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旅日記2 アーカイブ

2008年10月11日

ベトナムへ

今回の旅を、書き始めるに当たって、非常に良い問題提起を、受けた。

それは、バンコクに出た、5日の日曜日、チェンマイから、慧燈財団の小西さんが、わざわざやって来られて、色々と、お話を聞いた中にあった。

チェンマイで、日本のボランティア団体、NPO関係、そして、地元の、ボランティア団体の人々が、集い、ディスカッションをしたという。
その時、タイ側の人から、こんなことを、日本側の人々が、質問されたという。

日本人の、ボランティア団体の、主旨は、何ですか。
欧米のボランティアの人々の、目的は、キリスト教の布教であると、解りますが、日本の人の、目的が、解らない。
日本国内でも、助けを、必要としている人がいるでしょう。それなのに、何故、タイに来て、ボランティア活動をしているのですか。
そこには、どんな目的があるのですか。
タイを、何か別の目的で、支配したいのかと、考えてしまいます。と、言ったという。

日本国内でも、何にもやらない者が、それに似たような、海外ボランティアをする前に、日本国内の、助けを必要としている人のために、云々という人がいる。

これについて、論じていると、終わらないエッセイになるので、ある程度の、結論的、見解を書く。

ボランティアをするのに、どこの場所などに、拘る必要はない。
国内で、する人もあれば、海外でする人もいる。
それは、どちらでも、いい。

その人の、体質や、性格などによるものだと、思われる。

国内で、しないで、海外でするとは、云々という言う者、それでは、何をしているのかといえば、何もしてないのである。
こういうのは、言葉遊びの何物でもない。

一つ、私の例を、上げると、衣服支援をしているが、それは、すべて、一度着たものである。
一度、人の手を通した衣服を貰うということに、抵抗ある、日本人は、多い。
中には、貧しくても、人様の着たものなど、着られないという人もいるだろう。そして、プライドがある。
幼児、子供の場合も、その親が、受け取るとは、限らないのである。

更にである。
私の、衣服支援は、実に、支援は、困難であり、至難であると言う。
どんなに、貧しいといわれる人にも、生きる尊厳のブライドというものがある。

投げ捨てるようにして、支援をすれば、受け取るどころか、怨みに、変わるだろう。

私は、日本から、衣服を持ってきました。
もし、必要であれば、差し上げたいと思います。
と、必ず言う。

更に、ある年齢の人々には、中学生、高校生程度の人には、いずれ、日本は、あなたたちに、助けてもらうことがあります。そのために、友達になりたいと、思います。
よろしければ、必要なものを、差し上げます。

ラオスで、支援した、スタッフは、一度、二三枚の、衣服を、持参して、村人のところに行き、このようなものを、持ってきましたが、必要ですかと、尋ねて、支援している。

差し上げることは、至難の業なのである。

更にである。
私は、対面での、支援をしている。
一人一人との、語り合いである。
観念の、語り合いではない。

世界の平和について、いくら、語り合っても、平和は、訪れない。しかし、そうして、世界の平和について、語り続ける、アホが、多い。

さて、もう一つ、実に、ゆゆしき、問題がある。
法人として、活動しているように、見せかけて、実は、単なる、金集めである。
それらは、現地の人の見抜かれている、はずである。
しかし、日本では、見抜けない。

タイで、優雅に、暮らすために、ボランティアに似たことを、行い、日本での支援金を、集めるという、面々である。

つまり、それは、商売なのである。
そのように、ある、団体もある。

組織が大きくなれば、なるほど、使途不明金が、多くなる。

結論は、私は、私個人による、支援をするということである。
NPOなどの、法人にしない。
責任も、私一人に、帰結する。

ちなみに、私は、日本国内でも、支援活動をすることにした。
沖縄は、ホームレス天国である。
温かいからだ。
それでは、沖縄には、テラの会の、根幹である、戦争犠牲者の追悼慰霊を、するために、出掛けるので、そこで、衣服支援をするというものである。

私の、活動の根幹は、あくまでも、戦争犠牲者の追悼慰霊である。
日本人だけではない。
日本が、攻撃したり、また、日本軍のために、働いた人々の、追悼慰霊である。

この、追悼慰霊がなければ、私の支援活動も無い。
意味を成さない。
追悼慰霊と、いう、目に見えない行為を、支援という一つの、目に見える形にしたのである。

そして、衣服とは、現在只今、日本では、フリーマーケットや、リサイクルバザーでも、衣服の大半は、売れずに、処理するために、金がかかると、聞いている。
この、豊かな日本では、良質の衣類が、捨てられている。

私も、衣類の捨てる日に、少しばかり、近所を歩いてみた。
すると、そこに、捨てられた物は、すべて、着られるものである。
驚いた。
衣服も、使い捨てなのかと、思えた。

それを、拾い、洗濯をして、干してみると、新しいものと、変わらないのである。

また、今回、ベトナムの人と、お近づきになれた、多くの縫ぐるみは、すべて、私が、拾ったものである。

ゴミ袋に、一つ分である。
何の、問題もないものだった。
その、一つ一つを、点検して、私が、袋に詰めたのである。

貧乏人の、私が、志して、支援をするのは、捨てられる物なのである。
それを、貰って頂くのである。

支援は、至難の業であり、支援は、実に困難な行為なのである。

もし、日本人に、拾った物を、上げたら、何と言われるか。

日本には、物に、心が宿るという、考え方がある。
私は、一度捨てられた物に、心を込めて、差し上げる、という、行為を、アジアの国で、行っているのである。

そこには、何故、日本で、云々という、議論の次元ではないという、こと。

私の、活動は、実に、多岐に渡るテーマを、見いだす。

追悼慰霊から、支援に、至り、更に、それぞれの国の、福祉政策の在り方を、見るもの。
日本が、立派な福祉国家であることが、解る。
勿論、上を見れば、キリが無い。

さて、もう一つは、トランスジェンダーの問題である。
この頃、NHKが、それらの問題を、多く取り上げるようになったという。
その、真意はよく解らないが、今の日本は、テレビの全体主義が、闊歩しているから、一応は、良い事だと、言っておく。

タイの、歓楽地パタヤでは、トランスジェンダーによる、トランスジェンダーのための、福祉施設がある。
公的機関ではなく、アメリカと、タイの有志による、寄付によって、行われている。
今回は、そこで、長い時間、多くの情報を得たのである。

更に、ゲイによる、ゲイのための、施設もある。
次は、そこに、行く計画である。

明治維新は、多くの国の有様を、見聞したことにより、開国と、大政奉還という、大事業を行った。
外の国を、見なければ、我が国の有様を、判断するには、足りないのである。

後進国には、日本では失われた良き文化を見る。
それを、保護しつつ、新しい時代や、世紀に生きる、生き方を、模索する、人々がいる。

私は、それを、30円から、50円程度で、食事が出来る、屋台で食べつつ、考えている。

そんな場所に、そんな安いゲストハウスがあったの。
その辺りに、立つ、売春婦や、体を売る、レディーボーイに、尋ねると、親切に、教えてくれる。

巷の情報は、彼女たち、彼らに、適わない。

バンコク、スクンビットの一角の、中小路で、一人の女性から、日本語で、声を掛けられた。
傍に、座る、物乞いのおばさんがいる。
この、おばさんは、可愛そうな人、20バーツ上げてください。

どうして、日本語ができるの。
学校で、習ったの。
あなたは、何をしているの。
会社が、潰れて、今は、悪いことをしているの。

悪いこととは、売春である。
私は、食べるためにすることで、悪いことは、一つも無いと言った。
そうした出会いが、私の活動の根幹である。

ベトナムへの、長い旅がはじまる。

2008年10月12日

ベトナムへ2

1954年から、1975年の十年間の、ベトナムでの、死者数は、米軍が、58000名強、ベトナム側は、300万人である。

名高いベトナム戦争の、犠牲者である。

アメリカ人が、一人死ぬと、ベトナム人が、50人死ぬのである。しかし、ベトナム人の犠牲者は、民間人も含むので、更に多いはずである。

ベトナム戦争の大義は、ドミノ理論であった。
つまり、南ベトナムが、共産主義の手に落ちると、タイ、インドネシア、フィリピン、日本などの、アジア諸国が、ドミノゲームのように、次々に倒される危険がある、というものである。

1954年、ディエンビエンフーで、フランスが大敗して、北が勝利した時、アメリカ政府は、アメリカ在住カトリック教徒の、ゴー・ディン・ジエムを担ぎ出し、北緯17度線を、軍事境界線として、ベトナム共和国を急遽設立し、ジエムを大統領に据えた。

そして、南と、北を、ジュネーブ協定で、分離を認めさせたのである。

それはまた、北の、急進を好まない、中国の考えとも、一致した。

一方、ホーチミンは、この戦争を、植民地から、ベトナム民族を解放する、民族解放の戦いと、意味づけた。

さて、この、ホーチミンとは、今のホーチミン市のことである。
つまり、人の名を冠して、名づけられた町である。
昔は、サイゴンと、言った。
サイゴン陥落とは、ベトナム戦争終結の言葉とされた。

私は、ホーチミンに出掛けた。
現在のベトナムを、理解する上で、ホーチミンについてを、語ることが、必至である。

ホーチミンは、1890年5月19日に、ゲアン省ナムダン県キムリエン社、つまり、キムリエン村で、生まれた。
本名は、グエン・シン・クンである。

父は、グエン・シン・サックといい、彼は、第三子である。
父のサックは、村で寺子屋の先生をしつつ、勉強を続けて、1901年に、科挙に合格する。
科挙とは、官使東洋試験である。

だが、サックは、フランスが祖国を植民地にしたことを、憤慨する、愛国者であった。
それゆえ、フランス保護の下にある、官使の生活に馴染むことが出来ず、結果、アルコール依存症が原因で、トラブルを起こし、失職する。

クンは、父親の窮状を助けるために、フランスに渡り、定期航路の雑用係りに就いて、ベトナムと、フランスを往復しつつ、父親に仕送りを続けた。

そして、父の愛国の精神を受け継ぎ、フランスにて、祖国の独立を要求する、運動に参加するようになる。

1919年、ベルサイユ講和会議にて、アメリカの、ウッドロー・ウイルソン大統領に直訴しようと、ベトナム人の祖国解放のための八項目要求、という請願書を作成した。
その時、ベトナムの代表として、ホーチミンが使用した名前が、グエン・アイ・クォックというもの。クォックとは、愛国者という意味である。

グエンという苗字は、ベトナムで、一番多い、苗字であり、ベトナム人の愛国者ということで、たちまち、ベトナムの人々の間に、知れ渡った。

そして、政治的活動をしているうちに、左化、左傾してゆくのである。
更に、フランス社会党の創設メンバーとなるが、フランス人の、植民地の惨状に対する理解の無さに、憤ることになる。
その時、レーニンの、植民地問題に関する理解ある論文を読み、急速に、共産主義に、親近感を抱くようになる。

更に、フランス共産党の創設に参加するということになり、その後、コミンテルンのメンバーとして、モスクワに移住するのである。

それから、ベトナム解放のために、本部を説得して、活動の中心を、中国に移すことになる。

ここで、問題は、民族解放を求める、愛国の精神が、それを、理解するという共産主義というものに、曳かれたのであり、共産主義に曳かれたのではないということである。
ここのところを、理解しないと、ホーチミンの主義を、理解出来ない。
共産主義が、主ではない。
民族解放という、愛国精神が、主体なのである。

色々な、研究家が、ホーチミンの思想について語るが、私は、ここのところで、明確にしておきたいと、思う。

方法の問題である。
主義の問題ではない。

自主独立、自主統治である。
それは、後でも語るが、ベトナムの今後の、民主化のために、必要なことである。
現政権である、ベトナム共産党の、共産共和国ではなく、民主共和国にならなければ、発展は無いのである。

1941年、ホーチミンは、30年ぶりに、祖国に戻り、祖国解放のために、指導力を発揮する。

1945年8月から9月にかけての、権力の真空の間に、一気に、独立を勝ち取るのである。

9月2日に、ベトナム民主共和国の独立を、一方的に宣言し、初代国家主席に就いた。

翌年、46年から始まった、第一次インドシナ戦争を指揮する。
54年、先に書いた通り、フランスに致命的な敗北を与えて、戦争に勝利する。

だが、大国が指導権を握る、ジュネーブ会議にて、北緯17度線を軍事境界線とされ、ホーチミンも、従わざるを得なかったのである。

その、カラクリは、東西冷戦が始まり、ベトナムも、その最前線の一つとなっていたからである。

そして、間も無く、ベトナム戦争が勃発する。
ホーチミンは、70歳を超えていたが、軍事問題では、最高指導者として、国民を鼓舞し続けた。

1969年9月2日に、亡くなった。

一旦、ホーチミンについては、置いて、おく。その思想については、実に謎に包まれているのである。


初めての、共産国に入国するという気持ちは、何とも言えないものだった。
事前に、ホーチミンには、公安や、私服警察などが、至るところにいて、見張りをしていると、聞いていた。
更に、路上では、喧嘩などしては、公安に捕まるということも。
また、観光客のための、警察も、緑の制服で、至る所にいるのである。

私が感じたのは、タクシーなどを頼む時も、私服警官のように人に頼むと、ボラれないで済むというものだった。
その人が、警官が否かは、確認できないが・・・

観光客のための、というより、それも、観光客を見張るというものと、考えて良いと思う。

道端で、一人の幼児を抱えて、宝くじを売る、女性に、縫ぐるみを差し上げた時、歩いていた一人の男が、俺にも、と言い、近づいてきたと、すると、至る所から、人が駆けつけて、縫ぐるみを下さいと言う。
その時、矢張り、人が集うので、公安、警察の人が、近づいて来たと、スタッフが言う。

すべての、縫いぐるみが無くなり、人も去って、安堵したが、集会が、禁止されているとのこと。
着物姿の日本人が、人を集めて、何をしているのか、ということになるのである。

ちなみに、最も、貧しい人は、宝くじや、ガム、ティッシュを売り歩く。
日本では、道端で、配られるティッシュである。

一度、私は、夜の食事をしてい時、物売りが、しつこくて、大声を上げて、怒った。
すると、あたり一面が、静まり返った。
皆、私を注目した。
これは、ヤバイと思った。

騒然とした雰囲気は、他の国では、見られないものだった。
私の、怒りまくりは、共産国では、ご法度である。

元々、声が大きい私だが、ホーチミンでは、怒るのを、抑えると、決めた。

2008年10月13日

ベトナムへ3

成田から、ベトナム航空に乗り、ホーチミンに到着したのが、現地時間で、午後二時半である。
日本時間では、午後12時半。
二時間、早い。タイと、同じである。

バンコクに向かう人が、このベトナム航空を使う。

私は、ホーチミン三泊の予定である。

速やかに、入国審査を終えて、ベトナム、ホーチミンに出た。
ベトナム空港の前から、タクシーに乗る。

荷物を持って出ると、必ず、タクシー、タクシーと、近寄って来る者あり。
ハウマッチ。
15ドル。

ちょっと、待って、と、向こうにいる、お姉さんのいる、タクシー乗り場に行く。
ハウマッチ。
8ドル。

何で、15ドルと、8ドルなの・・・
勿論、8ドルの方に乗る。

ベトナムでは、ドルと、ベトナムのドンが、両方使えるのである。
これがまた、私の頭を、こんがらかせるのである。
一ドル、15000ドンである。
つまり、日本円の百円が、約一万五千ドンなのである。

これで、私は、老化防止をする。

タクシーに乗り、知った風に、行き先を告げる。
初めての、場所である。
一泊、22ドルの部屋のある、ホテルの名を告げる。

22ドルは、約2200円である。
そのホテルは、無かった。というより、名が変わっていた。
ある、旅行雑誌に、出ていたホテルである。
しかし、何とか、そのホテルであるということで、探し当てた。

兎に角、二人で、泊まるダブルベッドの部屋が、空いていた。

東南アジアの国は、一部屋の料金である。
一人につきの、料金ではない。
一つの部屋についての、料金である。

日本の、ビジネスホテルの、シングルルームの広さの部屋だった。しかし、設備は、整っていた。
綺麗な部屋である。

しかし、後の、二泊は、他のホテルにしようと、思った。
もっと、安いホテルがあると。
その付近は、多くのホテル、ゲストハウスがある。

夕方の、ホーチミンである。

まず、用意するものは、水。
水を買うために、荷物を置いて、外に出る。
ホテルの前に、コンビ二がある。

ベトナム、ドンでの、買い物である。
空港で、一万円をドンに替えた。
約、150万ドン。

水は、五千ドンから、一万ドンまである。
一番安い、五千ドンの水を、二本買う。
そして、周囲の状況を見るのである。

コーヒーを飲むために、一件の店に入る。
ベトナムは、コーヒーの国であると、知ることになる。
ブラックコーヒー。
驚いた。
出てきたコーヒーの、味は、抹茶のようなもの。コーヒーのエキスのようなものである。
初めて、コーヒーのそのままを、味わった。
コーヒー本来の、甘さである。

非常に濃い。その濃い加減が、コーヒー本来の、甘さを引き出している。

私は、お湯を、貰った。お湯で、割るのである。
到底、飲めないのである。
濃すぎる。

ベトナムは、コーヒーの産地で、有名である。

茶の湯を、やっていたので、茶本来の味というものを、知っていたことが、幸いした。
苦味にある、甘味である。
そして、その、香り。
ベトナムでは、それが、当たり前のコーヒーなのである。

支払いの時、二人分で、三万ドン。約、200円である。

支払いの後で、私は、いつも、ドルに換算し、そして、日本円に換算した。ボケない、頭の体操である。

さて、ベトナムで、最初に食べたのが、フォーである。
米の麺による、スープ麺。
薄味で、実に美味しく感じた。
何も、味付けをせずに食べて、私は、十分だった。

最初は、レストランのような店で、食べたが、それからは、屋台、路上で店を出している所で、食べた。
一万ドン程度、つまり、75セント、約75円である。

朝の食事は、フランスパンと、玉子焼きで、二人で、八千ドン。
二人で、百円もしない、朝食である。

フランスパンは、どこにでも売っていた。
フランスの植民地時代に、ベトナムの食生活が、大きく影響を受けたのである。
一本の長さが、日本で売られているものより、半分である。
もう少し食べたいと、思う量だ。

泊まったホテルは、9月23日公園の近くで、有名なベンタイン市場にも、歩いて10分の場所で、ホーチミンの中心部である。
旅行誌では、フアングーラオ通り付近となる。

そこは、ホテルや、ゲストハウスが、混在している。
三泊の予定だったので、翌日からは、もっと、安いホテルを探し、二泊することにした。

ただ、小路を歩いて、とんでもない場所にも、ホテルがあることを、知った。
庶民の、買い物通りのような場所に、突然、ホテルがあるというもの。

細い路地に、所狭しと、肉や野菜、生活必需品が、売られていた。
観光客は、決して行かない小路を、私と、スタッフは、歩いた。

勿論、着物を着ているから、日本人と、すぐに解る。
ベトナム人は、笑わないと、知った。
特に、戦争体験者の世代は、ニコリともしない。
その、彼らに、微笑みをもたらしたものが、縫ぐるみであったという、驚き。

同じ路を通ると、私に手を上げたり、微笑む人が、現れた。
インターネットカェフに入ると、お姉さんが、何と、私の持ってきた、縫ぐるみを、二つ持ち上げて、私を歓迎した。
小さな、二つの縫ぐるみを、私の知らないうちに、持っていた。

一変に、無くなった時、彼女も、手を出していたのだろう。

それから、物売りのおばさんたちが、また、親切にしてくれるのである。

ホーチミンの人は、何かあると、必ず、二三人が、寄って来るようになった。
言葉は、解らないが、色々と説明してくれるのである。

ベトナムには、二度と行きたくないという人もいる。その気持ちも、解る。笑わないベトナム人は、怖いのである。
しかし、それも、打ち解けると、変わる。
ただし、二三日の旅では、それ以上を知ることはない。
だが、人間である。
タクシー運転手が言う。
良い人もいる。悪い人もいる。
どこも、同じである。

縫ぐるみと、衣服を街中で、配ったことで、次に行く時は、私を知る人がいるというのが、楽しみである。

ある小路の前で、衣服の大きなバッグを持った私に、やーというように、声を掛けて、案内する、屋台のおばさんがいた。
案内した先は、小路の中にある、小さなホテルである。
私が、ホテルを探していると、思ったようだ。
そんな、親切は、考えられないという、ベトナム人である。だが、矢張り、人情は、健全にある。

私の活動を見ていた、屋台のおばさんたちは、実に親切にしてくれた。

ベトナムへ4

私は、ホテルの部屋で、ゆっくりと、眠れるタイプである。
よく、人には、不思議がられるが、ホテルでは、何も無いからである。
電話も無い。今は、携帯があるが・・・海外では、無用である。
本も読まない、書くことも無い。要するに、眠ることしかない、空間になるのだ。

ゆっくり寝るためには、ホテルが一番であると言うことは、旅寝が良いということである。

最初の日は、夜九時に寝た。
ただ、いつもより早いため、深夜二時頃に目が覚めて、しょうがなく、缶ビールを飲んだ。
それから、また、寝て、朝五時過ぎに、目覚める。

ホーチミンの朝は、早く、五時過ぎから、人が動き出している。
朝の屋台の、準備である。
そして、お客は、六時を過ぎると、やってくるという。

七時頃に行くと、すでに、混雑している状態である。

まず私は、ホテル並びの、レストランに入り、コーヒーを注文した。
濃いコーヒーをお湯で割り、砂糖を入れず、ブラックで、味わいを楽しむ。しかし、慣れていないせいか、胃に負担が大きい。

屋台の朝食は、明日からにしようと、そこで、サンドイッチを頼む。
屋台の値段に比べると、五倍程、高いのである。

ある程度のレストランだと、英語が出来るウエイトレスがいる。
そこで、少しばかり、色々なことを尋ねた。

日本から、少し衣服を持ってきている。必要な人はいるかと、尋ねると、沢山いると言う。
どの辺りに持って行けばいいかと、また、尋く。
地図で、私たちの泊まるホテルから近い、大きな通りの辺りを指し、ここに沢山の人が住んでいて、衣服の必要な人は、いるという。

こんな、街中でも、と、思った。
もっと、郊外になるのではないかと、思えたが、違った。
本当は、車をチャーターして、町を抜けて、村村に、行くつもりだったが、ホーチミンの街中で、衣服を渡せるとは、と、ウーンと、考えた。

しかし、街中を歩けば、貧しい人こそ、街中にいて、暮らしていると、知る。

町を抜けて、村に向かえば、ほとんどは、農業をしている人々である。
後で、ベトナムの、経済政策について書くが、農業に従事する人々は、今、大変な状況にある。

兎も角、それでは、ホーチミンの街中を歩いてみることにした。

その前に、チェックアウトが、正午なので、二泊するホテルを、探すべく、付近を歩くことにした。

ホテルの状態を知りたいということもあり、手当たり次第に、アタックした。
そして、それぞれの部屋を見せて貰う。

ホテル料金は、すべて、ドルである。
20ドル前後が、相場である。
30ドルも出すと、高級感がある。
つまり、三千円程度で、良い部屋に泊まれるのである。
ただし、高級ホテルは、200ドルを平気で、超える。二万円である。まあ、日本では、普通の料金である。

私には、興味の無いホテルである。

別に、貧乏旅行を、気取る訳ではないが、安くて、良いホテル、ゲストハウスに泊まるということが、楽しいのである。
高級ホテルにはない、現地の人との、交流がある。
それは、追々書いてゆく。

一時間以上も、回ってみた。それも、一丁角である。
随分とホテルがある。

その中で、一泊、15ドルの部屋があるという、ホテルに着いた。
早速、部屋を見せてもらうが、その前に、受付の女の子が、一人用ですと、言った。
一人用なら駄目かと、二人で話していると、女の子が、一人用でも、二人で、泊まれますと、言う。

変な話であるが、日本のように、一人一泊、幾らではない。部屋、一つについて、幾らなのである。
だから、三人で、泊まっても、15ドルなのである。

さて、私たちは、部屋に案内された。
ところが、一階から、二階、そして、三階と上がるが、階段が長いのである。
えー、まだ、上るの。

その部屋は、四階にあった。
ホテルは、五階建てである。

私は、息を切らせていた。

広くて良い部屋である。
古いが、設備も整っている。つまり、ホットシャワーであり、エアコンもあり。
大きな、ベッドが、どんと、置いてある。
天井が高く、一面窓で、開放感に溢れる。

天井が高いということは、階段が長いということ。
いちいち、あの、長い階段を上るということになる。
しかし、15ドルは、安い。

いい、いい、とは、言いつつ、スタッフが、私に、大丈夫と、尋く。
階段のことである。
エレベーターが無いということが、致命的である。
しかし、もし、若ければ・・・勿論、私も若いが、即決まりである。

フロントに、戻り、後で来ると言って、一度、ホテルに戻ることにする。

その間に、二件のホテルを見たが、矢張り、四階のホテルの部屋が、一番安い。

面白いのは、日本人だと知ると、まず、一番高い部屋を紹介される。
それで、決まりだと、相手が、思いこむ。
金持ちに見られるのである。

22ドルの、小奇麗なホテルの部屋に戻り、さて、どうすると、二人で、相談する。
問題は、ただ、階段である。
ただ、それだけでである。
それなら、問題はないということになった。
最後の私の、答えは、運動になる、という結論である。

二泊で、30ドルは、安い。
三千円である。
あの、ホテルに決めた。

早速、荷造りをして、チェックアウトの準備である。

支援物資を運んで、あの四階を上るというのが、難だったが、閃いた。フロントに、支援の衣服の二つのバッグを、預けるのだ。
ああ、これは良いアイディアだった。

最初のホテルに、泊まり続けると、余計に、12ドルかかる。その金額は、それからの、すべての食費分である。

私は、荷物を持って、意気揚々と、次のホテルに向かった。
歩いて、五分もかからない、場所である。

ホテル探しのお蔭で、その辺りの地図が頭に入った。

午前十一時前でも、部屋が空いていれば、チェックイン出来るのである。

中小路を、見下ろせる、大きな窓から、辺りの風景を、眺めて、満足した。
バスタオル二枚のみの、シンプルな備品。
歯ブラシも、二本セットがあった。シャンプー、リンスの、使いきりのもの、それぞれ、一つ。
これで、十分である。

昔、私は、日本で言うところの、高級ホテルに、泊まった経験は多いが、何故か、今の方が楽しいのである。
何故か。
根っからの貧乏好きなのであろうと、思う。
それで、今は、イメージが貧乏なので、貧乏なのである。
だが、それを、楽しめるというのは、傲慢であることを、知っている。
ホーチミンの人に、私は貧乏ですなど言えば、軽蔑されるだろう。

貧乏人が、ベトナムになど、来れるものではない。
意識を認識し、それを判断するということは、実に、難しいものである。

2008年10月16日

ベトナムへ5

安くて、快適な、少し階段がしんどいホテルに、落ち着いた。

何度も、階段の上がり降りをしていると、次第に、慣れてきたが、普段あまり、歩くことの無い生活を、痛感した。
しかし、私は、運動やスポーツは、しない。絶対に、しない。
あれ程、体に悪いものは、無いからである。

普通の生活をしていれば、人間の体は、自然に、健康体になるようになっている。
要するに、何事も、適度にしていれば、いいのだ。
食べ過ぎ、呑み過ぎ、やり過ぎが、一番悪いのである。

その反対の、節制というものも、度を越すと、体に悪い。

そんなことは、普通に考えていれば、解ることである。
更に、生きていることが、一番健康に悪い。
死ねば、すべて解決する。

二年続けて、胃痙攣のような痛みに、襲われた。
三年目に、検査をして、胃潰瘍であると診断され、更に、胃カメラを飲んで、検査をすると、ピロリ菌によるものとのことで、ピロリ菌除去の薬と、一年程、薬を飲み続けて、完治した。
しかし、私は、ガンであることを、望んだ。
ガン保険を掛けていて、ガンと、診断されると、大金が、貰えるのである。

楽しみにして、行きつけの病院に行くと、先生が、胃潰瘍と、十二指腸潰瘍と言うので、がっくり、した。

今なら、初期の胃ガンならば、一週間ほどの入院で済む。
それに、保険会社に、怨みがあり、何とか、大金を取ってやろうと思っていたのである。

この話は、旅日記に関係ないので、以下省略する。

さて、その部屋から、何度も出掛けた。
食事をするため、水を買うため、インターネットをするため、そして、衣服の支援をするためである。

縫ぐるみの話は、書いたので、衣服支援の話である。
大半を、道端で、差し上げることになった。
ホーチミンの街中である。

東京の街中で、衣服支援をするようなものである。
その、大半は、子供を連れて物売りをしている、女性たちであった。

私は、一々、子供服を持っています、必要ですかと、尋ねて、必要だといわれると、バッグを、開いて、その子に合うサイズの服を探した。
それを、周囲の人も見ている。
そして、私たちを、微笑みつつ、見ている。

ベトナムの人は、笑わないと、言った。本当に、彼らを、笑わせるのは、至難の業である。
しかし、子供服を差し上げていると、皆、私たちに、微笑むのである。

さて、少し難しい話になるが、ベトナム経済について、書く。

1986年に、ベトナム共産党は、ドイモイという、刷新政策を採用した。
中国の、改革・開放路線から、八年後のことである。

その同じ年、ソ連では、情報公開と、ペレストロイカ、刷新政策を掲げた。

ベトナム共産党は、従来の社会主義の政策では、時代に適応せずに、機能不全を起こしていると、自覚していたのである。
特に、改革派のリーダーたちが、目覚めた。

ベトナムの大きな問題は、ベトナム戦争の後遺症である。
敗者となった、南ベトナムの、サイゴン、現在のホーチミンを中心とする、南部が、勝者である、北の首都であるハノイと、その周辺の、北部より、経済的に発展する条件と、要素が、揃っていたことである。

しかし、敗者が、生成発展し、勝者である、北が、それを追いかけるという図は、政治的に、不可能であった。
そこで、考え出されたのが、南部、中部、北部という、それぞれの地域で、独自の発展を考えるという、戦略を立てることになるのだ。

ところが、ベトナムは、戦争でも、経済でも、多々試練を受ける。
ソ連の崩壊によって、東側の経済支援が、止まった。
故に、財政破綻である。

1986年から、1990年の、インフレ率は、774パーセントである。

国家が管理する経済システムを、計画経済という。
国民の生活が、国によって、丸抱えされる、システムである。
しかし、この制度では、簡単に言うと、皆、同じである。つまり、誰もが、皆、同じ服を着て、同じものを食べて、没個性を生きるしかない。
しかし、果たして、そんな生活が、続くだろうか。
まして、世界の状況が、次第に、明らかになる時代である。

しかし、計画経済から、市場経済に移行するというのは、ただ事ではない。

そのために、必要なインフラの整備などを、考えても、気の遠くなるような、大事である。

ベトナムの最大の問題は、今も、解決されていない。
それは、経済の核である、鉄が作れない、石油の精製が出来ず、原油を輸出して、更にそれを、輸入するという。
そして、通貨主権が確率していないことである。
現在の、ドンも、オーストラリアで、造られている。

最大の問題は、共産党の一党独裁である。

ここで、共産主義の、理想的哲学を云々しても、始まらない。
本当の共産主義によれば、中国や、ソ連とは、違う理想的な、共産主義が、実現するという、アホや、馬鹿の話を、聞いていられる場合ではないのである。

ベトナムを、指揮しているのは、20名ほどの、リーダーであるという。極端な、中央政権である。
それも、旧ソ連で、教育された、爺さんたちであるから、万事休すということになる。
すでに、ソ連は、崩壊して、もう、旧ソ連で、学んだものが、生かせる時代ではない。

余談であるが、共産主義国家とは、汚職天国国家である。

現在の、ベトナムも、ご多分に漏れず、汚職花盛りである。
日本の、ODAによる支援政策で、日本側の代理店が、ベトナムの役人の口利に、大金が、賄賂として動いたという話は、私が、ベトナムに出掛ける前だった。

勿論、汚職は、民主国家にも多いが、共産国家は、半端ではないということである。
中国を上げるまでもないが、金持ちは、共産党の幹部に関係する、親子兄弟、親戚である。

王制廃止しても、それに変わる存在が、共産主義幹部ということで、話にならないのである。

さて、それでは、国民の暮らし、その経済活動は、どのようになっているのか。

これをまた、書くのは、大変なことであるが、それを、知らなければ、ベトナムでの、支援活動の道が、見えないのである。

極貧から、貧しさへと、言われるが、ベトナムの農村などは、また、極貧に近づいているのである。

実は、私がベトナムに興味を、持ったのは、ベトナム戦争ではない。
約、20年前のことである。
日本の、ドックフードの会社が、ベトナムの海岸地方の、小魚を買い漁って、その漁民たちが、それにより、食べ物にも困り、塗炭の生活を強いられていると、聞いた時である。

金にあかせて、日本が、とんでもなく、傲慢に振舞っていた時代のことである。

申し訳ないなー、と思っていた。
だが、その時期は、私も、金儲けに、奔走していた時期である。
一人で、五人前の仕事をして、普通のサラリーマンの十人前の、年収があった時期である。

今は、人に貰って食う生活である。
ホント、人生って、楽しいものである。
今、現在、私の部屋には、人から頂いた米が、50キロある。

2008年10月17日

ベトナムへ6

ホーチミンで、衣服の半分ほどを、差し上げた。
残りの半分は、タイのパタヤで、差し上げたいと思っていた。
縫ぐるみは、ホーチミンで、ほとんど、なくなっていた。ゴミ袋一枚分の、分量だった。
別の、バッグに、少しだけ、残っていたのみ。

ここで、気の重いことを書く。
ホーチミンにて、サイゴン川で、慰霊の儀を、執り行おうと思っていた。
しかし、それさえ、間々ならない気分で、過ごしていた。

町の至る所、空気の違う場所が、多かった。
霊的空間である。

これは、私の妄想である。と、言っておく。
やたらに、疲れて、精神的に、動揺するのである。
これは、単なるものではない。単なるとは、通常の、幽霊が出るというようなものではない、ということである。

結局、慰霊の行為は、行わずに、タイに向かった。
しかし、バンコクからホーチミン、そして、日本に帰国する日、五時間という余計な時間があり、一度、空港を出て、サイゴン川で、慰霊した。
それは、後で、書く。

私は、衣服を街中で、差し上げつつ、あるカトリック教会に出た。
大きな教会である。
あえて、名前は、記さない。

ほとんど、霊の溜まり場となっていた。
重い空気が、教会を覆い尽くしている。
ルルドの聖母の祈りのコーナーも、その隣の、聖母のコーナーも、恐ろしく、空気が重い。
聖母のコーナーとは、聖母に、色々な名称をつけて、奉るのである。
無原罪の聖母とか、ルルドの聖母とか、である。

無原罪とは、聖母マリアには、初めから、原罪がなかったという、教会の、教義である。
聖母信仰は、新しい土地に、キリスト教を根付かせるために、縦横無尽に利用された。
日本では、聖母観音と言われるように、である。

聖堂には、入れなかった。
通常は、カトリック教会の、聖堂の扉は、いつも、24時間開いているものである。
開かれた教会である。
しかし、ホーチミンでは、危険が[危ない]ために、ミサ礼拝の時間以外は、閉じているのだろう。
どうしても、入りたい場合は、司祭館に申し出れば、聖堂に入ることが、出来る。

教会の上空に、多くの霊的存在が、集っていると、感じた。
しかし、私は、一切の霊的所作を行わなかった。
教会の上空を、天国と、思い込んでいるならば、致し方ないのである。

ベトナムには、その他、仏教も、イスラムも、中国寺院もある。
私のホテルの並びには、小乗仏教の寺院があり、毎朝夕、読経していた。
朝は、五時に鐘が鳴る。
その寺院も、自由に入ることは、出来なかった。
いかに、ドロボーさんが、いるかということだ。

