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もののあわれについて アーカイブ

2007年02月01日

もののあわれについて その2

宣長が賀茂真淵に師事したものは、35歳の年、真淵は68歳である。
しかし、宣長の学問の性格は、それ以前に出来上がっていた。それが「もののあはれ」論である。そこに向かって、ただ進むのみであった。
もののあわれを言う前に、宣長は、情、人情、実情、本情などの言葉を使用していた。
その姿勢は、実に謙虚なものであった。
70のころに書かれた、玉かつま、七の巻には「おのれは、道の事も歌の事も、あがたいのうしの数のおもむきによりて、ただ古の書共を、かむがへさとれるのみこそあれ、其家の伝えごととては、うけつたへたること、さらになければ、家々のひめごとなどいふかぎりは、いかなる物にか一ツだにしれるこしもなし、されば又、人にとりわきて、殊に伝ふべきふしもなし、すべてよき事は、いかにもいかにも、世にひろくせまほしく思へば、いにしえの書共を、考へてさとりえたりと思ふかぎりは、みな書にかきあらはして、露ものこしこめたることはなきぞかし、おのづからも、おのれにしたがひて、物まなばむと思はむ人あらば、ただ、あらはせるふみどもを、よく見てありぬべし、そをはなちて外には、さらにをしふべきふしはなきぞとよ」
古の文を味読して、あるがままの古意を得ようと努めること、それ以外にない。新しい思想を作り出すことなど、私には無い。学問は、虚心胆管にして、ただ、古の書が明かすであろうところの意味を理解することであると。
つまり、学者が古い書を持って、持論をぶちまけても詮無いことであるという。
「かんがえさとれることのみあれ」
自分の中に無いものは、見えない、無いのである。自ずと、そこに自分の姿が見えるのである。古い書が示すものを、知りえるというのは、自分の中にあったものを、再確認するものである。
すると、彼の中には「もののあはれ」というものがあった。すでに学問をする以前に、もののあはわれという心象風景が広がっていた。そこへ知の旅をするまでである。
京都留学時代に書かれた「あしわけ小舟」という問答体の歌論に「歌の道は、善悪の議論を捨てて、もののあはれと云う事を知るべし、源氏物語の一部の趣向、この所をもって貫得するべし、他に仔細なし」(私が読みやすく原文を書き改めた)
歌とは何かと問うことから発した、もののあわれに至る道である。
歌の本質、その風体、その起源、歴史、神道、儒仏との関係等々、そして詠歌のありようである。今で言えば、歌を歌うことである。
和歌の道にある、本質的な問題の先に、もののあわれを観たと、私は言う。
みやびと書くと、誤解されるので、風雅と書く。風雅は、もののあわれの一端を負う。
情も人情も、実情も本情もである。
最後に行き着く、もののあわれの本質が、如何なるものか・・・
日本人の知性として、また日本人としては、是非とも知っておくべきことである。それは、言葉の世界の精神を突き抜け、心に至り、魂に至る道である。
死に至る病があるならば、もののあわれは、生に至る健やかさである。
私が伝統とは、万葉集であるという所以も、これにより解明できるのである。
最初、言葉は、詩であり、歌であった。それを日本人は、一定の型を定めたという奇跡的な歌の道である。和歌、歌とは、世界広しといえども、日本にしかない、日本でしか発生しなかった言葉の伝統である。
それは、一音に意味があるという、音霊の故であり、他の国の扱う記号としての文字とは、全く意を異にするという驚きがある。英語は単語にしなければ意味を成さない。しかし、日本語は、一音に意味がある。いずれ、言霊にも触れることになる。
しばし、面倒な宣長の言い分を紹介する。

2007年02月03日

もののあわれについて その3

恋せずば 人は心も なからまし 物のあはれも これよりぞ知る
藤原俊成の歌についてある人が、宣長に問う。
この「あはれ」とは、いかなる義かかと尋ねる。
宣長は、私は、心には悟り得たと思うが、あえて言うというと、言葉無し。しかし、思い巡らせば・・・以下、原文を書く。
「いよいよあはれと云う言には、意味深きように思われ、一言二言にて、たやすく答えらるべくもなければ、重ねて申すべしと答えぬ、さてその人のいにけるあとにて、よくよく思いめぐらすに従いて、いよいよあはれの言葉は、たやすく思うべき事にあらず、古き書または古歌などにつかへるようを、おろおろ思い見るに、大方その義多くして、一カタ二カタにつかうのみにあらず、さて、彼れ此れ古き書どもを考え見て、なお深く案ずれば、大方歌道は、あはれの一言より外に、余儀なし、神代より今に至り、末世無窮に及ぶまで、よみ出る所の和歌みな、あはれの一言に帰す、さればこの道の極意をたずぬるに、又あはれの一言より外になし、伊勢源氏その他らゆる物語までも、又その本位をたずぬれば、あはれの一言にて、これを覆うべし、・・・・・」(読みやすく書き改めてある)
あわれとは、何かと問われての答えである。
あわれという言葉は、実に意味深くして、一言や二言では、答えられない。それに、よくよく思いを巡らせば、あわれという言葉を軽々しくなど語れるものではない。古書、古歌、等々により、その意味深くして、益々軽く語ることなどできないものである。
歌道は、あわれの一言に尽きる。神代から今に至り、そして未来も、和歌の道は、あわれの一言に尽きる。また、多くの物語もあわれに尽きる。
歌の道、言葉の世界の極意は、あわれであると言い切るのである。
それが宣長の場合、源氏物語を説くということで、あわれを徹底追求した。
どうしても源氏物語に触れなければいけないのだ。
「やまと、もろこし、いにしへ、今、ゆくさきにも、たぐふべきふみはあらじとぞおぼゆる」
大和も唐も、過去も、現在も、未来も、これほどの物は現れないとまで言う。
「すべての人の心というものは、からぶみに書るごと、一トかたに、つきぎりなる物にはあらず・・・」
これこれこういうものであるという、唐の書き物などにはない、様々な人の心の様が語られてある、それが源氏物語であり、そこに、あわれが書き表されていると断言する。
人間の喜怒哀楽のみか、潜在する意識の様、等々、あわれの事、すべてを見出している物語であるというのである。
「この物語をよむは、紫式部にあひて、まのあたり、かの人の思へる心ばえを語るを、くわしく聞くにひとし」とも言う。
詳しい内容については、次にするが、あわれを語るに、物語の言葉を使って、分析してゆくのである。
大変、ご苦労なことをされたのである。
あはれ、という、三文字のことである。
粘着質タイプの人柄がうかがえる。ここまでして、何故、あわれを語りたかったのか。宣長は、そこに日本を観たのである。日本という国の、すべてを観たのである。
神代から今に至り、未来に続く、日本の心、それが、あわれであると観た。
あはれ、私は、あわれと書くが、あはれ、である。
あアわアれエである。ここまでは、言霊の意味を書かないことにする。ただ、アという音とエという音霊がある。
母音が五つに統一された深い意味もある。あ、い、う、え、お、である。
言霊、音霊の秘密もここにある。
言と音、不思議な関係である。
言は音でもある。も、が入る。言は、音以外にも意味がある。
歌手は、言葉を歌う。言を音にする。ここに重大な秘密がある。長い言葉の講義や説教を聞くより、一曲の歌を聴くことの感動が大きいのは、そういうことである。
言葉の羅列を善しとしない、日本の伝統がある。言挙げせずとは、実に、意味、意義深い、言葉に対する感性があるとみる。
この日本人の感性の極みが、あはれであると言う。

