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遥かなる慰霊の旅 アーカイブ

2007年11月14日

遥かなる慰霊の旅・タイへ

遥かなる慰霊の旅・タイへの旅

11月1日、晩秋を過ぎて冬を感じさせる寒さを感じる日の朝、タイ行きの最終の準備をして、部屋の中を整理し、出掛けた。

実は、その前日、父が、10年程再発しなかった、喉頭癌が再発し、手術をしていた。手術は、うまくゆき、大丈夫とのこと。しかし、高齢でもあり、そう長くは無い。
それも、覚悟していた。声を失った、父とは、話が出来ないが、父は、母や、弟から、私が、タイに慰霊に行くと聞いているはずである。

父は、最期の少年兵である。
志願兵である。
15歳で、お国のために、死ぬ覚悟で、出兵した。
しかし、戦場に出る前に、終戦となった。
もし、終戦が少し遅れていれば、父は、死んでいた。
そして、私も、この世にいない。

バンコクを経由して、チェンライという、北部タイの町に向かう。
乗り継ぎのために、バンコクに一泊することにしていた。

タイは、日本より、二時間遅い。
日本では、深夜12時、タイでは、10時に到着し、タクシーに乗り、バンコク市内の予約したホテルに向かう。

大都会のバンコクの下町にある、安いホテルである。
翌朝、朝食を済ませて、空港に向かうので、十分なホテルだった。
夜の街に出ることもなく、私と、同行の野中は、シャワーを浴びて、ベッドに着いた。
勿論、すぐに、眠ることは出来ない。いつもの癖で、寝つきが悪い。
長旅に疲れは、禁物なので、睡眠導入剤を飲む。
そして、少し缶ビールを飲んだ。
しかし、本来ビールは好きではない。すぐに飽きて、止めた。

日本でも、私の朝は早い。五時から六時に目覚める。
バンコクの朝も、五時に目が覚めた。
目覚めながら、ベッドにいた。
そして、本日の予定、チェンライでの予定を、反芻していた。
強行な予定ではない。
ゆるやかな予定である。決して、無理をするような計画は立てない。

昨日のタクシーを野中が予約していた。
10時になると、タクシーが来た。
5分遅れである。しかし、ホテルに、タクシー運転手から、遅れるとの電話が入ったそうだ。野中が言う。そんなことは、なかったと。きっと、私が、着物を着ていたので、タクシー運転手が緊張したのだろうという。

この、着物姿は、実に、有効だった。
色々な旅の時に書いたので、省略するが、着物の威力は、凄いものがある。
着物は、信用であり、権威であった。

さて、順調に、新しいバンコクの空港に着く。昨日も、新しい空港に着いた。古い空港は、まだ利用されているが、国際線からの、乗り継ぎは、新しい空港が、便利である。

新しい国際空港は、バンコク市街の東約27キロにある、スワンナプーム空港である。
古い、ドン・ムアン空港も、市街から北20キロにあり、現在も使用されている。

チェンライ行きの飛行機は、国内線専門のエア・アジアである。
国内線の格安チケットを売る。座席の指定なく、機内の飲み物サービスも、有料である。

国内線は、陸の上を飛ぶ。海がないから、下界は、山々と、続く。飛行時間は、一時間と少しで、東京札幌間程度である。

田舎の空港である。
早速、タクシーに乗り、市内に向かう。宿泊ホテルを決めていないので、市内の中心に向かってもらった。目印は、時計台である。
ただし、時計台は、改装中であった。
20分程で、市内に入り、下りた前の中華料理店に入った。
料理店といっても、オープンになっていて、地元の人の食堂である。
タイラーメンと、よく解らないが、店先にある、ケースの品を指差し、注文した。すると、注文したものを、横のガス台で、焼いてくれる。

シュウマイに似たものと、小さなアンマン。何となく、美味しいので、更に、もう一つ頼んだが、今、それを、思い出せない。
その店にいると、私の子供の頃の風景がある。40年ほど前の、北海道の田舎街の風景である。食堂のイスも、テーブルも、同じだ。
不思議な感覚に襲われた。
今は、田舎に戻っても、そんな店は無い。

気温が思った以上に低い。肌寒いと思う程だ。
同じタイでも、北であるから、当然であるが、南の国のイメージが無い。

食べ終えて、次に、宿探しである。
地図を見て、安いホテルに向かう。ところが、そのホテルが無い。取り壊されていたのである。驚き。
その付近を少し歩く。
ゲストハウスの前に来て、声を掛ける。
野中に、部屋を見せてもらうと言い、私が中に入った。
確かに、安いだけある部屋である。問題は無いが、最初に泊まるには、少し、寂しい。
気持ちが、萎える部屋は、駄目だと、また、歩く。
今度は、ホテルである。中型ホテルである。
二人で、1200バーツ。約4000円である。
日本円にすると、安いが、現地では、高いホテルである。勿論、まだまだ高いホテルは、ある。しかし、私たちには、高いのである。
最初の一泊を、そこに決めた。ところが、全室、禁煙である。
「あらー、禁煙なら駄目だーー」と、私。英語で、アイ、ヘビースモーカーと言うと、受付の女性が、オッケーと言う。喫煙の部屋があるという。

実は、タイのホテル、ゲストハウスは、禁煙が多い。多くなったといってよい。公共施設、レストラン、等々、皆、禁煙である。しかし、野外は、喫煙できる。暖かい国なので、外でも、平気である。

与えられた部屋は、二階の豪華な部屋である。
そうそう、それで朝食付きである。

部屋が決まり、安堵して間もなく、明日からの部屋と、ミャンマー国境へ行くための、手配をしなければならない。
と、そこで、野中が、自分のリュックを忘れたと、言う。
えっー、どこで。
あの、食堂だと、言って、野中が出た。
私は、冷静に、考えた。
確か、ゲストハウスまでは、背中にあったと思った。置いたとしたら、あの、ゲストハウスである。
戻ると、無いという。
「あんた、あのゲストハウスに行っておいで」と、私。
その時、野中が、中華料理店の主人に親切にしてもらい、色々と、連絡を取ってくれたという。タクシーなら、空港のタクシー乗り場だと、近くの旅行会社に行き、一緒に電話をしてくれた。そして、その旅行会社の人も親切にしてくれた。
そこで、ミャンマー行きのことも、聞いたという。
禍が転じて福となる。
2400バーツで、一日、ミャンマー行きが出来るという。
後で、その旅行会社に行くことにして、まず、ゲストハウスに、野中が、行った。案の定、リュックは、そこにあった。
目出度し目出度しである。

そして、早速、あさっての、ミャンマー行きの申し込みに行く。
約6時間の予定で、2400バーツ。観光、食事込み込みの料金である。
温泉、サルの何とか、色々と、オーナーが言う。私は、ミャンマーに行くだけが、目的だから、聞き流していた。
兎に角、料金を払い、決定した。約6800円である。

そして、最後に、オーナーが言う。
女は、どうすると。
女学生なら、一晩、4000バーツだと言う。約、13000円程度である。
売春である。平然として言うから、驚く。
私が、そういう話を断る時、アイ ライク ボーイと言う。すると、何も言わないのである。ボーイが好きなのだから、女に興味が無いのである。そこまで言わなければ、しつこく、売春を勧められる。ところが、このオーナー、その言葉に、たじろぐ事無く、何度も、私に言うから、驚いた。
誰が教えたのか、オマンコを連発する。
もう、笑うしかない。何を意味するのか、知っているのか、知らないのか。女を、そういうものだと、教えた日本人がいるのであろう。

旅で、問題なのは、食べることである。さて、昼は、夜は、何を食べるか。旅の楽しみの半分は、食べることである。現地のものを、食べる。それは、現地を理解する、最高の手立てである。そして、市場、スーパーでの買い物。私は、これが、大好きである。

2007年11月15日

遥かなる慰霊の旅 タイへ2

遥かなる慰霊の旅・タイへの旅 2

長旅では、決して無理な予定は立てない。
必ず、一日を置き、間を置いて行動することにしている。
前回のタイでは、野菜サラダを食べて、当たり、一日寝ていることになった経験がある。それは、消耗が激しく、辛いものだった。吐き気が止まり、下痢だけになったので、病院に行くことはなかったが、24時間、動くことが出来なかった。

ミャンマーに入る前日は、一日、のんびりと過ごすことにした。
と言っても、ホテルを変更しなければならない。

朝、ホテルの豪華な朝食バイキングを食べて、休み、チェックアウトの12時まで、ホテルにいた。

ホテル探しの前に、昨日の旅行会社に向かった。そこで、紹介されるホテルなら、良いホテルを紹介されると思った。

行くと、私たちを待っていたかのように、昨日のオーナーがいた。
あらら、と思った。社員で、良いのに・・・

ホテルの紹介を言うと、オーナーが、一番良いホテルを紹介した。
通常の日本のホテル並みの料金である。
違う、違う、もっと、安いホテルだと言うと、次のレベルに落とすが、まだ、駄目だ。私の和服のせいで、お金があると、勘違いしている。
「もっともっと、安いホテルでいいの」私が言った。日本語で。通じた。

コテージ風のホテル、実に、その会社の向かいの、ゴールデントライアングルインという、一泊800バーツ、二泊で、1600バーツのホテルに決めた。二泊で、約5200円ほどである。朝食付き。
実は、私は、一泊600バーツほどのホテルを望んでいた。約2000円である。
しかし、妥協した。

オーナーが、私たちを連れて、ホテルに向かった。
二階建てのコテージである。私たちの部屋は、二階の角部屋である。道路に面していて、目の前に、ソニーの看板が見える部屋である。
十分だった。
オーナーは、また私に、オマンコと言った。笑って、済ませた。

その日は、タイマッサージの予定である。
一時間200バーツ、約660円のマッサージである。それが、また、凄かった。
アカ族の女マッサージ師である。うまい。マッサージというより、指圧に近い。
日本の一割の料金で、十分なマッサージを受けられる。これが、タイの魅力でもある。