また、カオダイ教という、習合宗教もある。不思議な国である。

これでは、慰霊の儀など、到底出来るものではないと、感じたのである。が、矢張り、最後の最後に、執り行った。そして、来る度に、それを、行おうと思ったのである。

ベトナム人の、信仰については、また別の機会に、書くことにする。
私も、まだ、調べつくしていないし、それについて、ベトナムの人と、話をしていない。

ただ、精霊信仰のようなものもあり、非常に不気味な、供え物で、精霊信仰のような行為をしているのを、見た。
鳥の丸焼きに、線香を幾本も立てて、その周囲に、水や、何やかにやと、奉っていた店もある。
ブラジルの、黒魔術のような感覚で、それを、見た。

そして、単に、線香だけを、家の前に、捧げているだけのものも、見た。
タイの、精霊信仰とは、違うものである。
タイの場合は、可愛らしいのである。楽しい感じがするのだが、ベトナムの場合は、少し違う。
重いのである。

また、多く見たのは、中華系の信仰である。
仰々しいのは、開店する店の前に、沢山の茶碗に、水やご飯、鶏肉、豚肉などを置いて、御祭りしているものである。
また、天神というものか、二体ほどの像の両側に、いつも、赤い電燈を点けている。
たまに、タイでも、見掛けるものである。

道端に、線香のみが、数本あるものもある。

自然に、身についた浮遊霊に対する所作であると、思う。
東南アジアは、浮遊霊の、宝庫ともいえる。
それらが、精霊として、扱われるのである。

私が感じたのは、それではない。
塊と、表現するのが、一番合っている。
空気の圧さを感じさせる、塊である。
これは、戦争犠牲者の霊であろうと、思う。

既存の宗教は、それの、清め祓いが、出来ない。
例えば、小乗仏教というか、仏教には、本来、死者のための、慰霊という行為は無い。また、キリスト教も、無いのである。

仏教は、仏になるための教えであり、キリスト教は、天国に入る教えである。

先祖崇敬、慰霊は、皆、民族宗教による。

小乗に支配される国では、人生をそのまま受け入れるという、諦観派である。
今の状態は、前世での、結果であると、考えるから、その現状を受け入れる。そして、布施をすることによって、来世を良くしようとする。
それが、タイでは、タンブンと言い、お寺に、寄進するのである。
貧しい人に布施をするより、まず、お寺に布施する。

ただ、救いは、タイは、福祉政策が無いゆえ、お寺が、それを、する。
少年僧の受け入れは、実に、見事な、福祉である。
寺に入れば、食べて、学べるのである。

ただし、女には、それが無い。
それで、ようやく、人々の懇願で、タイの寺でも、女子部を作るところもあるという。ただし、それは、少年僧の下に位置し、少年僧の予算の、余りで、行うという。

貧しい少女たちは、そこで、食べて、学ぶことが出来る。
しかし、予算が、足りない。
慧燈財団の小西さんが、その施設を視察した。
女の子たちに、何か足りないものがありますかと、尋ねると、バスタオルと、生理用品だと、答えたという。
そこで、小西さんは、160人分のバスタオルを、寄付したという。

ベトナムの、福祉政策は、どうかといえば、無いに、等しい。
これは、また、改めて、書く。

仏教の、供養という行為は、仏、菩薩、そして、生きている貴い人にするものである。
死者に対する、回向というものは、随分と後のことである。
つまり、死者に読経するという形は、仏陀滅後、1500年経てからである。

読経は、すべて、我が身の功徳のためである。
キリスト教の祈りも、神に対する、感謝と賛美である。イスラムも、然り。
道教、儒教も、様々ないみにおいて、現世利益が、主である。

死者に対する、所作は、後々、付けたしのように、行われるようになった。

イエス・キリストは、死者は、死者に任せるがよい、との、名言がある。
それより、神の国と、その義を求めよ、なのである。

確かに、因果応報、自業自得が、事の理であるから、死者の霊も、それに任せられる。だが、である。

それは、認識不足である。

死者の霊の存在の有無を論じるのではない。
在るものなのである。
その証拠が、地場の、磁気である。
宗教施設に出掛けて、具合の悪くなる人は、それを、体で、感じるものである。
霊感など、必要無い。それを、感じる人がいる。

ベトナムへ7

ベトナム共産党の、計画経済の話を書いた。
そして、それを、市場経済に移行するという、試みが、なされた。

ドイモイ、という、刷新経済である。
今までは、国が、丸抱えでやってきた、国民は、非常に戸惑ったはずである。
何せ、お金など、使用することがなかった人々である。

その混乱は、余りある。
1986年12月からの、市場経済の様を、俯瞰してみる。

確かに、ドイモイ政策が、軌道に乗り出すと、ベトナムは、少しつづ、インフレから脱し、市場経済システムが、うまく推移して、ある程度の体制が、整えられた。

1989年に、東西冷戦状態が、終結して、社会主義は、機能しなくなる。
市場経済を導入して、それを成功させるべく、歩むこと以外に道がないことを、知ることになる。

ベトナムは、カンボジアとの、和平の成功もあり、国際社会は、ベトナムに対する、経済制裁を解除して、国際社会への、復帰を促した。
それは、実に、良きことだった。
国際社会から、孤立しては、どうしようもない。
未だに、国際社会から、平気で孤立し、国民を、塗炭の苦しみに、追い込めている、アホな国もある。

勿論、共産主義を、掲げて、全体主義にある、国である。

最も、ベトナムの、経済を変容させたのは、アメリカとの、関係だった。

その前に、1991年に、中越戦争以来断絶していた、中国との国交を正常化している。

ベトナム戦争終結して、20年を経た、1995年7月、長い交渉の末に、アメリカとの、国交正常化が、成立した。
その直後、アメリカの承認を受けて、アセアンに加盟することが、許された。

これにより、国際社会に、完全復帰したのである。
最大のポイントである。

1996年以降は、インフレも、4,9パーセントと、安定する。
年間GDP成長率は、約7パーセント。
一度それが、下がったのは、97年の、タイからはじまった、アジア通貨危機の時である。

そして、21世紀に入ると、成長率7,5パーセントと、堅調な経済成長である。

一人当たりの、平均所得が、二倍以上になるという状況である。
ドイモイ政策の直後は、一人当たりの、GDPが200ドルだったのが、2006年の、20年後は、約600ドルになるという状態である。
20年で、三倍になるというのは、僥倖である。

ただしである。
世界の基準で見ると、年間200ドルというのは、一日50セントであり、一日一ドルという基準を満たしていない、極貧である。
それが、三倍になって、一ドル50セントになったというもので、貧しさは、極貧から、抜け出たということである。

ちなみに、日本の場合は、2006年の、一人当たりは、三万五千ドルである。
五十分の一の、GDPである。

国連開発計画が、毎年発行している、人間開発指数というもので見れば、日本は、大体、十位以内にあり、ベトナムは、2005年で、177カ国の105番目である。

しかし、国民の生活は、確実に、豊かになったといえる。
国民の生活を、ミクロ経済という。
全体経済を、マクロ経済という。
マクロでは、問題があっても、ミクロでは、改善されたと、考えていい。

ただし、である。

ここからが、ベトナムの大きな、問題である。

この、二十年間の経済を、俯瞰すると、発展、成長といっても、実際は、経済の根本を、築いていないというのが、実感である。

ベトナム自体が、新たなる産業を起こし、国際的に通用するような、物を生み出していないのである。
発展成長は、単に、外国政府からの、ODA、そして、国際金融機関の融資、外国企業の、直接投資などによるものであり、外国からの、支援や、投資によって、輸出額が、伸びているだけである。

その間、ベトナムがやったことは、石油、米、コーヒー、海産物、野菜、果物などの、一次産物の輸出だけである。

つまり、ベトナム経済の発展成長とは、幻想なのである。

経済成長著しいベトナムの、云々というのは、嘘なのである。

ベトナムには、実は、一次産物しか無いのである。

原油産出が、年間1200トン以上あっても、自国では、精製出来ず、シンガポールに輸出し、そこで、精製されたものを、輸入しているという、仰天。

そして、大規模な製鉄所が無いために、ほとんどの、鉄鋼製品を輸入しているのである。

産業化出来ないということは、蓋を開ければ、実は、何も無いということと、同じである。

これについては、戦争後遺症を、見なければならない。
実は、ベトナム戦争を、私は、語りたくないのである。
それには、大きな負い目がある。

私自身の問題ではない。
日本の、ベトナム戦争に対する、態度と、平和運動をした者どもの、怠慢やるせない、怒りの思いがあるからである。

例えば、あの頃、ベトナム戦争反対を掲げた世代は、今、何をしているのだろうか。
青春の思い出として、思い出しているとしたら、アホ、馬鹿、間抜け、もう一つ、ついでに、自害して果てろ、である。

平和行進など、誰でも出来る。
サルでも、犬でも、猫でも、出来る。
ベトナム戦争を終結させたのは、誰であろう。
ベトナム人である。

途中で、誰も止められなかった。
そして、それは、日本の太平洋戦争にも、行き着く問題なのである、私には。

最新兵器の、アメリカとの、戦いに、ベトナム人は、着の身着のままで、戦った。
特に、南で戦う民族戦線のベトナム人は、アメリカ軍から略奪したり、闇市の横流しされた武器を使うという、ゲリラ戦を、戦った。

それを、調べて、私は、反吐が出た。

アリと象の戦いと、言われたという。

それでも、ベトナムは、アメリカを大敗させた。
その、ベトナム人の、戦闘的能力は、どこから、くるものなのかと、私は、ベトナムに、ベトナム人に、非常に興味を持ち、更に、畏敬の思いに溢れた。

ベトナム人と、友人になれば、世界に怖いモノ無しであると、思った。

嫌でも、ベトナム戦争を見渡し、そして、日本が、ベトナムと、特に友好関係を結ぶことを、考える。

タイ、ベトナム、ラオス、カンボジア、インドネシア、マレーシアなど、東南アジア、東アジアとの、連携が、日本の存続に関わる、大事なのである。

そこまで、この、ベトナムの旅日記で、書こうと思っている。
ただし、これが最後のベトナムでははない。
最初のベトナムである。

足繁く、ベトナムに通い続ける覚悟があって、こうして、検証して、書くのである。

2008年10月19日

ベトナムへ8

ホーチミンの市内を、歩いて驚くことは、交通状態である。
バイク軍団が、凄まじい。
信号が少なく、道路を、横断するに、決死の覚悟がいる。

バイク軍団と、車の様子を見て、向こう側に渡るのだが、走っている中に、身を置いて、歩くという、危険極まりない、横断である。
しかし、それも、次第に慣れてくると、スリル満点になる。

市民は、慣れているのか、平然として、車とバイクの走る道を横断する。
年寄りは、両手を上げて、渡る人もいる。

そして、ホーチミンの道路は、サーカスを見ているような、状況なのである。
何せ、一台のバイクに、家族全員が乗っていたり、大きな荷物を積んで、奥さんとおぼしき人が、後ろ向きに、その荷物を落とさないように、抱いている、という。

道路に面した、店先で、じっと、その様を見ていても、飽きないのである。

そんな中、シクロという、自転車のタクシーがある。
また、自転車で、手漕ぎのものを、始めて見た。

更に、屋台を横につけて走るバイクもある。
日本の法律では、違反だらけの、状態。

一時間も、歩くと、緊張感で、疲れる。
衣服を担いで、街中を歩き、時々、オープンカフェで、ココナッツジュースを飲んで休む。
浴衣などは、汗だくで、背中に、生地が、ぴったりと、くっついてしまう。

トイレは、タイと同じであるが、時に、驚くべきトイレがあったりする。
普通のホテル、レストランなどは、まだ、ペーパーも用意されているが、そんなものが、一切無いトイレもある。
要するに、大便は、水洗いである。
お蔭で、私は、その必要がなかったが、ペーパーを持参しても、流しては、いけないトイレもある。
手動の水洗トイレである。

泊まっていたホテルも、紙は、流さず、横にある、ゴミ箱に入れるタイプだった。
一度、無意識に、紙を落として、同行の野中に、怒られた。
しかし、尻を拭いた紙を、横の箱に入れるというのは、抵抗がある。

所違えば、常識も違うのである。

屋台のおばさんたちは、実に、親切で、持ち物に関して、よく注意された。
要するに、引っ手繰られるので、持ち物は、体から離してはいけないということ。
カメラなどは、首から下げるように言われる。

屋台で、物を食べている時も、荷物は、手から離さないようにする。
私は、そんなことはなかったが、ベトナム人が、ベトナム人に、引っ手繰られることも、多々あるという。

道路を歩く時は、荷物は、車道の方に持たないなど、色々と、気を使った。
それは、日本も、同じである。
いつ、どんな、不運があるか、解らないのである。

だから、無事であることは、実に、幸せなことである。

さて、ベトナム人は、笑わない。
特に、戦争体験者の年代は、笑わないのである。
いつも、厳しい顔付きをしている。
しかし、仁義というものがある。

こんな体験をした。
靴磨きの、少年が来た。しかし、私は、下駄を履いている。ところが、少年は、中々、去らないのである。
年は、18という。
色々、お互いに、だとだとしい、英語で会話していた。

靴磨きは、二万ドンである。
話をしていると、情が出て、肩を揉むことが出来るかと、尋くと、出来るというので、それじゃあ、肩を揉んでもらうことにした。

暫く、肩を揉んでもらうと、本物の肩マッサージが、やって来て、売り込むのである。
しかし、私は、断った。
少年に、二万ドンを渡そうとした。
二万ドンを出すと、横にいた、マッサージ師が、二万ドンでは、足りない、二十万ドンだと、言うのである。

いかにも、ボッタくりである。
何故、少年の貰う金に、注文をつけるのか。後で知るが、その分け前を貰うのである。

私が、二万ドンで、と少年に言っていると、横にいた、相当年配の男性が、一言、何か言った。すると、マッサージ師は、すごすごと、退散した。

様子では、止めろと、言った雰囲気だ。
ボルなとでも言ったのか。

戦争体験者の年齢である。
泊まっていたホテルの、オーナーも、そうだった。
挨拶しても、決して笑わない。
いつも、苦虫を潰したような、顔付きをしていた。
しかし、不機嫌なのではない。
そのように、なってしまったのだ。

笑えない、人生を送ってきたのである。

ベトナム戦争体験者である。

戦争の後遺症を見渡すと、戦争は、未だに終わっていないというのが、現状である。
アメリカ軍が使用した、枯葉剤の影響は、今も、脈々と続いている。
これについて、書くことは、一冊の本になってしまう程、今も、その被害に苦しむ、多くの人がいる。

日本の原爆症に似る。

それを、見れば、アメリカが、キリスト教の国だとは、到底考えられないのである。
原爆や、枯葉剤を用いることが、出来る国であるということ。
これを、忘れてはならない。

更に、七十代から、九十代の、身寄りの無い高齢者が、30万人いると、言われる。
戦争によって、配偶者、子供たちが、死んでしまったのである。
その高齢者も、戦争犠牲者である。

更に、その人々の政府の対応も、戦争の後遺症があり、南ベトナム政府であった、南ベトナム解放民族戦線であった、北ベトナム側にいたかで、大きく違う。

ベトナム戦争とは、世界の人が認識する言葉であり、ベトナムでは、坑米救国戦争である。
そのもの、ズハリ、アメリカから、国を救う戦争である。

ベトナム戦争の定義は、人により、多少の違いがある。

広く定義する人は、1954年から1975年とする。
フランスが大敗して、ジュネーブ協定により、ベトナムから撤退する1954年を起点とする。

アメリカが、フランスに次いで、戦争を継続したと、考える。
そして、最後のアメリカ人が、サイゴン陥落により、ヘリコプターで、脱出する、1975年4月30日を、終わりとする。

フランスとの、戦いを、第一次インドシナ戦争とし、そして、次のアメリカとの、戦いを、第二次インドシナ戦争とする。その戦争をベトナム戦争という人もいる。

もう一つの、見方は、1960年、アメリカが、軍事顧問団を派遣して、実質的に、戦争への関与を始めた年から、73年とする。

南と北の、内戦の場に、アメリカが、介入してきた時期のみを、ベトナム戦争と定義するものである。

いずれにせよ、63年から、72年までの、10年間、アメリカ軍が、軍事行動を起こしたのである。

アメリカ軍の最大の介入時期は、68年で、その時は、50万人の兵士が、投入された。

そして、アリと象の戦いになる。

戦争は、膨大な数の犠牲者と、国土が荒廃する。
北の民族戦線側が、勝利して、国際社会が、ベトナムと、認定したのである。

しかし、ベトナムの不幸は、続く。

その後の、カンボジアとの、戦いである。

その意味付けは難しい。
ベトナム人は、カンボジアでの、ポル・ポト派による、人民の虐殺を止めるための、ヒューマニズムに基ずく行動であるとの、認識がある。

それは、国境地帯に住むベトナム人の、農民も、巻き込まれて、多数殺された事実もあるからだ。
ポル・ポト派は、何百万という人の命を、奪った。
残虐極まりない、その様である。
共産主義という、名の元に、殺戮の限りを尽くした。

ナチスドイツの、残虐を言うならば、共産主義という、名において、どれ程の、人の命が、無意味に、虐殺されたことか。

だが、国際社会は、ベトナムの行為を、カンボジア侵攻と、認定した。

これは、私の感情論であるが、それならば、あの、悪魔のポル・ポトの行為を、世界は、ただ、黙って見ていたということになる。
もし、時代が違えば、国連主導で、多国籍軍を派遣していたのではないか。

しかし、歴史を見ると、ベトナムは、カンボジア侵攻によって、11年間、国際的孤立を招き、経済は、疲弊した。

「この国際社会という中には、中国の意図と観点が大きく影響している。中国が「ヴェトナムを懲罰する」と称して中越戦争を起こした理由として、カンボジアへのヴェトナム群の進出を「侵攻」と認定しなければならなかった。中越戦争は中国のイニシアティブと米国の承認のもとに、ヴェトナムを叩くための戦争だった。大国の横暴という非難を避けるための自己正当化の理由として、ヴェトナムの行動は断じて「侵攻」でなければならなかった。だが、中国サイドの解釈を許すような傲慢さが、ヴェトナム戦争に勝利した当時のヴェトナム共産党指導部にあったと思う」
と、ヴェトナム新時代の著者、坪井善明さんの記述である。

2008年10月20日

ベトナムへ9

ここで、一度、ベトナムから、離れることにする。

ホーチミンでは、三泊した。その後、私たちは、バンコクに向かった。
ボッタクリのタクシーではない、正規の運賃を支払う、タクシー乗り場が、ホテルの並びにあった。

8ドルが、相場だと知っていたので、前日、予約をして、確認した。
確かに、空港までは、8ドルである。
そこには、運転手ではない、何の役目なのか、必ず、受付の者がいた。特に、事務所がある訳ではない。

もしかしたら、政府関係の、旅行者向け担当の、職員かもしれないと、思った。
その人に、8ドルを支払うと、それで、オッケーである。

バンコクまでは、一時間半の飛行機の旅であるが、出国手続きが必要だ。

私たちは、ホテルを九時過ぎに出た。
丁度、車や、バイクの込み合う時間帯を、空港に向かった。
海外では、兎に角、早め早めに、行動するようにしている。何が起こるか、解らない。

比較的スムーズに車は、進んだ。といっても、大変な道路事情である。
カーレースのような、運転に、感心して、乗っていた。

一時の飛行機であるから、11時までに行けばよい。
しかし、車は、10時前に到着した。

次の時は、路線バスを利用しようと、思っている。何せ、3000ドンである。
15000ドンが、一ドルであるから、25セントということになる。
また、路線バス乗り場も、知ったので、それで空港まで行くことにする。

ホーチミンの、タンソンニャット空港は、こじんまりとしている。日本の地方の、空港のようである。

まだ、登場手続きが始まっていないので、空港内の、唯一の、オープンカフェに入り、コーヒーを頼む。
何と、8ドルである。
とんでもない、料金で、驚いた。

しかし、空港は、どこも値段が高い。
私は、どうどうと、買い置きの、果物などを、取り出して、そこで食べることにした。そうそう、ヨーグルトも、あった。

私の旅の楽しみは、地元のスーパーや、商店で、買い物をすることである。
時に、それらを、すべて食べられないで、日本に持ち帰ることもある。
しかし、それは、違法である。
果物などの、生ものは、持ち込み禁止。

トイレに立ちつつ、ボードを見て、手続き開始を、待つ。
二度目のトイレの時に、手続き開始の、点滅である。

ベトナム航空の、チェックインカウンターに向かう。
混雑していないのが、いい。
待つことなく、スムーズに手続きが進み、そのまま、出国手続きに向かう。

そこで、また、あの、ブーである。
荷物をベルトに乗せて、門をくぐる時に、ブーと鳴る。
面倒だが、着物の袖の物を、すべて出す。
しかし、腹を指摘された。
これは、脂肪だと、言いたかったが、言葉が解らない。

担当の女が、帯を取れと指示する。また、ここで、裸になるのか。
グアムの空港で、パンツ一貫になったことを、思い出した。
ここは、穏便に、穏便にと、静かに、帯を解く。

同行の野中が、ライターを袖に入れるから、ブーと鳴るのだと言う。
最初から、ライターを取り出して、籠に入れるべきだと、言う。
解った、解った。

私の場合は、声が大きいので、相手を威圧するらしいのである。
最初に、大声を出すと、相手は、怯む。
しかし、生来のもの。どうしようもない。
だが、兎に角、穏便を心がける。

驚いたとこは、出発ロビーには、日本人が多い。
皆、ホーチミンを通り、バンコクに向かう人なのである。
そして、韓国人である。

喫煙室に入ると、日本語と、韓国語が、耳に入る。
飛行機に乗り込むまで、一時間半を、私は、喫煙室に出たり入ったりを、繰り返した。

喫煙室というのは、実に、面白いのである。
密室で、多くの人が、タバコを吸う。そして、それぞれの会話である。
聞くともなく、聞いていると、しょうもないことを、話していたりする。

フリーツアーで、旅行している人もいるようで、何となく浮かない顔をしていたりする。
ただ、旅の疲れのみで、旅の楽しみを感じていないようである。
中年のおじさんが、一人旅なのであろう。バンコクの旅行案内を、真剣に見ている。
カップルは、倦怠感に溢れている。
旅の間は、セックス三昧で、それだけで、疲れるのだろう。

韓国人の、おじさんたちは、元気である。
缶ビールを飲みつつ、タバコを吸い、大きな声で、談笑している。

若者の、一人旅の姿を、あまり見なくなった。
それより、三十代の男の姿が、目立つ。
バンコクで、どこの売春宿にするかと、思案している風情である。

日本で出来ない遊びを、思う存分、バンコクで晴らす、そんな雰囲気。
と、それを、想像する私の、想像力も、貧弱である。

だが、証拠は、ある。
後で、バンコクの、スクンビット地区に、行くが、そこで、立つ、売春の女、レディーボーイから話を聞くと。日本のサラリーマンの、お客が多いという。
少しの時間しかない。その少しの時間を、立ちんぼの、女と、また、レディーボーイと、過ごすというのである。

彼女たちは、売春宿より、断然安い。
一時間の、ショートだと、1000バーツである。約、3300円。
二時間で、2000バーツ。約6600円。
女好きでも、レディーボーイを買う日本人が多いと、聞いて、驚く。

レディーボーイ曰く、だって、私たち、男なの体、知り尽くしているのよ。
そりゃあ、そうだ。元は、男である。

さて、いよいよ、飛行機に乗り込む。
客が、意外に少ない。これは、寝られると、思った。

日本と違い、すべてのお客が機内に入ると、出発である。
時間通りではない。
さっさと、飛び立つ。
私は、それが、気に入っている。もたもたするのは、嫌いだ。
はい、全員乗りました。よし、行くぞ。
そして、動き出す。

カンボジアの上を飛んでいる、と、私は、窓から、下の風景を見下ろす。
近いうちに、カンボジアにも行く。
王国であるから、いい。王様のいる国には、親近感が、持てる。

カンボジアは、ポル・ポトによって、知的階級が、皆殺しにされて、一番必要なことは、教育である。
勿論、貧しさは、また、格別であろう。
日本のボランティア団体も、多く活動している。
特に、学校建設である。

一時間半の、飛行時間であるから、忙しい。
お絞りが、出て、飲み物があり、食事である。

オチオチ、寝てられない。
三席に体を、横たえていると、乗務員に起こされる。
飲み物は、何。
えーと、オレンジジュース。
ビールや、ワインもある。
しかし、私は、飛行機の中で、アルコールを、飲みたいとは思わない。

食事が終わり、横になっていると、着陸の準備です、という、アナウンスが流れる。
と、聞える。ベトナム語であるから、解らないが、機体が、激しく揺れるので、下降しているのだろう。

落ちることなく、バンコク、スワナプーム空港に、到着である。

あー、懐かしい。
私は、この空港が、大好きである。
なんか、自分の物のように、思えるのである。ホント、お目出度い。

入国、そして、荷物を受け取り、市内へ出る。

ここからである。
今までの方法を、止めた。
そのまま、外に出ると、タクシー乗り場がある。そこには、決められたタクシー乗車の場所と共に、個別にタクシーを売り込む人たちで、ごった返している。
私は、あえて、そこを避けて、出発ロビーに上がり、そこから、外に出る。

そこには、客を乗せて、到着したタクシーがいる。
そのタクシーを捕まえるのである。
戻りの、客がいるというのは、彼らにとっては、実に得である。
そこでは、こちらの言い分が通る。

空港から、直接、パタヤに向かう。
1500バーツで、交渉した。だいたい、それくらいで、まずまずである。
普通の車で、タクシーではなかった。
安いと、1300バーツでも行く。
何でも、相場というものがある。
あまり、叩いても、気分が悪いことになる。

約4500円である。
パタヤまでは、一時間ほどかかる。
高速道路も含めての値段であるから、納得。

パタヤのことを、説明しつつ、旅を進めてゆく。

ベトナムへ10

パタヤ
バンコクから、高速道路に乗ると、約一時間少しで、着く。
昔、私が出掛けた時は、三時間ほどかかった、記憶がある。
その、昔出掛けた時、それほどの歓楽街とは知らず、ただ、滞在していた、三日間、散歩を楽しんでいた。

その時、日本からのツアー客のおじさんたちが、夕方になると、ホテルロビーに集い、皆で、出掛けていたのは、集団売春に行くためとは、後で知る。

ビーチ沿いに、色鮮やかな電灯をつけて、女たちが、客を呼ぶ姿は、今も変わらない。
そこで、女と交渉して、一夜を買うということも、知らなかった。

ただ私は、タイという国に行ってみたいという気持ちだけで、バンコク、パタヤへの、フリーツアーに、申し込んだ。

今、まさか、こんな活動をするために、パタヤを、訪れるとは、全く知らない。

1960年代、ベトナム戦争に従軍していた、アメリカ兵の、保養地、娯楽地として、拓かれた町である。

今では、日本人のみならず、欧米人にも、人気のアジアを代表するリゾート地としてある。

そして、ゲイ天国、更に、レディーボーイ天国である。
ゲイが遊ぶなら、パタヤである。また、レディーボーイが、普通にいる。

私は、二年前に、ある人の付き合いで、パタヤに来ている。
バンコクと、パタヤで、一週間滞在した。
それが、タイ国王在位、60周年記念式典の日に、バンコクにいた。
天皇陛下と、同じ日程だったと、後で知る。

バンコクのホテルロビーで、その式典を見ていた。
以前の、タイ旅行記にも、書いた記憶がある。

チャオプラヤー川での、式典の様も、丁度通りすがりに見た。
市民は、王様の黄色のシャツを着て、バンコク市内は、黄色で、埋まっていた。

その式典の際、国王は、つねに、天皇陛下の隣で、親しくお話していたという。
国王は、天皇に、特別の思い入れがある。
その一つに、今は、当たり前になった、淡水魚である、鯛に似た魚を、昭和天皇が、国王に贈った。国王は、それを、増やし、川に放流して、それが、今タイの国民の上質な蛋白源になっているという。

バンコクの、スワナプーム空港に、飾られる、その時の記念写真でも、天皇皇后陛下は、前列、国王と、王室の、次に並ぶ。
私も、その前で、写真を撮ってきた。

丁度、その場に、空港の清掃職員たちが、地べたに座り、休んでいた。
私が、写真を撮るのを、見て、皆、微笑んでいた。

良く私が、タイの人に、キングオブ、プーミポン、ジャパニーズ、エンペラー天皇、ベストフレンドと言っている。
変な英語だが、内容は、通じる。

タイに行き、国王の歌が流れると、起立し敬意をはらい、国王のことを、好きだと言うと、必ず、嬉しそうに、ありがとう、と言われる。

バンコク、スクンビットのナナ駅近くの、屋台連合のような、場所で、朝七時頃、コーヒーを飲んでいると、皆、出店の準備で、大忙しである。
そんな時、国王の歌が流れる。
私たちは、起立して、それを、聞いている。

そんな私たちに対して、その屋台の皆は、現地の人と同じように扱う。いや、それ以上に、親切にしてくれる。

色々と、話はあるが、先に進まないので、省略する。

唯一言、軍事力の無い、権威というものが、平和を、もたらす。
それを、私は、ゆるやかな、王制という。
天皇は、その存在の象徴である。日本の象徴だけではない。
無形の権威というものの、象徴である。
その、権威の幻想は、国家幻想として、非常に有効に生かされるものである。

老荘が、言う、道にある、無用の用とは、無形の権威のことである。
私は、そのように、解釈している。

さて、今回、パタヤに行くというのは、遊びたいからだ、と言えば、納得するであろうから、遊びに来たと言う。

一つは、衣服支援であり、一つは、トランスジェンダーの、施設見学と、その、取り組みを知りたいということである。

衣服支援は、ベトナムで、半分程、差し上げた。
残りを、パタヤである。
縫ぐるみは、数点残っていた。別のバッグににも、忍ばせていた。

縫ぐるみは、ビーチで働く人の、子供たちに差し上げた。
一人の子に、上げると、その親が、まだ、あすこにいると、言うので、ビーチに行くと、幼い子が、一人いて、差し出すと、すぐに受け取った。その横に、眠っていた、幼児の横に、一つを置いた。
その親は、手を合わせて、お礼を言う。

パタヤでも、縫ぐるみは、売られている。
キティーちやんも、ドラエモンも、ある。だが、すべて、大型であり、あれは、男が女に、プレゼントして、セックスのきっかけにするようである。

縫ぐるみが、友好の物になるとは、全く考えなかった。
やってみなければ、解らない。
それらは、すべて、私が、ゴミの日に、拾い集めたもので、その一つ一つを、選別して、バッグに押し込んだものである。

勿論、差し上げるものであるから、清め祓いをしてある。

さて、問題である。
15年ほど前、パタヤで、とんでもない事件があった。
五十代になる、日本人の男が、幼児を数名部屋に、連れ込み、性的暴行を行ったというもの。
幼児の、叫び声に、近所の人が駆けつけると、幼児を犯そうとしていたという。
即座に、警察である。
その場で、逮捕された。

貧しい子供たちに、物を上げたり、食べ物を与えたりして、性的行為をする者、多々あり。
児童買春ではない。
幼女、児童暴行である。

まだある。
今度は、女である。
日本では、教師をしていた女が、浜辺で、物売りをしている、少年を、ホテルの部屋に連れ込み、犯したというもの。
女が、少年を犯すというのは、どんなことか、想像するが、勃起させて、自分の膣に入れたのでろあうと、想像する。

パタヤでの、日本人に対する、感情は、最低最悪になった。

売春で、生活を立てている、真っ当な、売春という、仕事がある。
そうではなく、全く、性的対象にならない、幼児、児童を、性的対象にするという、稚拙である。

それが、私の心に、記憶として、沈んでいた。
それが、今回の、衣服支援の主旨である。
つまり、名誉挽回である。

着物を着て、バッグを持って、パタヤを回った。
現地の人に、手渡したかったのである。

最初は、スラムに向かった。
一つ、スタッフが覚えていた、バラック小屋が立つスラムに向かったが、着いてみると、スラムは、見事に、アパートが立ち並んでいたのである。
きっと、政府の指示により、そのように、スラムを変えたのであろう。

住む家が、そのようになると、住む人の気持ちも、変わる。
経済的に、以前と、同じでも、気持ちが違う。

小屋のような、雑貨屋さんの、ベンチで、休み、さて、どうするかと、考えた。
スタッフが、タイ語で、その店のおばさん、あいるは、おばあさんに、子供の衣服があるが、必要ですかと、尋ねた。
すると、おばさんは、必要だと言う。

それでは、と、スタッフが、取り出し始めたが、私は、シャツを三枚だけにした。
これでは、私の主旨が違う。
私は、一人一人に、差し上げたいのであり、支援をしてくれた人にも、手渡しで、差し上げると、言っていると、スタッフに言った。

幾人かの、子供が、お菓子を買いに来た。
そこで、私は、彼らに、シャツを取り出して、日本語で、プレゼントと言って、差し出したが、受け取らない。

アパートに住むようになり、少し意識が変わったのだろう。
しかし、アパートから出て来る、女は、厚化粧して、何の商売をしているかは、解る。
子供たちの、衣服も、決して、粗末なものではない。

私は立ち上がり、戻ることにした。

そこを、抜ける時、一人の男の子がいた。
父と母もいた。
私は、子供用の、ズボンを取り出して、必要でいすかと、母親に尋いた。
母親は、頷く。
私が、それを差し上げると、バイクに跨り、出掛ける前だった、父親が、コープクンカップ、ありかとうと、言う。

物を差し上げるということが、どんなに大変なことか。
くれてやる、のではない、差し上げるのである。

支援は、至難である。
どんなに、貧しくても、生きる尊厳という、プライドがある。

アイアム、ジャパニーズ
私は、差し上げる度に、そう言う。
勿論、着物を着ているから、当然、日本人であることは、解るだろう。しかし、あえて、私は、日本人ですと言う。

2008年10月21日

ベトナムへ11

パタヤでのホテルは、日本から予約していた。
インターネット利用の場合は、割引になるということで、一泊だけを、予約したが、思わぬほどに、格安だった。
一泊、700バーツが、400バーツで、泊まれるのである。
約、1300円である。更に、朝食付である。
それならと、ホテルは、そこに決めて、三泊することにした。

ノース・パタヤと、サウス・パタヤの真ん中辺り、中心の少し奥に入った場所である。
そのまま、西に歩くと、ビーチに出る。
ただし、ビーチには、一度だけ、支援物資を担いで行ったのみ。
物売りが、煩いので、一切行かない。

朝は、ホテルの朝食で、十分で、昼、夜の食事を、近くの、食堂でする。
現地の人の、食堂である。

昼は、麺類を食べた。
好きな麺を指差して、ポークと言えば、豚肉が入り、チキンと言えば、鶏肉が入る。本当は、シーフードにしたいが、庶民の店には、無い。
40バーツ程度である。130円程度。

今回は、屋台の果物を、よく買って食べた。
スイカ、パイナップルが、美味しい。
そして、焼きとうきびと、紫芋の焼き芋である。
果物は、10バーツで、焼き芋などは、20バーツ。

衣服のバッグを持って、汗だくになり、喉が渇いて、路地の屋台に行き、スイカと、パイナップルを、食べた。
両隣に、麺類と、お惣菜の屋台があった。
一人の女の子が、お手伝いで、小さなビニール袋に、タレを入れて、ゴムで縛っていた。

そこで、私が、女の子に合う、可愛い服を取り出して、スタッフに、タイ語で、必要ですかと、言わせた。
すると、傍の母親が、声を上げて、喜んだ。
女の子も、それを、持って笑みを浮かべる。
いい光景である。

スタッフが、この辺りに、子供たちは、いますか。
日本から、子供の服を持ってきて、必要な人に、上げていますと、タイ語で言うと、何と、いるという。
どこに。
ここに。

ここ。
そう、ここ。私の子供は、男の子が、四人いますと言う。
つまり、男の子の物が、欲しいと、いうこと。
そこで、私は、四本のズボンを出した。
大きさは、どうか。
丁度いい。コープクンカー、ありがとう、と、何度も言う。