2007年02月04日

もののあわれについて その4

本居宣長が、源氏物語から、もののあはれを観るならば、私は、万葉集から観る。
万葉以後、古今の絶唱といわれる、舒明天皇の御歌一首
夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず 寝宿(いね)にけらしも
日暮れても、小倉の鹿の鳴き声がしない。もうすでに寝てしまったのであろうか。
単なる一情景を歌うものである。
舒明天皇は、中大兄皇子、つまり天智天皇の父親である。大化の改新の立役者となった息子の父親である。
蘇我氏との連立政権を立てていた天皇家であるが、蘇我氏が優勢になりつつあり、蘇我入鹿の、つまり蘇我馬子の孫が、今まさに、氏族政権をもって大和の国を支配しようとしていた時、中大兄皇子が立ち上がる。これでは、大和の国体が危ういと。
その様を、静かに見つめていた舒明天皇の御心は、いかばかりであったろう。静粛に、事の成り行きを見つめて、佇んでいた。その孤独の形相は、いかばかりか。
その孤独の様を、この歌は、極めている。
孤独を極めた御歌である。
あはれの本質に、絶対孤独があると、私は観る。
舒明天皇は、上宮、つまり後に聖徳太子と崇められた子の、山背大兄王の家族の悲劇を目の当たりにして見た。蘇我入鹿によって皆殺しにされた一家族の悲劇である。
推古天皇の後、舒明天皇の即位まで9ヶ月も経ていたのは、対立候補であった、山背大兄王の存在であった。それにより、豪族たちの対立の様を見ていたのである。
田村皇子として、その悲劇を見つつ、ついに即位して天皇になる。その複雑な心境は、察して余りある。
その御歌は、古今の絶唱と言われる名歌を生む。
いねにけらしも
もう寝てしまったのであろうか、という、この静寂を観る心を、斉藤茂吉は、古今無上の結句という。
沈黙を続けて、事の成り行きを見つめ、国のあり方を考え続けて、絶対孤独の皇子の心境が、この歌に結実する。
あはれの、一つの姿が、ここにある。
ある研究家は言う。その響きの流れにこもる古雅で高貴な気品、豊かで、しかも純度の高いその詩情と。
私は、この御歌の言霊の響きと、音霊の在り様を云う。
ひらがなにて書くと、よく解る。
ゆうされば おくらのやまに なくしかは こよいはなかず いねにけらしも
情景が単なる情景ではなく、音の響きによる音霊の響きになるのである。
母音を明確に発音することによって、これは祈りの言葉になるものである。つまり、祝詞である。
ゆウさアれエばア おオくウらアのオやアまアにイ なアくウしイかアはア こオよオいイはアなアかアずウ いイねエにイけエらアしイもオ
ウという母音から始まる。つまり、うーとは、お呼びする音霊である。そして最後は、おーと終わる。これ神呼びの音霊である。
うーとお呼びして、そして祝詞を献上して、おーとお送りする。
神事の基本である。
言霊、音霊を知らない学者や詩人が、いくら議論しても、始まらないのは、それを知らないからである。
一人勝手な解釈をして、悦に入る様は、滑稽である。
正しく祝詞を献上できない者が、単に文献研究で、何をか言うのである。
奈良時代まで、母音が八つあったというが、万葉集を読み込めば、結局、母音は、五つに集約される。その意味が解るのか。分析をよくする学者には、決して解らないものである。つまり、祈りを知らないのである。
あはれの、一つの姿は、絶対孤独にあると言う。

2007年02月05日

もののあわれについて その5

もののあわれの極限にある歌の道を、源氏物語から観るという行為を通して本居宣長が言う。
「物のあはれさえしらば、歌はよまるべし、又歌さえよまば、物の哀れはしるべし、然るに、何とて此物語を見て、歌道の本意をしれとはいふや」
もののあわれを知るには、歌を読めばよい。しかし、何故、この物語を読むかといえば、そこに歌道の本意があるからである。
小林秀雄が言う。
「名歌は歌の道を踏んではいようが、歌の道について語りはしない。「源氏」という物語は、その自在な表現力によって、物語の道も同時に語った。物語の道という形で、歌の道とは何かを問う宣長に、答えた」
普通は、物語というと「ただあやしく、めずらしき事をかける書をのみ好む」「物の心を知らぬ、愚かなる人」が目当てである。しかし、源氏は、「なだらかに、哀をみせる」のである。
だが、私は言う。源氏を読まずともよい。歌を読んでみればよい。万葉集を読んでみれば、そこには、もののあわれがあると。
「人にかたりたりとて、我にも人にも、何の益もなく、心のうちに、こめたりとて、何のあしき言もあるまじけれ共、これはめずらしいと思ひ、是はおそろしと思ひ、かなしと思ひ、おかしと思ひ、うれしと思ふ事は、心に計思ふては、やみがたき物にて、必人々にかたり、きかせせまほしき物也」
つまり「その心のうごくが、すなはち、物の哀をしるという物なり、されば此の物語、物の哀をしるより外なし」ということである。
めずらし、おそろし、かなし、おかし、うれし、と思う心、つまり人間の喜怒哀楽、感じなくても、潜在する心の動き、すべてを、もののあわれと言うのだ。
それはすでに、歌の道では、当然にして在るものだが、それを源氏は、語るのである。
歌の道の極意である、もののあわれの視点から源氏を観たということであり、物語は、歌の道も語るのである。
人間の心の様、すべてを、もののあわれと言う。
だが、即座に納得してもらっては困る。というのは、欧米の思想に侵された現代日本人は、実に、それを知らない。
大和言葉による歌の道のことである。つまり、日本語のことである。
日本語は大和言葉より成る。大和言葉が、いかなるものかを知らなければ、納得は出来まい。
それでは、私は、大和言葉を語らなければならない。壮大なお話になるのである。
さて、それを、どういう形で語るかと、佇む。
大和言葉の発生から語らなければならないとしたなら、これは、素人の私には、大変なことになる。
私は、別な通信誌で、伝統についてという題で、万葉集を主にして書き続けている。その中で、日本語の発生についても、書いている。それを、そのまま焼き写しにして、ここに紹介するか否かを考えている。
すると、今度は、もののあわれについてが、遠回りすることになる。
私は、論文は書かない。何故なら、大和言葉を知る私には、論文は、戯言であるからだ。大和言葉は、理屈をこねくり回す言葉の世界ではない。
欧米、及び哲学、思想等々と言う、言葉の駆け引きや、損得等々の言葉の世界ではない。例えば、大和言葉を象徴的に言うならば、志貴皇子の歌を挙げればこと足りる。
「いはばしる 垂水の上の さわらびの もえ出づる春に なりにけるかも」
これは、日本人にしか理解出来ない心情、真情であろう。
ああ、春がきた、春がきたのだ、ああ、春なのである。
他の民族は、とうてい理解し難い言葉の世界、そして、心象風景である。
これを、他国の言葉に翻訳することが出来るだろうか。
水の流れているところに、蕨が出た。春が来たという程度であろう。それを誰が感動するのか。日本人にしか、通じない心象風景である。
大和言葉とは、そういう言葉の世界である。
「久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」紀友則
これを他国の言葉に翻訳することが出来るだろうか。つまり、大和言葉とは、日本人だから、問答無用に、納得出来る言葉の世界なのである。
ただ私は、傲慢に言うのではない。出来れば、日本語、大和言葉を知ってもらい、日本を好む人には、説明を惜しまない。だが、語学の才能の無い、自分を悲観するのである。

2007年02月08日

もののあわれについて その6

日本の伝統である、万葉集第一巻の最初の歌。
雄略天皇、御製である。
籠もよ
み籠持ち
掘串(ふぐし)もよ
み掘串持ち
この岡に菜つます子
家宣らへ
名宣らさぬ
空見つ大和の国は
おしなべて吾れこそ居れ
しきなべて吾こそ坐せ
吾こそは宣らめ
家をも名をも

この岡で菜を摘んでいる娘さん、家を言ってください、名を教えてください、この大和の国は、私が治めているんだよ、私から言おうか、家も名も
当時、名を名乗ることは、相手に気を許すことであり、すべてを任せることである。これは一目惚れの歌であり、恋の情である。恋の機微に掛けて、物語を進める源氏物語と同じである。
恋の心の動きに、もののあわれを観る。
君が代、国歌も恋歌である。恋の情を極めると、君が代になる。誰が、君を天皇と定めたのか。勿論、天皇の世であると言っても、間違いない。天皇は国体であり、国体とは国民のことである。天皇と国民の関係は恋に似る。しかし、これについては、省略する。
要するに、人と人との情のやり取りにこそ、もののあわれの発露があると言う。
大和の心が恋にあるという風情である。風雅の元も、恋である。日本の伝統が恋の情から観るということに、私は実に心地よさを感じる。
奇想天外な嘘八百の物語ではない。誰もが感じる恋の情である。それは、自然で平和で、豊かである。大和の心、そのものが恋である。
大和魂というのは、大いなる和の心という。誰か、大和魂を、とんでもない説にしたのは。本当の意味を知らずにいる面々に、私は言葉も無い。
やアまアとオという言霊からも、それは解る。
ア音は、開く、拓く、発する、そしてオ音は、送る、贈るのである。相手に心を送る、贈るのである。
恋とは、乞うという語源であり、相手の魂を乞うという。だが、音霊では、こオひイであり、相手から贈られた心を受け入れるのである。ちなみに、愛は、あアいイであり、開いて受けるということであり、まさに、恋の情である。
実に、言霊の国、大和、日本である。
大和言葉は屁理屈を嫌う。音の一つに意味あるゆえに、多くを語らない。
大陸、欧米の語り尽くす言葉の世界とは、全く違う。あれらは嘘を隠すために、多くを語る。すべて計算であり、損得で言葉が出来上がる。彼らの言葉の元を正すと、必ず損得計算に行き着く。そして言葉自体は、記号である。
西洋哲学等々の言葉の羅列は、喧しいの一言である。それを「言さえぐ」と言う。外国の演劇、オペラ等は、言さえぐゆえに、喧しい。日本人と彼らの言葉に対する感性は全く別物である。
三十一文字の和歌、十七文字の俳句、それに宇宙大の世界を創作出来る言葉の世界を有する。大和言葉が言霊であり、音霊に支えられてあることを知れば、この日本の伝統である言葉の世界、万葉集を、ただただ誇りに思うのである。