野中は、少しタイ語が出来るので、アカ族の女と親しくなり、色々と、彼女の境遇を聞いた。未婚の子持ちである。息子は、ミャンマーの孤児の施設にいるという。
ミャンマーのアカ族には、古代の乱交の風習があり、誰の子か解らないらしい。
いずれ、息子には、英語を学ばせたいと言う。日本円にして、一月3000円ほどの資金があれば、それが出来るが、その3000円を得ることが出来ないのだ。

その日の、朝食は、ホテルで取ったが、昼食が思い出せない。手帳見ると、夜に和食とあるが、その和食の内容も、思い出せない。矢張り、細かに書いておかなければ、忘れる。

実は、日本から出る前に、私は、鼻風邪を引いていた。それも、強烈なものである。親切に、子供の鼻をかんであげて、その紙で、自分の鼻をかんで、移ったものである。免疫がなく、治りが悪いので、抗生物質を飲んでいた。
引き続き、風邪薬と、抗生物質を飲み続けていた。

夜の食事をして、野中と別れて、私は、ぶらぶらと、小路を歩いた。
小路の端の、オープンな中華料理の店で、緑茶を頼んだ。
禁煙ではないが、灰皿が無い。
オープンだが、店先のイスに座り、タバコに火を点けた。
灰は、ブリキの缶に入れるらしい。いちいち、立ち上がって、その缶に捨てる。
禁煙運動家には、実に、気分の良い、対処である。
タバコを吸うのが、面倒になるのである。

少しして、私は、ホテルに戻る道を歩く。
その辺りは、マッサージの店が多い。妖しい店もある。
わざわざ、レディーマッサージとある。何となく、理解できる。
そこを通ると、マッサージマッサージと、声がかかる。

その時の私は、タイパンツと、Tシャツなので、それほど、強引な誘いはなかった。
ただ、可愛らしい女の子が、じっと、こちらを見ているのに、心が弾かれた。その顔には、悲しみがある。悲哀といってもいい。
抗えない運命の中に身を置くという、風情である。
生きるため。
生きるためにと、考えて、生きるということを、知らない、日本の若者には、理解出来ない風情である。
食うために、男の性の処理を行う。

チェンマイに行くと、チェンライから来たという者が多い。そのチェンライで、更に、田舎から出てきて、働く。
少数部族の女が多い。
マッサージも然り、体で稼ぐしかない。
うまくいけば、レストランのボーイ、ウエイトレス。ホテルの下働きである。
その給与は、一月、3000バーツ程度。約、一万円である。
しかし、生活が出来ない。それと同じ分を、チップに頼るという。
それで、約二万円。

しかし、私は、哀れむことはしない。する必要も無い。
それが、現実である。
私も、日本にて、現実を生きる。
観光旅行なら、私は、来ることも無い。また、そんな余裕は無い。
慰霊と、ボランティアをするための、支援を受けて、旅をしている。
私も、哀れまれる存在である。

悲しい顔をした彼女は、私を悲しい顔をした、男だと、見ていたはずである。

例えば、私が彼女の一時間を買ったとして、私は、彼女に解消して貰う、欲望は無い。

私のマッサージをして貰う歴史は、長い。マッサージを受けるプロである。つまり、余程の力量のある者でなければ、私を満足させられない。オイルマッサージを、何度かしたが、あんなものは、子供だましである。
逆に、後味が悪くて、凝りが出て、具合が悪くなる。
凝りを取り除くという技は、並大抵ではない。

変な整体に、痛みのないソフト整体などという者がいる。あれは、逃げである。凝りを取り除こうとすれば、当然、痛みがある。生殺しのような、整体マッサージを受けて、何度も、具合が悪くなった。二度と、受けない。
どんなマッサージ師、整体師より、私の方が巧い。何せ、マッサージを受け続けて、30年以上のキャリアである。
理屈ではない。

ちなみに、死んだ人間には、凝りというものが無い。
生きている人間にだけ、凝りというものがある。
生きている証拠が、凝りである。

凝りには、その人の、全人生が表現される。
一時的にでも、凝りを取り除くということは、その人を、一時時に、人生から、解放するということである。
その意識無い者が、マッサージなど、出来るはずもない。

更に言う。

性処理のマッサージも、二度としたくないというものが、本当である。
性とは、繰り返しである。
繰り返しから、逃れられない。つまり、性とは、排泄の快感である。糞、小便と同じである。それが、崇高な生殖に繋がると考えるのは、愚かである。

妊娠から、出産に至り、そこから子育てが始まる。そこに、崇高な行為がある。
性行為が、崇高ではない。
子供が出来てからが、本当である。
だから、生み逃げする男などは、最低最悪である。

性処理マッサージは、商売として、堂々としたものである。
毎日、食堂で、食べるように、性処理マッサージで、処理をする。それでいい。それで、生計を立てる者がいる。
経済行為である。

日本も、戦後、女の股で、ドルを稼いだ。
韓国でも、女の股で、外貨を稼いだ。中国もであり、その他、多々ある。
政府は、女に感謝して、余りある。
女の股が、国の経済を立てる。
正統な売春に、異議申し立て出来る者はいない。
正統な売春とは、児童買春以外である。男も、体を売って稼ぐといい。売れればである。

遥かなる慰霊の旅 タイへ3

遥かなる慰霊の旅・タイへの旅 3

ミャンマー国境の町、メーサイへ向かう。
ホテルを朝、10時に出発する。
乗用車には、運転手と、オーナーがガイド役で、同乗。
この、オーナーが、兎に角話しがしたいようで、英語でまくし立てる。それも、よしと、タイ、最北の町に向かう。

運転手は、19歳の、まだ少年の面影のある子。英語ができないゆえに、話ができない。
運転が上手で、思った以上に早く、メーサイに到着した。約一時間である。

町に入ると、俄かに活気がある。
そして、国境の前の広場は、人の波である。

二時間の約束で、オーナーと別れる。
二時間あれば、川で、慰霊が出来ると考えた。
また、子供服も、携えていた。

まず、タイ側で出国をし、橋を渡って、ミャンマーに入る。
10ドルを支払い、出国審査を受ける。
パスポートを預けて、預り書を貰う。
ミャンマーは、タチレクのみに入るので、スムーズである。
ただ、半日程度の観光客が多いので、並んでいる。
皆、欧米人である。日本人の姿は、見なかった。

ようやく通されて、橋を渡り、タチレクの入国審査である。
問題なく、スムーズに進む。

橋の上でも、商売が行われていた。
驚いたのは、海からのカニを売っていたことだ。タイ人なのか、ミャンマー人なのか、解らない。
野中が、タイ語で話すので、タイ語も通用するようである。

タチレクに入ると、すぐに、トゥクトゥクの誘いである。
バイクに、荷台を取り付けて、二人の客を乗せられる。
一人100バーツで、市内観光が出来る。
おじさんは、タチレクの名所の写真を見せて、すべて回ると、言う。言葉は、解らないが、そう言っていると、解る。
私は、町を見下ろせる、寺、パゴダを指した。
そこを見てから、川沿いに行こうと、思った。

町一番の寺には、人がまばらである。
小学生ほどの年齢の少年僧の姿が、目に付く。

まず、寺の本堂に入り、黙祷する。
横で、地元の人が、礼拝していた。
着物姿からか、別の観光客をつれて着ていた、男が、私に説明するから、おかしかった。
片言の英語で、よく解った。
片言の英語しかできない私には、片言の英語が、通じるのである。

仏像の話をするのは、難しい。
日本の仏像のイメージではない。仏像に対する認識が違うのである。
これは、後で、タイの仏教を語る時にも、書くことにする。

ただ、あちらの仏像には、霊的波動が強いということだ。
それは、人霊の憑依現象である。
あちらの人は、寺、仏像即、仏の世界である。
当然、死後、寺に集う霊もいる。

寺を終わり、その上の塔へ向かう。
そこからの眺めが、素晴らしい。八方を眺めることが出来る。

実に、親切な女が、礼拝の仕方を教えてくれた。
塔の周りに、七体の仏像があり、生まれた曜日による、仏様である。
花と、鳥籠を買う。鳥籠には、すずめが入っている。

仏像の前での礼拝の仕方を教えられて、仏像に手を合わせ、水を掛ける。
その時、私が、よく解らないので、後ろから、日本語で、三回、二回、一回と、教えるものがいる。振り向くと、少女である。
女は母親で、少女は、その子であった。

水を掛けて、すべてが終わると、すずめを放つのである。
それで、完了。
すると、少女が、チャイナブッダ、タイブッダ、ビルマブッダと、指差した。
その場所に向かう。

四体の仏像がある。
皆、造りが違う。
何となく、中国の仏像、タイの仏像、ビルマの仏像が解る。
そして、少し離れてある仏陀の像は、インドの姿だろうか。

ここでは、仏陀が、普遍的存在の、ブッダとしてある。
ブッダは、仏の総称であり、実在の仏陀を言うのではない。
タイも、ビルマも、小乗仏教が伝わった。
これについても、後述する。

一応の礼拝が終わる。と、途端に、親子が、袋から、何かを取り出した。
物売りだった。
次から次と、売る物が出てくる。
私は、少女の20枚で100バーツの絵葉書を買った。
しかし、これはどうだ、これはどうだと、出てくる。
一々断るのが面倒なので、立ち上がった。
タイ語で、コークプンカップと、お礼を言う。

これ以上、押し売りされると、折角の気分が悪くなると、出口に向かった。
野中も、そくそくと、戻ってきた。

客が少なく、私たちに、バーイと、言う。
その時、少年僧三人が、道とは別の場所から、現れた。
私は、すぐに小銭を探して、彼らに供養した。
丁度、野中がいて、写真を撮る。

トゥクトゥクに乗り込んで、道を戻る。
少し、名残惜しい気がした。物売りが無ければ、もう少し、時間を持って、暫く、周囲を見渡していたいと思った。
タチレクは、小さな町である。その町に、人種の坩堝があった。
ミャンマー人といっても、多くの少数部族がある。
そして、インド系の人。タイ人もである。中国人も、勿論いる。
それらが、ミャンマー人や、タイ人として、括られる。