こんな所で、支援するとは・・・

屋台で、物売りする人は、女性が多い。それで、家計を支える。場合によっては、女手一つで、子供を育てている。

母親は、感謝の気持ちを、言葉では足りないようで、手を差し出してきた。
握手をした。すると、女の子も、手を差し出す。
その前に、手を合わせて、お礼を言うのである。

私は、日本人です、と言うと、両側のおばさんたちも、解る解る、ジャパニーズスタイルと、着物を指す。

暫く、立ち話をした。
果物が、甘いとか、名前の知らない果物の、説明を受けたりと。
その大半は、解らない。タイ語である。

ズボンを差し上げた母親は、私に、スイカをもう一つと、勧めてくれたが、もう大丈夫と、断った。
次も、又来ますと言って、歩き始めた。

気温は、それほど高くないが、物を持って歩くと、汗だくになる。

そこは、サウス・パタヤの方面になり、少し町外れになる。
しかし、その小路を歩くと、バーが多い。
こんな場所に、バーがあるよと、スタッフに言うと、そうだそうだ、この辺りだよ、ゲイタウンはと、言う。
よくよく、看板を見ると、良いボーイの店とか、男の何とかという、看板が多い。

つまり、地元のゲイの集う場所なのである。
ボーイズタウンである。
街中の、ゲイバーではない。つまり、男の子たちを、売る店ではなく、地元のゲイの出会いの場所なのである。
街中には、ゲイ・ショーパブもあり、男の子たちが、パンツ一つで、舞台で踊り、指名を受けるのを待っているバーもある。

私も、一度、そこに飲みに出たいと思っていた場所である。
しかし、結局、夜になると、疲れて、一度も、出かけなかった。

だが、昼間は、男の姿より、女の方が多い。
準備のための、掃除などをしているのだろうか。
中には、食事をしている女もいる。

オープンにしているので、椅子の腰掛けようと思えば、腰掛けられそうである。

しかし、その周辺は、夜になると、テーフルと椅子を出して、本格的ゲイスポットになるようである。

パタヤは、ゲイと、レディボーイのことを知らないと、面白くない町である。

さて、余談だが、パタヤでは、世界のレディボーイ大会が、行われる。
今、マスコミに出ている、はるな愛という、レディボーイは、そこに出て、四位になったが、実は、日本人で、特別賞を取ったレディボーイがいる。

私と同じ、北海道出身で、今は、故郷に帰って、ブログで、色々と書いている。
それは、スタッフが、調べていた。
まだ、レディボーイの存在が、知られていない時期の、快挙を成し遂げた、レディボーイであるとのこと。

その、スタッフが、いよいよ、レディボーイの施設への、侵入を果たすために、苦心惨憺して、レディボーイを演じることになったが、どういう訳か、その気になって、パタヤでは、私と同行する以外は、レディボーイとして、通したのである。

やれば、やれるものである。
勿論、顔立ちなどに、ある程度の要素が必要であるが、元から、色白なので、うまく化けることが出来たのである。

しかし、最初は、放任していたが、一度、その化粧に、私は、つい、アンタ、それなら、レディボーイではなく、吉本になってしまうよと、言った。
レディボーイの前に、お笑いだと、言った。
それは、彼の心を、傷つけたらしく、部屋に戻ってすぐに、顔を洗い、化粧を落とした。

悪かったと、思い、私が、化粧の伝授をした。
実は、私は、北海道にいた頃、テレビに十年ほど出ていて、おおよそ、化粧の仕方を知っていた。

出演する前に、スタイリストから、化粧されるのである。
私は、男用の化粧が嫌で、いつも、女性ベースにしてもらっていた。
男用の化粧は、顔が少し黒っぽくなるのである。

それで、女性ベースの化粧法を、少し知っていた。
また、カウンターテナーの藤岡宣男が、出演前に、化粧をしていたのを、見ているので、自然に覚えたのである。

知っているのに、何で早く教えてくれないと、怒りつつ、彼は、私の言うとおりに、化粧をした。
すると、何と、自然な化粧で、美しい女の子の顔になったのである。
成功である。

私の教訓。
いつも、自然に化粧をするように。そして、肌のために、潤いを忘れないこと。
絶えず、顔を気にすること。
そうして、話していると、センセイ、もしかして、本当は、化粧したいんじゃないの、である。

これで、私が美しくなったら、世の中の人は、どうなるの。
子供、産めないだけで、何でも出来る人になるよ、と、大声で、答えた。

力むことはないのだが、疲れが、出始めていたのである。

スタッフは、自信を取り戻し、翌日、レディボーイの福祉施設に、一人で、出掛けた。
そして、半日、戻って来なかった。

2008年10月22日

ベトナムへ12

レディボーイの、福祉施設に出掛けた、スタッフが、中々戻らないので、六時前に、電話をした。
すると、今戻るところだという。

五時間ほど、その施設で過ごしていたことになる。
その報告が、楽しみだった。
しかし、私は、簡単に書くことにする。
いずれ、彼が、詳しく書くことになると思う。

タイ政府の支援ではなく、アメリカの民間団体と、タイの民間団体が、支援金を出して、レディボーイのための、レディボーイによる、万相談所だった。

どんな相談にも、のってくれるのが、自分と同じ、レディボーイなのである。
医者の診療もあり、ホルモン投与なども行う。

それで得た情報は、何から何まであったという。
生活のことから、噂話まで、

その、活動は、チェンマイまで、広がっているとのこと。
そして、ゲイ関係の施設とも、連携としているようである。
パタヤには、別に、ゲイの福祉施設もある。

何と、スタッフは、会員になり、会員証まで、持ってきた。

すっかり、レディボーイになっていた。
人生とは、実に面白い。
人は行為によって、成りたいものに、なれるのである。

タイでは、レディボーイで、通したら・・・
そうだね、である。

バンコクに出た時も、レディボーイの恰好で、行ったから、楽しい。
ホテルに、入った時は、女と、認識された。

そこで、面白いことが、起こった。
何度か、出入りしていて、彼が、男用になっていた時、二人で、フロントから鍵を渡して貰った。
その時、フロントの女性が、スタッフに、あなたは、どこへ行くのと、声を掛けた。

その、安いゲストハウスのようなホテルは、フロントが、厳しく出入りを、確認している。それが、安心で、私も、そのホテルに泊まるのである。

一緒ですと、スタッフが答えると、フロントの女性は、私に、あの、もう一人の女性はと、尋ねるのである。

えっーーーもう一人の女性・・・

あっ
スタッフが、何と、日本語に訳すと、私は、おかまです。時々、女になったり、男になったりしますと、説明したのである。

唖然とした表情を見て、私は、笑った。
タイでは、当たり前の感覚で、受け入れるが、まさか、日本の、おかまが、という、複雑な表情である。

一件落着したが、後で、あの女性は、食事の時でも、他のスタッフに、ちょっと、泊まっている日本人がさあー、おかまでさー、などと、噂すると、想像した。

ということで、レディボーイの施設侵入は大成功だった。
アジアのトランスジェンダーの問題に、関わるつもりである。

帰国して、数日後に、韓国で、23歳の役者が、テレビで、ゲイであることをカミングアウトすると、すべの仕事が、キャンセルになり、絶望して、自殺したという、ニュースが、入った。
そして、続けて、そのような、自殺が、続いた。

痛ましいことである。
ただ、ゲイであるということでの、差別である。
韓国でも、ゲイは、盛んである。
しかし、根強い差別がある。それは、キリスト教である。
あの、排他的、非寛容の教えである。
これを、書き始めると、止まらなくなるので、別の機会にする。

その夜、初めて、少し高めの、レストランに行き、ステーキを食べることにした。
二人で、1000バーツの食事をした。
勿論、スタッフは、女に化けた。

生きるということは、演じることである。
親を演じ、子を演じ、男を演じ、女を演じ、夫を演じ、妻を演じる。
演じる時は、徹底して、演じることである。
それが、私の教えである。

私の本来は、何も変わらない。
故に、成りたいものに、なればいい。
私は、木村天山を演じている。

ドロボーは、物を盗んで、はじめて、ドロボーになる。
物を盗みたいと考えている時は、ドロボーではない。
行為して、はじめて、ドロボーになるのである。

聖者になりたければ、聖者を演じるとよい。
演じ続けて死ぬと、聖者として、生きたことになる。

成りたいものになれ、とは、私の教えである。

その端的な、生き様が、レディボーイである。
実に、興味がある。

今日の寝る場所を確保し、今日の食べ物を確保するために、人は生きる。辛いときは、夢や理想を思い描いて、脳内物質の、快楽物質を出して、乗り切る。
生きるとは、そういうことである。

そして、その大半は、死ぬまでの、暇潰しなのである。

暇潰しに、命懸けになるほど、面白いことはない。

老死を逃れることは、出来ない。
事実である。
人は、事実のみを、生きる。
真実などは、人の数ほどある。
真実、真理が、一つであるというのは、支配するための、策略である。
宗教を見れば、解る。
主義を見れば、解る。
あれらは、糞でもくらえ、である。

ステーキは、実に、拙かった。
後悔しても、始まらない。
いつも、家では、北海道からの、贈り物である、ステーキを食べているのである。
板を食べているようであった。

コックが出てきて、私を見るので、頷いて、拙いと思念を送るが、コックは、自信を持っている。美味いと、私が言っていると、信じている。
信じる者は、騙される。

1000バーツ、約3300円と、奮発したのにーーーー

帰りは、屋台で、スイカと、パイナップルを買った。
40バーツ、約130円。

あの、固いステーキ肉を、消化するために、体は、どんなにストレスかと、思いつつ、早々に寝ることにした。

明日の一日は、マッサージに賭けることにした。
パタヤは、実は、タイ全国から、マッサージ嬢が集う場所でもある。
下手も、上手も、色気も、タイマッサージのすべてがある。

今回は、最後に、五十過ぎのおばさんに、目の覚める、マッサージのテクニックを見た。
私は、彼女をマッサージの名人と見た。
彼女の胸には、誇り高い、タイマッサージのライセンスの、名札がついていた。

そして、もう一人は、東北部イサーンから出て来たという、23歳のマッサージ嬢である。
その親切と優しさに、私は、心で泣いた。

ベトナムへ13

タイマッサージは、お寺で、資格を出すのが、正式である。
マッサージをはじめる前に、合掌する。
しかし、それが、今は、あまり見られなくなった。
お寺以外でもマッサージスクールが出来たようである。

三ヶ月、毎日、理論から実技まで、みっちりと、学ぶ。そこで、資格を得て、それぞれ、お勤めしたり、自分で店をはじめたりする。

勿論、お金の無い人は、見よう見まねで、する場合もある。

パタヤは、ありとあらゆる、マッサージ嬢がいる。また、ボーイズマッサージもある。
男だけの、マッサージ店である。
男も女も、受けられるが、ゲイに人気がある。

今回は、すべて、新しい店を探して行った。

ホテル近くにも、数え切れないほど、マッサージの店がある。
最初に出掛けた店は、ホテル並びの店。
タイマッサージ一時間、200バーツ、約660円。

四十代のベテランだった。
強さも、まずまず。
基本通りである。特に、タイマッサージは、下半身、脚と、足裏が中心である。
脚を揉み解すと、体液の流れがよくなり、楽になる。

それと、同じ位に、上半身に、力を入れると、いいと、いつも、思っている。
何も話すことなく、黙って、受けた。
上手の部類に入る。

それから、翌日は、足裏、フットマッサージを受けた。
若い人でも、上手である。

ただ、フットマッサージで、効いたのは、ベトナムで、一度だけ受けた、9ドルのフットマッサージだった。
観光客を相手にする店である。

足裏に、棒で、刺激を与えるもので、タイでも、使用する人もいるが、ベトナムの、それは、非常に強い刺激を与える。
つまり、痛いのである。
私は、その治療法を知っているで、痛みが、後で、楽に変わるので、我慢出来たが、はじめての人は、我慢出来ない痛さである。

勿論、彼女は、強さは、いいかと、聞いた。オッケーと、言って、続けてもらった。

腕を揉み、更に、最後に、背中と、肩をやってくれた。
それがまた、強い。
ベトナム人らしい強さである。

驚いたのは、私の肩の、凝りを、肘で、潰そうとしたことである。
全身を掛けて、肩の凝りを取るという。
これには、感心した。

実に満足して、帰国する前にも、ホーチミンに立ち寄るので、時間があれば、また、来ようと思ったほどだ。

さて、パタヤである。

路地にあるマッサージ店の人々は、人懐っこくて、水ば出すし、終わると、丁度昼時で、食事をはじめている嬢もいた。
そこに、座れといわれ、豚の頭を解体して、茹でたものを、一緒に食べろと言う。

戸惑っていると、一つ、一つと、取って、差し出してくれる。
私は、これが、どの部分かと、気になったが、折角の行為と、恐る恐る食べてみた。

一人の、嬢が、非常に臭い魚の、漬物みたいなものを、もち米につけて、差し出した。
とても、臭いが、食べてみると、美味しい。だが、危険である。一度で、止めた。

更に、もち米を、タレにつけて、差し出してくれた。
辛いその、タレは、タイのいつものもの。
もち米を、タレにつけて、それだけで、食事が終わることもある。

随分と親切である。
明日は、タイマッサージをしに来ると、言って、退散した。

そこの、マッサージ嬢も、多く、イサーンから、働きに出て来ていた。
そこで、働いて、郷里の親に、仕送りをしているのである。

翌日の、朝、開店の十時に、スタッフも連れて、行ったが、まだ、店が開いていない。
休みかと、思ったが、休みだとは、言ってなかったと、並びにある、マッサージ店を、見ると、隣が開いている。その隣は、まだ、開いていない。マッサージ店が、三件並んでいるのである。

隣の嬢たちは、皆、店の前で待機していた。
朝の食事をしている嬢もいる。

店の前に立つと、オーナーが、声を掛けてくる。
それじゃあと、いうことで、スタッフは、フットマッサージを受けることになった。
私は、何にするか、考えた。

タバコをふかした。
そして、皆のいる、店先に座り、嬢たちの、様子を見ていた。
雑誌を見ていた嬢の、隣に座ったので、一緒に、その雑誌を見ることになった。
タイ女性の、モデルたちの、写真が出ている。
隣の嬢が、セクシーと言う。私も、頷く。

どこから来たの。
イサーンから。
そう、私も、ウドンターニ、ノンカーイに行った、よ。
私の町は、その下の方にある。
町の名前を聞いたが、知らない町である。

言葉を交わしているうちに、私は、彼女に、オイルマッサージをしてもらうことにした。
一時間、300バーツが、相場だが、路地にあるためか、250バーツである。

スタッフは、すでに、フットマッサージを始めていた。
私は、オイルなので、中のブースに入る。
腰巻一つで、受けるのが、普通だが、それぞれの店のやり方がある。

彼女は、バスタオルを持って、シャワー室に、案内した。
そこで、シャワーを浴びる。
彼女は、外で、待っていた。
そして、ブースに案内される。
カーテンで、仕切られている、ブースに入る。

どうするのか。
伏せて寝るようにいわれた。
その通りにすると、バスタオルを外された。全裸である。

足から、オイルが塗られて、はじまった。
だいたい、オイルマッサージは、気持ちがよくなり、寝てしまう。
だが、私の場合は、相手が、疲れている場合など、それらを、受けるので、逆に、マッサージが終わると、どっと疲れることもある。

オイルマッサージは、危険である。
若く、健康でなければ、やられる方が、具合が悪くなる。
年配の人には、タイマッサージを、オイルマッサージは、若い人にが、いい。

だんだと、気持ちよく、うとうとする。
そして、背中が終わると、仰向けになる。
このまま、なのか。
この年になると、恥ずかしくなくなり、そのまま、仰向けになる。

彼女は、何事もなく、始めた。
全裸である。
股間に、タオルを当てない。
薄暗いので、いいのか。

これは、しかし、若い男なら、少し困るだろうと、思う。
だが、マッサージを受けていて、勃起する程度が、良い状態だとのこと。
リラックスし、更に、神経が、亢進することなのである。
交感神経の亢進で、勃起する。
しかし、副交感神経も、働く。
それが、うまくミックスして、快適、快感を生む。

やはり、うとうとした。

彼女は、お客主体で、お客が、タオルを求めると、タオルを掛けるのだと、後で気づく。

ゆったりとした気持ちになり、終了した。
その間、向こうで、フットマッサージを受けている、スタッフと、嬢との、会話が弾んでいる。

彼女は、トントンと、私の肩を叩き、起こした。
そして、再び、シャワー室に、案内する。
そこで、シャワーを浴びていると、何と、中に彼女が入ってきた。

そして、シャボンを取り、私の背中から、足まで、洗ってくれるのである。
はじめての、ことである。
更に、胸まで、洗った。
淡々と行う。
私は、彼女に、水がかからないようにして、浴びたが、彼女は、意に介さず、サービスする。

感動した。

それが、終わると、すっと、シャワー室から、抜けて、待っている。
バスタオルで、体を覆い、ブースに戻り、着替える。
その間、ベッドの端に、腰掛けて待っている。

その、控え目な、対応に、私は、思わず、先にチップを出した。
100バーツ。
チップは、20バーツと、決めていたし、また、出さない時もある。しかし、今回は、彼女の行為に感動して、100バーツにした。
それを受け取ると、合掌して、コープクンカーといい、感謝する。

実に、気分の良いものだった。
路地裏の店、特有のものだろう。

次も、機会があれば、彼女に、オイルマッサージをしてもらいたいと、思った。
そう思うのも、はじめてである。
悪い気を受けなかったのである。

2008年10月23日

ベトナム14

明日は、バンコクへという前日の、夕方、ホテルの斜め前の、マッサージ店に入った。

いつも、数名の嬢たちが、料金表を掲げて、客引きをしていた。
そこで、一時間のタイマッサージを頼んだ。

五十代の、おばさんが着いた。
マッサージ室は、三階にあった。細長いビル一つが、マッサージ店だった。
誰もいない、だだっ広い部屋に、ベッドが並んである。
窓際のベッドに案内されて、二時間にした方がいいというのである。
二時間なら、350バーツで、得だよと。

もし、下手糞なら、二時間は、苦痛だと思った。これは、賭けである。
まだ、今日は、お客が一人もいないので、押し売りしているのかもしれない。
オッケーというまで、食い下がるので、オッケーと、答えた。

そして、マッサージがはじまった。
足裏から、脚全体にかけての、マッサージは、巧い。
そして、更に、上半身にきた。
いつもと違う。
このおばさんは、手、肘、足、膝と、縦横無尽に使って、私の体を、少しつづ、ずらしつつ、わき腹まで、揉んだ。
わき腹は、余ほどの人でなければ、事故にもなるので、揉まない。

これは、巧い。
最後になった時、太股の、内側を、足で揉んだから、驚いた。
そして、私の体を、少し横にし、背中を膝で、押すように、揉む。
今までにない、マッサージのテクニックを、幾つも見た。

自分の体重を巧く利用するのも、上手である。
見事だった。
プロの仕事である。

そして、終わり、私は、100バーツのチップを渡した。
そして、素晴らしいマッサージですと、英語で言った。
おばさんは、英語がペラペラである。

そして、言うには、タイマッサージは、二時間必要だという。
一時間では、やり切れないとのこと。
これから、タイマッサージを受ける時は、二時間やるようにしてくださいと、言われたのである。

イートさん、番号15。
店の名刺に、サインをして貰う。
パタヤでの、タイマッサージは、このおばさんに決まりである。
フットマッサージは、前回来た時の、ボーイマッサージ店の一人のボーイである。
力が強く、足裏を、ぐいぐいと押す。足裏は、どんなに強くとも、事故は、起きない。
そして、オイルマッサージは、あの、イサーン出身の、嬢である。

パタヤマッサージの顛末を終える。

さて、私は、バンコクに、バスで行こうと考えていた。が、ホテルに、車チャージの、コナーがあるので、料金を尋ねる。
800バーツ、1200バーツ、1500バーツ以上とある。
お勧めは、1200バーツ、約4000円のコースで、高速料金が含まれている。
800バーツは、高速料金が含まれない。車の質も違うと、後で、スタッフに教えられた。

バスは、一等エアコンバスで、一人約200バーツである。しかし、バス停までタクシーに乗り、降りてから、また、タクシーなど利用すると、色々と、お金が掛かるし、いちいち交渉しなければならない。面倒である。
よしと、1200バーツに、決めた。
出発は、一時である。
チェックアウトが、十二時なので、昼を食べて、行くことにした。

ところが、タクシー運転手は、十二時に、待機して待っていた。
それならと、乗り込んだ。
食べ物は、屋台で買った物が、多少あったので、それを、食べることにした。

バンコクまでの、高速道路は、スムーズに進んだが、バンコク市内に入ると、渋滞である。
スクンビットのナナ駅に近づくと、更に渋滞。

三時を過ぎた。
ようやく、運転手が、横道に入り、一気に、ソイ11に入った。
目印の、セブンイレブンがあったので、そこで、降りる。
旅行雑誌で、見た、ゲストハウスに泊まってみたいと、思ったのだ。
しかし、ほぼ満室で、ツインルームは、一泊しか出来ない。
900バーツである。

確かに、民家風で、緑に囲まれている。が、実に、不自然な感じである。周囲の形態と、違和感があり過ぎる。そして、少し高慢な、態度は、人気があるのだろう。
更に、フロントの横に、セックス目的の方は、お断りしますと、書かれてある。

どういうことだろうか。
つまり、売春する者を、連れ込むなということ、なのであろうか。
ラブホテルのように、使用するなと、いうことか。

確かに、欧米人のセックスは、長時間に渡り、更に、音が大きい。造りの粗雑な、部屋は、隣近所に迷惑である。
それにしても、わざわざ、そんなことを、書くとは・・・
それが、楽しみで、きている人もいるはず。

まあ、それぞれの、ハウスの、方針があっていい。
結局、私たちは、いつもの、600バーツという安いゲストハウスに向かった。
スタッフが、連れ込み宿という、ゲストハウスである。
私は、アンタ、連れ込み宿でも、ゲストハウスに替わりないと言った。私は、気に入っている、のだ。

今回は、オーナーさんが、フロントにいた。
オーナーさんは、日本に、十ヶ月過ごしたことがあるという。ただし、日本語は、ちょっと待って、ありがとう、さようなら、しか、出来ないと言う。
とても、親日溢れる、おじさんだった。

二泊することにした。つまり、バンコク滞在は、そこのみである。

部屋に、荷物を置いて、すぐに、食事に出た。
スタッフは、逢う人がいるので、私一人で、いつもの、屋台連合のような、ビルの横にテントを張っている屋台に出掛けた。
そこで、スープライスを頼む。
しかし、最初、それが、通じないのである。
ライスに、ラーメン丼を、ジェスチャーしたが、それなら、あちらの、麺屋だと、言われる。違う、違う。ライスに、と言うと、おじさんは、ご飯を大盛りに丼に盛る。違う違う。ライスに、スープ、スープという。
ようやく、おじさんは、スープライスかと言う。
ライススープと、スープライスは、違うのか・・・

とても、疲れた。
しかし、次からは、おじさん、私の顔を見ると、スープライスかと、尋くようになる。

何度聞いても、その、スープライスの、タイ語が、覚えられないのである。

食事は、ほとんど、そこでした。
そして、その近くのインド料理の店で、カレーを食べる。
その辺りは、インド、アラブ料理の店が、多い。アラブのテレビ番組を点けている店もある。
黒尽くめの、イスラムの女性の姿が目立つ。
そして、ホテル横の小路は、アフリカ系である。

更に、ナナ駅の付近には、女性、レディボーイの、ゴーゴーバーが、多い。
夕方からは、歩道に、長く、ナイトバザールがはじまるという、混雑さである。

食べ物の、屋台も多く出る。
毎日が、お祭りである。

スタッフは、一人のレディボーイと、逢っていた。
泊まるホテルを教えてくれたのも、そのレディボーイである。
朝から、レディボーイたち、女性たちの、立ちんぼがいる。
その皮膚の色が、多くなった。
黒人の、女性も、白人の女性も、立つようになったのである。
タイ人ばかりではない。

その夜、スタッフは、女装して、私をレディボーイの、ゴーゴーバーに連れた。
ビル全体が、ゴーゴーバーである。
何件もの店が、客引きをしている。

私は、はじめて、ゴーゴーバーに入ることになった。
音楽に合わせて、レディボーイたちが、水着姿で、踊る。
驚くほど、美しい人、可愛らしい人、様々である。
中には、吉本、お笑いという人もいるが、それもまた、楽しい。

しかし、長くは、いられなかった。
音楽と、照明に耐えられない。

私を指名してと、皆々、訴える。
指名をして、店から連れ出すのに、600バーツを払う。そして、後のことは、交渉次第である。

飲み物を運んでくる者も、レディボーイなのであるが、舞台に立てない、ちょっと、面白、レディボーイである。
しかし、必死で生きているのは、伝わる。

オレンジジュースを飲み終えて、清算する。
二人で、160バーツ程度。安い。
すると、子豚顔の、飲み物係りの、レディボーイが、チップ頂戴と言う。
20バーツという、ケチ臭いチップを上げて、退散した。

私のスタッフは、女性に見られたことに、満足していた様子。
そこで、一言。やるなら、徹底して、やるべきだと。
女に、見せるのではなく、女であること。

役者は、それに、見せるのではなく、それに、成るのであり、名優は、それに成るのである。

スタッフは、私に、日舞を教えて欲しいという。しぐさは、学ぶ必要があると、気づいたのだ。
所作は、教育される必要がある。

私は、踊りつつ、ホテルに向かった。
手踊りである。誰も気づかない程度である。

それが、最も楽しかった。
教養というものは、そういうものである。
人に見せるものではなく、私が楽しむもの。それが、教養である。
自己満足の、何物でもない。

蒸した、とうきびと、枝豆を買う。
20バーツ。
屋台のおばさんに、焼いたエビを、勧められたが、100バーツである。それは、高い。私のような、貧乏人には、手が出ないもの。

本当は、食べたいが、我慢する。
その、我慢が快感になる。

酒を飲まずに、早々に寝ることにする。
明日は、チェンマイから来てくださる、小西さんと、会う。

ベトナムへ15

旅の最終日、チェンマイから来られる、小西さんにお逢いする。
約束の時間は、正午である。
有名ホテルのロビーで落ち合うことになっていた。

ゲストハウスから、歩いて、5分である。

その朝、七時を過ぎたので、屋台連合に行く。
屋台連合とは、私が勝手に名づけているので、その辺りに行って、屋台連合と聞いても、通じない。

皆さんと、顔馴染みになった。
向こうから、コーヒーと、聞いてくる。
コーヒーを頼み、その小路で、絞りたてジュースを作るおばさんから、20バーツのジュースを買う。
何も手を加えない、本当のジュースである。
オレンジの甘さのみ。日本の冬ミカンに似ている、ミカンである。

ジュースを飲み、コーヒーを飲んで、何を食べるか、考える。
スタッフは、少年のようになり、私の前にいる。
不思議なことで、レディボーイを続けていると、素になった時、少年のようになるのが、不思議である。
矢張り、少年は、中性なのである。

ここで、少年の美について、書きたいが、それは、性についてで、書くことにする。

実は、一つ書き忘れたことがある。
衣服支援の子供服が、少し余っていた。

スタッフが、マッサージをしたいというので、私がいつも行く、安いマッサージの嬢を紹介した。
私が連れて行った。そのまま、私は、部屋に戻った。
すると、担当したのは、別の中年の女性だったという。

私の紹介した嬢は、中年の女性に、客を譲ったことになる。
それは、中年の女性には、まだ、客がつかなかったので、嬢が、譲ったと思える。
そういう、優しさがある。
皆、苦労しているから、人の苦労が解る。

その中年の女性と、マッサージをしながら、話していると、彼女には、三人の男の子がいて、別々に暮らしているとのこと。
子供たちは、学校で暮らしているのである。

母子家庭で、皆で、暮らせるだけの、収入がないのである。
タイは、福祉政策が、非常に遅れている。

そこで、スタッフが、子供服を、少し持って来ているが、必要ですかと、尋ねた。
彼女は、必要、必要、欲しいと、言う。

マッサージを終えて、部屋に戻った、スタッフは、急いで、残りの、衣服を集めて、彼女に持って行った。
私は、それを見ていた。

戻ってくると、他の者も、出て来て、皆で、それを見て、良質な物で、自分も着れるものがあるという、女性もいたという。
小柄な女性は、子供用でも、着られる。

バンコクでも、必要な人がいる。
都会だからこそ、必要な人がいる。
貧しいゆえに、都会に出て働くという、感覚は、当たり前である。

これは、口伝えで、私たちの活動が伝えられると、ここでも、必要な人は、多くいるのだろうということに、気づいた。

バンコクには、カンボジア、ラオス、ミャンマーからも、働きに出ている人が多い。
ラオスの少女が、体を売れるようになると、立ちんぼになることも、多々あり。

成人になり、覚悟して、体を売るということに、何の問題もない。
寝る場所の確保と、食べることの、権利は、誰にもある。
何ら、恥じることはない。

人様に、世話にならず、自分で、自分の生活を、賄うのである。

実は、パタヤでも、ベッドメークする、女たちと、色々と話すことが出来た。
出稼ぎの人が多い。
丁度、子供服の下に、女性用の、ナイトガウン、寝巻きに出来る物が、数点入っていた。それを、彼女たちに、差し上げた。
大喜びで、それから、私たちは、実によくしてもらった。

一人のおばさんは、子供がいるというので、子供服を見て、選んで貰った。
その選んだ服を、静かな笑みを浮かべて見ていた。
きっと、子供に着せる時の、様子を思い浮かべているのであろう。

差し上げた時に、その場にいなかった女性がいて、元気な女性が、彼女には、何か無いのかと、言われた。
すべての、衣服を出して、彼女に合うものを、探して、渡した。

その時、支援の形の無形さを、思った。
臨機応変である。
必要な人に、差し上げる。

苦労している人は、優しいのである。人の痛みが解る。
そして、自分一人が良くなればいいとは、思わない。助け合う心で、支えあうのである。

バンコクに行く日の朝、ベッドメークで、廊下に座り、待機していた皆と、出掛けに会った。
次は、いつ来るの。その時も、このホテルに泊まるか。
また、このホテルに泊まるので、逢えるよ。
イサーン出身の女性が、皆の代表になり、待っている、と言う。
次は、いつになるのと、言う。
来年、来る。
来年って、いつ。
年が明けたら、来ると、言うと、納得した。

部屋から出る時は、皆、忙しかったが、一人の女性が、私たちが、部屋から、出る時、荷物まで、持って下に降りてくれた。

清算し、チェックアウトが、スムーズに終わるのを、見届けて、さようならと、言って、また上がって行った。

こうなれば、私たちは、彼女たちの知り合いである。
単なる、客の一人ではない。
次に行く時、更に、衣服を持って行けば、必要な人のいる場所を、教えてくれる。
彼女たちが、橋渡しをしてくれるだろう。

そして、本当に切実に、必要な人の存在も、彼女たちは、知っているはずである。

追悼慰霊から、子供服支援、衣服支援になり、そして、人と人の付き合いになり、情けある付き合いになり、その相手が、日本人である。

私の願いであること、成就せり、である。

前置きが長くなったが、小西さんとは、正午に会って、食事をすることにした。

小西さんについては、以前の旅日記は、何度も書いているので、改めて、説明はしない。

タイ北部の、慰霊地については、ほぼすべてを把握している方である。
皆、小西さんを、頼り、取材や、慰霊に訪れる。
マスコミ関係から、政治家、その関連の方々。
要するに、タイ北部の、慰霊については、スペシャリストである。

そして、小西さんは、事実を知る人である。
日本軍、日本兵の、事実を知る人で、それを、しっかりと整理して、書かれると思う。
多くの、誤解や、偏見を取り去り、事実を書くのである。

また、遺骨収集も行い、実際に、日本兵が、どのような亡くなり方をしたのかも、見ている。

更に、タイで、日本人として、生きている。
迎合は、しない。
真っ当な日本人として、国際人である。

海外で、日本人としてあることは、そののまま、国際人なのである。
日の丸を背負うことが、国際人の、第一歩である。
自分の国に、誇りを持てない人を、どこの国の人も、信用しない。

2008年10月25日

ベトナムへ16

小西さんと、食事を終わり、小西さんが、私たちに、どこか行きたいところは、無いですかと、尋ねた。

私は、首相府の、反政府団体、民主主義市民連合が、集結している場所に、行きたいと言った。
それではと、タクシーに乗り向かった。
外務省からは、危険地区に指定されている。

バリケードの張られている、手前で、タクシーを降りて、歩いた。
入り口が、高くなり、簡易の梯子がかけられてある。
そこを、上って、また、降りる。
降りると、身体検査をされた。
危険物の有無を調べるのだろう。

それを、終えて、すぐに、出店が続いている。
私たちは、一つの出店で、パタパタと、拍手替わりの、手のオモチャを買う。
一つ、25バーツである。
小西さんは、お子さんの、お土産に買った。

私は、その、パタパタを、鳴らして歩いた。
更に、バリケードの中では、演説が、繰り返されていて、時々、歓声が上がり、その、パタパタを、鳴らすので、私も一緒に、鳴らした。

そのうちに、両手を上げて、歩いた。
勿論、和服姿の者は、私の一人のみ。
だが、目立つほどではない。
しかし、目を合わせる人は、皆、私に、笑顔を向ける。

集会の周辺は、すべて、屋台で、埋まっていた。
この、集まりに、便乗しての、商売もあった。
服屋さんから、一般の屋台の食べ物屋である。
端的に言うと、お祭りである。

そして、スピーカーから、演説の声が流れる。
私も、何か演説したい気持ちに、駆られた。
すると、小西さんも、そうだと言う。
何か、意見を述べたくなる気分である。

丁度、舞台では、全国から集った、様々な、市民グループの代表が、一人一人、挨拶していたようである。

無料炊き出しのコーナーには、人が列を作っていた。
和やかな、反政府運動という、イメージである。

だが、私が、帰国した日の、午後、ソムチャイ首相の施政方針演説を阻むために、国会を包囲した、反政府派は、一時、首相や、議員を、閉じ込めることになり、警察が、催涙弾を発砲した。
また、与党の政党本部前の、爆発により、二名が死亡した。
朝からの、負傷者は、400人を、超えたという。

簡単に説明すると、ソムチャイ首相は、対話路線を取るつもりだったが、反政府側は、あくまでも、タクシン元首相系の政権の永久追放なのである。

反政府派との、仲介役として、副首相に就任した、元首相経験者の、チャワリット副首相も、混乱の責任を取って辞任した。

ただ、タイの国会議員は、市民運動に対する、催涙弾などの使用に、反対する者多く、それにより、野党・民主党、上院議員などが、抗議のために、国会に出席せず、演説に対する討論も無かった。

ただし、タクシン元首相の追放の時は、五万人の市民が、集ったが、現在は、一万五千人程度で、縮小している。
また、与党側も、進展しない状態に、手詰まり感があり、硬直状態が続く。

連立政権なので、野党・民主党と、他の政党が、連立すると、政権交代が、出来るので、それで、一件落着するのではと、私は、見ている。

要するに、タクシン元首相が、いかに、国を利用して、金儲けをしたかということである。
そのために、法整備も、整えるという、国を売ると言える、やり方である。

タクシンを支持したのは、最も貧しい、東北部・イサーンと、北部である。
金をばら撒き、票を得たと、聞いたが、それは、貸付たのだという。
100バーツで、利息が、1バーツだというから、驚いた。
数である。
金持ちは、どうしても、金持ちになってゆくのである。

勿論、医療費無料などの、政策もあるが、単に、税金を投入して、自分には、関係ない。だから、南部に行った時に、タクシンが、遊説に来たら、殺すという者、多々いたのである。
南部に対する、政策は、何もなしなのである。
更に、南部が、最も税金を払っているという、カラクリである。

南部のマレーシアに近い、一部では、テロが多発して、独立を求めている。
タイの、イスラム圏である。

さて、私たちは、首相府を取り囲んでいる道を、ぐるりと、周り、元の場所に出た。

何の、危険なことはなかった。
逆に、タイ、バンコクの市民と、良い交流が出来たと思う。
私の姿は、一度見ると、忘れられないのである。
着物で、素足の日本人である。

周辺の道路は、渋滞が続いていた。
ようやく、タクシーを捕まえて乗ったが、中々、先に進まない。

あまりに、長くかかったせいか、タクシー運転手が、料金を、まけてくれた。

タクシーを降りた側の、喫茶店に入り、小西さんと、スタッフの野中と、三人で、話した。
特別の話ではないが、私は、わざわざ、チェンマイから、私たちに逢うために出て来てくれた、小西さんには、本当に感謝した。