2007年02月11日

もののあわれについて その7

大和言葉によって日本語はなる。
それでは、大和言葉とは何か。簡単である。漢字の表記でも、訓読みをすれば、すべて大和言葉になる。
有史以前から、使用していた言葉である。
文献から言うと、8世紀初頭に、初めて歴史書である、古事記、日本書紀が編纂される以前から、使用されてきた言葉である。
清水へ祇園をよぎる桜月夜 今宵会う人みな美しき 与謝野晶子
きよみずへぎおんをよぎるさくらつきよ こよいあうひとみなうつくしき
祇園は地名であるから、欄外で、すべて、大和言葉である。
東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて蟹とたわむる 石川啄木
東海も地名に入るから、欄外で、すべて、大和言葉になる。
東風をこちと読むと大和言葉になる。それを、とうふうと読めば、音読みであり、大和言葉にはならない。
君を、きみと読めば大和言葉であり、くんと読めば漢語になる。
例えば、童謡の歌詞を見る。
浜千鳥という曲
青い月夜の浜辺には 親を探して鳴く鳥が 波の国から生まれ出る
濡れた翼の 浜千鳥
翼を、つばさと読んで、大和言葉になる。それを、よく、と読めば漢語になる。
漢語主体の歌詞などもあるが、それを上げずとも、これで十分であろう。
松尾芭蕉の俳句も、すべて大和言葉である。
古池や かはづ飛び込む 水の音
荒波や 佐渡によこたふ 天の川
あかあかと 日はつれなくも 秋の風
例えば、歌謡曲の名曲、古賀政男の影を慕いて
まぼろしの影を慕いて 雨に日に
月にやるせぬ我が思い
つつめば燃ゆる胸の日に
身はこがれつつ偲び泣く
みな大和言葉である。
ここで驚くべきとこを言う。万葉時代は、仏教、儒教、そしてシナ文学、それが津波のように押し寄せていた。特に、600年には、膨大な書物が隋からもたらされている。
古代日本人が知らない文化、特に、言葉の文化が大量に入っていた。それを、身に付けたというから、驚くのである。今の英語やフランス語を学ぶという比ではない。
日本初の勅撰集は、和歌ではなく、漢詩集の「凌雲集」である。814年。ちなみに、最初の和歌の勅撰集は「古今和歌集」であり、漢詩より90年後のことである。
万葉集の編纂に関わった、大伴家持の歌一首
春の園 紅にほふ 桃の花 下照る道に いで立つ乙女
紅を、くれないと読む。すべて大和言葉である。
私が何をいいたいかと言えば、漢語、外来語の影響甚大であったが、和歌の世界では、すべて大和言葉が使われていたということである。
いかに、大和言葉が、血となり肉となっていたか。それは遺伝子に組み込まれたようにして、言葉の世界にあった。精神を言葉の世界と定義すると、日本の精神は、大和言葉にある。そして、精神のみか、その曖昧な心、たゆたふ心も、大和言葉よりなり、何と、魂のレベルまでにも至るのである。
それは言霊の思想である。言葉、一音、そのものに神が宿るという思想である。
大和言葉を発するということは、言霊の力が働き、事が動く、事が成ると考える。
分け入っても分け入っても青い山 山頭火
大和言葉の世界は、分け入っても分け入っても青い山 なのである。

2007年02月12日

もののあわれについて その8

もののあわれを書くことが、大和言葉を書くことになり、そして歌、和歌を書くことになり、さらに、言霊と音霊を書くこととなり、今また、言霊の奥義である、数霊(かずたま)についても、書くことになる。
敷城島(しきしま)の 大倭の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ
柿本人麻呂の反歌である。
大和は言霊が助けてくれる国である。こうして言葉に出すことで、すでにその効果かあるのだ。
言葉そのものの力を表明するのである。言葉に神格を与えているのである。
さて、言語は伝達の手段であると考える。神や仏に対しても、言葉が伝達の手段であるというのが、他国の常識である。しかし、日本の言葉は、伝達される必要がない。祈りの言葉は、それだけで有効なのである。
大和言葉には、言霊が宿るゆえに、発したこと、それだけで祈りの目的が果たせるのである。
伝達の必要がなかったということで、実は、誰も書いていないことがある。
それが、言霊の奥義である数霊のことである。
「伝達への意欲、それを支える論理構造の普遍性への確信のあるところでは、長詩に発達していってもおかしくない。ところが日本には長歌というものもあったが、それすらも外国の詩にくらべれば大して長いものではないが、その長歌さえもすたれて、短歌が標準的な詩の形態となった」と、渡部昇一氏は言う。学者として尊敬する人物の一人であるが、数霊を知らない。
和歌の形式を言う。
片歌 5,7,5
短歌 5,7,5,7,7
長歌 5,7,5,7,・・・・5,7,7
旋頭歌 5,7,7,5,7,7
仏足石歌 5,7,5,7,7,7
ここで、解ることは、5,7のみの数である。
再確認の意味で言う。
和歌の三十一文字とは、三十一の語ではない。三十一音節、シラブルのことである。
確立された詩形としては、まことに短いもので世界に類をみない。五言絶句という中国の詩形があるが、20の漢字を用いるが、漢語は孤立言語であり、比較することは出来ない。つまり、孤立語とは、単語自体は変化せずに、その単語が具体的な概念を表すのである。
文意は語順を変えることで表す言語である。ひらがなとは、全く違う。
驚きは、十七音節の俳句である。和歌よりも、短縮させたという驚きである。
俳句を外国語に翻訳することは不可能である。
荒波や 佐渡によこたふ 天の川
これを、どうやって翻訳するのか。
荒れた波の佐渡島に出る、天の川である。大和言葉でなければ、意味がない。
「この短詩系志向、伝達不要、論理構成不要の伝統から出ていると考えてよいと思う」と、渡部昇一氏は言う。この伝統を、今、私は書き綴っているのである。
さて、5,7という数である。
万葉集は、五七調により、古今集は、七五調によるといわれる。
五七、七五調とは、句切れのことである。
57,57,5の場合は、五七調、5,75,77の場合は、七五調である。
五七調は力強く、壮大で重いリズムを持ち、七五調は、やわらかく繊細で、優美なリズムを持つといわれる。
実は、私は、そんなことは、どうでもいい。
何故、5と7という数に行き着いたのかということである。
ここに言霊の奥義である、数霊の秘密がある。言霊とは、数のことである。
5を分析する。1,4の関係、2,3の関係、3,2の関係、4,1の関係である。
つまり、1,2,3,4がある。
7を分析する。
1, 6の関係。2,5の関係、3,4の関係、4,3の関係、5,2の関係、6,1の関係である。
つまり、1,2,3,4,5,6がある。
私は、母音の意味を持って、すべてのひらがなの意味を言う。大和言葉は、子音が母音に行き着く。母音が明確に発音されなければ、大和言葉にならない。
あ、い、う、え、お、という、五音に意味がある。
1から7までの数に、大和言葉の奥義がある。
それぞれの数の意味について、私は今は知らない。
ただ、数をひらがなにする。
ひい、ふう、み、よ、い、む、な、や、こと、で10を数える。
そして、もう一つの、表現は、
ひと、ふた、み、よ、いつ、むゆ、なな、や、ここの、たり、で10まで。ももち、よろず、で百と万である。
これ、実は、祝詞の言葉の奥義としてある。
この数、かぞえが、宣る言の本質である。宣る、とは、のることであり、言葉を発することを、宣り言、祝詞という。
大和言葉には、宣る言、祝る詞、のみある。
5と7の音節による、宣り言をもって、大和言葉の完成である。
サービスして言う。大和言葉は、すべて祈りの言葉であるということ。
和歌も俳句も、祈りである。
大和言葉で発した言葉、書かれたものは、すべて祈りとなるのである。
これ、欧米の思想をもってしては、解くことは出来ない。

