紫式部日記に、書かれる和泉式部の記述を、読む。
和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかわしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかなき言葉のにおひも見え侍るめり。歌はいとおかしきこと。ものおぼえ、かたのことはり、まことの歌よみざまにこそ侍らざられ、口にまかせたることどもに、かならずおかしき一ふしの目にとまる詠み添え侍り。
ここでは、唯一、けしからぬかた、とあるのみ。
それは、和泉式部の恋であろう。
多情の様を言う。
しかし、歌に関しては、歌はいとおかしきこと、という。さにら、まことの歌よみざまに、ありとも、言う。
後に、彼女の歌を読むが、実に、良い歌を詠う。
平安王朝の最後を飾るような、歌の数々である。
寛弘6年、1009年に、中宮彰子に仕える。その時、藤原保弘と、結ばれたが、彼女に言い寄る、色好みの男が多かった。
橘道貞との結婚で、一子をもうけているのが、996年頃であるから、彰子に仕える前からも、男性遍歴が、多いとみる。
紫式部は、それを、けしからぬ、という。
逸脱した、恋愛の様である。
だが、実のところ、彼女こそ、まさに、平安の女である。
平安期とは、王朝貴族の退廃の、文化である。
簡単に言えば、セックス三昧であり、そこに、仏教の無常観という、変な思想が、彼らの行動を、また、盛んにしたのである。
密教から、浄土教への、信仰の変転もある。
浄土信仰が、平安期を支配した。
救いがたい者、救われがたい者を、救う、阿弥陀という仏に、帰依する。そして、罪の意識を持つべくの、行為行動である。
それが、色好みである。
色好みの、変転もあるということだ。
この、事態が、庶民にまで広がるのは、江戸の元禄まで、必要だった。
文化の事は、支配者層による。
しかし、不思議なことに、男の色好みの方は、当然のうよに、受け取られていたが、女の色好みは、人の噂になり、批判を受けるという、事態である。ここが、おもしろい。
源氏物語も、男の色好みの、話であり、多くの歌詠みも、男の色好みをよむ。
紫式部は、和泉式部を認めているが、また、それなりの批判もしている。
一目も、二目も、その歌を認めているが、結果。
それだのに、人の詠みたらむ歌、難じことわりえたらむは、いでやさまで心は得じ、口にいと歌の詠まるるなめりとぞ見えたるすぢに侍るかし。恥づかしげの歌よみとはおぼえ侍らず。
と、書く。
和泉式部が、人の歌を評しているのを、みると、歌について、それほど解っているとは、思われない。口に出すように、すらすらと、歌を読むということにかけては、上等だが、私が、引け目を感じるほどのものではない、と。
和泉式部の野放図な、歌の詠みを、批判するのである。
とはいっても、和泉式部は、生来の、詩人である。
口から出る言葉が、歌になるとは、大したものだ。
紫式部と、仲の悪いといわれた、清少納言とも、和泉式部は、親しく、歌のやり取りをしているという、面白さがある。
まあ、恋愛を、肥やしに、和泉式部は、人生を謳歌したといってよい。
同時の社交界を、騒がせて、楽しいであろう。
その一方で、無常観という言葉では、計れない歌を、多く詠むのである。
はかなさ、を詠む。
そこには、確かに、もののあわれ、というものを、透かしているのである。
道長が、和泉式部を、戯れ歌で、うかれ女、うかれめ、と詠んだ歌がある。
うかれ女とは、巫女の霊媒、神懸る状態でもある。
浮いた、女。
現実から、浮く、のである。
それは、賢い女でもあり、麗しい女でもある。
実は、か弱そうに見えるが、その生命力は、強い。
平安貴族の、男たちの、色好みに、比べると、遥かに、彼女の色好みは、超越している。
その、根拠は、歌である。
万葉の、生命力を、平安期に、復活させているとでもいう。
その時代に合わせて、命を、謳歌するのである。
この、和泉式部の、色好みは、現在まで続いている。
ただし、現在の方は、堕落している。
同じ、恋愛、セックスでも、その実が違う。