トゥクトゥクのおじさんは、どういうつもりか、街中を走る。何も言っていない。
屋台のもの売りの市場に出た。
一斉に、物売りが寄って来る。
ゴーゴーと、おじさんを促す。

おじさんが、何を考えているのか解らないが、教会、キリスト教会に連れてゆく。プロテスタントのバプテスト教会と、カトリック教会である。
写真にある、観光名所を示さなかったので、おじさんが、気を回しているようだった。
そこで、私は、おじさんを止めて、川沿いに行くことを言う。しかし、言葉が通じない。
野中が、英語、タイ語で言うが、駄目。
何としても、通じない。
頷くが、また、別の場所に行く。

教会の前に戻る。
その時、一人の黒人が現れた。
宣教師であろうと、思った。
私たちの話を聞いて、通訳に出てくれた。
もう、二時間に迫り、いまから、川沿いに行っても、無理だろうと思い、元の場所に戻ることを、伝えてもらう。漸く通じて、発進した。

元の場所に戻り、私は、慰霊が出来ないことと、子供服を、少数部族の人に渡せないことが、残念だった。
残り時間は、15分程である。その時、トイレに行きたくなった。が、見当たらない。しかたなく、下町の中に入る。トイレを借りようと思った。
そこが、下町の、囲いのある場所だとは、後で知る。

老人に、トレイを借りたいと、野中が、タイ語で言うと、通じた。
一件の家を示された。そこに、女の子と、男の子、そして、二人の幼児が寝ていた。
トイレを借りて出た。
そこで、子供服を上げたらと、野中が言う。
打って付けだった。早速、取り出して、女の子と、男の子に合うものを、探す。そして、寝ている幼児の服も、多くあった。大半が、ぴったりである。そして、まだ残るものを、先ほどの老人に託した。
老人が、その地区の警護役だと、写真で知ることになる。

2007年11月16日

遥かなる慰霊の旅 タイへ4

遥かなる慰霊の旅・タイへの旅 4

いよいよ、国境を越えて、再びタイに戻る。
名残惜しい。
二時間は、あっという間であった。
何より、川沿いにて、慰霊が出来なかったのが、残念である。勿論、どこの場所でも、出来るが、ミャンマーである。怪しまれて、尋問を受けるということになれば、大変なことである。
この地にも、多くの日本兵が、辿り歩いた土地である。
しかし、もう時間が無い。

国境を戻る。
すでに、一時を過ぎている。
腹も空いた。

国境を渡る橋で、彼らと出会った。
それは、橋を拠点にして、生活する、アカ族の子供たちである。要するに、ストリートチルドレンである。
まず、私の傍に来て、缶を差し出す。お金を恵んで欲しいというものである。
小銭を出して、その中に入れた。すると、次から次と、やってくる。
私の周りに、子供が溢れた。

その中に、一人、賢い顔の男の子がいた。
子供たちは、貰った小銭を彼に渡している。要するに、その中の、主、オサなのである。
彼は、子供たちに、分配する役割を持っていると、見た。
その彼の白いTシャツは、煤けて、真っ黒になっている。

彼は、私たちが、ミャンマーの手続きを忘れていることを、教えてくれた。
そのまま、タイの国境に向かっていたのだ。
再度、戻り、ミャンマーを抜けることが出来た。

その時である。あの、子供服をと思った。しかし、もう一枚も無い。

私は、タチレクの街中でインド人が売っていた、揚げ物を、彼に渡した。
興味本位で買った揚げ物だった。後で、どんなものか、食べてみようと思ったのだ。
彼は、それを受け取ると、皆に、分配した。
さすがだった。

少数部族に関しては、多くを知らないが、実に、多くの部族がいる。
中でも、有名なのは、アカ族である。
実は、この地は、アカ族の支配にあった土地である。しかし、彼らは、追われて、分散し、ミャンマー、タイに、点在している。
ミャンマーにいるアカ族が、特に貧しい。だが、貧しいといえば、多くの少数部族は貧しい。ろくな、衣服も無い部族もいるという。

そこで、あることを、聞いた。

貧しい少数部族に、キリスト教の布教が入っているという。
私も、タチレクで、プロテスタント、カトリックの教会を見た。
プロテスタントは、数多く、多くの派閥が参入している。

少数部族を、キリスト教に改宗させるという、傲慢極まりないことをしている。
そして、その方法である。
断じて、許し難いのである。

教会に出ると、お金を出すのである。
そして、村の中心人物に目をつけて、それを、懐柔する。勿論、お金である。
そして、村の人々を教会に通わせる。
それが、それまでであればいい。しかし、それが、逆効果を生む。
教会に行けば、お金が貰える。すると、働かない。そして、余裕が出来ると、麻薬をやる。

国境地帯は、麻薬の温床である。

勿論、キリスト教の信仰を拒んで、お金を貰わない部族もある。
貧しいままで、自分たちの信仰を守る。というより、伝統を守るのである。

キリスト教徒は、売春を事の他、嫌うが、キリスト教徒である、売春をするのは。ヨーロッパ系の男は、大半が、タイ人の女を連れている。
勿論、欧米人だけではない。多くの国籍の者、売春をする。
それは、それでいい。

しかし、キリスト教を布教するために、お金を使用するとは、許せないのである。
つまり、体は、買わないが、心を買うということである。
それを、私は、売心と言う。
ばいしん、である。

買春をする者を、キリスト教徒は、裁くが、心を買う行為を平然と行う。
それらの、お金は、本国の信者から、集めたものである。
キリストの教えを伝えるためにという、大義名分で、思う存分に、寄付を募るのである。

そして、最も大切な、部族の伝統を破壊し、平然として、誤りのある、キリスト教を伝える。
一神教が、現在の世界の、大きな罪悪であることを、彼らは知らないし、知ろうとも思わない。信じてしまえば、元に戻らないのが、一神教である。

欧米諸国の傲慢は、キリスト教に象徴される。
ここでは、教義に触れないが、彼らの神学は、完全無欠に誤りである。
それは、唯一の神というからである。

この宇宙に、唯一の神という存在は無い。

更に言う。
チェンマイにて、野中が、プロテスタント系の教会に、何度か出掛けて、その教えの様を、見聞してきた。
明らかに、タイの国情を混乱させる教えを、平然と行っている。
タイは、九割以上が、仏教であり、それは、宗教の域を超えて、伝統となっているのである。加えて、ピーという、精霊信仰である。仏教以前の、タイの伝統的信仰形態である。
それを、簡単に破壊する。

我のみが正しいと、キリスト教徒は、どれ程多くの人の命を奪ったか知れない。
侵略というならば、アメリカなどは、とんでもない侵略をしたのである。数限りない、インディアンを殺しつくして、アメリカという国を建てた。清教徒というが、とんでもない。悪教徒である。

スペインなどは、アメリカ大陸で、現在のブラジル、ペルー、チリなど等の、原住民を一億人殺したのである。カトリックの名においてである。

ただ今、タイに布教するキリスト教は、タイの伝統を破壊し、果ては、対立をもたらす。
タイ南部では、イスラムが、仏教徒を殺すと言うテロが、横行している。これに、キリスト教が絡めば、また、大変なことになる。

まず彼らがやることは、罪の意識を植え付けることである。
タイでは、何でもなかったことが、罪と意識される。そして、次に、マインドコントロールである。
洗脳するのである。

他宗教に免疫の無い、タイの若者が、その罠に嵌る。
一見して、ボランティア等で、良い行為をしているが、元を辿れば、布教である。彼らは、無償の行為などしない。神の愛が、アガペーという、無償の愛と言いつつ、彼らは、信者獲得のために、善行をする。それは、善行にならない。報いを求めるからである。キリスト教への改宗である。

そして、その奥の奥には、白人支配の傲慢がある。
白人のみ、正しいのである。
キリスト教が、ローマカトリックになった時からの、それは、歴史である。
本来の、ユダヤ人キリスト教徒までも、異端として、退けたのである。
十字架に張付けられたイエスキリストを、白人に、置き換えたのである。

主なる、イエスキリストは、ユダヤ人である。

低脳な霊能者をも凌ぐような、低レベルの、霊的行為をもって、洗脳する様を、野中は確認している。
賛美歌を歌いつつ、聖霊が降りたと、若者を騙すのである。
キリスト教徒の上に、聖霊が降りることは、無い。降りるのは、悪霊である。聖霊が降りれば、原爆など投下出来ない。
キリスト教徒の霊性とは、自己暗示である。彼らが、逆立ちしても、太陽の霊性を得ることは出来ない。すべて、実証済みである。

仏陀は、人は行為によって、成るものに成ると言う。実に、正しい。
キリスト教徒の行為を見よ。それで、十分であろう。

タイには、いや、ミャンマーにも、続々と、キリスト教の布教が入り込んでいる。イスラムとの、戦いである。世界は、イスラムに傾いている。巻き返しを行っている。
私は言う。決して、キリスト教によって、救われることはない。混乱を招くのみである。

遥かなる慰霊の旅 タイへ5

遥かなる慰霊の旅・タイへ 5

タチレクの国境を越えた。
タイに戻る。
心なしか、後ろ髪を引かれる思いがした。二時間は、やはり短い。
ああ、これが人生かという思いと、共に、ここに、再び来るという、強い思いである。
それが、確実になったことがある。

野中が、オーナーと連絡して、待ち合わせの場所を決めている間に、私は、路上でミカンを買った。
一つを食べ、旨いので、もう一つを食べた。
野中が呼びに来たので、後を付いた。
国境の境目に外から向かう。
丁度、そこに、タイ最北の碑があった。
その時である、ハローと叫ぶ声がする。
何度かの声に、私は、国境の鉄格子を見た。
あのアカ族の主、オサである少年が、私に声を掛けていた。

