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神仏は妄想である。第二段 アーカイブ

2008年03月23日

神仏は妄想である。53

ヒト胚は人間の生命の見本である。したがって、絶対主義的宗教に照らしてみれば、中絶は単純に悪である。つまりれっきとした殺人なのである。胎児の生命を奪うことにもっとも熱心に反対している人の多くが、成人の命を奪うことに人並み以上に熱狂的であるようにも思えるという、確証に乏しいことを認めざるをえない私の観察を、どう判断していいのか確信がない。(公正のために言うと、通常もっとも苛烈な中絶反対論者とみなされるローマ・カトリック教徒は、これに当てはまらない)
ドーキンス

私も、同じように、考えている。
そこで、次の記述である。

けれども、生まれ変わったキリスト教徒のジョージ・W・ブッシュは、現代の宗教的支配勢力の典型である。彼と彼らは、それが胎児の命(あるいは末期患者の命)であるかぎりは、人間の生命の熱烈な擁護者―――まちがいなく多くの命を救うことになるばすの医学研究さえ阻止することも辞さないーーーである。

最悪の、クライスターという武器で、平然として、人殺しを命ずる者が、胎児となると、突然、守れと、言う、矛盾。

イラクで、アメリカの若者が、どれほど、命を失ったのか。
まるで、感じていない様子である。

これ程の、矛盾を抱えても、平然としていられるというのは、ご病気ではないかと、私には、思えるのだが・・・

人格障害の中でも、嘘をつくことを、平然と出来る病がある。
彼の地の、大統領は、人格障害であると、断定出来るのである。しかし、それが、宗教的絶対主義から、出ていると、すると、あるいは、宗教、そのものに、病の、種があると、思うのである。

次に、ドーキンスは、世界的、聖者と言われる、マザーテレサについて、言及する。私も、ここまでは、言わないが、ここまで、言うのである。

カルカッタのマザー・テレサは、ノーベル賞受賞講演において実際に、「妊娠中絶こそ、最大の平和破壊者です」と言った。なぜなのか? このような偏った判断力しかない女性の発言を、どんな話題についてであれ、真面目に受け止めることがどうしてできるのだろう。まして、ノーベル賞に真面目に値すると考えることがどうしてできるのだろう? 聖人ぶった偽善者マザー・テレサに騙されたいという誘惑に駆られた人間は誰でも、クリストファー・ヒッチェンズの「宣教師の立場」―――マザー・テレサの理論と実践」を読むべきである。

霊学の立場から、言えば、中絶は、三ヶ月以内に行うべきであると言う。
つまり、霊体が、肉体に定着する前である。

日本の場合を見ると、中絶によって、子供を下ろした場合は、水子供養という、商売が、大流行である。
供養商売は、日本仏教の、得意分野である。

更に悪いのは、水子による、霊的障害を、云々する、霊能者の多数である。
何を、基準に、それを、言うのかは、解らない。多分、気分的なものだろうと、思う。

水子を供養して、息子や娘の、行状が、良くなった等の、話があるが、果たして、それが、どれ程、信憑性があるのだろうか。
それは、先祖供養にも、言える。

運が悪く、先祖の墓参りをしてから、とんとん拍子に、運が良くなり、商売はじめ、すべてが、好転したというが、果たして、たった、一人の経験談を、掲げて、先祖供養、絶対必要と、言えるものだろうか。

中絶した、女性の、弱い心を、弄ぶ、とんでもない、商売であると、言っておく。

更に、水子という、霊なるもの、勝手な、妄想の想念の、場合、多々あり。
胚を、流して、それが、どうして、一人前の、霊と、認定するのか、不思議である。

それならば、昔から、口減らしとして、生まれた子供を、すぐに、殺した場合の、多数の霊は、どうするのか。
人間の一生は、供養で終わるのだろうか。

アメリカのタリバンに話を戻して、妊娠中絶に手を貸す人間を脅迫するための組織である(オペレーション・レスキュー)の創設者、ランドール・チリーの言い分を聞いてみよう。「私、あるいは私のような人間がこの国の実権を握ったら、あなたたちは逃げ出したほうがいい。なぜなら、われわれはあなたたちを見つけ、あなたたちを裁き、あなたたちを処刑するからである。私は掛け値なしに言っているのだ。私は彼らが裁かれ、処刑されるよう取り計らうことをこれからも使命の一環としていく」。チリーがここで呼びかけているのは、中絶手術をおこなう医師たちであるが、彼を動かしているキリスト教的な霊感がどのようなものか、別の発言に明確に示されている。