2007年02月13日

もののあわれについて その9

大和言葉による和歌や俳句が祈りであると言うと、今まで捉えてきた祈りという感覚が変わる。祈りという観念が変わる。
宣ることが、すなちわ、即座に事を動かすという考え方は、日本独自のものである。
ここで、祈りの観念を変えてもらいたい。
すべての宗教の、祈りは、神や仏という、人間を超越したものに向かう。そこに、神や仏に伝達するという意識がある。実は、大和言葉は、それを嫌い「言さえぐ」要するに、喧しい行為とみなす。
伝達する必要無し。言葉にすることが、すなわち、成ることであり、すでに言霊の神によって、完成したのである。
それ以外は、言挙げせず、という。多くを語らないのである。
国際社会で、それが通る、通らないの問題ではない。別の話である。日本人の感性は、そういうものである。共通の言葉、大和言葉使用している者には、それで善いのだ。
その分、特別な芸術芸能が発展した。言葉を介さないものである。
言葉を、より昇華させる、いけばな、茶の湯、書の道、陶芸、様々な手芸である。
空白を重んじる墨絵などは、端的に日本の心情を表す。描かれないものにある、真実て゜ある。

葦原の 水穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども 言挙ぞする 言幸く(ことさきく) まさきくませと つつみなく さきくいまさば 荒そ浪 ありても見むと 百重波(ももえなみ) 千重浪(ちえなみ)に敷き 言挙げす吾は 言上げす吾は

豊葦原の水穂の国は、神ながらにあり、言挙げしない国ですが、善き言葉の霊力の幸によって、ご安泰であれと、強く言上げします。この言葉の霊威で、あなたが何の鎖障りもなく無事であれば、また必ずお会いできると信じています。幾重にも寄せては返す波のように、繰り返し、言挙げします。言挙げします。

作者不明のこの歌を、私は驚嘆を持って、読む。
言挙げせぬ国であり、それは、言幸はへる国であるという感性を、皆有していたということである。
言幸く、ことさきく国、うまし国、である。

言幸くゆえに、言挙げせぬという。言葉に幸多いゆえに、多くを語らずともよいという考え方を、古代の人々は、広く持っていた。この万葉集の歌、それ以前からの、言葉に対する日本人の感性を伝えるものである。
そして、最も驚くべきことは、読み人知らずであって、編纂されるということである。
つまり、歌の世界では、身分は無い。歌の世界では、皆、平等であるということだ。
上は天皇から、下は農民までに至り、堂々と同じ扱いになっているという驚きである。
和歌の前には、皆、平等であるという考え方に驚嘆する。

日本の古代も、他国と同じように、甚だしく身分制度があった。豪族でも、農民は口もきけないという状態である。ましてや天皇を拝することも出来ない。しかし、歌になれば、同じ場所にいるという、驚嘆である。
言葉が、身分を超えていた。
言霊の力を皆々、有していた。
世界史の中でも、人間が平等であるということを宣言したのは、1789年のフランスの人権宣言の、法の前に平等であるというものである。
仏陀は、2500年前に、カーストの国で、高らかに、人間の平等を唱えた。しかし、それが行き渡ることは、なかった。
言霊の前に平等であるということを、万葉集編纂以前に、有していた。それは長い長い期間のことである。そうでなければ、突然、万葉集編纂から行われたと、考えることは出来ない。

日本人は、存在の根源を神よりのものと捉える。
存在は、コトである。それは事であり、言である。
神は、ミコトである。御言である。みことを、命と書く。
言葉は鳴るものであるから、成るものと捉える。これ、日本人の真骨頂である。
ついでに言っておくが、日本人の神意識は、神として在るものへの、尊称としての神である。言葉も神であるから、尊称して御言(みとこば)と言う。
ここれを誤った宗教学者たちの罪は重い。
欧米の宗教観を持って、日本の神を語ることはできない。
つまり、神という対立概念を日本人は、持たない。対立するものではなく、神は、生活に浸透している力なのである。
決して、オルテガが書く「我と汝」というような言葉遣いにならない。
和歌の世界では、我を省略して歌うものが大半である。
相手が主体になる。我が主体にならない。
だから、君が代になる。まず、相手が先にくるのである。つまり言葉を発しているのは我だから、我を言う必要がないのである。
欧米風に言えば、汝しか無い。
言葉に対する感性が、全く違うこということを、再確認して、欲しいと願う。

大和言葉の認識が深まれば深まる程、日本を愛するという気持ちがこみ上げてくる。
知らないものは無いものである。しかし、知らないからといって無いものと断定することは出来ない。知らないことを、知らないと言う、それを総称して謙虚と言う。
これを教える者が少ないことを憂うのである。

2007年02月14日

もののあわれについて その10

私は、ここで、君が代について書かなければならないという気持ちに、駆り立てられた。
それは、実に重大である思うからだ。
つまり、君が代を正しく伝えなければならないとい思う。
国歌として歌われている君が代の君が、天皇であるという説を、正す。
勿論、それは天皇であっても問題ない。要するに、前回言う、大和言葉による、君と吾の関係をここで明確にする。

君が代の出典とされる、古今集の、読み人知らずである。
わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
わが君とは、あなたという意味である。そのあなたは、私にとってかけがえのない存在である。その、あなたが健康で長生きをすることを願う。小さな石が成長して、岩になるまでにかかる、永遠のような時間を、千年、八千年と言う。そして、さらにその岩に苔がはえるまでである。

長寿を祝う歌から、徳川家では、正月元旦の朝に、大奥にて、将軍の正妻である御台所が縁起物である、ユズリハ、ウラジロなどを入れた盥の前に正座して、中年寄りが「君が代は、千代に八千代に、さざれ石の」と唱えると、対座する御台所が「いわをとなりて苔のむすまで」と唱和するのである。すると、脇から中老が、御台所の手に若水を注いで清める、という儀式である。将軍の長寿を願って。
その後で、御台所は、大奥から将軍に相対座するのである。
これを大奥では、おさざれ石の歌と呼んでいた。

明治2年である。
太政官政府が発足する以前に、英国から貴賓が来日することになった。
浜離宮で歓迎行事をするため、英語のできる人材を集めて、接伴係にした。
横浜駐屯の英国軍楽隊長、ウイリアム・フェントンが、打ち合わせに来て言う。「日英国歌を演奏したい。日本の国歌を教えて欲しい」というものだ。
日本に国歌は無い。その時まで、国歌の意識が無かった。
接判係の薩摩藩士、原田宗助が上司である川村純義(後の海軍卿)に相談するが、川村は
怒り「おはん方を接判係にしたのは、今度来朝あらせられる英国貴賓饗応について万事不都合なかんごつ取りはからってもらうためじゃ。そげんことをいちいち聞き合せに来る必要はない」というものである。
川村は、その国歌が後に、大問題になるとは、勿論知らない。その程度の認識である。

原田は仲間に相談する。
その中で、一人、思いついたのは、静岡藩士、乙骨太郎乙である。それが、おさざれ石の歌である。
君が代の君を天皇と解釈すればいいと。
次に、旋律である。原田が、それならば、薩摩琵琶の曲の、蓬莱山に同じ歌詞があることに気づき、俺が歌うと、それを歌う。
歌うこと、数回、フェントンに採譜させて、出来上がったのが、国歌、君が代である。

実は、わが君はの古今の歌は、和漢朗詠集では、君が代は、になっている。
さて言う。
君がいることは、吾がいるのである。
吾が存在しない君はいない。しかし、和歌の世界では、吾を省略する。君に、吾を託すのである。これ、伝統である。
あなたを君と呼び歌うのは、圧倒的に、恋歌が多い。
そして、思い出して欲しい。我が日本国民は、恋の情により、多く人間の情緒を学んだ民族である。その最もたるものが、もののあわれである。

古今の、「わが君は」は、わがと言い、我を表明している。
それでは、君が代は、と読む時、君と吾が代はと読めるのである。
これを、片歌を繰り返す、旋頭歌にしてみる。

恋の道
君と吾が代は
千代に八千代と
さざれ石
いわをとなりて
苔のむすまで

和歌にする。

恋の道
君とわが代は
さざれ石
千代に八千代に
いわをとなりて

参考までに、私が創作した戯れ歌である。
もう一言言う。天皇を君とは言わない。明治期、太平洋戦争時に、君を天皇と解釈したとしても、天皇は、大君(おおきみ)であり、君ではない。君は、一般民の、あなたへの呼びかけである。
そしてさらに言う。天皇を君と呼ぶとは、何事か。天皇は、我々国民の国体である。国民と天皇は、一緒である。同体である。歌の道を見れば、一目瞭然であろう。
歌の道、言葉の道、つまり、前回のミコト、御言の総体である。
一時期、天皇を現人神と呼んだが、それも誤りである。天皇は、現人御神であり、現人神は、我々日本国民のことである。
天皇家の伝統を敬して、御という尊称をつけるのである。
天皇の歌は、御製である。
しかし、その天皇の歌と、国民の歌が、共に並ぶという歌の道、歌道が、大和言葉の真骨頂である。
歌の前には、平等なのである。

