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遥かなる慰霊の旅 アーカイブ

2007年11月14日

遥かなる慰霊の旅・タイへ

遥かなる慰霊の旅・タイへの旅

11月1日、晩秋を過ぎて冬を感じさせる寒さを感じる日の朝、タイ行きの最終の準備をして、部屋の中を整理し、出掛けた。

実は、その前日、父が、10年程再発しなかった、喉頭癌が再発し、手術をしていた。手術は、うまくゆき、大丈夫とのこと。しかし、高齢でもあり、そう長くは無い。
それも、覚悟していた。声を失った、父とは、話が出来ないが、父は、母や、弟から、私が、タイに慰霊に行くと聞いているはずである。

父は、最期の少年兵である。
志願兵である。
15歳で、お国のために、死ぬ覚悟で、出兵した。
しかし、戦場に出る前に、終戦となった。
もし、終戦が少し遅れていれば、父は、死んでいた。
そして、私も、この世にいない。

バンコクを経由して、チェンライという、北部タイの町に向かう。
乗り継ぎのために、バンコクに一泊することにしていた。

タイは、日本より、二時間遅い。
日本では、深夜12時、タイでは、10時に到着し、タクシーに乗り、バンコク市内の予約したホテルに向かう。

大都会のバンコクの下町にある、安いホテルである。
翌朝、朝食を済ませて、空港に向かうので、十分なホテルだった。
夜の街に出ることもなく、私と、同行の野中は、シャワーを浴びて、ベッドに着いた。
勿論、すぐに、眠ることは出来ない。いつもの癖で、寝つきが悪い。
長旅に疲れは、禁物なので、睡眠導入剤を飲む。
そして、少し缶ビールを飲んだ。
しかし、本来ビールは好きではない。すぐに飽きて、止めた。

日本でも、私の朝は早い。五時から六時に目覚める。
バンコクの朝も、五時に目が覚めた。
目覚めながら、ベッドにいた。
そして、本日の予定、チェンライでの予定を、反芻していた。
強行な予定ではない。
ゆるやかな予定である。決して、無理をするような計画は立てない。

昨日のタクシーを野中が予約していた。
10時になると、タクシーが来た。
5分遅れである。しかし、ホテルに、タクシー運転手から、遅れるとの電話が入ったそうだ。野中が言う。そんなことは、なかったと。きっと、私が、着物を着ていたので、タクシー運転手が緊張したのだろうという。

この、着物姿は、実に、有効だった。
色々な旅の時に書いたので、省略するが、着物の威力は、凄いものがある。
着物は、信用であり、権威であった。

さて、順調に、新しいバンコクの空港に着く。昨日も、新しい空港に着いた。古い空港は、まだ利用されているが、国際線からの、乗り継ぎは、新しい空港が、便利である。

新しい国際空港は、バンコク市街の東約27キロにある、スワンナプーム空港である。
古い、ドン・ムアン空港も、市街から北20キロにあり、現在も使用されている。

チェンライ行きの飛行機は、国内線専門のエア・アジアである。
国内線の格安チケットを売る。座席の指定なく、機内の飲み物サービスも、有料である。

国内線は、陸の上を飛ぶ。海がないから、下界は、山々と、続く。飛行時間は、一時間と少しで、東京札幌間程度である。

田舎の空港である。
早速、タクシーに乗り、市内に向かう。宿泊ホテルを決めていないので、市内の中心に向かってもらった。目印は、時計台である。
ただし、時計台は、改装中であった。
20分程で、市内に入り、下りた前の中華料理店に入った。
料理店といっても、オープンになっていて、地元の人の食堂である。
タイラーメンと、よく解らないが、店先にある、ケースの品を指差し、注文した。すると、注文したものを、横のガス台で、焼いてくれる。

シュウマイに似たものと、小さなアンマン。何となく、美味しいので、更に、もう一つ頼んだが、今、それを、思い出せない。
その店にいると、私の子供の頃の風景がある。40年ほど前の、北海道の田舎街の風景である。食堂のイスも、テーブルも、同じだ。
不思議な感覚に襲われた。
今は、田舎に戻っても、そんな店は無い。

気温が思った以上に低い。肌寒いと思う程だ。
同じタイでも、北であるから、当然であるが、南の国のイメージが無い。

食べ終えて、次に、宿探しである。
地図を見て、安いホテルに向かう。ところが、そのホテルが無い。取り壊されていたのである。驚き。
その付近を少し歩く。
ゲストハウスの前に来て、声を掛ける。
野中に、部屋を見せてもらうと言い、私が中に入った。
確かに、安いだけある部屋である。問題は無いが、最初に泊まるには、少し、寂しい。
気持ちが、萎える部屋は、駄目だと、また、歩く。
今度は、ホテルである。中型ホテルである。
二人で、1200バーツ。約4000円である。
日本円にすると、安いが、現地では、高いホテルである。勿論、まだまだ高いホテルは、ある。しかし、私たちには、高いのである。
最初の一泊を、そこに決めた。ところが、全室、禁煙である。
「あらー、禁煙なら駄目だーー」と、私。英語で、アイ、ヘビースモーカーと言うと、受付の女性が、オッケーと言う。喫煙の部屋があるという。

実は、タイのホテル、ゲストハウスは、禁煙が多い。多くなったといってよい。公共施設、レストラン、等々、皆、禁煙である。しかし、野外は、喫煙できる。暖かい国なので、外でも、平気である。

与えられた部屋は、二階の豪華な部屋である。
そうそう、それで朝食付きである。

部屋が決まり、安堵して間もなく、明日からの部屋と、ミャンマー国境へ行くための、手配をしなければならない。
と、そこで、野中が、自分のリュックを忘れたと、言う。
えっー、どこで。
あの、食堂だと、言って、野中が出た。
私は、冷静に、考えた。
確か、ゲストハウスまでは、背中にあったと思った。置いたとしたら、あの、ゲストハウスである。
戻ると、無いという。
「あんた、あのゲストハウスに行っておいで」と、私。
その時、野中が、中華料理店の主人に親切にしてもらい、色々と、連絡を取ってくれたという。タクシーなら、空港のタクシー乗り場だと、近くの旅行会社に行き、一緒に電話をしてくれた。そして、その旅行会社の人も親切にしてくれた。
そこで、ミャンマー行きのことも、聞いたという。
禍が転じて福となる。
2400バーツで、一日、ミャンマー行きが出来るという。
後で、その旅行会社に行くことにして、まず、ゲストハウスに、野中が、行った。案の定、リュックは、そこにあった。
目出度し目出度しである。

そして、早速、あさっての、ミャンマー行きの申し込みに行く。
約6時間の予定で、2400バーツ。観光、食事込み込みの料金である。
温泉、サルの何とか、色々と、オーナーが言う。私は、ミャンマーに行くだけが、目的だから、聞き流していた。
兎に角、料金を払い、決定した。約6800円である。

そして、最後に、オーナーが言う。
女は、どうすると。
女学生なら、一晩、4000バーツだと言う。約、13000円程度である。
売春である。平然として言うから、驚く。
私が、そういう話を断る時、アイ ライク ボーイと言う。すると、何も言わないのである。ボーイが好きなのだから、女に興味が無いのである。そこまで言わなければ、しつこく、売春を勧められる。ところが、このオーナー、その言葉に、たじろぐ事無く、何度も、私に言うから、驚いた。
誰が教えたのか、オマンコを連発する。
もう、笑うしかない。何を意味するのか、知っているのか、知らないのか。女を、そういうものだと、教えた日本人がいるのであろう。

旅で、問題なのは、食べることである。さて、昼は、夜は、何を食べるか。旅の楽しみの半分は、食べることである。現地のものを、食べる。それは、現地を理解する、最高の手立てである。そして、市場、スーパーでの買い物。私は、これが、大好きである。

2007年11月15日

遥かなる慰霊の旅 タイへ2

遥かなる慰霊の旅・タイへの旅 2

長旅では、決して無理な予定は立てない。
必ず、一日を置き、間を置いて行動することにしている。
前回のタイでは、野菜サラダを食べて、当たり、一日寝ていることになった経験がある。それは、消耗が激しく、辛いものだった。吐き気が止まり、下痢だけになったので、病院に行くことはなかったが、24時間、動くことが出来なかった。

ミャンマーに入る前日は、一日、のんびりと過ごすことにした。
と言っても、ホテルを変更しなければならない。

朝、ホテルの豪華な朝食バイキングを食べて、休み、チェックアウトの12時まで、ホテルにいた。

ホテル探しの前に、昨日の旅行会社に向かった。そこで、紹介されるホテルなら、良いホテルを紹介されると思った。

行くと、私たちを待っていたかのように、昨日のオーナーがいた。
あらら、と思った。社員で、良いのに・・・

ホテルの紹介を言うと、オーナーが、一番良いホテルを紹介した。
通常の日本のホテル並みの料金である。
違う、違う、もっと、安いホテルだと言うと、次のレベルに落とすが、まだ、駄目だ。私の和服のせいで、お金があると、勘違いしている。
「もっともっと、安いホテルでいいの」私が言った。日本語で。通じた。

コテージ風のホテル、実に、その会社の向かいの、ゴールデントライアングルインという、一泊800バーツ、二泊で、1600バーツのホテルに決めた。二泊で、約5200円ほどである。朝食付き。
実は、私は、一泊600バーツほどのホテルを望んでいた。約2000円である。
しかし、妥協した。

オーナーが、私たちを連れて、ホテルに向かった。
二階建てのコテージである。私たちの部屋は、二階の角部屋である。道路に面していて、目の前に、ソニーの看板が見える部屋である。
十分だった。
オーナーは、また私に、オマンコと言った。笑って、済ませた。

その日は、タイマッサージの予定である。
一時間200バーツ、約660円のマッサージである。それが、また、凄かった。
アカ族の女マッサージ師である。うまい。マッサージというより、指圧に近い。
日本の一割の料金で、十分なマッサージを受けられる。これが、タイの魅力でもある。

野中は、少しタイ語が出来るので、アカ族の女と親しくなり、色々と、彼女の境遇を聞いた。未婚の子持ちである。息子は、ミャンマーの孤児の施設にいるという。
ミャンマーのアカ族には、古代の乱交の風習があり、誰の子か解らないらしい。
いずれ、息子には、英語を学ばせたいと言う。日本円にして、一月3000円ほどの資金があれば、それが出来るが、その3000円を得ることが出来ないのだ。

その日の、朝食は、ホテルで取ったが、昼食が思い出せない。手帳見ると、夜に和食とあるが、その和食の内容も、思い出せない。矢張り、細かに書いておかなければ、忘れる。

実は、日本から出る前に、私は、鼻風邪を引いていた。それも、強烈なものである。親切に、子供の鼻をかんであげて、その紙で、自分の鼻をかんで、移ったものである。免疫がなく、治りが悪いので、抗生物質を飲んでいた。
引き続き、風邪薬と、抗生物質を飲み続けていた。

夜の食事をして、野中と別れて、私は、ぶらぶらと、小路を歩いた。
小路の端の、オープンな中華料理の店で、緑茶を頼んだ。
禁煙ではないが、灰皿が無い。
オープンだが、店先のイスに座り、タバコに火を点けた。
灰は、ブリキの缶に入れるらしい。いちいち、立ち上がって、その缶に捨てる。
禁煙運動家には、実に、気分の良い、対処である。
タバコを吸うのが、面倒になるのである。

少しして、私は、ホテルに戻る道を歩く。
その辺りは、マッサージの店が多い。妖しい店もある。
わざわざ、レディーマッサージとある。何となく、理解できる。
そこを通ると、マッサージマッサージと、声がかかる。

その時の私は、タイパンツと、Tシャツなので、それほど、強引な誘いはなかった。
ただ、可愛らしい女の子が、じっと、こちらを見ているのに、心が弾かれた。その顔には、悲しみがある。悲哀といってもいい。
抗えない運命の中に身を置くという、風情である。
生きるため。
生きるためにと、考えて、生きるということを、知らない、日本の若者には、理解出来ない風情である。
食うために、男の性の処理を行う。

チェンマイに行くと、チェンライから来たという者が多い。そのチェンライで、更に、田舎から出てきて、働く。
少数部族の女が多い。
マッサージも然り、体で稼ぐしかない。
うまくいけば、レストランのボーイ、ウエイトレス。ホテルの下働きである。
その給与は、一月、3000バーツ程度。約、一万円である。
しかし、生活が出来ない。それと同じ分を、チップに頼るという。
それで、約二万円。

しかし、私は、哀れむことはしない。する必要も無い。
それが、現実である。
私も、日本にて、現実を生きる。
観光旅行なら、私は、来ることも無い。また、そんな余裕は無い。
慰霊と、ボランティアをするための、支援を受けて、旅をしている。
私も、哀れまれる存在である。

悲しい顔をした彼女は、私を悲しい顔をした、男だと、見ていたはずである。

例えば、私が彼女の一時間を買ったとして、私は、彼女に解消して貰う、欲望は無い。

私のマッサージをして貰う歴史は、長い。マッサージを受けるプロである。つまり、余程の力量のある者でなければ、私を満足させられない。オイルマッサージを、何度かしたが、あんなものは、子供だましである。
逆に、後味が悪くて、凝りが出て、具合が悪くなる。
凝りを取り除くという技は、並大抵ではない。

変な整体に、痛みのないソフト整体などという者がいる。あれは、逃げである。凝りを取り除こうとすれば、当然、痛みがある。生殺しのような、整体マッサージを受けて、何度も、具合が悪くなった。二度と、受けない。
どんなマッサージ師、整体師より、私の方が巧い。何せ、マッサージを受け続けて、30年以上のキャリアである。
理屈ではない。

ちなみに、死んだ人間には、凝りというものが無い。
生きている人間にだけ、凝りというものがある。
生きている証拠が、凝りである。

凝りには、その人の、全人生が表現される。
一時的にでも、凝りを取り除くということは、その人を、一時時に、人生から、解放するということである。
その意識無い者が、マッサージなど、出来るはずもない。

更に言う。

性処理のマッサージも、二度としたくないというものが、本当である。
性とは、繰り返しである。
繰り返しから、逃れられない。つまり、性とは、排泄の快感である。糞、小便と同じである。それが、崇高な生殖に繋がると考えるのは、愚かである。

妊娠から、出産に至り、そこから子育てが始まる。そこに、崇高な行為がある。
性行為が、崇高ではない。
子供が出来てからが、本当である。
だから、生み逃げする男などは、最低最悪である。

性処理マッサージは、商売として、堂々としたものである。
毎日、食堂で、食べるように、性処理マッサージで、処理をする。それでいい。それで、生計を立てる者がいる。
経済行為である。

日本も、戦後、女の股で、ドルを稼いだ。
韓国でも、女の股で、外貨を稼いだ。中国もであり、その他、多々ある。
政府は、女に感謝して、余りある。
女の股が、国の経済を立てる。
正統な売春に、異議申し立て出来る者はいない。
正統な売春とは、児童買春以外である。男も、体を売って稼ぐといい。売れればである。

遥かなる慰霊の旅 タイへ3

遥かなる慰霊の旅・タイへの旅 3

ミャンマー国境の町、メーサイへ向かう。
ホテルを朝、10時に出発する。
乗用車には、運転手と、オーナーがガイド役で、同乗。
この、オーナーが、兎に角話しがしたいようで、英語でまくし立てる。それも、よしと、タイ、最北の町に向かう。

運転手は、19歳の、まだ少年の面影のある子。英語ができないゆえに、話ができない。
運転が上手で、思った以上に早く、メーサイに到着した。約一時間である。

町に入ると、俄かに活気がある。
そして、国境の前の広場は、人の波である。

二時間の約束で、オーナーと別れる。
二時間あれば、川で、慰霊が出来ると考えた。
また、子供服も、携えていた。

まず、タイ側で出国をし、橋を渡って、ミャンマーに入る。
10ドルを支払い、出国審査を受ける。
パスポートを預けて、預り書を貰う。
ミャンマーは、タチレクのみに入るので、スムーズである。
ただ、半日程度の観光客が多いので、並んでいる。
皆、欧米人である。日本人の姿は、見なかった。

ようやく通されて、橋を渡り、タチレクの入国審査である。
問題なく、スムーズに進む。

橋の上でも、商売が行われていた。
驚いたのは、海からのカニを売っていたことだ。タイ人なのか、ミャンマー人なのか、解らない。
野中が、タイ語で話すので、タイ語も通用するようである。

タチレクに入ると、すぐに、トゥクトゥクの誘いである。
バイクに、荷台を取り付けて、二人の客を乗せられる。
一人100バーツで、市内観光が出来る。
おじさんは、タチレクの名所の写真を見せて、すべて回ると、言う。言葉は、解らないが、そう言っていると、解る。
私は、町を見下ろせる、寺、パゴダを指した。
そこを見てから、川沿いに行こうと、思った。

町一番の寺には、人がまばらである。
小学生ほどの年齢の少年僧の姿が、目に付く。

まず、寺の本堂に入り、黙祷する。
横で、地元の人が、礼拝していた。
着物姿からか、別の観光客をつれて着ていた、男が、私に説明するから、おかしかった。
片言の英語で、よく解った。
片言の英語しかできない私には、片言の英語が、通じるのである。

仏像の話をするのは、難しい。
日本の仏像のイメージではない。仏像に対する認識が違うのである。
これは、後で、タイの仏教を語る時にも、書くことにする。

ただ、あちらの仏像には、霊的波動が強いということだ。
それは、人霊の憑依現象である。
あちらの人は、寺、仏像即、仏の世界である。
当然、死後、寺に集う霊もいる。

寺を終わり、その上の塔へ向かう。
そこからの眺めが、素晴らしい。八方を眺めることが出来る。

実に、親切な女が、礼拝の仕方を教えてくれた。
塔の周りに、七体の仏像があり、生まれた曜日による、仏様である。
花と、鳥籠を買う。鳥籠には、すずめが入っている。

仏像の前での礼拝の仕方を教えられて、仏像に手を合わせ、水を掛ける。
その時、私が、よく解らないので、後ろから、日本語で、三回、二回、一回と、教えるものがいる。振り向くと、少女である。
女は母親で、少女は、その子であった。

水を掛けて、すべてが終わると、すずめを放つのである。
それで、完了。
すると、少女が、チャイナブッダ、タイブッダ、ビルマブッダと、指差した。
その場所に向かう。

四体の仏像がある。
皆、造りが違う。
何となく、中国の仏像、タイの仏像、ビルマの仏像が解る。
そして、少し離れてある仏陀の像は、インドの姿だろうか。

ここでは、仏陀が、普遍的存在の、ブッダとしてある。
ブッダは、仏の総称であり、実在の仏陀を言うのではない。
タイも、ビルマも、小乗仏教が伝わった。
これについても、後述する。

一応の礼拝が終わる。と、途端に、親子が、袋から、何かを取り出した。
物売りだった。
次から次と、売る物が出てくる。
私は、少女の20枚で100バーツの絵葉書を買った。
しかし、これはどうだ、これはどうだと、出てくる。
一々断るのが面倒なので、立ち上がった。
タイ語で、コークプンカップと、お礼を言う。

これ以上、押し売りされると、折角の気分が悪くなると、出口に向かった。
野中も、そくそくと、戻ってきた。

客が少なく、私たちに、バーイと、言う。
その時、少年僧三人が、道とは別の場所から、現れた。
私は、すぐに小銭を探して、彼らに供養した。
丁度、野中がいて、写真を撮る。

トゥクトゥクに乗り込んで、道を戻る。
少し、名残惜しい気がした。物売りが無ければ、もう少し、時間を持って、暫く、周囲を見渡していたいと思った。
タチレクは、小さな町である。その町に、人種の坩堝があった。
ミャンマー人といっても、多くの少数部族がある。
そして、インド系の人。タイ人もである。中国人も、勿論いる。
それらが、ミャンマー人や、タイ人として、括られる。

トゥクトゥクのおじさんは、どういうつもりか、街中を走る。何も言っていない。
屋台のもの売りの市場に出た。
一斉に、物売りが寄って来る。
ゴーゴーと、おじさんを促す。

おじさんが、何を考えているのか解らないが、教会、キリスト教会に連れてゆく。プロテスタントのバプテスト教会と、カトリック教会である。
写真にある、観光名所を示さなかったので、おじさんが、気を回しているようだった。
そこで、私は、おじさんを止めて、川沿いに行くことを言う。しかし、言葉が通じない。
野中が、英語、タイ語で言うが、駄目。
何としても、通じない。
頷くが、また、別の場所に行く。

教会の前に戻る。
その時、一人の黒人が現れた。
宣教師であろうと、思った。
私たちの話を聞いて、通訳に出てくれた。
もう、二時間に迫り、いまから、川沿いに行っても、無理だろうと思い、元の場所に戻ることを、伝えてもらう。漸く通じて、発進した。

元の場所に戻り、私は、慰霊が出来ないことと、子供服を、少数部族の人に渡せないことが、残念だった。
残り時間は、15分程である。その時、トイレに行きたくなった。が、見当たらない。しかたなく、下町の中に入る。トイレを借りようと思った。
そこが、下町の、囲いのある場所だとは、後で知る。

老人に、トレイを借りたいと、野中が、タイ語で言うと、通じた。
一件の家を示された。そこに、女の子と、男の子、そして、二人の幼児が寝ていた。
トイレを借りて出た。
そこで、子供服を上げたらと、野中が言う。
打って付けだった。早速、取り出して、女の子と、男の子に合うものを、探す。そして、寝ている幼児の服も、多くあった。大半が、ぴったりである。そして、まだ残るものを、先ほどの老人に託した。
老人が、その地区の警護役だと、写真で知ることになる。

2007年11月16日

遥かなる慰霊の旅 タイへ4

遥かなる慰霊の旅・タイへの旅 4

いよいよ、国境を越えて、再びタイに戻る。
名残惜しい。
二時間は、あっという間であった。
何より、川沿いにて、慰霊が出来なかったのが、残念である。勿論、どこの場所でも、出来るが、ミャンマーである。怪しまれて、尋問を受けるということになれば、大変なことである。
この地にも、多くの日本兵が、辿り歩いた土地である。
しかし、もう時間が無い。

国境を戻る。
すでに、一時を過ぎている。
腹も空いた。

国境を渡る橋で、彼らと出会った。
それは、橋を拠点にして、生活する、アカ族の子供たちである。要するに、ストリートチルドレンである。
まず、私の傍に来て、缶を差し出す。お金を恵んで欲しいというものである。
小銭を出して、その中に入れた。すると、次から次と、やってくる。
私の周りに、子供が溢れた。

その中に、一人、賢い顔の男の子がいた。
子供たちは、貰った小銭を彼に渡している。要するに、その中の、主、オサなのである。
彼は、子供たちに、分配する役割を持っていると、見た。
その彼の白いTシャツは、煤けて、真っ黒になっている。

彼は、私たちが、ミャンマーの手続きを忘れていることを、教えてくれた。
そのまま、タイの国境に向かっていたのだ。
再度、戻り、ミャンマーを抜けることが出来た。

その時である。あの、子供服をと思った。しかし、もう一枚も無い。

私は、タチレクの街中でインド人が売っていた、揚げ物を、彼に渡した。
興味本位で買った揚げ物だった。後で、どんなものか、食べてみようと思ったのだ。
彼は、それを受け取ると、皆に、分配した。
さすがだった。

少数部族に関しては、多くを知らないが、実に、多くの部族がいる。
中でも、有名なのは、アカ族である。
実は、この地は、アカ族の支配にあった土地である。しかし、彼らは、追われて、分散し、ミャンマー、タイに、点在している。
ミャンマーにいるアカ族が、特に貧しい。だが、貧しいといえば、多くの少数部族は貧しい。ろくな、衣服も無い部族もいるという。

そこで、あることを、聞いた。

貧しい少数部族に、キリスト教の布教が入っているという。
私も、タチレクで、プロテスタント、カトリックの教会を見た。
プロテスタントは、数多く、多くの派閥が参入している。

少数部族を、キリスト教に改宗させるという、傲慢極まりないことをしている。
そして、その方法である。
断じて、許し難いのである。

教会に出ると、お金を出すのである。
そして、村の中心人物に目をつけて、それを、懐柔する。勿論、お金である。
そして、村の人々を教会に通わせる。
それが、それまでであればいい。しかし、それが、逆効果を生む。
教会に行けば、お金が貰える。すると、働かない。そして、余裕が出来ると、麻薬をやる。

国境地帯は、麻薬の温床である。

勿論、キリスト教の信仰を拒んで、お金を貰わない部族もある。
貧しいままで、自分たちの信仰を守る。というより、伝統を守るのである。

キリスト教徒は、売春を事の他、嫌うが、キリスト教徒である、売春をするのは。ヨーロッパ系の男は、大半が、タイ人の女を連れている。
勿論、欧米人だけではない。多くの国籍の者、売春をする。
それは、それでいい。

しかし、キリスト教を布教するために、お金を使用するとは、許せないのである。
つまり、体は、買わないが、心を買うということである。
それを、私は、売心と言う。
ばいしん、である。

買春をする者を、キリスト教徒は、裁くが、心を買う行為を平然と行う。
それらの、お金は、本国の信者から、集めたものである。
キリストの教えを伝えるためにという、大義名分で、思う存分に、寄付を募るのである。

そして、最も大切な、部族の伝統を破壊し、平然として、誤りのある、キリスト教を伝える。
一神教が、現在の世界の、大きな罪悪であることを、彼らは知らないし、知ろうとも思わない。信じてしまえば、元に戻らないのが、一神教である。

欧米諸国の傲慢は、キリスト教に象徴される。
ここでは、教義に触れないが、彼らの神学は、完全無欠に誤りである。
それは、唯一の神というからである。

この宇宙に、唯一の神という存在は無い。

更に言う。
チェンマイにて、野中が、プロテスタント系の教会に、何度か出掛けて、その教えの様を、見聞してきた。
明らかに、タイの国情を混乱させる教えを、平然と行っている。
タイは、九割以上が、仏教であり、それは、宗教の域を超えて、伝統となっているのである。加えて、ピーという、精霊信仰である。仏教以前の、タイの伝統的信仰形態である。
それを、簡単に破壊する。

我のみが正しいと、キリスト教徒は、どれ程多くの人の命を奪ったか知れない。
侵略というならば、アメリカなどは、とんでもない侵略をしたのである。数限りない、インディアンを殺しつくして、アメリカという国を建てた。清教徒というが、とんでもない。悪教徒である。

スペインなどは、アメリカ大陸で、現在のブラジル、ペルー、チリなど等の、原住民を一億人殺したのである。カトリックの名においてである。

ただ今、タイに布教するキリスト教は、タイの伝統を破壊し、果ては、対立をもたらす。
タイ南部では、イスラムが、仏教徒を殺すと言うテロが、横行している。これに、キリスト教が絡めば、また、大変なことになる。

まず彼らがやることは、罪の意識を植え付けることである。
タイでは、何でもなかったことが、罪と意識される。そして、次に、マインドコントロールである。
洗脳するのである。

他宗教に免疫の無い、タイの若者が、その罠に嵌る。
一見して、ボランティア等で、良い行為をしているが、元を辿れば、布教である。彼らは、無償の行為などしない。神の愛が、アガペーという、無償の愛と言いつつ、彼らは、信者獲得のために、善行をする。それは、善行にならない。報いを求めるからである。キリスト教への改宗である。

そして、その奥の奥には、白人支配の傲慢がある。
白人のみ、正しいのである。
キリスト教が、ローマカトリックになった時からの、それは、歴史である。
本来の、ユダヤ人キリスト教徒までも、異端として、退けたのである。
十字架に張付けられたイエスキリストを、白人に、置き換えたのである。

主なる、イエスキリストは、ユダヤ人である。

低脳な霊能者をも凌ぐような、低レベルの、霊的行為をもって、洗脳する様を、野中は確認している。
賛美歌を歌いつつ、聖霊が降りたと、若者を騙すのである。
キリスト教徒の上に、聖霊が降りることは、無い。降りるのは、悪霊である。聖霊が降りれば、原爆など投下出来ない。
キリスト教徒の霊性とは、自己暗示である。彼らが、逆立ちしても、太陽の霊性を得ることは出来ない。すべて、実証済みである。

仏陀は、人は行為によって、成るものに成ると言う。実に、正しい。
キリスト教徒の行為を見よ。それで、十分であろう。

タイには、いや、ミャンマーにも、続々と、キリスト教の布教が入り込んでいる。イスラムとの、戦いである。世界は、イスラムに傾いている。巻き返しを行っている。
私は言う。決して、キリスト教によって、救われることはない。混乱を招くのみである。

遥かなる慰霊の旅 タイへ5

遥かなる慰霊の旅・タイへ 5

タチレクの国境を越えた。
タイに戻る。
心なしか、後ろ髪を引かれる思いがした。二時間は、やはり短い。
ああ、これが人生かという思いと、共に、ここに、再び来るという、強い思いである。
それが、確実になったことがある。

野中が、オーナーと連絡して、待ち合わせの場所を決めている間に、私は、路上でミカンを買った。
一つを食べ、旨いので、もう一つを食べた。
野中が呼びに来たので、後を付いた。
国境の境目に外から向かう。
丁度、そこに、タイ最北の碑があった。
その時である、ハローと叫ぶ声がする。
何度かの声に、私は、国境の鉄格子を見た。
あのアカ族の主、オサである少年が、私に声を掛けていた。

私が食べていたミカンを、くれ、と言っていると感じた。
すぐに、傍に近づき、金網越しから、一つミカンを差し出した。
それを受け取る。

頷いた少年に、私は、感動した。
単なる、物乞いだったとしても、私は感動した。
後で、すべてのミカンを上げなかったことを後悔したが、これこそ、後の祭りである。

来年、もう一度来て、あの子に、大金を上げようと思った。
大金といっても、あの子にとっての大金であり、日本円にして、五千円程度である。
それを、元手に、物乞いではなく、物を仕入れて売ることを教えたいと思った。
子供たちの、主、オサになっているのである。賢いはずだ。

橋の上で、生活しているアカ族の子供たちに、その場で、生きるべくの支援をしてもいいだろう。
今日を食い凌ぐことで、精一杯なのだ。
そこに、ほんの少しの援助があれば、何とか、新しい道を踏み出せる。

再び、ここに来ると、決めた。
彼らに会うためである。
そして、川沿いでも、慰霊を行うと、再度、決めた。

車に乗り込み、メーサイ一のレストランに向かった。
それも、コースの中に入っているのだ。

国の違いが、ハッキリと解る。
タイに入ると、建物から、違う。
タチレクと、メーサイでは、その様が、全く違うのだ。

レストランでは、昼食のバイキングである。
焼き飯、焼きソバから、名前の解らない食べ物が沢山ある。
口に合わないが、食べた。空いた腹を満たすためである。
スープソバも食べたが、調味料の混ぜ合わせに慣れていないゆえに、へんてこりんな、味になる。
口直しに、甘いお菓子を食べる。お菓子は、美味しい。

食べ終わり、私は、一足先に、店先に出て、タバコをふかした。

空を見上げると、曇っていた空に、薄っすらと、日差しが差している。
何とも言えぬ気持ちである。
一年前には、考えていなかった、旅である。
まさか、タイ最北の地に来て、ミャンマーに入るとは。

オーナーも、運転の少年も、野中も出てきた。
オーナーが、ショッピングと、何度も言う。
レストランの隣に、装飾品の店がある。
そこに行けということなのだ。
愛想程度に入ってみることにした。

一人の若い女性店員が、私に、張り付いた。張り付くという程の、接近である。
私、あなた、割引する。それを、繰り返すのである。
視線を向ける物を、すぐに、目の前に取り出す。
商魂というのか、何というのか、殺気まで、漂う。

私は、着物には、何も付けないと、身振り手振りの英語で言った。
それでも、私、あなた、割引すると、張り付いてくる。

やっと、助け舟が現れた。
別の客が入ってきたのだ。
私は、即座に、店を出た。すると、野中も、逃げるように、出てくる。

何事もなかったのかように、車に向かう。
オーナーは、買い物については、何も言わなかった。

温泉、サル、何とかのこんとか、オーナーが言う。
野中が、私に、聞く。
どこかに連れて行きたいようだとのこと。
しかたなく、温泉と言った。本当は、疲れ切っていた。
タチレクの町での、緊張感が、どっと出た。

車が走り出す。
オーナーが、温泉の説明をするが、もう、黙って聞いていた。何を言っているのか、解らない。
うとうとしていると、車が、大きくカーブして、森の中に入った。

海の家のような、オープンな店が何件かある。
オーナーが言う。
生卵を買って、温泉でゆで卵にと。
普通の卵と、鶉の卵のような大きさの卵が、それぞれ、網の袋に入られて売られている。
私は、腹を撫でて、もう十分だと、表現する。
オーナーが、理解したようで、先に進む。

温泉への近道なのか、草の多い、湿地帯を歩く。
温泉の建物があるが、普通の建物である。
幾つかの部屋があり、それぞれの部屋に、浴槽がある。
私たちは、一番大きな部屋を選んだ。
客は、私たちだけである。

部屋には、大きな風呂が、二つあった。
一つの方は、温泉の濃い方で、もう一つは、薄い方である。
窓の扉が、下から上に上げる扉で、全開にしてある。
外では、お婆さんが、山菜を採っていた。

脱衣の籠も無く、そのまま着物を脱いで、湯に浸かる。
確かに温泉である。硫黄の匂いが、強い。
浴槽があるのみの、部屋で、体を洗う場所も無い。ただ、湯に浸かるだけ。

私は、30分程、湯に浸かっていた。勝手に、熱いお湯を注いだ。
野中は、途中で出た。
その湯が効いた。
湯から上がると、疲れが、更に倍加した。

チェンライに着くまで、私は、うとうとして、ぼんやりしていた。
ホテルに着いたら、そのまま、眠ってしまうだろうと思えた。

約七時間の行定だった。
あっという間の出来事だが、密度濃くして、感慨無量である。
一気に終わったのである。
せめて、メーサイに一泊すれば、何とか、気分的にも、安定したであろうと思う。

だが、もう終わった。
最初の目的である、ミャンマー入りが終わった。
部屋の前の廊下に置かれた、イスとテーブルで、ミャンマーの絵葉書を眺めた。
確かに行ったのだと、一人、言い聞かせた。

後は、夜の食事である。
昼間の食事が効いて、腹が空かない。
野中も私も、ベッドに横になった。

手帳を見るが、その夜に、何を食べたのか、書かれていない。思い出せない。
翌日の昼は、イタリア料理で、パスタを食べているのだが、その夜が、思い出せない。
チェンマイ行きのバスに乗る前で、印象があるから、思い出せるが、あの疲れた夜に、何を食べたのか。

酒も飲まずに、早々に、ベッドに着いたはずである。
兎に角、疲れた。昼間の印象に夜のことが、かき消されている。

2007年11月18日

遥かなる慰霊の旅 タイへ6

遥かなる慰霊の旅 タイへ6

チェンマイ行きのバスに乗る。
約三時間のバス旅である。最高のバスを選んだ。一人、280バーツである。約900円。
その下が、エアコン付きで、その下が、普通のバスである。
エアコン付きでいいと思ったが、野中が、最高の方が、私のためにいいと言うので、そうした。
確かに、足を伸ばせて、背凭れは、大きく倒すことが出来る。そのまま、眠られる大きさである。

大半の客が、外国人である。
変なのは、香港映画が大きな画面で、放映されていることだった。ジャッキーチェーンの映画だった。しかし、それが終わると、静かになったから、良かった。
水のボトルと、クッキーの袋が渡された。サービスである。
出発すると、女性の係員が長い挨拶をする。それが、可笑しくて、声を上げそうになったが、我慢する。

さて、チェンライを去るにあたり、少しチェンライのことを書く。

13世紀に、ラーンナー・タイ王国の首都であった。
現在、タイ最北の県都としてある。

私たちが、空港から街に出た中心部に、時計台があり、改装中だった場所から南側が、ツーリストエリアである。
バスターミナルがあり、ナイトバザールや、デパート、土産物屋、スーパーなどがある。
レストラン、旅行会社、バーなどが、集中している。

少し小路に入ると、マッサージの店が多い。
タイマッサージであるが、腕前は、それぞれ。巧い人に当たると、感動ものだ。
先にも書いたが、小数部族出身の女性が多い。
勿論、売春の匂いもある。明らかに、看板に、レディマッサージと謳うものもある。
ただ、大半は、普通のマッサージである。
マッサージ中に交渉して、何とかなる場合もあるのだろう。

国境の街、メーサイから車で、戻る時に、温泉に立ち寄ったことを書いた。
その温泉の後で、道端に、果物を売る店が立ち並ぶ地域がある。
バナナ、パイナップル等である。

野中が、車を止めた。
オーナーが、言った言葉で、食べようと思ったのだ。
チェンライは、タイで、一番が三つあると言う。
一つは、米である。
そして、パイナップルと、ライチである。ライチを、私は知らない。

疲れている私は、何だと、少し苛ついた。早くホテルに戻りたいのにと。
皆、車から降りるので、私も降りた。
野中が、パイナップルを買った。
すると、その場で、皮を切り取り、果肉のみにしてくれる。
その間に、味見用も、出してくれた。
それの、旨いことといったらない。甘くて、何ともよい歯ごたえと、舌ざわりである。
思わず、うまーい、と大声で言った。

皆、うまい、うまいと、食べた。
運転の少年が、四つ買っていた。
余程安いとみえて、100バーツで、お釣りが出た。一つ20バーツとしても、70円程である。

これを書いていて、思い出したことがある。
夜の食事が、思い出せなかったが、和食を食べたことである。

ミャンマーのタチレクから戻って、疲れていたので、和食にしようと、日本レストランに入ったのだ。
レストランと言っても、普通の店である。
そこで、私は、天ぷらそばを、注文して、驚いた。

どんぶりに、そばがあり、てんぷらが、別の皿で出てきた。
天ざるの、温かいバージョンである。
驚いた。その量である。
一つ一つを、そばのどんぶりに入れて食べた。
腹一杯になった。
誰が教えたのか、随分な量で、天ぷらそばというより、そば天ぷらと言う感じだった。
野菜が多かった。エビもあった。三本ほどである。

北海道弁では、たまげた、と言う。
ホント、たまげた。

その後の胃のもたれに、胃腸薬を飲んだのだった。
記憶というのは、それに関連することから、呼び起こされる。食べ物は、食べ物によって、呼び起こされる。

パイナップルは、ホテルに着いてから、また、ゆっくりと、味わって食べた。
矢張り、旨いのである。
それで、思い出したのは、バリ島のパイナップルジュースである。
最初にバリ島に出掛けた時、朝食で、最後に、パイナップルジュースを飲んだ。あまりの美味しさに、何度か、お代わりして、たらふく飲んで、とんでもないほど、腹をふくらませてしまったのである。

それから、暫く、パイナップルジュースを飲まなかった記憶がある。
何事も、程々ということだが、ハメを外してしまうこともある。特に、飲む食べることに関しては、そうだ。

貧乏に生まれたせいか、ホテルのバイキングの朝食は、あれもこれもと、食べ過ぎる。
結局、食べ過ぎて、後悔する。
ただ、私の場合は、最初は、少しだけ取り、また、少し取りとしているうちに、結果、大量になっているということだ。
最初から、多めに取れば、それで十分なのだろうが、取り方が、怪しいのである。分量が解らなくなる。