朝来て、最終便で、チェンマイに戻るのである。

小西さんは、私が、児童買春について、調べたいと言ったことを、心配してくださり、何事かあれば、必ず連絡くださいと言って下さった。

更に、バンコクの風俗に関しても、案内して下さると言う。
ハッポン通りなどの、有名風俗街である。
ボーイゴーゴーバーには、男も女も、ボーイを買いに来るという。
その値段は、男より、女が買う方が、倍高いというから、驚きである。

ハッポンについては、昔から知っていた。
アジアの女たちを、買い漁った男の手記なども、読んでいた。
売春天国タイという言葉が、出来た時、タイ政府が、その撤回を世界的に、呼びかけたことがある。

しかし、貧しい国からは、売春は、無くならない。
振り返れば、敗戦の日本も、戦後長い間、売春で、皆、食いつないできた。
韓国も、売春で、外貨を稼いだ時期がある。
そして、フィリピンも。

私は、売春も、文化であると、見ている。
誤解を、恐れずに言えば、食って寝る場所を、確保するために、売春も、堂々たる、仕事であり、労働である。

ただし、幼児、児童買春は、別物。
それは、罪である。
幼児、児童は、自分で、選択する力は、無いし、保護される権利がある。

児童買春は、人身売買である。
貧しい所から、子供を買い、そして、売る。
買った者は、子供を物として、扱う。
それこそ、基本的人権の無視である。

こんなことを、許せるはずがない。

だが、問題は、それを、買う者がいるという、現実である。
幼児性愛、児童性愛である。
これらは、治療が必要である。

さて、六時を過ぎたので、私たちは、小西さんと、お別れすることにした。

タクシーを待つ小西さんに、私は、大丈夫ですかと、言った。
言った後で、大丈夫ですかと、言われるのは、私の方だと笑った。
本当に、笑って別れた。
感謝である。

丁度、これを書いていた時、ニュースが入った。
タイの、アヌンポン陸軍司令官が、16日、地元テレビに出演し、国会を包囲した、反政府団体、民主主義市民連合の支持者たちに、警察が、強制排除し、死傷者が出たことに、私が、首相なら、辞任すると、痛烈に首相を非難した。

また、地元メディアも、一斉にソムチャイ首相の責任を追及した。
王室、司法も、反政府団体寄りの姿勢を示す。
クーデターについては、介入を否定したが、さらなる衝突の場合は、行政権の停止もありうる、としている。
つまり、軍が介入する可能性である。
また、クーデターを、反政府団体も、望んでいるようである。

そして、もう一つの、問題がある。
カンボジアとの、世界遺産であるクメール寺院プレアビヒア周辺の、国境問題である。
両国の軍高官が、共同パトロールの実施で、合意したが、タイ政局の混乱が、紛争激化の、きっかけとなった。

タイ政府が、カンボジアによる、寺院の世界遺産に登録申請に、同意したことから、民主主義市民連合が、売国行為と、激しく批判した。

更に、市民連合の支持者が、7月15日に、寺院に侵入したことから、両軍の展開という事態を、引き起こしたのである。

いずれにせよ、政権存亡の危機的状態である。
寺院自体は、国際司法裁判所で、カンボジア領と認定されている。国際的には、タイの内政混乱が、紛争激化の原因と、見られる。

王室、司法も、反政府寄りであるということは、先が見えるのである。

タイのプーミポン王は、タイの民主化を望んでいるが、矢張り、王様の指導が必要なのであろうか。
それぞれの、民主化というものがあっても、いい。
タイは、王様主導の民主化であって、いいと思うが・・・

2008年10月26日

ベトナムへ17

私は、王様のいる国、タイが好きである。
無形の権威というものが、社会には必要である。
現国王は、国民の期待に、若い時から、応えてきた。

自らも、出家し、そして、王位を守り、政治的には、中立を保つ。
しかし、ここ一番という時、国民は、王の指示を仰いだ。

現在も、政府側、反政府側も、国王支持である。
国民の、90パーセント以上が、国王支持である。
その、支持率を、保ち続けてきたということは、並大抵ではない。

クーデターの度に、国王の信任を得るということが、前提になった。
世界広しといえども、そのような、国王は、どこにもいない。

宗教界、仏教の主は、主として、政治は、国民にという、国王の意志と、人柄が、そのようにさせるのであろう。

世界の識者は、政治は、国民の手で、修めるべきであり、国王を、持ち出すことのないようにと、言うが、それぞれの、民主化という形があってよい。
国王、絶対君主という、時代ではない。

アメリカが、イラクにアメリカ型の、民主化を、求めても、成る訳が無い。
その土地、民族性によるものである。

天皇が、祈りの象徴であるように、タイの国王も、祈りの象徴として、ありたいと、願っていることだろう。
国民は、誰もが、私を省みなくても、国王は、私のために、祈っておられる。
これこそ、国家幻想の、大元である。

無形の権威である。

しかし、現実問題、選挙によって、選ばれた政治家が、政治を行うべきである。
そして、選挙によって、政治を、修めるべきである。

いつも、軍が、クーデターを起こして、国王の信任を得て、暫定政権を作り、そして、選挙し、政府を立ち上げというのは、お終いにした方がよい。

タクシンの場合は、王制を廃止し、大統領制を示唆したことも、大きな反感を、国民から買ったのである。
やったことも、悪だが、言動も、悪乗りである。

また、問題は、タクシン政権寄りの、政党が存続し、選挙で、勝っていることである。何故か。そこに、何か、意味がある。利権であろうと、思う。
タクシンは、相当に金持ちであるが、実は、タイ国民は、知っている。

タイ国王は、世界で、一番の金持ちである。
正確な数字は、忘れたが、兎に角、世界一金持ちの、国王である。
中華系タクシンごときに、タイという国を、則られてたまるか、というところだろう。

さて、この問題は、そろそろ、省略して、旅の続きを書く。

小西さんと、別れて、私たちは、一度ホテルに戻り、休んだ。
少し、疲れを感じた。
明日、ベトナムを経由して、帰国するのである。

10日間の旅も終わる。
そして、更に、ベトナムでの、五時間あまりに、追悼慰霊の儀を行うと、決めた。

食事である。
何を食べるか。
私は、屋台連合の、スープライスしか、思い浮かばない。

40バーツ、約130円である。
エビと、イカの入った、シーフードを食べる。

スタッフの野中は、レディボーイに逢うというので、別々に行動することにした。
しかし、私は、屋台連合に行くことを言った。
野中が、先に部屋を出た。
30分ほどして、私も、部屋を出た。

もう、顔馴染みになった、おじさんに、シーフードのスープライスと、言う。
夜の屋台は、混雑している。
地元の人が多いが、欧米人もいる。
一つだけ空いていた、道沿いの椅子に座る。

息子なのだろうか、男の子が、運んできた。
食べ始めると、男の子は、お椀に、何かを持ってきた。
私の食べている、どんぶりに、それを、入れようとするので、制して、その、お椀の中に入っているものの、匂いを嗅いだ。
酢である。
スープライスには、酢を、入れると、はじめて知る。

私は、それを、受け取って、少し入れて食べてみた。
悪くないので、もう少し、足した。
長い間に、出来た食べ物には、良い食べ方がある。
更に、生野菜が出ることもある。
こうして、バランスの良い食事を、思いついてきたのである。

衣食住には、民族の心が、宿る。

食べ終わって、さて、どうしようかと、思った。
最後の夜であるから、少し、歩道に並んだ、夜店を見ることにした。
あるならば、ロウソクを買おうと思った。

亡きカウンターテナーの、藤岡宣男に、燈すロウソクである。
ほとんど、バリ島やタイで、ロウソクや、線香、お香を買う。

歩いていると、スタッフの野中に逢う。
今、レディボーイと、別れてきたという。
それで、一緒に、ロウソクを探した。
10個で、100バーツの、ロウソクを見つけて買った。
それで、夜の歩きは、終わりである。

野中は、レディボーイの子と、食事をしたというので、ホテルに戻ることにした。

その、レディボーイの子は、23歳で、両親が無くなり、祖母と暮らす。
女の体になるために、女装して、体を売る。
前回来た時、野中が、声を掛けて、知り合ったのだ。

ショートは、1000バーツ。平均は、2000バーツである。
野中は、前日に、2000バーツを渡している。
話を聞かせて貰い、そのお礼である。
約、6600円であり、高額である。

彼、いや、彼女は、日本円にして、25万円を目指している。
最低の手術費である。

見た目は、女性である。
美しく、可愛い。

ただ、生活費に、一ヶ月、最低でも、日本円で、15000円必要である。
バスで、二時間ほどもかかる、スクンビットに出て来る。
朝、九時頃から、夜の六時頃まで、道端に立つ。
夜に渡っては、仕事は、しないという。
毎日、お客がいる訳ではない。
早く女の体に、ならなければならないので、この仕事で、稼ぐしかないのである。

その辺一帯は、女も、レディボーイも、立つ激戦区である。
だが、皆、仲間であり、仲良しである。

以前来た時より、人数が増えていた。
女が多い。肌の色の違う女もいる。
そして、驚くことは、白人もいるのである。ハーフなのであろうか。

彼女たちは、実に親切である。
その訳は、普通に接してくれる人だからである。
体を売る人ではない、普通の人として、付き合う、話し掛けるからである。
私は、よく、道を尋ねる。一緒に、着いて来てくれることもある。

部屋に戻ると、野中は、彼女のことを、心配していた。
唇に、明らかに、ヘルペスが出来ている。そして、口が臭うという。
絶対コンドームを使うことだと、言ったという。
そして、約束させたと言う。

実は、コンドームや、ラブオイルも、準備して差し上げることもある。
バリ島にも、それらを持って行った。

チェンマイでは、白人のおばさんが、ボランティアで、売春を仕事にする女、男、レディボーイに、コンドームと、ラブオイルを配っている。
ラブオイルは、傷がつかないように、である。
傷口から、菌が入るからである。

先の、レディボーイの、Kは、まだ仕事を始めたばかりで、その時、コンドームを使っていなかった。そこで、野中が、コンドームを渡した。
そのせいか、日本に帰国しから、野中に毎日、電話が来るようになった。
お金を出して欲しいというものだった。

女になって、あなたと、云々という、電話である。
私たちは、それに対して、はっきりと、させるべきだと、お金は無い、ただ、出来ることは、病気にならないように、必要な物を、渡すことしか、出来ないと、言った。

日本人は、お金を、持っているとの、いつもの先入観である。
だが、彼女、Kも、私たちが、安いホテルに泊まり、屋台で、食事をするのを、見て、了解したはずである。

なんてったって、私のタイでの、恰好は、タイ人が、寝る時の恰好をしているとのこと。
そんなことは、露知らず、タイパンツと、ティーャツで、闊歩しているのである。

知らないことは、恐ろしいことである。

マッサージをする時、私のはいている、タイパンツより、上等なパンツを出されて、唖然とすること、あり。
向こうも、変な日本人と、思っていることだろうと、思う。

私の場合は、丸裸が、一番、上等に見えるかもしれない・・・

ベトナムへ18

朝、九時半を過ぎたので、早めに空港へ向かうことにする。
一時間半の飛行時間でも、出国するのである。
二時間前までに、行くこと。
更に、何があるか解らないので、早めに向かう。

タクシーの交渉である。
小西さんから、タクシー運転手が、本当にキレると、必ず殺すという話を聞いた。
車内に、銃を隠し置いているという。

あらあら、それでは、喧嘩は出来ない。残念。
ということで、タクシーを捕まえて、合掌して、サワディーカップと、笑顔で、近づき、英語で、スワナプーム、エアポートターミナルと言って見た。
ハウマッチ。
400バーツである。いいじゃない。500バーツと、言われるかと思った。
勿論、高速料金すべて、含めてである。

一度、カオサンから乗り込んだタクシーは、500バーツで、すべて含むと言ったが、高速料金のたびに、請求し、更に、チップまで、要求してきた者もいる。
また、逆に、突然、捕まえた、タクシーは、300バーツで、高速を通らず、猛スピードで、走った若者がいた。
スタッフ曰く。きっと、暴走族だったんだ、と。

今回の運転手さんとは、和やかに過ごした。ゆったりとした、タイ語で語り掛ける。そして、今度来る時は、呼んで下さいと、名刺を渡された。

実は、今回の旅は、細かなところで、色々と、人の心の機微に触れ、更に、旅が楽しいものになっていた。
こういう、言い方をする。何かに、守られているようである。

怒り心頭ということが、無いのである。
ベトナムの一件を別にしては。

早めについてみると、まだ、受付が、始まっていない。
私は、このスワナプーム空港が、大好きである。
一階に下りる。
大食堂に行く。
旅行客もいるが、矢張り、職員が多い。

入り口で、100バーツ分のチケットを買う。余ると、現金に戻してくれる。
いたいた、私たち二人は、無愛想な女がいることを、確認。
混雑時は、三人の女が、チケット販売にいる。
その女は、真ん中にいた。
スタッフは、その女が嫌いである。あまりの、無愛想にである。

ニコリともしない。
お金を、受け取ると、投げつけるように、チケットを出す。
とっとと、行けという、雰囲気。
しかし、私は、それが、楽しい。
真ん中の女に、お金を出すように、右の女に、差し出した。
どうだ。

こんなことで、意気がっても、しょうがない。
ところが、楽しいのである。

さて、チャーハンを頼む。
安くて、大盛りである。側にある、野菜は、取り放題である。
野中が、それを大量に取る。自分は、食べないので、野菜だけにするつもりだ。
そして、私は、チキンが食べたくて、チキンを指差した。
店員は、笑顔で、チキンを目の前で、パンパンと、切ってくれる。と、更に、ご飯も、盛り付けた。アッ、それは、いらない。と、思っても、言葉が出ない。
一人前が、出て来た。スープもついた。

これは、食べ切れない分量である。

全部で、80バーツ。約270円。

頑張って食べた。一生懸命に、食べた。

野中は、バリバリと、生野菜を食べている。

食べ終えて、残りのチケットを、返金してもらう。
最初から、現金にすれば、いいのにと、いつも、思う。

搭乗手続き開始の、表示が、点滅している。
四階まで、エレベーターで、上がる。
ベトナム航空に進む。

支援物資が、無いので、実に、楽チンである。
出国手続きも、問題無し。

必ず、立ち寄る、アイスクリームを食べる店に寄る。
腹一杯だが、アイスクリームを注文する。

その時、ワンカップで、150バーツで、ツーカップで、300バーツである。
しかし、二つ分の、分量のカップでは、270バーツである。ということは、それを、注文し、それぞれ、一つを食べると、30バーツが、浮くことに、気づいた。
しかし、注文した後である。
次に来た時に、そうしょうと、話し合った。
話し合うようなことではないが、30バーツ得するということが、大問題なのである。

ところが、私は、立ち上がって、二つ頼んだでしょう。
これは、270バーツだから、二つで、270バーツは、駄目と、日本語で、言った。意味が通じたらしく、女は、憮然として、300バーツと、言う。

ああー
駄目、か。
食べていると、別の女の子が、笑顔で、私に挨拶する。
そうだ、二リットルのペットボトルに手をつけていない。次の手荷物検査では、水は、持って入れないと、彼女に、渡す。
コープクンカー。
もう、帰るの、またね。
日本語である。
しかし、意味が通じる。

その子に、手を振り、手荷物検査に進む。
アメリカの飛行機は、次も、検査がある。搭乗待合室に入る前である。
また、検査―――
テロが、本当に、怖いのである。

ベトナム航空は、国際線であるから、食事が出ることを、忘れていた。
あらら、また、食べることに。

まだ、時間があるので、別の待合室の、喫煙室に行く。
勝手知ったる、のである。
誰もいないはずが、職員が、たむろして、タバコをふかしていた。
皆、若い男たちである。

一人の、より、若い男に声を掛けた。
どこから、来たの。要するに、タイのどこの出身と、尋く。
ところが、英語が駄目である。

自分も、英語が出来ないのに、英語が話せるかと、尋く、私。
少しだけ。

それでは、あなたは、男が好きか、女が好きか。
これも、駄目。
野中に通訳を頼む。
しかし、ね。最初に、そんなこと、尋く、の。
いいから、尋いて。

女が好きだって。
残念。私の好みなのに。
野中が、愕然として、通訳しない。

彼は、ターミナルの、警備である。
しかし、そのように、見えない服装をしている。
きっと、エージェントなのだろう。でも、エージェントっていう、意味が、解らない。

特別警備役で、スーツで、警備をしているのであろう。
アラッ、普通の客も、入って来た。私のような人がいるのである。

広くて、大きい、スワナプーム国際空港は、私の好きな場所である。
この、スワナプームという言葉を、覚えるのに、実に時間がかかったのであるが。

ベトナムへ19

ベトナムに到着して、即座に、8ドルのタクシーに乗り、メーソン広場に向かった。
そこには、ベトナムの英雄、チャン・フン・ダオの像がある。

およそ、800年前、日本では、鎌倉時代である。
三度にわたり、ベトナムに侵入してきた、元の大軍を破り、救国の雄となった。

タクシーを降りて、すぐに歩き出し、川沿いに向かった。
慰霊に、相応しい場所を探す。
丁度、川に突き出た、船着場のような、場所があり、そこで、追悼慰霊の儀を、行うことにした。

夕暮れ迫る頃である。

まだ、人影まばらである。
バイクに、カップルが、いた。
スタッフが、白人の夫婦が、じっと、こちらを、見ていたというが、私は、気がつかなかった。

すぐに、用意していた、白紙を、枝に取り付けて、御幣を作る。
枝は、公園の、一枝を貰った。
いつも、その地にある、枝を使う。
榊でなければならないということは、一切無い。

今回は、清め祓いのみであり、神呼びをして、霊位を、置かない。
ただ、言霊により、清め祓いをするのみ。
祝詞を唱えて、しばし、黙祷する。

御幣を太陽にかざして、その、気を頂き、四方を清め祓う。

何と清清しいことであろうか。
私の勝手な、思いである。
これが、私のやりたいことである。

何故、それをするのかと、言われれば、それを、やりたいのだとしか、答えられない。

見える世界は、見えない世界に支えられてある。
それ以外の、言葉は、無い。

いずれは、ベトナムの日本人村にも行くことであろう。
そこは、ホイアンという、ベトナム中部、フエの南にある町である。

来遠橋という、1593年に、日本人が作った橋があり、町のシンボルでもある。
橋を、境に、東側に日本人街、西に中国人街がある。

橋の中央には、舟の安全を祈願する、小さな寺がある。

1999年に、世界遺産に指定された。
ホイアンについては、いずれ旅した後で書く。

ちなみに、フエを中心とした、中部では、日本語熱が、高い。
ベトナム政府は、年間、1000億円を援助する日本に対して、学校教育の場で、日本語授業の選択で、応える。

また、ホーチミンの高校でも、日本語は、選択科目にある。

さて、急ぎ、追悼慰霊の儀を、終わり、私たちは、傍のレストランに入った。
まだ、準備の時間であるようだが、快く、受け入れてくれた。
川沿いに面した、オープンカフェに、座り、ベトナムコーヒーを注文する。

ボーイたちが、まだ、仕事前で、休んでいた。
話をしたいが、英語も、通じない。
ただ、ニコニコと、笑いあうだけである。

ベトナム人が、笑う。
私は、その僥倖に、何度も出会った。

着物の、珍しさもあるのか・・・
解らない。
しばし、そこで、休む。

写真を見ると、最初に撮ったものより、慰霊後の方が、明るいのである。
不思議である。
不思議なことは、この世に、数多くある。
不思議は、不思議で、いい。
偶然でも、いい。
詮索する必要は無い。

空港に行くまでは、まだ時間があるので、ベンタイン市場に歩いて向かう。
しかし、夕暮れ時の、ラッシュである。
車と、バイク軍団の中を、道路を横断するのは、勇気がいる。

とてもじゃないが、怖すぎる。
ビュンビュンと、その走る中を、横切るのである。
心臓ドキドキ。

ようやく、市場に着いたが、疲れた。
本当に、疲れた。

ところが、市場の中は、お終いである。
皆、本日の、後片付けをしている。勿論、食堂も、である。
あららららら
と、思いきや、市場の横の広場に、屋台である。

見事に変身している。

雨が降ってもいいように、テントが、張られている。
そこを通ると、呼び込みが、激しい。
時々、変な日本語で、呼び止められる。

私は、フォーを食べるつもりである。
海鮮のフォーである。
専門店を、探すが、呼び込みに、止められる。
フォーと言うと、オッケーオッケーと、言うが、スタッフの野中が、ここは、専門店じゃないと言うので、また、先に進む。
そして、フォー専門の店に、入った。

ところで、私は、呼び込みを、無視しているのではない。
必ず、声を掛ける。
日本語である。
いい、男だねーーー
可愛いーーー
皆、意味が解るのか、照れ笑いする。

メニューには、日本語も、載っているから、ありがたい。
写真を示し、注文する。
同じものを、二つ注文し、もう一つ、余計なものを、注文したが、忘れた。
料金は、高めである。

三万ドン以上であるから、米ドルでは、2ドル以上であり、日本円では、約200円以上となる。

そうそう、水を買った。
一万ドンである。
あれっ、高い。5000ドンではなかったのか。
すると、野中が、メーカー物だよ、と言う。
観光客用なのであろう。

致し方ない。
この、みみちさは、日本に戻っても、続く。

ベトナムの感覚で、日本の店の、料金を判断するから、とんでもなく、高く感じる。
立ち食いソバが、最も理想的になる。

そして、8ドルで、乗るタクシーの場所に移動した。
と、その前に、公園を通るのである。
その公園で、女の子三人に、話し掛けられた。

高校生が、二人、一人は、大学生である。
英語が、話したいようで、一生懸命に話しかけてくる。

実は、私と、野中は、着物姿である。
話をして気づくと、私たちの周囲に、人が群がっていた。驚いた。
30人以上はいる。
私たちを、見て微笑んでいる。

これは、一曲歌うか、舞うかと、思ったほどである。
しかし、時間を見ると、駄目。
しょうがない。次のチャンスだと、カーモーン、ありがとうと、言って、その場を離れた。

女の子たちは、スイユアゲンである。
何とも、ベトナムの最後は、皆に、送られた気分であった。

8ドルの、タクシーに乗り込み、空港へ、向かう。

2008年10月27日

ベトナムへ20

世界的に見ても、グローバル化が進み、世界が単一市場になると、貧富の差が激しくなる。

私の訪れた、ホーチミンは、急速な勢いにて、外資の導入が行われたことにより、他のベトナムとは、違う。
高級ホテルや、デパートは、欧米、日本と、何も変わらない。

しかし、中部の、農村地帯は、まだ極めて貧しい。
更に、その高原地帯の少数部族は、より深刻な貧しさである。
飢餓寸前の生活を送る人もいるという。

平等という言葉ほど、ベトナムに合う言葉は、無い。
それがあったから、ベトナムは、やってきたのである。

つまり、社会主義の精神が、ベトナム流に解された。
30年以上に渡る戦争である。
その間、庶民は、貧しさは、分かち合うもの、そして、そこから、相互に助け合う、扶助の精神が生まれたのである。

今は、具体的に書くことは出来ないが、ベトナムの人は、一部の人が豊かに成るよりも、全体が平等の方が理想だと、考えている。それは、今もある。
それが、ベトナムを救うのである。

同じ社会主義でも、他の社会主義とは、別物である。
国民レベルにおいて行われる、社会主義である。
支配する者の、社会主義ではない。それは、おおよそ、全体主義に陥る。更に、幹部のための、主義になる。

しかし、問題がある。
矢張り、戦争の後遺症である。
同じ民族が戦った内戦でも、あったということである。
家族でも、南と、北として、戦うこともあったという。

平等思想は、特に北に属する人に共有されるが、南の人とは、別物である。
地域による、政治的、社会的格差というものを、考えなければならない。

簡単に言う。
経済的に貧しい、北の社会主義が、豊かな、南の資本主義を破った戦争であり、北の人が、目にしたのは、サイゴンの、豊かさに溢れ、繁栄した街である。
そこに、北の幹部が大挙して、移住し、公的機関の職務に就いた。
そして、強制的に、社会主義の名の元、南の人を追い出して、自分たちのものにした。それは、勝者である行動である。

更に、悲劇は、社会主義の、最も悪い面である、旧南政府や、軍関係者を、再教育と、称して、強制収容所に入れて、何年間も、強制労働と、思想改造に、従事させたことである。

この行為は、南の人から見ると、占領軍同様に、見えた。
共産党という、占領である。
更に、北と、共に戦った、南ベトナム解放戦線は、戦争中は、その存在を主張したが、前後は、冷遇された。

これは、実に、共産党の悪趣味を見る思いであるが、解放戦線という組織は、実は、共産党の秘密党員で構成された、党の別部隊であったと、宣言したのである。
それは、共産党以外の、愛国主義を基盤にして、解放戦線に参加した南の人の、主体性を、否定したものである。

勝利に導いたのは、共産党であるという、喧伝である。

解放戦線に、参加した人々には、勲章以外、何の特典も、保障もなかった。
それは、勝利を独占する行為であり、その共産党の姿勢に、失望したのである。

更に、共産党は、南の政府関係者、主なる者たちの、子弟には、大学の入学資格を、認めなかった。
この、処置が、中国系の人、南政府関係者の家族たちを、ボートピープルとさせた。

南の人は、北の共産党が、南を征服したのであると、考えるようになるのである。
その、しこり、は、戦後30年を経ても、解消されていない。

しかし、南の政治的敗者である事実がある反面、経済的には、南の方が、急速に発展しているという事実。
その社会も、階層化が進み、利害関係も多様化しているのである。

全体から見ても、南は、北より、益々豊になり、その格差は、四倍から、六倍といわれる。

さて、そこで、ドイモイ政策という、市場経済を導入した、ベトナムは、政治的に、市場経済を主導できる状態ではないと、思われる。

問題は、頭の切り替えである。
共産主義による、共和制では、もはや、先に進まないのは、目に見えている。
民主化である。民主共和国である。

貧しさを分かち合う社会主義から、豊かさを競い合う資本主義への移行は、社会主義では、動きが取れない。

今、ベトナムは、社会主義時代の、生活保障が、廃止され、資本主義社会で、発達した、社会保障は、国家財政不足のために、全く導入されない。

つまり、粗野な資本主義であり、新しい風、新しい考え方を、取り入れなければ、成り立たないのである。

更に、である。
共産党員になる者が、激減しているのである。
特に、若い世代では、極端に少ない。
党員になると、特典、特権が、一杯与えられるというのに、である。

特に、都会の若者には、人気が無い。
当然である。
党の方針に、忠実に従うことを、求められる。
個人的な、自由な発言、思考が、制限される。
更にである、マルクス・レーニン主義、共産党の歴史などを、義務として、強制されて、学ばせられるのである。

研究者ならば、わかるが、すでに、終わった、主義を、学んで、どうするのか。
それは、宗教の教義や、誇大妄想の指導者が、行う方法である。

思考停止にするというのは、最大の悪である。

世界の情報が、手に入る時代、若者は、見抜いている。
キャリアとして、共産党に入ることは、将来的に、マイナスになるだろうと。
それは、終わったものである、という意識からだ。

また、南では、共産党に入ることは、一種の裏切り行為ともなる。
北は、南を、占領した敵だとの、意識であるからだ。

ここでは、これ以上、書くことは、出来ないが、共産党員の特典など書くと、驚くべき、実態が見えるのである。

共産国は、賄賂天国だと、言った。
ベトナムも、然り。

バンコクから、再度、ホーチミンに着いて、市内に出るため、入国することにした。
その時に、税関に出す用紙を提出する。
半券を貰う。
それを、出国の際に、提出する。

今回、スタッフの野中が、出国の際に、それを、見失った。
探していると、係員が、早く来いと、急かす。
賄賂を受け取る、チャンスと、見た。

半券が無い。
10ドルである。
どうでもいいような、半券である。それを、回収する作業に、必ず無くす人もいるとの、想定で、賄賂を得られるのである。

ベトナム、いや、共産国は、この手の、作業が多い。
日本では、お役所仕事とでも、言うか。

実は、その時、私は、スタッフを、怒鳴り散らして、その対応を見たいという、欲求に駆られたが、穏便にという、目標を立てたので、その場を去った。
待合室で、半券が出て来た時も、再度、行って、10ドルを、取り戻そうかとも、思ったが、いやいや、次のチャンスがあると、止めた。
これから、長い付き合いを、しなければならないのである。

ベトナムへ21

簡単に、日本と、ベトナムの関係を、俯瞰する。

1992年のODA再開がなされてから、十数年間に渡る、日本のODAによる、工事の全容には、凄いものがある。

ハノイと、ハイフォンを結ぶ、国道の整備、橋梁の架設、多くの国道の整備がされた。
南部と、北部を分ける、ダナンと、フエの中間にある、ハイヴァン峠のトンネル工事によって、90分もかかった、道が、20分で、通過するようになった。

ハノイのノイバイ空港の現代化、ホーチミンのタンソニャット国際空港の新設も、日本のODAである。

更に、多くの湾岸施設の改修や、下水道の工事、僻地の、小学校建設、などなど、甚だしいほどの、協力である。

2006年には、ズン首相が、来日し、ハノイと、ホーチミンを結ぶ南北高速鉄道と、南北縦貫高速道路、また、ITを中心とした、ホアラック・ハイテクパークの建設を、主要な、三つの、ODA案件として、日本政府に要請した。

兎に角、日本が、ベトナムに、大変な支援をしているということ、である。
これを、両国の国民が、知るべきである。

共に、日本企業の進出である。
トヨタ、ホンダ、キャノンなど、日本を代表する多国籍企業の多くが、ベトナムに工場を持つ。
中小企業の数も多くなり、開発中を含めて、150以上あると、いわれる。

ベトナム政府は、2010年までに、一人当たりの、GDPを、1100ドル程度にすることを、目標としている。

ベトナムが、市場として、次第に成長していることも、重要な要素である。
ホーチミンには、中間層といえる、階層も、出てきている。

二年前の、06年、日本からの、直接投資は、許可ベースで、約14億ドルと、過去最高になった。

中でも、IT産業である。
データ処理、ソフト開発などを、下請けに出すというものが、急増である。

ベトナムに出掛ける、日本人観光客の数は、駐ホーチミン日本総領事館によれば、昨年の、07年は、年間、41万8000人になったという。

更に、私が注目したのは、高齢者の、長期滞在である。
老後の生活を、ベトナムで、過ごすという、高齢者が増えているといわれる。

ベトナムでは、相互扶助の精神が、残り、温かい人情がある。
そして、年長者に対する、尊敬である。
つまり、ベトナム人の、中に、分け入ってゆくと、本当のベトナム人の気質が、現れるということである。

笑わないベトナム人は、実は、深い付き合いで、人情味溢れる付き合いに変容してゆくのである。

それが、今回の私の体験した、成果でもある。
それが、縫ぐるみが、きっかけになったという・・・

そして、衣服の支援である。
まさか、ホーチミン市内で、差し上げることになるとは、予想していなかったのである。

車をチャーターして、ホーチミンから出る計画だった。

これは、個人活動であるから、本当に、ささやかな行為である。
大量の衣類を持っては、行けないが、個人レベルでの、付き合いが出来る。そして、本当のベトナム人の持つ、人情に触れられる。

これからの、抱負を言えば、ホーチミンにて、ベトナムの人との付き合いを、深めて、ベトナム中部の、農村、そして、少数部族の人々に、支援したいと、思う。

日本のボラティア団体、個人的活動と、多くの日本人が、ベトナムにて、奉仕活動をしている。
それは、また、目覚しいものがある。

国際社会の、グローバル化というものを、しっかりと、理解していると、国境を超える。
市民レベルでは、国境を超えているのである。

うまく行けば、市民レベルで、平和を築くことが、出来るはずである。
誇大妄想の、全体主義指導者が、現れなければ。

一番、最初に、提案したことであるが、何故、日本人が、他国で、ボランティア活動をするのか。
日本でも、貧しい人、助けを必要としている人がいる。
当然の話である。

しかし、グローバル化を、理解すれば、国境は、関係ない。
ベトナムの若者が、日本の高齢者介護に、出て来ることもある。

思考も、グローバル化するべきなのである。

国内で、ボランティアする人も、海外で、ボランティアする人も、その、性格と、好みである。
それを、誰も裁けない。
ましてや、何もしない、出来ない者が、それを、批判し、更に、非難することなど、出来ない。

やりたい場所で、やれることを、する。
世界は、一つであることを、その行為に、託す。
素晴らしいことである。

それが、一つの主義や、主張、更に、教義に基づくものではなく、知性と感性と、理性によって、行う。
実に、新しい世紀の、行動である。

人類を救うために、云々という、お説に、惑わされないことである。

特に、日本人の行動は、宗教の布教でもなく、主義の公布でもない。
純粋に、人間としての、行動である。
純粋な人間の行動というのは、これでなければ、いけないという、観念を作らない。

柔軟に対処する。
臨機応変な対応が出来る。

新興宗教の、言い分がある。
本当の救いは、正しい教えによって、人を導くことであると。
それは、物資支援よりも、大切なことであると。
精神の救い、心の救いのみが、正しいというのである。

私は言う。
勝手な、精神であり、勝手な心というものを、作り上げて、それを、救うという、誇大妄想は、救いようがない。

大昔に、日本に仏教を伝えた人々がいる。
命懸けで、海を渡った。それは、時代性である。
その時代に必要とされた。

大昔の、観念から抜け出ない者が、教えを説くのである。

仏教の国に、キリスト教を布教するという、お馬鹿な真似は、止めるがいい。
更に、日本の新興宗教の輩、多数。
教線を広げることが、組織の、発展を促す。商売ではないのである。
それぞれの、土地に、合ったもの、伝統と、伝承がある。
それを、破壊することなく、知性と、理性に従い、行為行動すること。

それ以下に、新しい時代、新しい世紀に、生きるべき道は無い。

人類を救うために、という、言葉は、戯言である。
一人も、救えない者が、何をかいわんやである。

私は、一人の人間も、救うことが出来ないという、真実に立って、行為する。

真理の教えというものは、無い。
あれば、妄想である。
それを、信じると、ほぼ、思考が停止する。
別の人の、人生となる。
書き足りないが、終わることにする。

2008年10月28日

ベトナムへ 和歌を詠む

ホーチミン・サイゴンにて詠める歌


サイゴンの 川辺に祈る 追悼の 波立ち騒ぐ 飛沫吹き上げ

流れ行く サイゴン川に 追悼の 流す涙に 風渡るかな

サイゴンの 風渡るらし 川沿いの 船の行き来を 和やかに見る

渡し舟 行き交う波の 飛沫には 流れの速さ 悲しくもあり


雷の とどろき渡る サイゴンの 川辺の空が 明け開けゆく


ベトナムと 風の有様 変われども 人の生き様 変わることなし

歴史をば 知るということ その国の 人の心を 知ることなりと


今日食べる ことのみありて 生きること 逞しき人 溢れる如く

生き抜いて とにかく生きて 生き抜いて この時の世を 味わいつくす


歴史をば 生きるは我と 気づくとき 目の前のもの 光輝く

旅をする ことを旅する 旅もあり 屋台のフォーの 淡き味なり

人により 人は心を 取り戻す 善き人もそれ 悪しき人も


故郷を 異国の町で 思うなり それ生きるに 変わることなし

ホーチミン 立ち去りがたく 後ろ髪 曳かれる如く 後振り返らず

平和をば 行進した人 ベトナムの 今を知ること なくて安穏


追悼の 慰霊の所作の 床しさを もののあわれに 我は 見るなり

2008年11月15日

ゴールデントライアングルへ

タイ、北部に残された、最後の慰霊の地、ゴールデントライアングルに向かう旅である。

今回は、その旅の前に、色々なこと、また、考えることがあった。

まず、瀕死の父である。
九月と、十月に見舞った。続けて、田舎に帰るのは、異例のことだった。
そして、危ないといわれた時期、私は、タイに向かう。
矢張り、タイ滞在中に、父が亡くなる。