歌道の常識から、君が代は恋歌であり、それでなければ、大切な人の長寿を願う歌である。
はっきり言うが、君が代という国歌を好き、嫌いだというのは、個人の勝手である。自由である。しかし、公的立場や、公的な場所であれば、当然、敬意を払うものであることを言う。それが個人の心情や良心の自由を奪うとする考え方は、実に愚かしい。
言論の自由である。が、大和言葉の歌道を学ぶべきである。
そして、歌の道が平等であることを、最も願った家系が天皇家である。
であるから、私は天皇家に称号を与えたい。
天皇家、それは御歌の宗家である。

2007年02月17日

もののあわれについて その11

もののあわれの言葉の意味合いを深めることにする。
本居宣長は、物のはれも、あはれも同じことだと言う。
言葉は、使われているうちに、自然に転じてゆくものであると宣長は、考える。
「いささか転じたるいひざま」が「物のあはれ」であるとする。
要するに、物のあはれは、あはれで良いとする。
物をつけるのは、「ひろく言ふときに、添えることばなり」だと言う。
宣長は、和歌の歴史に鑑みて、あはれの用例を調査した。
「阿波禮といふ言葉は、さまざまいひかたはかはりたれ共、其意は、みな同じ事にて、見る物、きく事、なすわざにふれて、情(こころ)の深く感ずることをいふ也。俗には、ただ悲哀をのみ、あはれと心得たれ共、さにあらず、すべてうれし共、おかし共、たのし共、かなしとも、こひし共、情に感ずる事は、みな阿波禮也。されば、おもしろき事、おかしき事などをも、あはれといへることおほし」
問題は、あはれは、情の一つの相ではないということだ。
「阿波禮といふ事を、情の一つにしていふは、とりわきていふ末の事也。その本をいへば、すべての人の情の、事にふれて感(うごく)は、みな阿波禮也」
この宣長の心境について、小林秀雄は、鋭く見据えた。
「彼の課題は、「もののはれとは何か」ではなく、「物のあはれを知るとは何か」であった」と言う。
源氏物語を宣長は「よむ人に物の哀をしらしむるより外の義なく、よむ人も、物のあはれをしるより外の意なかるべし」と言うのである。
小林は「心と行為との間のへただりが、即ち意識と呼べるとさえいえよう」と言う。
「心が行為のうちに解消し難い時、心は心を見るように促される」とも言う。

さて、私は、話を元に戻す。
もののあわれは、あわれであると言う宣長と、私は、違うのである。
あはれで善しとするのは、時代性なのか、宣長の考え方なのか・・・
あわれに、ものが付かなければ、私の、もののあわれについては、進めないのである。つまり、言霊、音霊のことである。
もののあわれ、でなければ、私の、もののあわれは、語れない。
宣長は、物は「ひろく言ふときに、添える言葉なり」と言うが、私は違うのである。
ものは、もオのオである。オという母音の意味がある。オの母音は、贈る、送る、という意味を総称する。それを拡大して解釈すると、送る、贈るは、与えるとか、お別れとか、おーーーと音出して、向こうへお送りすることなのである。
あわれを、流して行く。生きることは、もののあわれなのであると言うのは、人生を流して行くことと、私は捉えるのである。
存在するものを、オという母音は教える。存在する物は、流れてゆくのである。何処へ。何処かへである。
縄文期から続いた、迎え入れる音ウを、送る時には、オと発した。これ、神呼びの音霊である。
現在の神道家が、どの様に神呼びをするのかは、知らないが、察するところ、迎え入れも、お送りも、オのみではないかと思う。
形式になるのであから、どうでもいいのだと思う。
宣長の言う、ものという言葉は、添える言葉だと言う説に、私は異を唱える。
あはれを、人間の心の有様、顕在意識も、潜在意識も、すべてを丸抱えであるとは、最もなことであるが、それに、もの、という言葉がつかなければ、解決しないのである。
もの、とは、存在を言う。在るもの、すべてを、ものと言う。
あはれとは、存在するもの、すべてに宿るもの。宿命であると、私は考える。
繰り返し言う。あわれとは、存在するもの、すべてが、あわれ、なのであるということ。
人間だけが、あわれか、否である。存在するもの、すべてがあわれなのである。
動物、植物、等々、皆々、あわれを生きるのである。
情のあるものは、人間のみであると考えることは、傲慢極まりない。

一例を上げる。
植物に意識は無いかと言えば、違う、植物にも意識があり、霊性もある。
それを、知らないだけである。知らないことは、無いことだと、傲慢不遜に考える人とは、同席しない。
千年の樹を切り倒して、祟られること多々あり。
人を殺せば、殺人者になるが、樹を切り倒しても、殺樹者とは言われない。ましてや、環境を破壊する者を、環境破壊者などと言わない。山を切り崩しても、平気でいる。それらに、もののあわれを理解せよと言っても、理解できない。

ユングという学者は、集合意識までつきとめた。ただし、民族の集合意識と言う。
「言さえぐ」仏教の唯識論でさえ、それを通り越して、すべての意識と通ずる意識があることを、突き止めている。
「松のこと松に、竹のことは竹にきけ」とは、松尾芭蕉であるが、その通りである。
存在するもの、すべてに、あわれがある。私の考えである。
その、存在を総称して、「もの」と言う。
あわれに、ものという言葉が必要な訳である。


2007年02月18日

もののあわれ その12

前回、あわれを哀れに限定してはいけないという本居宣長を紹介した。
彼は、源氏物語を読み込むことで、自分がテーマとした、もののあはれを書いた。「物のあはれを知るとは何か」を書いた。
それはそれで、十分に価値のあることである。
また、それは、一つの心に関する認識の仕方でもあるということで、善し。心というものは、意識しているよりも、もっと深いものを捉えているのである。
ここで私が面白いと思ったことは、もののあわれを語ることについてである。
これは、源氏物語の作者、紫式部の言葉で、締めくくる。
「すべて男も女も、わろものは、わづかにしれるかたの事を、のこりなく見せつくさむと思へるこそ、いとおしけれ」
すべて、男も女も、見苦しいのは、わずかに知ることを、あたかも、すべて知っている如くに語ることであると言うのである。
思い出して欲しい。大和言葉の世界は、言挙げせずという。語り尽くすのを、言さえぐ、として嫌うのである。
嘘や空言を言う人は、語れば語る程、嘘の上塗りをし、空言の上塗りをする。
宣長の結論的言葉である。
「よろづの事の心を、わが心にわきまへ知り、その品にしたがひて感ずる」ことが、あはれであると。
私は、宣長も、語り尽くそうとした形跡があると思っている。最後は、自己矛盾に陥るような事態になったのではないかということだ。
物語とは、空言である。小説家が大嘘つきであるということだ。嘘を書いて、感動させて、のうのうとしている。しかし、書き物全般に、それは言える。
「事の心をしる也、物の心を知るなり、物の哀を知る也」
源氏物語の主人公、源氏が言う。
「世にふる人の有様の、みるにもあかず、聞にもあまる」
世の中のものは、見ていて飽きないし、聞いても飽きずに面白い。それに尽きるのである。皆々、物語のようである。現実とは何か・・・物語のように、空言であろうとは、私の考えである。
さて「此の物語の外に歌道なし」と言い切る、宣長の努力を認めつつ、私は、歌の道から、再び、もののあわれを、進んでゆく。
ちなみに、大和言葉を知り尽くしたいと思えば、源氏物語を読めばよい。

さて、古今集は、後醍醐天皇の勅命により、四人の選者がまとめた歌集である。このように、天皇の命により成った歌集を勅撰和歌集と呼ぶ。
その有名な序は、日本初の歌論であった。歌の起源から、歌の様式、歌の意味を高らかと宣言したようなものである。それは、万葉集を実に強く意識したものと思われる。
歌は、万葉から始まり、そして万葉に帰るのである。
万葉は、歌の父であり、母である。それに対する批判や反抗や、戦いを通して、大和言葉は、鍛えられた。実に、気分の良い話である。
万葉集を解くためにも、古今を見つめるのである。
「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。」
紀貫之が、高らかに宣言する。
和歌が、人の心、その様々な心情をもとにして、様々な言葉になった。
新約聖書のヨハネ伝の、冒頭を思い出す。

「初めにみ言葉があった。み言葉は神とともにあった。み言葉は神であった。かれは、初めに神とともにあり、万物はかれによってつくられた。つくられた物のうちに、一つとしてかれによらずにつくられたものはない。」
このみ言葉はイエスキリストのことである。三位一体という説を掲げた宗派が、皇帝によって支持され、正統とされて、解釈され、イエスという人間が、神と同格であるとの、一説である。
ここで、言葉に対する感覚が、全く違うということを知って欲しい。