チェンライの街を観光することはなかったが、一つだけ、野中と、お寺に入った。
最初のホテル近くにある、ワット・チェットヨートという、お寺である。

私が最初に入った。
玄関にいたおじいさんに、土足で上がるなと、言われた。勿論、言葉は、解らないが、伝わった。
野中が後から来た。

最初に、私は、合掌して、黙祷したが、般若心経を唱えることにした。
最後の言葉のみ、原語の梵語、サンスクリット語で唱えた。

タイのお寺は、どことなく、乱雑な感じがしていた。雑然としているのである。
厳かというより、気楽さである。
これが、伝統なのである。

小乗仏教が伝わり、タイという国に、自然に同化した。実は、タイの仏教は、宗教ではない。伝統なのだ。
国民の九割が仏教徒だからということではない。
タイ族の人に、自然に受け入れられたと言う方が当たっている。
仏陀の慈悲の思想が、すんなりと入ったのである。

そして、仏像である。
姿から、その微笑まで、日本の仏像とは、違う。

伝統であるところの、仏教というものを、宗教として、認識すれば、誤る。
それでは、キリスト教や、イスラム教の場合は、どうかと言えば、伝統にならず、宗教になるのである。
それは、教えによる。
神に成るということは、出来ない教えと、仏に成ることが出来る教えとでは、まるで違う。
神という、対立したものを置くものと、仏という、我が内にあるものを観る教えとでは、全く違う。

一神教でも、人間は神の子であると言うが、便宜上の言葉である。人間は、神には、成れないのである。
一神教の最大の矛盾は、神という、超越したものを、理解するということである。同じものでなければ、理解出来ないのである。
つまり、完全無欠、全知全能という神を、人間は、理解出来ない。理解不能なものを、信じるということは、嘘である。

仏陀が、生き方を説いたというと、一神教の人は、それは道徳のようなものであり、宗教ではないという。その通りで、仏陀は、宗教を起こしたのではない。生き方を、説いたもので、宗教ではない。
宗教という、概念は無い。
宗教という概念を置いた、キリスト教、イスラム教とは、意を異にする。
ただし、仏教を宗教として捉える仏教がある。日本の仏教である。その観念を持って信仰するという。観念を信仰するというのである。
違う。これについては、更に、後で語ることにする。

遥かなる慰霊の旅 タイへ7

遥かなる慰霊の旅 タイへ7

チェンマイ郊外に来て、私は目を開けた。
眠っていた。

街というものにも、波動がある。生きている。動いている。
チェンマイの活気が感じられる。
ああっ、懐かしい。一年前の風景が広がる。

どの辺りなのかが、解る。
バスの車掌が、紙タオルを配った。そして、また、挨拶である。
どうも、可笑しい。それがまた、長いのである。
ありがとうございました、だけではなく、時候の挨拶でもしているのだろうか。
笑いそうになるが、堪える。

タイ語は、何となく、柔らかな感じがする。
ほんにゃら、ほんにゃら、と、私には、聞こえる。それがまた、いい。
挨拶が、ほんにゃら、だから、可笑しい、楽しい。

最後の、コープクンカーという、感謝の言葉のみ、理解した。
最後に、カーとは、女性の語尾で、カップと言えば、男の語尾になる。
間違って、カーと言うと、女性、特に年配の女性に、正される。
男は、カップだよって。
夜に、カーと言えば、間違いなく、ゲイになるのだろう。

バス停に到着すると、大混乱である。
タクシーから、トゥクトゥクから、ソンテウという、乗り合い車である。ソンテウは、タクシーのように使用することも多い。
野中が、ソンテウを捕まえた。

それに乗り込み、行き場所は、私が言う。
ターペー門。モントリーホテル。日本語である。
だが、ターペー門は、チェンマイの中心部である。旧市街と、新市街の境目である。ターペーと言えば、必ず解る。

自慢じゃないが、私の英語は、大半がタイ人に通じないのである。
前回の時に、エアポートが通じず、何度言っても駄目で、結局、野中に言わせた。
発音と、抑揚が違うのである。
ェァポートのようになる。
エ・ア・ポー・ト、では通じない。

モントリーホテルは、勿論、予約していない。
行けば、何とかなるのである。
また、その辺りは、ゲストハウス等々、無数にある。泊まれないということはない。だから、安心して、モントリーと言う。

そのモントリーホテルに到着した。
ボーイが、お待ちしていましたという風情で、出迎える。

二人、あっ、ツインルーム。
スリーデー。三泊と言っている。
部屋は、空いていた。料金は、一泊750バーツである。安い。二人で、2300円程度である。
定価は、900バーツである。暇だと、安くなる。暇なのだ。

野中に言わせればいいものを、黙っていられないのだ。
書き込みも、私がする。
全部、大文字で書く。
これっ、何。
仕事だよと、野中が言う。そこだけ、面倒で、デザイナーと、カタカナで書いた。
オッケーである。

ボーイが、荷物を運ぶ。
前回も、最初は、このホテルだった。ただし、知った顔がいないのが、残念。
キティーちゃんのカードを出して、得意になるが、前回は、皆にワーッと言われたが、今回は、誰も言わないので、キティーちゃんと、言うが、反応なし。
野中は、無視している。

クレジットカードの、キティーちゃんが、何となく情けなく思えた瞬間である。

部屋は四階。
眺めは、ホテルの裏側である。だから、旧市街が見える。
目の前は、お寺である。
宿が決まれば、安心する。
時間は、夕方四時過ぎである。

荷物を解き、色々と、着替えを出して、整理する。
これから、暫くチェンマイ滞在である。
明日一日は、のんびりする予定。落ち着くと、今夜の食事である。
疲れたから、和食にしようと言うと、野中も、いいと言う。

バリ島もそうだが、チェンマイも、和食の店が、竹の子のように出来ている。あまりに多いので、競争が大変だろうと思う。
後で聞くところ、矢張り、消滅する店も多いと言う。

六時を過ぎたので、食事に出る。
ホテルの道沿いにある、和食の店に出掛ける。
その間に、市場がある。その、表の棚に並べられた物を見て、驚くのが好きだ。
鳥の頭の空揚げとか、ゴキブリの空揚げとか。見て、驚く。その繰り返し。
怖いもの見たさで、見る。

和食の店に入り、ビールを一本注文する。
だが、この日から、私は酒を飲まなかった。
不思議だった。全く飲まなくても、いいのだ。
飲みたくないのだ。翌日の、バーでも、水割りを貰ったが、全然飲みたくない。ただ、口をつけるだけ。

日本では、毎日、日本酒を飲む。癖である。
場所が変われば、飲まずともよいのだ。

焼きシャケと、寿司を頼む。
野中も、寿司セットである。
味は、期待しない。ただ、それらしきものを、食べるという満足感である。
疲れた時は、タイの食べ物が、負担になるのだ。ストレスになるのか。

腹七部程度で、済んだ。
後は、部屋で、のんびりして、寝るだけである。
野中は、夜中が忙しい。友人たちが、待っている。皆、夜の商売をしている。中でも、レディーボーイたちである。前回に、多くのボーイと知り合いになっていた。それに、七月、八月と、二ヶ月、タイ語を学ぶために滞在していて、親友も出来た。

私が寝る頃に、出掛けて行った。
部屋の扉は、少し開けたままである。これは、海外では、絶対に駄目である。危険が危ないのである。要するに、危険大である。
ところが、このホテルは、安いホテルであり、金持ちが泊まらないと、相場が決まっている。ドロボーさんも、損な場所である。ということで、少し扉を開けて、寝た。
野中がキーを持って出ればいいのだが、互いにそれが、癖になっていた。
しかし、海外では、決してしない方がいい。

どんなに安全でも、フロントのセーフティボックスに、貴重品を預けるのである。部屋の合鍵を、従業員の誰かが、持っているのである。誰が入るか、知れない。
前回は、私も、セーフティボックスに物を預けた。

ホテル側でも、警備員を配置して、深夜の巡回がある。
一度、深夜、部屋の扉を開けて、タバコをふかしていた。警備員が通る。不審そうに、部屋を覗く。当たり前である。そんなことを、する者はいない。

警備員は、考えたはずである。何故かと。この日本人は、空手をするのだ。だから、扉を平気で開けていると。いや、この日本人は、柔道をするからだ。色々と、考えて、通ったはずである。

タイでは、相撲が人気だ。丁度、私が出掛けた時、バンコクでは、世界の相撲大会が開催されていた。
この日本人は、相撲をするのだ。そう考えたのかも、しれない。
そんなことを、考えているうちに、眠たくなって寝た。

不思議なもので、野中が戻ると、目覚める。
確認して、また、眠るのである。

人間には、意識下の意識がある。もう一人の意識である。
これが、曲者である。
必ず、野中が戻ると、目覚めるのだ。そして、確認する。
もう一人の意識を、幽体と呼ぶ場合もある。幽体が、感得して、肉体に教えるという、言い方が出来る。
しかし、あまり真剣に考えることはない。自然の力である。元からあった、力である。

2007年11月19日

遥かなる慰霊の旅 タイへ8

遥かなる慰霊の旅 タイへ8

6日の朝、六時前に目覚めた。
少しぼんやりして、七時になったら、ホテル前のテラスで、コーヒーを飲むことにする。
そのまま、そこで朝食にすることもありだ。

明日は、バンカート学校敷地内にある、慰霊碑に、出掛ける予定だ。
そのための準備は、日本でしてきた。
何となく、予定を確認する。
今回は、特別に、野中が友人になった、タニャンさんという人の、お宅にも、行くことになっていた。
そこで、新しい家に住んで一年を経て、家の清め祓いをして欲しいとのこと。その後で、家族との食事である。

バリ島の時もそうだが、旅で、地元の人の家に、お邪魔するというのは、本当に楽しい。現地の人の家で、食事をするなどとは、普通の旅行では、考えられないのである。
タニャンさんからは、タイに着いた日から、いつ来るのとの、メールが、野中に何度も、入っていたという。

七時に、ホテルの一階のテラスに出て、コーヒーを頼む。
私が一番乗りである。
テラスといっても、歩道の上である。
角にあるホテルだから、車の通りも多い、人の通りも多い。
ホテル前には、トゥクトゥク、ソンテウが、何台も待機している。

前回来た時の、女の子はいなかった。皆、新しい男ばかりである。
ホットコーヒーを注文する。
それで、暫く時間を過ごす。

タイに着いた時から、曇りだったが、本日からは、晴天である。
青さを越えて、紺碧の空が広がる。

結局、朝食をそこですることにした。
メニューを見て、サンドイッチを頼む。ボーイを呼んで、写真を指差すだけである。

その間に、車も人の数も、どんどんと増える。
本日は、日本にエアメールを出すために、郵便局に行く。そして、タイマッサージを受ける。後は、昼食と、夜の食事を何にするのか、決める。

サンドイッチを食べて、ゆっくり過ごして、部屋に戻ったのは、八時半を過ぎていた。
野中は、まだ、眠っている。

洗濯物を入れてと言われた、ビニール袋に、何枚かの下着や、タイパンツを入れる。
タイの洗濯屋さんは、キロ単位で料金がある。
ホテルに出すと、手数料が取られるので、自分で持ってゆく。

歯磨きと、顔を洗い、出掛ける準備をする。
地図を見て、近くの郵便局に行く。
実は、チェンライからも、二枚の葉書を日本に出したが、皆、料金が違うのである。本当に大丈夫かなと、思った。
葉書のエアメールなら、料金は、同じであろうにと。
その確認も込めて、郵便局で出してみようと思った。

郵便局は、ホテルの裏側、旧市街地の中を行く。
ゆっくりと、歩いた。
チェンマイの車道は、信号機があまりない。あっても、歩行者が渡る時間は、10秒である。
だから、無いのと同じである。
車の隙間を縫って、向こう側に渡る。勇気がいる。
そのうちに慣れて、私は、手を挙げて渡るようになった。
勿論、急ぎ足である。

大きな通りを右に曲がり、そして、また、大きな通りを、左に曲がり、交差点に来て、郵便局がある。
15分ほど、歩いた。

先客がいる。
順番の札を取り待つ。
何となく、それが解るのだ。窓口に、番号が出ているから、察する。
私の順番が来た。
葉書を出す。エアメールと言う。
ブスッとした、おじさんである。
何とかかんとかと、言われた。料金である。解らないが、100バーツを出してみる。すると、ポンと、5バーツの硬貨を出された。
高いと、思った。95バーツもする。葉書のエアメールがと、思い、財布に入れて、去ろうとした時、おじさんが、また、お釣りを出した。エッと、私は、それを見た。おじさんが、ニッとして、葉書の切手を見せる。
料金は、これだけという、しぐさである。
お釣りは、85バーツである。つまり、葉書は、15バーツである。約47円。
そんな風に、日本円に換算して、頭の体操をする。

しかし、チェンライの街中の店で、葉書を書き切手を買った時は、もっと、安かった。
皆、無事に届くのだろうかと、思った。
後日、皆、無事に届いていた。そして皆、私が、帰国した後である。

ホテルの位置が解るので、ぶらぶらと歩く。
一度曲がればよいのである。
私は、向こう側に渡り、直進した。

そこで、目にした、マッサージの料金が、一時間130バーツである。安い。
オープンの店内に、一人の若い女性が、寝ていた。
私が顔を出すと、マッサージと言う。私は、頷く。

タイマッサージ ワン アワーと言う。人差し指を立てた。
女性は頷いた。
まだ、初心、ウブな感じである。

イスも無く、ゴザの上にマットが、幾つか敷かれてあるだけ。
道行く人に見られるのである。

私は、一つのマットを示された。そこに、仰向けに寝る。
すると、女性は、ある方向に、合掌する。ああ、お寺で、習ったと思った。そして、始める前にも、合掌した。
足裏から、丁寧に揉む。
典型的な、タイマッサージである。

タイマッサージは、下半身に重きが置かれて、足裏から、足の揉みが、よい。ただし、日本人のように、肩の凝りを取るのには、不十分だ。
勿論、最後に、肩にも、肘で指圧を加えるが、今ひとつである。
時間も、短い。本当は、肩にも、時間をかけて欲しい。

一人のマッサージ師と仲良くなり、それを頼むしかないが、まだ、仲良くなるマッサージ師は、いない。

街中のマッサージは、一時間のタイマッサージだと、200バーツである。130バーツは安い。足裏マッサージは、オイルを使うので、一時間200バーツ。
ところが、高級ホテルだと、500バーツから、800バーツと高い。
料金は、まちまちである。

昨年、何度か行き着けたマッサージ店の料金表示を見て、驚いた。
一時間が、何と100バーツに値下げしていた。

そこは、ホテルの並びの道路を隔てた場所である。
後で行くことになるが、マッサージも、過当競争である。
そこで、一時間のタイマッサージをした時、マッサージ嬢から、結局、私たちの取り分が減ったと聞かされた。
100バーツの30バーツが、手元にくるという。
そこで、オイルマッサージをしてくれと言われた。私も、オイルマッサージは、好かないが、まあ、一度だけならいいかと、オイルマッサージをすることにした。
後で書くことにする。

一時間のマッサージを終えて、ホテルに戻る。
市場を通った。
一度、通りかけたが、戻って、昼食を買うことにした。

まず、ゆで卵二つ。鳥の足一つ。パンを二種類と、もち米の粽のようなもの、二つと、魚の蒸し焼き一つ。別の店で、バナナ一房を買った。これは、帰国の日まで、持った。
タイの、小さなバナナで、青臭い味がする。
行きかけて、パイナップルの果肉を一袋買った。
全部で、100バーツ程度だから、330円。

結構な量になった。
ホテルに着くと、野中が起きていた。
もう、12時になる。

買ってきたものを、二人で食べる。
野中は、タイでは、完全に二食である。食べないのだ。
私は、三食である。
結果、帰国して、太っていた。

後で、野中が、二ヶ月滞在していた時に探した、安い地元の店に連れられて行く。
チェンマイカレーの店では、感激の美味しさだった。そこの、もち米と食べるカレーは、絶品だった。それも、地元の値段であるから、安い。
そして、矢張り地元の人の行きつけの店の、タイ料理である。安くて、旨い。
いつも、人が沢山いた。
ただし、朝七時から、夕方四時までである。家族総出で、店を切り盛りしていた。

食べて少しすると、昼寝がしたくなった。
これは、幸いと、ベッドに横になった。
夜の遅い私は、昼寝をしなけむれば、駄目だ。昼寝で、疲れを取る。

明日の慰霊の様を想像しつつ、眠った。

今回の旅の二番目のテーマである。
一番目が、ミャンマー入りで、慰霊、そして、土曜日のコンサートである。
この三つが、主要なテーマである。

勿論、次に続く計画を立てることもである。
ミャンマーは、来年のテーマになった。引き続き、行くことにする。

この日の夜、私は、野中に連れられて、チェンマイのレディボーイの草分け的存在、マリナの店に行くことになる。
日本で言えば、性同一性障害ということになる。しかし、タイでは、子供の頃から、そのような少年は、女の子として扱われるという、習慣がある。
当たり前のことなのだ。勿論、それを、嫌う男もいる。差別は、タイにもある。

タイ人にゲイが多いということではなく、タイは、比較的、それを公言しても憚らないという国柄である。
女の子同士が、手を繋いで歩いているのも普通で、時に道端で、キスしたりもする。別に、誰も気にする風もない。
ある種の曖昧さがいい。それは、日本人の曖昧さに似る。

2007年11月20日

遥かなる慰霊の旅 タイへ

遥かなる慰霊の旅 タイへ9

11月7日、朝八時に、私はホテルのテラスでコーヒーを飲み、食事をした。
矢張り、サンドイッチである。

本日は、特別な日だった。
いよいよ、目的の慰霊をする。

チェンマイ県バンカート村の、バンカート中高学校敷地内のある、タイ・ビルマ方面戦病歿者追悼の碑に出向いての、慰霊の行為である。

古神道にのっとり、慰霊を行う。

昭和19年、1944年は、敗戦の前の年である。
その二月、牟田口廉也率いる、第15軍が、イギリス軍のビルマ反攻作戦を阻止し、更に、インド国内の反英運動を高揚させるために、アッサム州の州都インパールの占領を目的とした、インパール作戦を計画する。

この作戦は、補給上無理があるとした、考えがあったが、牟田口軍司令官は、作戦を強行した。
第15軍の3個師団が、インド領内に進攻し、アラカン山脈を突破して、インパールに向かうのである。

最初、作戦は、順調に進展した。
四月上旬、インパールの包囲が整えられた。
しかし、空中補給によって、兵力を増強したイギリス軍が、反撃に出る。

補給線上を突かれた日本軍は、武器、弾薬、食料などの補給が届かず、総崩れとなって、退却する。
山岳地帯の退却は、食料、医薬品の不足によって、多くの餓死者、病死者を出す。
この地方が雨期に入っていたこともあり、陰惨を極めたものになった。

退却する兵士の中には、疲労と、衰弱により、自殺する者もいた。
衰弱して回復する見込みの無い者には、手榴弾が渡され、自決を促された。

七月に、作戦は中止されるが、この無謀な作戦の結果、多大な犠牲を出す。
参加人員約10万名のうち、3万の兵士が戦死し、2万の兵士が、戦病死ししたのである。

この失敗によって、ビルマ戦線の崩壊が、決定的になった。
時を同じくして、太平洋戦線で、アメリカからの攻撃を受けて、瀕死の状態になっている。

今は、この作戦の事実だけを、言うのみ。

その後、日本兵の生き残りは、タイ・メーホンソン県から、チェンマイ県の道を通り、撤退するのである。
多くの兵士は、この道の途中で、亡くなった。
遺骨、遺品は、撤退する道に捨てられたのである。

当時、撤退する日本兵に、温かく接したのが、タイの人々である。
食事を与え、負傷した者、マラリアにかかった者を、手当てした。
日本兵も、そこで、タイ人の村の農作業等を手伝い、交流を深めた。

実は、この作戦で亡くなったのは、日本兵だけではない。
当時、一般の中国人を、運搬作業のため引き連れたのである。彼らも、多く亡くなっている。その数は、日本兵より、多いと推測される。また、タイ人も、犠牲になっているのである。

北部タイの、国境付近には、中国人の死者を追悼慰霊する、碑もある。

さて、今回、私が行く、バンカート学校内の慰霊碑である。

平成元年である。
佐賀県の僧侶と、遺族が、カンボジア難民慰問の帰り道、チェンマイ県を訪れた。
それが、始まりである。

その時、出会ったタイの僧侶の言葉が、一行の心を打った。

ここには、まだ多くの日本兵が眠っている。
あなたたちは、それを省みることもない。
そんなあなたたちは、日本人は、人間といえるのか。

それは、衝撃的だった。
一行の中に、何と、その生き残りの人がいたのである。
そして、語り出した。

最初は遺体に土をかけて通った。
次には、遺体をまたいで、通った。
最後は、遺体を踏み越えて、通った。

この事が、きっかけとなり、僧侶と、遺族によって、慧燈財団が設立され、この地に眠る、日本兵の遺骨収集が、始まったのである。

平成5年に、財団は、バンカート・ウィタヤーコム校の敷地を借りて、サンカヨーム寺の、古井戸に埋葬された日本兵の追悼の碑を、古井戸の上に建てた。

更に、遺骨の見つからない、一万八千名の日本兵、軍属、関係者の遺骨を集めて追悼慰霊し、平成13年には、敷地内に、昭和天皇御製の刻まれた、大梵鐘を建てて、遺骨の見つからない人々を追悼慰霊する。

私は、そこに行くのである。

何故、行くのか。
私にも、よく解らない。

もう、20年以上も前のことである。
私のお客さんに、サイパンに通訳の仕事で、よく通う女性がいた。
仕事から帰ると、相談に来るというか、報告と、清め祓いに来た。

今回は、将校の霊でした。
あっ、そう。
そんな、やり取りである。
要するに、サイパンに行くと、兵士の霊、軍人の霊と関わり、体調が悪くなるのである。それで、私の元に来た。
私の、慰霊への、伏線である。

いつか、行くべきだと思いつつ、年月を過ごした。
そして、昨年、思いついたように、慰霊をすべきだと、心に命ずるのである。
それは、即座に行った。
バリ島から戻り、すぐに、サイパン行きを決めた。
バリ島での、日本セミナー開講を計画していたのに、慰霊の行為が、加えられた。

やらなければ、ならないという、ただ、一心である。
その他の、理由が無い。ただ、心の命ずるままに、行動するのみ。

それと、共に、私は、太平洋戦争のことを、調べ始めた。
歴史的事実と、様々な考え方である。
慰霊は、それに、確信を与え、戦争を追体験することになった。

そして、未だに捨て置かれる、多くの日本兵の遺骨である。
信じられない思いだった。
話を聞けば、親兄弟を戦争で失った人が、空の骨箱が来ただけであり、そこには、石が入っていた等の、話である。

こうしては、いられない。
オーストラリア・ダーウィンの、日本軍に攻撃を受けて、市民が400名程亡くなったという場所にも、慰霊に行く意義を見出した。
更に、ミクロネシア連邦の、トラック諸島に沈む、艦船43隻、民間船200隻の、慰霊。
そして、ラバウル、ガダルカナル、ニューギニアである。
まだまだ、ある。

そんな時に、トラック諸島の海底の遺骨が、見世物にされているという、記事を見て、その意を強くした。

霊的存在には、場所は、関係無い。どこでも、追悼慰霊の行為は、できる。しかし、その場所に出掛けるということに、意味があり、その行為も、慰霊の行為になると、直感したのである。
行こうとする心だけでも、追悼慰霊の行為になるとは、初めての体験である。
それ程、戦死者は、悲惨な思いをしたのである。
特攻のみならず、戦争に行くということは、死を意味した。
すべての兵士は、死を受け入れざるを得ない状態に置かれて、辛吟したはずである。
戦争という、不可抗力を受け入れる、彼らの心に、私は、深く打たれた。ここにこうして、平和を享受する私に出来ることは、追悼慰霊の行為であると、確信した。
敗戦から60年を過ぎて、忘れ去られる歴史と、兵士の死の重さを、私は、体験したいと思った。それは、また、祈りであり、歴史を、私のものにするための、行為でもあった。

遥かなる慰霊の旅 タイへ

遥かなる慰霊の旅 タイへ9

11月7日、朝八時に、私はホテルのテラスでコーヒーを飲み、食事をした。
矢張り、サンドイッチである。

本日は、特別な日だった。
いよいよ、目的の慰霊をする。

チェンマイ県バンカート村の、バンカート中高学校敷地内のある、タイ・ビルマ方面戦病歿者追悼の碑に出向いての、慰霊の行為である。

古神道にのっとり、慰霊を行う。

昭和19年、1944年は、敗戦の前の年である。
その二月、牟田口廉也率いる、第15軍が、イギリス軍のビルマ反攻作戦を阻止し、更に、インド国内の反英運動を高揚させるために、アッサム州の州都インパールの占領を目的とした、インパール作戦を計画する。

この作戦は、補給上無理があるとした、考えがあったが、牟田口軍司令官は、作戦を強行した。
第15軍の3個師団が、インド領内に進攻し、アラカン山脈を突破して、インパールに向かうのである。

最初、作戦は、順調に進展した。
四月上旬、インパールの包囲が整えられた。
しかし、空中補給によって、兵力を増強したイギリス軍が、反撃に出る。

補給線上を突かれた日本軍は、武器、弾薬、食料などの補給が届かず、総崩れとなって、退却する。
山岳地帯の退却は、食料、医薬品の不足によって、多くの餓死者、病死者を出す。
この地方が雨期に入っていたこともあり、陰惨を極めたものになった。

退却する兵士の中には、疲労と、衰弱により、自殺する者もいた。
衰弱して回復する見込みの無い者には、手榴弾が渡され、自決を促された。

七月に、作戦は中止されるが、この無謀な作戦の結果、多大な犠牲を出す。
参加人員約10万名のうち、3万の兵士が戦死し、2万の兵士が、戦病死ししたのである。

この失敗によって、ビルマ戦線の崩壊が、決定的になった。
時を同じくして、太平洋戦線で、アメリカからの攻撃を受けて、瀕死の状態になっている。

今は、この作戦の事実だけを、言うのみ。

その後、日本兵の生き残りは、タイ・メーホンソン県から、チェンマイ県の道を通り、撤退するのである。
多くの兵士は、この道の途中で、亡くなった。
遺骨、遺品は、撤退する道に捨てられたのである。

当時、撤退する日本兵に、温かく接したのが、タイの人々である。
食事を与え、負傷した者、マラリアにかかった者を、手当てした。
日本兵も、そこで、タイ人の村の農作業等を手伝い、交流を深めた。

実は、この作戦で亡くなったのは、日本兵だけではない。
当時、一般の中国人を、運搬作業のため引き連れたのである。彼らも、多く亡くなっている。その数は、日本兵より、多いと推測される。また、タイ人も、犠牲になっているのである。

北部タイの、国境付近には、中国人の死者を追悼慰霊する、碑もある。

さて、今回、私が行く、バンカート学校内の慰霊碑である。

平成元年である。
佐賀県の僧侶と、遺族が、カンボジア難民慰問の帰り道、チェンマイ県を訪れた。
それが、始まりである。

その時、出会ったタイの僧侶の言葉が、一行の心を打った。

ここには、まだ多くの日本兵が眠っている。
あなたたちは、それを省みることもない。
そんなあなたたちは、日本人は、人間といえるのか。

それは、衝撃的だった。
一行の中に、何と、その生き残りの人がいたのである。
そして、語り出した。

最初は遺体に土をかけて通った。
次には、遺体をまたいで、通った。
最後は、遺体を踏み越えて、通った。

この事が、きっかけとなり、僧侶と、遺族によって、慧燈財団が設立され、この地に眠る、日本兵の遺骨収集が、始まったのである。

平成5年に、財団は、バンカート・ウィタヤーコム校の敷地を借りて、サンカヨーム寺の、古井戸に埋葬された日本兵の追悼の碑を、古井戸の上に建てた。

更に、遺骨の見つからない、一万八千名の日本兵、軍属、関係者の遺骨を集めて追悼慰霊し、平成13年には、敷地内に、昭和天皇御製の刻まれた、大梵鐘を建てて、遺骨の見つからない人々を追悼慰霊する。

私は、そこに行くのである。

何故、行くのか。
私にも、よく解らない。

もう、20年以上も前のことである。
私のお客さんに、サイパンに通訳の仕事で、よく通う女性がいた。
仕事から帰ると、相談に来るというか、報告と、清め祓いに来た。

今回は、将校の霊でした。
あっ、そう。
そんな、やり取りである。
要するに、サイパンに行くと、兵士の霊、軍人の霊と関わり、体調が悪くなるのである。それで、私の元に来た。
私の、慰霊への、伏線である。

いつか、行くべきだと思いつつ、年月を過ごした。
そして、昨年、思いついたように、慰霊をすべきだと、心に命ずるのである。
それは、即座に行った。
バリ島から戻り、すぐに、サイパン行きを決めた。
バリ島での、日本セミナー開講を計画していたのに、慰霊の行為が、加えられた。

やらなければ、ならないという、ただ、一心である。
その他の、理由が無い。ただ、心の命ずるままに、行動するのみ。

それと、共に、私は、太平洋戦争のことを、調べ始めた。
歴史的事実と、様々な考え方である。
慰霊は、それに、確信を与え、戦争を追体験することになった。

そして、未だに捨て置かれる、多くの日本兵の遺骨である。
信じられない思いだった。
話を聞けば、親兄弟を戦争で失った人が、空の骨箱が来ただけであり、そこには、石が入っていた等の、話である。

こうしては、いられない。
オーストラリア・ダーウィンの、日本軍に攻撃を受けて、市民が400名程亡くなったという場所にも、慰霊に行く意義を見出した。
更に、ミクロネシア連邦の、トラック諸島に沈む、艦船43隻、民間船200隻の、慰霊。
そして、ラバウル、ガダルカナル、ニューギニアである。
まだまだ、ある。

そんな時に、トラック諸島の海底の遺骨が、見世物にされているという、記事を見て、その意を強くした。

霊的存在には、場所は、関係無い。どこでも、追悼慰霊の行為は、できる。しかし、その場所に出掛けるということに、意味があり、その行為も、慰霊の行為になると、直感したのである。
行こうとする心だけでも、追悼慰霊の行為になるとは、初めての体験である。
それ程、戦死者は、悲惨な思いをしたのである。
特攻のみならず、戦争に行くということは、死を意味した。
すべての兵士は、死を受け入れざるを得ない状態に置かれて、辛吟したはずである。
戦争という、不可抗力を受け入れる、彼らの心に、私は、深く打たれた。ここにこうして、平和を享受する私に出来ることは、追悼慰霊の行為であると、確信した。
敗戦から60年を過ぎて、忘れ去られる歴史と、兵士の死の重さを、私は、体験したいと思った。それは、また、祈りであり、歴史を、私のものにするための、行為でもあった。

遥かなる慰霊の旅 タイへ10

遥かなる慰霊の旅 タイへ10

慧燈財団の、チェンマイ事務所、事務局長小西誠さんが、ホテルまで、迎えに来てくれた。

丁度、午後二時である。
すぐに、車に乗り込み、チェンマイの郊外を目指した。

バンカート村は、約一時間程かかる。が、車がスムーズに進み、早く到着した。
学校の敷地にあるので、校門を入る。
学生が、帰り道を、歩いていた。
小西さんは、昨年まで、そこで日本語の先生をしていたのである。
財団派遣の先生であった。

小西さんは、顔見知りの学生に、車の窓から顔を出して、挨拶する。
私たちも、挨拶した。

車は、慰霊碑の場所に、向かった。

校舎を通り、そこを越えて行く。
全く、学校の中である。

車を降りた時、曇り空に、太陽が照った。

慰霊碑の前に行く。
立派な慰霊碑である。

私は、早速、準備をした。といっても、木の枝を少し取り、それに、用意していた、御幣のための、大麻、つまり、紙を用意していた。
おおあさ、大麻と書く。おおあさには、穢れを取り除く力があるとされ、祓いのために、利用された。
それを、木の枝に、取り付けて、完成である。簡単である。

祭壇の前に、花籠と、果物を奉じて、準備が整う。
小西さんが、井戸の上の蓋を開けて、中を見てくださいと、言う。
私と野中が、階段を上り、慰霊碑の上の、蓋を開けて、中を見た。
水が見える。
この下に、500柱の遺骨があると思うと、体が、打ち震えた。

ただ、無臭であり、遺骨が眠るとは思えない、清浄な空気、風である。
創立者の調さんという方は、浄土真宗の僧侶である。当然、読経し、渾身の慰霊を行ったのであろう。
清められていた。

私は、古神道に、則り、清め祓いのために、祝詞を献上することにした。
追悼慰霊の行為である。

石畳に正座して、皇祖皇宗、総称して、天照大神を、お呼びし、続いて、天津神、国津神、そして、その地を治める、産土の神の降臨を願う。
更に、八百万の神、祓い戸の神々の降臨を願う。

ここで、慰霊についてを言う。
生きている者の、満足感を満たすものではない。
私が、追悼慰霊をしたという、満足感を満たすものではないということである。
霊の存在を知る者、その心を透かして、見抜かれると、知る者である。

単なる追悼なのか、慰霊なのかを、見破られる。それは、不遜になる場合もある。

誠心誠意を尽くして、慰霊を行うのであり、自己満足の行為ではない。
故に、私は、語り掛けた。
靖国に、戻られたい方は、靖国に、故郷の地に戻られたい方は、故郷に、次元を別にしたい方は、次元を別にしていただくようにと、宣り言を申し上げた。

私のためではない。
霊的存在になった、皆様のためにである。

強制して、天国へなどとは、言わない。

誰もが、道順というものがある。

百人百様の、道順がある。
また、古神道の形で、神道への誘いではない。
それぞれの、求める、宗派の想いがあるならば、そちらの方である。
祝詞は、言霊のものであり、更に、音霊のものである。
その、音に乗り、それぞれの思いの、道順を行かれるべきである。

前半の祝詞を正座のままで、そして、後半の祝詞を、立ち上がり、献上した。
宗教としての、神道の形式ではない。
無形式の、伝統である、言霊の、力を頼む祝詞である。

朝風夕風の吹き払う如く 
祓い給え清め給えと申す

その、祝り詞の、言霊の音によって、霊的存在が、流れるのである。
その際に、多くの心霊、神霊が、動く。
最早、私の力以外の力が働く。

神も祈られて神である。

更に、御幣を持ち、太陽に差し向けて、太陽の霊気を頂き、清め給え、祓い給えと申す。
辺り一体を、清め祓う。
私の力ではない。

私は、道具になる。

それが終わり、私は、再び正座して、口から出る言葉に任せた。

最初に、念仏が出る。暫くの念仏である。
そして、次に、題目が出る。暫くの題目である。
そして、般若心経になる。

求められるままに、唱える。

30分程の時間を要しての、慰霊の行為であった。

実際、古神道には、祈りの言葉は無い。
黙祷のみある。

言挙げするものは、善き言葉だけである。
実際、最後は、ただ、おーーーと、お送りする言霊、音霊のみになる。

日本語は、一音に意味がある。ただ、それを行うだけでいい。

古神道にも、様々な考え方がある。しかし、私は、宗教という認識は無く、また、行者のような考え方も無い。勿論、人それぞれの方法があってよい。否定はしない。
ここで、私が宗教家のように、考えられては、誤るのである。

私は、日本の伝統に添って、行っている。つまり、誰もが、実践出来た時代の様である。持ち回りで、誰もが、祈りの主になれた、古代の伝えを行為しているのである。
特別な霊的能力があるとか、宗教の形にあるというものではないこと、再三言う。

私でなければ出来ないということは、一点も無いのである。
誰もが、行うことが出来るものである。

宗教的論争はしないのである。
古神道は、宗教では無い。

次に、私たちは、梵鐘に向かった。
鐘楼に上がり、未だ遺骨の発見されない兵士の霊位に、心を込めて、その音を響かせた。
これも、音である。

原始体験にある、音の威力を知るものである。

音は、波動である。霊は、波動に乗り、流れる。
これ以上は、省略する。
語り切れない。

追悼慰霊が終わり、学校の事務室に行き、子供たちのプレゼントである、ノートと、ボールペンを先生たちに、手渡した。
いつも、慰霊碑を清掃してくれる生徒たちへの、お礼である。

次に、学校の体育館にて、コンサートを開催する約束をした。
これから、縁ある活動を願いつつ、学校を後にした。

ホテルに戻ったのは、五時を過ぎていた。

2007年11月22日

遥かなる慰霊の旅 タイへ11

遥かなる慰霊の旅 タイへ11

小西さんと別れて、ホテルの部屋に入った。
充実した、疲れである。

暫く言葉が出なかった。
迷いの一点も無い。

今、先ほどの行為が、遠い過去のような、感慨になった。
そして、事の大きさに、たじろいだ。
何という、大それたことを、考えてしまったことか。これを、ただ今の日本人に理解して貰うことは、至難の業であるし、誤解を多く受けるだろうと思った。

説明すれば、するほど、混乱するのではないかと、思えた。
何故慰霊するのかということは、霊的存在を言わなければ、ならないからだ。それは、信じるか、否かになり、追悼慰霊とは、関係ない、議論に陥る。

過去の歴史の検証と言いつつ、ただ、分析に始終していては、学者の無用さである。
検証するとは、追体験し、更に、行為することである。

分析ばかりを、善しとして、後は、何もない。

時間は、六時を過ぎた。
野中に言う。
チェンマイカレーの店に行こう。
胃腸の弱い時に食べると、すっきりするカレーと、聞いていたので、食べたいと思った。
生姜を主にした、カレーもあると言う。この暖かい土地で、体を温める生姜である。暖かい土地だから、体を冷やさないように、体を温めるものを、食べる。

その店は、地元の人の集う、店で、ホテルから、道を隔てた、向こう側、新市街にある。
こんな近くにあったとは。

店内は、開け放たれて、室内にいるという感じがしないのである。

注文して待つと、竹篭に入った、もち米の蒸かしたものが出てきた。それが、美味しい。
それをカレーと一緒に食べるのだ。
一度で、気に入ってしまった。
その後、何度も通うことになる。

確かに、辛い。その辛さがいい。清浄とした辛さである。
食べ終わると、本当にスッキリする。

汗を流して食べた。
食べ終わると、すぐにホテルに戻った。そして、私は、すぐにベッドに体を横たえた。

一度起き上がり、シャワーを浴びて、そのまま寝たのである。
もう、眠るしかなかった。
本日の行為は、大変な労力を使った。勿論、本望である。

珍しく、早く寝た。
そして、朝、早く目覚めた。
忘れない内にと、手帳に、行ったことを書き入れた。
時間の推移と、食べた物なども書き入れた。
書いて置かなければ、忘れる。特に、忘れやすくなっている。