旅の前に、見舞いに行った時、最後の別れをしていたので、私は、ただ、ぼんやりと、父の死を受け入れていた。
三日の朝である。チェンマイのゲストハウスに似た、ホテルで、その報を受けた。

父は、私の元に来たと思うが、それは、かすかなものだった。
その翌日、丁度、炊き上げの時間に、父の声が胸から、聞こえた。
俺、焼かれている、というものだった。
独特の調子の、方言ある言い方である。

悲しみはない。

死を明確に自覚している、父に、安堵した。

人の死の、状態を説明するのは、至難の業である。
心臓が止まった。それで、死を判定する。中には、脳死の場合もある。
私が言いたい、死の状態とは、魂と、心の状態である。

一部に、この世に少し留まる、荒魂、あらみたま、というものがある。
それが、動く。
自分の死を知らせるために、姿を見せるのは、それである。

父は、その姿も、かすかに見せただけである。
ほとんど、この世に未練は、無いのである。

私が、見取った、カウンターテナー藤岡宣男の場合も、一切、姿は、見せなかった。
完全に、死を自覚し、この世に未練が無かったといえる。

さて、今回、私は、タイ北部、ビルマと、ラオスと、タイが接する、国境地帯に、慰霊に出掛けた。

バンコクに到着し、そのまま、翌日一番のチェンマイ行きの飛行機に乗り、チェンマイに、一泊して、翌日、車で、メーサイという、ビルマ国境の町に行く。
そこで、一度目に出掛けた時に、出来なかった、追悼慰霊をする。
そして、ビルマの、タチレクに入り、衣服支援をして、ゴールデントライアングルに向かうのである。

その、移動は、バス、ソンテウという、乗り合いバスで行く。タイ特有の、乗り物である。

追悼慰霊に関して、一点の曇りもない。
ただ、衣服支援である。
持てる量が、足りないのである。
大々的な支援が、出来ない。
ほんの、一握りの、人に手渡すのである。

実に、地味な行為であり、それに、悩んだ。
あれば、いいが、無くても、いい。
無ければ、無いなりに、やり過ごすことができる。

私は、慰霊のついでに、行っているという、方針であり、善意の行為などとは、考えていない。名義上ボランティア活動としているが、世に言うボランティアとは、違う。

どう、違うのか。

ボランティアという語源は、ラテン語の、ボルンタスであり、その意味は、生きる意味意識ということである。
ボルンタスが、動詞になり、それを、行為することを、ボランティアという。
つまり、生きる意味意識の行動ということになる。

それは、相手側の問題ではなく、こちら側、それを、する側の問題になる。
この行為に、生きる意味意識を見いだすか、否かである。

私は、その行為に、それを、見いだす。
実際、多くの出会いがあり、更に、皆と、親しくなり、打ち解けて、親戚の人のようになる。

土地が違えば、人も違う。しかし、人の情けというものは、変わらない。

今回は、子供のものが多く、国境の橋の上で過ごす、男の子の、サイズに合うものがなく、私は、彼らを連れて、市場に行き、ズボンを買って上げることにした。
しかし、それは、付け焼刃である。

二人と、指名したが、もう二人の子が着いてきた。
一人の子は、孤児で、15歳である。他の子は、母子家庭であり、皆、学校には、行けない。
彼らは、アカ族である。

国境の橋での、ストリートチルドレンは、皆、アカ族の子供たちである。
大きくなっても、そこに、暮らす子供たちも、多い。
今回は、そういう、子供たちにも、出会った。

ただし、皆、男の子である。
前回、行った時は、幼児に近い女の子も、いた。
しかし、今回は、皆、男の子である。

女の子は、ある程度の年齢になると、連れ去られる。
書きたくないが、ミャンマーには、児童買春を取り締まる法律がない。

タイの、メーサイから、ミャンマーのタチレクに入ると、児童買春が、当然の如くある。
だから、国境を越えて、児童買春のために、ミャンマーに入る欧米人、日本人がいる。

話を戻す。
衣服支援の、限界は、持参する物以外に無いということである。
それに、合わないサイズの子には、差し上げることが出来ないのである。
すると、今回のように、買って上げるという、暴挙になる。

金さえあれば、それは、いくらでも、可能である。
しかし、私の行為は、それではない。

市場に出掛けて、一人の子は、丁度良い物があったが、他の子は、好みの物が無いと、別の市場に行くと言う。
私は、時間が迫り、一緒に行動することが、出来なかった。しかし、買うと、約束したのである。
仕方なく、お金を渡すことにした。

これが、後味の悪い物になった。

私の、ボランティア活動を、逸脱したのである。

金を渡せば、済むこと、という、欺瞞に、私は陥ったのである。
ただ、救いは、彼らは、確実に、ズボンを買いに行ったということである。

ストリートチルドレンに、お金を渡すと、他の大人に取られるということを、聞いていたから、決して、お金は、渡さないと決めていた。

日本円にして、1500円程度であるが、彼らには、大金である。

心を緩めると、このような、状態に陥る。
実に、危険である。
私は、何様ではない。
単なる、貧乏な日本人であり、追悼慰霊が、主たる、目的であり、支援が目的ではない。
その、目的の、ブレが、今回、私をして、悩ませた。

15歳の男の子は、孤児であるから、寝るところも無い。
食べ物は、どうしているのかと、問うと、皆から貰うという。

そして、よく、見ていると、皆、持ち物が共有感覚なのである。
誰かに、差し上げると、それが、皆で使い回しされる。

貧しさも、共有するものなのである。そうして、生きられる。それも、彼らの知恵である。

最初に、ズボンを買った子は、一番小さな子だった。
後の、三人が、別の市場に行くという時に、私が、手渡した、金額に、15歳の子が足りないと言ったらしい。
すると、その子が、それで買えると、言ったと、スタッフから聞いた。
良識というものが、ある。
小さな子には、良識があった。
いくらでも、貰えるなら、貰うという、乞食根性が無い。

後で、15歳の男の子について、スタッフと、話し合った。
孤児であるが、小奇麗な恰好をしていた。更に、唇に、小さなリングを入れていた。15歳と、いう年齢は、分別がつく年である。
スタッフは、観光客に、体を売っているのかもしれないという。
確かに、それは、考えられる。

私は、橋の上で、昨年出会った子供たちを、捜したが、姿無く、橋を抜けて、タイ側で、衣服を配った。
子供たちは、勝手に、国境の橋から、タイや、ビルマ側に、降りても、何も言われないのである。

そこで、差し上げていると、橋の上にいた、チルドレンが、大きくなった、高校生程度の男の子たちも、それが欲しい、あれが欲しいと、橋の上から、指差すので、差し上げた。

最後は、衣服を入れてきた、大きなバッグまで、上げた。

その様子を、タイの軍兵が、じっと見ていた。
背中には、機関銃を負っている。
ミャンマーなら、軍兵に、何か言われる可能性もある。

私の問題は、私自身の問題として、旅の間、考えることになった。

慰霊のついでに、行う衣服支援は、日本に対する、日本人に対する、その地の人の、イメージを、創造するものである。
日本や、日本人は、友人であるという、意識を持って頂きたいというものである。

戦争により、彼らの、祖父母の時代を、滅茶苦茶にしたのである。
その、後遺症は、計り知れない。
それを、知れば知るほど、私は、日本人として、彼らに対座するのである。

それを、踏まえて、この旅を書く。
本日は、何を食べるかと、考える日本人である。選択の余地がないという、人が、世界には、日本人の人口より、多いのである。

2008年11月16日

ゴールデントライアングルへ2

バンコク行きの、直行便は、日本時間で、深夜1時、タイでは、11時に到着する。

飛行機は、ほぼ満席である。
皆が乗り込むと、即座に動き出す。
時間通りではない。が、離陸するのに、30分以上も待った。
着陸、離陸の飛行機の、順番待ちである。

そのうちに、私は、眠ってしまった。
気づいた時は、食事の時間である。

バンコク、スワナプーム空港では、翌朝、六時発の、チェンマイ行きに乗る。
であるから、バンコク市内には、出ないで、空港で、過ごす。
これが疲れる。

そこで、今回は、三階にある、モスリムの、祈りの部屋を利用することにした。
イスラム教徒のために、用意された、部屋である。
彼らは、どこでも祈りを上げるので、空港内に、作られたのであろう。

スタッフと、二人で入ると、すでに、三名の人が寝ていた。
皆、壁に着くように寝ている。
私たちも、壁に沿って、体を横たえた。

夜中、空港で、過ごす旅行客は、多い。
皆、ベンチで寝たり、空いている床に、敷物を敷いて寝る人もいる。

この空港の、椅子は、皆同じで、実に冷たい。
そこに、そのまま寝ることは、出来ないほど、冷たい。
そして、寒いくらいの冷房である。眠られるはずがない。

モスリムの部屋は、涼しいが、寒くは無い。ただ、照明が煌々と照る。

イスラム教徒の場所であるから、他の宗教の人は、入らない。
何故、私が入ったかといえば、眠るためである。
イスラム教は、偶像を嫌い、演台が一つあるだけで、後は、何も置かない。

そこに、入る人は、イスラム教徒である。
皆、イスラム教徒であるから、事件は起きない。安全である。
眠るのに、相応しいのである。

もし、万が一、何か問われたら、日本語で、コーランの一説を朗詠しようと、思っていた。
日本流のコーランの唱え方だと言うつもりだった。

だが、誰も問うことなく、搭乗手続きまで、ゆっくりとしていた。時々、トイレに立った。

印象深かったことは、朝、四時まえに、パイロットがやってきて、30分ほど、祈っていたことである。
機長である。
これから飛び立つ、飛行機の、空の安全を祈ったのであろうことが、解った。
そして、パイロットが出ると、寝ていた一人の男が、ぶつぶつと、話し始めたことである。いや、話ではない。祈りの言葉である。

それを、聞いて、時間を見ると、そろそろ搭乗手続きの時間である。

男の部屋の隣が、女の部屋で、子供もいた。
中は見えないが、子供が出入りしていた。

大層な荷物を持って、部屋を出る。
皆、小さな荷物であり、私たちだけ、支援の衣服があるので、大量な荷物だった。

帰りも、私は、この部屋で過ごした。
スタッフの野中は、一階の椅子に、敷物を敷いて寝たようである。
何故か、入らないと言うのである。

言わないが、理由は解る。
想念の重さである。
祈るという、人の想念が重いのである。
そこに、残り漂う。

日本の伝統的、宗教的行為は、清め祓いが、最も大切である。
故に、兎に角、清め祓う。
しかし、他の宗教は、清めも祓いも無い。
ただ、祈りを捧げる。
良い悪いの、話ではない。
伝統と、伝承が違うのである。

神に向かって祈るのであるが、それが、その場に留まるのである。
通常の感覚で、考えれば、質も次元も違うところの、神に、通ずることはないのである。
通じるとは、同じ質と、同じ次元でなければならない。

以下省略する。

チェンマイ行きの飛行機は、空いていた。
これは、幸いである。体を、横にして、寝られる。
それに、時間通りではない。
全員乗った。じゃあ、離陸である。
これが、いい。
適当である。

飛行機の中は、冷房が効いて、寒い。
私は、バンコクの空港で、夏物の、紗の着物に着替えていたので、寒いのである。
体を横にしたが、寒くて、寝られない。しかたなく、目を閉じていただけ。

国内線は、サービスは無い。ただ、飲み物や、何やかにやを売りに来る。
その会社特性の、何とかという物を売っていた。
その説明が、長くて、うんざりした。

一時間程の、飛行時間で、チェンマイである。
タクシーは、120バーツで、皆同じ値段で、決まっている。
一台のタクシー運転手が、声を掛けるので、その人に決めた。
ターペー門の前のホテルの名を言うと、運転手は、今、工事中なので、別な良いホテルがあるという。

800バーツだというので、そこに決めた。
本当は、400バーツ程度の、ゲストハウスで、いいのだが、今は、これからのことを、考えて、少し高級なホテルにすることにした。
チェンマイ市内では、中級であるが。

新しいホテルで、実際の値段は、2700バーツもするホテルである。
目立たない場所で、人が入らないから、安くしているのだろうか。
フロントで、朝食付きで、850バーツと言われた。
それで、決めた。

いつもの、ターペー門から、離れて、ナイトバザールのある、場所に近い。
付近には、古くからの、日本料理屋もある。

朝、八時過ぎに着いても、チェックイン出来るのが、いい。
日本では、そんなホテルは無い。
ついでに、朝食を食べた。
150バーツで、バイキングである。
色々あって、楽しい。つまり、ホテル代は、朝食を抜くと、600バーツなのである。

円高、バーツ安で、いつもより、一万円で、200バーツ、約650円程多い。
スワナプーム空港では、一万円が、3600バーツ程度だった。
三万円両替したので、ホテル代が出たことになる。

朝食を食べて、少し寝た。
スタッフの野中は、眠いのか、食事もしないで、昼頃まで寝ていた。

翌日、国境の町メーサイまで、バスで行くことにしていた。約、六時間である。
一番良いバスで、行く。それでも、一人約300バーツである。
だが、六時間という長い時間のバスは、少し恐怖だった。

バス乗り場から、順次出ているとのことで、時間を調べなかった。
ホテルからは、十時に出る計画である。

乗り物に乗ると、足が浮腫む。
野中と、フットマッサージに出掛けた。
ところが、歩いていると、野中の携帯電話に、どんどんと電話がくる。
沢山、友人を作ったので、色々な人からの、電話である。

その一人、特に親友になった、レディボーイの、タニャさんが勤めたという、マッサージ店に行くことにした。
タニャさんの家では、以前、家の御祓いに行き、私も食事をご馳走になった。

ロイクロ通りという、夜の街である。
その通りは、夜になると、とても賑やかになるのである。

橋を渡り、タニャさんの勤める店に行った。
そこで、マッサージを受けることにした。
タニャさんの他に、別の友人も勤めていた。
それでは、二人に、やってもらおうと思ったが、もう一人のレディボーイが、私をマッサージするのが、恥ずかしいとのこと。

実は、私は、レディボーイに、嫌われている、いや、煙たがられるようである。
つまり、野中が、言うには、レディボーイであることを、見抜かれるからだ、というのだ。

それでは、他の女性に受けるかとも、思ったが、別の場所にすることにした。
野中は、タニヤさんに、やってもらうことになった。

ナイトバザールの付近は、マッサージ店が、数多くある。
激戦区である。

私は、元の道を戻り、ぶらぶらと、歩いた。
歩道に、店が出始めて、それを眺めて歩いた。
そうしていると、段々と疲れて、マッサージもしたくなくなり、そのまま、ホテルに戻った。

何度も、マッサージの店の前で、誘われたが、今ひとつ、乗り切れなかった。そういう時は、やめた方がいいのである。
ホテルの部屋で、休むことにした。

野中が、戻って来たので、ホテルの前にある、日本食の居酒屋に、行った。
経営者も、日本人で、わざわざ挨拶に来た。
前回も、一度来ている。

日本酒を、お銚子で頼み、一本を二人で飲んだ。それだけで、酔いが回った。疲れているのである。
言いたくないが、年のせいであろうか。
いや、年ではない。乗り物である。乗り物のせいで、酔いが回るのである。

ゴールデントライアングルへ3

翌朝、10月30日である。
ホテルの、バイキングの朝食を食べた。
思う存分食べた。

そして、水を買いに、ホテルを出た。
ホテルの前に、タクシーが止まり、勧誘される。
私は、バスターミナルまでの、料金を尋ねた。120バーツである。
10時に、乗りたいと言うと、オッケーと言うので、そのタクシーに乗ることにした。

部屋に戻り、スタッフの野中に、10時出発と言う。
野中は、ようやく起きて、食事に出た。
いつも、夜行性なので、朝は苦手である。つまり、低血圧なのである。
子供の頃、実に苦悩したという。
子供の低血圧は、理解されない。
いつも、学校に遅刻したらしい。可愛そうに、である。

実は、私も、低血圧であるが、行動がキビキビしている。
つまり、生き急ぐのである。
これは、小学四年生からのことである。
人が死ぬものであることに、気づいた時期である。

さて、10時になり、荷物を持って、チェックアウトして、ホテル前を見ると、タクシーが、ホテル前に準備していた。

運転手が言う。どこまで行くのか。
チェンライ。
チェンライなら、2000バーツで行くよ。
いや、チェンライの先の、メーサイまで行く予定だ。
それなら、2500バーツで行く。
いや、バスの方が、腰にいいから、バスで行く。
バスなら、六時間かかる。これなら、三時間で、行く。

要するに、タクシー運転手は、バスより、タクシーの方がいいと言うのである。

私が、渋ると、メーサイまで、2000バーツで行くと言う。
約、6000円と少しである。
バスなら、二人で、600バーツである。約、2000円。
運転手は、兎に角、時間が半分だと、交渉する。

さて、どうするか。
タクシーだと、バスと違い、時々、止まったり、好きなように出来る。
その通り、止まったり、観光も出来た。
運転手は、懸命に売り込む、更に、譲らない雰囲気なので、私は、よし、オッケーと言った。
すると、運転手は、ヤッターという感じで、ハンドルを切った。

4000円の、差である。
確かに、タクシーに乗った成果は、あったと思う。
バスならば、見ない所も、見た。
途中で、止まり、食事もした。
ケチるという、旅もあるが、時々、ケチらないときも必要である。

絞りたてジュースを買ったり、茹でた、とうぎひを買って食べた。
そして、私たちは、テレサテンの、演歌を聴き続けたのである。
運転手が、テレサテンの歌、日本の歌が大好きだという。

テレサテンが、持ち歌以外の、多くの日本の歌、童謡もあるが、それらを歌ったものを、私は、初めて聴いた。
日本語も、中国語も、英語の歌も、実に巧い。
日本の歌を、中国語で歌うものもあった。
気づいた時は、私も、一緒に歌っているという、有様。

ところで、運転手は、片言の日本語を話した。
その訳は、六年間、新宿歌舞伎町で、タイ料理の店で働いていた経験があるのだ。三ヶ月のビザで、六年である。
二十年ほど前のことである。

チェンライに近づくこと、あと14キロの地点に、タイのアーティストである、チャルーンチャイ・コーシピパットがデザインした、寺院がある。
運転手は、私たちを、そこに連れた。

ワット・ロン・クンという、寺院である。
寺院は、1997年から建設が始まり、今も、続行している。
本堂では、彼の描いた、仏画が、本尊となっている。
実に、白尽くめで、不思議な寺である。

観光客は、多かった。
特に欧米人である。

寺院全体が、芸術化している。
宗教、仏教というものを、使い、芸術活動をするという。それもまた、芸術である。芸術は、宗教を超える。
宗教は、一つの芸術活動ともいえる。ただし、芸術の方は、余計な教義が無い。

運転手は、私たちが、写真を撮らないのが、不思議そうだった。
彼は、私たちの目的を、知らない。
私たちが、写真を撮るのは、別のことで、なのである。

運転手と一緒に、タイのラーメンを食べた。
日本のラーメンと違い、半分ほどの量で、腹にもたれない。少し、物足りないのがいい。

チェンライを抜けて、メーサイへ向かう。
タクシーは、飛ばした。速度の規制が無い。
どんどんと、追越をかける。

ようやく、テレサテンも終わり、ただの音楽になった。
メーサイに向かう時、私は、うとうとしていた。
運転手は、六時間のところ、三時間で、着くといったが、三時間以上になっていた。
途中の立ち寄りを入れて、五時間ほどになった。

国境の一本道に入り、ホッとした。
ホテルは、どこかと、訊かれて、まだ決めていないが、国境の近くだと言う。すると、オッケーと言い、新しいホテルね、と言う。
新しいホテル。
そんなの知らない。
だが、私は、そうそうと、答えた。
その新しいというホテルに到着した。

値段を訊いて、高ければ、別のホテルにしょうと、思った。
ホテルの駐車場に車を入れる。
ボーイが来て、荷物を運ぶ。
運転手とは、そこで、さよならである。
2000バーツを支払った。

フロントで、料金を尋ねると、800バーツである。朝食付き。
疲れたせいもあり、ここに決めた。
メーサイでは、高級ホテルに入ることになった。

部屋に荷物を入れて、しばし、休む。
大きな部屋に、ベッドが二つあり、リラックス出来た。
ただし、この程度の料金のホテルは、これが最後である。
次は、ゲストハウスで、350バーツ、そして、チェンマイのゲストハウスに似たホテルは、400バーツである。

夕暮れが迫る。
少し明るい内に、偵察した方がいいということになって、私たちは、町に出た。出たといっても、国境の辺りである。
国境の橋の下を歩いた。
商店街である。
橋の下の、川を見た。
明日の、慰霊の場所を決める。
タイ側で、慰霊の儀を執り行い、国境の橋の上で、神呼びをして、霊位を御呼びし、依り代に迎えて、霊位をタイ側に送るのである。

国境を入れないという、霊位の想念を取り除くのである。
タイ側に連れて、そこから、解放されたと、感じた霊位を、故郷にお送りする。ただ、それだけ。

慰霊の場所を見て、国境の橋を、見上げると、子供たちがいた。
手を振り、声を掛ける。
すると、何と、子供たちが、橋を降りるのである。
身軽に、ヒョイと、飛び降りる。
しかし、誰も、何も言わない。警備員も、来ない。

明日、服を持ってここに来るから、皆を呼んでと言う。
英語は、通じない。野中が、タイ語で、言うと、頷いた。
皆、初めて見る顔である。
一番背の高い子に、年を尋くと、15歳と言う。
彼は、孤児だった。
どこに寝ているのと、尋くと、コンビニの前だという。
コンビニということは、タイ側である。
ミャンマーには、コンビニは無い。

国境の前にある、コンビニが、彼の寝床である。
後で、そこが、最も安全な場所だと、気づく。
物乞いたちも、コンビニの前にいて、過ごしていた。
夜の間、最も明るい場所なのである。

彼らと別れて、橋の下を通り、歩くと、マッサージの店があった。
そこで、フットマッサージを受けることにした。
一時間、120バーツと安い。

私に着いた、おばさんは、痩せていて、少し顔色が悪い。
結果、あまり、芳しくない出来上がりだった。
マッサージ師の体調が、こちらに、移る。
これが、オイルマッサージならば、てきめんに、不調になる。

終わると、すでに、暗くなっていた。
そこから、先に進む道を抜けて、また、国境の道に出た。
一回り、回ったのである。

ホテルに戻る前に、食事をする。
屋台が出ていたので、屋台で、麺類を食べた。
そして、面白そうな、揚げ物を買った。一つ、7バーツである。部屋で、それを食べると、中に餡が入った、丸いドーナッのようなものだった。

早々と、ベッドに着いて寝た。
明日が、どのようになるのか、解らない。
兎に角、慰霊をすることだけは、確実である。
一度目の時、丁度一年前は、ミャンマーに入り、ついに、慰霊が出来なかったのである。

2008年11月18日

ゴールデントライアングルへ4

31日、朝、9時半にホテルを出る。
子供たちと、11時頃に、橋の上で逢う約束をした。
ところが、ミャンマー時間は、タイ時間より、20分早いのである。
どちらの、時間になっているのかを、知らない。

兎に角、昨日の橋の下に行き、慰霊をすることにした。
流れの速い川を見つめて、すぐに、近くの木の枝を折った。
それに、白紙をつけて、御幣の出来上がりである。

空は、薄曇りである。
東の空に、拍手を打ち、川に向かって、祝詞を献上する。
幣帛に、神々を御呼びする。
ひとまず、川を清め祓いし、それを持って、国境を越える。

橋の上に上がり、タイ側のイミグレーションを通る。スタンプを押されて、次は、ミャンマー側に向かうが、そのまま、通らない。
まず、タイと、ミャンマーの真ん中に、立つ。
旗が、タイからミャンマーに、変わる場所である。

人の目があるが、気にしない。しかし、即座に、事を行う。
まず、日本兵の霊位を、御呼びする。
この、依り代に、来たまえと、念じる。そして、迎えに来ました、私と共に、橋を渡りますと、やや命令口調で、言挙げする。

霊位が動きやすいように、言霊、音霊を、小さく唱える。
霊位は、音に乗る。

その間、周囲の人の、動きが、制止しているように感じた。
スタッフに後で聞くと、皆、注視していたという。
特に、坊さんは、じっと目を凝らして見つめていた。
ある者は、スタッフに、何をしているのかと、問い掛けた。そこで、簡単に説明すると、納得したという。

感応したことにより、私は、四方を清め祓いした。
この橋を渡れないという、兵士の想念を、祓うのである。

この橋を渡りたまえ。
そして、故郷にお帰りください。

祓い給え、清め給えと、四度唱えて、早々にして終わる。

気がつくと、皆が、私を見つめている。
御幣を川に投げ入れて、即座に、ミャンマー側のイミグレーションに向かった。

一人、10ドルを払い、写真を撮られる。
パスポートを預けて、略式通行証を貰う。
昨年来た時とは、雰囲気が違う。
昨年は、丁度、日本人ジャーナリストが、軍に殺害されて、ビリビリしているようだった。
今回は、比較的、和やかで、のんびりしている様子。

スムーズに抜けて、タチレクの街中に入る。
私たちは、昨年衣服支援をした、川沿いの、スラムに向かった。

ところが、風景が違う。
川沿いに、ホテルが建っていた。
その場所には、家があったはず。
そして、私が四人の子供に、衣服を差し上げた家は、本屋になっていて、あの時の子供たちの姿がない。

更に、スラムの一角を、警護していた、おじいさんもいない。
別な、おじいさんに、尋ねた。
すると、皆散り散りになったという。
今は、シャン族の人たちが、住むというから、驚いた。

私たちは、日本から、子供の服を持って来ていますが、必要でかと、尋ねると、子供たちは沢山いるとのこと。
中に入ってもいいですか。
いいよ、いいよ、と、おじいさんが言う。

サワディーと、タイ語の挨拶をして、中に入った。
二階建ての、集合アパートのようである。
日本のアパートを想像しては、違う。
地震などきたら、一気に崩れる建物である。

数人の女性たちがいた。
そして、バッグを広げて、衣服を取り出すと、次から次と、部屋から、人が出て来た。
汗だくになりながら、一人一人に手渡す。
今、学校に行っているが、三人の男の子がいますという、母親に、三人分の、衣服を差し上げる。
大きさを、確認しつつ、手渡す。

一通り終わると、先のおじいさんも、傍に来て、私にも、何か下さいと言う。
丁度、細いマフラーがあり、二本、おじいさんの肩に掛けた。
すると、皆から、歓声が上がった。
この、おじいさんは、皆の、まとめ役のようである。

汗だくの私を見かねてか、一人の母親が、私たちに、水を持ってきた。
ポットから、コップに、並々と注いだ。
それを、差し出されて、さてと、二人で見合わせた。
その水を飲むことは、非常な危険である。
生水は、命取りになる。
菌に当たると、一日寝ていなければならないし、もっと悪い場合は、病院行きである。

しかし、私は、一気に飲み干した。
スタッフも、飲んだ。

彼らが、私たちに、持て成すことが出来るのは、水だけなのである。
それを、拒む理由は、生水であるということだけ。
私は、水ではなく、好意を頂いた。
好意を、飲む。

皆、笑顔で、私たちが飲むのを見ていた。
それで、知り合いになった。

おじいさんが、今度は、いつ来ると、尋ねるので、来年来ますと答える。
今度は、前のホテルに泊まりますと、余計なことまで、言ってしまった。

皆の歓声に、送られて、私たちは、そこを出て、大きな通りに出た。
折角だからと、一件の食堂に入り、コーヒーを注文した。
ブラックかと、訊かれて、頷く。
出て来たコーヒーを飲んで、びっくり。
ミルクと砂糖の、インスタントコーヒーである。
これが、ブラックとすると、普通のコーヒーは、どんなものかと、話し合った。
それには、お菓子が着いてきた。
パリパリとした、薄い煎餅のようなものである。
そして、それに着けて食べるのだろう、小皿に、よく解らないタレが出て来た。

その店主と、スタッフが、英語で、話した。
この、タチレクには、空港があるという。
私たちが、これから、ヤンゴンに向かうと、思っていたようである。

空港があるなどとは、知らなかった。
ここから、ヤンゴンや、マンダーレに行くことが出来るのである。

店主は、地図を指しながら、説明する。

その時、私は、児童買春が出来るところを、尋ねたい衝動に駆られた。
しかし、店員たちが、昼の食事の用意をはじめているし、尋ねることが、ためらわれた。

この街の、どこかに、あるはずである。
微妙な話題でから、矢張り、訊きそびれた。

時間を見て、そろそろ橋に向かうべきだと、スタッフを促した。
二人で、30バーツを払った。
タチレクでは、タイバーツが使える。

残りの衣服を抱えて、国境の橋に向かう。
大きめの衣服が、残り、丁度良い具合である。

ただ、私は、汗が引かず、顔から、汗が噴出す。
着物は、汗で、搾れるほどである。
この紗の着物は、仕立ててから、着るのは、二度目である。
帰国して、すぐに、丸洗いに出さなければならないと、思う。
汗は、形になり、残るのである。

2008年11月19日

ゴールデントライアングルへ5

ミャンマーの、イミグレーションを通り、パスポートを略式通行証と交換する。
そして、橋に出た。

子供たちの姿を探すが、見当たらない。
タイの時間では、まだ、11時になっていないと、しばし、橋の上で、佇む。

その間に、色々と声を掛けられる。
荷物を持つと言ってくる、青年もいた。それで、幾ばくかの、金銭を得るのである。
二つのバッグを、持ってもらうこともない。

橋の上から、タイ側の下を見ると、昨日の子供たちが、三人、川で泳いでいる。
流れの速い川で、泳ぐという暴挙であるが、楽しそうだ。
私たちは、もう、橋から抜けて、橋の下に出ようと思った。

タイ側での、イミグレーションも、スムーズである。
出て来た、門を逆に戻り、橋の下に出た。

子供たちが、私たちに気づいて、川から、上がる。
持って来たよと、声を掛ける。
三人が、集まった。
そこで、バッグを開いて、衣服を見せる。
一人一人、サイズを確認する。

その内に、人数が増えてきた。
更に、橋の上からも、声が掛かる。
ストリートチルドレンから、成長した、少年たちである。
矢張り、国境の橋を拠点にして、生きているのである。

今回は、女の子を、一人も見なかった。
前回は、幼女一人がいた。

少女は、すぐに誰かに連れて行かれるのである。
少女は、女になる。
そして、金になるのである。

児童買春の、恰好の餌食である。
孤児であるから、誰も咎めない。

さてさて、どんどんと、衣服が無くなる。
残ったものは、女の子用のものである。
ついに、大きなバッグも欲しいと言われて、それも、上げた。

私たちの、すぐ傍で、タイの軍兵が、機関銃を背負って、じっと見ている。

最後に、昨日、ズボンが欲しいと言った、二人の男の子のものが無い。
私は、スタッフに、二人のズボンを、買って上げると、言わせた。
着いて来なさい。
二人の男の子が、私に従う。と、少しして、振り返ると、二人が四人に、増えていた。

あの、15歳の孤児の子と、母子家庭の子と、後の二人も、仲間なのであろう。四人が、打ち解けている。

彼らは、自分たちの物は、共有するという、道徳を持っている。
自分の物は、人の物であり、人の物は、自分の物である。それで、何とか、生きられるのである。

最初の市場に着いて、一番小さな、母子家庭の子に、ズボンを買った。最初から、半ズボンが欲しいと言っていた。
190バーツである。

そこの、おばさんが、その子に、何か話しかけている。
スタッフによれば、どうして、この良い人と、会ったのという質問である。更に、どうして、この人は、あなたに、物を買ってくれるの、である。
国境地帯は、色々な人が集う。
大半は、悪い人である。
良い人という言い方に、特徴があったので、スタッフも、意味が解ったという。

そして、おばさんは、その子に、学校に行かなければ駄目だよと、言ったらしい。
つまり、彼らは、学校に行っていないのだ。
また、学校に行けるお金が無い。

孤児の子は、自分の気に入った物が、無いと言う。そして、もう一つの市場に行くという。
そこで、時計を見た。
もう、時間が無い。これから、ゴールデントライアルグルに行く予定である。
早くしないと、チェンセーン行きの車が無いということになる。

車道の真ん中で、五人が、佇んだ。
私は、もう、時間が無いと言う。
彼らは、車で、5分のところにある、市場に行きたいと言う。
それでは、しょうがないと、私は、15歳の男の子に、240バーツを出した。

それは、車代と、ズボンを買うお金である。
すると、彼は、もう二人の分が、足りないと言う。
私は、他の二人のことを、考えていなかった。
さて、それではと、もう、200バーツ出した。

すると、15歳の子が、これでは足りないと言ったらしい。スタッフが聞いた。すると、一番小さな子が、それで、十分買えるだろうと、15歳の子を、牽制したという。

実は、一番小さな子の、ズボンの値段が、符丁より安くなっていた。地元の人であれば、もっと、安く買えるのかもしれないのである。

まして、見れば解る通り、街の中で、一番貧しい子供たちである。
私は、彼らの言葉が解らないゆえに、それじゃと、ソンテウ乗り場に、向かった。
すると、子供たちが、スタッフに、名前と、電話番号を聞いている。
スタッフの野中は、メモ用紙に、私の名と、自分の名、そして、タイでの、電話番号を書いて渡した。

私は、青色ソンテウ乗り場に、急ぎ足で向かった。
とうに、12時が過ぎて一時近くになる。

乗り場に着くと、一人の女性が、出発は、一時半ですと言う。
その女性が、運転手だとは、思わなかった。後で、それに気づく。
少し時間がある。

汗だくだったことを思い出し、水以外の飲み物を買った。
確か、ヤクルトに似たようなものだったと思う。

食欲は無かった。
あまりに、疲れると、食欲が無くなる。

タバコを、二本吸った。
タイでは、禁煙が全域に渡って行われて、灰皿も無い。
外でのみ吸うことが出来るというものだ。
時に、道路に、吸殻が落ちていることはあるが、それは、実に少ない。
また、罰金を科せられることもある。

私は、一本一本を、ゴミ袋に入れた。
衣服支援を終えたので、荷物が少なく、それがまた、安堵感を与えた。

後は、ゴールデントライアングルの慰霊である。

私たちの他に、地元の二人のおばさんが、乗り込んできた。
そして、出発である。
途中でも、また、おばさんが乗り込んできた。

メーサイからは、30程度で、到着する予定だったが、途中下車や、また、乗り込む人がいて、一時間ほどかかって、到着した。

その中に、母と娘と、娘の子である、女の子が乗り込んできた。
そこで、私は、丁度、サイズが合う女の子用の衣服があることを、思い出し、それを取り出して、必要でかと、スタッフに言わせた。

それは、冬物である。
おばあさんが、これから寒くなりますから、丁度良かったと言う。
そこで、縫ぐるみと、もう一つ、上着を差し上げた。
とても、喜んでくれた。
私は、日本人ですと言うと、着物を、指差して、キモノと言う。
イープンと、タイ語で、日本人と言う。

途中で降りてゆく時に、何度も、コプクンカーとお礼を頂いた。そして、合掌して、私たちを見送った。
こういう、差し上げ方もある。

ゴールデントライアングルへ6

ゴールデントライアングルに到着。
タイ、ラオスを隔てる、メコン河と、タイ、ミャンマーを隔てるルアク河が、合流する。
ソップ・ルアクという村である。

河に面して、最近建てられた大きな黄金の仏像が、目立つ。
英語のゴールデントライアングルという文字が、至る所に見える。

さて、と、私は、合流地点を見渡した。
どこで、慰霊をするかである。
観光客が多く、邪魔される怖れあり。

だが、どうしても、記念碑の横、つまり、突端で、行いたいと思った。
しかし、神道の所作ではない。
違うと、思った。
ここでは、日本兵というより、日本軍に強制的に連行された、クーリーつまり、荷物運びの人々の追悼慰霊である。
それは、多く中国人と、タイ人である。
その数は、日本兵の数より、多いという。