私が食べていたミカンを、くれ、と言っていると感じた。
すぐに、傍に近づき、金網越しから、一つミカンを差し出した。
それを受け取る。

頷いた少年に、私は、感動した。
単なる、物乞いだったとしても、私は感動した。
後で、すべてのミカンを上げなかったことを後悔したが、これこそ、後の祭りである。

来年、もう一度来て、あの子に、大金を上げようと思った。
大金といっても、あの子にとっての大金であり、日本円にして、五千円程度である。
それを、元手に、物乞いではなく、物を仕入れて売ることを教えたいと思った。
子供たちの、主、オサになっているのである。賢いはずだ。

橋の上で、生活しているアカ族の子供たちに、その場で、生きるべくの支援をしてもいいだろう。
今日を食い凌ぐことで、精一杯なのだ。
そこに、ほんの少しの援助があれば、何とか、新しい道を踏み出せる。

再び、ここに来ると、決めた。
彼らに会うためである。
そして、川沿いでも、慰霊を行うと、再度、決めた。

車に乗り込み、メーサイ一のレストランに向かった。
それも、コースの中に入っているのだ。

国の違いが、ハッキリと解る。
タイに入ると、建物から、違う。
タチレクと、メーサイでは、その様が、全く違うのだ。

レストランでは、昼食のバイキングである。
焼き飯、焼きソバから、名前の解らない食べ物が沢山ある。
口に合わないが、食べた。空いた腹を満たすためである。
スープソバも食べたが、調味料の混ぜ合わせに慣れていないゆえに、へんてこりんな、味になる。
口直しに、甘いお菓子を食べる。お菓子は、美味しい。

食べ終わり、私は、一足先に、店先に出て、タバコをふかした。

空を見上げると、曇っていた空に、薄っすらと、日差しが差している。
何とも言えぬ気持ちである。
一年前には、考えていなかった、旅である。
まさか、タイ最北の地に来て、ミャンマーに入るとは。

オーナーも、運転の少年も、野中も出てきた。
オーナーが、ショッピングと、何度も言う。
レストランの隣に、装飾品の店がある。
そこに行けということなのだ。
愛想程度に入ってみることにした。

一人の若い女性店員が、私に、張り付いた。張り付くという程の、接近である。
私、あなた、割引する。それを、繰り返すのである。
視線を向ける物を、すぐに、目の前に取り出す。
商魂というのか、何というのか、殺気まで、漂う。

私は、着物には、何も付けないと、身振り手振りの英語で言った。
それでも、私、あなた、割引すると、張り付いてくる。

やっと、助け舟が現れた。
別の客が入ってきたのだ。
私は、即座に、店を出た。すると、野中も、逃げるように、出てくる。

何事もなかったのかように、車に向かう。
オーナーは、買い物については、何も言わなかった。

温泉、サル、何とかのこんとか、オーナーが言う。
野中が、私に、聞く。
どこかに連れて行きたいようだとのこと。
しかたなく、温泉と言った。本当は、疲れ切っていた。
タチレクの町での、緊張感が、どっと出た。

車が走り出す。
オーナーが、温泉の説明をするが、もう、黙って聞いていた。何を言っているのか、解らない。
うとうとしていると、車が、大きくカーブして、森の中に入った。

海の家のような、オープンな店が何件かある。
オーナーが言う。
生卵を買って、温泉でゆで卵にと。
普通の卵と、鶉の卵のような大きさの卵が、それぞれ、網の袋に入られて売られている。
私は、腹を撫でて、もう十分だと、表現する。
オーナーが、理解したようで、先に進む。

温泉への近道なのか、草の多い、湿地帯を歩く。
温泉の建物があるが、普通の建物である。
幾つかの部屋があり、それぞれの部屋に、浴槽がある。
私たちは、一番大きな部屋を選んだ。
客は、私たちだけである。

部屋には、大きな風呂が、二つあった。
一つの方は、温泉の濃い方で、もう一つは、薄い方である。
窓の扉が、下から上に上げる扉で、全開にしてある。
外では、お婆さんが、山菜を採っていた。

脱衣の籠も無く、そのまま着物を脱いで、湯に浸かる。
確かに温泉である。硫黄の匂いが、強い。
浴槽があるのみの、部屋で、体を洗う場所も無い。ただ、湯に浸かるだけ。

私は、30分程、湯に浸かっていた。勝手に、熱いお湯を注いだ。
野中は、途中で出た。
その湯が効いた。
湯から上がると、疲れが、更に倍加した。

チェンライに着くまで、私は、うとうとして、ぼんやりしていた。
ホテルに着いたら、そのまま、眠ってしまうだろうと思えた。

約七時間の行定だった。
あっという間の出来事だが、密度濃くして、感慨無量である。
一気に終わったのである。
せめて、メーサイに一泊すれば、何とか、気分的にも、安定したであろうと思う。

だが、もう終わった。
最初の目的である、ミャンマー入りが終わった。
部屋の前の廊下に置かれた、イスとテーブルで、ミャンマーの絵葉書を眺めた。
確かに行ったのだと、一人、言い聞かせた。

後は、夜の食事である。
昼間の食事が効いて、腹が空かない。
野中も私も、ベッドに横になった。

手帳を見るが、その夜に、何を食べたのか、書かれていない。思い出せない。
翌日の昼は、イタリア料理で、パスタを食べているのだが、その夜が、思い出せない。
チェンマイ行きのバスに乗る前で、印象があるから、思い出せるが、あの疲れた夜に、何を食べたのか。

酒も飲まずに、早々に、ベッドに着いたはずである。
兎に角、疲れた。昼間の印象に夜のことが、かき消されている。

2007年11月18日

遥かなる慰霊の旅 タイへ6

遥かなる慰霊の旅 タイへ6

チェンマイ行きのバスに乗る。
約三時間のバス旅である。最高のバスを選んだ。一人、280バーツである。約900円。
その下が、エアコン付きで、その下が、普通のバスである。
エアコン付きでいいと思ったが、野中が、最高の方が、私のためにいいと言うので、そうした。
確かに、足を伸ばせて、背凭れは、大きく倒すことが出来る。そのまま、眠られる大きさである。

大半の客が、外国人である。
変なのは、香港映画が大きな画面で、放映されていることだった。ジャッキーチェーンの映画だった。しかし、それが終わると、静かになったから、良かった。
水のボトルと、クッキーの袋が渡された。サービスである。
出発すると、女性の係員が長い挨拶をする。それが、可笑しくて、声を上げそうになったが、我慢する。

さて、チェンライを去るにあたり、少しチェンライのことを書く。

13世紀に、ラーンナー・タイ王国の首都であった。
現在、タイ最北の県都としてある。

私たちが、空港から街に出た中心部に、時計台があり、改装中だった場所から南側が、ツーリストエリアである。
バスターミナルがあり、ナイトバザールや、デパート、土産物屋、スーパーなどがある。
レストラン、旅行会社、バーなどが、集中している。

少し小路に入ると、マッサージの店が多い。
タイマッサージであるが、腕前は、それぞれ。巧い人に当たると、感動ものだ。
先にも書いたが、小数部族出身の女性が多い。
勿論、売春の匂いもある。明らかに、看板に、レディマッサージと謳うものもある。
ただ、大半は、普通のマッサージである。
マッサージ中に交渉して、何とかなる場合もあるのだろう。

国境の街、メーサイから車で、戻る時に、温泉に立ち寄ったことを書いた。
その温泉の後で、道端に、果物を売る店が立ち並ぶ地域がある。
バナナ、パイナップル等である。

野中が、車を止めた。
オーナーが、言った言葉で、食べようと思ったのだ。
チェンライは、タイで、一番が三つあると言う。
一つは、米である。
そして、パイナップルと、ライチである。ライチを、私は知らない。

疲れている私は、何だと、少し苛ついた。早くホテルに戻りたいのにと。
皆、車から降りるので、私も降りた。
野中が、パイナップルを買った。
すると、その場で、皮を切り取り、果肉のみにしてくれる。
その間に、味見用も、出してくれた。
それの、旨いことといったらない。甘くて、何ともよい歯ごたえと、舌ざわりである。
思わず、うまーい、と大声で言った。

皆、うまい、うまいと、食べた。
運転の少年が、四つ買っていた。
余程安いとみえて、100バーツで、お釣りが出た。一つ20バーツとしても、70円程である。

これを書いていて、思い出したことがある。
夜の食事が、思い出せなかったが、和食を食べたことである。

ミャンマーのタチレクから戻って、疲れていたので、和食にしようと、日本レストランに入ったのだ。
レストランと言っても、普通の店である。
そこで、私は、天ぷらそばを、注文して、驚いた。

どんぶりに、そばがあり、てんぷらが、別の皿で出てきた。
天ざるの、温かいバージョンである。
驚いた。その量である。
一つ一つを、そばのどんぶりに入れて食べた。
腹一杯になった。
誰が教えたのか、随分な量で、天ぷらそばというより、そば天ぷらと言う感じだった。
野菜が多かった。エビもあった。三本ほどである。

北海道弁では、たまげた、と言う。
ホント、たまげた。

その後の胃のもたれに、胃腸薬を飲んだのだった。
記憶というのは、それに関連することから、呼び起こされる。食べ物は、食べ物によって、呼び起こされる。

パイナップルは、ホテルに着いてから、また、ゆっくりと、味わって食べた。
矢張り、旨いのである。
それで、思い出したのは、バリ島のパイナップルジュースである。
最初にバリ島に出掛けた時、朝食で、最後に、パイナップルジュースを飲んだ。あまりの美味しさに、何度か、お代わりして、たらふく飲んで、とんでもないほど、腹をふくらませてしまったのである。

それから、暫く、パイナップルジュースを飲まなかった記憶がある。
何事も、程々ということだが、ハメを外してしまうこともある。特に、飲む食べることに関しては、そうだ。

