に来た時は、来てくださいと、言われた。

車に乗り込むと、運転手が、サービスで、少し辺りを回ってくれた。

そして、その運転手が、何と、ジャルーの、娘さんと、結婚して、私たちが、行くはずだった、ダリンブイに住んでいると言うのである。

出身は、トンガである。
更に、ダリンブイの、若手三人兄弟の、イダキ奏者の、マネージャーも務めているというのである。
野中が、驚いた。
ヨーロッパ公演などしている、グループである。

話は、尽きなかった。
帰り道は、大いに盛り上がった。
次に、来た時は、空港に迎えに来てくれ、ダリンブイに、テントを張り、泊まるようにと言う。
グループの者の、車を使うので、ガソリン代だけでいいという。

彼は、ゴーブに一軒だけある、タクシー会社の社員だった。
タクシー運転手は、ほとんどが、海外から来た者である。

トンガでは、成績の良い者は、皆、他国に出稼ぎに行くという。
彼も、その一人で、ここで、結婚したのだ。それが、ジャルーの娘だった。

      
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   <title>もののあわれについて237</title>
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   <published>2008-07-18T21:33:31Z</published>
   <updated>2008-07-18T21:34:11Z</updated>
   
   