悲劇である。
何の関係も無い人が、強制的に、連行され、荷物を運び、遂には、死ぬのである。
この、合流地点である、河の底に、どれほどの、遺骨が眠っているか。

その場に行き、慰霊の所作を、感じるのである。
般若心経を唱えることにした。
それでは、線香と花を、求めたいと、近くの売店に行くと、その青年は、あそこにあると、指差す。
見ると、花も、線香も用意されていた。

大きな、布施箱が置いてあり、そこに、お金を入れる。

線香五本に灯を点けて、きくの花を、手に持って、般若心経を上げる。
最初は、何事も無い。
何度か繰り返すうちに、次第に、体が勝手に、川縁に向かいたくなった。

そこから、船着場に下りた。
揺れる船着場で、経を上げる。

舟が行き来する。
観光客を乗せて、遊覧しているのである。
その舟の波で、足場が揺れる。

私が、線香と花を持って、祈るのを、遊覧船の客が見つめている。
ただ、慰霊の思い篤くして、霊位に対する。
そして、花を一つ一つ千切り、河に投げ込む。
それは、その時に、そのようにするということで、その時にならなければ、解らない。

感じたことは、私の足が、足先から、重くなったことである。
ここでは、慰霊の行為が、あまり行われないようである。

水辺では、霊位が、足から感応してくる。
それは、良くないことである。

私が、霊能者ならば、やってられない場所である。
霊能者ではなく、慰霊する者だから、かろうじて、大事にならないでいる。
懸る、憑依するという現象がある。
それは、霊的感能力の強い人に、現れる。
その良し悪しは、別にしてである。

無念過ぎる人の死の想念は、たまらないものである。
ただ、水辺だということでの、救いはある。
流れは、慰霊の効果がある。

花を大半流して、私は、慰霊の所作を終えた。

線香も、流した。

一度や二度では、済まないことである。

矢張り、汗だくになった。
上に戻り、次は、どうするかということになった。
上の寺にある、慰霊碑に行かなければいけないが、荷物がある。
登るのに、荷物は、何倍もの時間がかかる。
荷物を預ける場所を探したが、無い。

しょうがないと、山に向かう。
すると、何と、ポリスの出先機関がある。

私は、勝手に、そこに向かい、食事をしていた、警察官に、合掌して、日本語で、荷物を預かって貰えますかと、尋ねた。
それで、通じた。
オッケー、オッケーと、何の抵抗無く、受け入れてくれた。

三人の警官たちは、笑顔で、私を受け入れてくれた。
有り難い。

それでは、と、身軽になって、山を登る。
しかし、山道である。汗が噴出す。

まず、中腹に出た。
寺があるが、入らない。
そこから、また、登る。
ようやく、上まで辿り着いた。
階段があり、僧が降りて来たので、合掌して、挨拶する。
ところが、その僧は、私たちに、何の引け目があるのか、目を伏せるのである。
何か、申し訳なさそうである。

理由は、後で知ることになる。

慰霊碑を、見つけた。
三体建ててある。

真新しい物である。
それほど、月日を経ていない。
だが、愕然とした。

何の気も、感じられないのである。
通常は、魂入れという行為をするものである。
どんな波動でも、碑には、それなりの存在感がある。
何も無い。

更に悪いのは、中途半端にしているゆえに、浮遊する霊の溜まり場のようになり、全く、慰霊碑の役割を果たしていないのである。

なんじゃ、これは。
私が言うと、スタッフの野中も、顔を曇らせて、嫌な表情である。
実は、彼は、私より、感能力が高い。それゆえ、変な所作は、行わない。
感受性が高いとも、言える。

私は、人様の慰霊碑であり、断らないで、慰霊の所作は、失礼であると、何も持たず、ただ、祝詞を献上して、その場の、清め祓いを行った。

太陽の光が、少し出たので、幸いと、太陽を拝して、更に、清めた。

辺りの空気が変化した。
これ以上は、省略する。

ある一基は、ここの、僧を日本に招いて接待し、慰霊碑建設の許可を得たという。
寺の所有する土地であるから、寺の許可が必要である。
日本式に、接待して、その許可を得たのであろう。

しかし、タイの仏教では、僧に対する布施行為は、寺全体に対する行為であり、僧ではない。僧が、単独で、何かを受けるということは、誤りである。
まして、接待という、世俗のもてなしを、希望するものではない。
あの出会った僧の、表情の意味が解るというものである。

私は、着物を着ていた。当然、日本人である。
どのような、接待が行われたのかを、知る者と、認識したのである。

まあ、それだけ、タイの僧は、純情だということ。
日本の僧ならば、当然、当たり前。
世俗よりも、甚だしい逸脱である。

現在の、タイ仏教も、腐敗の一途である。
長い間の、既得権益により、腐敗しているのである。
兎に角、タイの人は、貧しくても、寺には、寄進する。布施をする。
タンブンという。
寺にタンブンすることで、来世が決まるのである。

寺は、それにより、国が出来ない、福祉事業を為してきた。
貧しい子供は、寺に入れば、食べて行かれる。
学ぶことも出来る。中には、携帯電話を持つ、小僧さんもいるのである。

書きたくないが、肉も食べるし、遊ぶ。
男色行為は、当たり前である。
ただし、全部が全部ではない。
田舎には、戒律を守り、昔ながらの、修行僧も多くいる。

寺の中には、男子だけではなく、女子も受け入れて、養育する所もある。
ただし、それは、男子の余りで行うため、不足が多い。
一つの寺の、女子部では、生理用品や、タオルが足りないという。次に、私は、その女子部のために、生理用品などを、差し上げたいと思っている。

さて、慰霊碑の前で、写真を撮る。
写真に、嫌な物が、写らなければいいがと、思う。
そのような、場所になっているのである。

汗も引き始めて、下山することにした。
帰りは、楽である。
ポリスに立ち寄り、挨拶して、荷物を受け取った。

コープンカップ、そして、日本語で、日本式に、ありがとうございましたと、礼をした。
にこやかに、私たちを、送って下さった。

ここには、また、来ることになるだろうと、予感する。
以前の旅行記に、インパール作戦のことを、書いたので、省略するが、中国人、タイ人の、被害状況について、もっとよく調べて、書くことにする。

2008年11月21日

ゴールデントライアングルへ7

ゴールデントライアングルには、泊まらず、ソンテウで30分程の、チェンセーンという街に宿泊するため、ソンテウ乗り場で待つ。

この辺りには、超高級ホテルがある。
8400バーツというから、25000円以上である。日本の高級ホテルに似る。
2000バーツ程度のホテルもあるが、約6000円以上である。
日本のビジネスホテルより安いが、現地の感覚にすると、高級ホテルである。

日本人の姿もあり、きっと、その辺りのホテルに宿泊しているのだろう。
旅の目的が違うので、当たり前であるが、国境を流れる河の流れを、部屋から眺めて、ゆったりとしているのであろうと、思える。

さて、私たちは、ソンテウに乗り込み、チェンセーンに向かった。
メコン河沿いにある町である。
向こうに、ラオスが見える。

乗り場に降りて、ゲストハウスの場所に向かった。
小さな町であり、ゲストハウスは、二件のみ。
河沿いの道にある、ゲストハウスである。
出迎えたのは、犬。

誰も客がいないようである。
少し疲れているような、おばさんが出て来た。
ワンルーム、ツーベッドと言うと、部屋に案内した。
一階にある、ゲストハウスの裏側になる。

部屋に入ると、匂いがする。
カビの匂いと、犬の匂いである。
スタッフの野中が、別の部屋も見せてくれという。
すると、ワンベッドルームだという。オッケー。ワンベッドルームは、ダブルベッドである。

別棟に当たる二階の部屋である。
匂いが無い。
ここに決めた。
350バーツである。約千円である。
この辺りでは、高い価格である。

ところが、夜になると、どんどんと客が増えて、ゲストハウスが一杯になった。
寝るためだけに、泊まるという、タイ人が多かった。
中には、白人とタイ人の女性カップルである。
これは、よく見かける。タイでの、擬似恋愛である。女性を一ヶ月キープして、旅を続ける。セックス付き、通訳、お世話である。

荷物を置いて、すぐにシャワーを浴びた。
兎に角、汗だくだったのである。
襦袢も、着物も、汗だくで、すぐに干した。
着物は、汗の形がついて、もう着られない状態である。

絹の襦袢であるが、チェンマイで、洗濯に出すことにした。
しかし、一度、汗を乾かす。

温シャワーであるから、良かった。
トイレも一緒で、ペーパーは無い。大きな水盥がある。
つまり、手動の水洗である。

東南アジアからインドなどでは、左手は、不浄の手とされるのは、尻を洗うからである。しかし、尻を洗って不浄とは、ならない。実に、合理的、エコである。
私は、尻を洗った手のみを、石鹸で洗う。それで、おしまい。

タイパンツに穿き替えて、川沿いのある、マッサージを受けることにした。
川風に、吹かれて、気持ちよさそうである。
180バーツと安い。一時間の、タイマッサージである。

野中と並んで受けたが、マッサージ嬢が、色々と質問してくる。
タイ語と、英語で、話す。
よく解らないことは、笑って済ます。

夕暮れ時である。
そのまま、ソンテウを降りた、場所にある、市場に向かった。
市場に入り、どんな物があるのか、一通り見て回る。
もう、どんな物でも、驚かない。
生きた蛙が、売られていた。
それを、売っていたおばさんの顔が、実に蛙に似ていたから、それに、驚いた。

人間は毎日、見ている物に影響される。
それに、似てくる。
何を見るかということは、自分が何に似るかということ、である。

三本で、20バーツの、茹でとうきびを買った。
そして、道に出て、屋台の麺を食べることにした。
白い太い麺を指差す。
ポークか、チキンかと、訊かれる。
ポークにした。
二人で、30バーツである。約100円。

そのまま、ゲストハウスに戻る。
すると、川沿いに、多くの屋台が出ていた。
実に長い、屋台の列である。

ゲストハウスの隣の寺に入り、一回りする。
小僧の寮がある。
本堂の中に入り、礼拝する。
どこの町に行っても、寺は立派である。
寺の入り口が、拡張するのか、工事が行われている。

タイは、小乗仏教である。
インド、ビルマを経て、仏の教えが伝播した。
ただし、多分にヒンドゥーの教えも、加味されている。
中には、ヒンドゥー教ではないかと思える、寺のあるが、仏教なのである。つまり、ヒンドゥーの神を、守護神として、置いている。

それについて書くのは、別の機会にする。

寺を出て、屋台を見て回る。
もう、部屋に戻れば、明日は、朝バスで、チェンライに行くのであるから、見納めである。

焼きポークを買い、ソムタムという、ハパイヤサラダを買った。
ソムタンは、辛くて美味しい。私には、キムチの感覚である。ハパイヤの歯ごたえがいい。

暫く、歩いて、屋台を見て周り、部屋に戻る。
すると、どの部屋も、人がいる。
驚いた。

一階の部屋は、どこも臭いのである。
到底、ここでは、寝られないという部屋である。
後で気づくが、もう一つのゲストハウスが新築だった。
値段も同じである。
ホテルは、一軒だけで、1200バーツである。
この田舎町では、高い。

もう二度と来ないであろう、街であるから、何とも複雑な心境である。
泊まり逃げである。

裸で、床に座っていた。すると、向かいの部屋に、女性が入って来た。きっと、私の姿を、一瞬でも、見たことだろう。嫌なものを、見たと思ったと、思う。
部屋に入ると、一番に、カーテンを引いた。
ところが、そのカーテン、途中で止まる。彼女は、何度も繰り返しているうちに、カーテンレールを壊してしまった。
私のせいだと、思った。
この裸体を見たくないがゆえに、頑張ってカーテンを引こうとして、壊してしまったのである。しかし、彼女は、根気よく、カーテンを全部閉めることが、出来た。

朝、その彼女に、挨拶すると、英語が出来るかと、訊かれて、イエスと答えたが、彼女が何を言っているのか、解らない。
寝ているスタッフに、なんとかが、こんとかって、何んだと、訊いた。
大きな雲が、何とかという。
大きな雲。
何言ってんの。

スタッフを起こして、彼女と話させた。
要するに、彼女の部屋のトイレに、大きな蜘蛛がいるという。
雲と、蜘蛛の、勘違い。

スタッフが、それなら、先生が得意だと、私を促す。
何で私が、得意なのか。
ゴキブリを手で、潰すことが出来ると、彼女に言ったと、後で聞いた。

結果、水を掛けて、蜘蛛を追い出した。

彼女は、ドイツ人である。一人旅。
実に、危険である。蜘蛛ごときで、キャーと言っていては、旅など、危ない。
これから、タイ南部に向かうというので、地図を持ち出して、色々と説明した。
彼女が行きたいという、南の町は、存在しないのである。

私たちは、サムイ島への、行き方を教えた。
バンコクから、飛行機に乗り、スラー・タニーまで行き、空港前で、バス、船のチケットを買ってしまうのだというと、解ったようである。

ところが、彼女は、美人である。
サムイ島では、イギリス人の女性が、暴行され、殺されている。丁度、私たちが、出掛けていた時である。
観光地化されて、多くの人が集うと、犯罪も多くなる。

しかし、それを、覚悟で、旅をしているのだろう。
今度は、日本にも、来てくださいと、言うが、私の英語が通じない。
スタッフが言い直して、通じた。

二度と逢わない縁もある。

さて、私たちは、地元の人が乗る、バスに乗り、チェンライまで行くことにした。
チェンライからは、VIPバスに乗り換える。
その、地元のバスは、驚くべきバスであった。
一時間半、揺られ揺られて、車酔いという、遠い昔の記憶を思い出したほど。

扉は、開け放して走る。
ローカル線のバスは、面白いが、兎に角、二度と乗りたくないと、思った。
風景も、空気もいいが、あの、振動には、耐えられない。
降りたり、乗ったりする人々。止まる度に、眩暈がした。
そのバスは、二度、警察の検査が、入った。

ゴールデントライアングルへ8

乗り合いバスが止まった。
降りる人はいない。
警察である。
すると、乗車している人たちが、カードを提示している。国民カードである。携帯所持が義務付けられているのだ。

私たちは、パスポートを用意した。
一人一人を確認してゆく。
私の番になった、ちらっとパスポートを見て、ジャパンと言って、笑った。それで、終わり。

麻薬の取調べのようである。
バスの運転手が、車の後に積んでくれた荷物も、点検されたが、口を開いて一瞥すると、それで、終わり。
10分程で、出発した。

しかし、また、30分程走ると、止められた。
別の、検問所である。
同じことが、繰り返される。
私のパスポートは、ただ、提示するだけで、一瞥され、何事もなかった。

国を出て、日本人であることで、実に、愉快な気持ちになる。
ラオスも、ベトナムも、ビザ無しである。
タイも、一ヶ月ならば、ビザは、いらない。
マレーシアもそうである。インドネシアも、長期滞在以外は、ビザが必要無い。

その逆は、大変である。
日本に入るのは、年々厳しくなっている。

海外に出て、日本人であることを、実に意識する。
勿論、中には、そんな意識は、ゼロの人もいる。
別に、日本人だとは、意識しないという人である。
日本人としての、特権を得られない国に行く人に多い。また、欧米に対する、劣等意識の強い人である。

悪いのは、アジア差別の日本人である。
白人には、へいこらするが、アジア人に対しては、横柄に構えるという。

昔、札幌で、アジア人の留学生のボランティア活動を手伝っていた時に、アジア人留学生に対する、差別の甚だしいことを、知った。
白人には、決してしないようなことを、平気で、アジア人にはする。
手のひらを返したような、対応である。

タイの留学生で、自殺した人もいる。
本当に痛ましいことだった。

欧米人に、劣等感を持つと同じ程度に、アジア人に、優越意識を持つという、アホであるが、アホは、アホであることに気づかない。
ただし、韓国の留学生は、あからさまに、反日感情を剥き出しにしていた。25年ほど前は、それが、実に激しかった。

中国人は、人それぞれである。よい人もいるし、悪い人もいる。
中国は、日本を侵略国家だと、決め付けるが、自分たちの、侵略については、反省も何も無い。更に、面白いのは、イギリス人に対しては、驚くほど、謙虚である。
上海をはじめ、香港は、つい先ごろまで、イギリス統治だったが、イギリスに対しては、決して、侵略国家だと、言わないのである。
中国の、弱点である。
イギリス人には、実に弱い。

中国に物を言うなら、イギリスを通して言うとよい。

さて、揺られ揺られて、ようやくチェンライに到着した。
懐かしいバス乗り場である。
前回も、ここから、チェンマイ行きのバスに乗った。

車酔いの吐き気を感じつつ、チェンマイ行きのチケットを買う。
私が、買いに行った。
時計を持ち上げて、次のバス時間を尋ねて、二人分を買う。
チケット売り場の、おねえさんは、綺麗な英語を話した。

チケットを買って、時間が三時間程あるので、まず、食事をすることにした。

バス乗り場の付近は、街中である。
一度行った、和食の店に向かった。
この体調では、和食がいいと。

天ぷらそばにした。突然、天ぷらそばが食べたくなった。
スタッフも、天ざるである。
蕎麦は、乾麺を茹でるので、日本の蕎麦である。
遜色が無い。

壁の写真を見て、鉄火巻きが、食べたくなり、一人分注文した。それが、美味しかった。店員に言うと、日本から取り寄せているとのこと。

さて、食事を終えても、まだ、二時間ある。
そこで、以前に行った、アカ族の女性がいた、マッサージ店に出掛けた。
凄く上手だったのだ。

その店に行くと、彼女の姿が無い。
スタッフが、色々と訊いた。すると、彼女は、結婚したという。時々、店に来ることがあるという。
それは、良かった。
息子が、ミャンマーの全寮制の高校に行っていて、その資金を稼いでいたのである。

私は、フットマッサージを受けることにした。
スタッフは、するつもりではなかったが、二人分の準備をはじめたので、一緒に受ける事にした。

その間、色々な話に花が咲いた。
タイ語と、英語である。
一年でも、人の入れ替わりが激しいらしい。

この街の、マッサージ店は、解り易い。
エロマッサージは、レディマッサージと看板がある。
初めは、解らなかったが、夜になると、それが解った。
更に、国際便が飛ぶためか、ゲイボーイのショーパブが、二軒ある。
白いパンツ姿で、舞台で踊るボーイたちである。

何のことは無い。
お客に、連れて行かれたいのである。それが、金になる。
あるということは、需要があるのだろう。

街の中心部は、ほんの一部で、その中に、何でもある。

マッサージを終えて、残り時間に、新しく出来た、アイスクリーム店に入る。
確か、サムイ島に行った時の、アメリカのチェーン店である。

誠に、甘い甘いアイスクリームである。タイ人向けの味なのだろう。
私は、カップに一つだけにした。

15分前に、バス乗り場に行く。
もう、車に乗り込めるので、荷物を預けた。
バスガイドが、何と、カトゥアイ、男性女装者である。
見事に化けているが、矢張り、解るものである。

カトゥアイが、社会に出て来ていることは、良いことである。

タイパンツに、Tシャツの私は、大失敗であった。
VIPバスは、乗り心地がいいが、エアコンが、ガンガン効いているのである。
上着をバックに入れたまま、預けた。
実は、アメリカ系の飛行機の、毛布を二枚、貰ってきていた。
エアコンの強い場所で、羽織るつもりだった。

眠るどころではない。
寒くて、目が冴えた。

タイでは、エアコンをガンガン効かせるというのが、最も、歓迎している証拠なのである。
ついには、くしゃみと、鼻水である。
スタッフは、ついに、後の空いている席に移った。
私の座る場所の上が、エアコンの口である。
そして、それぞれの席に向けての、穴もある。それは、塞ぐことが出来るが、全体のものは、駄目。

一時間半の、ローカルバスの、揺れと、三時間の、VIP、280バーツのバスとで、体が、ぐたぐたにされたようである。

漸く、チェンマイに到着して、安堵。
ああ、チェンマイである。
すぐに、トゥクトゥクに乗り、ターペーゲイトに向かった。
泊まるホテルは、決めてある。
極めて、ゲストハウスに近い、ホテルである。
一泊、350バーツに値下げしていたから、嬉しかった。
前回は、400バーツである。その受付も、お姉さんから、お兄さんに代わっていた。

部屋に着いて、早速、日本に電話をする。
父が、危篤であるから、毎日、電話を入れていた。
弟から、明日、明後日で、決まると、言われた。
もう、時間の問題であるとのこと。

弟は、もし、亡くなったら、私を待たずに、通夜、葬式をすると、言う。
それでいい。
私は、父と、最期の別れをして来ている。

スタッフは、ホテルではなく、友人の家に二泊泊まるので、私一人である。
翌朝、父が亡くなった。
日本時間の、朝七時に電話をすると、丁度、病院から連絡があり、出掛けるところだった。
最期の手当てを、病院長が、申し出たので、病院に任せたのである。
再度、九時に電話をすると、八時十分に亡くなったとのこと。

父の遺体を、家に運んでいる最中だった。

異国にて
危篤の父を
思うとき
寄する命を
つくづくと思う

しかし、父は、もっと早く、体から霊位が、抜けていたのである。それを、同じ時間帯に、私と、弟、妹が、見ている。後々で、三人が照合して、解ったことである。

2008年11月22日

ゴールデントライアングルへ9

ゴールデントライアングルにて詠める歌

タイ ビルマ
ラオス隔てる
メコン河
トライアングル 流れに揺れる

あはれなる
トライアングル
悲しみの
歴史の重さ
はて遠きなり

顔洗う
メコンの流れに 
生きる人
更に流して
生きるタイ人


父の死に読める歌

朝に鳴く
鳥音と共に
父の死を
迎える我に
よすがのありか

父と子と
結ぶ縁の
人の世に
遥かに仰ぐ
虚空の果て

何ほどの
こともなきこと なれどもや
人の死にたまう こと 厳かに

人の死に
遭うたびに また
鳴り響く
この命ある
貴きことと

死は確定
生は不確定
この乖離
埋めることなく
生き続けては

鎮魂の 
歌を詠むなり
我が心
ゆらぎの果ての
その果ての果て

忘られぬ
思い出は
父の船 ゆく
闇の海 それ
輝く日の出

この夜は
日本の酒を
飲みたいと
切なく流す
涙を呑む

ゆくりなく
川の流れる
如くして
流れるままに
生きればよい

いずれの日
何も語らず
静かに独り
大地の元に
横たえる身

故郷は
父にあり母にありてぞ
故郷は それ
隠れてぞあり


我は泣く
二度と再び
現れぬ
この人の世の
懐かしきかな


チェンマイにて詠める歌

スコールも
朝日に譲り
西へ行く
日の出と共に
空晴れ渡る

チェンマイが
雨に洗われ
清まりて
今日の哀楽
はじまれりかな


前回のタイ、バンコクにて、首相府の、反政府運動を見た。
それに関して、ある、論調がある。
タイは、選挙によって決まったことを、国民は受け入れない。アメリカのように、選挙で決定したことは、受け入れるという、民主的国民意識が、必要であると。

アメリカは、イラクにも、アメリカ型の民主主義を求めた。しかし、御覧の通りである。

民主化といっても、それぞれの、国や民族によって、民主的というものは、変容する。

選挙結果が、不正による場合は、どうするのか。
タクシン前首相は、北部、東北部を、買収によって、票にした。

アメリカ型の民主主義というものを、世界全体に、押し付けるというのは、正に、独善である。

それぞれの、国の事情と、民族性により、民主主義というものの、形が、変容してもいい。

日本も、そうである。
アメリカを真似ることはない。
あちらは、大統領制である。

しかし、日本には、天皇制という、現在は象徴とされた、しかし、根強い、国民の支持を得る、天皇の存在がある。

それは、また、世界に誇れる、日本の家系でもある。
2668年という、長きに渡る、天皇という存在である。
国民は、天皇を、祈りの支え、そして、日本の国体として、受け入れてきた。
為政者が、変わろうと、天皇に対する、篤い思いは、変わらない。
勿論、一部の左翼系、共産化を望む人には、無用な存在であろう。

だが、現実に、今の今でも、天皇に対する、思いは、多くの国民に変わらず、受け入れられてある。

国の、重要文化財、人間国宝というものを認める国柄である。
天皇は、その、象徴でもある。

日本には、天皇を主とする、民主主義が、あってよい。

グローバル化した世界であるから、なお一層、天皇の存在が、世界に輝く。

天皇、ご訪問を歓迎する国々の多くは、その、歴史と伝統に、敬意を表する。
海外に出て、はじめて、天皇の存在の、確たること、また、その存在の誇りを思う。

これが、右翼というものであろうか。
私は、右でも、左でもない。私は、下、シモである。
天皇を、上、カミとして、奉る、シモの国民である。

上、カミは、天皇で、安堵する。

天皇は、私のことは、知らない。知る必要は無い。
だが、私は、日本の国体を、天皇として、認識する。

勿論、歴史によって、天皇制が、無くなるならば、是非もなし。

皇祖皇宗とは、天皇に続く上、カミである。
それは、日本国民の祖先の象徴である。それを、受け入れるか否かも、現在は自由である。

靖国神社に、奉られる、英霊に対して、迷惑である、奉るなという団体がある。
全く、日本の伝統というものを、知らない。
ただ、名前を掲げて奉るのであり、他の宗教のような、偶像ではない。
その、名前を、削れというのである。

逆に言うと、それは、靖国の奉りを、肯定していることとも、受け取れる。
単なる、名前を掲げているだけであるから、それは、本人ではないと、それそこ、信じれば、事足りる。

キリスト教徒、一部の仏教団である。
日の本の国には、組しないという、彼らである。
要するに、日本列島文明圏には、入らない者であるから、靖国など、無視してよいのである。
あれは、単なる、自己の信仰を鼓舞させるための、行動であると、判定する。

自らの信仰で、英霊を拝めばよいのである。それとも、自らの信仰では、無理なのか。

2008年11月24日

ゴールデントライアングルへ10

若き日の疲れは、一夜で、取れる。しかし、ある程度の、年になると、それが、二三日後に出る。
不思議なものである。

チェンマイでは、その疲れを取るためと、ゲイの専門機関を訪ねる予定だった。
だが、ゲイの専門機関に、出向くことは無かった。
ホテルから、歩いても行くことが出来たが、また次の機会があると、先延ばしした。

新しい情報を得るということも、ストレスになるのである。

チェンマイは、タイ北部、及び東北部である、イサーンからの、ゲイ、レディボーイの中心地であり、トランスジェンダーに関する、有力な情報を得られる場所である。
それは、これからの、日本のトランスジェンダーのために、必要となる、情報である。

それらに関して、タイは、先を行くのである。

タイと、日本は、ニューハーフ、レディボーイに対して、他の国より、開かれている。非常に近い感覚を持つ。
勿論、差別は、共にあるが、他の国より、それが少ない。

チェンライからのバスで、レディボーイのバスガイドがいたと書いた。普通の仕事に就いている者もいるのである。

彼らは、普通に生きてゆきたいのである。
それが、タイでは、今、自然移行の形で、行われ始めた。

ただ、まだ多くは、夜の街で、生きなければならない。その多くは、体を売る。

これは、スタッフの話だが、レディーボーイたちが、数名集まり、それぞれが、四方山話に講じていた時、一人のレディーボーイが、矢張り、涙を流しつつ、私は、口や、チンチンや、アナルを使って、お金を得なければ、生きていけないのと、泣いたという。
すると、一つのレディーボーイが、私たちは、泣いては、いけないのよ。前しか見ないの。後ろを見ないで、生きるしかないのと、言ったと聞いた。

私たちは、時代を先に生きているのよ。
古い時代ではなく、新しい時代に生きるの者なの。
自分を生かすことが出来ない人が、大勢いる。そんな悩みの人の中で、私たちは、それを、生きているのよ。
悩みを、そのまま生きていると、言う。

自分の性に違和感を感じて、いつも、悩みにある人より、明確に、自分の性を、見つめて生きているというのである。

ペニスを取り除いた者、ペニスをそのままに、女装する者、どちらも、レディーボーイである。

一つ、面白い例がある。
レディーボーイを目指して、女装したが、容姿が悪く、どうしても、女性に成り切れなかったという男がいた。
どうしても、おかめの顔なのである。
美しいとは、決して言えない。
それを、自分で気づき、それでは、ゲイになるしかないと、ゲイに徹して生きることにした。

少し、滑稽であるが、彼を救ったのは、彼の、アホさ加減である。
仕事は、マッサージ師である。

私が、男のマッサージ師を探しているということで、スタッフの野中の友人のレディーボーイが、それならと、紹介してくれた。

彼は、四度も、若い男に騙されている。
カラオケバーや、ディスコで、出会った、ノンケ、つまりノーマルの男を部屋に連れ込んで、セックスをする。
それで、一夜明けると、金目の物と、バイクを盗まれていたという。
皆、四度も、騙されるのは、お馬鹿よと、言うが、あまり意に介していないのが、いい。

警察に届け出た際も、わざわざ、自分の経歴を延々と話して、警察官を、唖然とさせて、警官から、逆に、どのようにして、その相手を探し出せばいいのかと、訊かれるハメに。

ただし、マッサージの腕前は、一流であった。

更に、人が良いのである。タイ人特有の、曖昧な優しさが、前面に出ている。

マッサージが終わって、私をある所へ、案内してくれた。
わざわざ、である。
その先は、ボーイマッサージの店である。

その店長と、友人であると、私を紹介して、ボーイのマッサージを受けるといいと、推奨する。

どこで、どうなったのか、面白い展開である。
彼から、タイマッサージを受けたので、次はオイルマッサージをとのこと。

店長が、ボーイの写真を持ち出して、選んでくれという。
いや、いいですと、言えない私。
折角の好意であると、思えば、それでは、オイルマッサージかと、ボーイを選ぶ。

一人のボーイが、足を洗う盥を持ち出して、私の足を丁寧に洗う。

案内した彼は、店長と、暫く話して、戻っていった。

選んだボーイが出て来て、二階の部屋に案内された。
薄明かりの部屋である。

全裸になり、うつ伏せにと言われた。
彼は、パンツ一つになる。
うーん
少し英語が出来るというので、少し英語が出来る私となら、話し合うことが出来ると、思ったが、私の英語が、全然通じないのである。

年だけは、18歳と解った。
それでは、私の子供の年齢である。
これは、体を売るボーイである。

だが、マッサージの腕も悪くない。
足から、背中を丁寧にオイルを使い、マッサージする。眠気が襲う。

そして、次に、仰向けになる。
すると、彼は、面白いことを言った。
キングクイーンであると、言う。
あなたはと、訊かれて、はて、キングとは、王様で、クイーンとは、王女様である。

どういう意味なのかと、英語で、訊いても、解らない。
しかたなく、私はキングと言った。すると、えーーーという顔である。
自分は、キングクイーンである、と繰り返し言う。

その意味が、やっと、理解出来たのは、私の尻を指して、ここに入れるというのである。
つまり、彼は、ゲイの世界で言う、タチなのである。ウケではない。

クイーンキングと言えば、ウケで、キングクイーンと言えば、タチなのか。
はーっ
感心してしまった。

それで、彼は自分の一物を、勃起させようとしているのである。
オッケーオッケー、大丈夫、いいよ、いいよと、日本語で言う。
手振りで、マッサージを続けるように言う。

つまり、ここに来るお客は、欧米人が大半で、特にウケの欧米人が来るのである。
チェンマイには、日本のゲイは、ほとんど来ない。日本のゲイは、パタヤに行く。

全くもって、勉強になった。
スタッフの野中に話すと、そんな言葉は、聞いたことが無いと言う。
つまり、タイのゲイの世界の言葉なのであろう。
レディーボーイたちも、知らない言葉である。

ゲイには、ゲイの世界の言葉がある。
これは、発見だった。

スタッフの野中は、東南アジアの、トランスジェンダーの世界を、テーマに、物を書きたいと、決めている。
私は、東南アジアのゲイの世界を、テーマにして、物を書こうと思っていた。

トランスジェンダーということでは、両者共通する。いや、少数派ということで、共通するのか。

そして、私のもう一つのテーマは、児童買春の実態と、その撲滅である。
だが、それは、到底一人で、出来るようなことではない。
ある程度の団体行動が必要となる。

児童買春の場所に乗り込んでも、実態は解るが、それ以上のことは出来ないし、非常に危険である。
ミャンマーは、児童買春に関する法整備は無い。つまり、野放図である。
もし、そこに私が出掛けても、子供を取り返すために、お金が必要であり、その後の子供の面倒を、どうするのかということも、問題になる。
公的機関は無い。
男子であれば、寺に入れることも出来るが、女子を受け入れる寺は、ミャンマーには、無いのである。

更に、バンコクでは、より危険である。
バンコクにも、児童買春専門の場所があるといわれる。
そこに、乗り込むのは、客として行くしかない。
しかし、行って実態を見て、どうするのか。
結果は、金で、買い戻す形になる。そして、その後の、子供の世話をどうするのか、である。

これは、国家が取り組むべき問題である。
法律によって、規制し、厳しい罰則を課して、取り締まることである。
そのための、啓蒙運動ならば、出来る。

今、私は、それを、考えている。

更に、幼児性愛者は、治療が必要であること。
病気と認定して、治療を受けなければならない。ある程度の隔離が必要である。

兎に角、今は、そこまで、考えている。
そして、私のことであるから、きっと、手を付ける。更に、始めたら、最期まで、やる。
貧しい国の、幼児、児童たちが、その餌食にされる。
フィリピン、カンボジア、ミャンマー、ラオスが、特に酷い。
国際的問題として、啓蒙し、法的整備を整えて、撲滅するしかない。
私に、何が、出来るのか、である。

ゴールデントライアングルへ11

チェンマイでは、慧燈財団のチェンマイ事務局長、小西さんに、お逢いすることになっていた。
大変、忙しい方で、丁度、その頃は、ウドンタニ県での、学資支援の伝達式を、準備されている時だった。
日本からも、その式に参加する方々がいて、それらの、ツアーの先導役もすることだと、思う。

事務というのは、とても、煩雑な仕事をこなす。
そんな中で、時間を割いてくださり、本当に感謝だった。

2日の、昼にターペー門の前の、モントリーホテル前で、落ち合う約束をした。
小西さんは、必ず、少し前に来ると、知っているので、私たちも、15分前に、ホテルに着いた。

矢張り、小西さんは、少し前に、いらした。
その車に乗り込む。
私は、挨拶して、一番に、ラーメンが食べたいと、言った。
前回のラーメン屋さんの、ラーメンが旨かった。
小西さんは、そこへ車を走らせた。

一ヶ月程前は、バンコクでお逢いしている。
その時も、わざわざ、バンコクまで、いらして下さったのである。

武士道と、大和心を持つ、素晴らしい日本人である。
タイという国で、活動されているからか、更に、それが、強く印象に残る。

運転しながら、とんでもないことを、聞いた。

今年の六月に、カレン族の村に出掛けた際に、多くの村の人にお逢いしたが、その中でも、実に、私に親しくして下さった、おじさんが、農薬を飲んで自殺したという話しである。

自殺には、色々な側面があるが、彼は、心の不安定な状態を抱えていたことは、私も、解る。精神的治療を受けるべきだったのではと、思えた。

まず、普通は、カレンの人は、酒を飲まない。飲むのは、儀式の時である。その時は、飲み続けるほど飲むが、それ以外は、一切、飲まない。
彼は、アル中だったという。
心の不安定さを、酒で、抑えていたと思う。
そして、酒乱の傾向があった。

酒を飲んで、奥さんに暴力を振るい、一週間ほど、奥さんが子供を連れて、家を出た際に、服毒自殺をしたという。

どうしようもない、精神状態に、陥っていたと、思われる。
救いは、精神薬である。しかし、村には、病院もなく、まして、精神的な疾患に対処するものは無い。

もう一つの、側面は、彼は、モーピーという、役目もあったという。
ピーとは、精霊とか、霊とか、幽霊などを言う。
つまり、彼は、他の人以上に、霊的感能力があったという。

モーピーとは、日本語に訳せば、霊能者である。
村でも、伝統的なことを、多く知る人だった。

感受性が強すぎたのである。
だから、私に逢った時、実に、親しく、彼の家にまで連れて行かれ、果物をご馳走になっている。
言葉は、通じないが、兎に角、私を気に入ってくれた。