大和言葉は、人の心を種とするのである。そして、言葉には、霊、つまり神言であり、言葉自体に神格があるという、言霊の考え方である。
教義として教えられる、神という対立概念ではない言葉の発生であるということ。
人の心から発する言葉に、すでに神なるものが宿るという言霊の考え方である。ここを誤ると、大和言葉の真実が見えなくなる。
あくまでも、人の心から発するのであり、どこか遠い世界、人知を超えたような世界からは、湧いてこないのである。
これ、大和言葉の骨頂である。

さらに、驚くべき宣言がなされる。
「世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて言ひだせるなり。花に鳴くうぐひす、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。」
何と、人間だけでなく、花に鳴くうぐひすも、カエルも、生きとし生けるもの、すべてが歌を読むという。
人間の言葉だけが歌ではないというのである。
いずれの生き物も、ものに触れては、心を動かし、歌を歌うという。
私は、この思想に驚嘆する。
何ゆえに、このように考えられたのかと。
人間平等だけではなく、生き物すべてが、歌道においては、平等であるということである。これを驚かないで、何を驚く。
天皇も庶民も、歌道においては平等であると書いたが、ここでは、生き物すべての歌を歌として認識するという仰天である。
これは何を言うものか。

天地に対しての謙りである。謙虚さと謙遜の姿勢である。人間だけが特別な存在であるとしたなら、それは奢りであると言う。生きとし生けるものによって、人間も心を動かされて歌を読む。そして、彼らも彼らの方法で歌を歌うのである。
人が歌を朗詠すると、生きとし生けるものが耳を傾けて聴くのである。そして人間もまた、彼らの歌を聴いて、心を動かし、歌を読む。歌が歌を呼び、歌が木魂すのである。自然は歌に溢れている。
私は、そう解釈する。


2007年02月19日

もののあわれについて その14

古今の序を続ける。
「いにしえより、かく伝はるうちにも、奈良の御時よりぞ、広まりにける。かの御世や、歌の心をしろしめしたりけむ。かの御時に、おはき三つの位、柿本人麻呂なむ、歌の聖なりける。これは、君も人も、身を合はせたりといふなるべし。」
古きより伝わるうちに、奈良時代になった平城天皇時から、特に広まったのである。あの時代の帝は、歌の本質をお知りになっていらしたのであろうか。柿本人麻呂は歌の聖であった。このことは、帝も、臣も身をひとつに解け合わせていたのである。

「秋の夕べ、竜田川に流るるもみぢをば、帝の御目には、錦と見たまひ、春の朝、吉野の山の桜は、人麻呂が心には、雲かとのみなむ覚えける。」
秋の夕暮れの竜田川に流れる紅葉の葉は、帝には、錦と見えていた。春の朝の吉野山の桜の花は、人麻呂の心には、雲ではないかと思われるばかりであった。

「また山辺赤人といふ人ありける。歌にあやしく妙なりけり。人麻呂は赤人が上に立たむことかたく、赤人は人麻呂が下に立たむことかたくなむありける。この人々をおきて、またすぐれたる人も、くれ竹のよよに聞こえ、かた糸のよりよりに絶えずぞありける。これより先の歌を集めてなむ、万葉集と名づけられたりける。」
山辺赤人という人がいた。不思議なほどに歌が上手である。この二人を比べると、どちらが上か下かとは言えない。この二人をおいても、他にまた優れた人々も、その世々に知られて、絶えることがなかったのである。人麻呂、赤人より以前の歌を集めて、万葉集とお名づけになったのである。

上記の文は、年代としては、合わない。
人麻呂も、赤人も、奈良ではなく、もっと古い時代の人であり、二人は同じ時期の人ではない。また、彼らの歌は、万葉集に入っている。
万葉集は、八世紀の頃、大伴家持によって編纂された。
当時の万葉集に対する認識を伺うことが出来る文である。まだ、正確ではなかった。
古今は、十世紀905年編纂であり、万葉集編纂から146年ほど後である。
ともあれ、古今の編纂は、万葉集に大きく影響されたということである。
万葉集は、四千五百首であり、古今は千百あまりと、ほぼ四分の一である。万葉集の圧倒的な量には叶わない。

その後、13世紀1205年に新古今集が編纂されるが、これも万葉集を無視出来ないのである。つまり、万葉集は、矢張り、歌の道の親であった。
万葉に始まり、万葉に帰る。和歌は、そうして大和言葉を伝承してゆくのである。
歌道とは和歌のことであり、この歌道こそ、日本人の心を創るのである。
おしなべて 物を思わぬ 人にさえ 心をつくる 秋の初風 西行
普段は、物思いに耽らない人にさえも、秋の初風は、何事か、物思いに浸らせる力がある。
日本人が心を創るのは、自然の有り様の中にある。それが歌になる。つまり、言葉の世界を作る。精神としての言葉が先ではない。まず心が先であり、そして精神としての言葉の世界が生み出される。
間違いの無いように言う。
ここが、欧米の思想、多弁なインド哲学等々と違うのである。
彼らは、語る、多く語る。語りすぎる程語りつくしても、和歌の前には、吹き飛ぶのである。それは、彼らの言葉が、記号であり、霊の存在しない、物であるからだ。
大和言葉は、霊が宿る、神が宿る言霊の言葉である。もっと言えば、音霊、そして数霊が宿るのである。
三十一音のみで、どこまでも世界を広げてゆくことが出来る。
これを驚嘆しないで、何を驚嘆するのか。

禅宗という仏教の一派がある。中国禅といってもいい。彼らの言い分は、不立文字という、つまり、教えは、言葉に出来ないと言う。しかし、彼らの著述の多いことといったらない。勿論、日本の禅宗の僧も、語る語る。だから、私は嘘だと言うのである。
言葉に出来ないのであれば、語らずに行為のみに始終するはずであるが、語る。つまり、嘘があるからである。語れば、その嘘を隠せると思う。それを、彼ら自身が知らないという不幸である。
短文により、何事か、解ったような言葉を作るのを善しとするようだが、あれらは嘘である。いい格好しいである。
あれに、迷ってはならない。
あれこそ、仏法に迷う骨頂である。勿論、それも彼らは知らない。
一時期の武士たちが、あの言葉の世界に迷い、禅は深遠なものであると、思い込んでしまった。信じ込んだ。それが命取りになった。
これ以上は言わないでおく。
私は、道元の文に大いに触発された。読ませるに見事な文である。
文学としては、素晴らしい。

2007年02月25日

もののあわれについて その15

紀貫之の大和言葉を、もう少し読む。
「古き歌、自らのをも奉らせたまひてなむ。それが中に、梅をかざすより始めて、ほととぎすを聞き、もみぢを折り、雪を見るに至るまで、また、つる・かめにつけて君を思ひ、人をも祝ひ、秋萩・夏草を見て妻を恋ひ、逢坂山に至りてたむけを祈り、あるは、春夏秋冬にも入らぬくさぐさの歌をなむ、選ばせたまひける。すべて千歌二十巻、名づけて古今和歌集といふ。かくこのたび、集め選ばれて、山下水の絶えず、浜の真砂の数多く、つもりぬれば、今は飛鳥川の瀬になるうらみも聞こえず、さざれ石のいはほとなるよろこびのみぞあるべき。」
古き歌とは、万葉集である。万葉の歌に入っていない歌、選者たちの歌も奉らせた。
その歌の中には、梅をかざすというものから、ほととぎすの声を聞いて、紅葉を折り、雪を見るという歌に至るまで、また、鶴や亀に託して君の長寿を思い、人をも祝う、秋萩や夏草を見ては妻を恋しく思い、逢坂山に至っては、手向けの神を祈り、また春夏秋冬のどれにも属さぬ様々な歌を選ばせたのである。千首二十巻、名づけて古今和歌集という。
このたび、歌が集められて、絶えることなく、その数が多く積もり、今は、歌が衰えてゆくこともなく、さざれ石の岩になる如くに、生成する喜びのみあるばかりだ。

不思議なもので、大和言葉を静かに読むと、心が落ち着くのである。
言葉は時代と共に変わるが、その元は、変わらない。日本語の元は、大和言葉である。幾度も読むうちに、自然に、何事かが伝わるというのは、日本人だからである。
古典など読む必要が無いと言う人もいる。それはそれでいい。
いつか、大和言葉に慰められる時がくるかもしれない。
「たとひ、時移り、事去り、楽しび行きかふとも、この歌の文字あるをや。青柳の糸絶えず、松の葉の散りうせずして、まさきのかづら長く伝はり、鳥の跡久しくとどまれらば、歌のさまを知り、事の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、いにしえを仰ぎて、今を恋ひざらめかも。」
たとい時移り、事が去り、楽しみ悲しみが行き来し変転しても、この歌がある。これが絶えず散り失せないで、長く後世に伝わり、久しく留まるならば、歌が何かを知るであろう。それは、大空の月を仰ぎ見るように、古い時代の歌を仰ぎ見る。そして、この歌を恋い慕うであろう。