そして、七時になったので、下に降りた。
一階のレストランは、準備を始めている。
私は、テラス、歩道に置かれた、テーブルについた。
コーヒーを頼んだ。

暫く、コーヒーを飲んで、ぼんやりと、道行く人や、車を眺めていた。

八時に近くなった時、おはようございます、と、声を掛けられた。
小西さんである。
アア、昨日は、お世話になりましたと、お礼を言う。言い表せない感動を覚えましたと、伝えた。
小西さんが言う。
このホテルに泊まっている、桜会の人を迎えに来たと。

慰霊のために、桜を植えている方々である。

小西さんのコーヒーを注文して、暫く、話をした。
私に、財団の活動パンフレットや、追悼慰霊碑の、様々を書いたものを、渡してくれた。
暫くすると、二人の日本人男性が、現れた。
二人に紹介された。

本日、これから、メーホンソンに行き、植樹してくるとのこと。
彼らも、この財団の活動をテレビで見て知り、コンタクトしたという。

メーホンソンは、飛行機で、30分程度で行く。バスだと、八時間かかる。
来年、私も、そちらで、追悼慰霊をしたいと思っていた。

立ち話で、三人と、別れた。

私は、サンドイッチを注文して、まだ、暫く、テラスで、過ごした。

矢張り、止むに止まれず、何かを行為したいという人がいる。当然である。過去を知れば、過去に何か出来ることは、ないかと思うものである。特に、同じ日本人が、異国の地で、多く亡くなっているのである。通常の神経の者ならば、当然、何か出来ないかと、考える。

二人から、頂いた名刺を眺めつつ、食事をした。

この日は、ホテルを引き払い、安いホテルというか、ゲストハウスに近いホテルに移動する。
二日前に、私が探したホテルで、それは、歩いてすぐの、新市街にあった。
その辺りには、多くのゲストハウスがある。
100バーツから、部屋があるのだ。約330円で、一泊である。若者なら、そんな部屋でも、平気である。

一泊、400バーツであった。部屋の広さが、半分になっただけで、後の設備は、変わらない。

部屋に戻り、荷物の整理を始めた。
野中も、起きていた。
整理が終わると、もう、正午に近い。チェックアウトの時間である。

フロントで、支払いを済ませると、カムバック アゲンと言われた。
まだ、滞在することを知っている。また、来て下さいと言う。
実は、私が、移動するのが、面倒だと、最終日の11日まで滞在するから、料金をまけてくれと、交渉したのだ。一泊600バーツになればと思った。何事も、言ってみなければ、解らない。
すると、驚いた。日本語で、これで精一杯でございます、と言う。
750バーツが、最低の値段なのだ。まあ、900バーツを750バーツにしているのである。

私は、諦めた。そして、安いホテルを探したのである。

荷物を下に降ろすと、タクシーと声がかかるが、タクシーに乗る距離ではない。
歩いて、行く。
ターペー門を抜けて、新市街に入り、中小路にある、ホテルに向かった。実は、そのホテルの前に、前回、よく来た、イタリア料理の店がある。
その時は、イタリア人の経営で、実に、美味しかった。
その後、経営がタイ人に変わった。イタリア人が、タイ人の妻を連れて、本国に戻ったと、野中から、聞いた。
それでも、野中が、何度か、通って、新しい経営者と、仲良くなっていた。

新しい部屋に、荷物を置いて、すぐに、その店に出た。

野中の顔を見ると、そこにいた女性が、驚き、コウタ、コウタと連発する。
経営者の妹さんが、店を仕切っていた。
彼女は、二階の姉を、呼ぶ。
姉も出てきて、私たちを迎えた。

姉は、バイクで事故を起こし、右足を痛めて、松葉杖をついていた。
野中と、英語と、やり取りをする。
ご主人が、イギリス人であかるから、英語が、ぺらぺらである。

私たちは、パスタを注文した。
その味は、見事に、タイ風に変化していた。

そこで、暫く過ごして、部屋に戻り、荷物を取り出して、整理した。
この部屋に最後までいるつもりである。
もう、部屋を移動するのは、面倒だ。

部屋に戻ると、小西さんから、野中に電話が入り、日本領事館の総領事が私に会うとのこと。小西さんに、領事館から後援を頂きたいと言ったのが、すぐに、実行されたのだ。

2007年11月23日

遥かなる慰霊の旅 タイへ12

遥かなる慰霊の旅 タイへ12

総領事が私に会うということまでは、考えなかった。
私は、領事館から、名義後援を頂くには、どうすればいいのかということを、尋ねたかっただけである。
しかし、結果、明日、総領事が会うということである。
ありがたい、と思った。

さて、実は、この日は、午後から、タニャさんのお家に行く予定である。
野中の親友になった、タニャさんは、お祖父さん、父母、妹とその二人の子供と暮らしている。
レディーボーイである。
その新しい家を、タニャさんが、建てた。
凄いものである。
今回は、私を招待して、家を清め祓いしたいと、タニャさんから申し出である。
曰く、家族を幸せにしたいと。
ただ、それだけである。

タニャさんが、車で、迎えに来てくれた。
家は、チェンマイ郊外の、サンカンペーンという場所である。
20分程度で、着いた。

広い敷地である。
大きな通りから、少し中に入った土地で、静かな環境。
居間がオープンになっている。

家には、お母さんと、妹さんがいた。
お父さんは、屋台のラーメン屋をしている。お祖父さんは、離れにいた。

タニャさんは、15歳の時、自分が女として生きてゆきたいと家族に告げた。すると、お祖父さんが、それならば、家を出て行けということになり、100バーツを渡されて、家を出た。
それからの話は、長くなるので、省略するが、現在は、タニャさんが建てた家に、家族皆で、暮らしている。
30を過ぎたタニャさんは、家族を恨むことなく、その逆で、家族を幸せにしたいと言う。
こういうのを、恐れ入るという。

早速、私は、清め祓いの準備をして、簡単に説明して、始めた。

古神道の心は、自然添うもので、どんな信仰形態をもっていても、問題ない。すべてを、照らす太陽を、主として、拝み奉るのである。

タニャさんの居間には、仏陀の像が、日本の神棚のような場所に祭られてあり、家の前には、ピーを祭る。
ピーとは、精霊である。
外から、悪いピーが入らないようにと、ピーの祠がある。

私は、それぞれに挨拶し、土地の産土の神をお呼びして、清め祓いをした。
後ろでは、皆が、手を合わせている。
私は、黙って見ていて下さいと言ったが、私が祝詞を唱えている間、姉妹は、手を合わせていた。

どうして、私に清め祓いを頼むのか、実は、理由が解らない。だが、それを求められるままに、行った。
野中を通しての話であるから、多くを詮索することは、なかった。

清め祓いを終わり、私は、足の調子が悪いという、お母さんの足を見た。浮腫んでいる。
軽く揉んで、持ってきた、お灸を始めた。
30分程、手当てをした。
それを、お母さんは、非常に喜んだ。私は、日本から、お茶を送る約束をした。利尿作用のある、お茶を送ろうと、思った。

その間に、姉妹が、食事の準備をする。
ムーカクという家庭料理で、焼肉と、しゃぶしゃぶを合わせたような料理である。
その鍋が変わっていて、お椀型の逆の形で、下の方にスープを入れる溝がついている。

そのタレが、手作りで、辛い。二種類のタレは、辛さが違うが、辛い。
汗を拭き拭き、食べた。
鶏肉、豚肉、野菜である。

食べている間に、妹さんの二人の子供が学校から、帰ってきた。
丁度、私が持ってきた子供服が合う年頃なので、少しばかり、お土産として持ってきた。

子供二人が、加わり、大勢での食事である。
楽しい。
そして、嬉しい。

私は、もう腹一杯になり、少し離れて、タバコをふかした。
上の子が、勉強しているノートを見せてくれる。
丁度、タイの数の勉強で、数の文字の練習である。日本の漢字の書き取りのようなことを、している。
家族のタイ語の会話の内容は、解らないが、日本の家庭と、変わらない会話だと思う。

二時間程、タニャさんの家で、過ごした。
タニャさんが、勤めに出る前に、車で送ると言うが、私は、ソンテウで帰ると言った。乗り合いバスに乗れば、また、色々見聞することが出来る。
すると、大きな通りまで、送るというので、そうしてもらった。

おかあさんが、私たちを見送ると言う。そして、また、来て欲しいと言う。
ありがたい。
また、来ることを約束して、車に乗り込んだ。
大きな通りに出ると、すぐに、ソンテウが来たので、それを止め、乗り込んだ。

後ろを振り返ると、おかあさんが、手を振っている。
私も、手を振り、応えた。

ソンテウの中は、人が一杯で、途中で乗り込んだ男の子たちは、三人、車の外である。日本では、決して考えられない、乗り方である。

ソンテウも、巡回用のもので、降りたい所で、下ろしてくれる。
野中に促されて、途中で、降りる。

そこから、ホテルまで、歩いた。
ターペー門に続く、ターペー通りである。

夕食がいらない程、食べた。
ホテルに戻り、ベッドに横になる。

野中が、私に言う。
おかあさんと、妹さんが、本当に喜んでいたと、タニャさんが言っていたと。
また、来て欲しいと言う。
野中は、二ヶ月タイ語を学んでいる間に、何度も、タニャさんの家に泊まりに行っている。

私が、ところで、あんたのこと、タニャさんのおかあさんは、何だと思っているのと、聞くと、タニャさんと同じく、レディーボーイを目指している男だと、認識しているとのこと。
私は、笑った。
それは、面白い。
タイでは、レディーボーイを目指す男でいればいいと、言った。
野中は、苦笑いしている。

それから、私は、ホテルから出なかった。
昨日と、本日のことを、忘れないように、手帳にメモし、コンサートの歌詞を覚える。
自慢じゃないが、私は、自分の作詞した歌の歌詞を覚えることが、出来ないが、人の歌は、覚えることが出来る。
自分の作詞した歌を歌うと、必ず、間違うから、可笑しい。
ホテルの部屋で、大声で、昴を練習する。

あーあ 砕け散る 定めの星たちよ せめて密やかに この身を照らせよ
あーあ さんざめく 名も無き星たちよ せめて鮮やかに その身を終れよ

うーん、いい歌詞である。
これは、中国僧の、鑑真のことをテーマにして作った歌だということ。日本に仏法を伝えるために、盲目になっても、その意思を貫いた。
この鑑真の少しでも、日本の僧たちに、あれば、もう少し、世の中が変わると思う。

寺という、組織を作り、その中で、ぬくぬくとしている僧に、未来も、仏法も無い。
安穏とした、怠惰な生活の様のみである。

教えというものは、命を賭けて始めて生き生きとしたものになる。そして、その口から出る言葉が、人を生かし、人を変容させる。
教えは、人を変容させるから、凄いのである。
そのままで、その環境のままで、その苦悩のままで、生きるべくの、変容をさせる。
そのためには、行為行動しかない。現実とは、行為行動のことである。
我は行く 心の命ずるままに 我は行く さらば 昴よ

2007年11月24日

遥かなる慰霊の旅 タイへ13

遥かなる慰霊の旅 タイへ13

11月9日金曜日。
朝七時に、私は、ターペー通りのレストランでコーヒーを飲み、サンドイッチを食べた。
多くの店は、八時からである。
30分ほど前から、店が開く。
コーヒーなら、開店前でも出してくれる店がある。
そして、八時を待つ。

本日は、日本領事館に行き、総領事と会う予定である。

コンサートの後援を貰うためであるが、まさか、総領事に会うことになるとは、思わなかった。小西さんのお陰である。

ターペー通りが、次第に騒がしくなる。車の数が、見る見る多くなる。
観光客も、出始めた。
レストランが、皆開店する。
また、一日が始まる。

この、ターペー通りの隣の通りが、ロイクロ通りといい、夜の街になるのである。その先には、ナイトバザールが突き当たる。
夜の街になると、雰囲気が一変する。
実に、賑やかである。
ゴーゴーバーという店からは、女の子たちの、奇声が上がる。
道を歩くと、誘いの言葉である。着物を着ていると、大変だ。キャーキャーという声が上がる。私は、夜歩くとき、タイパンツと、Tシャツにした。

ホテルに戻り、野中を起こして、出掛ける準備をする。
野中は、毎晩出歩く。それが、彼の情報になり、書くことの、ヒントを与える。野中は、小説を書く。私は、ルポを書けと勧めている。
命懸けで生きるレディボーイたちの生態である。
レディーボーイといっても、様々である。大きく二つに分けられる。
一つは、完全に女性の体になった場合である。もう一つは、男の体のままに、女装をしている場合。

それぞれが、微妙に違う。
女性と混じり仕事をする者と、レディーボーイのみの仕事場で、仕事をする者。そして、女性として、体を売る者。女性の体ではない者も、女性のように、体を売る者もいる。
実に、色とりどりである。

その生態から、観えてくるものがある。
それについては、野中に任せるとしょう。

トゥクトゥクに乗って、日本領事館に向かう。
ビジネスセンター、ジャパンと言う。通じた。
本当は、乗る前に料金の交渉をするのが、正しい。大半が、ボラれる。だが、私は、着物姿だから、ボレれることはない。確信している。
私を、ボルことは、日本をボルことになるのだ。
着物は、日本を代表する。

入り口で、警備員に止められた。
車は、許可がなければ、入ることが出来ない。
セキュリティが、実に厳しい。
その前で降りて、タオライカップと、値段を聞く。
60バーツである。
ボラれると、300バーツとか、甚だしい場合は、500バーツと言われる。
勿論、そう言われたら、日本語で、怒鳴り散らす。
タイの人は、大声が嫌いである。
特に、私のような、声の大きな者は、嫌われる。

帰りは、50バーツであった。
目出度し目出度しである。

建物の中に入ると、また正面に、警備員が立っている。
ひどく、真面目だ。
敬礼して、迎える。
パスポートを出す。
用紙を取り出して、キムラと、読み上げる。すでに、私の名前が、知らされてある。

右側の扉を示される。
そこでも、また、チェックがある。
今度は、日本人の女性である。
名前と住所を日本語で書く。
そして、一つの扉を開けると、更に、扉がある。
随分と、厳重である。

漸く、総領事の部屋の前まで来ると、暫し待たされる。
別室に通されるが、すぐに、呼ばれた。
そして、総領事の部屋に通された。

横田総領事は、女性である。
バンコクの大使館にいた方である。
チェンマイには、日本企業が多く進出してきて、領事館の必要性大になり、立派な領事館が出来た。
要するに、企業のためが、第一である。
それから、長期滞在の日本人が多くなったためである。

話の内容は、追悼慰霊のことであり、そして、チャリティコンサートのことである。
その他の内容に関しては、省略する。

ただ、あちらは、政府機関であり、公である。
こちらは、民間であり、民間外交、民間活動である。
その違いは、大きい。

あちらは、外務省により、人事配置が行われて、転勤する。それで、終る。
こちらは、終ることも、始めることも、心一つである。

追悼慰霊に関しても、色々と考えていると言う。また、多くの民間の活動を、取りまとめたいとのこと。
兎に角、今回は、顔合わせということで、少しの時間を頂いた。
一人、領事の方も、同席した。
名刺を交換して、これからの活動を話して、お世話になりますと申し上げて、辞退した。

領事の男性の方が、送りに出てくれた。

入り口には、二人の警備員がいた。
私たちに、最敬礼する。
可笑しかった。
本日の予定、終わり。
丁度、昼過ぎである。
戻って、食事であり、いよいよ、明日のコンサートの準備である。

準備は、万端である。
すべての歌の歌詞を覚えた。
野中は、数日前にホールに行き、機材の確認をしている。

ホテルに着いて、すぐに、タイパンツと、Tシャツになる。
着物は、目立ち過ぎる。

ホテル前の、イタリア料理の店に行く。
顔なじみである。
ビザを注文する。
私は、その前に、甘いものが欲しくて、アイスクリームを頼んだ。
矢張り、疲れたのだ。

食事を終えたて、休んだら、マッサージに行こうと思った。

一時間100バーツの安いマッサージ店に行ったのは、夕方四時である。
客は誰もいない。
タイマッサージを頼むと、二階に案内された。広い部屋で、私一人である。
24歳という、女性が担当した。
今、店には、ボスと、二人だけマッサージ嬢がいると言う。

最初は、無言でマッサージをする。
矢張り、下半身は、巧い。足裏から足のマッサージは、良い。
背中になると、弱いのである。
だが、黙って受ける。
これでは、肩の凝りは、取れないと思いつつ。

明日は、フットマッサージをすると言うと、喜んだ。そして、少し話すようになった。片言の英語である。片言の英語の方がよく解るから、不思議だ。
彼女は、マッサージ歴四年であるというから、20歳から、始めたのだ。

店を出ると、夕暮れの空が広がっていた。

2007年11月25日

遥かなる慰霊の旅 タイへ14

遥かなる慰霊の旅 タイへ14

10日の朝、コンサート開催の朝である。
私は、七時に、最初に泊まったホテルに向かった。
一階のテラスで、食事をするためである。

知った顔のボーイが出てきた。
まだ、私が、このホテルに泊まっていると思っている。
最初に、コーヒーを頼んだ。

そして、歌の歌詞を反芻していた。
プログラムを一応作った。ただし、お客様には、配布しない。
その時の雰囲気で、変えられるようにだ。

会場には、夕方の五時半に着く予定である。
歩いて行かれる場所だから、気が楽である。

コーヒーを飲み、タバコをふかして、暫くしていた。
そして、朝のサンドイッチを頼む。

ふっと、レストランの中を覗くと、白人が朝食を食べている。
兎に角、量が多い。
朝から、あれだけの物を食べるのであるから、大きいのかと、思う。
しかし、あれを食べてみたいと思うのだ。人の食べている物を食べたいと思うのは、性格だろうか。

だが、思い直して、矢張り、サンドイッチにする。
いつもと、同じものである。

本日のコンサートで、今回の旅の最終目的を終える。
何とも、過ぎてしまえば、早いものである。
明後日、帰国するのだ。

黙っていても、時間が過ぎる。
時間を哲学すると、ノーベル賞ものだと、聞いたことがある。
それ程、時間というものは、捉えにくい。
流れると、捉えただけでいいのか。
そして、本当に時間は、流れているのか。
流れていると感じるのは、こちら側である。時間の方は、流れるとは、感じない。時間に、意識は無いのである。
また、人間の時間と、象や鼠の時間も違うだろう。
鼠は、早く死ぬ。象は、長生きである。
だが、鼠も象も、生きている間の心拍数は、同じだという。

兎に角、時間を、掘り下げて考えてみたいと思うが、本当は、そんな暇は無い。
地球が太陽を一回りすると、私は、一つ年を取るという、現実を、時間の流れと考えていいものだろうか。いやいや、この辺で、止めておく。

ホテルに戻り、体をベッドに預ける。
コンサートの前に、フットマッサージをする予定である。
昨日の、マッサージ屋である。約束したことでもあり、まだ、今回はフットマッサージを受けていないから、楽しみである。

その前に、昼食である。
さて、何を食べようか。

野中が、安いタイの食堂を教えると言う。
そこに、行くことにした。
暫く、ベッドで休む。

昼食まで、休むことにした。

私は、旅をしている間、本を読まない。
ところが、今回は、少し本を読んでいた。タイの歴史である。
それも、太平洋戦争前から、戦後を中心にしたものである。

タイと日本との関係について、知りたいと思ったからだ。
日本は、アジアの国の中で、最もタイとの付き合いが深い。

タイの近隣の国は、戦前は、皆、植民地だった。タイのみ例外である。
結果論から言えば、日本が興した戦争が、それらの国に、独立を促したと言える。

例えば、ミャンマーも、独立を果たしたのは、アウンサン将軍が、日本軍から教えを受けてのこと。
ただし、ミャンマーは、その後、二度のクーデターにより、軍事政権を樹立している。
大変残念なことである。
独立の最初の将軍の娘が、現在、民主化を進める、アウンサン・スーチーさんである。

タイと言う国は、色々な軋轢を、うまくかわしている。
特に、太平洋戦争後が、顕著である。

絶対王政だったタイが、1932年6月24日の、人民党によるクーデターで、立憲君主制と移行する。
暫く、王室の存在が、稀薄化する。
それが、再び、脚光を浴びるのは、共産主義に対抗して、国民統合を推進する時代が到来してからだ。
人民党政府も、暫く不安定な状態で、紆余曲折を経た後で、首相の地位に就いた、ピブーンの時代になり、1939年6月に、国家信条を公布した。
それにより、国名が、シャムから、タイに変更した。
タイとは、英語で、タイランドと書く。つまり、タイ人の土地という意味である。それは、また、タイ人の国という意味になる。

タイと日本が、友好国、兄弟国となったのは、1933年の満州国問題に関する、国際連盟の対日非難決議である。タイは、棄権票を投じたことと、その後のクーデターで、ピブーンに頼られたことからである。
そして、日本は、タイと友好関係を深める条約の締結を希望した。
だが、タイが、英仏と、不可侵条約を結ぶことで、日本も、同じく1940年に、不可侵条約を結ぶのである。

太平洋戦争開戦の最初に、日本軍はタイ軍と、戦闘を行っている。
ピブーンは、中立的立場を取ろうとするが、結果的に、日本軍がタイを通過する通過協定を結ぶが、更に、軍事協定を結び、遂には、ビルマ進軍を、タイ側と行うために、同盟条約を締結した。
その後、タイは、連合国側のバンコク空襲を非難する意味で、1942年1月に、米英に宣戦布告することになった。

タイは、日本と共に、戦争を始めたが、それは、タイの領土拡大を目指したものだ。しかし、現在でも、この戦争は、日本により、無理に始めたものであり、タイも、日本に占領されたと、考える歴史の見方もある。

終戦の際に、タイが、特別に有利に事を進められたのは、宣戦布告の署名であった。
スイスにいる国王の変わりに、三人の摂政が署名するはずが、そのうちの一人が、雲隠れして、二人のみの書名になった。
ゆえに、タイは、署名は、無効であるとしたのだ。
また、英米に留学していたタイ人らが、日本に協力することを拒み、自由タイ思想を掲げて、帰国せずに、働きかけたことから、敗戦国という、最悪の事態から逃れられた。
勿論、痛みは、伴った。アメリカは、良かったが、イギリスが、21か条の要求を突きつけた。
その間に入ったのが、アメリカで、その支援を受けつつ、イギリスとの、平和条約の交渉を行った。犠牲はあったが、1946年に、平和条約を締結したのである。

上記、あまりにも簡潔過ぎるが、タイは、日本のような敗戦による、辛苦を舐めずに済んだ。

マッサージの時間がきたので、私は、出掛けた。
フットマッサージである。
彼女が、喜んだのは、当然である。矢張り、お客は、私一人だった。
フットマッサージは、通りから見える、一階で行う。
彼女は、饒舌になった。
片言の英語で、色々と話しかけてくる。私が、毎日通えば、上客である。

色々な質問に、単語で、答えた。
独身、仕事で来ている等々である。
次第に、営業になってくる。
明日、オイルマッサージをするかと言う。オッケーと答えた。
喜ぶ。
そして、店から、ボスが出て行くと、収入の話を始めた。
今日の、フットマッサージは、200バーツである。自分の取り分は、60バーツであるという。つまり、100バーツにつき、30バーツが、彼女の取り分である。
タイでは、チップを渡すことが、当然になっている。チップが無ければ、生活が出来ないのだ。それは、野中からも、聞いていた。
私は、20バーツのチップを渡していたので、彼女の収入は、一時間で、50バーツである。約、170円。時給170円は、安い。しかし、それが現実である。
話は、続く。

2007年11月26日

遥かなる慰霊の旅 タイへ15

遥かなる慰霊の旅 タイへ 15

マッサージ嬢の、話が続く。

収入の話は、色々と聞いていた。
例えば、夜の仕事をする女たちや、レディボーイの給料は、一月3000バーツである。約一万円である。それでは、生活が出来ない。チップに頼る。しかし、それが駄目だと、売春である。
スポンサーを見つける子もいる。それも、準売春である。いや、売春か。

給料と、同じだけの、チップを貰わなければ、生活が出来ないのである。

マッサージ嬢との、やり取りが、続く。

明日は、二時間のオイルマッサージをして、と言う。
二時間、300バーツである。約千円。彼女の取り分は、90バーツ。約280円。
私のチップ20バーツで、100バーツ。約330円。

私は、彼女の一月の収入を試算してみた。
どう考えても、3000バーツから、5000バーツである。約一万円から、一万五千円である。
しかし、それでも良い方である。客がいればのこと。
もし、客がいなければ、収入は無い。保障が無い。

次第に、会話が楽しくなる。
片言英語の冗談が、飛び出す。
そして、ついに、私の股間を指差し、マッサージオッケーと言う。
どういうことか、解る。
私は、笑った。
しかし、彼女は、笑わない。

私が、聞いた。
チップ タオライ。幾らなの、と。
500バーツと、すぐに答えた。つまり、すぐに答えられる用意があるということだ。
もし、そんなことを、していないなら、すぐに金額は、出ない。
そして、言う。
内緒だと。シークレットと言ったのか言わないのか、解らないが、雰囲気で解る。
ボスに、シーッと、指を唇に当てた。

500バーツ。約1600円。
100バーツの仕事で、30バーツを貰ったとして、比べると、凄い金額である。
生活するために。
それは、生きるためにと、なる。

兎に角、私は、明日、オイルマッサージをすることになった。
前にも書いたが、オイルマッサージは、マッサージ好みの私には、生殺しのようなものである。凝りを出すが、凝りを取らないからである。
しかし、彼女のオイルは、違うものである。別の目的がある。

店を出る時、彼女は、ウキウキしていた。
また明日。

もし、彼女の言うとおりだとしたら、私は、明日800バーツを払うことになる。
だが、私は、この結末を省略する。
この旅行記に、全く関係ないことだ。

これが、面白いタイ旅行という旅行記なら、ぴったりであるが、どうも違う。
別の時に書くことにする。

このような、話は、尽きない。
例えば、飲みに言ったバーで、2000バーツで、何でもすると、豪語した、レディボーイもいた。
また、オープンバーでは、単なるボーイが、チップ欲しさに、リップサービスが凄い。
客の喜ぶ言葉を連発する。
また、面白いのは、怒りを売りにしている、おばさんホステスや、ゲーム専門ホステスもいる。ゲーム専門ホステスは、兎に角、何でもゲームである。欧米人が好む。

勿論、夜の街では、何でもありである。
ただし、危険な目に遭わないためには、我が身を、あやふやにしないことである。
アイ ライク ボーイと言えば、女は、一線を置く。煩くない。
日本人である。すると、金を持っていると、思われる。

だが、彼女、彼らも、アホではない。
しっかりと、見抜いている。
金を持っていても、使わない客は、相手にしない。
相手にしているようで、冷めている。

中年日本人と付き合う女性は、瞬間、冷めた目をする。
金で吊られている風を、装う。
愛情などではないと、表現する。だから、男も惹かれるのだろう。

欧米人の老人や、準老人と一緒にいるタイ人女性で、楽しそうにしている顔を見たことが無い。
老人介護である。
実に、良い仕事をしている。

ホテルに戻り、着物に着替えて、コンサートホールに向かう。
二部で、着替えるための着物も、持つ。
サービスである。
お客様の目を楽しませたいと思う。

ホール前のレストランで、パスタを食べる。
量が少ないので、丁度良い。
五時半、きっかりに、ホールに入った。
そして、すぐに、音を合わせる。

今回は、すべてカラオケである。私のために、ギタリストの千葉真康が、作ったものである。そして、篠笛の日本のメロディーを持ってきた。
それらと、合わせる。
プログラム通りに、進める。
私の歌より、機械がおかしくては、大変である。
実際、千葉の作ったCDは、鳴らなかった。野中が、気を利かせて、MDに取ったので、救われた。
もし、それが無かったら、何も無くなる。すべて、アカペラということになる。

開演の30分前に、もう人が来た。
待って貰う。
小西さんも、早めに来てくれた。
最初に、小西さんに、通訳をしてもらう。

開場時間がきた。
待っていた人を、案内する。私も、受付に出た。
何せ、私と野中の二人である。
お手伝いも誰も、いない。

ホール側の職員が、二人いた。彼らは、照明と、エアコンの調節である。
言葉が通じないので、ただ、それだけ。

開演時間になり、私は、ホールの隣の部屋から、舞台に出た。
今、受付にいた私が、ホールの横からである。可笑しいが、しょうがない。

皆さん、今晩は。
本日は、お越しくださり、ありがとうございます。
それでは、皆様、ご起立下さい。
最初に、プーミポン国王陛下に敬愛の念を表しまして、と言う。
王様の歌が流れる。
次に、日本国、国歌を独唱しますと、私が一歩前に出た。
最初の一声、その音が、難しい。
高く始まると、後が、ひっくり返る。
慎重に出す。

君が代という歌は、実に、難しいと感じた。

今回の成り行きと、主旨を話す。それを、小西さんが、通訳する。

それでは、最初に、白月を歌います。一部開始である。一曲ごとに、拍手を頂いた。
お話を加えながら進める。一部の最後に、日本語の歌としては、絶品であると紹介し、藤岡宣男の「この道」を流した。
無事終了して、休憩となる。
日本歌曲、童謡、歌謡曲を、歌った。そして、万葉集朗詠である。
二部も、無事終了。
最後のアンコール曲を、舞台を降りて歌う。

次は、もっと、人を連れてきます。多くの人から、聞いた。来年も、しますと、言ったからだ。半年前から計画したコンサートが、一時間半で終る。

遥かなる慰霊の旅 タイへ16

遥かなる慰霊の旅 タイへ16

コンサートに、いらしたお客様たちが、ホール前で、名残惜しく話をしている。
見送りに出た私は、そろそろと、思い、後片付けを始めた。

着替えをして、ホールを出ると、小西さんが、まだ、お客様と話している。
それを、待った。
もし、小西さんに、時間があれば、お礼の意味も込めて、軽く食事をと思った。

ようやく、お客様が帰り、小西さんが、こちらに来た。
奥様と、子供を一度家に連れて戻り、友人のやっているお店に連れてゆきたいと言う。
私たちは、最初のホテル、モントリーホテルの前で、待つことにした。

荷物があるので、一度ホテルに戻り、手ぶらで、モントリーホテルの前で待った。

小西さんは、少数部族のアカ族の女性と、結婚し、子供が生まれたばかりである。
その小西さんの、転変を書けば、また、長くなる。
簡単に言う。
とび職をしていた小西さんは、大事故、転落し、九死に一生を得る。それから、人生が変わった。見た目には解らないが、障害者手帳を持つという。その事故の程度が解る。

世界を見ないで、死ね無いと思う。
大学を出ていない小西さんは、オーストラリアに行き、そこで、日本語教師のライセンスを取る。
そこから、タイに渡り、タイ語の勉強を始めた。
そして、現在の財団が人員募集しているの知り、応募する。

最初は、日本語教師だった。しかし、財団の本当の活動、追悼慰霊の様を見て、大きく心を揺す振られた。
ついに、チェンマイ事務所の事務長になり、現在に至る。

奥さんは、財団の支援で、日本に留学した方で、日本語が出来て、最初は、財団で働いた。
その縁で、結婚することになった。

小西さんが来たので、車に乗り込んだ。
向かったのは、ホテルの道なりに進む、旧市街の外れである。
旧市街は、運河で、囲われている。
その角の辺りに、また、色々な店がある。
私には、新しい場所だった。

日本人の夫妻が経営する、居酒屋である。

私は、疲れて酒を飲むことが出来なかった。
小西さんと、野中が、ビールを頼む。私は、アイス緑茶を頼んだ。

改めて、互いに感謝の言葉を述べ合う。
そして、この出会いを喜んだ。

一週間前までは、知らない人だった。
人の出会いは、不思議であり、その意味を問うことは、出来ない。会うべくして逢うのである。

そして、まさか、そういう話が出るとは、思わなかった。
死ぬはずだった、自分が生きたと言う。それから、人生について考えた。そして、宗教に行き着いた。
特定の宗教を超えて、霊の存在について、考え始めたという。
結果、九割は、自分以外の別の力で、生かされている、動かされていると感じた。
自分が三階から落ちて、生きたが、同僚は、二階から落ちて亡くなったという事実に、不思議を感じたと言う。

思えば、私が慰霊をしている際に、小西さんは、休んでいた下さいと言うが、じっと、私の後ろで、立って、見ていた。
私が、終って、うーという音で、お呼びし、おーという音で、御送りすると言った言葉に、ある宗教の言霊学を学んでいた小西さんの、心が動いたのだ。

小西さんも、慰霊の際に、お経を唱えていた。また、遺骨収集の際も、慰霊する心と、共に、祈りを行っていた。
そして、霊の存在である。
遺骨収集の際に、それに関わった人に、兵士の霊が現れるという。
それで小西さんは、兵士の霊に逢いたくて、慰霊碑の前で、一人寝たこともあると言う。

霊的存在を知る者だから、追悼慰霊の活動を行う、財団の活動に共鳴したのである。
最早、霊の存在の有無ではない。霊の存在があるとしての、追悼慰霊である。
それは、私と同じ考えである。

約一時間半ほど、様々な話をした。
実に、有意義だった。

奥さんのアカ族の話も聞いた。
少数部族と言われるアカ族だが、大きく分けて、三種類あるという。
ミャンマーとタイに、渡り、点在して、その伝統を守り、生き続けている。
ある話で、驚いたことがあるが、それは、これから調べて、確認してから、書くことにする。

私たちを、アカ族の、奥さんの村に連れて行きたいと言ってくれたので、いつか是非、行きたいと思った。

私たちは、小西さんに分かれて、トゥクトゥクで、ホテルに戻った。
すでに、深夜12時に近い。

本日は、充実した疲れである。

私は、最後の予定を終えて、安堵し、さらに、自分が始めたことの、事の重大さに、気づいた。そして、愕然とした。
これを、人に理解して貰うことは、至難の業であると。

今更、戦争犠牲者の追悼慰霊をするという行為は、それなりの組織や、宗教団体等ならば、理解されるが、単独で行うという、その意味を理解して貰うには、語り切れないのである。

大げさなことを言う。
日本再生のために、そして、千年の日本のために、しなければならないと、思うのだ。

霊の存在を知らしめるということではない。
見えないものを、真実大切してきた、日本民族の姿を、私が実践しなければ、説得力が無いのである。
この行為が、土台にあり、日本についてを、語ることが出来ると、考える。

太平洋戦争だけの問題ではない。
日露、日清戦争と、日本が、歴史のご多分に漏れず、戦争をしたことを、追体験することで、観えるものを、観るのである。

人類の歴史は、戦争の歴史である。
世界の、九割九分の人は、戦争を望まない。
一分の人が望むことに、何故、多くの人の犠牲があるのか。

現在も、戦争の種が尽きない。
分析をよくする学者の話ではない。
戦争犠牲者から、話を聴くこと。
つまり、その霊位から、話を聴くこと。
死人に口無しである。しかし、彼らの思いは、必ず伝わる。また、その思いを、こちらに、発信している。それを、受ける受信機となるべくの行動だ。

イタコ降ろしではない。
また、単なる霊的現象や、憑依現象ではない。
その場所に出掛けることで、伝わる、波動である。
勿論、思い込みという場合もある。
思い込みの、自己満足であるならば、私の活動も、長くは、続かないだろう。

死者に対する作法とは、何か。
古代から、日本民族、いや、すべての民族が、死者への手向けを行ってきた。何故か。
霊の存在が無いのであれば、それは、意味が無い。

日本の伝統である、先祖崇敬が、霊の存在の確たる証拠であることを、身をもって知ることである。

文明が進化することは、素晴らしいことである。
その時、最も失われやすいものは、私が生きている土地、国に対する思いである。
単なる、愛国心というものではない。漠たるものではない。

何故、この地に、この国に生まれて、生きるのか。
民族の元を辿れば、アフリカの数百人程度の、人類の祖先にある。
それらが、枝分かれして、民族となり、国という、縄張りを作る。

民族と、国という意識を持つことで、何を得たいのか。生きるとは、何かである。

2007年11月27日

遥かなる慰霊の旅 タイへ17

遥かなる慰霊の旅 タイへ17

生きるとは何か。
それに対するに、哲学や思想、そして、最後に宗教が出てくる。

私は言う。
歴史を、見よと。

歴史とは、事実である。決して、自説ではない。事実を見ることによって成るものが、歴史であり、歴史観というものに、騙されてはならない。
また、歴史哲学なるものも、一つの物の見方であり、それも、極めるところ、その者の、自説である。

生きるとは、事実である。
歴史という、事実を知ることが、生きるということを、肯定する。
歴史を知らない人は、生きることが出来ない。何故なら、生きるということは、過去と、現在と、未来を包括するものだからだ。

歴史は、過去を負う。
過去の事実から、現在の生きるを問う。そして、未来へ向かう。
この過去を、鑑みることなければ、現在を生きることは、難しいし、生き難い。
ただ今の日本の姿を見れば、それがよく解る。

一部、自虐史観と言われる歴史認識がある。
戦後の歴史史観が、これに当たる。ほとんど、自虐思考による、歴史認識である。当然、真っ当ではない、国民が出来上がる。
つまり、自虐であるから、生きることも、自虐になる。そして、それを善しとしている者がいる。
誰か。
私は、犯人探しをするものではない。
もし言えば、イデオロギー、思想である。

何故、人は、イデオロギー、そして思想に囚われるるのか。
生きるに楽だからである。

世界で、平和裏に事を進めようとしても、それぞれの国の価値観により、平和裏が違う。
それの、事実を見ることである。
そして、極めて行けば、それは、イデオロギーでも、思想でもない、その民族性というものが、出てくる。
そして、最後が、人間性である。

歴史の行き着くところは、人間性である。

生きるということは、歴史を知ることであり、それが、人間性に行き着くということである。歴史は、人間性を現す。
つのり、歴史は、人間というものを見るに、最高の手段である。

ここで、長くなるが、一人の僧侶の書いたものから、抜粋する。
しらべ かんが という、佐賀県基山町にある、因通寺の住職であり、タイ現地法人の慧燈財団を建てた方である。

今の日本という国は不思議な国となってまいりました。それはシナ事変や大東亜戦争中に、日本軍が行ったと称される蛮行については口をきわめてこれを喧伝し、又進歩的と称されるマスコミ人、或いは同じく進歩的と言われる歴史学者が、日本軍は悪いことをした、悪逆非道の人種であるというように表現しているのでありますが、自分の国のことをこれだけ悪口を言うような国民は他に類例を見ないようであります。それでこうした日本の悪口を言う人達は、殆どが過去の歴史を否定しているのであります。これは東京裁判における日本亡国のシナリオが形を変えて進行していると申してもよろしいのです。進歩的文化人達が日本亡国を望んでいるなら、それはそれとして思想ではなく行動として現せばよいのであります。しかし決してこの進歩的文化人というのは行動して表現するのではなく、ペンや言論によって日本を亡国の方向へ導いているのであります。・・・

そのよい例が、昭和20年8月から、翌年に起こった、世界史上、最も悲惨で、蛮行と言われるべき、満州において行われた事実である。
ソ連の蛮行である。
あまりに悲惨で、その内容は、省略する。
それに関しては、進歩的文化人達は、何も言わない。それは、共産主義の多大な影響を受けているからである。
更に、東京裁判という、茶番な、戦勝国が、敗戦国を裁くという、裁判が拍車をかけた。