私はおまえたちの上に、不寛容な波がどっと押し寄せることを望む。そうだ、憎しみは正しいのだ。・・・われわれが目標とするのはキリスト教国家の建設である。われわれには聖書に定められた義務があり、われわれはこの国を征服するよう神に命じられている。われわれは敵に自分たちと同等の時間を与えるつもりはない。われわれは多元主義を望まない。
われわれの目標は単純でなければならない。われわれは神の法、十戒にもとづいて構築されたキリスト教国家をもたなければならない。言い訳は無用だ。

キリスト教ファシスト国家を、望む者。そして、イスラム教ファシスト国家を、望む者。
これで、世界平和など、望むべくもない。

甚だしい程、馬鹿げたことであるが、現実である。

彼らは、違う意見を、持つ者を、平気で殺す。しかし、胎児や、胚を、流すことを、禁じるという、大きな矛盾である。

旧約聖書にある、ユダヤ十二氏族の、子孫というものは、余程、野蛮極まりない者なのだろう。
アブラハム、イサク、ヤコブの神という、旧約の神である。
ヤコブから、ユダヤ十二氏族が、現れる。

それらの、遺伝を受け持つ者、このように、野蛮極まりない者なのである。

そして、アラブの民は、アブラハムが、召使の、エジプトの女に産ませた、子供の、子孫であり、聖書にあるように、野蛮極まりない者と、言われる。
それが、イスラムの元。

多元主義を、排斥する、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教である。

世界が、国境により、区分けされているのではない。よく言えば、文明により、区分けされている。最悪に言えば、宗教により、区分けされている。

それらは、すべて、妄想の産物である。
胎児と、胚については、次に続ける。

神仏は妄想である。54

彼らにとって、問題ははるかに単純である。胚は「赤ん坊」であり、それを殺すのは殺人である、それだけのことだ。これで議論はおしまい。
ドーキンス

しかし、この絶対主義的な立場をとるとするなら、いろいろな問題が引き起こされることになる。手始めに、胚幹細胞を使った研究は、医科学にとって大きな可能性を含んでいるにもかかわらず止めさせなければならない。なぜなら、それは胚細胞の死をともなうからである。社会がすでに人工授精を受け入れていることを考えてみれば、その一貫性のなさは明らかだろう。

つまり、受精卵を、十数個も作るが、使用するのは、一個か二個である。他の受精卵は、殺される、という、表現が出来る。

さらに、アホなことに、その、受精卵を救えという、絶対主義的立場を取る者も、出始めたという。

強迫神経症である。

帰結主義者あるいは功利主義者なら、おそらくこれとは非常に異なったやり方で、中絶問題をアプローチするだろうーーーすなはち、苦しみの軽重を判定するのである。胚(胎児)は苦しむだろうか(おそらく、神経系ができる以前に中絶されればそうではないだろう。神経系ができているだけの月齢に達していてさえ、たとえば屠畜場の成牛ほども苦しまないことは確かだろう)? 妊婦、あるいはその家族は、もし彼女が中絶をしなければ苦しむだろうか? その可能性はきわめて高い。そしていずれにせよ、胚が神経系を欠いていることを考えれば、母親のよく発達した神経系のほうをとるべきではないだろうか?

絶対主義的宗教の、感情論によって、多くの無明が、まかり通るという、実際を、見るものである。

胚をわざわざ「赤ん坊」と呼び、それを守るために殺人をする用意のある人々がいる。
ドーキンス

胚は、殺すな、しかし、胚を殺す者は、殺すというのだから、話に、ならないのである。

人道的とか、道徳的とか、全く話しにならない、絶対主義的宗教の、有様である。

ドーハンスは、彼らの矛盾を、徹底的に、炙り出している。

アメリカは、キリスト教原理主義によって、中絶の反対、同性愛の、反対、等々、聖書主義にのっとって、判定する。
そして、それを、国家意識にまでも、高めようとしている。