小西さんは、ラーメン屋で、その時の、葬式の様子の写真を見せてくれた。
私が、おじゃました、部屋である。
そこに、手作りの、棺桶があった。

カレンの葬式は、実に、興味深いものであった。

一晩、棺桶の周りを、独身の男女が、歌い回るという。
その言葉は、おおよそ、次通り。

あなたは、死んだ。あなたは、死んだ。死んだ国に行きなさい。死んだ国に行きなさい。
そのような、意味の言葉を繰り返し、歌い続けるという。

司祭のような人は、いない。
村の人で、式は進行する。

今回は、農繁期、つまり、刈り入れの最中で、隣村から人が来ることもなく、少ない人数での、葬式だったという。
更に、雨が降る。

翌日は、棺桶を、埋める作業だった。
本当は、山で、お焚き上げする。燃やすのであるが、雨なので、埋めることにしたという。

村人で、棺桶を運び、山の、死者の場所としてある、所に、埋める。
カレンの場合は、お焚き上げしても、骨は、そのままにしておくという。
遺骨という観念は無い。山の中で、自然に風化する。

至る所に、人の骨があるという。

棺桶を埋めると、男たちは、木の枝で、三叉を三つ、作り、左手で、それを棺桶を埋めた場所に、三度投げて、後を振り返らずに、戻るという。

最後は、死者の家に行き、手と髪を洗う。
帰りに、新芽の木の葉を取り、土を掘った、鍬などに、つけて、終わりを告げるという。

そして、それで、すべてが、終わる。
以後、死者のために、何かすることは、無い。
そして、葬式は、実に楽しく行うという。
悲しみで、しんみりすることはない。

酒を飲む男たちもいる。
儀式の時に、酒を飲むのであるから、葬式も、儀式である。

今回は、人数が少なく、老年の人も、棺桶を回るのに、加わったという。

何故、独身の男女が、夜を徹して回るのかという意味は、解らないと、小西さんは言う。

私は、それは、一晩、棺桶を回っても、体力が持つのは、若者だと思った。
長老たちは、それを、見守るだけである。

手と髪を洗うというのは、日本でも、葬式から戻ると、塩で、清めるのに、似ている。

葬式が終わると、以後、何もしないというから、驚く。
宗教の、妄想掛かった、一切の、式は無い。

上記、正に、縄文期を、思い出させる。

死者は、死者の国に、行ったのであり、もうこの世と、隔絶したのである。

ただ、ピーになって、少し留まることもあるとは、誰もが知っている。
だが、カレンの人は、ピーに対しても、あまり、感心を持たない。
実に、健康的な、霊的対処である。

夜中に、犬が吠えたり、珍しい動物が現れると、それを、死者が来ていると、言うのみ。

小西さんも、初めての体験で、興味深かったという。

初七日、四十九日、三年忌などという、日本の仏教式の、儀式に、どれだけの意味があるのかを、僧侶も知らないという、唖然である。意味は、観念としてある。本当は、何も無い。

さらに、成仏という、妄想である。
更に、意味不明の戒名という、仏弟子になるというもの。全く、意味を成さない。
すべて、商売行為である。
檀家でも、貧乏な人の死に際しては、枕経も、上げに来ないというから、全く、話にならない。すべては、金である。
そんな、仏教愛好家たちの、話など、聞いていられないのである。

私も、大いに、参考になった。

実は、私の父も、危篤状態であった。
その父は、その母を最後まで、看病し、家で看取った。
父は、やれることは、すべてやったという、思いで、死後の形式的な儀式は、実に適当だった。
曰く、生きているうちに、何もしないで、死んでから、する、フン、話しにならない、と、言っていた。

そして、父もまた、家族に看病されて、最後に、看取られて、亡くなった。本望だっただろう。
実に、真っ当である。

弟に、私が、春に帰郷し、古神道で、父の遺骨と、お墓を、清め祓いしたいと言うと、何の抵抗なく、ああ、あんたの好きなようにしていいと、言う。
要するに、弟も、父と同じ考えなのである。
生きている内に、やるべきことを、やった。後は、適当で、いいのである。

ただ、母親は、でもねー、ぼんさんとは、坊主のことである、長い付き合いだから、ぼんさんにも、相談して、云々と言う。
後で、弟が、いいべやー、やりたいように、させればいいと、言っている。

さて、小西さんと、来年の、コンサートの日程などを相談し、色々な企画と、計画を打診した。
そして、今の日本についての、大議論である。
いつも、そうして、日本についてを、語る。

小西さんは、いずれ、カレンの村に住むことが、希望である。
そして、タイ・ビルマ戦線の、日本兵の、事実を書くという、希望がある。それは、また、小西さんにしか、出来ないことである。

二時間程を、過ごして、小西さんから、お土産まで頂き、元のホテルの場所に、送って頂いた。

タイには、来年の二月末に、来る予定である。
バンコクから、ミャンマーのヤンゴンに入る予定である。
更に、一ヵ月後に、マンダレーの追悼慰霊を、計画している。

この、マンダレーには、多くの慰霊碑が建つが、今、一つ一つ、取り壊しが、始まったという。というのは、戦友会などの人々が、高齢になり、維持出来なくなり、そのままだと、ビルマの方々に、迷惑であろうということだった。
お寺の敷地を借りて、建てているものが、多く、管理をする者が、いなければ、壊すしかないとの、判断である。
これは、早急に行かなければならない。

2008年11月25日

ゴールデントライアングルへ12

父の死を聞いても、どうすることも出来ない。
駆けつけようにも、タイの滞在期間が、三日間ある。

四日、通夜、五日、葬儀である。
そのまま、戻っても、葬儀に間に合うか、どうかである。
札幌から、バスで三時間かかる、日本海側の田舎町である。

看取ったのが、母と弟だということで、幸せな最期だったと、思う。

太陽が、日差しを出したので、祝詞を唱える。
日本の伝統は、死ぬとは言わない。
隠れるという。

更に、崩、神上がり、かむあがり、という。
カミではない。
カムである。
アイヌも、カムイと呼ぶ。

崩御とは、天皇に対しての死去の、敬語である。
国民は、崩、かむあがり、なのである。

そして、命、ミコト、と呼ばれる。

ミコトは、御言である。
言霊の国、日本の面目といえる。

つまり、隠れた命は、言霊によって、成るものとなる。
言霊は、音霊によって、成り立ち、さらに、数霊、かずたま、によって、成り立つ。

古語で、数を数えることも、そのまま、祈りになるのである。

言霊について書くと、終わらなくなるので、いずれの機会に、書くことにする。

ただ、簡単に言えば、大和言葉によるものである。
言挙げする、という、言い方をする。

海を、カイと読めば、漢語であり、うみ、と読めば、大和言葉になる。
訓読みで、大和言葉になるのである。

宴は、エンと、読めば、漢語であり、とよのあかり、と読めば、大和言葉になる。
大和言葉とは、古からの、言挙げである。

言葉にすることによって、物事が成るという、考え方である。
しかし、アメリカ型の成功哲学にある、思いは実現するというような、ものではない。
あちらの、成功哲学は、多分に、魔の境地が、混入する。
要するに、自分が良ければいいのである。
全体の、幸せよりも、我の幸せである。
根本が全く違う。

天皇の、詔、みことのり、というお言葉は、国民の全体の、平安を願うという意味での、詔となる。
御言、宣り、なのである。
個人的なものを、超える。
その、御言宣り、により、国が成り立つという、考え方をしていた。

言葉は、実現するのである。

更に、音霊を、知らなければ、言霊を、知らないことになる。
日本語は、一音に意味がある。
母音に行き着く、子音であり、母音により、素晴らしく、美しい言葉が、生まれる。
純粋培養された、言葉の世界を有するのは、日本が、列島、島国ゆえである。

以下省略する。

人が死んでも、世の中は何の変化もしない。
泰然として、在る。

誰一人も、必要であるという、存在は無い。また、誰一人も、その存在が貴いという、絶対矛盾の存在が、人間である。
ただし、人の命は、地球より、重くはない。
実に、軽いものである。

命の尊さは、寿命の長さを言うのではない。
寿命と、命を、一緒くたにしないことである。

命とは、自然である。自然に戻ることを、人は、死ぬことと、観念した。
寿命は、生きている間のことで、それを、寿、ことぶき、と、考えた。つまり、有り難いことである。嬉しいことである。
生きているだけで、ことぶき、なのである。

言を、吹く、のである。更に、事を、吹くのである。
以下省略。

私は、その日も、マッサージに向かった。
いつも行くマッサージ店の、知り合いの、嬢が中々店にいなくて、三度出掛け、戻って、四度目に、ようやく、いた。

私が行くマッサージでは、最も、安い店である。
一時間の、タイマッサージが、100バーツ、約300円である。
オイルマッサージは、一時間、200バーツである。

その嬢は、母子家庭で、7歳の女の子がいる。
中々店にいなかった理由は、仕事を掛け持ちしているゆえだった。

漸く、逢えて、向こうも、歓迎してくれた。
丁度、マンゴーを食べていた最中で、それを、ご馳走になった。
たどたどしい、英語で、近況を話す。

いつ来たの。いつまで、いるの。どこに行ったの。
単語を並べた英語の会話をする。

新しい、マッサージ嬢も、沢山いた。
入れ替わりが、激しいと言う。
真っ当な、マッサージをしていると、生活出来ないというのが、実情である。
故に、田舎から、出来ても、帰る者も多い。
特に、東北、イサーンから、出て来る者が多い。
しかし、田舎に帰れるのである。日本では、田舎に帰っても、仕事がないので、どうしても、都会で、暮らすしかない。
今は、新しい貧しさが、都会を、覆っている。
働いても、収入が少ない。正社員になれない。アルバイトや、パート、派遣社員として、働く。

どちらが、良いのかは、価値観であるが、タイの方が、田舎に戻っても、食べることは、出来る。農家を手伝っていれば、最低限、食うことは、出来るのである。

さて、私は、オイルマッサージを、頼んだ。
辺りは、マッサージ店の激戦区である。
200バーツは、安い。250、300バーツが、普通である。

二階の部屋に上がる。
カーテンで、個室を作り、全裸で、受ける。
腰巻の、バスタオル一枚である。

私の横でも、白人が、オイルマッサージを始めていた。

夜は、ナイトバザールでも、働いているというが、内容は、聞けなかった。尋ねても、マッサージと言うだろうと、思えた。売り子をしているのかもしれない。
ナイトバザールでも、路上で、マッサージを商売にする人々がいる。
雨が降れば、出来ないのである。

足からオイルで、上半身に上がってくる。
以前より、力が入り、巧くなっている。
時々、片言の英語で話すが、こちらが、次第に眠くなる。
その内に、記憶が、遠のくのである。

トントンと、肩を叩かれて、背後が終わって、次は、仰向けである。
足の付け根は、タオルの中に手を入れて、股間、ぎりぎりまで、入ってくる。
リンパマッサージである。

以外に知られていないのが、腹のマッサージである。
腹は、実に、いい。
右回りで、腹を撫でる。更に、腹の両筋を、押す、撫でる。
腹が固い人は、相当、ストレスが溜まっている。

そして、胸である。
両脇のリンパを、特に丁寧にする。
胸の脇は、痛みを感じる。それは、肩の凝りなのである。
そして、腕である。腕が軽くなると、肩凝りも、改善される。

時々、彼女が、オッケーかと、尋く。オッケーと、答えて、マッサージが進む。

彼女がいないので、他のマッサージに行き、嫌な思いをした。
私は、白人ではないからだと、思った。
その、マッサージ嬢は、私にオイルマッサージをしていても、白人が入ってくると、何かと声を掛けていた。
つまり、白人に気に入られて、一日でも、二日でも、店から、買い上げて貰いたいのである。そして、更に、お手当てを貰う。

私は、それを、野中から、聞いた。
友人のレディボーイが、勤めている店でも、一ヶ月マッサージ嬢を、キープする欧米人がいるという。
気に入られれば、キープされて、大枚な、金を得ることもある。勿論、体の関係である。

普通にマッサージをしていては、金にならないのである。
彼女たちの、手取りは、料金の三割程度である。
やっと、暮らせるか、暮らせないかの、賃金で、客がなければ、収入は無い。

それを知ると、必ずチップをあげるようになる。
20,40,50バーツが相場だ。

それで、客の性処理をして、500バーツから、1000バーツのチップを貰う者もいる。
男の客に、積極的に、刺激を与えて、そのように、持ってゆく嬢もいるのである。

刺激反応で、男は、勃起する。それを、察して、性処理を持ちかける。
耳元で、相手を見て、チップを決める。
そうでもしなければ、金を得ることが出来ないのである。
生活するために、必死なのである。
生活するということは、大変なことである。
どこの国でも、同じ。

ゴールデントライアングルへ13

マッサージを終えた後、水を頂き、私には、新顔の二人の嬢と、マッサージをしてくれた嬢と、四人で会話した。

三人共に、母子家庭である。
一人は、女の幼児が一人、もう一人は、男の子がいる。
と、そこで、私は、女の子用の服が、まだあったことを、思い出し、彼女たちに、必要かと、訊いた。
すると、欲しいと、言うので、それでは、明日持ってくると、約束した。

翌日は、夜の便でバンコクへ向かう日である。
夜の十時過ぎの飛行機であるから、十分に時間があった。

子供服を持参して、マッサージ店に出掛けた。
持ち物を、すべて持って出掛けた。
そして、彼女をたちに、選ばせた。
すべて、彼女たちに差し上げることが、出来た。

丁度良いサイズだったのだ。
そして、私は、タイマッサージを一時間受けて、次に来ることを、約束して、店を出た。
これで、持ち物が、皆、無くなった。

スタッフの野中と、合流して、昼食を、地元の人が利用する、食堂に出掛けて、30バーツの、タイラーメンを食べた。
約、100円の食事である。
ただし、タイの、麺類は、日本のものより、半分程度の量である。
何か、物足りない気がする。
私は、ハパイヤサラダを、追加した。ソムタムという、甘辛いソースで、仕上げてある。
ここでは、観光客用の味付けだった。つまり、あまり、辛くない。

それから、帰国の準備である。
荷物の整理をする。
バンコクで、着替えるために、着替える着物を、一番最後にして、荷物を詰めて、万事万端の準備が出来た。

支援のバッグも一つ、差し上げたので、一つ残ったものに、線香と、ロウソクを買ったので、入れた。
線香と、ロウソクは、亡き人を、偲ぶためである。

私は、お土産を買わない。
そのような、旅ではない。ただし、今回は、二つ、小さな物を、買った。卓上の塩と、胡椒入れである。抱き合った、人の形の、面白い、入れ物である。

最期は、書類の整理である。
飛行機の、搭乗手続きをするための、一セット。タイバーツの、取り纏め。
丁度良い程度に、バーツが、残った。
無駄なく、お金を使うが、矢張り、細かく出て行く。
交通費が、一番である。そして、宿泊費である。
しかし、それも、いつも、最低線で行っている。

タイの物価の安さに、助けられる。
買い物は、すべて市場であるから、地元の人と、同じ値段で買う。
水は、コンビニが、一番安い。

現地の価格に、慣れたことが、タイでの金銭感覚を得たようである。
昼の食事などは、市場で、カオニャオという、もち米のふかしたものと、おかずを買い、40バーツ、約120円程度で済む。
もち米は、日本の赤飯の感覚に似て、私は、大好きである。それに、腹持ちがする。

毎日行く、チェンマイカレーの店では、このカオニャオと、カレーを注文して、100バーツにもならない。
カレーにより、60バーツから、80バーツである。
200円程度で、十分満足する。

更に、旅の間、酒を飲むことが少ない。
疲れると、酒を飲めない。ビールも駄目である。兎に角、水を飲んでいる。
タイのビールで、一番安いものは、25バーツである。時に買うことがあるが、手をつけない。また、手をつけても、半分で十分になることもある。

タイの国内線は、突然変更などがあったりするので、二時間前を目安に、向かった。
夜、八時過ぎである。
ソンテウを頼み、チェンマイの街を見つつ、お別れする。

丁度、一つ前の便のチェックインが始まっていた。
次の便であるが、私は、搭乗手続きに向かう。
すると、難なく、スムーズに終わった。

二時間、空港で過ごすことになる。
空港内は、禁煙なので、また、一度外に出る。
再度入る時は、検査がある。

出たり入ったりをして、一時間前になり、搭乗口に向かった。
冷房がガンガン効いて、寒いほどである。
私は、バティックを腰に巻き、薄い毛布を、羽織った。実に、変な恰好である。

一便手前の飛行機は、おおよそ、満席である。
私たちの飛行機は、何と25名。
悠々である。
国内線は、席が決まっていないので、自由である。
後部座席に、陣取り、離陸して、安定飛行に入ると、すぐに、体を横たえた。
サービスは、一切無いので、そのままでいられる。

乗務員に、トントンと、肩を叩かれた。
着陸である。
私は、眠っていた。
あっという間に、バンコクである。

24時間、眠らない空港である。
いつものように、一階まで降りて、ベンチに陣取る。
私は、モスリムの部屋で、寝る予定である。
スタッフの野中は、遠慮するというので、一人で、大切なバッグのみを持って、三階のモスリムの部屋に入った。
一人の男が、寝ている。
私も、反対側で、寝た。

一度目覚めて、二度目に目覚めた時、四時を過ぎていたので、一階に降りて、ベンチに寝ている、野中を起こして、搭乗手続きをするため、四階に上がる。

モスリムの部屋は、以前から気づいていたが、その部屋に入るということは、勇気がいた。それは、イスラム教徒に対する、ある種の偏見でもあった。
私は、その偏見を、その部屋に入ることで、取り去ることが、出来た。
払拭という言葉でもいい。

イスラム教徒も、同じ人間であるという、当たり前のことである。
温和なイスラム教徒の若者が、テロリストを目指すこともある。それは、教えである。教えられる。そして、教える者は、危険なことはしない。

ここに、私は、非常なストレスを感じる。
ジャワ島から、北大に留学していた、インドネシアのイスラム教徒の、学生と、親しくしていたことがあり、彼は、ごく普通の、若者だった。
ただ、食事の時には、酒と、豚肉を食べないという程度。

ただし、イスラム教徒が、集うと、時に、戦闘的に、異教徒に対して、攻撃的になるのである。それは、教えである。

特に、一神教が、集うと、そのようになる。
日本のアホな、宗教家たちが、宗教を超えて、云々というが、全く、宗教というものを、知らないといえる。
それは、日本に、欧米型の宗教が無いからである。

未だに、日本の宗教観と、欧米の宗教観は、乖離して、甚だしい。

最期のところに行くと、彼らと、会話することは、出来ない。
教義として、異教徒というものが、存在するのである。
そして、異教徒は、自分たちと、同じ価値ある人間ではないのである。

日本の一部の、キリスト教徒を見ても、そのようである。

それを、民族と、絡めると、益々、複雑になり、会話は、成り立たない。
宗教を超えることは、出来ない、出来るとすれば、人間の理性と、知性、そして、感性を、主とする、教育のみである。

ブッシュは、イラク戦争の際に、中世の十字軍を取り上げた。
あの程度が、アメリカ大統領である。
中世の宗教史観から、抜けていないということが、明確に、解ったのである。
驚くべき、蒙昧である。
そして、宗教は、その驚くべき蒙昧を、続けても、いいと、教える。

個人的な、信仰というものに、何の問題も見出さないが、宗教団体、集団としての行為となる時、それは、止められない、暴走を起こすのである。

私は、宗教的情操というものを、人間の一つの、情緒として、理解する。

それは、犯しては、いけない。日本では、信教の自由が認められてある。実に、理想的なことだ。
権力が、宗教を持って、民に対処するのは、実に危険極まるものになる。

バリ島を省く、インドネシアでは、イスラム教の、強化が激しくなっている。
古い教義に戻るために、新たに、それぞれの地域で、戒律を厳しくするというのである。
テロリストも、インドネシアからの、若者が多くなっている。
教えられるからである。

世界的な啓蒙運動が、必要である。
新しい時代を生きる、グローバル化した世界に生きることは、人間の、知性と、理性を取り戻すこと。

更に、
伝統と、伝承を保持しつつ、神仏が妄想であることを、説く事である。

自分の信じている、神や仏は、我一人のものであり、それを、人に説くことは、無用であることを、説くことである。

信仰は、極めて個人的な、情緒である。それを、犯すことは、出来ない。しかし、それを、他に強制、強要することは、出来ない。

世界的宗教家である、釈迦仏陀は、人は行為によって、成る者に成るという。
何を言うのかではなく、行為によってでなければ、この世での、意志決定にならないのである。

無事に成田に、到着して、私は、また、次の計画と予定を、立てる。
国内慰霊と、支援を開始するのである。

2008年11月28日

タイ北部 巡礼の旅案内

タイ北部 巡礼の旅
タイ・ビルマ戦線、つまり、インパール作戦により、戦病死した、日本兵の、追悼慰霊碑を、中心にした、地域の、巡礼である。

まず、最初は、チェンマイ県、バンカート村にある、バンカート学校敷地内の、慧燈財団の、追悼慰霊碑と、梵鐘である。

バンコクから、チェンマイに、行き、チェンマイから、車で、一時間程の、場所である。
ちなみに、チェンマイは、国際空港であり、チェンマイに直接乗り入れる飛行機もある。

チェンマイを基点にして、行動すると、次は、チェンマイから飛行機で、30分の、メーホンソーンである。
メーホンソーンの市内から、車をチャーターして、トーペー寺を目指す。
その途中に、山道に、追悼慰霊碑がある。
注意深くして、行かないと、見失う。
そして、更に、山に入り、クンユアム旧日本軍博物館がある。

その建物の、前に、追悼慰霊碑がある。
その道の、反対側に、旧日本軍の病院跡があり、そこにも、いくつかの、追悼慰霊碑がある。
現在は、お寺になっている。

そして、車を走らせて、ターペー寺に向かう。
お寺が、建てた、慰霊塔と、慧燈財団の慰霊碑がある。

そして、私の個人的、慰霊は、タイ北部、国境の町、メーサイである。
チェンライから、車で、一時間半である。
ミャンマー側の町は、タチレクである。

慰霊は、国境の橋の下で、行う。
慰霊碑も、それに関するものも、何も無い。

タイ側に、国境の碑が建てられてある。

そして、最期が、ゴールデントライアングルといわれる、タイ、ミャンマー、ラオスの国境が、交わる、ソップ・ルアク村である。
メコン河と、ルアク河が、交わる場所である。
そのまま、メコン河沿いを、行くと、チェンセーンという町に至る。

ソップ・ルアク村にも、宿泊施設はあるが、私は、チェンセヘーンの町に宿泊した。
車で、30程度である。

トライアングルには、慰霊碑は無い。
トライアングルの、記念碑と、大きな仏像が、建てられてある。

その、山に登り、頂上の寺の敷地内に、三基の追悼慰霊碑が、建てられてある。

私は、そこを、最期に慰霊した。

北部の、慰霊の旅は、以上である。

それぞれの、町を楽しみつつ、慰霊を行う旅というものを、提唱する。

ただし、すべてを、回るには、10日以上の日程が必要である。
私は、何度かに分けて、行った。

ミャンマー国境の、メーサイに行くには、チェンマイから、バスか、バンコクから、チェンライまで、飛行機に乗り、チェンライから、バスか、車である。

バスの種類が、多いので、どれを選ぶかは、それぞれの、好みである。
地元の人が利用する、普通バスから、一等エアコンバス、そして、VIPバスなどてある。

チェンセーンから、一時間半のチェンライ行き、普通バスに乗ったが、それが、限界だった。車酔いになるほどの、揺れである。
ただし、地元の人の生活が、垣間見られるという、利点がある。

追悼慰霊碑に対しては、それぞれの、宗教行為で、対処するとよい。
もし、宗教が無いというならば、黙祷である。

祈りの、理想は、黙祷である。

番外編としては、バンコクから、車、バスで、一時間半の、カンチャナブリである。
戦場にかける橋という、映画で、有名になった、泰緬鉄道である。

日本鉄道が、建てた、慰霊碑がある。
更に、連合軍墓地である。
それは、二つあるが、最も多いな墓地が、市内にある。
バンコクから向かうと、その墓地の横を通り、市内に入るので、解る。

タイ・ビル戦線の慰霊碑は、ミャンマーの、マンダーレにある。
私が、次に向かう場所である。

そこでは、慰霊碑の取り壊しが、行われはじめている。
つまり、日本側の人が建てた、慰霊碑の管理が出来ないという理由である。

戦友会はじめ、遺族が建てた、慰霊碑である。
放置しておくには、哀れである。
そうかといって、そのままでは、地元の人に、申し訳ないということである。

私に、何が出来るのか解らないが、追悼慰霊には、出掛ける。
私が、生きている限り、年に一度は、慰霊を行うということで、管理を引き受けたいとも、考えている。

インド・インパールから、ビルマを通り、タイへ向かった、兵士たちである。
その道には、未だに、遺骨が、晒されている道もあるはずである。

すべての、霊位に、心から、哀悼の意を、捧げる。


2008年12月11日

沖縄・渡嘉敷島へ

2008年の十二月、一日、沖縄、渡嘉敷島への、追悼慰霊のために、出掛けるという、計画は、多くの伏線がある。

東南アジア各地での、慰霊を行い、いずれは、日本の慰霊地をと、考えていた。
そして、教科書問題、集団自決の、軍関与あり、無し、云々という問題。
多くの、情報を見た。
それぞれの、意見の相違も見た。

それでは、私は、どう考えるのか。
人の論調を、そのままに、取り入れて、自分の納得する意見に、賛同するということは、出来ないことである。

事実は、何か、である。

行くしかない。
行って、感じるしかない。

当日、スタッフは、不調にて、私一人で、向かった。

その、十日前ほどから、私は、午前中に、熱が出て、夕方に収まり、風邪のような、不調が続いていた。おかしと、思いつつ、風邪薬、葛根湯を用いて、やり過ごしていた。

しかし、沖縄、那覇に一泊目の夜、八時にベッドについて、朝、六時まで、眠った。
治っていた。

これは、後で、解ることである。

霊位には、すでに、通じていたということである。

モノレールで、見栄橋まで行き、そこから、ホテルに歩いた。
ホテルは、泊港の側である。
隣が、船のターミナルの、とまりん、という、施設がある。

ホテルに、着いて、一息して、食事をする段になり、私は、出歩くのが、たいぎで、何と、ホテルの前の、弁当屋さんで、ステーキ弁当、590円を買い、お茶を買って、部屋で食べた。
そして、シャワーを浴びて、酒も飲まずに、寝たのである。

予定では、翌日、渡嘉敷島に行くはずだったが、私は、翌々日にした。
その前に、衣服支援をして、荷物を、減らしてしまいたかった。

さて、ステーキ弁当であるが、実に、私は、翌日も、すべて、肉を食べた。
肉が、食べたいのである。
不思議だった。
私は、魚が好きで、毎日、魚を食べている。
煮物、焼き物、刺身である。
肉は、稀にしか、食べない。
それが、肉ばかりが食べたいのである。

余談であるが、慰霊などの、行為をする場合は、潔斎をして、出来る限り、魚介、肉類は、避ける。
出来るだけ、身体を清める意味で、菜食である。
肉、魚は、身体から、匂いを発して、神霊が、嫌うからである。

それは、慰霊の式、神奉りを、行う人には、常識である。

しかし、私の、この欲求は、何だろうかと、思った。

この旅は、ツアーの旅で、一泊四日のコースである。
一番安い、ツアーを選んでいた。
二泊目から、別のホテルに変更するのである。
そのホテルも、一番安い、ホテルにしていた。

最初のホテルから、歩いて、5分ほどの、場所にある、ホテルである。

朝食を食べて、次のホテルに移動する前に、ターミナルの、とまりん、に出て、港が、見える前の、外にある、ベンチで、コーヒーを飲んだ。

そこの、お姉さんに、路上生活をしている人は、この辺りにいるかと、尋ねた。
すると、とまりん、の、横にある、公園に、よく集っているという。
そこで、私は、コーヒーを飲み終えて、二つの荷物を、持って、公演に向かった。

衣服を差し上げる人を、捜した。

トイレで、衣服を洗う、おじいさんに、声を掛けた。
服を持っていますが、必要ですか。
どんなもの。
私は、それを取り出して、幾つか、見せた。
おじいさんは、頭を振る。いらないということだ。

次に、別の、おじさんに、声をかけた。
その、おじさんも、見せると、いらないと言う。

はて、どうしてなんだろう。

ホテルに向かう時、もう一人の、おじさんにも、声を掛けたが、同じ反応である。

私は、諦めて、ホテルに向かった。
丁度、十二時を過ぎていた。
予約番号を伝えると、チェックインは、三時であるという。

私は、荷物を預けて、昼の食事をするために、ホテルを、出た。

国道に出て、その通りにある、店に入った。
夜は、1500円の、定食が、ランチタイムで、990円という、看板を見て、よし、それにしようと、入った。

沖縄の特産物いっぱいの、定食である。
野菜のてんぷらが、充実していた。皆、沖縄の野菜である。
モズクもあった。色々あった。そして、麦飯である。

夜なら、1500円と、思うと、ホント得した気分である。

さて、ホテルに、戻ると、一時を過ぎていた。
フロントの、女性が、部屋の準備が出来ましたので、お入り下さいという。
さらに、大き目の部屋にしましたと、言う。

予約した時は、二人での予約で、一人で泊まると言ったが、融通性がある。
まして、まだ二時間も早い。

これが、沖縄である。
タイ、他のアジアの国のようである。

インターネットも、無料で、使い放題であると、言われた。
ほとんど、それを、使うのは、私だけだった。
何とも、ほんわかとした、ムードである。

以後、従業員は、皆、そんな調子だった。

沖縄の新聞も、くれた。
食事券も、620円で、買ったものを、使用しなかったというと、翌日の日付で、訂正してくれる。

二人部屋なので、夜に女でも、入れるのかと、思っていた風は、あるが、それはなかったので、変だと、思ったようでもあるが、実に、親切だった。

部屋に入り、一息ついて、どうしても、肉が食べたいと、夜は、ステーキにしようと、案内の雑誌を見て、捜した。

何故、肉が食べたくなかったのかは、慰霊のことである。
その、慰霊地の時に、書くことにする。

那覇は、晴天で、夜も、鋭い月が、出ていた。
見事な月だった。
三日月というより、もっと、細い、刀のような、月だった。

六時頃に、タクシーに乗り、国際通りに向かった。
2630円の、ステーキコースを食べるために、出たのである。

旅行中の食事としては、贅沢なものである。
国際通りに、面したその店は、アメリカ人経営の店だった。
まだ、お客が少なく、私は一人、大きな鉄板の席に、案内された。

沖縄・渡嘉敷島へ2

ステーキは、目の前で、焼いてくれる。
何と、可愛い少年がついた。

いくつ
18です。
どのくらい、してるの
一年です

コースであるから、最初は、野菜を炒める。
その前に、ウェイトレスが、スープを運んできた。
しかし、私は、ビールを飲んでいるので、スープは、すぐに飲めない。

冷めないうちに、召し上がってくださいと、少年は言う。

それから、私は、少年に、根掘り葉掘りと、質問した。
家族と一緒に暮らしている。
給料は、とても、安い。いずれ、本州の大学に行きたい。

何を勉強したいの
えーと、まだ、そのー
何か資格取りたいの
ええ、出来れば

沖縄って、仕事ないの
そんなことはないです。やろうと思えば、色々あります
この、質問は、色々な人に訊いてみた。

今時期は、観光客が少なく、暇だそうである。

どちらからですか
横浜
行ってみたい
東京に近いよ

少年は、ジャニーズ系というのだろうか、そんな見た目である。

何やら、手品のような、手さばきで、塩と胡椒の、入れ物を、振る。

へー凄いね。どのくらいで、覚えるの
三ヶ月です

肉を焼く。

好みは、どの程度ですか
君が、美味しいと、思う程度で。味見するでしょう
はい、時々、食べてみます

でも、と、少年は、言いにくそうに言う。
お客さんによって、違いますから
そうだよね
酷い人になると、焼いた肉を、スープに入れろと言うんです
えー
食べたくないんでしょうね

要するに、焼き加減が、気にいらないのでの、皮肉なのだ。

観光ですか、お仕事ですか
慰霊に来たの
えっ
渡嘉敷島にね
はい

少年は、そこで、無口になった。
そんな客は、いなかったのだろう。

気分を変えて、私は
ガールフレンドは
いません。少し前に、それらしき相手いたんですが・・・

肉は、非常に美味しかった。

この肉は、どこの
メキシコです
へーえ、メキシコ
はい
美味しいね
ありがとうございます
丁度、いいよ
はい、ありがとうございます

更に、地元の野菜を焼く。その、野菜の名を訊くのを忘れた。
青梗菜に似たものである。
その時、また、少年は、手品のようなことをした。
ナイフを二本で、何やら、踊るようなものである。
私一人のために、である。拍手しては、おかしいと、黙ってみていた。

凄いねー
いえ、まだまだ

すべてが、終わると、頭を下げて
ごゆっくりして下さい
と言い、下がっていった。
その後を見ると、店長なのか、時計を見て、彼に、オッケーを出していた。

少年は、肩を叩かれて、頷いていた。

私は、肉と、野菜と、ご飯を食べ、サラダを食べて、終わった。

支払いをして、国際通りを歩いた。
ついでに、母のお土産に、黒糖を捜した。そして、商店街の中に入った。
それは、すぐに、見つかった。一キロの塊を買った。
そして、もう一つは、塩である。
沖縄の塩を捜した。

塩の置き場の、袋を一つ一つ見ていた。
店員が、色々と説明する。
今ねー、本当か、嘘か、解らないでしょう
はい、そうですね
沖縄の塩が、欲しいの
はい

三袋を選んだ、
そして、店員に渡す、と、一人の店員が、一つの袋を取り上げて、
これは、オーストラリアの塩を、こちらの海水に溶かして、作ったものです
と、言う。
あっそう
駄目ですね
と、店員が言う。
そうだね
すると、それを、はじいて、二つだけ、包んだ。

通りの中に進んでゆくと、沖縄衣装のようなものが、1200円である。
それを、手に取る。
それは、新しいものです
民族衣装ですか
うーん、というより、新しい舞台衣装に使ったりします
そう
普段は、もう、着物は、着ませんから。これを、色々アレンジして、沖縄風にします

私が着たら、照る照る坊主になると、思った。
ムームーとでもいうのか。
安いので、一着買った。

そして、また中に進んでいくと、道が、四方にある。さて、どうするか。私の癖である。どんどんと、入って行きたくなる。海外では、危険だといわれる行為であるが、ここは、日本である。
入り組んだ道は、面白い。
どこに、どうなっているのか。私は、来た道を忘れた。
裏寂れた、道に出た。場末のスナックや、バー、カラオケの店が、ポツリポツリとある。何とも、いい感じである。
ある、アパートのような建物の、一階の扉に、会員制とある。ゲイスナックである。普通の男が、入らないように、ゲイバーには、会員制と、書かれているのである。

よし、と、私は、その扉を開けた、
おじさんが、一人いた。マスターである。
開口一番
ああーよかった、お客さんが来たわ
ここは、給料日が、5日なのよ、だから、誰も来ないと、思っていたのよ

この、おじさんお姉さんは、沖縄の人ではなかった。
栃木の人だった。

2008年12月12日

沖縄・渡嘉敷島へ3

おじんさお姉さんの、マスターは、渋谷で、30年近く、ゲイバーをしていたという。

親の看病が、終わり、渋谷の店を閉めて、暖かい、沖縄に移住して、ゲイバーを開店した。
この辺りには、30件ほどの、ゲイバーがあるという。
驚きである。

マッサージバーもあり、売り専、つまり、ボーイを売る店もあるが、広告は、していないという。那覇は、また、沖縄は、島であるから、狭い。故に、すぐに、知れ渡るという。観光客向けに、それらは、あるという。

マスターは、私に、色々と、沖縄の情勢を語って聞かせた。

仕事は、ない事はないのよ。
ただ、希望が無いの。
店員、下働き、単純労働など、希望が、持てる仕事がないのよ
将来に、何か、出来るというものが、何も見えないの
ただ、それで、生活するのみなのよ