歴史を観るということは、それ以前をも、視野に入れて、観るということである。

第二次世界大戦が始まった原因は何か。
それは、それ以前の歴史に隠されている。
そして、その隠されたものは、さらに、それ以前に隠されている。

何度も言うが、事実を見ることである。
一つのイデオロギー、史観を持ってみれば、誤る。
この、誤ることを、今も続けているのが、日本の状態である。

そして更に言う。
天皇の存在における、大きな誤解と、解釈の誤りである。

敗戦後に、昭和天皇は、全国を行幸された。

一つだけ、象徴的な出来事を書く。
しらべ かんがさんの、因通寺に天皇陛下が行幸された時の事である。
戦争によって、孤児となった子供たちを収容する、洗心寮のある因通寺を天皇自らが、希望しての、行幸である。

当時の、基山町では、その行幸に冷ややかなものだったという。それは、多く、共産主義思想に、影響された者、多々いることからだった。

昭和24年から、25年、26年は、世相が混沌としている時期である。
第一次そして第二次帰還兵の中に、日本改造を主張する者も多々いた。
更に、天皇戦争責任ありという者も多々いた。
基山町の周辺も、そのような人々がいた。天皇行幸に反対する勢力もあった。故に、冷ややかな対応である。
加えて、日教組である。今は、日教組に関しては、省略するが、ご覧の通り、日本の教育を握る先生たちの、組織である。組合員の一人一人は、人の子であり、人の親である。一人一人に言うことも無い。ただし、組織となれば、違う。
言語同断に誤っている。

実に感動的な、天皇陛下との出会いをして、慰められ、励まされた町の人々であった。戦争孤児の一人一人も、天皇のお言葉に、救われたのである。

その様を書けないのが、残念だ。

最後に、引揚者と書かれた場所である。
そこには、若い青年壮年の一団がいた。
彼らは、そこで、天皇の戦争責任を問い詰め、陛下が、責任を回避する発言があるならば、暴力を持っても、責任を問うつもりだった。
更に、天皇が責任を認めた場合、即座に、全国に知らしめて、日本全国で蜂起し、日本を共産主義国家に持ち込む手はずだった。

その一団の前に立たれた天皇の、お言葉である。
「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変であっただろうと思うとき、私の胸は痛むだけではなく、このような戦争があったひとに対し深く苦しみを共にするものであります。皆さんは外国においていろいろと築き上げたものを全部失ってしまったことであるが、日本という国がある限り、再び戦争のない平和な国として新しい方向に進むことを希望しています。皆さんと共に手を携えて新しい道を築き上げたいと思います」

長い言葉をかけられてた一団は、慈愛に満ちたお言葉に、感動した。

天皇の人柄を瞬時に理解したのである。
その時、一人の引揚者が、膝を動かし、にじり寄って、陛下の前に出た。
溢れる言葉が出た。
天皇を恨んだこともある。しかし、苦しんでいるのは、私一人だけではない。皆が皆苦しんでいる。そこから、希望を持って生きようとする時、天皇陛下も苦しんでおられると知り、本日から世の中を呪う事はしません。天皇陛下と共に、頑張ります。

それから、一人の青年が泣き出し、次から次と、泣き出した。
一人の男が言った。
こんなはずではなかった。俺が間違っていた。

陛下は、その場を立ち去り難く、動かない。それを見た、侍従長が陛下を促されたという。

天皇が、マッカーサーと会談された時のことも、秘められているが、天皇が、それを望んだ。
それは、この身は、どうなってもいい、国民を救って欲しいとの願いであった。
マッカーサーは、亡命を希望するために、来たと思っていた。が、その天皇のお言葉に、襟を正し、最敬礼したのである。
そして、翌日、アメリカに飛び、日本の支援を政府に要求したのである。
その時の天皇陛下のお言葉を、すへで書くには、忍びないゆえ、省略する。

2007年11月28日

遥かなる慰霊の旅 タイへ18

遥かなる慰霊の旅 タイへ18

コンサートの翌日は、帰国の前日である。
11日、日曜日の朝は、地元の人の食堂に出た。

安くて、旨い。
モーニングセットを頼む。50バーツ。約170円。
朝から混雑していた。
私は、店の入り口の席についた。
タバコが吸えるからだ。

日本の空港で買った、免税のタバコも、もう、その一箱のみになった。
早かったが、随分とタイにいたという感慨である。
本も無く、パソコンも無いゆえに、実に、のりびりとしていた。

その時、日本にいると、どうして弛緩出来ないのかと、考えた。
毎日、緊張して生活している。
勿論、現実の様々な問題がある。毎日、毎日、それに、翻弄される。そしてそれが、現実である。現実逃避をしないゆえに、毎日が、緊張の連続である。
しかも、自由業である。
朝から晩まで、いや、24時間、仕事を続けていても、誰も何も言わない。

タイや、バリ島で暮らす人が増えた。
高齢の方も多い。それは、それでいいことだと思う。
だが、中に、日本の社会に適応せずに、また、生きられないが故に、タイや、バリ島で、長期滞在をするという人がいる。
その人たちの中には、非常に無作法で、傲慢な者も多い。
日本の円が、少しばかり強いゆえに、小金を持っていても、金持ちの生活が出来るのである。
勿論、いつまでも、続かない。

それから、新しいタイプとして、日本で暫く働き、お金を貯めると、タイやバリ島に来て、暫く過ごすという。
日本のテンポについてゆけない若者たちである。
だが、お金は、日本でなければ、稼ぐことが出来ないゆえに、帰国して、また、お金が貯まると、国を出る。

流浪の旅を続けるのである。

人生の流浪である。
それも、一つの生き方になる。

日本で生きる、日本で生き抜くというのは、実に、大変なことになっている。
勿論、それぞれの国も、様々な問題を抱えているが、当面は、日本を出ると、外国人として、その国の、問題に触れずに過ごせる。
それも、善し。

だが、いつか、問われる時がくる。
その時のために、何を準備するのか。
人は、確実に年を取る。
年を取るということだけでも、日本にいては、不安である。
だが、国外に出ても、その問題は、無くなってはいない。
一時的に、忘れるだけである。

日本への、帰り仕度をしなければならない。
私は、ホテルに戻り、荷物の整理を始めた。

買い物をした際に、品物を入れた袋が多い。
タイでも、この袋を撤廃する運動が、始まっている。買い物袋の撤廃は、日本も、そうである。
ただ、その袋が、旅先では、実に役立つから、複雑な心境になる。

そして、ミネラルウォーターである。
日本以外では、水道の水が飲めない。飲むと、とんでもないことになる。水当たりである。
私は、一番安い水を、まとめて買う。
飲み切れればよいが、飲み切れない水を、どうするか、考える。
結局、持って動くことにした。もったいない。
だが、飛行機に乗る前には、すべて没収される。
国内線でも、国際線でも、である。

最小限の荷物のみ持って来たので、整理は、すぐに出来た。

野中は、友人の家に泊まりにいって、まだ帰らない。
私は、一人で、昼食を取るために、ホテル前の、イタリア料理の店に出た。

客は、誰もいない。
私が行くと、ウエイトレスと、女の子がいた。
ウエイトレスは、英語が出来ない。
女の子が、紙を持って注文を取りに来た。
指で、メニューを指すと、その子は、アルファベットで、丁寧に、紙に書いている。
暫くすると、顔馴染みの、オーナーの妹が、戻ってきた。
その女の子は、オーナーである姉の娘だった。

カルボナーラを頼んだが、以前のイタリア人が作るものとは、別物だった。
油が多くて、何とも、言いようが無い。
しかたないが、すべてを食べた。
この年になると、油分は、大変な負担になる。

タイも、バリ島も、油を使う料理が多い。その油の質にもよるが、バリ島の屋台で買った揚げ物を、少し食べて、とんでもなく、胸焼けしたことがある。それ以来、屋台での、揚げ物は、買わない。
聞くと、バリ島の屋台の油は、捨てることなく、継ぎ足すという。何とも、言えない。
古い油に新しい油が交じるということだ。

胃のもたれが心配だが、すでに、食べてしまったから、どうすることも出来ない。
しばし、ベッドで、休む。
そのうちに、野中が、戻った。
野中も、帰り支度を始めた。
帰国するという気分は、言い表せないものがある。
もう少し、滞在していたい気分と、帰らなければならないという気分で、複雑だ。
しょうがないから、又、次も来ると、自分に言い聞かせる。

最後の夜の食事は、チェンマイカレーの店に行きたいと、私が言う。

明日は、夕方、六時の飛行機で、バンコクに行き、深夜の便で、日本に帰ることになっている。
その最後に、驚くべきことがあった。
次に書くことにする。

最後の夜の食事になる、チェンマイカレーを食べるために、ホテルを出た。
何度、この街に来ることになるのか、解らないが、生きていれば、来年は、確実に来る。
生きていれば、何度も来るだろう。

この街に、縁する何かが、私の運命の中にあったのだという、驚きである。
観光旅行は、しない。
いつからか、そう決めた。
10年程前に、上海に出掛けてから、ピタリと、旅行を止めた。止めざるを得なかった。
パニック障害になったからだ。
これを書けば、長くなるので、省略するが、ただ今は、乗り物に乗ることが出来るようになった。

ただ、不思議な病である、パニック障害は、私に、多くのことを教えた。
誰にでもあることだが、それが、顕著化する。
心臓が、飛び出しそうになり、蒼白になり、生き絶え絶えになるという、その状態は、如何ともし難いのである。

底辺に、欝状態がある、といわれる。
だから、抗欝剤が、効くといわれる。
脳内物質のせいである。
つまり、私は、因縁と、考える。そして、その症状にある私が、また、私の、もう一人の私なのである。
死ねば、治る。病で、治らないものは無い。死ねば、治るのである。
それまでの、辛抱である。

死ぬこと、生きること。それは、次元を別にしたことである。
単なる、次元の別を、云々することである。

生きていればこその人生である。が、また、死んでこその人生である。
この世は、次元の違いがある。
天国も、地獄も、この世のものである。
味噌も糞も一緒なのが、この世である。
この宇宙から、逃れる以外は、無という状態は無い。
すべては、人間が創造したものである。
何を恐れることがあろう。結局、見えるものしか、見えないのである。

遥かなる慰霊の旅 タイへ19

遥かなる慰霊の旅 タイへ19

帰国の日である。
ホテルは、12時にチェックアウトする。
バンコクへの飛行機は、夕方の六時半である。
大分、時間がある。

だが、私が野中に言った。
早めに、空港に行こう。チェックアウトしたら、そのまま、空港に行く。

それが、よかった。
空港に着く。
早い飛行機があれば、それに変更する旨、カウンターに言う。
ところが、空きが無い。そして、驚いたことに、六時半の飛行機が、九時になっていた。つまり、それでは、日本行きの飛行機に、乗れないということである。

それからが、大変だった。
別の航空会社に掛け合う。しかし、全滅。結局、一時間待つことになった。
どうなるか、解らないが、兎に角、良い方法を考えると、エアーアジアのカウンターの者が言う。

こういうことが、多々あるという。
もし、そのまま、六時半の飛行機に乗ると、行動していたら、日本行きの飛行機に乗ることが、出来なかったのだ。

結局、私と、野中と、別々の航空会社の飛行機に乗ることになった。
私が、最初で、その一時間後の、別の航空会社の飛行機に、野中が乗る。

何とも、慌しいことだった。

私が、飛行機に乗り込み、座席に座り、飛び立つのを待つ。
すると、最後に、野中が、乗ってきた。
一人分の席が空いたというのだ。

驚いて、焦り、心配して、落ち着き、そして、目出度し目出度しと、なった。
だが、これは、うまくいったケースである。
うまく、いかない場合もある。

どうなるか解らないという状態は、実に、心身に悪い。
動揺を無視するように、飛行機が、飛び立つ。

一時間後にバンコクに着いて、少し、落ち着く。
時間は、四時を過ぎていた。
日本行きは、夜の、10時50分である。
大分、時間がある。

まず、食事をした。
タイで、最後の食事である。
勿論、タイの料理を選んだ。タイ風ラーメンである。

そして、出国手続きである。
その当たりになると、随分と、余裕が出てくる。
すんなりと、問題なく、出国手続きを終えて、搭乗ゲートの中に入った。
後は、乗るだけである。

免税店の並ぶ、空港内をゆっくりと、歩く。
目に付いた幟がある。
ラーメン、餃子である。そして、何と、寿司屋の看板だ。
まさか、日本に戻るのに、食べる人はいないだろうと思うが、いるのである。
日本に帰るから、なお更、食べたくなる心境は、解るが、日本に着いてから食べた方が、はるかに、旨いはずである。
人の食べている物を、覗いて、そう思った。

それに、値段が高い。
日本円にすると、寿司一つが、300円前後である。
空港内は、高いと、解っても、矢張り、高いのである。

私たちは、飛行機の中でも、食事が出るので、食べなかった。
それは正解だった。
飛び立って、少し寝ると、食事が出た。

私は、眠気が襲い、実は、途中から、何を食べたのか、覚えていない。
気づいた時は、眠っていた。
更に、気づいた時は、飛行機が着陸態勢に、入っていた。
あっという間の、時間である。寝ていたからだ。
飛行機は、眠るに限る。

着陸した時、安堵と、ある不思議な感覚になった。
すぐに、タイに引き戻したい気分である。
日本で、行動するというこが、不安になった。
また、あの緊張感があるのかと思うと、佇むのである。

入国審査も、問題なく、スムーズに終った。
そして、世の中に戻った。日本に戻った。
旅といっても、所詮は、日本脱出である。脱日常であり、脱、世の中である。
タイでは、世の中ではなく、別の世界である。

世の中というのは、八方に、私という、存在が広がっているということだ。日本では、八方に存在が広がる。
私は、木村天山になるのだ。
タイでは、テンだった。
テン・ジャパンと言っていた。

日本時間では、朝の七時頃になる。
横浜行きのバスに乗る。
そのまま、眠る。
乗り物の疲れは、また格別で、寝るしかない。

夏の着物のままだったが、それ程の寒さがない。
というより、感覚が麻痺しているのかもしれない。自律神経が、狂うのだ。寒いが暑い、暑いが、寒いという。更年期障害に出る症状に似る。

兎に角、部屋に着いた。
まず最初に、米を研いだ。米が食べたい。日本米が食べたい。
そして、魚である。タイでは、一度だけしか、魚を食べていない。市場で買ったものだけである。
冷凍庫から、カレイを取り出して、解凍する。
荷物は、そのままである。
眠気が襲うが、今寝ると、昼夜逆転する恐れあり、我慢した。

やることが、沢山ある。
慧燈財団へのお礼状である。日本では、NPO慧燈である。
そして、小西さんへの、お礼状である。
こういうことは、すぐやらなければならない。
ところが、メールを開けると、小西さんから、すでに、メールが入っていた。
さすがである。

それにしても、迷惑メールの多さである。あまりの多さに、愕然とした。
500通ほどある。
こういう、どうでもいいものの、処理に、毎日時間を使うと思うと、呆然とする。
どうでも、いいことを、出来るだけ無視するが、矢張り、どうでもいいものが、多い。

郵便物の整理をする。
どうでもいいものもあるが、大切なものもある。慎重に、捌く。
次第に、日本のテンポを取り戻す。
だが、半月後には、バリ島である。
この、新しい感覚に慣れるしかない。
一月には、ミクロネシアのトラック諸島に慰霊に行く。
それから、暫く、日本にいようと思う。支援は、日本の皆様から頂くのである。
チラシや、通信、手紙を書くことである。
あくまでも、私の個人的活動であるから、対面式の案内を目指す。
大枚なお金を使い、広告告知して、寄付を募る組織などは、作らない。実に、可笑しい話である。寄付を募るための、広告告知は、膨大なお金が必要であろうと。

ある巨大新興宗教のトップが、平然と言う。
組織を作ることが先決だった。兎に角、組織の力が必要であると。
世界190カ国に延びているという。おかしい。組織力を持っての布教が、いかに誤りであるかは、キリスト教を見れば解る。しかし、ローマカトリックを目指しているのであろう。世界に威力ある、法王を目指しているのである。
こういう、野心は、宗教というものの、定義があるのだ。つまり、詐欺集団である。
信じる者は、騙され続けてきた。
そして、これからも、信じる者は、騙され続ける。
宗教法人とは、合法的な、詐欺を許すのである。
人間とは、愚かな者である。

2007年11月29日

遥かなる慰霊の旅 タイへ20

遥かなる慰霊の旅 タイへ20

書き忘れたこと、書き足すことを書く。

慰霊碑のある、バンカート学校で、教師の三人とお会いし、お話した。丁度、校長先生が、出掛けていて、私たちの対応をしてくださった。

色々と話をした。
今回、コンサートを開催すると言うと、一人の先生が、こんな言葉を言った。
タイにいらして、日本の歌などを披露されること、タイ国民の一人として、感謝しますと。
また、来年、学校にても、コンサートをしますと言うと、更に、タイ国民として、との言葉が出る。

その時は、何気なく聞いていたが、戻って反芻すると、それは、大変なことを言うと思った。いま、日本で、日本国民を代表してなどと言う人は、いない。
それ程、日本人は、日本人であることを、意識しなくていのである。
それは、幸せなことでもある。

しかし、このままで行くと、子供たちが、日本人であるということに、何の感慨もなく、更に、無国籍の人間のようになる。料理ならば、無国籍と言ってもいいが、人間である。そうは、いかない。

海外に出ても、日本人は、日本人であるということに、誇りを持てないである。
何かしら、後ろめたいものを持つ。
それは、教育だろうと思う。

今の子供たちの親は、自虐史観というものを前提に、日本史を学んだ。私も、そうである。兎に角、日本は、悪いという前提から、歴史の勉強が始まる。
事実を習うのではなく、その史観を習うのである。
今、それの犯人探しをしない。もう、そんなことを言っている場合ではない。

その自虐史観によって、日本の歴史、日本というものが、すべて悪いという、イメージを持った。これは、由々しきことである。また、悲惨である。
自国に、誇りを持てないのである。

ある日、チェンマイの雑貨屋で、日本の新聞を買った。
その時、新聞を渡してくれた、おじさんが言った。
ジャパン ナンバー ワンと。
その時、私は、深くおじぎをした。自然に、である。

おじさんは、色々な意味を込めて、言ったと思う。
チェンマイには、日本の企業が多いこともある。
車や、電化製品等々、ジャパンが目立つ。
タイと日本は、アジアの中での貿易は、一番である。

日本が本当に困る時、助けてくれるのも、タイであろうと思う。
あの、米不作で、米不足の時に、すぐにタイ米が来た。

タイ国民の一人としての言葉が、耳から離れない。

そして、もう一つは、学校の音楽授業である。
西洋音楽は、一切無いという。
驚いた。
では何をやっているのかと言えば、民族音楽である。
子供たちが、持ち寄る楽器で、民族音楽を、やっているという。

ピアノは無いんですかと、尋ねると、無いという。
日本で、音楽教育といえば、西洋音楽が当たり前である。しかし、タイでは、民族音楽が当たり前なのである。
日本にても、琴や三味線などの、古典音楽の授業が、始まったというが、基本は、西洋音楽である。
それに、ピアノは、高くて、買うことが出来ないと言った。

市内を調べてみると、日本のヤマハが、音楽教室を開講している。
それは、ヤマハの楽器を売るためである。
私の使用した、ホールには、ヤマハのピアノがあった。

チェンマイでの、西洋音楽は、まだまだ、始まったばかりである。
これから、どのように動いて行くのか、期待出来るが、基本に、民族音楽があることが、救いである。

チェンマイでの、音楽コンサートは、ジャズなどのものが多く、後は、タイの歌謡曲である。ホールは、それなりにある。
チェンマイ大学などのホールは、巨大だ。

タイの歌謡曲は、前回来た時に、聴いている。
タイポップスとでも言うのか、まだ、明確に分かれている訳ではない。
日本の30年程前のような、メロディーの印象がある。

日本の古い歌のメロディーならば、受け入れられる気がした。
今回のコンサートで、古賀メロディーも入れたことは、良かった。それは、日本人にも、タイ人にもである。

チェンマイにも、階層がある。
私は、一般の人、つまり、街中の人々の生活を見ている。
高い階層の人は、別の場所にいるのだろう。
勿論、来年のコンサートは、広く告知して、様々な人に来て貰いたいと思う。

ピアノ演奏も、考えている。
少しでも、クラシックファンはいる。
ヤマハの路線とは、別にして、音楽コンサートを開催してゆくつもりだ。
セミナーの需要があれば、開催してもいいと思う。

慧燈財団の日本語学校が、今は、お休みしているが、その建物がある。
私は、財団と同じく、無料日本語講座を考えていた。
財団は、日本語検定二級を目指して、講座を開催している。
一年制である。
事務長の小西さんは、一人一人の学生に、里親をつけて、開催の目途を立てたいと言う。
学費の無い人を対象にするということだ。

私は、検定に関係なく、日本語を教えたいと思う。
日本語が出来れば、仕事や商売に生かせる。
場所が確保出来れば、すぐにでも、始められるので、財団の教室の空きを、借りてもいいと思う。

先生は、日本人の長期滞在者からも、お願い出来る。
先生の資格を持つ人より、実際的な日本語を教えられるはずだ。
日本語を覚えることは、日本を理解するのに、一番である。日本語の中に、日本の文化が、すべて入ってる。

さて、それから、私は、日本にても、支援の必要な人々がいることを、知っている。
中でも、何らかの事情で、親を失った子供たちである。
あしなが育英会という、団体がある。

いつも、気にかけていた。
本来は、日本の企業が全面支援をしても、良いはずである。
日本の宝になる。
ところが、あまり、そういう話は、聞かない。
不思議だ。実に、不思議だ。

結局、アメリカと、同じで、周辺国を搾取して、国力を増すということを、平気でする。つまり、労働力の安い国に、工場等を作り、自国の人を無視して、そして、他国の人を、利用する。
精々、半世紀程の時代をしか、見渡せないのである。
千年の日本を見ることが出来ない。

アフリカを、見よ。
世界の人類の発祥である。それが、今では、内戦、内戦を繰り返し、世界から搾取されて、どうにも出来ないでいる。
ナイルに栄えたエジプトの文明は、どうした。
結局、今は、過去の栄華を誇るのみ。

文明国も、同じことを、繰り返している。

勿論、千年先を見つめていては、今の時代に、誤解されるばかりになろう。

そうして、歴史は、繰り返すのである。
千年を経た時、日本が、最貧国になっているという、図である。
いや、日本という国が消滅しているのであろう。
結局、野蛮な大陸の民族が、支配しているという様であろう。

兎も角、私が出来る、千年の日本のために、することをする。
それ以外に、望むものはない。

タイ旅行から戻り、思う。

タイ旅行を終えて、その様を、書いた。
追悼慰霊、ミャンマー入り、コンサートが、主たる目的であった。

全く、今は未知なる活動ではあるが、毎年の慰霊、そして、コンサート開催により、目に見える形で、成果を上げることになると思う。
日本語の無料セミナーも、その間に、開催したいと思う。

すると、今度は、カンボジア、ラオスに目を向ける。
ラオスは、日本人であれば、12日間は、ビザ無しである。
日本人の入国を、歓迎している。

始めて会う人も、会を重ねると、馴染みになり、そして、友人になる。
何より、イデオロギーの布教ではない。
支配することも、されることもない、対等の付き合いである。

民間外交の素晴らしさは、何と言っても、個と個の、付き合いである。

日本が、これらの国に、資金援助をしている様を、書けば、キリが無い程になる。
実に、日本の資金に、開発の多くを負っているのである。
日本に援助されて、国の体制を、整えていると、言っても、過言ではない。

そして、多くの日本企業の進出である。
それも、書けば、キリが無い。

だが、それは、公、政府間の、関わりであり、日本人も、そんな支援を知らない人の方が多いように、あちらの人も、知らないのである。
言えば、驚く。

話は、飛躍するが、国際社会で、日本が孤立した場合、最初に、日本に手を差し伸べるのは、アジアの国である。
アジアの国に、多く、戦争時に、迷惑をかけたというが、アジアの国々に、日本は、甚だしい程の資金援助をしている。
中国へなども、富士山より、高い一万円札を支援している。

当然として、受け取る国もあるが、感謝して、受け取る国もある。

戦争の道を、拓いた日本に感謝する国もあるのである。
何故か。それにより、独立を得たからである。
勿論、建前は、迷惑を受けたというが、である。

歴史的事実の意味合いは、一方からのみ、見て、判断出来ない程、複雑な意味を持つ。

ベトナム、カンボジア、ラオスにも、日本の民間団体の、ボランティア活動が、行われている。個人的に、偉業をする方もいる。
それらの人の活動により、日本に対する、イメージは、非常に良い。この、良いということが、後々、つまり、千年単位で考えると、大変な価値なのである。
今、今のことではない。

それらの人は、皆、心の命ずるままに、行っている。

タイ北部でも、20程の団体が、様々な活動を行っているという。
チェンマイの総領事は、それらの、横のつながりを作りたいと言う。
さらに、タイ北部は、追悼慰霊の地である。
ある種、巡礼の地でもある。

私は、追悼慰霊の巡礼の地ということを、さらに、推し進めて行きたいと思う。

これから、バリ島での日本セミナー開講を手始めに、多くの事を、考えている。
それは、最早、私一人では、物理的に無理なことである。
だが、あえて、仲間を、募ることはしない。
自然発生的に、集うことを、願っている。

簡単に言えば、奉仕活動だからである。

生活の基盤があり、自立している人が、出来ることである。
そして、その、心である。
命じる、心、の、有り様である。

私は、もう、観光旅行をする、気持ちは全く無い。
旅行は、すべて、目的のあるものである。
その目的は、千年の日本に、出来ることである。

千年の日本とは、未来の日本に出来ることである。
これは、私の信条であり、他の誰にも、強制することは、勿論、説くこともない。

追悼慰霊は、過去の問題である。
しかし、それは、未来へ続く。
過去に対する行為が、未来へと、続くのである。

それは、行為して、始めて解ることである。
異国の地で、亡くなった人の慰霊をする、日本人の姿は、かの国の人を、信用にたる人間であると、認識させる。
最も、それは、霊的存在の有ることを、知るゆえの行為であることが、前提である。何故なら、彼らは、霊的存在の有ることを知るからである。

単なる、儀式の慰霊ではないということである。

私の祈りを、かの国の人も、求めるということになる。
決して、布教をする者ではない。

心に、響くからである。

私が、神道の天照大神を、布教するという、愚かなことをしないからである。

タイでも、日本の新興宗教の布教をする、団体が多い。が、それは、実に、愚かなことである。
タイは、仏教が、伝統である。
同じ、仏教だからと、日本の大乗系の仏教の新団体が行くという、愚かさである。

キリスト教のような、過ちを犯すのである。

イデオロギーの布教は、百害あって、一理無しである。

それは、必ず対立を生む。

私は、日本の伝統を持って望む。
日本の伝統は、たゆたう、心であり、それは、今の言葉にすると、曖昧である。
実に、曖昧であるということ、見事な精神である。
郷に入っては、郷に従うのである。

タイから、戻り、更にタイでの、活動を考えて、次へのステップを踏む。
テラの会という。
テラは、地球である。

そして、アマテラスの会である。
アマテラスは、太陽である。
しかし、今、暫くは、この言葉を使用しない。
アマテラスという言葉、神という言葉に限定されるからだ。

太陽は、大和言葉で、天、アマ、照、テラス、というのである。

2007年12月18日

修正とお詫び

訂正と、お詫びします。

遥かなる慰霊 タイへ

チェンマイの慧燈財団、事務局長小西さんの、奥様を、アカ族出身と書きました。
これは、誤りです。
カレン族です、
カレン族には、赤カレン族、白カレン族がいます。
ミャンマーで、独立運動をしているのが、赤カレン族です。
白カレン族は、タイに多く、平和的といわれています。

ここに、訂正して、お詫びします。

2008年01月29日

トラック諸島慰霊の旅

トラック諸島 慰霊の旅

慰霊の前日から、書くことにする。

朝から、横浜には、雪が降った。それは、十時頃まで、続いた。
しかし、寒さは、いつもより、感じない。それよりも、切なさと、悲しみが、心を覆う。

これは、思い出のせいだろうとか、思った。
札幌から、こちらに、内地に出て、十二年目を、向かえる。
ホームシックであろうか。
だが、雪深い、北海道には、戻りたくないのである。
雪の無い、冬の生活に慣れて、心地よく過ごしている。

何故、悲しいのか、切ないのか。

明日、トラック諸島に向かうのである。
グアムで、乗り返して、翌朝、チューク島に着く。
時間が無いので、すぐに、現地の漁師さんを見つけて、海上慰霊の話をつけなければならない。丸一日のみが、与えられた時間である。
一日のうちに、すべての、追悼慰霊の行為を終えるべく、即座に行動しなければならない。

サイパンの時もそうだが、観光地化された、場所に行くという、趣味も、楽しみも、無い。また、見出さない。
そんな暇は、無い。

確かに、バリ島や、タイのチェンマイに行くと、日常の瑣末な、出来事から離れて、自由な時間が出来る。それは、大変、心地よいものだが、観光地に行き、遊びたいという感覚は無い。

私には、何も魅力がないのである。
旅の目的が無いものは、全く、興味が無い。

トラック諸島も、慰霊の一点のみ。

バリ島で、トラック諸島に出かけたという、一人の女性に、話を聞くことが出来たが、それは、現地の様子であり、ダイビングの観光客が多く、食べ物は、不味いということだけだった。そして、すべて、ドルであるということ。

現地の人の様子は、それでは、解らない。
島には、ホテルが、二つのみ。
別の島には、ホテルのような、宿泊施設があるのだろうが、そんなに、移動している時間はない。

出発前日の、悲しみと、切なさの理由は、ただ、慰霊する人々の声なき声を、感じているのではと、思うようになった。

月末の、支払い等のこともあるが、部屋から出ることさえ、億劫になる。
兎に角、胸が沈むのである。
心が、沈むのである。

戦争で、死ぬということは、何か。

そして、生きるということは、何か。

様々な、思想、哲学等、また、戦争肯定の思想もあり、その理屈も、知るものだが、矢張り、納得出来ないのである。
何故、戦争で、死ぬことになるのか。

誰のために。
彼らは、国のためにと、命を捧げたが、その国とは、誰か。
愛する、家族や恋人、友人、その他、縁する多くの人が住む国、日本のために、死ぬと、心に決めて、死ぬために、出掛けたのである。

それが、私だったらと、考えて、思考停止になる。

国の命令で、戦地に行け、そして、死ねと、言われて、さて、どうするのだろうか。
あまりにも、不本意で、不合理で、滅茶苦茶な、命令である。

徴兵制を言うだけで、侃々諤々の議論が起こる、国、日本である。
それでは、戦争で命を捧げた人を、損した人だと、思うのだろうか。
もう、関係ないのだと、思うのだろうか。

あの、時代に生まれたことが、不幸だったと、その一言で、片付けられる問題だろうか。

口を開けば、戦争反対と、言うが、それでは、その反対するために、何をしているというのだろうか。
世界の状況を、鑑みて言うとは、思えないのである。

湾岸戦争も、イラク戦争も、実際に起こっている。

日本の周辺には、核兵器を持つ国が、取り巻いている。
いずれ、核兵器が、日本に、再投下されると、私が言うのは、根拠がある。
この、今の日本人の、無意識である。

もう、そんなことはないだろうという、おめでたい、信仰である。
世界で、唯一、被爆した日本に、再度あるわけがないだろうと。
違う。
だから、あるのである。
原爆投下されたという、事実がある。
一番、原爆投下しやすい国になっているのである。

経済大国第二位の日本という国は、最も、テロリストたちの、狙いやすい国である。そして、再投下は、世界中を、震撼とさせる。
そして、最大のことは、キリスト教徒、イスラム教徒が、実に、少ない国である。
殺しても、世界を震撼とさせるのが、罪悪感は、少ない。

キリスト教国の中には、多くのイスラム教徒もいる。
同胞を殺す可能性が大きいのである。

それならば、最も適当な国は、日本である。

また、北朝鮮を見ても、アメリカと、取引するための、最後の手段として、日本攻撃がある。核兵器を使用して、その意思を示すことが出来る。
侵略の国、ロシアも、反日の国、中国も、日本を取り巻いている。

その民族性は、野蛮である。
自国民を、平気で殺すことが出来る民族である。それでは、他民族など、物の数ではない。

状況が、揃えば、いつでも、日本攻撃が、できるのである。

その時、国のためと、私は、命を投げ出すことが出来るのか。

そんなことを、考える間もなく、原爆によって、死ぬだろうが、もし、戦う必要があれば、殺される前に、相手を殺すと、銃を持つだろうか。

そんなことを、考えて、私は、トラック諸島の慰霊に向かうために、荷物の準備をする。

散華した、多くの霊位の声を聴くべくの、慰霊である。
死人に口なしという。
死者は、話さないという。
死ねば、終わりで消滅するめと、真顔で、言う者もいる。
それならば、なお、彼らの死は、何だったのか。

私は、散華した霊の声を聴く。
何故生きるのか。
死とは何か。
国を愛するとは、何か。

彼らの、思いを聴くのである。

人間の頭で、捏ね繰り回した、理屈を聞くのではない。
宗教や、哲学や思想の、言葉を聞くのではない。
実際、死を体験した、霊になられた、彼らの話を聞くのである。

私は、トラック諸島の慰霊のための、祝詞を書くことを、しない。
大祓祝詞を唱えるだけである。
私は、祝詞ではなく、話しかけるだろう。

清め祓いをするというのは、その場に留まり、無念の思いに、満ち満ちている霊位を、清め、そして、祓う。
清めは、その、満ち満ちる無念の思いを、浄化させ、祓いは、皇祖皇宗の元に、お戻しするという行為である。

しかし、靖国に行きたい霊位は、靖国に、故郷に戻りたい霊位は、故郷に、母の元に戻りたい霊位は、母の元に、である。
それ、以外の行為は、私には、出来ない。

宗教が言う、供養だの、天国にだの、極楽にだのという、妄想、妄語は、言わない。
供養の意味が違う。
天国や、極楽など、霊界には、無い。
あるという者は、嘘をついているか、勘違いしているのである。

霊界は、霊の世界であり、神も仏も無い。
在る訳が無い。

あると言う者は、人霊が、浮遊する人霊が、思い込んで言うのを、信じるからである。

人生は、後始末が、大切である。
しかし、戦争で、散華した人は、後始末が、出来ずにいる。

篤き思いにて、彼らに、哀悼の意と、追悼の意、慰霊の所作を行うことで、後始末として、貰いたいと思うのである。

彼らは、お隠れになったのであり、消滅したのではない。

イスラムの兵士は、アッラーのために、死ねば、天国にて、二十人の乙女が、待っていて、彼女たちが、世話をするという。
それは、現世の欲望を、来世にて、満足させえるという、実に、勝手なお話である。

それを、信じられるという、実に稚拙な、知能の程度である。

日本の伝統は、自然の中に隠れるとみる。
自然のうちに、あらゆるものが、隠れて在るということを、見抜いていた民族である。

それでは、行くのみである。

トラック諸島慰霊の旅2

定刻通り、成田を午後八時40分に出発した。
グアムに向かう。グアムで、乗り継ぎするのだが、その待ち時間は、約八時間である。

グアムに到着したのは、深夜一時過ぎである。
それから、朝のチューク行き、8:20まで待つ。

グアムでは、一度入国審査を受ける。そして、更に、手荷物検査を受けるという、面倒さである。
乗り継ぎの場合は、そのまま、搭乗口に行けると思っていたが、それで、とんでもないことになる。

再度の、手荷物検査で、私の体が、どうしても、ビーと鳴ってしまうのだ。
何度、通っても、音が鳴る。
検査員の検査を受けることになり、通りの横にある、ブースに入る。

そこでも、棒が、反応する。
なんじゃ、これは。
検査員の鬼のような顔付きと、何度も、鳴る棒に、私は、キレた。

羽織を脱ぎ、日本は冬であるから、袷の厚い着物を脱ぎ、さらに、私は、逆上して、襦袢も脱いで、言った。
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実は、私は、少し、寝ぼけていた。
深夜であるから、飛行機では、眠っていた。眠ったまま、入国審査を受けて、再度の、手荷物検査である。
スムーズに行かないことが、腹立たしいのである。

危険物など、持っている訳が無い。
それは、今まで、和服を着ていて、疑われることもなく、特別扱いのように、丁重に扱われていたせいもある。

同行の野中が、向こうから見ていた。
私が、パンツ一つの姿になった時、俄かに、検査員たちが、どよめいたという。そして、検査官ではなく、事務所の方から、警官も来たという。
大変なことになったようである。
つまり、検査のことではなく、別の刑法違反になるのだそうである。
裸になったことに、対してである。

一人の男が、何かを言う。
私は、野中の方を見た。
「特別室に、って、言っているよ」

私は、それを聞いて、襦袢、着物、羽織と、着た。
そして、どうなるのかを、待った。
すると、一人の女性が、私のチケットを、差し出して、どこかへ行けと言っているようである。私は、航空会社に行けと言われていると、思った。
イッ ヒァー
と、下を指差した。
女は、頷く。

でも、よく解らない。
すると、黒人の検査員が、私を連れた。
私のチケットを持って、また、別の職員に渡して、何かを言う。
特別室に、行くのではなかった。

何をするのか、解らないのである。
黒人は、職員に、何か言うが、職員は、私のチケットを見て、「ああ、まだ、時間あるねー」と、日本語で言う。

少しの間があった。
どうするのか。

すると、再び、黒人の検査員が戻ってきた。
そして、渡したチケットを、また、取り、私に「こっちにきて」と、日本語でいう。

後に続くと、「こっちにきて」とまた、言う。
そして、再び、手荷物検査の場所に行き、私を通した。
そして、また「こっちにきて」と言う。

ビニールで仕切られた、ブースに入った。
「上着を脱いで」と英語で言う。
更に、着物も、脱げという。
襦袢だけになると、棒を取り出して、私の体を検査し始めた。
今度は、どこに、あてても、音はならない。
前や後ろと、検査して、異常無しである。

オッケー
あの、騒ぎは、なんだったのか。
黒人の検査員は、神妙に、私に話しかけた。私は、頷いて聞いたが、何を言うのか、解らない。野中が、来て、黒人と、話した。

要するに、黒人は、私が、裸になったから、いけなかったという。検査員の言う通りに、従っていればよかったのだ、と。

野中が、また、おかしな、英語を言ったらしい。
彼は、心臓が悪いので、少しのことで、カーッとすると。しかし、黒人は、野中の、ハートというのを、心が、悪いと、勘違いしたようである。

そのせいか、黒人は、私に、子供に話すように、何やら、やさしく説教をしているようだった。勿論、意味は、解らない。

このことは、グアム空港の、話題になったようで、帰りに、矢張り、乗り継ぎの待ち時間を、レストランで、お茶を飲んでいると、警察官が行き来して、何と、私たちに、話しかけるではないか。
あの日の、人だねと、野中に言うのである。