そして、同じように、聖書主義にのっとっている、イスラムも、そうであるが、両者が、決して、和解しないのは、何故か。
不思議である。

問題の核は、聖書絶対主義にあるのだ。

さらに、イスラムは、イスラム帝国を、キリスト教徒は、世界のキリスト教制覇である。

妊娠中絶の、問題は、単なる、一つの、方法である。

そして、それを、誰が指揮するのか。
宗教指導者である。
彼らの、胸先三寸で、決まる。

宗教上の絶対主義がもつ負の側面を明らかにするなかで私は、中絶クリニックを爆破したアメリカのキリスト教徒と、アフガニスタンのタリバンに言及した。彼らの、とくに女性に対する一連の残虐行為については、あまりの痛ましさゆえに列挙することができなかった。
ドーキンス

聖戦主義者を突き崩す最良の方法は、イスラム教徒女性の反乱を引き起こすことだ。
ロンドン・インディペンデント紙の、コラムニスト、ジョアン・ハリ

旧約聖書の、女性蔑視は、半端ではない。
家畜以下の、存在である。

人間とは、男のことを言うのである。
つまり、女は、人間もどき、ということになる。
その、女性蔑視は、ただ事ではない。

勿論、ウーマンリブ行為などは、完全に、皆殺しにあうだろう。

「旧約聖書」の神は、おそらくまちがいなく、あらゆるフィクションのなかでもっとも不愉快な登場人物である。嫉妬深くて、そのことを自慢している。けちくさく、不当で、容赦のない支配魔。執念深く、血に飢え、民族浄化をおこなった人間。女嫌い、ホモ嫌い、人種差別主義者、幼児殺し、大虐殺者、実子殺し、悪疫を引き起こし、誇大妄想で、サドマゾ趣味で、気まぐれな悪さをするいじめっ子だ。
神がいるという仮説 より

日本のキリスト教、作家たちは、この、旧約聖書の神を、神として、受け入れ、それぞれが、旧約聖書について、非常に好意的に、書いているという、驚きである。
さらに、熱心に、その神に、祈りを、捧げるという、仰天である。
更に、驚くことは、日本の天照大神などを、神話、御伽噺の、神様と、信じきっていることである。しまいに、日本には、神不在などという、馬鹿げたことを、平然として言うという、様である。

日本に、このような、変な神観念が、なかったことが、実に、幸いであった。

旧約聖書には、近親相姦など、平然として行う人物が、登場するという、驚きもある。

兎に角、野蛮であるということは、疑い得ない。
それを、信奉している、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教である。

何度も言うが、そこにある、霊性というものを、考える時に、それは、魔界からのものと、判断する以外にないのである。

ヨブ記という、章があるが、神への信仰の篤い、ヨブの話であるが、どうみても、サドマゾなのである。
苦しみを与える神、それを、一つ一つ、耐え忍ぶヨブ、そして、最後の最後に、祈りは、聞き入れられるという、オチである。

それは、信仰深い者の、話なのであるかと、疑うが、そのように、解釈するという、教会の教えである。
このような、感受性を持つ、民族というのは、矢張り、生きた動物を、生け贄として、神に捧げる民族の、感受性なのである。
ちなみに、日本には、生き血を流すような、生け贄の儀式は、無い。

2008年03月27日

神仏は妄想である。55

あるいはキリスト教に話を転じれば、先にも触れたアメリカの「ラプチャー(携挙)」キリスト教徒を引き合いにだしてもよかった。彼らは、イスラエル人はパレスチナのすべての土地に対して神に与えられた権利をもつという、聖書にもとづいた信仰に支配されていて、アメリカの中東政策に重大な影響力をもっている。一部のラプチャー・キリスト教徒はさらに一歩進んで、核戦争を「アルマゲドン」と解釈するがゆえに、それを実際に待望しさえする。不安をかきたてられるほど一般によく知られた、彼らの奇妙な「黙示録」解釈によれば、アルマゲドンはキリストの再臨を早めるだろうというのだ。次に引用する、サム・ハリスの「キリスト教国への手紙」における身も凍るようなコメントに、私が付け加えるものは何もない。

