もののあわれについて181
思ひもかけぬに行くものにもがなとおぼせど、いかでかは。かかるほどに出でにけり。宮「さそひみよとありしを、いそぎ出でたまひにければなむ。
宮
あさましや 法の山路に 入りさして 都の方へ たれさひいけむ
御返、ただかくなむ、
女
山を出でて 暗き道にぞ たどり来し 今ひとたびの あふことにより
晦日がたに、風いたく吹きて、野分たちて雨など降るに、つねよりももの心細くてながむるに、御文あり。例の折知り顔にのたまはせたるに、日ごろの罪もゆるしきこえぬべし。
宮
嘆きつつ 秋のみ空を ながむれば 雲うちさわぎ 風ぞはげしき
御返し。
女
秋風は 気色吹くだに 悲しきに かき曇る日は いふかたぞなき
げにさぞあらむかしとおぼせど、例のほどへぬ。
宮様は、女の、思いがけない時に、訪ねてみようと思いましたが、どうして、お出になることが、できましょう。
このようにしているうちに、女は、山を下りて行きました。
宮様は、「来て、誘ってみなさい」と、詠んだのに、急に、山から、帰ってきましたので、
宮
あさましや のりのやまじに いりさして みやこのかたへ たれさそひけむ
呆れてしまいました。仏道に、専念されているはずでしたのに、途中で、戻るとは。
誰が、誘ったのでしょう。
御返しが、一種、詠まれました。
女
やまをいでて くらきみちにぞ たどりこし いまひとたびの あふことにより
参篭の山から、悩み多い、世の中に戻りました。
もう、ひとたび、宮様に逢いたいがために。
月末の頃、いたく風が吹きました。
野分めいて、雨が降りました。
女は、常より、いっそう心細く思いました。
そこへ、宮様から、御文がありました。
いつものように、趣のある、様子です。日頃の、ご無沙汰の罪も、許していいと、思いました。
宮
なげきつつ あきのみそらを ながむれば くもうちさわぎ かぜぞはげしき
嘆きならが、お逢いできない、秋の空を、眺めています。
雲が騒ぎ、風が、激しく吹いています。私の心の如くに。
御返し
女
あきかぜは けしきふくだに かなしきに かきくもるひは いふかたぞなき
秋風は、吹く気配だけでも、悲しいものです。
このように、曇った日は、言いようもなく、悲しいものです。
宮様は、女の歌を、御覧になり、その通りであろうと、思いますが、いつものように、空しく、過ぎていくのでした。
なげきつつ
あきのみそらを ながむれば
くもうちさわぎ かぜぞはげしき
万葉に近い感覚である。
しかし、更に、複雑な、心境になっている。
ここで、話は、全く別になるが、みそら、美空、御空、というように、自然の様に対して、尊称しているという、事実である。
海神、わだつみ、とは、海である。神と、尊称するのである。
ここには、長い、年月の、意識の、積み重ねがある。
雷を、雷神とも、呼ぶというように。
自然に対して、擬人化しているというよりも、自然を、崇敬していると、みるのである。
日本の伝統は、ここに、尽きる。
自然に対する、心の所作である。
自然の前に、佇む時、古人たちは、現代の私たちとは、全く違った意識の、あり方を、したということである。
中国思想、道教、儒教、そして、仏教が輸入されても、日本流に、変容させた、その、根本エネルギーは、この、自然対する所作があったからである。
確かに、思想や、信仰の対象として、扱ったが、それ以前の、自然崇敬が、根本にあるため、歪な、洗脳を、自然に避けたと言える。
ここに、日本人の、日本の精神の、重大な、秘密が、隠されている。
自然を、蔑ろにしての、思想も、信仰も無いということだ。
自然を、尊称する、つまり、自然との、共感、共生があるゆえに、柔軟な精神の、思想、信仰の、受容である。
40年ほど前、日本教という言葉が、流行った。
日本の精神自体が、宗教なのであるというもの。それは、ユダヤ人と、比較された。
ユダヤ教徒は、ユダヤ人である。
日本教徒は、日本人である。
しかし、それは、大きな誤りである。
そもそも、西洋の宗教という、概念で、日本の精神を、計るということが、誤りである。
日本には、宗教は無い。
あるのは、宗教的、所作である。
それは、世界でも、稀なことである。
それ程、日本の自然は、他に無い程の、充実した、完成された、自然の様であるという、風土なのである。
神の国と、言われるのは、自然の国であるというのと、同じ意味である。
自然に隠れて、あそばす、カミの、存在を、実感していた。
あそばす、とは、最高の敬語である。
俗に言う、思想体系のある、神学や、教義など、一切必要の無い、自然の、豊かさを、有していたのである。
もののあわれ、というもの、自然に隠れて、あそばす、カミの、本質である。
あえて、それを、教義と言えば、日本教の、教義は、もののあわれ、である。
それ以外の、言葉は、必要無い。
それを、また、日本人は、技芸の中で、生活の中で、表現してきたのである。
生き方、そのもので、表現してきたのである。
日本人の、生き方の、最高の姿は、もののあわれ、に、生きるということであった。
天皇から、庶民に、至るまで、日本人は、皆、平等に、自然に隠れる、カミ、もののあわれ、を、生きて、表現してきた民族なのである。
そして、それの、判断は、感受性による。
以下省略。