あーあ、である。
一度で、覚えられたのである。

さて、兎に角、不愉快な気持ちで、私は、搭乗口のロビーに行き、薄い毛布を広げて、休むことにした。
まだ、誰もいない、搭乗口前のロビーで、寝るなどとは、初めての経験である。

実は、余計なことだが、私は、観光地に旅行するという、あの手の旅行が嫌いである。
何もかも、揃って、準備万端、それに、乗せられて、楽しんでいる雰囲気を、楽しむという旅行である。
パックツアーにあるものである。
グアム行きは、そういう、若者で、溢れていた。
それらの、会話を聞いていると、ホント、具合が悪くなる。
グアムは、すべて作られている島である。観光客の金を目当ての、あからさまな架空の観光地である。
勿論、否定はしない。

ただ、私の趣味に合わないだけである。

どうしても、グアム経由しかないので、仕方なく、乗るのである。
飛行機は、寝るのが、一番であるから、寝る。

搭乗口のロビーで、寝て、何度か起きた。トイレに立った。
野中は、椅子で、寝ている。

朝、六時を過ぎたあたりから、人がポツリポツリと、入ってきた。
それでも、体を横にしていた。
七時になると、俄然、人が溢れてきた。
私は、起き上がり、椅子に座ることにした。

飛行機は、定刻通りに、出発した。
晴天である。
海の上を飛ぶ。
チュークに近づいて、下を覗いて、驚いた。
環礁の島々の海の、美しさである。

自然の脅威に触れると、本当に感動という言葉のみになる。
美しさは、脅威である。

それぞれの島の、浅瀬が、エメラルドグリーンに、輝いている。

こんな、場所で、軍艦や、大砲、飛行機による、戦いが、行われたというのが、信じられなかった。

着陸する飛行機は、海面すれすれに、飛んだ。
くらくらと、機体が揺れる。海に突っ込むのではと、思われた。
しかし、無事、着陸した。

2008年01月30日

トラック諸島慰霊の旅3

飛行機が、着陸すると、一人の男が、おじさんである、が、声を掛けてきた。
野中が話をした。
慰霊のために来たというと、どこですると聞く。
海上でと言うと、それなら、協力するということになり、彼は、名刺を取り出し、電話番号を書いた。
それでは後で、連絡するということで、私たちは、入国審査に向かった。

その、いかつい、おじさんは、大きなダンボールを担いでいた。グアムで、物を仕入れて来たのであろうと、察した。

平屋の鰊番屋のような、建物だった。
入国審査は、すぐに済んだ。
日本人は、私たちの他に、三人のダイバーがいた。
その三人とは、送迎の車で、一緒だった。
話はしなかった。

ホテルまでの道路である。
舗装されているところが、少ない。後は、ボコボコである。
大きな、水溜りもある。車は、大きな穴と、水溜りを避けて走る。
州都のある、島である。にもかかわらずの、道路である。
島の経済状態が、解るというもの。

最初に、私たちのホテルに、到着した。
チューク諸島の、ここは、モエン島、日本名、春島である。
モエン島には、二つのホテルがある。
もう一つ、ホテルの名があるが、現在のホテルは、二つだけなので、閉鎖しているのかもしれない。

料金は、私たちのホテルの方が安い。といっても、最低でも、一泊105ドル、一万円以上であるから、島の人から見ると、破格の金額である。

朝の11時頃である。

大きな、ベッドが二つある、また、大きな部屋だった。
テラスからは、海が見える。
しかし、安いのは、理由があった。
エアコンの室外機の音である。それで、ホテルのすべてのエアコンを、まかなっている。
ただ、その音には、慣れた。
それに、波の音が混じり、何とも不思議な音のハーモニーになった。

タイパンツと、Tシャツに着替えて、昼の食事のために、出かけることにした。
一番、心配していた、海上慰霊の準備が、思わぬところで、叶ったので、安心した。

空港から来た道を、歩いた。ホテルから、空港へ向かう道が、街である。
品揃えの少ない、小さな店、倉庫のような、スーパー、カトリック教会があり、私たちは、教会に、入った。

飾り気の無い聖堂である。
島には、カトリック、プロテスタントの教会のみ。島民は、100パーセント、キリスト教徒である。
キリスト教の歴史は長い。
スペインが、ミクロネシアに、来航したのが、1500年代である。
それから、統治の歴史がはじまる。
1886年に、スペインは、マリアナ諸島、カロリン諸島を含み、領有権を、宣言する。

当然、カトリックの信仰を持ってきた。

1899年に、スペインは、ドイツに、ミクロネシアの島々を売却する。
島には、スペイン人の血と、ドイツ人の血が入る。

統治、売却も、完全勝手な解釈である。

1914年に、第一次世界大戦が始まり、日本が、現在のミクロネシア連邦、パラオ、マーシャル、北マリアナを含む、ミクロネシア、南洋群島を占領する。
さらに、1920年には、国際連盟から、日本の委任統治が、認められる。
1945年の太平洋戦争終結まで、日本の統治下にあった。
おおよそ、30年間である。

チューク諸島の人々の、九割は、混血である。
最も多いのは、日本人である。
今は、その子、孫、ひ孫がいる。

私たちは、孫、ひ孫の人に、多く逢い、話を聞くことが出来た。

教会を出て、また、歩いた。

港の前の市場の前を通る。
だが、市場といっても、三枚ほどの板の上に、品物を乗せているだけである。
驚いたのは、海のものでは、カニだけである。
魚がないのである。
椰子の実、バナナ、ハバナの葉で包んだもの、花飾りという、程度である。

一人の、ばあさんが、私に、カニカニと言って、売ろうとする。
しっかりと、葉に包んでいるカニは、立派だった。

漁師の小屋が、立ち並ぶ。
港を眺めて、進んだ。
レストランなど、あるような雰囲気ではない。

港の外れの、倉庫のような、スーパーの前に来た。
その前に、レストランの文字がある。
オープンという看板が、掛けてあるので、そこに入ることにする。

韓国料理の雰囲気であるが、メニューを見ると、アメリカンが多い。
一番無難な、ハンバーガーを頼む。
私は、日本では、決して食べない。

その時、対応してくれたおばさんが、ツゥジィーさんという方である。
その方が、多くの情報を提供してくれた。
その母親が、日系一世であった。
六人兄弟の一番下の、娘だったという。

ツゥジィーさんは、時々、私たちの部屋に来て、アイスティーを、注いでくれた。
そのうちに、色々と、話が、始まった。

ツゥジィーさんが、子供の頃、そして、母親の時代、さらに日本統治時代と、戦争、戦後の話になった。
私たちは、身を乗り出して聞くことになる。

トラック諸島慰霊の旅4

私たちは、個室で食事をした。
ツゥジィーさんは、話に熱が入ると、私たちと一緒に椅子に座り、話を続けた。

ツゥジィーさんの、おじいさんである、日本人が、戦争中に、日本に戻った。そして、敗戦である。
母親の、兄弟である、長男が、父を訪ねて、日本に渡る。そして、見たものは、東京の焼け野原である。
父の居場所も、解らない。連絡も取れない。
皆で、日本で暮らそうとしたらしいのである。

しかし、ツゥジィーさん曰く、天皇陛下が、駄目だと、言ったと。
つまり、日本には、住めないということ、なのだろう。
ツゥジィーさんの口から、何度も、天皇陛下という言葉が出た。
彼女に取って、天皇陛下は、非常に親しみのある、それでいて、権威ある方なのであろうと、感じた。

その後は、父と離れ離れの生活である。
つまり、彼女のおじいさんである。
彼女の、母親の、上の兄弟たちは、皆、日本語を読めて、書くことが出来るという。

印象的だったのは、彼女の母親が話す、日本統治の頃の、チューク諸島の、素晴らしさである。現在のグアムより、凄かったという。

デュプロン島、日本名、夏島が、その当時、日本統治の主たる島であり、街が出来て、暮らしも、豊かであった。
今は、見る影も無いという。
その、夏島は、戦争時に、日本軍の様々な施設が、作られた。それは、現在も、跡地として、残っている。

戦争末期の悲劇は多い。
食べ物がなくなり、島民は、甚だしい食糧難に、直面した。
その時、多くの悲劇が起こった。

当時、中国、朝鮮からの、移民も多かった。
それらは、日本統治下にあり、日本人としての、入植である。
食糧難になると、中国人、朝鮮人が、現地の人を、借り出して、農地を開拓させて、働かせたという。
そこで、空腹の者が、働けなくなると、生きたまま、手足を縛り、生き埋めにして、殺したというものである。
それが、日本軍が、行ったと言われることもあるという。

また、現地人を、食べるというものである。
その犠牲になった家族が、戦後、日本に保障を求めた。
それは、中国人が、日本軍が、現地人を食べたという、噂を流したからであるという。
日本の、ある団体は、その家族に、大枚な、保証金を払ったという。どこの団体なのかは、察しがつくが、ここでは、省略する。

スペインからドイツ、そして、日本と、統治が変わったことにより、混血が、多く生まれた。しかし、中でも、日本人の血を持つ人は、日本人であるということで、誇りを持っているという。
勿論、彼女も、日本人の血が流れているゆえの、言葉であろう。
ドイツの血を持つ者は、ドイツに、誇りを感じているだろう。

さて、私は、遺骨の見世物について、尋ねた。

当然あるという。
ダイビングで、いくらでも、見ることが出来るという。
彼女は、見世物という言葉に、抵抗しなかった。

そして、この話は、多くの、現地人が、言うことであった。
遺骨は、見ることが出来る。
ただし、私が、産経新聞で、読んだ記事にあるようなものなのかは、まだ、確定してはいない。
更に、調べる必要があると、思った。

島の人は、遺骨を見ることを、簡単なことであるという。
そして、見世物という言葉にも、抵抗しなかった。

問題は、そこである。
当然と、島の人が言うのである。

その、当然という意味を、調べる必要がある。

私たちは、明日、慰霊を終えて、また、来ると、約束して、ツゥジィーさんと、別れた。

驚くべきことは、多かった。
それは、戦争、遺骨などの、ことだけではない。
この島の人々の暮らしに関してもだ。

ホテルに戻りつつ歩くと、皆々、私たちに、声を掛ける。
日本人かという声もあった。
日本人に対する、好意的な、声掛けは、凄いものだった。

後で知ることになるが、島民は、日本人に、実に友好的、好意的なのだそうだ。
当然である。
彼らの多くがに、日本人の血が流れている。
多くの言葉が無くても、何となく通じるということからも、それが、解る。
後半、特に、それを感じる出来事が、あった。

ホテルに戻り、少しの休憩をする。

私は、明日の追悼慰霊の、準備をした。
といっても、御幣を作る紙を取り出し、日本酒を用意して、今回は、祝詞だけの、慰霊の儀を行うと、決めていた。
経本のたぐいは、一切持って来なかった。

夕方になったので、野中が、海上慰霊をしてくれるといった、おじさんに、連絡するために、電話を掛けた。
部屋から掛けたのだが、出ない。
そこで、フロントに行き、そこの、公衆電話を使ったが、出ないという。

夜に、もう一度、連絡したが、出なかった。

私が、ホテルで、休み、準備をしている間に、野中は、ホテルの先、島の先端に向かって歩いたらしい。
そこで、出会った人々に、食事をご馳走になり、一人の男の子が、ガイド役で、着いて来てくれたという。
ガイド料が、二ドルであった。
彼は、それで、家計を支えていたということを、後で解る。

野中の話を聞きつつ、ホテルのレストランで、夕食を取った。
八時過ぎである。
ビールを注文した。
何と、アサヒビールが置いてある。
私たちは、バドワイザーを二つ頼んだ。
缶ビールである。350である。

その夕食は、二人で、30ドル以上、つまり、三千円以上であった。とても、料金が高いのである。
現地の人には、手が出せない料金である。
だが、私は、その時まで、それが、高いものだとは、知らない。当たり前に感じていた。

缶ビールは、日本でも、150円前後であるが、その倍以上の料金であった。

野中が、朝のうちに、慰霊をした方がいいという。
太陽が、まだ、登り切らないうちにしなければ、とんでもないことになると言う。
日焼けに慣れていない。
朝九時頃に、出掛けようということになった。
しかし、あの、おじさんと、連絡がつかないのである。

私たちは、もし、まだ、連絡がつかないようなら、直接、漁師たちの所に行き、交渉しょうということになった。
市場の横に、漁師たちが、たむろしていたからだ。

こんなに、早く寝ることはないと思いつつ、十時を過ぎて、私は、ベッドに着いた。

エアコンを切り、窓を開けた。
夜風が、ともて、心地よい。

少しの電灯で、外は闇だ。
ベッドから、丁度、満月に近づく月を見た。

兎に角、風が心地よいのだ。

2008年01月31日

トラック諸島慰霊の旅5

追悼慰霊の朝である。

八時頃に、ホテルのレストランに入り、朝食にする。
そこで、再度、おじさんに連絡して、駄目なら、漁師たちの所に行き、直接交渉しようということになった。

レストランの外に、海に面したコーナーがあり、そこで、分厚いパンと、サラダを食べる。
コーヒーを二度、お替りした。

その横に、ダイビング専門のショップがある。
私は、その店に近づき、周辺の海の図を見た。
艦船の沈んでいる場所に、赤い点がある。
夏島、竹島の付近に、それが多い。
さらに、日本の艦船だけではなく、ゼロ戦や、アメリカの飛行機、艦船も、沈んでいるのである。

その図の、写真を撮ることを、忘れたことが、残念である。

すると、一人の男が、来た。
ダイビングの店に入る。
一度、店の鍵を開けて、そして、出てきた。
私は、急いで、彼の元に向かい、話し掛けた。

少しの英語であるから、野中を呼んだ。
すると、色々と、説明してくれた。

海中を撮った、DVDもあるという。それを、見ると良いと、言われた。
そして、私は、遺骨を見ることを聞いた。

彼の話である。
遺骨を、見ることは、出来る。多くの遺骨のある場所もある。しかし、遺骨を見るための、ダイビングは、実に大変なことであると。
ダイビングの、経験が多くなければ、非常に危険であるという。
そこは、深い場所であり、また、艦船の中に入るので、迷路に入ることになり、一人では、無理だ。
遺骨を、見世物にしている場所もあるのかと、問うと、あるにはあるが、それも、知る人は少ないという。
チップを取って、見せるのかと、訊くと、ダイビングの案内は、料金がかかるという。当然である。それが、仕事であるから。

つまり、見世物にして、陳列しているという、意味にも、取れないこともないが、そこまで、ダンピングするには、相当の経験者でなければ、出来ないということだ。

単に、陳列して、見世物にしているという、表現は、当たらないのである。

一つの、有力な情報を得た。

DVDを、見るかと、いわれたが、時間がない。
私たちは、お礼を言い、部屋に戻った。
すでに、九時半近くになっていた。
おじさんとは、連絡がつかない。

私たちは、ホテルを出た。
港に向かう。

日差しが、どんどんと、強くなる。

港の前の、市場に行き、私は、花を探した。
しかし、花のみは無く、皆、花飾りである。
一ドルの、花飾りを二つ買った。

そして、すぐ横の漁師たちが、たむろする場所に行った。
皆、声を上げて、歓迎してくれる。
日本人かと、訊く。
頷くと、握手を求められる。

野中が英語で、海上に出たいと言う。
皆、オッケーと答えた。

一人の男が、バッジを出した。警察のバッジである。何か、免許のようなものなのだろうと、思った。
俺が行くという。
野中が、料金の交渉をした。
50ドルである。

野中が、30ドルでは、どうかと訊いた。
油が高いので、50ドルでなければと、言う。
私は、それで、決めた。

船に乗ると、男が、油を買いたいので、先に、お金が欲しいと言う。
私は、すぐに、50ドルを渡した。

実は、漁師たちが、魚を捕らないのは、そういうことなのである。
魚を捕っても、油代にもならないのである。また、逆に赤字になるのである。
それより、ダイバーたちを乗せて、海に出ると、金になる。

実は、ホテルで、夕食に、シーフードと言ったが、魚が無いという。
不思議に思った。
目の前が海なのである。
魚がないことはない。
しかし、理由が解った。

男は、油と、缶ビールを10缶ほど買い、船に、戻った。

船外機が、大きな音を立てて、動き出した。
凪た海の上を、船がスムーズに滑る。

男が言った。俺は、船の沈んでいる場所を知っている、と。
そして、缶ビールをあおる。タバコを取り出して、私たちに、飲んでくれ、という。
勇ましい男である。

船は、春島から、夏島と、竹島の間に向かった。
ダイビングショップで見た、図の通りである。

ただ、私は、慰霊する場所は、私の、霊感、あるいは、勘で、決めたいと思っていた。

春島から、離れると、波が少しつづ、高くうねる。
それが、次第に、大きくなる。
船先が、どすんどすんと、落ちる。
前にいた私は、両側の、淵を掴んで、振り落とされないようにしていた。

20分程度、船が進んだ。
私は、あの辺りで、と、感じた。
目の前に、夏島が見える。
そこには、日本軍の多くの施設がある。皆、慰霊の人は、夏島に上陸して、慰霊碑に、向かうはずだ。

私が、ここでと、思い、後ろの男を見ると、男が、頷いた。
そして、指差し、浮き輪を指した。
白く丸い浮き輪である。

その下に、潜水艦が沈んでいるという。

その辺り一体が、戦場であった。

エンジンが止まり、男は、浮き輪に、船のロープを巻きつけた。

私は、すぐに、御幣と、日本酒、花を船先の、小さなスペースに置き、御幣を、持ち上げて、太陽にかざした。

そして、大声で、神呼びをした。
神呼びとは、皇祖皇宗である、天照大神、さらに、天津神、国津神、八百万の神、そして、この地の、産土の神、さらに、ここで散華した、多くの戦士たちの、命、みこと、である。
大祓い祝詞を唱える。
太陽に、その土地の、樹木の一枝を、掲げて祈るのは、伊勢神宮の所作である。
ただし、現在の伊勢神宮が、云々というものではない。
私の方法である。

太陽の、霊光を、願い、その力、霊力により、その場を、清めるのである。そして、さらに、祓うのである。

自然信仰の、そのままである。

祝詞を終えて、私は、静かに、申した。
ここに散華した、多くの命、みことに申すーーーーーー

波が荒く、体が、大きく揺れる。
両足に、力を入れて立つ。

どうぞ、靖国に、帰りたい方は、靖国に。故郷に、帰りたい方は、故郷に。母の元に、帰りたい方は、母の元に。次元を異にする霊界に、行く方は、霊界にとの、祈りの言葉を、宣る。

そして、太陽の霊を頂いた、この地の枝で、清めたまえ、祓いたまえと、繰り返した。

暫くの、私の所作である。花飾りを海に投じ、日本酒を撒きつつ、清め祓いを行った。

最後に、神送りの、言霊である、音霊を、唱えた。

そして、すべてを、皇祖皇宗に、お返しするため、御幣を海に投じた。つまり、すべては、皇祖皇宗のお力であるという意味だ。

すべてを、終えて、男を見た。
呆然として、私を見ていたようである。
私が頷くと、男も、頷き、浮き輪から、ロープを離した。

オッケーと、言うと、男は、エンジンを掛けた。ゴーバック。

船は、元の道を戻る。
私は、船先にいて、また、しっかりと、両側の淵に手を掛けた。

船が速度を上げた。
すると、私の口から、念仏が出る。
その、念仏は、三種類の、唱え方だった。
繰り返し、繰り返し、念仏が口から出る。

どうしたのか。
冷静になりつつも、口からの念仏を、私は聞いた。
なむあみだぶつ なむあみだーぶ なむあみだんぶー
なむあみーだーぶ
それは、島に着くまで、続いた。

2008年02月01日

トラック諸島慰霊6

岸に着く頃、私の念仏も、終わっていた。

男は、大仕事をしたような、顔付きをしていた。
ただ、私が握手を求めると、私と目を合わせないのである。
あまりに、驚きの行動だったのかもしれない。野中とは、言葉を交わしていた。

何ともいえぬ、疲労感を覚えた。
少し、放心したのかもしれない。

漁師たちが、皆、声を掛けてくれる。
何となく、頷き合うから、面白い。

昨日の約束通りに、ツゥジィーさんの店に向かう。
時間は、正午前だ。約、一時間の間である。

ツゥジィーさんの店に向かう途中、男の子が、声を掛けてきた。
日本人ですかと、英語で言う。
そうだというと、嬉しそうに笑った。
年は、16歳で、高校生である。
私と野中と、交互に話をした。私は、片言の英語で、会話した。結構、うまく話が進む。
将来の希望を訊くと、政治家と言うから、驚いた。
その訳は、後で、解ることになる。
彼は、暫く、私たちと、歩きつつ、話をした。一緒に、何か食べようかと誘うと、バスが来るからと、別れた。

ツゥジィーさんの店に行くと、店員が、出ていた。
私たちを見ると、笑顔で、迎える。
ツゥジィーさんは、まだ、来ていなかった。

昨日と、同じ部屋に通された。
お客は、私たちしか、いない。

私は、ポークカレーを、野中は、チキンカレーを注文した。
そして、アイスティーである。
これは、何倍飲んでもいいということで、ツゥジィーさんが、勧めてくれた。

半分ほど食べていると、ツゥジィーさんが、やって来た。
今度は、すぐに、椅子に腰掛けた。
マアマに、私たちのことを、話したと言う。
すると、色々な話を、ツゥジィーさんにしたという。

日本の軍人は、素晴らしかったという。
ある、艦船は、沈没することが解って、皆で、船と共に、見事に死んだという。
その船を、ダイバーが見に行くと、船長室では、皆、椅子に座ったままに、死んでいた。
そんな話を、多く聞いた。

日本が戦争に負けた時、自分たちが、負けたように思ったらしい。

1945年に、太平洋戦争が終結すると、アメリカの占領が始まる。
二年後の、1947年には、国連の太平洋信託統治領として、本格的にアメリカの統治政策が、始まった。

島の至るところが、攻撃されて、穴ぼこだらけであった。
何もかもを、失ったのである。
後で、書くが、文明から、逆行するような、生活の様になる。

日本の統治時代に出来た街は、破壊されて、皆、散り散りになった。
夏島の人々は、現在のモエン島、春島にやって来た。
今の夏島は、原始生活のようであるという。勿論、モエン島の大多数の人の生活も、そうである。

1965年、ミクロネシア議会発足。太平洋信託統治地域に関する日米協定終結。ミクロネシア協定である。
1969年、信託統治終了後の政治的地位に関し、アメリカとの、交渉が始まり、その後、北マリアナ、マーシャル、パラオ、現在のミクロネシア連邦が、それぞれ別個に、アメリカと交渉することになる。

現在の、ミクロネシアは、四州に分かれている。
チューク、ポンペイ、ヤップ、コスラエ、総称して、カロリン諸島である。
首都は、ポンペイの、バリキール。

1978年、四州で連邦を構成する憲法草案が住民投票で、承認される。
翌年、憲法施行。自治政府が発足し、初代大統領に、日系のトシオ・ナカヤマ氏が、就任する。
この、ナカヤマの、姓が、実に多いことに、驚く。

日本もアメリカの下にあるが、ミクロネシアも、同じく、アメリカの下にある。
国防を見ると、米・ミクロネシア自由連合盟約により、ミクロネシアの安全保障、国防上の権限は、アメリカが持つ。
市民が、アメリカ軍の兵士に採用されている。
2003年のイラク戦争では、ミクロネシア出身の兵士も参加した。
ただし、米軍の軍事基地は無い。

2005年の一人当たりの、GNPは、2,300ドルであるが、今は、もっと少ない。
仕事が無い。全くの無収入が、島民の大半である。
すべて、仕事は、出稼ぎになる。

そこで、どうして、生活出来るのかといえば、島にある物を、食べて、暮らしを立てているのである。
山に住めば、野生の物で、十分に食べられるという。
翌日、私は、それを、この目で、見ることになる。

国内の生産性は、実に低く、生活必需品の多くを、輸入に頼る。
貿易収支は、恒常的に、赤字である。
連邦政府歳入の約七割は、アメリカとの、自由連合盟約による、財政支援である。
そして、日本である。2005年までの、日本からの無償支援額は、144,11億円である。また、技術協力では、61,28億円を、日本が支援している。

国際航空の、建物、道路が、日本の支援で成ったという。
その時、日本の企業が来て、島人を、雇用し、大変喜ばれたという。

兎に角、貧しいのである。
しかし、不幸ではない。環境破壊の無い、自然の中で、自然の物を食べて暮らしているという、贅沢さである。
一見すると、勘違いするが、貧しさが、不幸ではないという、証を見るのである。

さて、ツゥジィーさんとの、会話は、実に楽しいものだった。

一つ、面白いと、思ったことは、日本の神社を、神様というのである。
今は、キリスト教徒だが、神様といえば、神社のことを言う。
それでは、キリスト教の神様を、何と呼ぶか。イエズス様である。
プロテスタントでは、ジェイズスという。

天皇陛下を、どう思うかと、訊きたかったが、今更なので、止めた。

カレーの量が多かったせいもあり、突然の、眠気が襲う。
私は、ホテルに戻り、すぐに、ベッドに寝た。

野中は、出掛けて行った。
これで、また、色々な情報を仕入れてくるのである。

トラック諸島慰霊の旅7

ベッドに寝て、暫く、放心していた。
うとうとしたが、眠ることは、なかった。

不思議な感覚である。
今まで、どこに旅しても、感じなかったことである。

追悼慰霊は、目的を達することが出来て、良かったが、私の方に、何か、問題がある。
私の満足感であると、客観的には、言える。

実は、慰霊の際に、嫌な気分、変な気を、全く感じなかったのだ。
逆に、私が、清め祓いされているような感じだ。

そして、部屋に戻った私の、心境である。
世の中、つまり、世界のこと、日常のこと、私の属する社会のこと。それらが、どうでもいいことに、思えた。
そして、それが、実に、明確なのである。

このまま、日本に戻らなくても、いい気持ちなのである。
これは、つまり、一つの、死である。
死の感覚である。

戦争で無くなった方は、すでに、清められている。
納得して、死んだ。その時、納得出来ずとも、今は、納得している。
何故か。
日本兵の幽霊が出るという、噂も無いという。
自然である。
自然が、彼らの霊を、清め祓ったのである。

美しい珊瑚の海と、朝風夕風の清らかさ。潮の流れによる、清め祓いである。

清め祓いの私の方が、清められ、祓われていた。

膨大な数の方が亡くなっていれば、海難事故が起きる。しかし、世界中からダイバーが来て、海に潜っても、何も無い。安全である。
要するに、気が、いいのである。
数知れない、遺骨があっても、である。

日本の寺や、それに属する、納骨堂に入っても、その気が、乱れ、濁るのであるが、それが、全く無いのである。

他の慰霊する、土地とは、違う。

改めて、私は、日本の伝統にある、自然と共生、共感する、古神道の、考え方を、得心した。
死は、隠れることなのである。
消滅することではない。

ここで、少し霊というものについて、説明が必要である。
古神道では、四位一体なのである。つまり、一霊には、四つの、魂がある。
三位一体という、キリスト教の教義は、無い。神学という、言葉遊びの世界で、成り立ったものであり、父と子と聖霊とという、一体は、こじ付けである。

和、荒、奇、幸、の、四つの、魂により、霊というものがある。
数霊、かずたま、というものが、言霊を支える重要なものである。
それが、四である。
偶数であるということは、分離するということである。
奇数は、分離しない。偏るのである。
中国思想も、三という、数を、完成の数であり、安定の数とするが、違う。

さて、四つの、魂の、荒魂、あらみたま、が、最後に、この世に残る。
昔の人は、49日は、あらみたま、なので、と、慎重に過ごした。それは、仏教ではなく、日本の伝統の考え方である。

荒魂が、活動すれば、幽霊にもなる。不思議な力も、現す。
それが、無いのである。

そして、私が感じた、死という感覚である。
追悼慰霊をした、私は、彼らに、死という感覚を、教えられていた。

簡単に言えば、私が、この海に来て、私の属する社会生活すべてを、捨てても、いいと思う。どうでもよくなる。その感覚に、死というものが、似ているということ。
最終の自己完結なのである。

これで、よろしいという、思い。
つまり、完結したのである。

彼らの、御霊が、そのようであるということ。

それには、どれ程、多くの人の、祈りがあったか、知れないのである。
彼らの、親兄弟から、親族、友人、知人と、彼らに対する篤い思いは、距離を超えて、きた。その、祈りに、彼らは、満足した。更に、自分の死をも満足した。

国のために、死んだ、という、明確な意味意識である。
大義というものが、如何に、必要かということだ。

だから、テロ行為も、終わらない。
大義があるからだ。
明確な、死ぬことの、意味意識があるからだ。
勿論、テロ行為のそれは、誤りである。だが、大義という、意味では、同じである。

私は、とんでもない、感覚に、立ち往生した。

本当に、このまま、死んでも、良いと、思った。

一霊四魂、ということを、観念として、理解してもよい。
私は、それを、説明する必要を、感じないからだ。
知らなくていいのである。

死ねば、解る。

ここでは、総称して、霊という。

一般に、言われる霊というものは、幽体の霊のことで、肉体に似た姿であるから、幽霊というのである。
そんなものは、即座に脱ぎ捨てて、霊になったのである。

それは、覚悟の問題である。
未練なく、死を受け入れたのであるから、当然、即座に霊になる。
見事である。

若くして命を捧げた彼らの、救いは、国のために死ぬという、一点にあった。それは、国という言葉で、彼らの思いを、総称したのである。

太平洋戦争で、最も、意識したものは、国である。
日本史上、初めての体験である。
国とは、何か。

我らの部落でも、我らの町でもない。
国というものである。

その、国というイメージの、幻想を、天皇という存在が、支えていた。
軍国主義というが、それは、一部の人のことである。
多くの兵士に、軍国主義などない。

軍部が、教育した、国家神道、そして、天皇陛下の、現人神などは、吹けば飛ぶようなものであった。

父や母に、続く、先祖、そして、長い年月の先祖の歴史に、天皇という存在を、置いたのである。
皆、天皇を、天子様として、奉じていた。
そして、国という意識、幻想を作り上げていた。

この戦争で、その国という意識が、明確になった。
国とは、私のことであったという。

世界では、類を見ない、国家幻想を作り上げていた日本という国を、改めて、意識したのである。

軍というものは、暴力であった。
暴力の何ものでもない、存在である。
それにも、耐えられたのは、国が、私だったからだ。

その私には、父や母、兄弟や、友人、愛する人、すべてが、含まれていたのである。

そして、彼らは、死んだ。

朝風、夕風を受けて、美しい珊瑚礁の海で、清められ、祓われて、先祖に続く者として、上昇した。

そして、追悼慰霊に来た私に、死という感覚を教えた。

死者は、言葉にしない。
ただ、伝えるだけである。

遺骨は、一つの物となった。
自然の中に、同化して、何事も無い。
それで、善し、なのだ。

今回、私は、日本人の慰霊のみを、行為した。
多くのアメリカ人も亡くなっている。
共に、国のために、戦った。
大義のために、戦った。
同士である。

憎みあう必要の無い者同士が、国のために、戦った。
平和であれば、友人にも、なれよう。
皆々、演じて生きた。

死を前にした時、人間は、真実を知る。

以下省略。

2008年02月02日

トラック諸島慰霊の旅8

野中が、戻って来た。
島の外れまで、歩いて行ったと言う。
これで、多くの出会いがあった。

一人の男の子が、ガイド役になり、もう一つのホテルのビーチで、泳いで、叱られたらしい。プライベートビーチだった。

明日、一緒に行こうと、野中が、私を誘う。
私は、ゆっくりするつもりだったが、野中の話を聞いて、行くことにした。

村人たちが、集って、木の実を煮て、それを、餅のように捏ねたものを、ご馳走になったという。
村の人の家も、見せて貰ったと、感激していた。
そして、ガイド役の男の子が、Tシャツが欲しいらしいので、今着ているものを、明日、上げるという。
私も、一枚、Tシャツを用意していたので、それも、明日、上げることにした。

ただ、男の子は、ガイド料として、二ドルを要求したという。
野中は、彼に、二ドルを払った。
それを、聞いて、私は、急に、そのことに興味を持った。
ガイドをして、二ドルを貰うということである。

明日は、ホテルを、夜の11時に出る。それまで、十分に時間はある。

さて、今夜の食事を、どうしようかと思った。
いつもなら、必ず、どこかのスーパーに行く。ここでも、買い物をして、それを食べたいと思った。
野中に言うと、それでいいと言う。

六時前である。
外は、すでに、暗くなっている。
私たちは、近くのスーパーに、歩いた。

ところが、すでに、閉店である。早い。それでは、買い物をする場所はない。と、横を見ると、粗雑な板に、パンやバナナを乗せて売る店がある。
そこしか、買い物が出来ないと思い、近づいた。

男がいた。
パンは、二種類である。私は、二種類を買った。そして、量が多いが、小さなバナナである。日本から持ってきた、笹かまぼこがあるので、それで、夕食にすることにした。

水と、パンとバナナ、笹かまぼこで、十分になった。それでも、パンもバナナも、大量に余った。
あまり書きたくないことだが、食べ物が、不味い。
贅沢を言うのではない。すべて、アメリカンになっていて、肉料理ばかりなのである。そして、その肉の、質が悪い。そのために、味付けをしているのである。
胸が悪くなるような、料理が多い。
前日の夜も、量は多いが、肉料理で、油が多く、うんざりしたのである。そして、パンである。パンは、悪くは無いが、パンをニンニクの油で、焼いているのである。ガーリックトーストならいいが、やわらかいパンに、たっぶりと、油で焼いている。
胸焼けする。
兎に角、こってり料理なのである。

さて、後は、寝るだけである。
何も、することがない。今回は、本も持ってこなかった。
テレビも見ない。

エアコンの室外機の音と、潮騒を聞いた。

実に、不思議な日だった。
目的の追悼慰霊は、一時間で済んだのだが、それは、時間の問題ではなかった。質の問題だった。その質は、あまりに、重く、厚い。

ホテル前の通りは、真っ暗である。
私は、九時頃に、ベッドに着いた。そのまま、眠った。

帰国の日の朝、というか、帰国の飛行機は、深夜便であるから、翌日になるが、ホテルを出るのは、夜の11時である。

七時まで、寝ていた。信じられない程、長く寝た。

野中と、レストランに出て、コーヒーを飲んだ。
腹が空かない。昨日のパンもあり、何も注文しなかった。

コーヒーと、水を飲み続けた。
水は、水道水ではない。飲み水として、別に分けられてある。
部屋にも、大きな、水のタンクが置いてある。
ミネラルウォーターを買ったが、インドネシアのものだった。
1,5リットルで、一ドルである。

水道水は、色がついている。
シャワー以外は、使用出来ない。

一時間ほど、レストランで過ごした。

部屋に戻り、出掛ける準備をする。
食べ物を、すべて持った。昼に、食べようと思う。

島の先までは、歩くと、30分以上はかかるというので、タクシーに乗ることにした。しかし、そのタクシーは、中々来ない。
歩きつつ、通る車に手を上げる。
タクシーと、そうではない車を、見分けられないのだ。
タクシーは、運転席の前のフロントに、タクシーと、手書きで書いてある。

一台の車が、止まった。
タクシーではないが、乗っていいと言う。
後部座席に、二人の母娘が乗っていた。
私は、その母娘の後ろに乗った。
途中で、母娘が降りた。

野中と運転の男が英語で、まくし立てるように、話をする。
そこで、印象に残ったことがある。
道路である。
何故、道路の舗装がなされないのかということである。
結局、政治家が、支援金を、自分たちの、いいように使うからだという。
そこで、あの高校生の、男の子の、政治家になりたいという言葉が、思い出された。

どこの国でも、支援される国の政治家、いや、支援する国の政治家も、結局は、自分たちの、都合の良いように、支援金を使うのである。
勿論、学校教育は、無料であり、子供たちの医療費も無料である。
だが、多くの支援金は、有耶無耶になること、多々あり。

政治家になれば、お金を得られるということになる。

主要産業としては、農業の、ココナツ、タロイモ、バナナ等。そして、水産業であるが、全くなっていない。
漁師が、魚を捕らないのである。水産業も何も無い。

一時期、ココナツオイルの、工場があったというが、閉鎖されている。

日本との、貿易額を見ても、2005年では、輸出が190万ドル、輸入が899万ドルである。あまりにも、歴然としている。
地場産業を作らないのである。
収入を得るためには、海外に出稼ぎに出るしかないのである。

ただ、言えることは、環境破壊が無いということである。
それだけは、見事である。しかし、これからの、島の人の生活を考えると、何かの手立ては、必要である。

車は、島の先端の、ホテルに入った。
私たちは、車を降りて、写真を撮るために、浜に出た。
向こうに、夏島が見える。右手には、竹島である。
白い砂が、眩しく輝く。

ホテルの従業員が、声を掛けて来た。日系人である。
日本人が、懐かしいらしい。
皆で、写真を撮る。

車に戻り、昨日、野中が行った村に、行くことにした。
デコボコの道を、ゆっくりと、車が走る。
暫く、逆戻りすると、村に着いた。

そこで、男が、教会のミサに出るということで、車を返すことにした。
料金である。通常のタクシーは、50セントであるが、彼は、10ドルと言う。
野中が、交渉する。10ドルは、高いと。
すると、5ドルになった。それでも、高い。しかし、私は、もういいと思い、5ドルを出した。
男の言い分は、ガソリンが高いと言うのだ。
収入の無い人には、出来る限りお金が欲しいと思うのは、当然である。
5ドルは、大金である。
10ドルから、半額になるのも、おかしいが、タクシーではなく、好意で、乗せてくれたと思い、支払った。

収入の無い、島の人の、買い物は、一ドル以内である。セント単位の買い物である。
しかし、それも、ままならないのである。
だが、その貧困を、支援する理由にすることは、無い。
それが、島の経済システムである。
支援は、それを、破壊しないようにしなければならない。
つまり、持てる者と、持たない者との、差を作ってはならないのだ。

何でもかんでも、金を出せば良いということではない、ということだ。
島の人の、自立を促し、島の人の生活を、破壊しない、支援である。
実に、慎重にならざるを得ない。

トラック諸島慰霊の旅9

見渡すと、バラック小屋が多い。
手作りの小屋である。

野中の後を、歩いた。
昨日来たと言う、村に向かっている。

まず、昨日ご馳走してくれた、村の主の家に行く。
丁度、主人が寝ていた。
声を掛けると、家族皆が、出てきた。
野中が、お礼を言い、プレゼントを持ってきたと言うと、食べ物かと、問う。
私たちは、タバコを五箱買っていた。
現地のタバコである。
それでも、喜んで、受け取ってくれた。
息子と思える男の子から、小さな子まで出て来たので、写真を撮る。

再び、道路に出て、先を歩いた。
ガイド役をしてくれた子の家に向かった。
ところが、野中の記憶が、曖昧で、立ち止まった。

その時、声を掛けられた。
コーヒー、コーヒーと言う男がいる。
野中は、声を上げた。昨日逢った男だった。

私たちは、コーヒーを頼んだ。
一杯、25セントである。集った人にも、ご馳走することになり、四つ、注文した。
男は、そこに、腰掛けてくれと言う。
手作りの、棒で出来た、椅子である。
横には、子供が、裸で寝ていた。