したがって、もしニューヨークの市街が突然の火の玉に取って代わられたとき、アメリカの人口のかなりのパーセンテージが、そのあとに起こるキノコ雲のなかに、一条の希望の光を見ることになるだろう。なぜならそれは、いつか起こるだろうと思われていた最良のこと、すなわちキリストの再臨が、いままさに起ころうとしていると彼らに示唆しているからである。こういった類の信念が、私たち自身の永続的な―――社会的、経済的、環境的、あるいは地政学的にーーー未来をつくりだす上でほとんど何の助けにならないことは、疑いの余地なく明白だろう。もし米国政府の要人のうちの誰かが、世界はいま終末に近づいており、その終末は輝かしいものになるだろうと本気で信じていると想像してみてほしい。アメリカの人口のほとんど半数近くが、純粋に宗教的な教義にのみもとづいて、どうやらこれを信じているらしいという事実は、道徳的かつ知的な緊急事態とみなされるべきでろあう。

第8章 宗教のどこが悪いのか なぜそんなに敵愾心を燃やすのか?
信仰における「中庸」がいかにして狂信を育むか  より

知り合いの、カトリック信者の女性が、真顔で、キリストの再臨を望むというのを、聞いた時、私は、返答する、言葉がなかった。

それは、ノストラダムスの、1999年に、世が終わるという、妄想の解釈、による、終末思想と、同じ程度の、つまり、その程度のレベル、知的レベルであるということを、感じたからである。

早く、主が、来られることを。
何と言う、馬鹿馬鹿しい、ことか。
それも、聖書に、書かれてあるからである。
そして、その聖書が、どうのように、書かれたものであるかを、知らないのである。
聖書作者たちの、願望による、言葉である。

「私が雲に乗って来るのを、見るであろう」
雲に乗って来るのは、日本の神々であり、主イエスではない。
これは、冗談。

旧約聖書の、神が、雲に乗って来たことはない。
精々、芝の木の中で、光る程度であった。

それは、兎も角、何と言う恐ろしい、考え方であろうか。

聖書に、書かれてあるから、パレスチナ全土は、神に与えられた権利であるという。
こんな、無茶苦茶な、論法が通るとしたら、まさに、終末である。
つまり、解釈の仕様で、如何様にも、なるということである。

この無明は、悪魔的であるというより、魔界であり、破壊を、希求する、つまり、地球滅亡のシナリオである。

しかし、アメリカの様を、心配している日本ではない。

日蓮宗の一派は、国立戒壇をと、平気で言うのである。
つまり、日本の国教としての、宗教をと言うのである。

法華経を、奉じる、巨大新興宗教のみならず、日蓮宗は、日蓮の強情な教え、法華経のみ、正しいという、狂信に支えられて、一神教と、同じように、行為するのである。

一神教は、日本には、無いと、考えている人は、改めた方がいい。
日蓮は、すべての、他宗のみならず、日本の伝統である、古神道、神道までも、断罪し、一人悦にいって、法華経の行者と、任じたのである。

さらに、驚くべきことは、東から、仏の教えが、元に戻る。つまり、仏陀の地へ、行くとまで、妄想を、繰り広げたのである。

千葉の、寒村に生まれた、日蓮の、劣等意識が、ここまで、病んでしまったこと、気の毒に思えるが、鎌倉時代の、一現象として、見れば、納得がゆくが、それを、現代にまで、持ち越すのは、大きな無理がある。というより、誇大妄想に尽きる。

多くの新興宗教が、法華経を使用するのは、その、魔力であるから、認めるが、法華経が、誰によって書かれたのか。何を目的にしたのかである。

大乗経典という、文学である。
仏陀、最後の教えなどという妄想は、書いた本人が言うのか、後の人が言うのか。
何の根拠も無い。

更に、それは、漢訳されたものである。

ここに、大きな問題がある。
漢訳した者は、誰か。
何度も書いたので、省略するが、その、名訳に、迷ったのである。

妙法蓮華経、という、名訳を、作り上げた者は、誰か。

冷静に、判断して、南無「吾輩は猫である」とは、唱えない。
それと、同じことであると、言っても、理解出来ないだろうか。

したがって、自分のもつ宗教上の信念によって私のいう「時代精神」の啓蒙的な見解の一致のすぐ外側に出てしまう人々が存在する。彼らは、私が宗教的絶対主義の負の側面と呼んだものを代表しており、彼らはしばしば過激主義者と呼ばれる。しかし、この節で私が言いたいのは、穏健で中庸的な宗教でさえ、過激主義が自然にはびこるような信仰風土をつくりあげるのに手を貸しているということである。
ドーキンス