さて、いよいよ、大和心の万葉集に分け入る。
私は学者ではない、研究家でもない、素人であるから、ばったばったと、心の赴くままに、もののあわれを尋ねてゆく。
人間の持つ、あらゆる心の様を万葉集は、目の前に現す。
現代の人間と、万葉時代の人間に、何事かの差があろうか。大差ないのである。ただ、複雑になっただけである。絡み合う糸を解せば、皆々、万葉の時代の人の心になる。

おほいなる、やわらぎの、こころ、つまり、大和魂が、もののあわれの大本である。
人の心の喜怒哀楽が、すべてこなされてゆく時に、心の姿が、和らいでゆくのである。

建礼門院右京太夫は歌う。
月をそこ 眺めなれしか 星の夜を 深きあわれを 今夜知りぬる
いつもは、月を眺める。しかし、今夜の星空は、何であろう。この星空を眺めていると、心の深いところから、あわれを思う。あわれというものを知るのである。

愛する人を失い、絶望の内に生きた人の、深いため息から生まれでた、あわれの情。あわれが、哀れであり、憐れとなり、そしてあわれは、深い慈しみに至る。
ある思想家が言う。歳月は慈悲を生ずると。
もうすでに、私は、あわれの答えを出している。
人の心のあらゆる相を経て、人の心は、いつくしみに至るのである。
そこに辿り着くまでには、万葉の世界を抜け出て、万葉を抱擁してゆくのだ。
とにかく、大和言葉の真骨頂を感得しなければならない。そのためには、万葉集の言の葉に分け入り、分け入りしてゆかなければならない。
言葉の先祖帰りである。
心のふるさと、万葉集である。

もののあわれについて その15

紀貫之の大和言葉を、もう少し読む。
「古き歌、自らのをも奉らせたまひてなむ。それが中に、梅をかざすより始めて、ほととぎすを聞き、もみぢを折り、雪を見るに至るまで、また、つる・かめにつけて君を思ひ、人をも祝ひ、秋萩・夏草を見て妻を恋ひ、逢坂山に至りてたむけを祈り、あるは、春夏秋冬にも入らぬくさぐさの歌をなむ、選ばせたまひける。すべて千歌二十巻、名づけて古今和歌集といふ。かくこのたび、集め選ばれて、山下水の絶えず、浜の真砂の数多く、つもりぬれば、今は飛鳥川の瀬になるうらみも聞こえず、さざれ石のいはほとなるよろこびのみぞあるべき。」
古き歌とは、万葉集である。万葉の歌に入っていない歌、選者たちの歌も奉らせた。
その歌の中には、梅をかざすというものから、ほととぎすの声を聞いて、紅葉を折り、雪を見るという歌に至るまで、また、鶴や亀に託して君の長寿を思い、人をも祝う、秋萩や夏草を見ては妻を恋しく思い、逢坂山に至っては、手向けの神を祈り、また春夏秋冬のどれにも属さぬ様々な歌を選ばせたのである。千首二十巻、名づけて古今和歌集という。
このたび、歌が集められて、絶えることなく、その数が多く積もり、今は、歌が衰えてゆくこともなく、さざれ石の岩になる如くに、生成する喜びのみあるばかりだ。

不思議なもので、大和言葉を静かに読むと、心が落ち着くのである。
言葉は時代と共に変わるが、その元は、変わらない。日本語の元は、大和言葉である。幾度も読むうちに、自然に、何事かが伝わるというのは、日本人だからである。
古典など読む必要が無いと言う人もいる。それはそれでいい。
いつか、大和言葉に慰められる時がくるかもしれない。
「たとひ、時移り、事去り、楽しび行きかふとも、この歌の文字あるをや。青柳の糸絶えず、松の葉の散りうせずして、まさきのかづら長く伝はり、鳥の跡久しくとどまれらば、歌のさまを知り、事の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、いにしえを仰ぎて、今を恋ひざらめかも。」
たとい時移り、事が去り、楽しみ悲しみが行き来し変転しても、この歌がある。これが絶えず散り失せないで、長く後世に伝わり、久しく留まるならば、歌が何かを知るであろう。それは、大空の月を仰ぎ見るように、古い時代の歌を仰ぎ見る。そして、この歌を恋い慕うであろう。

さて、いよいよ、大和心の万葉集に分け入る。
私は学者ではない、研究家でもない、素人であるから、ばったばったと、心の赴くままに、もののあわれを尋ねてゆく。
人間の持つ、あらゆる心の様を万葉集は、目の前に現す。
現代の人間と、万葉時代の人間に、何事かの差があろうか。大差ないのである。ただ、複雑になっただけである。絡み合う糸を解せば、皆々、万葉の時代の人の心になる。

おほいなる、やわらぎの、こころ、つまり、大和魂が、もののあわれの大本である。
人の心の喜怒哀楽が、すべてこなされてゆく時に、心の姿が、和らいでゆくのである。

建礼門院右京太夫は歌う。
月をそこ 眺めなれしか 星の夜を 深きあわれを 今夜知りぬる
いつもは、月を眺める。しかし、今夜の星空は、何であろう。この星空を眺めていると、心の深いところから、あわれを思う。あわれというものを知るのである。

愛する人を失い、絶望の内に生きた人の、深いため息から生まれでた、あわれの情。あわれが、哀れであり、憐れとなり、そしてあわれは、深い慈しみに至る。
ある思想家が言う。歳月は慈悲を生ずると。
もうすでに、私は、あわれの答えを出している。
人の心のあらゆる相を経て、人の心は、いつくしみに至るのである。
そこに辿り着くまでには、万葉の世界を抜け出て、万葉を抱擁してゆくのだ。
とにかく、大和言葉の真骨頂を感得しなければならない。そのためには、万葉集の言の葉に分け入り、分け入りしてゆかなければならない。
言葉の先祖帰りである。
心のふるさと、万葉集である。

2007年02月27日

もののあわれについて その16

万葉の時代を探る。
まず初期万葉は、舒明天皇から始まる。629年。
淳仁天皇の天平宝字三年。759年。130年間にわたるのである。
私は、学者ではないから、それを初期、中期、後期と区分けることはしないが、初期から伺える、大和言葉の生命力、宇宙的存在の讃歌から、次第に個人的な感覚へと移行してゆく。後期になると、古今集に近くなりつつあり、それは、またそれで意味が深いものになってゆく。
私は、歌風などを分析はしない。
大和言葉の、もののあわれを尋ねてゆく。

万葉の世界の生みの親ともいえる、舒明天皇御製から見る。
「大和には 郡山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ 大和の国は」
天皇(すめらみこと)香具山に登りて望国(くにみ)したまいし時の御製歌(おほみうた)

天皇は、てんのうと読めば、漢語である。大和言葉では、すめらみこと、である。
すめら、とは、統べる、統治する。命は、ミコト、御言である。
多くの人、今までは、政治を統べるを持って、天皇と言うが、私は違う。
また、政、まつりごと、つまり、政治と、祭り、奉るを司る人というもの。しかし私には、違う。
私は、御言、みことを、統べる人と言う。
天皇の宣言を、詔(みことのり)という。御言を述べるということである。
天皇は、私には、最初に御言を発する者であるという意識である。
天皇に対する、考え方が、まず違うということを言う。
何度も書いたが、大和言葉は、言霊、音霊、数霊の言葉であるということ。一音に意味があるということ。それを使用する者は、大和、日本人であるということ。国とは、国土のことのみではない。国とは、意識である。国体という意識であり、それは、国民である。その国民の代表者としての、天皇の存在がある。天皇は、人間を超越したところの、神なる存在ではない。もし、神というならば、それは全く論外のことである。
神という存在は、この世に、この宇宙に存在しないからである。
神、ミコトとは、尊称である。これを理解してもらわなければ、私の、もののあわれを、理解できない。
国体の代表者である、天皇の御言が、初めにあると考える。
その御言は、誰に向けられるか。それは、祖先である。そしてまた、その祖先の代表者が、天照大神である。
何をいいたいのかといえば、日本でいうところの、宗教や信仰とは、この祖先と、子孫の通じ合いであるからだ。
超越した絶対者など、日本には、いない。大和言葉を理解したいのならば、それを知ることである。

そうして語り続けられてきたものこそ、真実である。そこには、想像も、妄想も無い。在ることしかない。
言葉を古来、言の葉と言った。言の葉のようなものである。葉とは、木の葉の、葉である。
一つの樹は、多くの葉をつけて成長する。それらの考え方、すべが自然からの学びであることを言う。
日本に精霊信仰が、云々という、言い方を私は好まない。
言葉までを、神として尊称する民族である。当然、自然も、神として尊称するのである。
それを、八百万の神、千代万の神と言う。