どんどんと、人が集まってくる。子供たちも来た。

私は、パンを食べようと、袋から取り出すと、野中が、まず、こちらが食べてから、皆に渡すといいと言う。
そのようにした。すると、渡した者が、他の者に、分け与えるのである。
子供にも、渡す。すると、その子は、他の子に、半分、分け与える。
それが、自然なのである。
こんな、風景は、見たことがない。

私は、すべてのパンを、皆に与えた。それが、次々と、人から人へと、渡るのである。
こういう、礼儀は、自然に出来上がったものなのだろう。

その内に、ガイド役の子が来た。ジュニオという、名だった。
13歳で、小学校の七年生である。日本だと、中学一年生である。
だが、日本の子供より、小さい。日本の10歳程度の子供のようだ。

野中が、ジュニオに、Tシャツを渡す。
ウァーと、声を上げて喜んだ。
さらに、私のものも、渡す。
ジュニオは、二枚のTシャツを、両肩に掛けた。

その間にも、子供たちが、大勢、集ってきた。

コーヒーを飲み、主人と、話をした。
その中で、私は、子供服などは、どうしているのかと、訊いた。
無いという。
確かに、小さな子は、裸だった。
お金が無いので、皆、出稼ぎに行っている家族や親戚から、送ってくるのである。

着の身着のままである。

私は、次に来る時、子供服を持ってくると言うと、近くにいた、大人が、皆、お礼の言葉を言う。それが、本当に、心ある言葉なのである。
意味がよく解らないが、何を言うのかは、理解した。

主人が、村を案内すると言う。
そこで、私たちは、お願いした。
しかし、それがまた、大変なことになるのだ。

山の中を行く。道無き道を行くといった、感じである。
子供たちも、着いて来た。
彼らには、当たり前だが、私には、山道である。
すぐに、汗だくになった。何度も、着物の、袖で、汗を拭いた。そして、また、汗が出る。

遂に、山の上まで来た。
そこにも、家があるという、驚き。
そして、山の上の風である。その、心地の良さは、格別だった。
その家の、おばあさんが、木の元に、ゴザを敷いて、寝ていた。

私たちが行くと、起き上がり、笑顔で挨拶する。
すぐに、日本人だと、解ったのは、私の着物である。

歓迎に、小さなミカン、日本で言うと、カボスに似たものを、出してくれた。
それは、酢のように、すっぱい。
皆で、それを、食べた。
その家の子も、出て来た。

暫くすると、その家の子が、主人に何か言う。
向こうに、日本軍の大砲があるというのだ。それを、私たちに見せたいと言う。

野中が、着物で、行けるかと、訊くと、大丈夫だと言う。しかし、付いて行くと、そこは、ジャングルである。
引き返すことも出来ず、私は、皆に付いて行った。

だが、主人も、子供たちも、兎に角、親切である。
足場の悪いところを、整えて、私を歩かせる。手を取る子もいる。

漸く、日本軍の要塞を発見し、大砲を見た。

その付近には、大きな穴が多くあった。攻撃された跡だと言う。

肩で、息をしつつ、写真を撮った。
そして、そこからの眺めである。絶景だった。

子供たちには、山が、庭のようなものである。
その有様にも、感動した。

大砲に上がる子供たちである。
誘われたが、私は、上がらなかった。
下から、見上げるだけである。
戦争当時の様を、想像した。
ここで、毎日、敵を発見しては、攻撃していたのであろう。
山の上に、要塞を築き、大砲を設置しての、苦労を思った。

そして、戦争とは、何と無益なことかと、溜息をついた。

また、誰も日本人が、こんな所まで来て、見ることは、ないだろうと思えた。
貴重な資料である。

暫くして、戻ることにした。
子供たちの身に軽さは、脅威であった。
しかし、私を先に先にと、歩かせる。
必ず先導する子がいる。

最初の山の上に戻った。

私は、子供たちの人数を訊いた。
七名である。
一人、二ドルを渡すことにした。
一人の子に、それを渡すと、その子は、満面の笑みを浮かべた。
感謝の気持ちである。
そして、主人には、案内のお礼として、20ドルを渡した。

少し休み、下山することにする。
主人が、折角なので、私の家族に会ってくれと言う。
私は、オッケーと、答えた。

主人の家は、山の中腹にある。
奥さんが、赤ん坊を抱き、二人の娘がいた。
一間の小屋で生活している。
どんな風に寝ているのか、想像がつかないのである。

実に、貴重な体験をして、私たちは、皆と、別れた。

ジュニオだけは、ホテルまで、着いて来ると言うので、三人でホテルへの道を歩いた。

2008年02月03日

トラック諸島慰霊の旅10

人の死を悼む歌を詠む歌を、挽歌という。
そして、歌は、鬼神をも、泣かせるという。

ランダムに、私の、歌詠みを。

愛国の 水盃に うれいあり 若き命を かけしその意を

追悼の 思いに満ちて 宣る我は 清め祓いに 清められたり

トラックの 海は静かに 凪るとも 散華のみこと 言の葉ゆれる


いかばかり 苦悩に満ちて 行く兵士 これも愛国 これもわが身と

鬼神をも 泣かしめるかな 歌詠みの 歌も残さず 散る命なり


はるばると かけつけ祈る 我に言え その悲しみの その切なさの


今もなお 母が待つくに 我のくに 帰り戻りて 泣くものぞかし

我を待つ 恋うる心の 思い人 胸に抱きて ここに逝くなり


平らけく 安らけくかな 南洋の 海静かにて ただそのままに

忘れては また立ち返り 振り返り 水底深く 残る思いを

しかしまた すでになきなり その思い 風吹くままに 波立つままに


大伴の 歌いし賛歌 海ゆかば 空にもかかる 雲の一筋


我もまた 国の御親の 元にゆく ゆくべき国の そり胸の内

いにしえも 死を前にして 人は立つ 今も我もは 振り返らずに

この時ぞ 敵も味方も なかりけり 運命(さだめ)のゆえの ことと知れり


追悼の思い

恥ずかしく 情け無きかな わが祈り 身を切る思い 至らぬゆえに

ありがとう ただありがとう 皆様の 命のお蔭で 生き残る我

潮も泣く 山も泣くなり 過ぎし日の 戦の跡の うつつの跡の


深き海 我知らずその 深き海 深き思いを 知ることもなし

父母の 思いは篤く 胸に抱く 骨無き子らの 悲しみを抱く

大君の 野辺に 死なまし 国のため 教えを受けて 悔やむことなし


最後に

忘れずに 語り伝えよ この事実 問わずして逝く もののふの雄

紺碧の 空と海との 間には 果てない遥か 悲しみの淵


歌の良し悪しではない。
歌を詠まずに、いられないのだ。

トラック諸島慰霊の旅11

ジュニオを連れて、ホテルに戻り、着替えて、ツゥジィーさんの店に向かった。

ツゥジィーさんが、出迎えた。
ジュニオに対しても、別段不思議な顔は、しない。
通常、島の人は、入らない店である。

二人は、顔馴染みである。島の人は、ほとんど、知り合いである。
注文した、ハンバーグがくるまで、ツゥジィーさんと、ジュニオが、現地語で、話している。
内容は、解らない。

ツゥジィーさんが、英語で、言った。
先日、亡くなった、17歳の男の子がいた。
声が出なくなり、食べ物が、喉を通らない。島の病院、グアムの病院、ハワイの病院に行ったが、原因不明で、戻って来て、亡くなった。

彼女は、ブラックマジックにかかったのだと言う。それを、二人で、話していたのだ。

ブラックマジックは、誰でも、かけられる。そして、誰でも、それを、解くことが出来るという。
草木の新芽を使い、それを、煎じて作るらしい。

その17歳の男の子の、親が、熱心なクリスチャンであった。
それで、島の方法を、申し出た人が、多くいたが、断り、死んでしまったのだという。
ブラックマジックも、その解き方も、悪魔のものだというのだ。
だが、母親は、彼を葬る時に、アイムソーリィと、何度も泣いたという。

ツゥジィーさんは、ブラックマジックは、必ず解けるという。

ツゥジィーさんが、一度部屋を出ると、ジュリオが、ブラックマジックの掛けるのを、見たいことがあると言う。そして、私たちに、それを、再現してくれた。
人が寝ている時に、それを、行うという。そして、舌をレロレロレロと、口から出し入れし、呪文のように、アワアワアワアワと、と唱えるという。

その、ジュリオの表情が、おかしくて、私は笑いそうになったが、我慢した。
それをする、ジュリオ自身が、白目を剥くのだ。

野中は、風土病だという。
だから、島の草木の新芽を使って、直すのだという、意見である。

私は、それもありであり、もう一つは、島にある、元の信仰形態を知りたかった。
しかし、ツゥジィーさんも、ジュリオも、それを、知らないという。

バリ島のように、元からある、神様である。その名前だけでも、残っているはずだが、矢張り、キリスト教の支配に入り、それが、霧散してしまったのだろう。

1500年代の、スペイン統治の前には、何らかの、土着の信仰形態が、あったはずである。

二人は、ブラックマジックを解けば、彼は、死ななかったという、意見であった。

ツゥジィーさんの、母親なら、土着の信仰を知っているかもしれないと、私は、帰国して、思った。次に、行った時に、それを、聞きたいと思う。

ジュリオは、ハンバーガーを、自然に食べた。
いつも、食べているように、食べた。普段は、決して、食べられないものであるが、不自然さは、なかった。

野中が、ジュリオに、手紙を出したいが、ジュリオの所は、住所がないと、ツゥジィーさんに言うと、それなら、私の所に、送ってくれれば、届けてあげるという。
そこで、ツゥジィーさんの、住所を知ることになる。

島の大半の人には、住所が無いのである。
不思議だ。
それでも、郵便物は、届くという。
知り合いの手から、親戚の手からと、渡り、本人に届くようである。
カルチャーショックである。

いかに、島の人たちが、親しい関係を、築いているかということである。

さて、私は、ブラックマジックについては、バリ島のものも、興味があり、ただ今、調査中である。
例えば、日本人でも、それにかかる人もいるが、かからない人の方が多い。つまり、バリ島の人にのみ、通用する、ある種の、霊的作用であろうと思う。
ホワイトマジックという、それを、解く方法もある。

それが、例えば、祝詞の清め祓いで、解けるかということも、興味がある。
しかし、これについては、省略する。

四人で、歓談していると、時間が、あっという間に、過ぎた。
島が、夕暮れ近くになるので、私たちは、立ち上がった。

今度こそ、本当に、ツゥジィーさんとも、お別れである。
前回、ツゥジィーさんに、また、島に来るかと、問われて、私は、返事が出来ず、曖昧にしていたが、この時、私は、ツゥジィーさんに、来年、また、来ることを、約束した。

慰霊に訪れる日本人が、今は、激減しているのである。
もう、高齢になり、来る人が少ない。
ほとんど、ダイバーのみである。

スィユゥアーゲン、という、ツゥジィーさんの顔が、晴れやかだった。
通りすがりの旅人ではなくなったのである。
知り合いになったのである。

店を出ると、丁度、タクシーが来たので、それに乗り込む。
ホテルで、私と野中が降り、そのまま、ジュリオを村に返した。
運転手には、一ドル50セントを渡した。
通常の三倍の、料金である。

ジュリオとも、これで、最後である。
またねー、という、日本語が通じたようである。

部屋に戻って、私たちは、一息ついた。

随分と、内容の濃い時間だった。

野中が、フロントの女の子と、話に出たので、私は、一人になった。
フロントの女の子も、日系三世である。中村といった。
時給一ドルで、働いている。
信じられない、安さである。

私は、帰り支度を始めた。
夜の11時に、ホテルを出るのである。
深夜便である。
また、グアムで、手荷物検査を受けると、思うと、憂鬱になる。
グアム到着は、朝の三時半頃であり、最も、眠気の強い時間である。

今度は、冷静に、検査官の言う通りに対処しようと思う。
神妙になっている、自分に、笑った。

野中が、戻ってきた。
そして、カメラがないと言う。
ジュニオが、持っているか、ツゥジィーさんの、店に忘れたかである。
ジュニオなら、返しに来ると、思った。

暫くすると、フロントからの電話である。
ジュリオが、やって来た。
野中が、出た。
数名の子供たちを、引き連れている。
私は、野中に、ここに、皆を、呼んだら、いいと言うが、野中は、部屋を、見せない方がいいと言う。
私も、外に出ることにした。

一ドル紙幣を一枚持って、出た。
ジュリアに渡すためである。
今回で、ジュリオは、10ドル程の、収穫を得た。
彼は、父親が車椅子の生活で、必死で、家計を支えようとしている。
それが、痛いほど解る。

子供たちを見送り、私が先に部屋に戻る。
野中が、戻って来て言う。
ジュリオが、二ドル欲しいと言ったらしい。また、カメラも、最初は、解らないと言ったと。それじゃあ、あの店に、取りに行くと言うと、ズボンのポケットから、カメラを取り出して、ここにあったと言った。
本当は、カメラが欲しかったのだと、野中は言う。
そして、子供たちにも、行けば、二ドル貰えると言って、連れて来た様である。

野中に、みんなに、二ドルくれと、いったらしい。
野中は、お金は、木村が持っている。自分には無いと言ったと、言う。
野中が言う。
金があると、見ると、こういうことになる、と。
確かに、ある人から、貰うというのは、彼らには、当たり前のことである。
私は、それで、気分を悪くすることはなかった。
結果的に、カメラが、戻り、良かったのだ。

夜の九時である。
私たちは、ホテルのレストランに入り、最後の食事をした。

ビーフのミンチを、チーズで、くるんでいるような、実に、後味の悪いものだった。
本日の、お勧め、ディナーである。
一人、約10ドル。
飲み物は、水にした。

部屋に戻る。
野中が、急いで、帰り支度をする。

野中が、荷物を持って、部屋を出た。
フロントの女の子と、話すためである。

私は、時間まで、部屋にいた。

私が、一階に下りると、いよいよ、迎えの車が来た。
旅行会社に委託されている、現地の旅行会社の方である。
現地生活、20年という女性だった。その、旦那さんは、30年の現地生活であった。

彼女から、車の中で、島のことを、聞いた。
私が、感じたことを、確認するようだった。

そして、産経新聞の記事のことにも、触れた。
取材を受けたのだと言う。
それは、産経新聞の記者ではなく、JOCAの人だと言う。
独立行政法人である。青年海外協力隊などを、出している団体である。

産経新聞は、その文章を元に、記事を書いた。
つまり、記者は、取材に来ていない。
そして、それは、非常に偏狭なものだった。
そのように、書くことも出来るが、状況を誤って、理解しているというものだった。

どうしても、遺骨を、見世物にしているという、発想なのである。
確かに、遺骨は、見ることが出来るが、そこまで、見るということは、前にも書いたが、ダイビングでも、相当の経験者である。
それで、果たして、見世物にしていると、言えるのかということである。

遺骨の多くある場所を知る、案内人もいる。
そして、それは、案内するという、仕事であるから、お金を得る。見世物にして、チップを取るという感覚ではなく、それが、仕事なのである。

それを、チップを得て、遺骨を見せるという表現にも出来るということだ。

微妙な、表現の違いである。
ただ、基本的に、そのようなことは、無いと、彼女は言う。
私も、ダンピングショップの人から、聞いた話では、微妙に、ニュアンスが違うと、感じた。

だが、産経新聞の記者は、見世物にされているという、前提の元に、記事を書いたといえる。微妙な、ニュアンスの違いであるが、私は、それは、行き過ぎた書き方であると、判断した。

慰霊を終えた私には、更に、遺骨の、問題ではなくなっていた。
遺骨は、抜け殻である。
その、霊、魂は、すでに、次元を異にしている。

彼らも、後は野となれ山となれ、なのである。

出国審査を終えて、搭乗ロビーに出た。
再び、この島に来ると、信じた。また、やるべきことが、一つ増えたのである。

2008年02月19日

タイ・ラオスへ

タイ・ラオスへ行く。

出発の前日、関東に大雪が降った。
高速道路が通行止め、電車や、飛行機も運転見合わせということで、翌日のことが、心配になり、横浜駅から、成田エクスプレスで行くことにした。

翌日は、午前中まで、通行止めだったようで、列車にして、安心だった。

この時期は、それほどの混雑なく、スムーズに出国手続きが済む。
私の荷物は、子供服が、二袋で、後は、持ち運びの鞄に、自分ものを入れて、機内に持ち込む。
子供服は、向こうで配ると、無くなる。
暖かい国に行くので、夏物の薄い着物なので、鞄で十分に間に合うのが、いい。

一万円が、バーツにすると、3005バーツになることを確認する。

飛行機は、時間通り、飛びたった。
丁度、夜であるから、寝ていればいい。
バンコクまで、七時間と少しである。
到着は、現地時間の、11:30頃になる。

バンコクでは、以前泊まった、安いホテルを、二泊予約していた。
スクンビット通りにあるが、地図に、名前の載っていないホテルである。
一泊二千五百円で、朝食付きである。二人で、その値段である。
泊まれれば、いいのである。

バンコクは、雨だった。バンコクの雨は、初めてである。

バンコクの 夜は雨なり 涼しくも あり新鮮な 街並み光る

タクシーに乗り、ホテルに到着した。
以前に泊まった時にもいた、無愛想な女が、いた。
イサーン出身である。つまり、私たちが、向かう、イサーン、タイ東北部の出である。

野中が、あれが、イサーンだと言う。つまり、あのような、無愛想な顔が、イサーンの顔だという。

12日間の、旅の始まりである。
バンコクの夜には、興味がないので、ホテルの部屋のビールを飲み、飛行機のせいで、すぐに酔うので、そのまま、寝た。

日本時間より、二時間遅れが、タイの時間である。
深夜十二時は、日本では、二時である。
三時頃に寝たから、日本時間では、五時である。

朝は、八時に目覚めた。
私は、すぐに、一階のレストランに似せたような、オープンカフェに出た。
無愛想な女から、チケットを取りに行く。
ナンバーと、訊くので、私は、キーを見せた。
朝食券二枚をくれた。

若い男がいた。
前回は、おじさんだったが・・・
コーヒーを頼む。
たまごは、どうすると訊く。
スクランブルで、ソーセージにした。

トースト二枚に、それらが付いてくる。
私は、タバコを吹かして、コーヒーを飲んだ。
コーヒーは、何倍お替りしてもいい。

他の客は、すべて、欧米人である。
若い欧米人は、カップルで、年老いた欧米人は、タイの女を連れている。
中には、中年のおじさんも、タイの女を連れていることもある。

二杯目を飲み終わる頃、野中が、降りてきた。
次第に、ホテル周辺が、騒がしくなる。朝の、状態である。

野中は、周辺に出掛けると言う。私は、この辺りにいると、言った。
行きたいところは、無い。

夜は、チェンマイから、野中の友人の、タンニャが、バンコクに来ることになっている。逢えると、いいと、野中が言う。
お客と、ベトナムに行くらしい。

部屋に戻り、野中が、ディジュルドゥを担いで、出て行った。
私は、部屋で、のんびりと、イサーンの空港、ウドーン・ターニと、その後行く、ノーン・カーイについて、調べていた。

国内線の格安チケットを予約していた。
ウドーン・ターニに、一泊するか、そのまま、ノーン・カーイに行くかと、迷った。
ノーン・カーイは、ラオスとの、国境の町である。
その距離感が、解らないから、迷う。

私は、8日にラオスに入り、翌日、ノーン・カーイに戻る予定である。野中は、そのまま、二三日、滞在する予定だ。

昼になったので、ホテルを出る。少し、その周辺を回った。
食堂に、日本語が多い。
驚いた。
これは、日本人が、多いということである。

一軒の、日本語で書かれた、タイ料理の店に入った。
タイ語、英語、日本語で、書かれたメニューがある。
私は、焼きそばを注文した。

待っている間、店にある、雑誌を手に取った。
日本語のものがあり、無料配布されているものを、取った。
開いた。
驚いた。
すべて、ピンク系の広告で、埋まっている。
オイルマッサージ、2000バーツから、2500バーツである。
それは、射精するまでのコースである。
オイルマッサージは、200バーツから、250バーツが、普通であり、その値段は、高級ホテルの、マッサージ並である。

出張もあるという。
ここまで、日本人が、多く来ているのだと、感心した。

焼きそばは、量が多くて、すべてを食べると、満腹を通り越した。
勿論、日本の焼きそばに似せたものである。
タイ料理は、野菜を半生で、平気であるから、戸惑う。
更には、すべて、生ということもある。

その雑誌を持って、ホテルの部屋に戻り、体を横たえた。
そして、寝た。

野中が、戻って、例の雑誌を見て、こんなもの、持っていると、勘違いされるよとの、アドバイスである。

タイの売春は、有名であったが、タイ政府が、牽制して、少し収まった経緯がある。
売春に準じる方法を、考えたのだろうと、思えた。

知り合いの男の子たちは、必ずタイでは、売春を一つの、目的にしていたものである。
私は、その度に、コンドームの使用を、勧めていた。

夕方、タンニャから、電話があった。
ホテル近くに来るらしい。
野中が、逢いに行くと言っている。
時間が、遅くなりそうだというので、私たちは、先に、夕食を済ますことにした。

夜になると、日本語の店が、続々と開店する。
私は、肉が食べたくなり、近くの、韓国料理店に野中と入った。
野中は、ビビンバを注文したが、私の焼肉セットの野菜を食べているうちに、腹が一杯になったようで、ビビンバをキャンセルした。というか、野中の注文を店の者が、忘れていたようだった。

二人で、ビール一本を飲んで、一杯になり、食べてすぐに、ホテルに戻った。

タンニャからの電話があり、野中が出て行った。
私は、ベッドに横になり、うとうと始めた。
野中が、鍵を持って出ないので、鍵は、開けたままである。

眠れず、これからの予定を考えていた。
野中は、十二時前に戻り、明日のタクシーの予約が出来たと言う。
ホテルに、十一時に来てくれる。
野中が戻り、安心して、私は眠った。

2008年02月20日

タイ・ラオスへ 2

タイ・ラオスへ2

タクシーが、時間通りに来たが、昨夜の人ではないという。用事が出来て、替わりに来たという。メータータクシーなので、安心して乗る。

高速道路を通り、その料金を払った。
そして、メーターは、200バーツと少しである。ところが、300バーツと言う。
私が、メーターを指して言うが、野中が、帰りの客がいないと、困るんだって、という。
帰りの客がいないことは、無いと思うが、面倒なので、300バーツを払う。
まあ、チップだと、思えばいい。

タイの民間機は、実に、適当である。
搭乗手続きをすると、三時間遅れであると言う。
前回も、チェンマイで、遅れて、日本行きの便に乗られないかもという、事態になったが、本当に、当日になってみなければ、解らない。

決して、信じてては、駄目である。
勿論、帰りも、三時間遅れだった。
結果、四時間を、空港で、過ごすことになる。

新しい空港、スヴァルナプ空港は、国際線、国内線と、入り乱れている。
私たちは、いつも、一階のロビーで過ごす。
人が少なくて、心地が良い。ただし、冷房は、きつい。全体に、冷房が行き渡り、下手をすると、風邪を引く。
私は、外に出て、暑い風を楽しみ、タバコを吹かすのが、好きだ。

漸く、時間になり、搭乗口に行く。
ところが、時間になっても、誰もいない。
また、遅れているようなのだ。
結局、30分過ぎで、案内が流れた。

座席は、自由席である。
私たちは、一番後ろの席に座った。結構、席が空いている。私は、途中で、隣の空いている席で、体を横にした。
一時間程度で、ウドーン・ターニに、到着した。

空港から、国境の町、ノーン・カーイまでの、バスがあるというので、それに乗ることにした。
約、一時間である。丁度良い。

ミニバスに乗り込んできた、最後の方々が、日本人の、榊原夫妻だった。
私の後ろの座席に座った。
老後をタイで、暮らし、ビザのために、一度海外に出るということで、ラオスを選んだという。

その榊原さんとの、話で、様々な情報を得ることになる。

四方山話から、ラオスの話になった。
山の上に行くほど、信じられないような生活の様であること。日本の戦後の生活より、悪いという。
私たちが、子供服を持ってきたというと、それは、何よりだという。
裸で生活している、子供たちが大勢いる。それは、貧しさゆえである。

私は、日本の戦後より悪いと、聞いて、少し考えた。
日本の戦後は、最低最悪である。
それより、悪いということは、どういう事態だろうと。
もし、そんな所に、私が行けば、あまりのことに、また、アホなことを、考え始めるだろうと、思えた。
つまり、支援活動の拡大である。
果たして、私個人に、それ程の、能力があるのか。
これは、宿についてからも、考え続けた。

そして、私が、戦争犠牲者の追悼慰霊から、この活動が始まったと言うと、榊原さんは、是非、戦場に掛ける橋という、映画で、有名になった、カンチャナブリーに、慰霊に行って欲しいと言った。
日本兵だけではなく、多くの捕虜を犠牲にした、橋の建設である。
泰緬鉄道である。

榊原さんは、慰霊ではなく、見学に行ったが、花などを持たなかったことを、後悔したと言う。
せめて、花でも、供えてくれば良かったと。

日本軍慰霊塔には、日本語、英語、マレー語、タミル語、ベトナム語で、慰霊の辞が、刻まれているという。

戦争とは、愚かなものだと、言ってられない程の、悲惨な犠牲を出したのだ。

連合軍共同墓地にも、日本人として、追悼慰霊に、行くべきであると、思う。

榊原さんの、お話は、随分と、私に、多くの思索を与えてくれた。

バスは、ノーン・カーイの国境まで来た。
そのまま、国境を通る人もいる。
私たち、榊原さんは、ノーン・カーイに、宿泊する予定である。
皆、バスを降りた。

ソンテウや、トゥクトゥクを探すが、見当たらない。
夜であるから、知らない場所に降ろされると、不安になる。

私が、ミニバスの運転手に行った。
ホテルに行きたいと。
すると、運転手が、オッケー、送るよ、と言う。

すると、降りた人の中で、町に行く人が、また、乗り込んだ。
タイ人もいた。彼らが、先に行き先を言うので、そちらに向かった。そして、欧米人たちである。最後が、私たちであった。

街中の、中流ホテルである。
私たちは、そのホテルの、コテージを取り、榊原さんは、ホテルを取った。
荷物を置いて、一緒に食事をすることになった。

一泊、600バーツの部屋である。約、二千円。
ベッドが、二つある。
私は、二泊を、そこにした。その後は、ゲストハウスにする予定だった。

榊原さんとの、食事で、ラオスのことを、多く聞いた。
その時点で、私は、ラオス行きを、断念していた。
瞬時の決断である。

行けば、とんでもないことになるという、直感である。

バリ島、タイ北部、トラック諸島である。そして、ラオスとなれば、私の個人活動は、限界である。
相当な、支援金が、必要である。

榊原さん夫妻は、明日、ラオスに出るという。
私のことを、尋かれて、野中だけが、ラオスに入りますと、答えた。
私は、この町で、ゆっくりしていますと、いうことにした。

真っ暗闇の街中である。
ホテルの明かりだけが、異様に、輝く。
そして、夜が、以外に寒いのである。

夫妻に別れて、部屋に入った。

部屋も、寒くて、野中が、窓をすべて閉めた。
そこで、明日、ゲストハウスを探し、明後日、そちらに移り、野中も、明後日、ラオス入りすることにした。

疲れたのか、すぐに、眠った。

翌朝の、朝食の時に、榊原夫妻に会った。
すでに、町を散歩していた。これから、ラオスに向かうという。
野中に、向こうで、会うかもしれませんねーと、話している。

私は、食事を終えて、野中と、散歩がてら、ゲストハウスを探すことにした。
料金は、おおよそ、400、300バーツの部屋である。

メコン河に向かって歩いた。
イミグレーションの建物の前に出た。この建物も、日本の援助によって、建ったものである。
その、界隈には、多くのゲストハウスがある。
私たちは、その、一軒、一軒を見て回った。
部屋の中に、シャワー、トイレのある、ゲストハウスを選んだ。始めは、400バーツの部屋を紹介されたが、野中が、二階の300バーツの部屋もあると、言うので、そちらを見せてもらい、300バーツの部屋に決めた。約、千円である。
私は、帰る日まで、そこに、滞在することになる。

タイ・ラオスへ 3

タイ・ラオスへ 3

メコン河の流れは、雄大である。
たゆたう、如くに流れている。
向こうには、ラオスが見える。

8日、私は、野中をラオスの、国境まで送った。その足で、ノーン・カーイの町を巡った。といっても、トゥクトゥクの男が、回ると言うのだ。
観光見物は好きではないが、連れまわされた。

市内見学を終わると、二時間が過ぎていた。
本当は、一時間のはずである。
すると、トゥクトゥクの男が、二時間だから、一時間、200バーツで、400バーツだと言う。
その通りであるが、私の約束したのは、一時間である。

相手が、確認しなかったことも、悪い。また、私が、一時間を過ぎたことを、言わなかったことも、悪い。

私は、男に、譲らず、あなたの、ミステイクだと、繰り返した。
相手も、よく解らないと、英語で言う。

最後に、私は、200バーツを出し、そして、100バーツを、チップだと言って、渡した。
男は、どうしても、400バーツが欲しいらしいが、私は、平然として、ゲストハウスに入った。
暫く、男は、留まっていたが、そのうちに、エンジンを掛けて、行った。

こういう場合は、相手の言いなりになるという、方法もあるが、私は、これからのために、妥協しなかった。
実際、私は、市内見学は、ほどほどで、良かったのだ。
日本人の悪い癖で、ついつい、相手に、乗ってしまう。

トゥクトゥクとは、バイクの後部に、二人用の座席を作って、お客を乗せるものである。
男は、街中の人ではなく、観光客専門の者だったと思う。
つまり、20バーツや、30バーツの、仕事はしない。大物を狙うのだ。

それっきり、その男には、会わなかった。

ゲストハウスで、過ごす一人の時間が、始まった。

まず、食べ物を、どこで食べるかである。
ゲストハウスの付近には、多くの食べ物屋がある。
地元の人を対象にした、食堂、欧米人向けの食堂、レストランである。

私は、地元の人の行く、食堂に出掛けることにした。
メコン河沿いにある、オープンハウスの食堂である。

店先で、鶏肉、豚肉、ソーセージ、その他を、焼いている。
ここ、ノーン・カーイは、鶏肉の産地であるという。

私は、もち米と、サラダを頼んだ。
と言っても、言葉が通じないから、指で指して、欲しいものを、言う。
もち米は、竹の米びつを指し、サラダは、店先にあったものを、指した。
この、サラダが好きになる。名前を、後で知る。

もち米は、日本の赤飯を食べる感じに似る。もち米だけ食べても、十分だ。

食べ終えて、清算すると、45バーツである。約、150円。

夜のために、店先で焼いていた、鳥のモモ肉を買う。
ついでに、豚のソーセージも買う。手作りである。

一度、部屋に戻り、体を横にする。
食べた後は、休むに、限る。

実は、私は、タイパンツと、Tシャツで、過ごしていたが、何となく、寒く感じていた。
それで、注意深く考えてみると、この地の、気候が、今までにない、ものだと気づく。

つまり、24時間のうちに、日本の四季があるのだ。信じられないようだが、まさしく、そうなのだ。

明け方の寒さは、冬である。そして、次第に、春に向かう。正午を過ぎると、夏になるのである。そして、夕方は、秋である。

その証拠に、人々の服装を見る。
一番、手っ取り早いのは、子供たちである。
皆、てんでに、季節の服装をしている。
ある子は、夏服、ある子は、冬服というように。

翌日の、朝は、格別に、寒かった。
Tシャツで、下に降りると、ゲストハウスのオーナーが、防寒服を着ていた。そして、私に、そんな格好で、大丈夫かと言うのである。

タイという国は、どこもかしこも、暖かい訳ではない。

時間差によって、温度の幅が、実に大きいのである。

ここは、ラオスとの国境に、位置する、タイ東北部、イサーンである。
風の強いのは、川風のせいである。

他のタイの人は、イサーン人を、やや軽蔑するように、イサーン人と呼ぶ。
これには、長い、物語がある。
18世紀末から、20世紀初頭にかけてのことである。

最初に、インドシナ半島で、植民地化を進めたのは、イギリスである。
次いで、フランスが、東から、半島を狙った。フランスは、アヘン戦争後、中国と条約を結び、中国進出を本格化させる。そのための、拠点をベトナムに求めた。
1847年、逮捕された宣教師の釈放を求めて、ダナン港を攻撃する。さらに、ダナンの割譲を求めて、1856年以降、断続的に、攻撃が続く。
ついに、1862年、フランスは、コーチシナを獲得する。これが、フランスのインドシナ植民地化の、第一である。

さらに、フランスは、メコン川を通り、中国に進出するルートを確保することを、画策する。さらに、そこから上流は、カンボジアである。
カンボジアと、1863年に、保護条約を結ぶ。
しかし、タイ側は、カンボジアの宗主権は、タイにあるとして、保護条約に反発する。
だが、フランスは、ベトナムが、カンボジアに持つ、宗主権を根拠に、タイに譲歩を求める。これにより、1867年、タイ仏条約が結ばれ、タイとカンボジアの保護条約の破棄と、フランスのカンボジア支配権を、認めることとなった。

カンボジアを手に入れたフランスは、さらに、ベトナム全土を、保護国化したのが、1884
年である。

ベトナムを確保すると、次は、メコン河流域の、ラオスである。
紆余曲折を経て、1888年国境画定交渉を行い、タイの属国の、ルアンプラバーンの支配下にあった、シップソーンチュタイが、フランス領となる。
タイ族の居住地であったものの、バンコクとは、今まで関係が無かった土地である。

フランスは、さらに、メコン河の左岸(東側)の全域確保に進み、1893年、メコン左岸から、タイ軍を撤退させるよう、要求したが、タイが拒否したため、フランスは、軍事行動を起こす。
パークナーム事件と、呼ばれる事態である。

結果、タイ側は、フランスの要求を全面的に、受け入れる。
300万フランの賠償金と、メコン川左岸と、メコン右岸25キロ地帯と、カンボジア北西部の、非武装化と、徴税権喪失である。
これにより、メコン河左岸は、すべて、フランス領となり、メコン河が、国境線としての、機能を持つことになる。

ただ、フランスは、これだけに、留まらなかった。本当は、タイ全土を、植民地化したかったのである。
しかし、1886年に、ビルマ全土を植民地化した、イギリスがいる。
両国は、1896年、英仏宣言を発表して、チャオプラヤー川流域を、緩衝地帯とする。
この、緩衝地帯は、バンコクから、北部タイまでは、含まれていたが、メコン河流域の、東北部、マレー半島は、除外された。

東北部と、マレー半島に、英仏が、それぞれ、進出しあうことを相互に容認する内容である。

東北部とは、イサーンのことである。

1909年の、領土、割譲によるまで、東北部は、タイではなかったのである。
およそ、100年前に、現在のタイの地図に、入ったのである。
不運である。
その時、ラオスから、タイとなった東北部に、人々が、流れたという。
先祖に、ラオス人が、多いはずである。

2008年02月21日

タイ・ラオスへ 4

タイ・ラオスへ 4

東北部、イサーンは、100年前に、タイになった。
それゆえ、そこに住む者は、複雑な心境を持つ。

最初のホテルの時に、レストランの女の子に、タイ人かと、尋ねると、全くのタイ人で、ラオ人ではないと、きっぱりと言った。それ程、タイ人としての、誇りがある。
彼女は、三代目あたりであろう。しかし、生まれながらのタイ人であると、信じる。

私が、ノーン・カーイで、探っていたことは、どうも、タイではないような気がするのは、何かということである。

微笑みの国タイという、イメージは、ここ、イサーンには、全く無い。

笑顔が、極端に少ないのだ。
さらに、言葉遣いである。
早口である。タイ人のように、ほんわかとしているものではない。
まくし立てるといった風である。

こちらが、笑顔で、近づかないと、笑顔にならないのである。
勿論、例外は、ある。ホテルや、ゲストハウスの人である。また、食堂経営の人。それでも、何度目かで、漸く、安心した、笑顔を見る。

警戒心が強いという訳ではない。そういう、体質なのである。
しかし、皆、人は良い。

イサーンから、バンコク、チェンマイに、出稼ぎに出る人が多い。彼らは、イサーン人と、呼ばれる。少しの、蔑称を込めてである。
書きたくないが、売春婦の、産地とも言われる。

無愛想であるということを、体験した。
マッサージは、安い。一時間、150バーツからある。約、400円と少しである。
ある、美容室兼用の、マッサージ店に行った。
タイマッサージを一時間、状況によっては、オイルマッサージを一時間と、決めて行った。

店に入ると、オーナーの女性が、カッテングの最中である。
私が、入ると、挨拶したが、一人の女の子は、入り口のソファーに、座り、動く気配無い。
少し、立っていると、オーナーが、英語で、マッサージと、訊く。
オーナーたけが、英語が出来る。

女の子に、何か言うと、その子は、やっと、立ち上がり、私を二階に案内した。
タイマッサージ、ワンアワーと、言うが、通じない。
時計を指して、二時間を示すのだ。
下手で、二時間もやられては、たまらないと、一時間を示すが、解らない。
その内に、下に戻り、オーナーが、やってきた。オーナーが、時間を確認して、女の子に言う。

漸く、その子の、マッサージが、始まった。
普通は、足から始めるが、彼女は、肩から始めた。
まずまずの調子である。

上手ではないが、その雑さに、私のようなコリを持つ者は、丁度いい。
下手に、やさしくやってもらうと、逆に、具合が悪くなる。

終わった。
そこで、物は試しと、オイルマッサージを一時間、頼んだが、言葉が通じない。
私は、全身を使い、表現したが、解らない。
後で気づくが、アロマだったのだ。

結局、オーナーの女性を呼んだ。
話はついた。
今度は、彼女の指示である。
服を脱げという。
私は、パンツひとりになった。憮然としているので、パンツもかと、仕草で表現すると、首を振る。要するに、無愛想なのである。

ところが、オイルマッサージの時に、彼女は、もう一人の女の子を呼び、二人で、するではないか。それが、また、上手なのである。
単なる、撫で回すものではない。コリを、取るのである。
これで、無愛想も、許せた。

だが、清算の時に、600バーツを請求された。少し、ボラれたのである。
約、2000円である。
勿論、そこには、二度と、行かなかった。

典型的な、イサーンの人を見た思いがした。

9日の朝は、ゲストハウスで、アメリカンスタイルの朝食を取ったが、100バーツである。お客は、ほとんどいない。330円の食事は高い。
向かいの食堂に入ると、その半額程度である。私は、一度で、ゲストハウスの朝食をやめた。