セックスとは、全人的なものである。しかし、現代のセックスは、性器セックスである。
和泉式部の日記から、その、濡れ場を読むことにする。
これを手本に、セックスに、励むとよい。
あやしき御車にておはしまいて、「かくなむ」と言はせたまへれば、女いとびなきここちすれど、「なし」と聞こえさすべきにもあらず。昼も御返り聞こえさせつれば、ありながら帰したてまつらむもなさけなかるべし、ものばかり聞こえむと思ひて、西のつま戸に円座さし出でて入れたてまつるに、世の人の言へばにやあらむ、なべて御さまにはあらずなまめかし。
粗末なお車でしたが、お出でになられて、「これこれでうかがいました」と、尉に言わせました。女は、いささか困った気持ちでしたが、「不在です」とは、言えません。
昼も、お返事を差し上げたことですから、お返しいただくのも、何かと、心無い仕打ちになります。
お話だけでも、と、思い、西の妻戸に、円座を差し出して、そこへお入れしました。
かねて、世の人の評判通り、その容姿は、並々ならぬ、優美さでした。
これも心づかひせられて、ものなど聞こゆるほどに月さし出でぬ。「いと、明かし。古めかしう奥まりたる身なれば、かかるところにいらなはぬを、いとはしたなきここちするに、そのおはすところに据えたまへ。よも、さきざき見たまふらむ人のやうにはあらじ」とのたまへば、「あやし。今宵のみこそ聞こえさすると思ひはべれ。さきざきはいつかは」など、はかなきことに聞こえなすほどに、夜もやうやうふけぬ。「かくて明かすべきにや」とて、
はかもなき 夢をだに見で 明かしては なにをかのちの 夜がたりせむ
とのたまえば、
夜とともに ぬるとは袖を 思ふ身も のどかに夢を 見る宵ぞなき
まいて」と聞こゆ。
美しい方だと、思い、お話を申し上げておりますと、月が昇ってきました。
宮は、「ああ、なんと、明るい月でしょう。私は、古く、奥まった家に籠もりがちです。このような、目立つ場所には、不慣れです。大変、きまりが悪いので、あなたの、お出になる、おそばに、座らせてください。決して、あなたが、今まで出会った男のような、振る舞いは、しません。」
と、仰せになる。
「まあ、なんと、妙なことを、仰せになります。今夜、一晩だけの、お話相手を、申し上げるのだと、思っております。今までとは、いつ、そのようなことが、私に、あったのでしょうか」
と、取り留めない、はかなごとを、申し上げておりますうちに、夜も、ようやく、ふけてしまいました。
宮様は、このままむなしく夜を明かしてすぎるのかと、思いになられて、
「はかもなき ゆめをだにみで あかしては なにをかのちの よがたりにせむ」
はかない、仮寝の夢さえ、みることができずに、この一夜を明かしてしまうならば、どうして、一夜の、思い出話と、しようか。
と、仰います。
そこで、女は、
「よとともに ぬるとはそでを おもふみも のどかにゆめを みるよいぞなき」
夜が来て、床についても、悲しみで、袖が濡れてしまいます。
この哀しい、わが身も、一夜どころか、いつもいつも、のどかに、夢を結ぶ宵とて、ございません。
ついに、宮が、共寝を促す。
それに対して、女は、亡き人の追憶に心濡れて、とうてい、一緒に寝ることは、できないと言う。
「まいて」は、まして、という意味。
夜とともに ぬるとは袖を 思ふ身も
この世は、こんな人に溢れているだろう。
ゲーテの言葉が浮かぶ。
幾夜も、涙と、共に枕を濡らす人、涙と、共にパンを食べたことのない人は、人生の秘密を知らない、と。
のどかに夢を 見る宵ぞなき
のどかな、楽しい夢を見る、夜は無い。
こういう人も、大勢いるだろう。
色事の中に、儚さを観る。
儚さの中に、もののあわれ、というものを、観る。
人間の本質が、恋というものに、ある、ということ、重々、承知する。
交尾は、動物の行為である。
動物である、人間も、交尾をする。しかし、前頭葉の発達により、精神を持った。言葉の世界である。
交尾は、性交になり、性交は、情交になる。
情とは、心である。
これを、迷いというのか。
これこそ、もののあわれ、であろうと、観たのが、日本人である。