正気で、まともな人間を、狂気に駆り立てることが、できる、強い力は、宗教的な、信念以外にない。ということが、解るのである。

私は、再度、問う。
なぜ、人は、妄想の信念に、没頭するのか。
なぜ、知性と感性を、生かし、理性によって、行動しないのか。

人間の尊厳とは、何か。
人間であることの、最も大切な、知性を、何故、捨てるのか。

2008年03月28日

神仏は妄想である。56

わが西側の政治家たちはR(宗教)という単語に言及するのを避け、その代わりに、自分たちの戦争を「テロ」との戦いとして性格づけており、まるでテロが独特の意志や心をもつ一種の霊ないし力であるかのようである。あるいは、テロリストを純粋な「悪」に衝き動かされた人間として性格づける。しかし彼らは悪によって衝き動かされているわけではない。そう考えるようどれほど誤って導かれていようとも、彼らは中絶医を殺すキリスト教徒の殺人犯と同じように、自分たちが正義であり、彼らの宗教が語りかけることを忠実に追求しているのだと感じることによって、衝き動かされているのである。
ドーキンス

彼らは、正義であると、信じるのである。
つまり、それは、宗教が語りかけることを、忠実に追求する。
問題は、何か。
どんな、悪事も、宗教の信条に従うということで、彼らの中では、肯定される。

世界に、正義の数は、宗教の数だけあるということだ。
近代法、云々の問題ではないということだ。
国家の法より、宗教の教え、教義を、主として、行動するのである。

ここで、注意深く、考える必要がある。
人間は、知性と、感性により、理性によって、行動する存在である。
しっかりと、その教育が、なされていれば、バランス良く、正義の、有り様を、考えることが、出来る者である。

しかし、宗教は、その人間に、早いうちから、子供の、柔軟な、脳の中に、ある一つの定義を、植えつけるのである。そして、それを、至上命令の如くに、教える。

人間の尊厳と、自由とは、何か。

ドーキンスは、続ける。

彼らは精神異常者ではない。彼らは宗教的な理想主義者であり、自分なりに理性的なのである。彼らが自らの行為を正しいと感じるのは、何らかの歪んだ性格のせいではないし、悪魔に取り憑かれたせいでもなく、彼らが生まれ落ちたときから、全面的かつ疑いを抱くことのない信仰をもつように育てられてきたからなのである。

恐るべき、洗脳である。
しかし、それを、宗教教育と、掲げて、善として、教える。
また、宗教教育の必要性を、善として、認める。
日本の場合も、宗教教育により、人間性を、高めると、考える人がいる。
宗教法人が、経営する、学校は、宣教、布教を、柱に、掲げて、行われる。

キリスト教精神に、基づきとか、仏法に基づきとか、それが、人間性を、あたかも、高める如くに、喧伝される。

長年、大学にて、キリスト教を講義してきたという、牧師、教授の、回想録を、読んで、驚いたことがある。
信仰に生きることの、大切さと、人間性を、聖書に基づいて、教えたこと、そして、学生たちが、聖書の神への認識を深めたことを、誇っている。
そこには、批判の精神、つまり、知性と、感性を養い、理性により、行動する人間を、育てたのではないということ。
キリスト教の神を、拝む人を、養成することに、賭けた人生であることを、言うのである。

悪意ある霊を、神と掲げる聖書の、霊を、拝む人を、養成できたことを、誇るのである。

日本人ならば、自分が、信じているモノを、人に、勧める、あるいは、押し付けるということは、基本的に、僭越行為であると、認識する、能力を、持つ。
それは、極めて、個人的な行為であると、知っている。

私の家の神があるならば、そよ様の家の神もあると、知っている。

郷に入れは、郷に入り、粛々と、他人の信仰に、抵抗せず、無視しない程度に、従う作法がある。

それが、実に、理性的な行為なのである。

―――これらの人々は、自分たちが信じていると言うことを実際に信じているということである。宿題として持ち帰るべきメッセージは、宗教上の過激主義を責めるーーーあたかも、それが、本物のまっとうな宗教が堕落してできたおぞましい変種ででもあるかのようにーーーのではなく、宗教そのものを非難すべきだということなのである。
ドーキンス