午前中、私は、メコン河を眺めて過ごした。

言葉が出るままに、歌を詠む。

何ゆえに 我タイにいる 日の本の 大義を求めて ここにいるなり

実に、傲慢な歌である。

川ひとつ 隔てた国を なんとする 国境なくば 親しきものを

老いの口 ラオス貧しく してありて 手出しできぬと 足を留める

東北を イサーンと呼んで 吐き捨てる 微笑の国も 差別ありてや

ひとりにて 出来ることなど 限られて 奉仕の心 萎える時あり

今回、持ってきた本は、西行の山家集のみ。しかし、読たいとは、思わない。
昼近くなると、気温が、ぐんぐんと、上がるのが解る。夏の気候である。

川沿いに、お土産小路がある。それが、延々と続く。
面白い。
その大半の品物が、中国産である。
後は、ラオス、ベトナム、イサーンの民芸品である。
値段を見て、日本円にして、歩くと、頭の体操になる。

これも、あまり書きたくないことだが、中国人が、おおよそ、席巻しているのが、解る。
大型の店は、中国人の経営である。
そして、丁度、中国のお正月の最中だった。
町の至るところに、新年を祝う言葉を書き付けた、旗や、幟が立つ。
ある、道路などは、すべて、中国の新年を祝う旗が、道に、横断幕になっているから、驚く。
中国人を、無視出来ないということだ。

ただし、それを言えば、日本も言われる。
電化製品、自動車、食品に至るまで、日本製品が、大半を示す。
驚くべき、席巻である。

そして、私は、一つの、問題の解決を見た。
何故、日本が多くの支援をするのかということだ。
つまり、日本企業の進出のために、日本政府が、支援して、後押しするというものだ。
現地で、作らせても、日本企業である。

税金というもの、そのように、使用されている。
大企業優先であることは、事実である。しかし、世界的企業を、育てるために、必要なことでもある。それを、国内の問題と、どう、折り合いをつけるのか、ということである。

ゲストハウスには、英字新聞が、多数ある。
それらに、目を通す。私の英語力では、読めないが、ジャパンを探す。無い。経済新聞のみに、日本企業の不祥事の記事がある。
それだけ。

陽気なドイツの、じいさんに、声を掛けられた。
寒くて、ゆかたを、羽織っていたゆえ、日本人と、理解された。
英語で、捲くし立てる。
解るか、と、言われて、頷くと、さらに、喋る。
日本とドイツは、世界で、最も強い国だと言う。
日本の、長崎と、東京に、カンパニーをやっている、友人がいるらしい。

このように、欧米人の、おじいさんが、実に、多い。そして、現地の、タイ女性を連れている。これも、老人介護の一つであろう。

オーストリアからの、老人にも、話し掛けられて、適当に、応えていた。彼らは、自分が、喋れば、満足するのである。どこの、国の老人も、一緒である。

2008年02月22日

タイ・ラオスへ 5

タイ・ラオスへ 5

街角で、子供が、とうぎひの茹でたのを、売っていた。
値段を訊く。
小学生くらいの、男の子である。
トェンティと、指折り数えた。

私は、小銭を、差し出すと、10バーツ硬貨を、一つ取った。
テンだったのだが、まだ、英語の数が、よく解らないのだろう。

その、とうきびと、少し歩くと、焼き芋が、売っていた。
日本の、サツマイモと同じである。
一つの、値段を訊いた。
タイ語である。よく解らない。小銭を出すと、7バーツを取った。

それを、部屋で食べた。
旨い。
とうきびは、子供の頃に食べたものと、同じ、味だった。そして、焼き芋は、中が、黄色で、旨い。

タイだから、安心して、お金を見せることが、出来る。
財布の中味を見せることは、海外では、危険である。
しかし、私は、大半、こうして買い物をした。

皆、一々説明して、お金を取り出した。
小銭は、10バーツ、5バーツ、1バーツである。それを、私に確認させて、取るのである。

お札は、20バーツ、50バーツ、100バーツ、500バーツ、1000バーツである。

お札を、使うと、小銭が貯まるので、小銭も、使うようにする。
一番安い水は、ペットボトル6本で、20バーツである。
食堂の水は、大半が、10バーツである。

現地で、ろ過して作る水は、500ミリリットルで、6バーツである。
約、20円。

土曜の夜、私は、トゥクトゥクの運転手に、ナイトバーを紹介してくれと、乗り込んだ。
夜の街である。
ゲストハウスの、周辺も、夜になると、小さな電球が点滅して、それらしくなるが、ノーン・カーイの飲み屋街に、出てみたくなった。

普通では、面白くないので、レディボーイバー、ゲイバーと、言うと、驚いた。
しかし、二軒並びの、ゲイバーに、連れて行かれた。
ところが、ゲイは、一人もいない。

ビールを頼んで、少年たちと、話をした。
彼らは、体を売る、普通の少年たちである。
20歳から、27歳程度の、幅である。

だが、20歳の子は、17歳と、私に言う。後で来た子が、嘘をばらした。ただ、悪気ではない。彼らは、英語も通じないので、私の質問に、ちんぷんかんに、応える。

その、飲み屋街は、何と、三軒のみで、後は、二つのゲイバーの前に、レディバーがあるだけである。

私は、一時間ほどいた。
帰りの車を、どうするかと、考えていると、一人の男の子が、やって来た。
ボーイである。
一番、しっかりとした顔付きをしていた。

そのバイクで、ここまで、行ってくれるかと、ゲストハウスの、名刺を見せた。
すぐに、オッケーと、言う。

彼らが、付き合うのは、多く、欧米人である。一晩、最低、1500バーツのようである。
だが、ゲイは、一人もしないという。金を得るためだけに、体を売るのである。

バイクの後ろに乗ると、彼から話しかけてきた。
明日の予定を、訊く。
私は、リラックスタイムで、ゲストハウスで、休んでいると言った。
彼は、バイクで、町案内をしたかったようである。
ガイドで、金を得ようとしていた。

私は、もう、市内見学は、嫌なので、その話には、乗らなかった。

ゲストハウスに着いて、私は、100バーツを彼に渡した。
喜んだ。
二度と会わない相手であろう。

ビールを飲んで酔うのであるから、矢張り、異国である。一本飲むのに、やっとである。
しかし、日本酒を飲みたいとは、思わない。不思議だ。
矢張り、酒は、雰囲気で、飲んでいるのだろう。

ただ、ゲストハウスでは、私の話題が上っていたようだ。
トゥクトゥクの、運転手が、ゲストハウスのオーナーの知り合いで、私を、ゲイバーに連れたと行ったのだ。
そこで、私が、ゲイボーイを、連れてくると、思ったらしい。
勿論、部屋に、連れて帰っても、問題はない。
オーナーが、私が庭に入ると、何か言った。
よく解らない英語である。
すると、横から、英語の堪能な、お手伝いの、青年が出てきて、私が、男の子を、テイクアウトしたのかと、尋ねる。
ノーノーノーと、私が言う。
危ないことを、して欲しくないという、思いなのだろうと、思った。

最初の夜、私の隣の部屋で、欧米人の男が、女を連れて帰り、激しい行為を始めた。それは、朝方まで、続いた。
一度、目覚めて、朝、目覚めると、まだ、続いていたから、驚いた。

そういうことが、普通なのだろうが、まさか、ゲイボーイを連れ込むとは、考えていなかったようである。

私は、オーナーと、青年に、グッナイトと言って、部屋に上がった。
シャワーを浴びてすぐに寝た。

夜風は、冷たいが、私は、少し窓を開けて寝た。
野中がいたら、完全に閉めるたろうが、私は、どうしても、少し空けておきたいのだ。

翌朝、激しい、鳥の鳴き声で、目を覚ました。

すぐに歌が出た。

朝に鳴く 目覚めの一声 あざやかに 異国の鳥の その強烈さ

名も知らぬ うぐいすに似た 異国鳥 大和心を かきたてられし

私は、そのまま、浴衣を羽織り、階下に降りた。その鳥を、見たかった。しかし、鳥の姿は、見えない。

そのまま、ゲストハウスに置き付けの、インスタントコーヒーを飲んだ。
暫く、そうして、朝の気配を感じて、楽しんだ。

鳴く鳥も 涼しげにあり タイランド 吹く風薫 メコンの流れ

大陸は 国の境に 妙ありて 微妙な意識 聞けば驚く

その日の朝は、歌遊びをした。

国離れ 国見る目が さわやかに 国を思うて 何が悪い

川一つ 挟んで国境 作る人 その賢明さ 見事なりけり

旅人の 我は読むこと することなく ただ見つつと 見尽くすなりて

あまりにも 悲惨なるやと 語る人 それ聞く我は ラオスに入らず

ただ今は、日本にて、引きこもりが、多いと聞く。
家の中に、籠もっている。しかし、それとは別に、外こもりという、現象があるという。
つまり、一定期間働いて、そのお金で、タイに長期滞在するというものだ。

榊原夫妻も、そういう話をしていた。
ただ、その人たちが、年を取った時、どうするのだろうという。
若い時は、いいが、年老いてゆく。その時、彼らは、どうして、老後を過ごすことができるのかと。

非常に、難しい問題である。

日本に無いものを、求めて、タイに逗留する。
物価も安い。しかし、いつまでも、そうしては、いられないのではないのか。

次第に、タイも、物価が高くなっている。
榊原さんの知り合いも、タイに、家を持っているが、売りたくても、高くなって、売れないという。
持ったのは、いいが、手放して、日本に戻りたいと思っても、うまくいかないのだ。

そんなことを、考えていると、川柳が出て来た。

ひきこもる 男も異国で 女買う

更に、歌一首

ひきこもり 今外こもり タイランド 日本の男の 逃避行なり

2008年02月23日

タイ・ラオスへ 6

タイ・ラオスへ 6

10日の日に、新しいマッサージ店に、出かけた。
地元の人が来る店である。
一時間、150バーツと、安い。約、480円。

程よい、愛想のおばさんが、担当だった。
足から、よく揉み解す。実に、丁寧に、指圧する。
矢張り、タイマッサージは、足のマッサージが、主である。下半身は、実に、有意義である。ただ、肩が、惜しい。肩の凝りを取ることが出来れば、最高だ。

おばさんは、日本語を、三つ知っていた。
気持ちいい。ありがとう。痛い。
私とは、英語で話した。お互いに、あまりよく出来ない英語なので、通じるのである。

私は、そこに、二日通った。

足をよくよく揉まれると、全身の血行が良くなる。そして、体が、軽くなる。
ただ、今までのタイでは、肩凝りを、あまり覚えないほど、暑いのだが、ノーン・カーイでは、寒さで、肩が凝るのである。

最初と、最後に、お茶を出してくれる。
ジャスミン茶だと思う。

お客は、皆、地元の人である。
二回目の時、欧米人のおじさんが、フットマッサージをしに来た。
それ以外は、地元の人。

その後、部屋に戻り、暫く、休んだ。昼食も、買ってきた、パンなどを食べて過ごした。

持ってきた、西行の、歌集を読み始めた。
珍しいことである。
旅の間は、あまり、本を読まない。
読むより、見る方が楽しいのである。

ノーン・カーイは、見るものが少ない。
メコン河のみ、眺めていても、飽きない。

西行の歌は、素直で、解り易い。それは、万葉に続くものである。
私は、西行を、万葉の精化とみる。

万葉集が、西行で、一つ完成するのである。

西行は、生まれ持っての、歌詠みである。
小細工無しの、歌詠みである。
口から出る言葉、そのままが、歌になる。

23歳で、出家し、旅をして、歌を詠む。
日本の精神の底流に流れる、もののあわれ、というものを、歌で表現する。
いずれ、私の、もののあわれについて、の中でも、触れることになる。

西行も 詠まざりしなり 東南の 国の風情を 我は詠むなり

メコン河 西行歌集を 詠ずれば 大和心に 流れも変わる

部屋の中で、辛吟して作る、藤原定家のような、歌詠みもいる。それも、ありである。
多くの日本古典文学は、定家によって、現代に、継承されている。その功績は、非常に大きい。そのような、文学者、歌人もいる。

そして、旅をして、歌を詠む、西行のような歌詠みもいる。

それぞれが、いい。

野中から、電話が入る。
ラオスからである。
ラオスの首都、ヴェンチャンから、バスで三時間の町に行き、そこから、山に向かい、中腹の村のゲストハウスにいるという。

子供服の、配布の状況を聞く。
ゲストハウスの、付近も、貧しく、ある二人の姉弟は、親を亡くして、村の老人たちによって、育てられているという。
子供服を、二三持って行き、まだ、必要かというと、必要だと言うので、皆持って行くと、村の人々が、待っていた。
そこで、皆、広げて、村の人に任せると、取り合うようにして、無くなったという。

持っていって、本当に、良かったと言う。
この上の村は、まだ、貧しい所だが、今回は、それ以上に行かないとのこと。

実は、ヴェンチャンから、バスで三時間の町は、欧米人たちで、大賑わいであるという。
麻薬と、セックスである。
勿論、日本人もいる。

警察官がいない、町だという。
取り締まる誰もいない。
そこで、皆、麻薬とセックスを楽しむために、その町に集うのである。

野中のゲストハウスにも、二組の、日本人がいた。
野中が、ノーン・カーイに戻ってから、色々と、話を聞くことになる。

子供服は、まだまだ必要であるらしい。
兎に角、物が無いという。
服の無い子は、裸であるが、暖かいから、救われている。

それでも、子供たちは、楽しそうであるとのこと。

あまりにも 貧しきゆえに 貧しさを 知らぬ子たちが 楽しく遊ぶ

私は、その電話を受けて、少しして、夕食のために、近くの、タイレストランに出た。
そこは、地元の人が、集う店だが、精一杯、欧米人向けにしているのが、解る。
メニューは、タイ語と、英語で書かれている。

私は、もち米と、野菜スープを注文した。
ところが、野菜スープは、塩が効いて、しょっぱいのである。
ダシの味がしない。
少しつづスープを飲み、もち米を食べる。
何とか、食べ終えて、早々に、店を出る。
45バーツ、約140円。
安いが、味は、酷い。

そのまま、メコン河のイミグレーションの通りの、店に買い物に行く。

二軒続けて、小売店がある。
同じような物を売っている。
私は、手前の店に入った。

ビールと、ピーナッツ、パンを少し買う。
突然、日本語が飛び出した。
その店の主人である。

八年間、日本に出稼ぎに出ていたというから、驚いた。
大阪、川崎などに、いたという。

その時に貯めた資金で、きっと、この店を開店したのだろう。

この地から、日本に出稼ぎに行くという。
驚きと、感激である。
出る時に、よろしくお願いしますと、声を掛けられた。
仕事の時に、覚えたのだろう言葉であろうか、驚いた。

私は、毎日、その店に買い物に行くことにした。

南国の 四季無き国の 夕風も 国思うべき 寒き風吹く

国境の 町は静かに 暮れ行きて 家路急ぐに 国境なし

どこで、どんな出会いがあるかもしれない。
それを、不思議と思えば不思議である。
ノーン・カーイは、どうですかと、尋ねられて、私は、いい町です、と答えた。
もう、来ない町かもしれないが、そういうことが、礼儀である。

河を見る。

ノーンカーイの 夜風に触れる メコン河 岸辺向こうに ラオスの灯あり

2008年02月24日

タイ・ラオスへ 7

タイ・ラオスへ 7

12日、野中から、明日帰るとの、電話あり。
私も、一人で三泊した。
今日で、四泊目である。

朝は、日本に電話をしてみた。携帯電話から、簡単に掛けられるのである。
本当に便利になった。

朝は、ゲストハウスのコーヒーと、ゲストハウスの前にある、手作りジュースの店で、絞りたての、みかんジュースを買う。
その店の、女主人は、全く愛想が無い。憮然としている。
10バーツを置いて、みかんを指すと、憮然として、絞ってくれる。
小さなビニール袋にいれた、ジュースを持って、部屋に入り、ストローで飲む。
みかんは、日本のみかんと、同じである。ただ、種が入っている。

ゲストハウスにある、コンピューターで、インターネットを見る。
ホームページを確認するが、日本語で、打ち込むことができない。
30分程見て、20バーツを払う。

今日は、川沿いの、お土産小路に行き、何か、買おうと思う。
基本的に、人に、お土産などは、買わない。観光旅行ではない。必要な物を、買う。

この、お土産小路には、面白いおばさんがいる。
ギターを持ち、肩のところに、マイクをつけて、歌うのだ。マイクは、効いていない。単なる飾りである。
その歌である。
ただ、アァー、アァーと、それを、繰り返すのみ。
ギターも、形だけ。それだけの芸で、勝負である。

今日で、三度目である。
私を見ると、笑顔になる。
初めて、5バーツを缶に入れる。
すると、即座に、その、小銭をポケットに入れる。

タイの、物貰いは、曲者が多いと、聞いていた。
それで十分、生活出来る。さらに、良い家に住んでいる者も、いるという。

だが、彼女は、一発芸での、勝負をしているから、大したものだと思う。
アァーアァーである。
それで、お金を得られるとは、玉である。

それとは、別に、カラオケを背中に背負って、歌う、目の不自由な、男がいる。それが、また、旨い。上手である。
最初は、歌のテープを流しているのかと、思った。しかし、本当に、歌っているのである。
感激した。

小路には、同じ物を売る店が多い。
そこで、同じ物の値段で、違いを見て歩く。
小物入れが、一つ10バーツである。それを、見た。6つで、55バーツ。それが、50バーツの店がある。
行きつ戻りつして、私は、6つで、50バーツの店で、買った。
店員が、一つ得だと、身振りで言う。その通りである。

私は、それを、薬入れにするために、買った。ただ、余れば、誰かに、お土産として、上げてもいい。

その途中で、昼の食事を買う。
フランスパンの、サンドイッチを買う。
25バーツである。きっと、食べきれない量だと、思う。
途中、中国系のスーパーに立ち寄り、色々と見て回る。
日本のダイエーのような、安売りの店である。
サンマの缶詰を買ってみた。10バーツと、安い。そのまま、缶に、サンマと、書いてある。興味である。そして、水を二本買った。

部屋に戻り、パンと水で、昼の食事をする。
そして、サンマの缶詰である。
開けて、爪楊枝で、サンマを引き上げてみた。小さい。それが、3つのみ。後は、汁である。
これだけかと、考えた。
少し考えて、タイの食事は、ご飯に、汁を掛けて食べるのが普通である。つまり、身は、3つでも、汁で、ご飯を食べるのだと、納得した。

味は、悪くない。しょうゆ味である。

フランスパンの方は、矢張り、半分で、十分だった。

ハムと、干し肉と、玉ねぎが、挟んであった。それに、小さな袋の、タレをつけて食べる。そのタレが、特性で、辛い。ところが、それが、美味しく感じられた。
魚醤に、辛子などを入れて作る。
それぞれの店で、少しつづ、その味が変化する。それが、面白い。

食べてから、私は、少し体を横にした。

夕食のことを、考えるから、また、面白い。

旅は、食べることである。
ただ、私の場合は、安くて、現地の物という、定義であるから、高級料理店には、行かない。また、行けない。

ノーン・カーイでも、高級ホテルは、ある。
そこに行けば、それなりのメニューがあるだろう。
だが、行く気にも、なれない。

以前、チェンマイのホテルで、日本食のレストランに行った。
日本並みの料金である。
味は、駄目。
完全に、駄目。それで、料金は、現地の価格の何倍である。
二度と行かないと、決めた。
それは、現地の物で、食あたりしたせいで、ホテルの和食と、思ったのである。
しかし、それ以後は、止めた。

さて、ここで少し、イサーンと、タイとの、相違を見ることにする。

それは、信仰形態である。
ゲストハウスの近くにも、お寺があり、中でも、僧を養成するお寺もあった。
小僧さんたちを、多く見た。
また、地元の食堂に、托鉢に来ている、小僧さんたちもいた。
おおよそ、仏教徒であろうが、他の地域と、その温度差が違うと感じた。
熱心さが違うのである。
それ程、強い意識は無い。それでは、元からの信仰があるのかといえば、そうでもない。

バンコクの空港などでは、僧が、警備の者に、何か尋ねると、帽子を脱いで、対応するほどの、姿勢だが、それ程のものはないようである。
そして、仏教の前の、ピーという精霊信仰である。
あるにはあるが、それ程、熱心ではない。
ゲストハウスの、玄関の横にも、ピーの、祠があったが、一度も、そこに、供え物を置いたのを、見ていない。

国王の肖像も、他の地域より、少ない気がした。

勿論、道路を車で走ると、国旗と、王旗が、たなびいている。これでもか、というほど、掲げられてある。

お寺には、必ず、国王の、出家した時の写真もある。

だが、少し違う気がする。
まだ、私の、滞在期間が、短いせいもあろうと思う。

イサーンの人々は、生活することに、追われて、そこまで、手が回らないのではないかと、思えた。つまり、余裕を持てない。
日々が、戦いである。生活との。

また、中国系の活躍が、目覚しく、それに、飲み込まれているのかもしれない。
ゲストハウスには、国王の写真も、仏教関係のものも無かった。

ラオスから、1975年に亡命して、ワット・ケータという、異色の寺院を作った、ルアンブー・ブンルア・スラリット師の寺院を見た。
仏教というより、ヒンドゥーの影響が強く、驚いた。
色々な、像を見た後、寺の中に入った。
一階は、仏陀の像があったが、二階に上がると、そこは、ヒンドゥーの世界である。
仏陀を、ヒンドゥーの一部と、捉えていると、感じた程である。

また、メコン河に、生息する、魚の一種である、パヤナークという長い魚の像が多く、信仰の対象となっている。

七頭の、パヤナークの像の下に、仏陀を置いている像などは、明らかに、仏陀の保護として、扱われている。
日本で言えば、八大竜王のようである。

きっと、生命力が、旺盛なのであろう。
町の至るところにも、パヤナークの、像があるのだ。

ピーという精霊信仰より、パヤナーク信仰の方が、勝っているようである。

原始信仰を観る時、その地の、生き物に、一種の呪術的なものを、投影する。
メコン河、周辺は、この、パヤナーク信仰が、それに当たるのだろう。
ラオスの方は、どうかと、興味がある。

中国寺院もあり、私は、そこに行かなかったが、道教、儒教のものだろう。

ビルマ、タイ、ラオス、カンボジアは、仏教が主である。
しかし、歴史を見ると、侵略、戦争の跡が多い。
歴史家は、マンダラ型の、国家という、表現を使う。
王室を中心に置いた、マンダラである。

それが、紆余曲折を経て、現在に至る。
後で、それについてを、書くことにする。

兎も角、イサーンは、他のタイと、違う雰囲気があるということだ。

ピーの、祠は、ほとんど見ないといってもよい。
ただ、面白いのは、祠があり、仏陀が置かれている前に、髪の長い、女の像があり、それが、何を意味するものかが、よく解らない。
野中が、ラオスでも、それを、多く見たという。
何でも、仏陀を、助ける者のようである。
仏陀に、乳粥を差し出した、スジャータという、娘かとも思ったが、違うらしい。

タイの仏教は、小乗であるが、多分に、ヒンドゥーの影響を受けていると、思われる。
恐るべし、ヒンドゥーの魔力である。

2008年02月25日

タイ・ラオスへ 8

タイ・ラオスへ 8

夜に、もう一度、地元の人の行く、タイレストランに出向いた。

今度は、牛肉のミンチの炒め物と、もち米を頼んだ。
最初に、もち米と、大量の生野菜が出て来た。
生野菜は、水で洗っている。
少し心配だが、食べる。

ミンチの炒め物が出てきた。
何とも、不味い。
しょっぱいだけである。それを、生野菜と食べろ、ということなのだろう。
交互に食べる。
もち米だけは、美味しい。

生野菜は、キャベツ、ハニーレタスのようなもの、そして、いんげんの、生である。いんげんの生は、さすがに食べられなかった。

それでも、50バーツである。約、170円。
実に、安い。矢張り、地元のレストランである。

そのまま、日本で働いていたという方の店に行く。
ビールと、水を買う。
店番は、子供がいた。主人は、いなかった。

部屋に入ると、八時になっていた。

少し歌を詠む。

父母の 姿をみたり メーサイの 貧しき親の 生きる情熱

死にたくも 生きたくもあり この憂い 深き病に 陥る我は

さらにまた 旅行く空の あわれさに 流れる雲を 追い行く我は

通じぬは 言葉なりせば 同じ血の 人の思いは 通じぬわけ無し

微笑みは 国境越えて 共通の 人の心を 開く術なり

腹が、収まってきたので、ビールを飲む。
私は、酒を飲むためには、物を食べない。食べると、飲めなくなる。受け付けないのだ。
酒を飲んでいて、一口でも、食べると、もう、酒は、嫌になる。

一人で、夜を過ごすと、様々なことを、考える。
実にいい。

電話に、煩わされることもない。
好きなだけ、考えることが出来る。

世界の、グローバル化は、世界の縮小である。
世界の一地域で起こることが、即座に、世界に広がる。
世界は、狭くなっている。
一つの国の問題が、その国だけの問題ではなく、世界の問題になりえる。

そこに、大きく立ちはだかるのは、価値観である。その価値観を、宗教が、負う。
問題は、それである。
主義、イデオロギーというものも、宗教と同じである。

何とか、それを超えるべくの、働きかけが必要である。
つまり、それらを、包括して、超える行動である。

それが、人道支援である。また、そうでなければならない。
だが、それにより、逆に、宗教、主義の、偏狭さを、増す場合もある。それには、注意が必要である。
人道支援を受けて、その裏では、軍備を充実させるという国もある。

政府支援は、書いたように、大企業の世界化を、推し進めるものである。それも、よし。
それでは、私のように、個人や、民間の支援は、人と人の、結びつきを主にして、ある感情的、親密感を作るものである。

それが、後々に、日本と、その国との関係を良い方向に、向かわせると、信じる。
それが、大きな目的である。
私が言う、千年の日本のために、である。

国も、最後は、個人的感情に、動かされる。

良いことをするということには、やや、偽善的な感情の、抵抗感がある。
それは、私も、じゅうじゅう、承知している。

例えば、野中が戻り言う。
子供服を皆に、上げる。配布する時に、勇気がいったと言う。
つまり、良いことをしているという、偽善的感情である。
昔の、自分なら、鼻で、笑った行動であると。

しかし、実際に、それを実行して、相手が、非常に喜び、それが必要であることを、実感として感じて、それは、実に有意義なことであると、気づいた。

その子供服は、人から、貰ったものである。それを、ただ、渡すのみである。
こういう、旅の仕方もあると、思ったという。

日本人旅行者にも、多く出会ったが、もし、彼らも、子供服を持参して、村の人々に、配布したら、また別の付き合い、村人との、触れ合いが、出来たはずであると言う。
そして、それは、有意義なことである。

必要な物を、必要としている人に、支援する。
何の恥ずかしいこともない。

実際、野中に対して、村人は、その対応が、全く変わったという。
村を、見学するのに、抵抗がなくなった。
よそ者意識が、無くなったのである。
知り合いの関係になったという、僥倖である。

麻薬と、セックスを求める日本人旅行者に、新しい、旅の喜びを、伝えたいと、野中が言った。それだけではない、旅もあると。

使用しなくなった、子供服を持参して、配布するだけで、新しい関係が築けるのである。
そして、荷物は、そこで、無くなる。手ぶらになるのである。

私が、今回、ラオスに入らないということで、野中は、新しい体験と発見をした訳である。
ただし、私は、次には、タイを通らず、直接、ラオス入りして、支援活動をしようと、考えた。

無視、出来なくなったのである。

個人としての、活動を、これ以上に広げることは、無謀だと、思いつつ、矢張り、性格である。何とか成るだろうという、楽観である。

実は、寄付商売とか、NPO商売というものがある。
それで、殺された人もいる。
例えば、ベトナムで、学校建設をしていた、NPOの男が、行くへ不明になった。殺されたのだ。
彼は、ベトナムに、学校を作ると、日本にて、寄付を募り、一応は、学校を建てた。ただ、建てただけである。そして、更に、募金運動をして、金を集めた。
その地域の人には、実に、傲慢不遜に接していたという。
ところが、彼の本性が、ベトナム人に、見抜かれた。単なる、金目当ての、行動であること。学校を建てても、それは、使用されていないのである。
地域の人の、不信と、反発を招き、遂には、殺されるという事態になったのである。

こういう、団体は、多い。
表面は、確かに、ボランティア活動であるが、裏は、商売なのである。
金を、いかに、人から、巻き上げるかということである。
私は、それを、寄付商売と言う。

勿論、私も、その一人である。
ただ、寄付する人が、私と、行動を共にして、私の行動を確認すれば、いいことである。
ただし、同行であるから、私と同じように、安宿に泊まり、私と、同じ物を食べて、貰う。

ある団体は、その団体の施設に、人を招くが、高級扱いをする。
そんなことで、誤魔化されるのである。

そこの人と、同じように寝泊りし、同じものを食べることで、より、支援の様を理解すべきである。

そこで、初めて、支援することの意義と、現状を知ることが、出来るというものである。

タイ・ラオスへ 9

タイ・ラオスへ 9

12日である。野中がラオスから、戻る。
帰国の日が、近づく。

朝は、ゲストハウスの庭で、コーヒーを飲んで過ごした。
思いつく、歌を書き付ける。

一人の男が、私に話し掛けた。
アムステルダムから来た、中年の男である。

私に、何を書いているのかと、問う。
私は、日本の古い歌を、書いているというと、それは、何かと訊く。

英語で説明するのが、難しい。
要するに、日本の古い歌の形があり、それを書いているのだと言うと、シンガーかと、訊く。
歌手ではなく、ポエムだと言うと、少し納得したが、古い歌という、言い方を、アイドントノウと、言うのである。古い形式の歌の形と、説明すれば、よかったと、後で気づく。

彼は、奥さんと、タイを旅していると言う。
奥さんを連れて旅する人は、珍しい。
若いカップルや、子供づれは、いることは、いるが、中年は、現地の女、タイ人の女を連れていることが、多い。

私も、もう少し英語が出来ると、話し合いが、スムーズにゆくと思うが、あまり、覚える気は無い。
それに、不自由しない。

彼は、何か、色々と話したが、私の方は、ただ、相槌を打つ程度である。
何となく解るような、感じである。

タイ語も、あまり、覚えない。
覚えられない。
発音が難しすぎる。
語学というのも、才能である。私には、語学の才能は無い。

才能があれば、一度で、覚えるものである。

好きな料理の名前も、店の人が、私に教えるが、覚えない。
私の好きな、サラダは、パパイヤサラダで、甘酢のソースで作る。
ソムタムというが、覚えられない。
これも、野中に聞いて書いている。

注文するのに、身振り手振りでする。
店の人は、それで、何とか想像してくれる。
鍋を手で表し、火をポッポと、手で表現すると、それに似たものが出るというもの。それも、楽しい。

地球の歩き方の本を持って、料理の図を見せることもあるが、無いと言われることもある。
その土地の料理ではないということだ。
だから、間違いもある。地球の歩き方である。
でも、そんなことは、どうでも、いい。

少しの英語で、何か質問して、楽しむ程度が、私には、いい。

後は、向こうの人に、日本語を覚えて貰う。それが、いい。

一度、部屋に戻り、再び、食事をするために、出た。
近くの、食堂である。
現地の人の食堂だ。

店先で、色々な肉を焼いている。
私は、ソーセージと、例のサラダと、もち米を注文した。
相変わらず、指差してである。

それで、十分、満腹になる。
45バーツ。約、150円程度である。
実に、安い食事である。

もち米は、半分程、余したので、持ち帰る。
おばさんは、必ず、それを、袋に入れてくれる。

部屋に戻り、ベッドに体を、横たえる。

そうして、寝てしまった。

目覚めて、西行を読む。
感じた歌には、線を引く。
西行を読むと、歌が出来る。

歌詠みは 心素直に 誠なり 作為の技も 捨てて立つなり

そうしている内に、日本のことを、思う。

民族の 伝統卑下し どこへ行く 行き先無くし 喜ぶ愚衆

そうそう、ここで書くことが、あった。
丁度、ノーン・カーイでは、市議会議員選挙であった。
選挙運動が、行われていたのである。しかし、その様、日本と、全然違う。
日本では、何々党の誰々ですと、繰り返すが、こちらでは、音楽を流す、車に、写真を貼って回るのである。
その音楽が、演歌なのである。
それが、面白い。

音量規制がないゆえに、大音響で演歌を、流す。
日本の演歌が、タイに流れたと言える。

今は無き 日本の演歌 ここにあり 流れ流れて ここに至れり

タイにては 演歌主流で 芸術と あいなりたりて 威風堂々

兎に角、演歌なのである。
最初に泊まったホテルで、流れていたのが、クラシック音楽であったのが、不思議な程であった。

夕方、野中が、戻るので、私は、ゲストハウスの庭で、コーヒーを飲みつつ、待った。

四時頃、野中が、戻った。

旅の相棒が、戻るのは、嬉しい。
早速、ラオスの話を聞く。

野中が、行った村は、バンビエンという村である。
その村の、山の中腹にある、ゲストハウスに泊まった。
バンビエンは、麻薬とセックスの町で、欧米人で、たいそう賑わっているという。

このエッセイを、ラオスの政府が読んで、麻薬撲滅に着手したら、面白いが、まず、読まないだろう。

勿論、日本人もいる。
以下、省略する。

部屋に戻っても、野中の話が、続いた。
これから、ラオスに支援活動をするか、否かと、私は考えたが、前に書いたように、することになるだろう。

日本の企業で、ラオスに、学校建設をしている、企業がある。
これからは、企業イメージを高めるためにも、企業の支援活動が、注目されるだろうと、思える。
だが、人と人の関係である。
建物だけを建てて、善しとするものではない。
如何に、人と人を結びつけるか、である。

野中が、今日は、一日何も食べていないと言うので、早いが、夕食を食べるために、出た。
一度、野中と、行った、店に向かった。

中国人が食べていた、鍋物が、食べたくて、指差し、注文した。
中国人は、正月のお祝いに、食事に来ていると、店の女の子が、教えてくれた。
二つのテーブルを使っての、大家族である。お土産小路で、店をしているという。

そして、私は、その家族が、食べていた、ソーメンのような、緬を注文した。彼らは、それを、そのまま食べているのである。
出てきたものは、ソーメンそのままである。

食べてみると、ソーメンである。
野中が、鍋の汁を入れて食べる。旨いというので、私も、真似をした。
日本のソーメンと、変わらない。

鍋は、野菜が多く、味が薄い。
それに、好みで、辛いソースをつけて食べるのである。

ほうれん草のような、野菜が多く、キノコ、マッシュルームのようなもの、である。
エビが多く入っていた。出汁にしているのだろう。しかし、どうも、海のものである。海は遠いから、輸送してきているのだろう。

店の人は、英語が全く通じない。野中が、タイ語で、話し掛ける。
女の子は、店主の娘だった。手伝っているという。高校生であり、お金があれば、大学に行き、コンピューターの勉強をしたいと言う。
大学は、地元の大学であり、この町から、出たくないと言う。この町が、好きなのだ。

タイ語で、話をすると、愛想が、良くなった。

その内に、欧米人のカップルが、入ってきた。
英語であるが、全く通じない。
彼らは、諦めたように、注文して、出て来たものを見て、ノーと、言っていた。想像していたものと、違うのであろう。
しかし、仏頂面をして、食べ始めた。

私たちは、それを見て、おかしくて、笑いたくなったが、我慢した。
男の方が、私たちを見て、肩をすくめ両手を上げる、仕草をする。

しかし、次に行った時、何と、英語のメニューを用意していたのである。
実に、素早い、反応だった。
ただ、野中が見て、変な英語だと言う。
ヌードルといっても、数多くある。どのヌードルなのかが、解らないという。
スープといっても、数多くある。どのスープなのか、これでは、解らないらしい。

そういえば、別の店で、フライヌードルという英語を見た。フライヌードルとは、どんなものか、興味がある。炒めた緬ということで、焼きそばのことか。よく解らない。

2008年02月27日

タイ・ラオスへ 10

タイ・ラオスへ 11

野中が、戻った翌日は、帰る日の、前日である。
13日の朝、3:40に、夢を見て、目覚めた。

象徴夢であった。

再び、眠り、朝日が出てから、起きた。

庭に出て、コーヒーを飲もうとした。
すると、一片の白い花びらが、落ちてきた。

名も知らぬ 白き花あり あわれなり メコンの風に 大和の心

野中は、眠っている。
若い人は、よく眠る。それは、体力があるからだ。眠るのも、体力である。
年を取ると、眠られなくなる。眠る体力が無いのだ。

寒さが、少し薄らいでいる。

白い花びらが、気になり、歌を詠む。

風に散る 一葉よりも 軽きもの 人の命の さらに軽きよ

散ればこそ 芽を出すものを 人の亡き 後は戻らぬ ことぞ悲しき

実は、私は、しばらく、20年ほど、歌を詠むことがなかった。
母に、歌を詠むことを勧めて、その母の歌が上手になってゆくのを、楽しんでいた。
小説を書くことを、楽しんでいたが、この頃になって、歌を詠むことが、多くなった。
これは、年齢なのか。
小説を書くことは、実に、体力がいる。職業作家には、なれないと、諦めていた。勿論、作家になるほどの、小説は、書いていない。
ただ、物語を作るのが、好きなだけである。下手の横好き、というやつである。

野中も、起きてきた。
一緒に、コーヒーを飲む。
明日の移動を、相談する。
空港のある、ヴドーン・ターニまで、行かなければならない。そして、バンコクへ行く。

トゥクトゥクの、おじさんに聞いてみることにした。
朝、ゲストハウスに顔を出す、おじさんがいる。

暫く、二人で、英字新聞を読む。私の場合は、眺める、である。
野中が、声を上げた。
新聞の一面に出ている記事を、私に示した。
何、セックス。
いや、トイレのことだよ。
野中が言う。
ついに、レディボーイのトイレが出来たって。
あるタイの空港に、レディボーイ用のトイレが、出来たということだった。

つまり、男、女、そして、レディボーイの、三つのトイレができたということである。

レディボーイの国、タイである。
野中は、翌日、帰る前に、その記事を切り抜いて、貰っていた。

トゥクトゥクのおじさんが、やって来た。
帰りのバスの時間を訊く。
予約して、乗るのだという。もう、チケットは、売っているというので、私たちは、すぐに、チケットを買いに出た。

風を切って、トゥクトゥクが走る。
この町に、再び来ることがあるのかと、自分に問うた。何とも、解らない。
二度と来ないかもしれない。

この地をも 旅の一つと 名残惜し 生きること旅 と思う身にも

帰国する こと惜しむ身も いざ心 立ててゆく明日 今日ぞ忘れぬ

チケットは、すぐに買うことが出来た。
何事も、早め早めが、いい。
下手をすると、乗れないこともある、と。
ゲストハウスに戻り、そのまま、食事に出た。

店先で、焼いている、地元の人の食堂である。
もち米、豚肉、鶏肉、春雨サラダを注文した。丁度、春雨サラダを作っていたので、それを、注文した。
サラダは、思った以上に甘かった。
メコン河を眺めての、食事である。

留め置きて 国境流る メコン河 心にかけて 忘ることなし

異国にて 風にあわれの あるものと 生まれし国を 誇りたるかな

二人で食べて、満腹した。75バーツ、約240円。
地元の食堂は、安い。
明日の朝も、ここで食べることにした。それが、最後のノーン・カーイの食事になる。

部屋に戻り、いよいよ、帰り支度である。
何とも、過ぎてみれば、早いことである。
毎日のことを、手帳につけているが、単に、メモである。つまり、人生は、数行で、書き表せるというもの。