ところで、観光なの
いえ、ちょっと、やることが、あって
そう
マスターは、それ以上、聞かない。
深入りしない。それが、礼儀である。

ここに来て、お客の来ない日があるということを、知ったわ
どうしょうかと、思った
でも、すぐに慣れたわ
そのうちに、年金が貰えるようになるし、ね
その年金で、なんとか、生きていけると思う

彼は、親の死を看取り、責任を果たしてから、沖縄に来たのである。
一人暮らし。
ただ、周囲の、つまり、ゲイバーのつながりがあり、孤独ではない。

私に、しきりに、他の店に行くように言う。
私の店では、相手が、探せないよと、言う。

更に、ボーイを売る店の、連絡先まで、教えてくれた。

そのうちに、一人のお客が、来た。
名古屋で、仕事をしている、以前のお客のようだ。
二人の会話を、聞いていた。
ストレスによる不調で、検査入院するらしい。

泡盛の水割りを飲んでいた私は、もう、それで十分で、そろそろ、ホテルに戻ろうと、思った。

若いお客は、私にも、聴いて貰いたいかのように、名古屋での、仕事のストレスを大声で、話した。
私は、名古屋は、大変ですねーと、言った。すると、彼は、息もつかずに、べらべらと、喋るのである。

暫く、彼の話を聞いて、私は、店を後にした。

自分が、どこにいるのか、解らない。
タクシーを捕まえて、乗り込み、行き先を告げる。

あっという間に、ホテルに着いた。あまり、遠くない場所だった。
私は、凄く疲れた。

マスターの話の内容を、反芻していた。

余程、意識していないと、頭が、馬鹿になるという、言葉が、思い出された。
沖縄の新聞や、情報を得るだけだと、日本の様子が、解らないというものだった。

日本であるが、日本とは、遠いのである。
非常に印象的だった。

部屋に戻った時は、十時を過ぎていた。
明日の、フェリーは。十時発である。
私は、シャワーを浴びて、すぐに寝ることにした。

明日は、この旅の目的である、慰霊をするのである。
ところが、中々、寝付けない。
だが、酒を飲む気になれない。

何となく、時間を過ごした。ついに、深夜十二時を過ぎた。

実は、慰霊に出掛ける、十日前ほどから、体調が、おかしかったと書いた。
それは、初日の一晩で、収まった。
こういうことは、慰霊の前に、よくあることである。
霊的感応とでも、言う。しかし、それは、大したことではない。当然である。別次元の方々に対処するのである。

更に、慰霊の後にも、あることもある。

私の場合は、単純に慰霊であるから、特別な能力云々ではない。
鎮魂の作法というものが、古神道の奥義にはある。
私は、それを、否定しない。しかし、奥義を知らないから、出来ない、慰霊が出来ないというならば、それは、誤りである。更に、傲慢である。

あることに、気づいた人は、それぞれの、方法で、慰霊に望む。
誰が、よくて、誰が悪いということは、全く、欄外である。

私の他にも、多くの人が、自発的に、慰霊の行為を行っていることを、知っている。

ただし、ある程度の覚悟は、必要である。
強い霊媒体質の人、あるいは、強い感受性の人も、注意が必要である。
一時的に、憑依現象が、起こることがある。

私の友人の知り合いに、精神科医で、沖縄慰霊をしている人がいる。
それは、沖縄の患者さんを診察した時に、気づいたという。

その、患者さんに、女学生で、亡くなった、60名程の、霊位が、感応していたという。つまり、憑依である。
精神的不調の原因が、それだった。
それから、その、精神科医は、沖縄慰霊を、はじめたという。

色々な、気づきの、きっかけがある。

さて、私は、寝た。
ベッドに横になっているうちに、眠った。

朝、起きると、八時を過ぎていた。
珍しいことである。
私は、五時から、遅くても、六時前には、目が覚めるのである。

以前にも、書いたが、ホテルの部屋では、よく眠られる。
何もないからだ。
本も、パソコンもない。それに、旅には、本を持って歩かない。何も、しないのである。
だから、ホテルでは、寝るしかない。
テレビは、全く見ない。
テレビを見ると、感性が、鈍る。私の場合は、である。
音楽も聴かない。

思いついて、歌を詠む程度である。
しかし、歌を詠みはじめと、時に、終わらないことがある。

西行の、自然発露の歌を、好むが、そういう時は、定家のように、観念的な歌になってくる。

藤原定家は、部屋で、呻吟して、歌を詠んだ。
西行は、歩きつつ、鼻歌のように、歌を詠んだ。

どちらも、大歌人である。

技巧、作為の無い歌を、詠みたいと、いつも、思うが、頭が悪いせいか、つい、いい振りこいて、巧い歌を詠みたいと思うという、愚かさである。

こういうのを、囚われという。
捨ててしまう歌である。適当に詠んでいれば、いいのだと、いつも、自分言い聞かせている。

2008年12月14日

沖縄・渡嘉敷島へ4

朝、目が覚めたのが、八時過ぎである。
驚くほど、寝た。

朝食券を買っていたが、食欲がなく、食べずに、少し部屋で、ボーっとする。
九時になったので、泊港ターミナル、とまりん、に向かう。

乗船チケットを買っていないのだ。
昨日は、一時間前から、船が来ていると言われていたので、急いだ。

受付で、10時発の、フェリーです。と言う。
二時に変更になりました。
えっ
帰りの便は
高速船になります、五時発です。
うーん
日帰りですか
そう
あまり時間がないですよ
そうだよね

どうして、変更になったのかを訊かなかった。

後で知るのだが、修学旅行生によるものだった。
百名以上乗船の時は、貸切ということになり、時間を融通するというのだ。

私は、とまりんの、外のコーヒー売り場で、ベンチに座り、コーヒーを注文した。

時間があり過ぎる。

一時間程度、そこにいて、向こうの公園を見ていた。
路上生活の人が見えないかと。
昨日、衣服を誰にも、差し上げられなかった。
今日は、どうかと、見ていたが、人影はない。

あのまま、持って帰ることになるのか。しょうがない。

私は、一度ホテルに戻った。

そうそう、その時も肉が食べたくなり、弁当屋に寄って、豚のしょうが焼き弁当を買った。
それを、部屋で食べた。
どうして、こんなに国が食べたいのかなーと、思う。

毎日、肉を食べるなんて、考えられないのだ。

弁当を食べて、ベッドに横になり、一時を待つ。

私が、一番乗りである。
乗船のチケットを渡して、その場で、写真を撮ってもらう。

一番上のデッキに上る。
とまりんの、横に、修学旅行生が、大勢、たむろしていた。
ああ、あいつらが乗るんだと、見ていた。
彼らが、乗ってくる前にと、私は、船の中を、見学して、回った。

二階に、身体を横に出来る、場所があり。すでに、三人ほどの、老人が寝ていた。
私も、ここに決めた。
枕も、用意されてある。

旅行生が、どんどんと、乗船して来たので、私は、その場所に身体を横にして、寝た。
気づいた時は、船が進んで、波の上を走る、ゆったりとした、振動が、感じられた。
眠っていたのだ。

これはこれはと、起き上がり、カメラを持って、デッキに出た。
一番の上のデッキに行き、一人の女の子に話しかけた。

どこから
栃木です
高校
はい、商業高校です
修学旅行で、何するの
体験学習です
体験って
マリンスポーツとか、バーベーキューとか
そう

それが、体験学習というものなのか。変な気分である。
兎に角、写真を撮ってもらい、ついでに、他の女の子たちも、入ってもらい、写真を撮った。

そして、船先に向かう。
日差しが当たり、眩しい。
そこは、学生が占領していた。
隙間に入り、前方を見る。
渡嘉敷島と、その周辺の無人島が、美しく見える。
悲劇の島とは、思えない、美しい島、山並みである。

そこでは、女の子、男の子と、話した。
渡嘉敷島のこと、知ってる
いいえ
アメリカ軍が最初に上陸した島ですよ
えーホント
そう、そこから、沖縄戦が始まったの
男の子が、身を乗り出す。
島では、集団自決があったんだよ
へー

女の子が
今日は泊まるんですか
いや、日帰り
なにしに行くのですか
慰霊
いれい
そう、慰霊だけ
一人でですか

とても、興味を持ったようである。
女の子は、
今夜の、報告会で、今の話しますと言う。
うん、皆に、話してください。
どうして、自決したんですか
色々な理由があるよ、これだという決め手の理由はない。アメリカ軍が攻めてきたんだから、怖かったんだろうね、死ぬしかないと、思った人もいると思うよ

そんなことが、あった島だとは、知らずに、彼らは、体験学習にやって来たのだ。
学校は、何をしているのだろうか。

この話が、聞きたければ、いつでも、学校に行きますよ
本当
知りたいでしょう
はい

彼女は、船を下りるとき、私の名前を尋ねにきたので、名刺を渡した。

私も、学生たちと、一緒に、船を下りた。
そして、彼らの向かう場所とは、別に、私は、ターミナルに入った。
帰りの、高速船の、チケットを買うためである。

その時、携帯電話が鳴った。
昨夜、頼んでいた、タクシーのおばさんからだった。
その、おばさんは、私のすぐ、後ろにいた。

こちらです
よろしくお願いします。

用意されていたのは、八人乗り程の、バンである。
丁度、三時十分を過ぎた。

私は、地図を取り出して、白玉の塔と、集団自決跡碑に、お願いしますと、言った。
帰りは、五時の、高速船ですと言うと、解りました、大丈夫ですよ、と答える。

その、おばんさは、那覇の高校を卒業して、沖縄のバスガイドの仕事をしていた。それで、沖縄戦について、実に詳しいのである。
また、渡嘉敷島の、状況も、勿論、詳しい人だった。
これが、幸いした。

沖縄・渡嘉敷島へ5

タクシーというより、大型バンに乗って、最初の慰霊地、白玉之碑に向かう。

五分程度山道を登ると、着いた。

車を止めるスペースがある。
柴垣の門を、抜けると、慰霊碑がある。

その慰霊碑には、人の名が刻まれている。
そこからは、先ほど降りた、港が、見渡せる。

ひと枝を折り、御幣を作る。
そして、もう一つ、慰霊碑の中にある、枝を折る。
今回は、二つの御幣を作る。

今まで、昭和天皇を、御呼びしたのは、タイ・メイホンソーンの、ある慰霊碑だった。

今回、昭和天皇を御呼びするのは、二度目である。

この、依り代に、降臨鎮座を願うのである。

運転の方は、おばさんといったが、ここからは、女性と書く。
この島に生まれた方である。

少し待ってて、ください
そう言って、私は、即座に、神呼びをはじめ、祓えの祝詞を唱えた。

私の、神呼びの音霊は、うウ音である。三度、ゆっくりと、音を出す。

祈りの最高の形は、黙祷である。
最上の祈りは、黙祷である。

祝詞を唱えて、私は、四方を清め祓う。
多くの慰霊の思いにより、実に、霊的に静かである。

私は、女性に、写真を撮って貰う。
慰霊碑の前の、歌碑の横である。

どうして、慰霊をしているのですか、何の得にもならないでしょう

彼女の質問に、私は、言葉を出せない。
それは、私が私に尋ねる言葉だからだ。

単独で、ただ、慰霊にだけ来るというのは、何か。

これは、私の人生最後の仕事なんです
勿論、収入にはなりません
でも、私の仕事と、考えています

それから、彼女との、会話が、はじまった。
嬉しいです
ただ、慰霊に来られる方がいるのは
ここには、島の人に、根掘り葉掘りと、当時の様子を尋ねるために、来る人たちがいます
本当に、迷惑なことです
誰も、島の人たちは、話したくないんです

車に乗りながら、話は、続いた。

途中から、彼女が
今日は変です
と言う。
私は、結婚するまで、霊感が強くて、困っていたんですが、結婚して、無くなりました
でも、今日は、変です
耳が、耳が詰まったようになって
それに、あそこに向かうと思うと、気が重くて、それに、空気も重く感じます

途中には、旧アメリカ軍の施設があり、今は、青年の家として、宿泊施設などに使用されている。

霊感の強い子は、ここでは、眠られないといいます
この辺りも、自決している場所なのです
至るところです

集団自決跡の碑に到着した。
今日は、本当に、ここを開けるのが・・・

彼女は、緩慢に、その、跡地の鉄格子を、開けた。

そして、両耳を、覆っている。

私は
大丈夫ですよ
私が来たことを知っているんです
すぐに、済みますから

私は、即座に、神呼びをした。
更に、西の空に、太陽が光るので、そちらに向かい、天照る神を、御呼びする。
皇祖皇宗 あまてらすウおほんみかみーーーー
あまつかみ くにつかみ やおよろずのかむたち おきなわ とかしきをおさめる うぶすなのかみ
さらには 昭和天皇を、御呼びしたて奉る
このヒモロギに、降臨鎮座したまえと かしこみかしこみ ももオうすウーーー

祓えの祝詞を唱えて、四方を清め祓う
暫しの黙祷。

そして、即座に、お送りの音霊で、引き上げ給えと、唱える。

日本人として、亡くなったのである。
当然、日本の皇祖皇宗に、お願いする。

ただし、私は、その後で、右側に向かい、念仏を唱えた。
そして、左側に、題目を唱えた。

終わってから聞いた。
右側の森では、一番亡くなった方が多いと。
そして、左側は、分散して、亡くなったと。

その日の、島の川は、血で染まったという。
丁度、そこは、水源地であり、すべての川に通じている。
そこに、彼らの血が、流れ出したのだ。
夜中に、水を飲んだ人は、気づかずに、水が変な味がすると、思ったらしい。また、その水で米を焚いた人もいる。
ご飯が、真っ赤に染まり、赤飯かと、思ったというから、凄まじい。

彼女は、私が、慰霊している様を、何枚も写真を撮ってくれた。
そして、終わってから、彼女の胸の内を聞いた。

これについては、知る人ならば、誰のことかが、解るので、書くことは、しない。
ただ、私の考えだけを、書くことにする。

当時の、状況を把握することである。
例えば、当時の島の指揮を取っていたのは、軍である。
その島の、軍の最高指揮官である。
その、指揮官は、日本軍の、教えの通りに、行っていたといえる。

そして、異常事態である。
情報も錯綜する。

1944年昭和19年10月10日
アメリカの機動部隊は、沖縄を空襲する。
以後、台湾、ルソン島への、激しい波状攻撃を行う。

そして、20日には、米軍四個師団が、フィリピン・レイテ島への、上陸を開始する。
そこで、大本営は、レイテ島への、増援輸送を行うが、米軍の攻撃によって、多くの艦船を失う。
このレイテ島で、連合艦隊は、事実上、消滅するのである。

更に、地上戦でも、日本軍は、敗北する。激戦であった。
もはや、日本軍には、米軍を阻止する力は失われていた。

フィリピンを全滅された米軍は、45年、2月19日に、硫黄島に上陸して、かつてない激戦が行われた。

その、約一ヵ月後、日本軍守備隊が、全滅する。

続いて、4月1日に、沖縄本土に米軍が上陸するのである。

2008年12月15日

沖縄・渡嘉敷島へ6

沖縄本土に、アメリカ軍が上陸する前に、まず、ケラマ諸島の、座間味、阿嘉島、慶良間島が攻撃を受ける。
それが、3月23日である。
そして、27日、渡嘉敷島への、攻撃と、上陸がはじまる。

4月1日には、本土へ上陸する。

沖縄戦の悲惨さは、戦死者数、これは、沖縄出身の軍人、軍属を含む者と、同じ数だけ、一般住民が、戦闘に巻き込まれて、死亡していることである。

戦死者は、9万4136名、一般市民は、9万4000名である。

大本営は、沖縄戦を、本土決戦の準備のための、捨石作戦として、位置づけたことが、悲劇の元である。

作戦の主たる目的は、米軍に、長期間に渡り、多大な犠牲を与えることだった。
したがい、県民の、避難や、安全確保の対策は、後回しになった。

更に、である。
多数の沖縄県民が、日本軍によって、殺害されたことである。

日本軍は、米軍のスパイとみなした住民を、処刑し、日本軍将校用の壕を確保するために、住民を、壕から追い出したのである。

それによって、多くの住民が、戦火に晒されることになった。

また、日本軍と、住民が、混在している場合は、日本兵が米軍に発見されるのを、恐れて、住民を犠牲にした。
また、米軍に投降する住民を、射殺したのである。

さて、渡嘉敷島でも、多数の住民が、スパイ容疑で、処刑された。
米軍は、渡嘉敷島に上陸した時、国際法に則って、一般住民を、攻撃しないとしていた。逆に、保護する対応だったのだ。
しかし、それに、助けを求める住民を、日本軍は、処刑したのである。
スパイとして。

そして、この問題は、今も、議論されているが、集団自決である。

様々な、見解からの、意見があるが、私は、追悼慰霊をすることで、解ったことを、書く。

当時の、アメリカ軍、アメリカ人に対する、日本の軍部の、喧伝は、鬼畜米英である。
つまり、米英は、鬼である。
鬼に、捕らえられれば、女は、犯されて、殺され、男は、釜茹でにされる、等々の、喧伝である。

アメリカ軍上陸を聞いて、人々は、色めきたった。震え上がった。
殺される。
まず、第一に、思うことである。

軍の関与ある、無しに、関わらず、当時の、思潮、思想の流れを、見れば、理解出来ることである。

さて、住民は、どうするか。

殺されるならば、皆で、死のうと思う者、多数。
更に、戦局の行く末を見ていて、絶望する、軍将校もいる。
さて、どうするのか。

ここでは、軍関与ありも、無しも、議論にならないのである。

当時の、状況から、判断すれば、そのように教えていた、教えられたことが、原因の、結果である、ということだ。

私は言う。

軍の関与あり、更に、当時の思潮、軍の喧伝による、犠牲であると。

それが、違うと解釈があっても、その時の、人の心を、動かすものは何かを、問えば、自ずと、答えは、見えてくる。

軍将校が、死んではならないと、言ったとしても、アメリカ軍が、上陸して、殺されるとしたなら、どの道を選ぶか、である。

宗教の教えのように、信じ込むように、させられたのである。
皇国臣民である。

ケラマ諸島の人々は、アメリカ軍に、保護されて、渡嘉敷島に、連れられて来ていた。
住民は、投降すれば、助かったのである。

一人一人の、人間の、云々の問題ではない。
そんな、小さな問題ではない。

当時の、日本軍の、国民に対する、喧伝の有様を、見てから、である。
天皇の存在を、利用し、天皇の赤子として、国のために、命を捧げることを、是とする。

あの、戦争は、天皇のためではない。
軍のための、戦争である。

日本の国のためというより、日本軍のためである。

しかし、多くの、兵隊は、また、国民は、日本のために、戦った。
この、ズレは、甚だしく、大きい。

さて、更に、加える。
アジア・太平洋戦争の、戦死者の大部分が、マリアナ陥落後の、抗戦期に発生している。
戦争終結の決断が遅れたことにより、どれほどの、命が失われたかということである。

すでに、日本は、敗戦していたのである。
軍部という、傲慢極まりない物どもが、この戦争の、犠牲を最大にしたのである。

その、軍部は、誰が指揮したのか。
数えるばかりであろう。

まして、天皇が、終戦のお言葉を、のべられるのを、阻止しようとしたのは、共産主義に染まる若き将校たちである。
戦争の、ドサクサに漬け込んで、日本を共産主義の手に委ねようとした者もいるのである。

さて、アメリカは、東京大空襲で、十分だったはずである。
一般市民を、殺し尽くすという、国際法無視の、攻撃である。
更に、アメリカが、原爆を落とす、何物をも、意味は無かったのである。

裁かれるとしたならば、アメリカである。
そして、日本軍の最高司令官であろう。

それでは、何故、戦争に突入したのか。
簡単である。
日本は、アメリカによって、孤立させられたからである。
すべてを、断たれて、国際的に、孤立させられたからである。

それを、したのは、アメリカである。
戦争を仕掛けたのは、アメリカである。

更に、おまけに言えば、日本が、参戦したことにより、多くのアジアの国が、独立を勝ち取った。誰も、それは、否定しないだろう。

日本の、多くの戦死者と、多くの市民の死は、アジアの独立ために、捧げられたのである。

私は、集団自決の追悼慰霊を、終えて、即座に、それを、悟った。

確かに、一時期、日本は、アジアの国々を、植民地支配した。
それを、一つ一つ検証するべきである。
無意味なものはない。
一つ一つの国に、意味がある。
今は、それを、書かないでおく。


何ゆえに
慰霊するかと
問われては
意味なきことの
言葉なきこと

追悼の
思いは深く
人の名は
語り伝えて
偲ぶよすがに

渡嘉敷の
古き傷跡
たずねては
心にかかる
深緑かな

沖縄の
海 美しき
深き青
流す涙の
慰霊の色とも

すべてには
意味があるとは
誰言うか
この人の世は
すべて無意味に

2008年12月16日

沖縄・渡嘉敷島へ7

渡嘉敷島からの、帰りの船は、高速ボートで、35分。
フェリーとでは、半分の時間である。

ベルト着用であるから、揺れが激しい。
しかし、私は、渡嘉敷の港を出て、10分程の所で、デッキに出た。
先ほどの、御幣を海に、投げ入れるのである。

神送りの、音霊、おオーを、三度唱えて、投げ入れた。

これで、慰霊の儀は、すべて、終了である。

終了は、終わりである。
後に引かない。
あの世のことと、この世のことを、混合させない。

混合させては、見苦しいのである。

霊的能力者の中には、後々までも引きずり、延々と、それが、終わらない人がいる。
自己顕示欲である。

慰霊の後で、具合が、悪くなるような、慰霊は、嘘である。
霊が憑いた、云々という、話は、うんざりする。

頭が悪いと、霊も憑くのである。

私は、高速船の、揺れを楽しんだ。

さて、今夜は、何を食べようか。
はーぁ
もう肉は、嫌だ。

魚を食べたい。刺身も、食べたい。
いきなり、肉が嫌になった。

それは、こういうことである。
霊的存在は、肉の匂いを嫌う。
自己防衛であった。

慰霊の前に、あれほど、肉が食べたいと思ったことはない。つまり、自己防衛で、肉を食べていたのである。

要するに、ベールを張っていた。

暫く、肉は食べたくないのである。
ああ、これだったんだと、その時、気づいた。

ちなみに、私は、霊能者ではない。
ただ、感受性が強いだけである。
感受性と、霊能は、紙一枚である。

さて、夕日の中を船は走る。
そして、あっという間に、那覇に着いた。
お客は、数える程度である。

そのまま、ホテルに戻る。
そして、兎に角、身体と、髪を洗いたいのである。
私の、清め祓いである。

髪が乾いて、七時になったので、近くの居酒屋へ、出る。
地元の、魚介類のある、居酒屋に行った。

オリオンビールを飲む。まあまあ。ビールは、好きではない。
次に、日本酒を頼む。
沖縄では、泡盛が主である。頼んだ、日本酒の銘柄がないので、あるもので、良いと、注文した。

980円の刺身セット、300円のモズクを頼む。
それで、おしまい。
もう、食べたくない。
疲れていたのだ。

だが、きっと、夜、腹が空くと思い、沖縄野菜のてんぷらと、沖縄焼き蕎麦を、お持ち帰りにしてもらう。

一時間程で、居酒屋を出る。
そのまま、ホテルに戻る。
そして、ホテルの、寝巻きに、着替えて、一息する。

まだ、八時過ぎであるが、ベッドに身体を、横たえる。
少し、寝る。

目覚めて、てんぷらと、焼き蕎麦を少し食べる。
そして、また、寝た。

朝である。

昨夜、残したものがあるが、ホテルの朝食に出る。
パンも、おかゆも、おかずも、一通り手をつけてみた。
腹一杯になる。

部屋に戻り、また、ベッドに横になる。

部屋は、十二時まで、延長しておいた。

衣服支援が、出来なかったことを、残念に思い、最後に、とまりんの港の前で、コーヒーを飲もうと、思った。
もしかしたら、差し上げることが、出来るかもしれないと、思いつつ。

十二時前に、ホテルを出て、とまりんに向かった。
そして、コーヒーを注文して、タバコをふかした。

少しして、あちらの公園に、人影が見えた。

荷物をそのままに、衣服のバッグを持って、向かった。
トイレで、顔を洗う、おやじさんに、声を掛けた。

服は必要ですか
ああ、いります
私は、すぐに、バッグを開けて、衣服を見せた。
ジャージの上下があった。

それ、もらいます
どうぞどうぞ

更に、衣服を出した。
シャツもある。

これ、どうですか
ああ、もらいます

そうしていたら、おじいさんが、来た。

それ、女物だね
はい、でも、まだありますよ

私は、すべてを、出した。
おじいさんが、選んだ。そして、そのバッグが、欲しいと言うので、バッグを、差し上げることにした。
そして、女物を、知り合いに、上げて下さいというと、いいよと言う。

そこで、すべてを差し上げることが出来た。

おじいさんは、俺、何も食っていない。食べ物は、あるかいと、言う。

私は、昨夜の、てんぷらと、焼き蕎麦を、持っていたので、ありますが、半分食べていますと言うと、それでも、いいと、言うので、差し上げた。

ありがとう ありがとう
何度も、その言葉を聞いた。

私は、コーヒー飲み場に、戻って、今回のすべての、予定を終えたことを、嬉しく思った。

最後に、沖縄蕎麦を食べて帰ろうと、思って立ち上がった。
これで、終わりではない、これが、はじまりである。
沖縄、追悼慰霊の旅のはじまりである。

2008年12月18日

沖縄・渡嘉敷島へ8

沖縄には、300箇所の、慰安婦所があった。

渡嘉敷島にも、一箇所あった。
朝鮮から、連れられて来た、女性が、七名いた。
渡嘉敷島の人は、その女性たちを、知っている。

一人の女性は、16歳の時に、連行された。
道で、赤ん坊を抱いている時に、赤ん坊を、隣に居た、おばあさんに渡されて、連行されたという。

何がなんだか、解らないうちに、慰安婦にされた。

毎日、列をなして、兵隊が来る。
その兵隊を相手に、身体を差し出す。

毎日、泣いていたという。

慰安婦の一人は、高齢になって、渡嘉敷島にいたという。
最後は、病で、亡くなったとのこと。

連行したのは、軍なのか、業者なのかは、解らない。
軍は、業者に、斡旋してもらったはずである。

だが、結果を見れば、あまりに、悲劇である。

中には、慰安婦になり、大枚のお金を得られるという、女性もいたことは、確かである。しかし、そうではない、女性の方が、多かった。

私は、その事実を聞いて、深く、傷ついた。
性的処理のための、女性というのは、あまりに、悲しい。

それで、生涯を終えられたのである。

誰が、責任を取れるのか。
今となっては、日本国が、責任を取るしかない。
しかし、その、戦争責任の保障が、終わっていることも、事実である。

戦争。

戦争である。

異常事態である。

日本軍だけが、慰安婦所を設けたというが、私は、アジアの至る所で、アメリカ兵に、身体を売った女性の話を、聞いている。

慰安所を設けた、日本軍と、慰安所を設けなかった、アメリカとの、違いは何か。

解らない。

しかし、アメリカ兵との、混血の子供は、多い。

ビルマ・ミャンマーでの、日本兵との、混血の子供も、多い。

更に、敗戦後の、沖縄のアメリカ統治の、婦女暴行は、限りなく、混血児も、多い。そして、日本のアメリカ軍の、GHQの時も、混血児が多い。

性的処理にされる、女性は、歴史始まって、以来からである。

日本の、慰安婦問題を、アメリカ議会が、判定する、何物も無い。

私は言う。

戦争という、暴力の前には、何者も、無力である。
そして、戦争を起こすというのは、人類の、定めであり、業である。

その、人間の業を、裁ける者が、いるのだろうか。

生まれて、済みません、である。

人間が、この世にいないことが、理想なのである。

人間の存在は、悪魔の関与であろう。
つまり、人間は、悪魔なのである。

とどの、つまりは、人間が、この世に、存在しているということが、罪なのである。

キリスト教の、原罪という意識は、まさに、悪魔的である。
というより、悪魔なのである。

人間は、悪魔の子であるという。

悪魔の子が、神も、仏も、あるものか。
悪魔は、悪魔である。

結論を言う。

私も、あなたも、悪魔から、出たものである。
つまり、仏陀も、キリストも、悪魔から出たものである。

異存、異議は、あるか。

神仏という、善なるものを、置いて、辛うじて、悪魔の存在である、人間が、生き延びているということである。

おわかりか、愚か者たち。

私も、あなたも、悪魔から、出たものなのである。

神仏は、妄想であり、人間の存在、そのものが、妄想なのである。
これは、大乗仏教の空論に似たものであるが、違う。あちらは、本当に、空論である。

以下、省略。

2008年12月19日

沖縄・渡嘉敷島へ9

私が、最初に沖縄に出掛けたのは、15年ほどまえである。
その時、私は、沖縄本土より、与那国島へ行きたいという気持で、本土を経て、石垣島を通り、出掛けた。

本土には、泊まっていない。

当時、舞踊を教えていて、与那国島の踊りというか、与那国島を歌ったものに、振りをつけて、教えていた。それで、非常に興味を持ち、出掛けた。

与那国島には、三泊した。

最初の夜である。
民宿の一人部屋に寝た私は、深夜、目覚めた。

兎に角、非常に強い、恐怖心で、目覚めたのである。
こんなに、怖いという感情を持ったことはなかった。
しまいに、私は、本日一緒に飛行機に乗っていた、青年の部屋に行き、事情を話して、一緒の部屋にしてもらおうかとも、思ったほどである。

その恐怖が、30分ほど続き、もう駄目だと、思った時、スーッと、その恐怖心が無くなった。
不思議だった。そしてもそのまま、眠ってしまった。

私の部屋の前に、大きな人間が立っていると、感じたのである。

とても、強い波動であった。

それが、理解できたのは、その、民宿から出て、別の民宿に移り、島の歴史を記した、山に登った時である。

その島の、酋長は、女だった。それも、大きな女だったという。
その、山の洞窟に出掛けて、それを知り、納得した。

そして、私は、更に、山に登った。
山といっても、野原のような、感覚である。

山の、頂上というか、広い原っぱに出た時、大きな石、平たい大きな石を見つけた。
更に、平たい石が、縦に並び、一つの石だけが、横にある。

その石を見た時、そこで、なにがしかの行為が、行われていたと、感じた。
神聖な場所であるという感覚である。

私は、そこで、全裸になった。
強い日差しの中である。
兎に角、裸になりたいのである。
誰も、いない。

そこからは、青い海と、青い空が見渡せる。
石の上は、熱く、私は、葉を敷いて、そこに寝た。
空を見上げて、寝ていた。

石垣島からの、飛行機が見えた。

30分程して、私は、衣服を着て、その場を離れた。
不思議な感覚である。

そして、何度も海に入り、泳いだ。
泳いだというより、海に体を浸した。
美しい魚たちと、共に、海にいるのが、楽しかった。

石垣島で、飛行機に乗り換えて、那覇に向かった。
そのまま、千歳まで、帰る予定であった。

当時の那覇空港は、大きな小屋という、イメージだった。
沖縄蕎麦を食べて、千歳行きを、待っていた記憶がある。

その時、私は、沖縄慰霊をするなどとは、考えることもなかった。

戦争犠牲者の追悼慰霊をはじめて、二年が過ぎた。
東南アジアの各地を回る。
その時、いずれ、沖縄に出掛けようと、思うようになる。それは、必然だった。

今回、今まで調べていた、戦争犠牲者のことなどから、沖縄に関しても、調べ、更に、戻ってきてからも、沖縄に関するものを、読んでいる。

集団自決に関する、報告書や、レポートも、読んだ。
そして、確実に、私が感じるものは、何かと思った。

私は、集団自決と共に、更に悲しんだことは、沖縄の市民が、日本兵に、射殺、虐殺されていることだった。

兵士と、市民の死者数が、同じだと、書いた。
その、犠牲者の一部は、日本兵に殺されているという、事実である。

スパイ容疑ということである。
つまり、一般市民が、アメリカ軍に、投降、あるいは、助けてもらうという、行為を取る時、彼らは、スパイとして、殺されたということである。

それは、渡嘉敷島でも、同じだった。

ある濠では、男たちが、全員日本兵に連れ去られて、殺されているという事実である。

日本の、敗戦を予感した、日本兵、及び、その将校たちは、精神に異常をきたしたと、思われる。

ケラマ諸島から、市民がアメリカ軍に保護されて、連れて来られた。それを、見て、投降する、者もいたが、途中で、捕まり、スパイとして、殺されている。

今回、私は、男たちが、連行されたという、建物を教えてもらった。
どことは、書かないが、あまりに、無残である。

この一つ一つを、検証すると、戦争犠牲者の追悼慰霊という行為の、更なる重要性を感じる。

沖縄には、ユタという、霊能者がいる。
女ヤタ、男ユタもいる。

沖縄は、精神疾患の者が多数いる。それは、日本一と言える程である。
多くは、霊的障害である。

つまり、沖縄戦による、霊的存在に対する所作が、お座なりにされているといえる。
本来は、ユタの皆さんに、総慰霊を求めたい。

だが、ここでも、沖縄の悲劇がある。
敗戦から、アメリカ統治、そして、日本返還という中で、沖縄の世論を作り上げてきたのは、左翼系、左派である。
彼らは、霊的能力というものを、知らない、認めない、非科学として、排斥した。

激しい反日と、そのような、霊的所作を認めないという、暴挙により、追悼慰霊の所作が、行われていないと、判定する。

更に、複雑なのは、沖縄の差別である。
本土は、八重山諸島と、奄美を差別する。

琉球王国は、八重山を搾取し続けてなった、王朝である。それが、そのまま、潜在的に、残っている。

私は、沖縄の人が、やまとの天皇を認めないという心境を理解する。また、それを、支持する。

薩摩藩が、沖縄を支配したと、思っていた時期も、沖縄は、中国にも、恭順を示していた。中国の一部の人は、沖縄は、中国の物だと言う人もいる。

さて、この複雑な沖縄という、国にあって、どのように対処するのか。

私は、ただ、慰霊の行為のみである。

沖縄の複雑な、歴史的背景には、入って行くことが出来ない。

私は、一人の、ヤマトンチューとして、慰霊の行為を、続ける。

最後に、何故、昭和天皇を、御呼びしたかである。
昭和天皇の、慙愧は、余りある。
昭和天皇は、沖縄を、売ったからである。
証拠がある。
本土、この場合は、日本本土を、守るために、沖縄を、犠牲にした。

昭和天皇は、どうしても、沖縄に来て、お言葉を、述べたかったのである。
それが、私には、
朕の不徳のなる、深く天下に愧ず
である。

世界の君主が、自らの非を認めることは、決して無い。
何故、昭和天皇が、自らの非を、認めることが、出来たのか。それは、皇祖皇宗という、日本国の、祖先の霊位があるからである。

皇祖皇祖の前には、天皇も、一人の民の代表である。

国民は、皇祖皇宗と、向き合い、天皇は、そこに、横になって、座する。
それが、正式な、作法である。

天皇が、神の座にあるというのは、特別、特殊な儀式による。
新嘗祭である。おおにあえまつり、である。
そして、天皇の位に就く時である。

更に、鎮魂の作法というものが、あった。今は、それが、途絶えて久しい。
その時、天皇は、皇祖皇宗と、共に、日本の祖先の霊位と共にある。
現人御神である。あらひとみかみ、である。
ちなみに、国民は、現人神である。あらひとがみ、である。

伝統である。

私は、沖縄が、天皇を認めないとするならば、それを、支持すると言った。

それで、沖縄が、平穏ならば、是非もなし。

私は、日本の皇祖皇宗を、世界の祖先になどという、つもりは、毛頭無い。
そして、あっては、いけないのである。

更に、日本の皇祖皇宗は、排他的でも、非寛容でもない。
だから、太陽に示される。
天照る大神であらせられる。

私は、目に見える、神であると言う。
太陽である。

もう一つ、おまけに、言えば、太陽が一瞬死滅すれば、地球は、即座に死滅する。
自然を拝する、日本列島の民族は、実に真っ当であったと、私は、喜んでいる。

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