貧乏に生まれたせいか、ホテルのバイキングの朝食は、あれもこれもと、食べ過ぎる。
結局、食べ過ぎて、後悔する。
ただ、私の場合は、最初は、少しだけ取り、また、少し取りとしているうちに、結果、大量になっているということだ。
最初から、多めに取れば、それで十分なのだろうが、取り方が、怪しいのである。分量が解らなくなる。

チェンライの街を観光することはなかったが、一つだけ、野中と、お寺に入った。
最初のホテル近くにある、ワット・チェットヨートという、お寺である。

私が最初に入った。
玄関にいたおじいさんに、土足で上がるなと、言われた。勿論、言葉は、解らないが、伝わった。
野中が後から来た。

最初に、私は、合掌して、黙祷したが、般若心経を唱えることにした。
最後の言葉のみ、原語の梵語、サンスクリット語で唱えた。

タイのお寺は、どことなく、乱雑な感じがしていた。雑然としているのである。
厳かというより、気楽さである。
これが、伝統なのである。

小乗仏教が伝わり、タイという国に、自然に同化した。実は、タイの仏教は、宗教ではない。伝統なのだ。
国民の九割が仏教徒だからということではない。
タイ族の人に、自然に受け入れられたと言う方が当たっている。
仏陀の慈悲の思想が、すんなりと入ったのである。

そして、仏像である。
姿から、その微笑まで、日本の仏像とは、違う。

伝統であるところの、仏教というものを、宗教として、認識すれば、誤る。
それでは、キリスト教や、イスラム教の場合は、どうかと言えば、伝統にならず、宗教になるのである。
それは、教えによる。
神に成るということは、出来ない教えと、仏に成ることが出来る教えとでは、まるで違う。
神という、対立したものを置くものと、仏という、我が内にあるものを観る教えとでは、全く違う。

一神教でも、人間は神の子であると言うが、便宜上の言葉である。人間は、神には、成れないのである。
一神教の最大の矛盾は、神という、超越したものを、理解するということである。同じものでなければ、理解出来ないのである。
つまり、完全無欠、全知全能という神を、人間は、理解出来ない。理解不能なものを、信じるということは、嘘である。

仏陀が、生き方を説いたというと、一神教の人は、それは道徳のようなものであり、宗教ではないという。その通りで、仏陀は、宗教を起こしたのではない。生き方を、説いたもので、宗教ではない。
宗教という、概念は無い。
宗教という概念を置いた、キリスト教、イスラム教とは、意を異にする。
ただし、仏教を宗教として捉える仏教がある。日本の仏教である。その観念を持って信仰するという。観念を信仰するというのである。
違う。これについては、更に、後で語ることにする。

遥かなる慰霊の旅 タイへ7

遥かなる慰霊の旅 タイへ7

チェンマイ郊外に来て、私は目を開けた。
眠っていた。

街というものにも、波動がある。生きている。動いている。
チェンマイの活気が感じられる。
ああっ、懐かしい。一年前の風景が広がる。

どの辺りなのかが、解る。
バスの車掌が、紙タオルを配った。そして、また、挨拶である。
どうも、可笑しい。それがまた、長いのである。
ありがとうございました、だけではなく、時候の挨拶でもしているのだろうか。
笑いそうになるが、堪える。

タイ語は、何となく、柔らかな感じがする。
ほんにゃら、ほんにゃら、と、私には、聞こえる。それがまた、いい。
挨拶が、ほんにゃら、だから、可笑しい、楽しい。

最後の、コープクンカーという、感謝の言葉のみ、理解した。
最後に、カーとは、女性の語尾で、カップと言えば、男の語尾になる。
間違って、カーと言うと、女性、特に年配の女性に、正される。
男は、カップだよって。
夜に、カーと言えば、間違いなく、ゲイになるのだろう。

バス停に到着すると、大混乱である。
タクシーから、トゥクトゥクから、ソンテウという、乗り合い車である。ソンテウは、タクシーのように使用することも多い。
野中が、ソンテウを捕まえた。

それに乗り込み、行き場所は、私が言う。
ターペー門。モントリーホテル。日本語である。
だが、ターペー門は、チェンマイの中心部である。旧市街と、新市街の境目である。ターペーと言えば、必ず解る。

自慢じゃないが、私の英語は、大半がタイ人に通じないのである。
前回の時に、エアポートが通じず、何度言っても駄目で、結局、野中に言わせた。
発音と、抑揚が違うのである。
ェァポートのようになる。
エ・ア・ポー・ト、では通じない。

モントリーホテルは、勿論、予約していない。
行けば、何とかなるのである。
また、その辺りは、ゲストハウス等々、無数にある。泊まれないということはない。だから、安心して、モントリーと言う。

そのモントリーホテルに到着した。
ボーイが、お待ちしていましたという風情で、出迎える。

二人、あっ、ツインルーム。
スリーデー。三泊と言っている。
部屋は、空いていた。料金は、一泊750バーツである。安い。二人で、2300円程度である。
定価は、900バーツである。暇だと、安くなる。暇なのだ。

野中に言わせればいいものを、黙っていられないのだ。
書き込みも、私がする。
全部、大文字で書く。
これっ、何。
仕事だよと、野中が言う。そこだけ、面倒で、デザイナーと、カタカナで書いた。
オッケーである。

ボーイが、荷物を運ぶ。
前回も、最初は、このホテルだった。ただし、知った顔がいないのが、残念。
キティーちゃんのカードを出して、得意になるが、前回は、皆にワーッと言われたが、今回は、誰も言わないので、キティーちゃんと、言うが、反応なし。
野中は、無視している。

クレジットカードの、キティーちゃんが、何となく情けなく思えた瞬間である。

部屋は四階。
眺めは、ホテルの裏側である。だから、旧市街が見える。
目の前は、お寺である。
宿が決まれば、安心する。
時間は、夕方四時過ぎである。

荷物を解き、色々と、着替えを出して、整理する。
これから、暫くチェンマイ滞在である。
明日一日は、のんびりする予定。落ち着くと、今夜の食事である。
疲れたから、和食にしようと言うと、野中も、いいと言う。

バリ島もそうだが、チェンマイも、和食の店が、竹の子のように出来ている。あまりに多いので、競争が大変だろうと思う。
後で聞くところ、矢張り、消滅する店も多いと言う。

六時を過ぎたので、食事に出る。
ホテルの道沿いにある、和食の店に出掛ける。
その間に、市場がある。その、表の棚に並べられた物を見て、驚くのが好きだ。
鳥の頭の空揚げとか、ゴキブリの空揚げとか。見て、驚く。その繰り返し。
怖いもの見たさで、見る。

和食の店に入り、ビールを一本注文する。
だが、この日から、私は酒を飲まなかった。
不思議だった。全く飲まなくても、いいのだ。
飲みたくないのだ。翌日の、バーでも、水割りを貰ったが、全然飲みたくない。ただ、口をつけるだけ。

日本では、毎日、日本酒を飲む。癖である。
場所が変われば、飲まずともよいのだ。

焼きシャケと、寿司を頼む。
野中も、寿司セットである。
味は、期待しない。ただ、それらしきものを、食べるという満足感である。
疲れた時は、タイの食べ物が、負担になるのだ。ストレスになるのか。

腹七部程度で、済んだ。
後は、部屋で、のんびりして、寝るだけである。
野中は、夜中が忙しい。友人たちが、待っている。皆、夜の商売をしている。中でも、レディーボーイたちである。前回に、多くのボーイと知り合いになっていた。それに、七月、八月と、二ヶ月、タイ語を学ぶために滞在していて、親友も出来た。

私が寝る頃に、出掛けて行った。
部屋の扉は、少し開けたままである。これは、海外では、絶対に駄目である。危険が危ないのである。要するに、危険大である。
ところが、このホテルは、安いホテルであり、金持ちが泊まらないと、相場が決まっている。ドロボーさんも、損な場所である。ということで、少し扉を開けて、寝た。
野中がキーを持って出ればいいのだが、互いにそれが、癖になっていた。
しかし、海外では、決してしない方がいい。

どんなに安全でも、フロントのセーフティボックスに、貴重品を預けるのである。部屋の合鍵を、従業員の誰かが、持っているのである。誰が入るか、知れない。
前回は、私も、セーフティボックスに物を預けた。

ホテル側でも、警備員を配置して、深夜の巡回がある。
一度、深夜、部屋の扉を開けて、タバコをふかしていた。警備員が通る。不審そうに、部屋を覗く。当たり前である。そんなことを、する者はいない。

警備員は、考えたはずである。何故かと。この日本人は、空手をするのだ。だから、扉を平気で開けていると。いや、この日本人は、柔道をするからだ。色々と、考えて、通ったはずである。

タイでは、相撲が人気だ。丁度、私が出掛けた時、バンコクでは、世界の相撲大会が開催されていた。
この日本人は、相撲をするのだ。そう考えたのかも、しれない。
そんなことを、考えているうちに、眠たくなって寝た。

不思議なもので、野中が戻ると、目覚める。
確認して、また、眠るのである。

人間には、意識下の意識がある。もう一人の意識である。
これが、曲者である。
必ず、野中が戻ると、目覚めるのだ。そして、確認する。
もう一人の意識を、幽体と呼ぶ場合もある。幽体が、感得して、肉体に教えるという、言い方が出来る。
しかし、あまり真剣に考えることはない。自然の力である。元からあった、力である。

2007年11月19日

遥かなる慰霊の旅 タイへ8

遥かなる慰霊の旅 タイへ8

6日の朝、六時前に目覚めた。
少しぼんやりして、七時になったら、ホテル前のテラスで、コーヒーを飲むことにする。
そのまま、そこで朝食にすることもありだ。

明日は、バンカート学校敷地内にある、慰霊碑に、出掛ける予定だ。
そのための準備は、日本でしてきた。
何となく、予定を確認する。
今回は、特別に、野中が友人になった、タニャンさんという人の、お宅にも、行くことになっていた。
そこで、新しい家に住んで一年を経て、家の清め祓いをして欲しいとのこと。その後で、家族との食事である。