生まれて、恋をして、老いて、死んだ。
仏陀は、ここに、病を入れた。恋は、入れない。
日本人の心は、恋を抜きにしては、語れないのである。
恋とは、大和心の、種である。

子供服が無くなったので、荷物が、減った。
買い物も、多くしていない。というより、私は、六個の小物入れのみ。野中も、キーホルダー付きの、小物入れを、五個である。

旅に余計な荷物は、実に余計である。大きな、バッグをズルズルと引きずり持つ人が多い。何をそんなに、持つのかと、不思議だ。
特に、暖かい国に出掛けるならば、ほとんど、荷物は、いらない。
毎日の、着替えを持つのだろうか。一度、人のバッグを、覗いてみたい。

野中が、ディジュルドゥを吹くために、部屋を出た。
私は、ベッドに横になり、ゲストハウスの本棚に置かれていた、更級日記を読んだ。奇特な人がいるものである。古典の更級日記を携えて、ここまで来たのである。
これを、置いていった人を、風情があるなーと、思いつつ、読んだ。

物語に憧れる、女の話である。
古典の日記ものは、大和言葉であるから、大和言葉を知りたければ、古典の日記を読めばいい。
ひらがなは、女文字といわれたが、日本の文学は、女房文学から、始まった。
世界最古の小説は、源氏物語である。
日記文学から、私小説文学へと、変転する。
小説は、爛熟期を過ぎて、衰退期へ。しかし、文字の廃れることはない。
日本の場合は、和歌と俳句の廃れることはない。
芭蕉が言う、不易流行である。

ふっと、タイの文学を思った。実は、何一つ、それを、知らない。
現代小説ならば、翻訳物で、二三読んだ程度である。
あとは、演歌の歌詞を、少し聞いた。
この、イサーンの、演歌の歌詞は、他に無い、激しいものがある。

例えば、流れる涙は、地に落ちる、私の血である、とか。

このタイ東北部、イサーンは、大地が乾き、風が強いのである。
私も、何度か、涙を流した。悲しくてでない。乾いた大地の風で、ある。
それは、また、この東北部の歴史の歩みにもあると、思う。

植民地時代の、歴史の風に、揺れたのである。
支配が変わるという意識は、島国の日本人では、理解し難いものがある。
大陸である。
国境という、微妙さの中にある地域は、いつも、揺れ動いていた。
そして、民族という意識である。
到底、私の及ぶところの、ものではない。

シャムという、国名から、タイに変更した時に、それは、タイ族の国であるという意識である。
立憲革命により、立憲君主制になり、人民党のピブーンが首相に就いてからの、1939年六月の、国家信条にて、民族名と、国名を一致させるということで、タイとなったのだ。

2008年02月28日

タイ・ラオスへ 11

タイ・ラオスへ 11

14日、ゲストハウスを後にして、ウドーン・ターニ行きのミニバスが出る場所に着いた。

私は、夏大島を着た。更に、単の紺の大島の、羽織である。
全くの日本人である。
夏大島は、白であるから、目立つ。
ゲストハウスの、清掃のおばさんが、すぐに見つけて、近づき、オー、オーと、声を上げていた。

この地に、着物で来る日本人は、いないだろう。

ミニバスだと、思っていたが、普通の乗用車であった。
お客が、三人であるからだろう。
私たちの他には、黒人のおじさんが一人だった。

Pm3:15に、出発した。
それが、また、早い。スピードを出すのである。
15分程走ると、検問のようなものがあり、車が、止められた。
警官もいる。
女の子といえるような、年齢の子が、何かを運転手に話ている。
運転者が、それに、答えた。
意味は、全く、解らない。
すぐに終わり、再び走り出した。

それが、きっかけで、皆で話合うようになった。
野中が、どうしたんですかと、訊いた。少し、タイ語が解るが、内容まで、解らなかったのである。
運転手が、一ヶ月の給料を、訊かれたと言う。
私が、エッーと、声を上げて、英語で、いくらですかと、尋ねた。
6000バーツだった。約、2万円である。

今度は、黒人の携帯電話が鳴った。
その会話を聞いて、私は、野中に、何語なのだろうと、言うと、フランス語かなーと、言う。そして、私に、訊いてみたら、と言う。
それにしても、フランス語の語感が、感じられない。

私は、英語で、どちらからですか、と尋ねた。
すると、黒人は、コートボワールというではないか。アフリカである。
エッー、私は、声を上げた。

黒人の方は、私に、ジャパンと、訊く。
イエスと言うと、握手を求められた。
英語で、話出した。
日本にも行く、これから、中国に行きますと。
私は、どんな仕事をしているのですか、と、中学二年生程度の英語で、訊く。

彼は、何と、商人である。
中国でも、商売をしていて、色々と見て周り、新しいビジネスを、探していると、言う。
ヘェー、私は、声を上げた。
そして、更に、英語で話し出した。
よく解らないから、野中にバトンタッチである。

半年後に、日本に行くので、私に、電話番号を教えて欲しいと言う。
野中が、すぐに、携帯の電話番号を書いて渡した。

その内に、彼の電話が鳴る。
話の内容から、相手は、女ではないかと思えた。
さらに、また、電話である。
英語や、母国語、色々と、混じる。
続けて、電話が多かった。

今夜は、バンコクに泊まるということが、解った。そして、女と会うことも、解った。
私たちは、日本語で、色々、女いるね、と話した。
中には、家族からではないかと、思える電話もあった。

それにしても、身軽である。
小さな、バッグ一つである。
野中の分析は、要するに、ビップなのだという。ホテルも一流に泊まり、余計な物を、持ち歩かないのだと。
携帯電話は、二つある。

私は、とんでもない人に、会ったのかもしれないと、思えた。

車は、猛スピードで、道路を走る。高速道路並みである。

対向車線の、間にあるスペースには、一定間隔で、国旗と、王旗が、たなびく。
本当に、タイの国は、その、旗を多く見る。
至る所に、掲げてあるのだ。

王室のマークも、覚えてしまった。
王様の、Tシャツを着ている人も、ひと目で解る。
さすがに、ノーン・カーイでは、他の土地より少ないが、着ている人がいた。

私は、国旗と、王旗を見るたびに、いつも、タイ国民の心意気を感じるのだ。
私たちは、タイ国民ですという、意思表示である。

国民の、95パーセントが、国王支持であるから、驚く。

現在の、プーミポン国王は、ラッタンナコーシン朝の第9代の国王である。
ラーマ九世とも、呼ばれる。
2006年六月に、在位60周年を迎えた。
その式典の日に、私は、バンコクにいた。
人々が、皆、国王の黄色のTシャツを着て、バンコクが、黄色に染まっていたことを、思い出す。

空港に着いて、飛行機が、三時間遅れであることを知り、愕然として、空港の中を、ブラブラして、私は、外に出て、タバコをふかし、出入り禁止の扉から、出入りしていた。
警備の男たちと、仲良くなったせいもあり、誰も、咎めないのである。

空港に入るのに、検査があり、出たら、再度、入り口から入るのである。が、私は、出口から、出入りしていた。
タイでは、禁煙政策が取られて、実に厳しい。

一人の、警備の若者に、ユー、ナイスガイ、本日は、バレンタインデーである。沢山、チョコレートを貰うだろうと、話しかけた。相手は、少しだけ、英語が出来るのが幸いした。
それで、色々とやり取りした。すると、警備員が、集ってきた。
兎に角、何でもいいから、話し掛けることである。

こちらから、飛び込んで行けば、相手も、胸襟を開く。特に、タイの人は、優しい。

一人の警備員が、俺は、一人もいない、という。ガールフレンドだ。
悲しいと、涙を流すまねをするので、私が、タバコを一箱上げた。
喜んだ。すると、色々と自分のことを、話す。この付近に住んでいるだの、家族のこと。ありったけの、英語で喋る。
よく解った。

ちなみに、タイでも、バレンタインデーは、お祭りである。
新聞には、この日の、男女間のセックス相談員の記事が載っている程である。

警備員とは、それで、仲良くなり、出口から、出入りして、時間を潰していた。

さて、搭乗時間、一時間前になり、私たちは、待合ロビーに入った。
その前で、検査がある。
ビーと、鳴る。
着物の袖のものを、すべて出す。
ペットボトルは、駄目なはずだが、検査官が、いいよと言う。
ビーと鳴る。
ああ、またかと、思った。
しかし、検査官は、丁寧に、私の体に、棒を当てて、検査した。何でもない。
オッケーである。

私が、特に書きたかったのは、ここからである。
待合ロビーには、テレビが何台か、つけてある。
六時になった。
その時。どこかで、聞いたことのある、メロディーが流れた。
すると、ロビーの雰囲気が、変わったと気づく。
それでも、私は、椅子に腰掛けていた。すると、野中が、私に、起立だよと言う。
はっとして、すぐに、起立した。
見ると、向こうの欧米人も、起立している。
国王の歌が、流れたのである。

ロビーにいた人々が、全員起立した。
国籍、関係なくである。

欧米人たちも、国家意識が強いから、こういう、作法を、当然だと思うだろう。
日本人は、私たち、二人のみである。

もし、ここに、日本の若者がいたら、何のことか、解らない。解っても、関係なと思い、平然として、腰掛ていたかもしれない。そういう、教育が、されないからだ。

タイでは、僧侶と、国王に対しては、特別の敬意を払うのが、当たり前である。
旅人でも、である。

国王に対する、不敬は、国民が許さないだろう。

日本の天皇に対する、作法が、こうでないことが、有り難いし、また、ある意味不幸なことである。国家意識の、希薄である。
国家の意識を持てないでいる、子供たちから、若者である。勿論、今では、中年、老年に至るまで。
ホント、幸せなことである。

国王は、タイの、民主化を推し進めて、象徴たろうとしている。
日本の天皇は、憲法で、象徴である。
タイの国王の歴史は、200年ほどである。日本は、2668年である。
世界に冠たる、天皇の歴史である。

大陸にあり、多くの国との、軋轢等々により、国家意識を、強く持つことで、歴史を作ってきたのである。当然の帰結で、国王を国として、置き換えて、敬意を払う。
真っ当な感覚である。

国家幻想の、一番良い方法なのではないかと、私は、考えている。
軍事政権の将軍より、遥かに良い。
ネパールのように、国民に、退位を迫られた国王もいる。余程、愚かだったのだろう。
国家幻想に、象徴がある方が、安定するのである。

物ではなく、人間が、介在した方が良い。

遅れていた飛行機の時間だが、その時間より、40も早く、機内に入ることが、出来た。
私は、座席に座り、そのまま、寝てしまった。
目覚めると、もうすぐ、バンコクだった。

タイ・ラオスへ 12

タイ・ラオスへ 13

バンコクの空港で、約、八時間を過ごさなければならない。
何という、接続の悪さか。
しかし、私たちのような人が、大勢いた。

一階のロビーに降りて、そこに荷物を置く。
館内の冷房がきつくて、外に出た。荷物も、持ってである。
ベンチを一つ占領して、そこに、陣取る。

外だと、タバコが吸えるし、暖かい。夕方から夜は、涼しく、実に過ごしやすい。
何度も、眠った。
ベンチで寝るという、経験は、格別である。
旅をしているという、気分が、最高潮に達する。

水がなくなり、上の階に買いに行く。
二階にも、売り場があったので、そこで、7バーツの水を求めた。
すると、40バーツと言われた。
四倍以上の値段になっている。
約、130円である。日本より、高い。

怒りようがない。
しょうがないのである。

野中と、一度、食事に、三階に上がった。矢張り、料金は高い。
丁度、その頃になると、私の腹は、複合的に、食あたり状態になりつつあり、食欲があまりないので、飲み物だけにした。

日本に戻り、その食あたりの状態は、三日続いた。
下痢と、発熱である。一時的に、38度以上の熱も出た。
風邪でも、そんなに熱を出すことは無い。
風邪用の、抗生物質を貰っているので、それを飲む。

帰国の翌日は、コンサートで、歌ったから、私も大したものである。と、自画自賛する。

さて、旅行記の最後に当たり、タイ国王のことを、少し書いておく。

国王は、民主化を進めて、政治的発言を控えているし、極力、関与しないようにとの、行動であるが、政変がある度に、その調停の様が、世界に報道される。
国王の政治的影響力を無視出来ないのが、タイという国柄である。

1993年の、五月の暴虐では、国王の前に跪く、スチンダー首相と、チャムローン反スチンダー派代表の姿が、世界中に、報道された。
流血の事態を、調停した、国王の権威が、示されたのである。

2006年の、反タクシン運動の発生と、クーデターでも、調停役として、国王に注目が、集まった。

実は、これは、新しい伝統なのである。
国王に対する、国民の敬愛と言う、形である。

1932年の、立憲革命は、絶対王政に反対する国民の不満からの、ものである。
その際に、国王、王室の、権威は失墜させられたのである。

しかし、前回書いた、ピブーン首相時代の、ナショナリズムにより、歴代の王に対する、認識が高められた。

歴代の国王の像が、各地に、建設されたのである。

その後、更に、国王に対する、権威高揚が、図られた。
それには、共産主義思想に対する、牽制もあった。

現国王の、プーミポン王は、若い頃から、その政策に、積極的に参加した。
そして、国王一家は、頻繁に、地方行幸を行い、国民の辛苦を見て、慰めと、励ましの言葉を送った。
国王自身、僻地の地域開発に、関心を示し、具体的な、施策を提言した。
更に、国王が、行幸しなかった地域には、新聞、テレビが、国王の動向を伝えた。

現在も、夜八時からは、各局が、王室関係のニュースを流している。
その日の、王族の、公務が、報道されているのである。

こうして、国民の王と王室に対する、敬愛の情を深めての、現状なのである。
新しい伝統と、言える。

立憲革命以後は、基本的に、国王の政治権力は、無いのであるが、どういう訳か、ここ一番という時に、国王の言動が、大きな影響を与えるのである。

それは、国民の信頼ゆえのものだろう。
国王が、善しと言えば、国民も善しとする。否と言えば、国民も、否とするのである。

ただ、国王自身は、政治権力を求めてはいない。
中立的な、存在としてあろうとするのである。
その意思が、国民に見えるというのも、特徴である。
だから、こそ、国民も信頼するのだろうと、私は思っている。

日本の天皇が、国民の祈りの存在でありたいと、仰せられるように、タイ国王も、国民の平和と、幸せを祈る存在でありたとの意思であろう。

国王は、また、熱心な仏教徒でもある。
若い頃の出家の写真が、タイの至るところの、寺院に、飾られてある。
勿論、国王夫妻の写真も、至る所に、掲げられてある。

国政は、タクシン派の政党が、首相を選出した。
その、政策も、タクシンの、政策を継ぐものに、見える。

高齢の国王の存在が、タイの自制心である、とみる。
次の時代を、どのように、拓くのかは、未知であり、それは、世界も同じである。

タイが、好きで、これから、タイでの活動を考えている私には、国王の存在は、実に良き存在である。
私もタイ国民と、共に、国王の長寿を願いたい。

また、日本の高齢者が、これから、益々、タイにお世話になることと、思う。
相互扶助の精神で、タイの人々と、共存出来れば、素晴らしいことであると、思っている。

日本が、苦境に立たされた時に、助けてくれる国の一つであると、私は思っている。

朝、四時に、搭乗手続きである。
何度も、寝たので、元気だった。

一月の、チューク諸島の慰霊から、一週間後のタイの旅である。
矢張り、少し疲れたようである。

飛行機が、飛び立つ前に、私は眠った。
目覚めた時は、機内食の時間だった。
不味い機内食である。辛いだけの、焼き飯である。しかし、残すことなく、食べた。贅沢を言える身分ではない。

ちなみに、アメリカの航空機である。
勿論、格安チケットである。

いずれ、バンコク空港の、顔馴染みになりたいと思っている。

日本の空港まで、足袋を履いているが、その後は、裸足である。
着物姿で、裸足。これは、一度で、覚えられる。

今回は、多くの歌を詠んだが、すべてを載せてはいない。
いずれ何かの機会に、書きたいと思う。

成田に到着して、それ程の寒さを感じなかったのは、ノーン・カーイが、寒かったからであろう。

雪が降ったようだったが、バスが走っているというので、バスにした。

次に、タイに行くのは、六月、チェンマイそして、追悼慰霊は、メーホンソンを計画している。
追悼慰霊と、児童の学習支援である。
残り少ない人生を、何かのために、生きたいと思う。しかし、それは、また、自分のためでもあるのだ。
千年の日本のためにと、大げさなことを言いつつ、我が身のためにしているということである。

尽くしては また戻り我 に賜る 行幸はそれ ただ有り難き

2008年02月29日

タイ・ラオスへ その後

タイ・ラオスへ 帰国してから

矢張り、胃腸の調子が、悪く、一週間ほどは、下痢を繰り返した。
帰国した、翌日は、熱も出たほどだ。

あれが、悪かったという、一つの食べ物ではなく、複合的なものだったと、思う。

水で洗った、生野菜、店先で焼いている肉など、そして、スープの水である。暫くの、沸騰だといいが、ある程度の、沸騰だと、菌が殺せない。
腸内細菌の、有り様が、あちらの食べ物に、負けるのだ。

長期滞在だと、それも、しょうがない。
あちらの、菌に慣れるのみ。

ただ、鳥インフルエンザが、人に、そして、人から人にと、新型インフルエンザが、世界的に広がるという、話である。
また、新しい病気が、増えた。

ただ、私は、バリ島や、タイで、放し飼いで、飼っている、鶏などを見ている。その命を、いただいて、命を繋ぐ。そういう、命の、交換の、有り様を見る。
子供たちも、生き物を食べて、生きるという、学びをする。日本には、無い、教育である。

放し飼い 鶏つぶし 食べるのは 命の教育 極まれるなり

生き物を 食べて命を 繋ぐなり それを忘れし 人は愚かと

その鳥から、異常な菌が出るとは、何とも、複雑な思いである。

そして、ラオスのことである。
見ないと、思い、入らなかったが、矢張り、支援をしたいと、次は、直接ラオス入りしょうと思う。
子供服のリサイクルである。

野中が、渡したという、皆々の写真を見て、矢張り、やろうと、決めた。
資金は、何とかなると、思うのみ。

原油高は、貧しい人を、益々、貧しくする。
ノーン・カーイでは、普通の店先に、ウイスキーの瓶に詰めた、ガソリンを売っていた。それも、半分程の量である。
走る分量だけ、入れるのだろう。

ラオスでは、廃車となる車を乗っているという。
さらに、酷い状況である。
車を使う度に、バッテリーに電気を入れるという。

勿論、それぞれの国のことは、その国の、政治の問題であり、関与できないことである。
ただ、言えることは、主義など、どこ吹く風である。
政治家は、支配者層に入り、一人勝ちである。
共産、社会主義も、幹部になれば、良い生活が出来る。
社会体制など、ナンボのものでもない。

兎に角、国民、民が、幸せであること。
広く、富が分配されること、これが、理想である。
しかし、それが、歴史のテーマでもあった。未だに、解決するような、思想は、生まれない。

富を独り占めする者たちとの、戦いである。

生き物の化石の、石油で、溢れるはがりに、金を得ている人々がいる。
ドバイを聞くが、どれほど、持つだろう。
石油の権利を有する者、王だというから、呆れる。

アラブの金持ちに、憧れることはない。

地獄とは、この世のことである。
格差甚だしく、世界の七割が、飢える。

GMP二位の日本が、十二位になった。
貧しいインドも、日本より、長者が多い。

誰も、日本の貧しい子供たちのためにと、世界から、ボランティアに来ることはない。
しかし、インドの貧しい子供たちのためにと、日本人が、ボランティア活動をしている。
矛盾である。

格差といえば、インドの格差は、天文学的格差である。
最も、ヒンドゥーは、金持ちに生まれるのは、前世の行いが良かったからであり、貧しいのは、前世の行いが、悪かったと、単純に考える。
だから、貧しい人を見ても、平然としている。

インド独立の、ガンジーは、立派な人であるが、彼は、また、仏教徒を、最低最悪の、環境に置いた。
カーストにも、入らないという、最悪の身分を得ている。

マザーテレサも、尊敬される、行動を起こしたが、何一つ、インドの考え方に、影響を与えなかった。
キリスト教世界に、大きな影響を与えたが、それならば、詮無いことである。

マザーテレサが、宗教ではなく、人道として、人類愛の行為として、語れば、もう少し、世界に影響を与えた。
神様のために、素晴らしいことをと、言い、逃げてしまった。
キリスト無くして、彼女の行動は無い。

どんな理由であれ、良いことをするのだから、いいのだと言えば、それで、終わりである。

NPOヤクザというものがいる。
善を成しているという、前提の元に、私腹を肥やすという、輩だ。
どんな理由であれ、良いことをするのだから、いいとは言えない。

寄付商売というものがある。
それは、また、乞食商売とも、言う。

説明するまでもない。
私も、その一人である。
その自覚を、持っている。
支援を受けて、行動する。
自分を律する力が必要である。ゆえに、私は、法人を取らない。あくまで、個人活動である。興味があれば、私と、一緒に行動すれば、いいのだ。

私が、何をしているのか、その目で、見ればいい。

何を言うのかではなく、何をしているか、それが、問題である。

ラオスに、野中一人を送り、支援の子供服を、配らせた。
野中が言う。
偽善的行為のように、思えて、本当に、勇気がいたと。
しかし、それをして、皆の顔を見て、偽善的行為でも、何でもいい、皆が、喜んだ。そして、それは、日本の、皆から、貰ったものである。
単に、自分は、橋渡しをしているだけだ。
更に、村の人々が、野中を仲間のように、扱ってくれた。
村を案内された。
友人になった。
私は、それで、いいと、思う。その他に、望むことはない。

布教でも、主義でも、主張でもない。
ただ、友人としての行為である。それで、いい。

偽善か、否かは、私の心一つの、問題である。

ある有名、カトリック作家は、ヤクザからでも、寄付を貰うと、言った。お金は、使い方であると。
あえて、カトリック作家というのは、彼女が、それを望むだろうと、思うからである。

善と偽善の間にあるものは、私一人の心の、問題である。

野中は、以前の自分ならば、鼻で笑った行動であったという。

つまり、多くの人は、鼻で笑うのであろうと、思う。
しかし、やらないより、私は、やるのである。それは、私だからである。

追悼慰霊行為というのは、誰も、理解できない行為である。
つまり、それは、目に見えない世界を扱うからである。
そして、理解されることは、皆無に近い。
そのついでに、私は、支援活動を行うのである。

その程度の行為である。

恥ずかしき その行為でも やらぬより やることを取る それ私ゆえ

中学三年の冬、私は、募金活動をしていた。
突然、その時、顔から、火の出るような、恥ずかしい思いに、とらえられた。
それから、ボランティア活動を止めた。

ただし、頼まれると、引き受けていたが、私が積極的にすることはなかった。

ボランティアは、ラテン語の、ボルンタスという語から出た。
意味は、生きる意味意識である。

その行為は、生きる意味意識を得ることなのである。

それでは、人生、ボルンタスである。
すべてが、それである。

私は、精々、殺されぬ、程度の行動を、心がけて、やることだと、思っている。

勿論、後は野となれ山となれ、野垂れ死にを、希望の人生であるから、どうでも、いいのだが、まあ、その程度だと、言う、つもりである。

それにして、日本は、良い国である。
安心して、水道の水を飲める。
水を飲んで死ぬことがない。

水は、命である。

2008年03月08日

テラの会の経緯

テラの会の経緯について

昨年、2007年4月、バリ島に出掛けた。
バリ島に、建設中の、テラハウスを見るためである。
私の、お弟子さんが、バリ人と、結婚して、その家の敷地に建てるものだった。最初は、漠然とした、イメージであった。
そこで、何か、出来ると、いいなーあという程度である。

その、旅行記は、天山通信に書いたが、告知板には、掲載していない。

その前の年の、06年に、タイの、リゾート地、パタヤに出掛けている。
それは、単に付き合い程度のものだった。
丁度、タイ国王、在位60年の、お祝いがあった。

タイに、出掛けたのは、10年振りである。
その時は、まだ、何も、計画がなかった。

そして、その年の、12月に、チェンマイに出掛けた。
何故、チェンマイかということが、解らない。
ただ、チェンマイに行きたいと思った。
それが、後々に、大きなポイントになるのだが。

タイの、南部のリゾート地には、興味が無い。
もっと、タイという国を知りたいと思う気持ちと、何か、言葉に出来ない思いがあった。
10日間という、滞在は、私には、長いものだった。
そして、そこに、多くの日本人高齢者の方々が、長期滞在をしていることを、知る。
帰国してから、チェンマイには、再度行くであろうと、直感した。その意味が、後で解る。

さて、四月のバリ島行きを、決めてから、私の中で、ある変化が、起こった。
それは、うまく言葉に出来ないものである。
たた、湧いてきた、思いである。

それが、戦争犠牲者の、慰霊である。

その伏線は、25年前以上になる。
戦地に出掛ける人が、よく、私の相談に来て、幽霊を見た。それから、具合が悪いというものである。
信じる、信じないの問題ではなかった。
実際、具合が悪くなっているのである。

その人たちは、慰霊に、出掛けた訳ではない。
単なる、仕事の場合や、レジャーでの旅行である。

その度に、清め祓いを行っていた。

具体的に、どのような、幽霊なのかは、省略する。

それに対する、私の思いが、結実したと言えば、言える。
さあ、そのチャンスが、来たと、思った。

やらなければ、ならない、と。

それでは、どこへ。
一番最初に、思い出したのは、サイパンだった。
思い立ったが、吉日である。
バリ島に、出掛ける前に、サイパンの旅行を、決めた。

格安ツアーである。
すへで、自由行動のツアーであるから、その間の、時間を、追悼慰霊の所作に、あてるというものだった。

サイパンの追悼慰霊は、実に、充実したものだった。
私の方法で、追悼慰霊が、出来たことを、満足した。

それから、事は、あるものに、動かされるように、進んだ。
いつも、同行している、野中が、タイのチェンマイに、三ヶ月程、滞在して、タイ語を、学びたいという。
そこで、私は、七月、八月の二ヶ月なら、時間を上げることが、出来ると、タイに、送り出した。

そこで、野中が、仕入れた、情報である。
タイ・ビルマ戦線の犠牲者のことである。
すでに、追悼慰霊の碑が、建設されてあり、その、現地財団の、創設者が、自分の故郷の、人だったということ。
更に、野中の、おばあさんも、その活動に、支援していたということが、解った。

慧燈財団のことである。

野中は、その滞在中に、追悼慰霊碑に、詣でた。
そこで、現地の事務局長である、小西氏に、出会ったのである。

タイ・ビルマ戦線、つまり、インパール作戦の犠牲者は、タイ北部に、点在しているという。

それを、聞いた私は、即座に、その地の、追悼慰霊を決行しようと、考えた。

さらに、折角出掛けるのであるから、コンサート開催などによる、現地の人々との付き合いである。また、長期滞在している、日本人の方との、付き合いである。

次第に、やるべきことが、固まってきた。

野中が、チェンマイに滞在している、間に、次のチェンマイ行きを計画し、追悼慰霊と、コンサートの準備をしてもらった。
慧燈財団の小西事務局長さんにも、お世話になった。

それが、昨年、2007年の11月である。
その時の、旅行記は、遥かなる慰霊の旅として、告知板に掲載した。

その際に、ビルマ、ミャンマー行きも、行った。
丁度、ミャンマーの僧侶たちのデモを撮影していた、日本人カメラマンが、射殺された後である。

タイと、ミャンマー国境地帯にいる、少数部族の子供たちが、ストリートチルドレンになっている様を、見て、彼らの支援を考えた。
これは、私の普通の感情である。
最初に、衣服の支援である。
日本では、多く、捨てられる衣類である。それを、リサイクルする。単に、そういうことである。

追悼慰霊と、コンサートを行い、次への、ステップを踏み出した。
長期滞在の日本人の方々にも、お逢いした。

そして、翌月の、12月は、最初のバリ島ツアーを開催した。
コンサートを主体にした、ツアーである。

建設中の、テラハウスにて、地元の人を、招いてのコンサート、そして、村の、ガムラン、バリ舞踊との、共演である。
それも、次に続くものだった。
次は、ガムランと、舞踊の共演を、提案された。

ガムランと、日本舞踊の共演とは、聞いたことがない。
これは、是非、やってみたいと思う。

バリ島から、戻り、翌月、つまり、2008年の一月、トラック諸島慰霊を決定し、すぐに、ツアーを申し込む。
それは、産経新聞の記事が、きっかけだった。
海底の、遺骨が、見世物にされているというものである。
それを、確認する、そして、追悼慰霊をする。

その旅も、一度で、済まなくなったことは、地元の人との、付き合いである。
九割の島人が、無職、であり、無収入である。
食べ物は、島の自然の物を食べて生きてゆける。
しかし、最低限の衣類は、買わなければならない。
それを、支援することにした。

着物着のまま、である。
どうして、衣類を手に入れるのかと、尋ねると、出稼ぎに出ている、兄弟や、親戚から、貰うということだった。
それ以外の、方法は無い。
だから、どんなに、古くなっている、衣類でも、着ている。

日本で、捨てられる衣類を、リサイクルすると、それも、ごく普通の感覚である。

そして、翌月は、タイ、東北部、イサーンといわれる、ラオス、カンボジア国境地帯への、旅である。
タイの、最も、貧しい土地を、見るためと、ラオスの、子供たちに、衣服の支援である。

しかし、私は、ラオスの状況が、あまりにも、酷いと聞いて、入るのを、止めた。
これ以上の活動は、個人的には、出来ないと思ったからだ。
見れば、やるであろうと思われた。私の性格である。

千年の日本のために。
それは、いずれ、日本が、多くのアジアの国に、お世話になる。そのために、今から、出来ることを、したいと、思う心である。
少しの、注意力を持って、世界を、見渡せば、それは、解る。

気づいた者が、それを、行う。それで、いい。
ことさら、特別なことを、しているのではないと、いうこと。

ただし、支援の活動は、理解されるが、追悼慰霊の、活動は、理解され難い。
見えない世界を、扱うからである。
もう、過ぎたことである。

しかし、今、これを、しっかりと、行っておかなければ、日本の伝統が、廃れると、思った。
日本の伝統は、死者への、崇敬である。
更に、清め祓いである。

日本人は、精神の、心の、魂の、禊祓いをして、いつも、再生して、やってきた、民族である。

最も、悲惨だった、第二次世界大戦の、後始末である。

日本人だけではなく、多くの国や民族を、犠牲にした。
それを、決算することである。

つまり、追悼慰霊である。

理解されずとも、知った以上は、やらなければならない。
日本人に慰霊に、来て欲しいと、いう、国や地域は、多くある。
未だに、日本兵の霊が、浮遊する場所が、多々ある。

霊など、無いという人には、説明しない。
説得も、しない。
ただ、知った、私は、するしかないのである。

知るということは、行為するということである。

私の人生、最後の、テーマとなって、今、その只中にいる。
無一文の覚悟であるから、怖いもの知らずである。
ただし、癒える病のための、保険にだけは、入っている。
癒えない病の場合は、死ぬ覚悟である。
更に、野垂れ死にの覚悟があるから、後は野となれ、山となれ、である。

生きた証拠は、すべて、捨ててゆく。
何も残さない。
死後は、隠れるだけである。

2008年04月30日

慰霊旅日記

泰緬鉄道慰霊と、南部タイ旅行

バンコクに着いて、三日目の、4月16日水曜日、朝、九時半のミニバスに乗り、カンチャナブリーに向かう。

タイの、新年の御祭り、ソンクラーンという、水掛祭りの、最終日であった。

西暦の、新年より、仏陀誕生月を祝うという、仏教の国柄である。
タイの仏教は、小乗仏教と言われる。ちなみに、日本仏教は、中国を経て、大乗仏教と、言われる。

ソンクラーンの時期は、タイの、真夏である。
最高気温は、35度以上を越える。
黙って立っていても、汗だくになる。

私は、追悼慰霊の儀であるから、夏物の着物を着た。
そうでなければ、Tシャツに、タイパンツという、タイの人が寝る時の格好をしている。と、同行の、野中に言われた。

ミニバスは、乗り心地が悪く、背中と、尻が痛くなる。
私たちと、欧米人の総勢、八名である。

カンチャナブリーの、ゲストハウスまで、一時間半以上が、かかった。
ゲストハウスの前に止まると、皆、下ろされた。
欧米人は、皆、ゲストハウスに泊まるらしい。
私たち、二人は、さて、どうなるのか。

泰緬鉄道に行くと言うと、バスのガイドが、歩いて10分だと言う。つまり、歩いて行けということである。
何とも、不親切である。
ちなみに、他の地域、田舎の都市などでは、ミニバスの場合は、希望する場所まで、送ってくれる。運転手の好意である。それが、無い。

野中が、帰りのバスに乗りたいと言うと、ガイドは、250バーツだと言う。
来るときは、200バーツである。
どうして、50バーツも、高くなるのか。
足元を見ているのである。
私は、そんなものに、乗らないと、歩き出した。
ガイドは、オッケーと、言う。
何が、オッケーだ。

帰りは、エアコンバスの98バーツのバスがあるのである。
200バーツでも、ミニバスを選んだのは、バス停に、行くのに、100バーツのタクシー代が、かかるだろうし、宿泊のゲストハウスの前から出るというので、乗ったまでである。

私は、大きな通りに出る、小道を、スタスタと歩いた、野中も後から、ついて来た。
知らない道のりは、不安である。

兎に角、暑い。
着物に、汗が滲む。

大きな道路に出た時は、着物が、汗で、ぐしょぐしょだった。
私は、道の真ん中に立ち、行くべき方向を眺めた。
その時、野中が、声を掛けた。
振り向くと、一人のおじいさんのバイクが、停車していた。
どこから、出て来たのか・・・

「乗せてあげるって、言ってるよ」
野中が言う。
「送るって。お金は、いならいって」
とは、言うものの、私たちは、二人である。
おじいさんの、バイクは、一人乗りである。

私は、身振りで、二人と、示した。すると、おじいさんは、大丈夫と、言う。言葉は、解らないが、そう言っている。
そこで、私が、おじいさんの後ろに、そして、野中が、乗った。
すると、すいすいと、バイクが走る。

何の問題もなく、泰緬鉄道の、前に到着。
狐に、つまされた気分であった。

私は、100バーツを握り締め、おじいさんの手に、握らせた。
「コークプンカップ」と、お礼を言った。
おじいさんは、にこやかに、去っていった。

疾風のように現れて、疾風のように、去った。

着物を、着ていた私を、おじいさんは、日本人であると、認識したはずである。
反日感情が強いと、聞いていたので、少し、驚いた。

これを、アホの宗教関係者ならば、導きである等々の理屈を言うが、私は、単なる、偶然であると、言う。偶々のこと。そう、たまたまである。玉玉でもある。

偶々、通りかかった、ついでに、乗せたのである。
ただ、最初から、お金は、いらないと言う言葉に、感動した。
お金は、いらないという言葉は、考えられない。
それは、後で言う。

橋に掛かる泰緬鉄道には、多くの観光客が、溢れていた。特に、欧米人である。
橋を行き来する、汽車に乗って楽しんでいる。

野中が言う。
「彼らのお祖父さんたちが、ここで、多く死んだことを、知っているのか」と。
日本軍の捕虜になり、壮絶な鉄道工事に、命を落としたのである。

カンチャナブリーという、田舎町は、この泰緬鉄道によって、多くの収入を上げている。
「戦場にかける橋」という映画で、有名になったのである。

暢気に、汽車に乗っている様は、アホ面である。

私は、観光に来たのではない。
追悼慰霊に、来たのである。
すぐに、慰霊塔に、向かった。
まず、戦争記念館があったが、そこには、入らなかった。見るものは、想像がつく。
気分が悪くなるだけである。

すぐに、慰霊塔に向かった。
慰霊塔の場所には、一人の、おばさんがいた。管理をしているのであろう。

私は、木の枝を折り、御幣を作った。
そして、供物を並べて、御幣を献上し、祝詞を唱えた。
暑い。
汗が、体中から、滴り落ちる。
野中が、私のために、大きな日傘を、指してくれた。

神呼びをして、祝詞を上げる。
ところが、いつもと、違うのである。

何か、通じない気がする。
変だ。
私は、真剣に、祝詞を献上した。
しかし、跳ね返るのである。

これは、本当に慰霊塔か。
この慰霊塔は、日本軍と、犠牲になった、多国籍軍の兵士が祭られてある。

結果は、この慰霊塔は、過ちか、封印されてあると、感じた。

封印である。

封印とは、その場所に、固定されて、動かないという意味である。
何故、封印したのか。
いや、きっと、封印するつもりはなかったのである。
しかし、結果、封印するような慰霊になってしまったのである。

慰霊塔を、建てた時に、何がしか、封印するような、状況にあった。勿論、慰霊塔を建てた人、そして、魂入れをした人は、そんな気持ちは、なかった、しかし、封印のような状況になってしまったのである。

封印とは、御霊を、固定して、自由を奪ったということである。
そして、封印するという場合は、その霊体が、とても強く怨念や、憎悪を持ち、多くの災害や、不幸を引き起こすと考える場合に、止む無く行う、封じ込めである。
更に、人霊に対しては、そのようなことは、行わない。
諭しても、理解しない、人の霊以外の場合である。

これは、ゆゆしきことである。

これについては、多くの説明が必要である。

私は、愕然とした。

慰霊旅日記 2

その、慰霊塔は、泰緬鉄道建設に従事して、亡くなった、連合軍ならびに、労務者、関係者のための、慰霊碑なのである。
この、ならびに、関係者というのは、日本人兵士のことである。
日本兵と、書かれなかったことに、疑問を感じる。

その碑の、文面である。

泰緬旬連接鉄道建設間不幸病ヲ得テ斃レタル南方各国労務者及捕虜ノ為此ノ碑ヲ建テ恭シク其ノ霊ヲ慰ム
昭和19年2月 日本軍鉄道隊

お解りであろうか。
日本兵の、追悼慰霊と、あからさまに書けなかったのである。
当時の状況を、思えば、いたしかたないことである。
これでは、連合国軍の人々、捕虜のためと、労務者といわれた、タイ、ビルマ、中国人等の、慰霊碑ということになる。

南方各国労務者及び捕虜となっているが、労務者の中に、日本兵も含まれている。
兵士に、何の問題も無い。日本兵も、犠牲者である。
しかし、当時、日本兵は、日本軍の側にいて、それは、加害者意識が強かったといえる。

私が、その付近の木の枝を取り、御幣を作り、簡素なもので、祝詞の後に、清め祓いを行った。
炎天下の中での、祝詞は、汗だくになったが、それよりも、何か通じない感触に、何度も、気を集中したが、矢張り、通じないのである。

私は、再び、クワイ川鉄橋に向かった。
その、鉄橋の上で、清め祓いをしょうと、思った。
ただ、観光客が、込み合い、川に掛かる線路の上を歩く人も多い。

観光用の、列車も、頻繁に走る。
それを、皆、橋の各所にある、溜まり場で、やり過ごす。

私は、一つの、溜まり場に出て、川を、慰霊碑に、見立てて