ヴォルテールがはるか昔に正しく理解していたように、「不条理なことをあなたに信じさせることができる人間は、あなたに残忍な行為にかかわるようにさせることができる」バートランド・ラッセルもそうだった。「多くの人間は、考えるよりも先に死んでしまうだろう。実際、彼らはそうしている」。

宗教の布教は、実に、暴力的である。精神的な暴力である。

キリスト教は、罪意識を、強調して、人を追いつめたところで、神の救いを説く。
日本の新興宗教の多くは、現世利益を強調する。

病にある人や、心弱い人を、狙って、布教活動をしていた、多くの宗教を、知っている。

兎に角、良くなる、回復する、開運する、道が開ける、運勢が向上する、ありとあらゆる、甘言を用いて、勧誘する。
天理、金光、大本はじめ、仏教系の新興宗教等々、更に、歪な新興宗教、科学的であると、喧伝する、新宗教、教祖の偽の、霊能力を全開しての、宗教とは、言えない、稚拙な教義を持つ新宗教等々。

人の弱みに、付け込むという、実に、卑劣な、方法を、持って、差し出がましく、やって来る。
勿論、それに、騙される人多数。

甚だしいのは、最初から、戦う姿勢で、論破するという、折伏などと称する、狂信の新興宗教もある。

私は、歴史上、仏陀が、最も宗教的人間だと、知っている。
それは、生き方指導、生活指導を、説いて、地に足のついた、人間愛を、行為したからである。
仏という、オリジナルを、想定して、それを、目標に、生き方指導を、繰り返した。実に、平和的に、である。
それは、人間に対する、深い洞察力である。
限りある、人生を、味わい深く生きるべく、心というものの、有り様を、捉えて、生きる姿勢である。

仏陀を、支持出来る、大きな理由は、奇跡を、行わなかったからである。

更に、ここが、孔子との、分岐点であるが、鬼神を知らない孔子であったが、仏陀は、知っても、それを、知る必要を、説くことがなかった。
霊と、霊界についても、触れなかった。

それなのに、その生きる姿勢に、人は、心曳かれて、仏陀の元に集ったという、事実である。

人からの、恨みも、憎しみも、受け取らないという、平和的行為を持って、人の心に、語り掛けた。
それは、宗教行為ではなく、宗教的行為であり、伝統と、なった。
仏教とは、伝統なのである。
いずれ、また、書くので、以下省略する。

宗教上の信念は、それが宗教上の信念であるという理由で尊重されなければならないという原則を受け入れているかぎり、私たちは、オサマ・ビン・ラディンや自爆テロ犯が抱いている信念を尊重しないわけにはいかない。ではどうすればいいのか、といえば、こうして力説する必要もないほど自明なことだが、宗教上の信念というものをフリーパスで尊重するという原則を放棄することである。それそこが、私がもてるかぎりの力をつくして、いわゆる「過激主義的な」信仰に対してだけではなく、信仰そのものに対して人々に警告を発する理由の一つなのである。「中庸な」宗教の教えは、それ自身には過激なところはなくとも、門を開けて過激主義を差し招いているのである。
ドーキンス

加えて、私の霊学の立場は、この世の宗教の信念というものは、霊界とは、全く関係ないということである。

以下省略。

神仏は妄想である。57

キリスト教は、あるいはイスラム教でも事情はまったく同じことであるが、疑問を抱かない無条件の信仰こそ美徳であると、子供たちに教える。こと信仰の問題に関しては、自分が信じていることを論証する必要はない。もし誰かが、それは自分の信仰の一部であると宣言すれば、その社会の残りの人間は、同じような信仰をもっていようが、別の信仰をもっていようが、あるいは無宗教だろうが、根深い慣習によって、疑問を発することなくそれを「尊重」するよう強いられる。ただしそれは、世界貿易センタービルの破壊、あるいはロンドンやマドリードの爆破事件などにおける大虐殺という形でその信仰が表明される日がこないかぎりのことである。そういう事態が起きたいま、この過激主義が「真の」信仰からの逸脱であると説明するために、聖職者や「共同体の指導者」(ついでながら、誰が彼らを選んだのか?) たちが雁首を揃えて、自分たちにはかかわりないという大合唱がなされている。しかし、もし信仰が客観的な正当化の理由を欠き、何が逸脱かについていかなる明白な基準ももたないのであれば、そもそも信仰の逸脱なるものがなぜ存在するのか?
ドーキンス