バリ島の時もそうだが、旅で、地元の人の家に、お邪魔するというのは、本当に楽しい。現地の人の家で、食事をするなどとは、普通の旅行では、考えられないのである。
タニャンさんからは、タイに着いた日から、いつ来るのとの、メールが、野中に何度も、入っていたという。

七時に、ホテルの一階のテラスに出て、コーヒーを頼む。
私が一番乗りである。
テラスといっても、歩道の上である。
角にあるホテルだから、車の通りも多い、人の通りも多い。
ホテル前には、トゥクトゥク、ソンテウが、何台も待機している。

前回来た時の、女の子はいなかった。皆、新しい男ばかりである。
ホットコーヒーを注文する。
それで、暫く時間を過ごす。

タイに着いた時から、曇りだったが、本日からは、晴天である。
青さを越えて、紺碧の空が広がる。

結局、朝食をそこですることにした。
メニューを見て、サンドイッチを頼む。ボーイを呼んで、写真を指差すだけである。

その間に、車も人の数も、どんどんと増える。
本日は、日本にエアメールを出すために、郵便局に行く。そして、タイマッサージを受ける。後は、昼食と、夜の食事を何にするのか、決める。

サンドイッチを食べて、ゆっくり過ごして、部屋に戻ったのは、八時半を過ぎていた。
野中は、まだ、眠っている。

洗濯物を入れてと言われた、ビニール袋に、何枚かの下着や、タイパンツを入れる。
タイの洗濯屋さんは、キロ単位で料金がある。
ホテルに出すと、手数料が取られるので、自分で持ってゆく。

歯磨きと、顔を洗い、出掛ける準備をする。
地図を見て、近くの郵便局に行く。
実は、チェンライからも、二枚の葉書を日本に出したが、皆、料金が違うのである。本当に大丈夫かなと、思った。
葉書のエアメールなら、料金は、同じであろうにと。
その確認も込めて、郵便局で出してみようと思った。

郵便局は、ホテルの裏側、旧市街地の中を行く。
ゆっくりと、歩いた。
チェンマイの車道は、信号機があまりない。あっても、歩行者が渡る時間は、10秒である。
だから、無いのと同じである。
車の隙間を縫って、向こう側に渡る。勇気がいる。
そのうちに慣れて、私は、手を挙げて渡るようになった。
勿論、急ぎ足である。

大きな通りを右に曲がり、そして、また、大きな通りを、左に曲がり、交差点に来て、郵便局がある。
15分ほど、歩いた。

先客がいる。
順番の札を取り待つ。
何となく、それが解るのだ。窓口に、番号が出ているから、察する。
私の順番が来た。
葉書を出す。エアメールと言う。
ブスッとした、おじさんである。
何とかかんとかと、言われた。料金である。解らないが、100バーツを出してみる。すると、ポンと、5バーツの硬貨を出された。
高いと、思った。95バーツもする。葉書のエアメールがと、思い、財布に入れて、去ろうとした時、おじさんが、また、お釣りを出した。エッと、私は、それを見た。おじさんが、ニッとして、葉書の切手を見せる。
料金は、これだけという、しぐさである。
お釣りは、85バーツである。つまり、葉書は、15バーツである。約47円。
そんな風に、日本円に換算して、頭の体操をする。

しかし、チェンライの街中の店で、葉書を書き切手を買った時は、もっと、安かった。
皆、無事に届くのだろうかと、思った。
後日、皆、無事に届いていた。そして皆、私が、帰国した後である。

ホテルの位置が解るので、ぶらぶらと歩く。
一度曲がればよいのである。
私は、向こう側に渡り、直進した。

そこで、目にした、マッサージの料金が、一時間130バーツである。安い。
オープンの店内に、一人の若い女性が、寝ていた。
私が顔を出すと、マッサージと言う。私は、頷く。

タイマッサージ ワン アワーと言う。人差し指を立てた。
女性は頷いた。
まだ、初心、ウブな感じである。

イスも無く、ゴザの上にマットが、幾つか敷かれてあるだけ。
道行く人に見られるのである。

私は、一つのマットを示された。そこに、仰向けに寝る。
すると、女性は、ある方向に、合掌する。ああ、お寺で、習ったと思った。そして、始める前にも、合掌した。
足裏から、丁寧に揉む。
典型的な、タイマッサージである。

タイマッサージは、下半身に重きが置かれて、足裏から、足の揉みが、よい。ただし、日本人のように、肩の凝りを取るのには、不十分だ。
勿論、最後に、肩にも、肘で指圧を加えるが、今ひとつである。
時間も、短い。本当は、肩にも、時間をかけて欲しい。

一人のマッサージ師と仲良くなり、それを頼むしかないが、まだ、仲良くなるマッサージ師は、いない。

街中のマッサージは、一時間のタイマッサージだと、200バーツである。130バーツは安い。足裏マッサージは、オイルを使うので、一時間200バーツ。
ところが、高級ホテルだと、500バーツから、800バーツと高い。
料金は、まちまちである。

昨年、何度か行き着けたマッサージ店の料金表示を見て、驚いた。
一時間が、何と100バーツに値下げしていた。

そこは、ホテルの並びの道路を隔てた場所である。
後で行くことになるが、マッサージも、過当競争である。
そこで、一時間のタイマッサージをした時、マッサージ嬢から、結局、私たちの取り分が減ったと聞かされた。
100バーツの30バーツが、手元にくるという。
そこで、オイルマッサージをしてくれと言われた。私も、オイルマッサージは、好かないが、まあ、一度だけならいいかと、オイルマッサージをすることにした。
後で書くことにする。

一時間のマッサージを終えて、ホテルに戻る。
市場を通った。
一度、通りかけたが、戻って、昼食を買うことにした。

まず、ゆで卵二つ。鳥の足一つ。パンを二種類と、もち米の粽のようなもの、二つと、魚の蒸し焼き一つ。別の店で、バナナ一房を買った。これは、帰国の日まで、持った。
タイの、小さなバナナで、青臭い味がする。
行きかけて、パイナップルの果肉を一袋買った。
全部で、100バーツ程度だから、330円。

結構な量になった。
ホテルに着くと、野中が起きていた。
もう、12時になる。

買ってきたものを、二人で食べる。
野中は、タイでは、完全に二食である。食べないのだ。
私は、三食である。
結果、帰国して、太っていた。

後で、野中が、二ヶ月滞在していた時に探した、安い地元の店に連れられて行く。
チェンマイカレーの店では、感激の美味しさだった。そこの、もち米と食べるカレーは、絶品だった。それも、地元の値段であるから、安い。
そして、矢張り地元の人の行きつけの店の、タイ料理である。安くて、旨い。
いつも、人が沢山いた。
ただし、朝七時から、夕方四時までである。家族総出で、店を切り盛りしていた。

食べて少しすると、昼寝がしたくなった。
これは、幸いと、ベッドに横になった。
夜の遅い私は、昼寝をしなけむれば、駄目だ。昼寝で、疲れを取る。

明日の慰霊の様を想像しつつ、眠った。

今回の旅の二番目のテーマである。
一番目が、ミャンマー入りで、慰霊、そして、土曜日のコンサートである。
この三つが、主要なテーマである。

勿論、次に続く計画を立てることもである。
ミャンマーは、来年のテーマになった。引き続き、行くことにする。

この日の夜、私は、野中に連れられて、チェンマイのレディボーイの草分け的存在、マリナの店に行くことになる。
日本で言えば、性同一性障害ということになる。しかし、タイでは、子供の頃から、そのような少年は、女の子として扱われるという、習慣がある。
当たり前のことなのだ。勿論、それを、嫌う男もいる。差別は、タイにもある。

タイ人にゲイが多いということではなく、タイは、比較的、それを公言しても憚らないという国柄である。
女の子同士が、手を繋いで歩いているのも普通で、時に道端で、キスしたりもする。別に、誰も気にする風もない。
ある種の曖昧さがいい。それは、日本人の曖昧さに似る。

2007年11月20日

遥かなる慰霊の旅 タイへ

遥かなる慰霊の旅 タイへ9

11月7日、朝八時に、私はホテルのテラスでコーヒーを飲み、食事をした。
矢張り、サンドイッチである。

本日は、特別な日だった。
いよいよ、目的の慰霊をする。

チェンマイ県バンカート村の、バンカート中高学校敷地内のある、タイ・ビルマ方面戦病歿者追悼の碑に出向いての、慰霊の行為である。

古神道にのっとり、慰霊を行う。

昭和19年、1944年は、敗戦の前の年である。
その二月、牟田口廉也率いる、第15軍が、イギリス軍のビルマ反攻作戦を阻止し、更に、インド国内の反英運動を高揚させるために、アッサム州の州都インパールの占領を目的とした、インパール作戦を計画する。

この作戦は、補給上無理があるとした、考えがあったが、牟田口軍司令官は、作戦を強行した。
第15軍の3個師団が、インド領内に進攻し、アラカン山脈を突破して、インパールに向かうのである。

最初、作戦は、順調に進展した。
四月上旬、インパールの包囲が整えられた。
しかし、空中補給によって、兵力を増強したイギリス軍が、反撃に出る。

補給線上を突かれた日本軍は、武器、弾薬、食料などの補給が届かず、総崩れとなって、退却する。
山岳地帯の退却は、食料、医薬品の不足によって、多くの餓死者、病死者を出す。
この地方が雨期に入っていたこともあり、陰惨を極めたものになった。

退却する兵士の中には、疲労と、衰弱により、自殺する者もいた。
衰弱して回復する見込みの無い者には、手榴弾が渡され、自決を促された。

七月に、作戦は中止されるが、この無謀な作戦の結果、多大な犠牲を出す。
参加人員約10万名のうち、3万の兵士が戦死し、2万の兵士が、戦病死ししたのである。

この失敗によって、ビルマ戦線の崩壊が、決定的になった。
時を同じくして、太平洋戦線で、アメリカからの攻撃を受けて、瀕死の状態になっている。

今は、この作戦の事実だけを、言うのみ。

その後、日本兵の生き残りは、タイ・メーホンソン県から、チェンマイ県の道を通り、撤退するのである。
多くの兵士は、この道の途中で、亡くなった。
遺骨、遺品は、撤退する道に捨てられたのである。