先を続ける。
大和の国には、たくさんの山があるが、非のうちどころのない、円満具足の天の香具山に登り、国見をするために眺めると、ここかしこに煙が立ち、様々な池には、カモメが、しきりに飛んでいる。何という、美しい平和な国であろうか、この秋津島、大和の国は。

万葉の歌は、目で読むのではなく、声に出して読むものである。
その訳を言う。
当時は、文字が無かった。これは、簡単に言う。要するに、言葉は話し言葉である。文字という意識は、中国からの書物による。
これを短絡的に考えて、文字が無かった、すなわち、文化が遅れていたと考えてはいけない。文字にする必要が無いほどの、記憶力があった。
また私は、文字があったと考えている。しかし、当時、中国の文字を利用するという考え方が出た。それは、ある種の策略である。それを今は、言わない。
学術的には、文字が無かったということである。今は、それに従う。
さて、当時の人々は、文字に頼らずに、耳に頼った。記憶である。口から耳へである。語り継がれ、聞き継がれていた。これは、口から出る言葉の「響き」に、重大な意味があるということである。
ある研究家が言う。
「口から発せられる言葉の響きに対する人々の感覚は、おのづからに、極度に鋭敏化され、純化されていたに相違ない。言霊信仰が生まれる理由の一つもここにある。」

言葉は誤魔化すことが出来ても、響きを誤魔化すことは出来ない。
言葉を大切にするということは、実は、言葉の響きを大切にせよと、同じである。言葉の響きの濁りは、人格の濁りになる。
ただ今は、言葉の響きの重要性を教える人がいない時代である。喋る人はいるが、語る人が、極端に少ない時代である。
日本は、話芸の国である。語りを芸として、高める国柄である。書き言葉よりも、話し言葉に言葉の妙がある。これについて書けば、長くなるので、止める。

2007年02月28日

もののあわれについて17

もののあわれについて その17

斉明天皇御製
今城(いまき)なる 小山(をむれ)が上に 雲だにも 著(しる)くし立たば 何か嘆かむ
孫である、建王(たけるのおほきみ)が八歳でなくなられた説きに歌われた挽歌である。
挽歌とは、何か。
人の死を歌ったものである。
万葉初期の挽歌を読めば、当時の死に対する考え方が探れる。
それは、それ以前の人の死に対する考え方であるといえる。
今城の小高い丘陵に、たなびく雲、はっきりと立ち上って欲しい。その雲を愛しい孫の形見と思い、心を慰めて、悲しみを忘れようぞ。

死は、身を隠したものである。これに尽きる。
消滅したという観念はない。現世から、身を隠したのである。現身(うつしみ)から、隠身(かくりみ)であった。
死が、無常感と感じるようになるのは、仏教の浸透以降である。つまり、平安時代以降である。
万葉期では、「天雲の五百重(いほへ)が下に隠り給いぬ」「雲隠ります」「隠(こも)りにけらし」「磐隠ります」「隠らばともに」などと言う。
隠れるのである。死は、隠れた状態であり、消滅したものではない。これが、万葉の死生観である。

霊学から言う。
死生観と言えば、一つの物の見方ということになるが、隠れるという表現は、全く真実である。
その身を隠したのであり、無くなってはいない。亡くなっても、無くなってはいないのである。
万葉初期は、それ以前の日本人の死を見詰た目である。その目は、確かである。
それを自然から学んだ。自然の有り様から学んだ。花の芽が出て、花を咲かせて、そして萎んで散る。また、次の年には、芽が出て、花を咲かせる。その自然の理の中に、人の死を観たのである。
人は死んで、その身を自然の中に隠すのである。つまり、自然と同化するのである。
自然と同化することをもって、人は死後に逝くべき世界のあることを知っていた。
霊学では、次元移動という。次元については、省略する。この世の言葉で、あの世のことは、語りない。語れば、無理がでて嘘になる。
見て来たようなウソを言わなければならない。

まだ、言さえぐ、思想に犯されていない時期の、日本人は、そのものを、そのままに観ていたのである。死体は、土に成ってゆくということである。肉体は、土に、そしてその思いは、立ち上り行くと。思いとは、人の思いであり、死者の思いである。思いを霊と呼んでもいい。思いは、消滅しない。
土に戻ることを隠れたと言い、思いを立ち上ると観たゆえに、雲に託した。霧に託した。それらは、突然現れ、そして消える。しかし、またいつしか現れ、消える。
人の思いも、そのようであると観た。信じたのではない。観たのである。
純粋素朴に、虚心胆管に観れば、そのように観えるのである。
あるがままに、とも言う。
この、あるがまま、を忘れたのが、時代の進化であろうか。

人は死んでも、死なない存在であることを、知っていたのである。
千の風という英詩を、意訳した歌詞が歌われて、感動を誘うというが、何故、万葉集の挽歌を知らないのかと言う。
私は、お墓にはいない。とは、万葉人が観たことである。ただし、ここが驚きである。
稜を造り、喪に伏したのである。人の死を、伏したということである。死んで消滅したならば、何もせずともよいが、喪に伏すということは、どういうことなのか。
ここに、人生の秘密がある。
生死を断絶させない。
簡単に言う。古代人は、生死を行き来したのである。
仏教伝来以前から、死者を奉る所作があった。そして、死者を呼び、共に食し、共に過ごした。それが、神呼びとなった。
神道での、魂鎮め、魂振りなど、それは死者に対する所作から始まったのである。
神霊を云々という話は、後の後である。
まず、死者との対話から始まったものである。それが、後に、己を修行させるものへと変化する。そんなことをしなくても、古代人は、清らかであり、今の言葉で言えば、神に近い思いを持っていた。
例えば、現代人の知能が少々発達したところで、彼らと差があるかといえば、彼らの方が、別なところでは、現代人の比ではない。
そんな瑣末なことは、どうでもいい。
それよりも、彼らが観ていたものの、観たものである。

死を絶望としては理解しなかった。虚無も無い。
死は、姿を変えたものだった。だから、お隠れになるのである。お隠れになっただけで、思いは溢れるほどにある。
清く、直き、明き心である。その目で観るのである。
柿本人麻呂の歌。
隠口(こもりく)の 泊瀬の山の 山の際(ま)に いさよふ雲は 妹にかもあらむ
あの娘が雲と化してたゆたふている。
化身するのである。死者は、自然の何かに化身して、その存在を示すのである。これ、信じることではなく、そうなのである古代の人は。

神代からという言い方を多く、古の歌人はする。
神代とは、古い昔の時代のことである。それは、今に続けているのである。
神代が、この世と隔絶された世界ではない。人は死んで、この世の続きの神代に隠れたのである。神代は、祖先のいる場所である。
この世と、対立した世界ではない。今は、神代である。今も、神代である。そのようにして、死を捕らえていた。そして、それは正しい。

もののあわれについて その18

万葉人たちの死生観について言う。
死は、別れであった。しかし、ただ今の時代の、死に対する絶望感や、悲惨な慟哭はない。死をもって、無常を感じるというものも、仏教の影響であり、元は、そのような感情は無かった。
清らかに美しく歌い上げたのが、万葉の人々である。
そして別の世界への移行である。それが端的に「隠れる」という表現になった。
人は、肉体を超えたものであることを、彼らは、見抜いていたのである。
そして、もっとも驚くことは、個人が個人ではない。個人は全体であった。それは、他者のみではない、天地自然の全体であった。全体の存在感を有していたといえる。
個が全体から分離することを持って、死という感覚があった。
これを理解するためには、万葉集を音読してゆくことである。自ずと、それを感じる。

聖徳太子の御製
家にあらば 妹が手まかむ 旅に臥せる 草枕 この旅人あはれ 
万葉集に載る聖徳太子の唯一の歌である。
ここが旅先ではなく家であったなら、妻の元で看護されて、息を引き取るのも、その手のうちでなせたものを、介抱してくれる者もなく、淋しく死んでいった旅人は、憐れである。日本書紀、推古天皇二十一年の条に、このことが書かれている。
皇太子、飲食を与ひ、衣裳を脱ぎて飢えたる者に覆ひて、安らかに臥せと言りたまひてき。とある。
この歌の調べにあるものは、死に対する陰惨な絶望感はない。今、死に瀕しても、その眼差しは、優しく、草木が枯れてゆく如くに見据えている。
ここでの、あはれ、という言葉は、単なる無常の哀れではない。存在すべてを抱きとめる心を、あはれと言う。
目に曇りなく、その状態を見て、それをそのままに受け入れる、受け取る、あはれである。
人間把握の発想の次元が違うと言う。
これが他人の死に無関心であったならば、あはれという言葉は出ない。死に至る人の存在は、単なる物ではない。

この万葉人の、あはれを、実践した人が、インドのマザーテレサである。
清らかな、温かさのある、死に赴く人への眼差しである。
個は個では