当時、撤退する日本兵に、温かく接したのが、タイの人々である。
食事を与え、負傷した者、マラリアにかかった者を、手当てした。
日本兵も、そこで、タイ人の村の農作業等を手伝い、交流を深めた。

実は、この作戦で亡くなったのは、日本兵だけではない。
当時、一般の中国人を、運搬作業のため引き連れたのである。彼らも、多く亡くなっている。その数は、日本兵より、多いと推測される。また、タイ人も、犠牲になっているのである。

北部タイの、国境付近には、中国人の死者を追悼慰霊する、碑もある。

さて、今回、私が行く、バンカート学校内の慰霊碑である。

平成元年である。
佐賀県の僧侶と、遺族が、カンボジア難民慰問の帰り道、チェンマイ県を訪れた。
それが、始まりである。

その時、出会ったタイの僧侶の言葉が、一行の心を打った。

ここには、まだ多くの日本兵が眠っている。
あなたたちは、それを省みることもない。
そんなあなたたちは、日本人は、人間といえるのか。

それは、衝撃的だった。
一行の中に、何と、その生き残りの人がいたのである。
そして、語り出した。

最初は遺体に土をかけて通った。
次には、遺体をまたいで、通った。
最後は、遺体を踏み越えて、通った。

この事が、きっかけとなり、僧侶と、遺族によって、慧燈財団が設立され、この地に眠る、日本兵の遺骨収集が、始まったのである。

平成5年に、財団は、バンカート・ウィタヤーコム校の敷地を借りて、サンカヨーム寺の、古井戸に埋葬された日本兵の追悼の碑を、古井戸の上に建てた。

更に、遺骨の見つからない、一万八千名の日本兵、軍属、関係者の遺骨を集めて追悼慰霊し、平成13年には、敷地内に、昭和天皇御製の刻まれた、大梵鐘を建てて、遺骨の見つからない人々を追悼慰霊する。

私は、そこに行くのである。

何故、行くのか。
私にも、よく解らない。

もう、20年以上も前のことである。
私のお客さんに、サイパンに通訳の仕事で、よく通う女性がいた。
仕事から帰ると、相談に来るというか、報告と、清め祓いに来た。

今回は、将校の霊でした。
あっ、そう。
そんな、やり取りである。
要するに、サイパンに行くと、兵士の霊、軍人の霊と関わり、体調が悪くなるのである。それで、私の元に来た。
私の、慰霊への、伏線である。

いつか、行くべきだと思いつつ、年月を過ごした。
そして、昨年、思いついたように、慰霊をすべきだと、心に命ずるのである。
それは、即座に行った。
バリ島から戻り、すぐに、サイパン行きを決めた。
バリ島での、日本セミナー開講を計画していたのに、慰霊の行為が、加えられた。

やらなければ、ならないという、ただ、一心である。
その他の、理由が無い。ただ、心の命ずるままに、行動するのみ。

それと、共に、私は、太平洋戦争のことを、調べ始めた。
歴史的事実と、様々な考え方である。
慰霊は、それに、確信を与え、戦争を追体験することになった。

そして、未だに捨て置かれる、多くの日本兵の遺骨である。
信じられない思いだった。
話を聞けば、親兄弟を戦争で失った人が、空の骨箱が来ただけであり、そこには、石が入っていた等の、話である。

こうしては、いられない。
オーストラリア・ダーウィンの、日本軍に攻撃を受けて、市民が400名程亡くなったという場所にも、慰霊に行く意義を見出した。
更に、ミクロネシア連邦の、トラック諸島に沈む、艦船43隻、民間船200隻の、慰霊。
そして、ラバウル、ガダルカナル、ニューギニアである。
まだまだ、ある。

そんな時に、トラック諸島の海底の遺骨が、見世物にされているという、記事を見て、その意を強くした。

霊的存在には、場所は、関係無い。どこでも、追悼慰霊の行為は、できる。しかし、その場所に出掛けるということに、意味があり、その行為も、慰霊の行為になると、直感したのである。
行こうとする心だけでも、追悼慰霊の行為になるとは、初めての体験である。
それ程、戦死者は、悲惨な思いをしたのである。
特攻のみならず、戦争に行くということは、死を意味した。
すべての兵士は、死を受け入れざるを得ない状態に置かれて、辛吟したはずである。
戦争という、不可抗力を受け入れる、彼らの心に、私は、深く打たれた。ここにこうして、平和を享受する私に出来ることは、追悼慰霊の行為であると、確信した。
敗戦から60年を過ぎて、忘れ去られる歴史と、兵士の死の重さを、私は、体験したいと思った。それは、また、祈りであり、歴史を、私のものにするための、行為でもあった。

遥かなる慰霊の旅 タイへ

遥かなる慰霊の旅 タイへ9

11月7日、朝八時に、私はホテルのテラスでコーヒーを飲み、食事をした。
矢張り、サンドイッチである。

本日は、特別な日だった。
いよいよ、目的の慰霊をする。

チェンマイ県バンカート村の、バンカート中高学校敷地内のある、タイ・ビルマ方面戦病歿者追悼の碑に出向いての、慰霊の行為である。

古神道にのっとり、慰霊を行う。

昭和19年、1944年は、敗戦の前の年である。
その二月、牟田口廉也率いる、第15軍が、イギリス軍のビルマ反攻作戦を阻止し、更に、インド国内の反英運動を高揚させるために、アッサム州の州都インパールの占領を目的とした、インパール作戦を計画する。

この作戦は、補給上無理があるとした、考えがあったが、牟田口軍司令官は、作戦を強行した。
第15軍の3個師団が、インド領内に進攻し、アラカン山脈を突破して、インパールに向かうのである。

最初、作戦は、順調に進展した。
四月上旬、インパールの包囲が整えられた。
しかし、空中補給によって、兵力を増強したイギリス軍が、反撃に出る。

補給線上を突かれた日本軍は、武器、弾薬、食料などの補給が届かず、総崩れとなって、退却する。
山岳地帯の退却は、食料、医薬品の不足によって、多くの餓死者、病死者を出す。
この地方が雨期に入っていたこともあり、陰惨を極めたものになった。

退却する兵士の中には、疲労と、衰弱により、自殺する者もいた。
衰弱して回復する見込みの無い者には、手榴弾が渡され、自決を促された。

七月に、作戦は中止されるが、この無謀な作戦の結果、多大な犠牲を出す。
参加人員約10万名のうち、3万の兵士が戦死し、2万の兵士が、戦病死ししたのである。

この失敗によって、ビルマ戦線の崩壊が、決定的になった。
時を同じくして、太平洋戦線で、アメリカからの攻撃を受けて、瀕死の状態になっている。

今は、この作戦の事実だけを、言うのみ。

その後、日本兵の生き残りは、タイ・メーホンソン県から、チェンマイ県の道を通り、撤退するのである。
多くの兵士は、この道の途中で、亡くなった。
遺骨、遺品は、撤退する道に捨てられたのである。

当時、撤退する日本兵に、温かく接したのが、タイの人々である。
食事を与え、負傷した者、マラリアにかかった者を、手当てした。
日本兵も、そこで、タイ人の村の農作業等を手伝い、交流を深めた。

実は、この作戦で亡くなったのは、日本兵だけではない。
当時、一般の中国人を、運搬作業のため引き連れたのである。彼らも、多く亡くなっている。その数は、日本兵より、多いと推測される。また、タイ人も、犠牲になっているのである。

北部タイの、国境付近には、中国人の死者を追悼慰霊する、碑もある。

さて、今回、私が行く、バンカート学校内の慰霊碑である。

平成元年である。
佐賀県の僧侶と、遺族が、カンボジア難民慰問の帰り道、チェンマイ県を訪れた。
それが、始まりである。

その時、出会ったタイの僧侶の言葉が、一行の心を打った。

ここには、まだ多くの日本兵が眠っている。
あなたたちは、それを省みることもない。
そんなあなたたちは、日本人は、人間といえるのか。

それは、衝撃的だった。
一行の中に、何と、その生き残りの人がいたのである。
そして、語り出した。

最初は遺体に土をかけて通った。
次には、遺体をまたいで、通った。
最後は、遺体を踏み越えて、通った。

この事が、きっかけとなり、僧侶と、遺族によって、慧燈財団が設立され、この地に眠る、日本兵の遺骨収集が、始まったのである。

平成5年に、財団は、バンカート・ウィタヤーコム校の敷地を借りて、サンカヨーム寺の、古井戸に埋葬された日本兵の追悼の碑を、古井戸の上に建てた。

更に、遺骨の見つからない、一万八千名の日本兵、軍属、関係者の遺骨を集めて追悼慰霊し、平成13年には、敷地内に、昭和天皇御製の刻まれた、大梵鐘を建てて、遺骨の見つからない人々を追悼慰霊する。

私は、そこに行くのである。

何故、行くのか。
私にも、よく解らない。

もう、20年以上も前のことである。
私のお客さんに、サイパンに通訳の仕事で、よく通う女性がいた。
仕事から帰ると、相談に来るというか、報告と、清め祓いに来た。

今回は、将校の霊でした。
あっ、そう。
そんな、やり取りである。
要するに、サイパンに行くと、兵士の霊、軍人の霊と関わり、体調が悪くなるのである。それで、私の元に来た。
私の、慰霊への、伏線である。

いつか、行くべきだと思いつつ、年月を過ごした。
そして、昨年、思いついたように、慰霊をすべきだと、心に命ずるのである。
それは、即座に行った。
バリ島から戻り、すぐに、サイパン行きを決めた。
バリ島での、日本セミナー開講を計画していたのに、慰霊の行為が、加えられた。

やらなければ、ならないという、ただ、一心である。
その他の、理由が無い。ただ、心の命ずるままに、行動するのみ。

それと、共に、私は、太平洋戦争のことを、調べ始めた。
歴史的事実と、様々な考え方である。
慰霊は、それに、確信を与え、戦争を追体験することになった。

そして、未だに捨て置かれる、多くの日本兵の遺骨である。
信じられない思いだった。
話を聞けば、親兄弟を戦争で失った人が、空の骨箱が来ただけであり、そこには、石が入っていた等の、話である。

こうしては、いられない。
オーストラリア・ダーウィンの、日本軍に攻撃を受けて、市民が400名程亡くなったという場所にも、慰霊に行く意義を見出した。
更に、ミクロネシア連邦の、トラック諸島に沈む、艦船43隻、民間船200隻の、慰霊。
そして、ラバウル、ガダルカナル、ニューギニアである。
まだまだ、ある。

そんな時に、トラック諸島の海底の遺骨が、見世物にされているという、記事を見て、その意を強くした。

霊的存在には、場所は、関係無い。どこでも、追悼慰霊の行為は、できる。しかし、その場所に出掛けるということに、意味があり、その行為も、慰霊の行為になると、直感したのである。
行こうとする心だけでも、追悼慰霊の行為になるとは、初めての体験である。
それ程、戦死者は、悲惨な思いをしたのである。
特攻のみならず、戦争に行くということは、死を意味した。
すべての兵士は、死を受け入れざるを得ない状態に置かれて、辛吟したはずである。
戦争という、不可抗力を受け入れる、彼らの心に、私は、深く打たれた。ここにこうして、平和を享受する私に出来ることは、追悼慰霊の行為であると、確信した。
敗戦から60年を過ぎて、忘れ去られる歴史と、兵士の死の重さを、私は、体験したいと思った。それは、また、祈りであり、歴史を、私のものにするための、行為でもあった。

遥かなる慰霊の旅 タイへ10

遥かなる慰霊の旅 タイへ10

慧燈財団の、チェンマイ事務所、事務局長小西誠さんが、ホテルまで、迎えに来てくれた。

丁度、午後二時である。
すぐに、車に乗り込み、チェンマイの郊外を目指した。

バンカート村は、約一時間程かかる。が、車がスムーズに進み、早く到着した。
学校の敷地にあるので、校門を入る。
学生が、帰り道を、歩いていた。
小西さんは、昨年まで、そこで日本語の先生をしていたのである。
財団派遣の先生であった。

小西さんは、顔見知りの学生に、車の窓から顔を出して、挨拶する。
私たちも、挨拶した。

車は、慰霊碑の場所に、向かった。

校舎を通り、そこを越えて行く。
全く、学校の中である。

車を降りた時、曇り空に、太陽が照った。

慰霊碑の前に行く。
立派な慰霊碑である。

私は、早速、準備をした。といっても、木の枝を少し取り、それに、用意していた、御幣のための、大麻、つまり、紙を用意していた。
おおあさ、大麻と書く。おおあさには、穢れを取り除く力があるとされ、祓いのために、利用された。
それを、木の枝に、取り付けて、完成である。簡単である。

祭壇の前に、花籠と、果物を奉じて、準備が整う。
小西さんが、井戸の上の蓋を開けて、中を見てくださいと、言う。
私と野中が、階段を上り、慰霊碑の上の、蓋を開けて、中を見た。
水が見える。
この下に、500柱の遺骨があると思うと、体が、打ち震えた。

ただ、無臭であり、遺骨が眠るとは思えない、清浄な空気、風である。
創立者の調さんという方は、浄土真宗の僧侶である。当然、読経し、渾身の慰霊を行ったのであろう。
清められていた。

私は、古神道に、則り、清め祓いのために、祝詞を献上することにした。
追悼慰霊の行為である。

石畳に正座して、皇祖皇宗、総称して、天照大神を、お呼びし、続いて、天津神、国津神、そして、その地を治める、産土の神の降臨を願う。
更に、八百万の神、祓い戸の神々の降臨を願う。

ここで、慰霊についてを言う。
生きている者の、満足感を満たすものではない。
私が、追悼慰霊をしたという、満足感を満たすものではないということである。
霊の存在を知る者、その心を透かして、見抜かれると、知る者である。

単なる追悼なのか、慰霊なのかを、見破られる。それは、不遜になる場合もある。

誠心誠意を尽くして、慰霊を行うのであり、自己満足の行為ではない。
故に、私は、語り掛けた。
靖国に、戻られたい方は、靖国に、故郷の地に戻られたい方は、故郷に、次元を別にしたい方は、次元を別にしていただくようにと、宣り言を申し上げた。

私のためではない。
霊的存在になった、皆様のためにである。

強制して、天国へなどとは、言わない。

誰もが、道順というものがある。

百人百様の、道順がある。
また、古神道の形で、神道への誘いではない。
それぞれの、求める、宗派の想いがあるならば、そちらの方である。
祝詞は、言霊のものであり、更に、音霊のものである。
その、音に乗り、それぞれの思いの、道順を行かれるべきである。

前半の祝詞を正座のままで、そして、後半の祝詞を、立ち上がり、献上した。
宗教としての、神道の形式ではない。
無形式の、伝統である、言霊の、力を頼む祝詞である。

朝風夕風の吹き払う如く 
祓い給え清め給えと申す

その、祝り詞の、言霊の音によって、霊的存在が、流れるのである。
その際に、多くの心霊、神霊が、動く。
最早、私の力以外の力が働く。

神も祈られて神である。

更に、御幣を持ち、太陽に差し向けて、太陽の霊気を頂き、清め給え、祓い給えと申す。
辺り一体を、清め祓う。
私の力ではない。

私は、道具になる。

それが終わり、私は、再び正座して、口から出る言葉に任せた。

最初に、念仏が出る。暫くの念仏である。
そして、次に、題目が出る。暫くの題目である。
そして、般若心経になる。

求められるままに、唱える。

30分程の時間を要しての、慰霊の行為であった。

実際、古神道には、祈りの言葉は無い。
黙祷のみある。

言挙げするものは、善き言葉だけである。
実際、最後は、ただ、おーーーと、お送りする言霊、音霊のみになる。

日本語は、一音に意味がある。ただ、それを行うだけでいい。

古神道にも、様々な考え方がある。しかし、私は、宗教という認識は無く、また、行者のような考え方も無い。勿論、人それぞれの方法があってよい。否定はしない。
ここで、私が宗教家のように、考えられては、誤るのである。

私は、日本の伝統に添って、行っている。つまり、誰もが、実践出来た時代の様である。持ち回りで、誰もが、祈りの主になれた、古代の伝えを行為しているのである。
特別な霊的能力があるとか、宗教の形にあるというものではないこと、再三言う。

私でなければ出来ないということは、一点も無いのである。
誰もが、行うことが出来るものである。

宗教的論争はしないのである。
古神道は、宗教では無い。

次に、私たちは、梵鐘に向かった。
鐘楼に上がり、未だ遺骨の発見されない兵士の霊位に、心を込めて、その音を響かせた。
これも、音である。

原始体験にある、音の威力を知るものである。

音は、波動である。霊は、波動に乗り、流れる。
これ以上は、省略する。
語り切れない。

追悼慰霊が終わり、学校の事務室に行き、子供たちのプレゼントである、ノートと、ボールペンを先生たちに、手渡した。
いつも、慰霊碑を清掃してくれる生徒たちへの、お礼である。

次に、学校の体育館にて、コンサートを開催する約束をした。
これから、縁ある活動を願いつつ、学校を後にした。

ホテルに戻ったのは、五時を過ぎていた。

2007年11月22日

遥かなる慰霊の旅 タイへ11

遥かなる慰霊の旅 タイへ11

小西さんと別れて、ホテルの部屋に入った。
充実した、疲れである。

暫く言葉が出なかった。
迷いの一点も無い。

今、先ほどの行為が、遠い過去のような、感慨になった。
そして、事の大きさに、たじろいだ。
何という、大それたことを、考えてしまったことか。これを、ただ今の日本人に理解して貰うことは、至難の業であるし、誤解を多く受けるだろうと思った。

説明すれば、するほど、混乱するのではないかと、思えた。
何故慰霊するのかということは、霊的存在を言わなければ、ならないからだ。それは、信じるか、否かになり、追悼慰霊とは、関係ない、議論に陥る。

過去の歴史の検証と言いつつ、ただ、分析に始終していては、学者の無用さである。
検証するとは、追体験し、更に、行為することである。

分析ばかりを、善しとして、後は、何もない。

時間は、六時を過ぎた。
野中に言う。
チェンマイカレーの店に行こう。
胃腸の弱い時に食べると、すっきりするカレーと、聞いていたので、食べたいと思った。
生姜を主にした、カレーもあると言う。この暖かい土地で、体を温める生姜である。暖かい土地だから、体を冷やさないように、体を温めるものを、食べる。

その店は、地元の人の集う、店で、ホテルから、道を隔てた、向こう側、新市街にある。
こんな近くにあったとは。

店内は、開け放たれて、室内にいるという感じがしないのである。

注文して待つと、竹篭に入った、もち米の蒸かしたものが出てきた。それが、美味しい。
それをカレーと一緒に食べるのだ。
一度で、気に入ってしまった。
その後、何度も通うことになる。

確かに、辛い。その辛さがいい。清浄とした辛さである。
食べ終わると、本当にスッキリする。

汗を流して食べた。
食べ終わると、すぐにホテルに戻った。そして、私は、すぐにベッドに体を横たえた。

一度起き上がり、シャワーを浴びて、そのまま寝たのである。
もう、眠るしかなかった。
本日の行為は、大変な労力を使った。勿論、本望である。

珍しく、早く寝た。
そして、朝、早く目覚めた。
忘れない内にと、手帳に、行ったことを書き入れた。
時間の推移と、食べた物なども書き入れた。
書いて置かなければ、忘れる。特に、忘れやすくなっている。

そして、七時になったので、下に降りた。
一階のレストランは、準備を始めている。
私は、テラス、歩道に置かれた、テーブルに