この疑問に、明確に答えられる、聖職者、及び、指導者は、いない。

テロリストたちより、よほど、性悪なのは、彼らだからである。

自分たちの、手は、一切、汚さなくていいのである。皆、信者が、それを、行う。

サリンを、撒かせた、教祖は、たらふく食い、居眠りをして、最悪の、事態を引き起こした。その、教祖と、何ら、変わらない。
恐るべき、悪人である。極悪人とも、言う。

3月6日、エルサレムのユダヤ教神学校に、パレスチナ人が、侵入し、銃を乱射して、8名が死亡、約10名が、負傷した。
政治の問題ではない。
宗教の問題である。

二月下旬に、イスラエル軍が、ガザ地区に、攻撃して、120名が、死んだ。それの、報復である。

更に、同じ日に、バグダッドでも、連続テロにより、55名が死亡。
問題は、宗教である。

さて、日本は、それらを、遠い話と、聞いている。
しかし、もし、本格的テロ攻撃が、開始された場合、特に、世界的メッセージをテロリストが、発する場合、日本攻撃が、最も有効であることを、知っている。
何故か。
日本には、同胞が、少ないからである。
大規模テロは、同胞をも、巻き込むのである。
それを、最小限に食い止める大規模テロは、経済大国、日本である。

大規模テロとは、核兵器を使用する、テロである。

万が一、それが、実行されると、即座に、中国、北朝鮮、ロシアが、日本攻撃を開始する。

日本人は、大陸の人種の、野蛮さを、知らない。

話を戻す。

本当の意味で有害なのは、子供に信仰そのものが美徳であると教えることである。信仰は、それがいかなる正当化の根拠も必要とせず、いかなる議論も許さないという、まさにその理由によって悪なのである。
ドーキンス

宗教の蒙昧は、救いようが無いのである。
例えば、鎌倉仏教の、日蓮である。
他宗を、すべて、排斥して、これのみ、正しい、これのみ、唯一の、仏法として、法華経を、掲げた。
それは、真っ当な、批判ではない。
単に、あちらではなく、こちらである、という、挿げ替えを行っただけである。

そっちを、拝めば、不幸になる。こっちを、拝めば、幸せになる。という、程度の、認識である。
それが、今では、大聖人と言われる。

法然、親鸞が、島流しにされたのは、単に、既成集団の、嫉妬であるが、日蓮の場合は、混乱を、招くとの、良識ある、僧侶たちの、排斥である。
それを、御受難として、捉える。

勝手な解釈、勝手な妄想は、宗教家の、独断場である。
何ほどの、艱難辛苦も、法華経がためり。
今、日蓮が、法華経を、云々しなければ、日本は滅びる、云々。

手が付けられない。

キリシタン弾圧当時の、キリシタンと同じく、盲信、妄信、狂信の様である。

死ぬまでの、暇つぶしに、心の大半を、それに占領されて、人生の真実を、見ずに、死ぬという、あまりにも、愚昧な行為を、犯す。

他宗教を、鼻でせせら笑うという、傲慢極まりない人格を、養成されて、自己陶酔に、浸るという様、憐れである。

それは、一神教すべてに、言えるのである。

子供に、疑問を抱かない絶対的な美徳であると教えることは、彼らにーーー手に入れることがむずかしくないいくつかの他の要素が与えられればーーー、将来のジハードまたは十字軍のための潜在的な凶器となるべく育つ素地を与えることにほかならない。殉教者の天国を約束されることによって、恐怖に対する免疫力を与えられた正真正銘の狂信者こそ、長弓、軍馬、戦車、クライスター爆弾などとならんで、武器の歴史において高い地位を占めるに値するものだ。もし子供たちが、疑問を抱くことのない信仰という高い美徳を教えられる代わりに、自らの信念を通して疑問を発し、考えるように教えられれば、自爆者はきっといなくなるだろう。
ドーキンス

信仰とはきわめて危険なものになる可能性を秘めたものであり、罪もない子供の抵抗力のない心に、意図的にそれを植えつけるのは重大なまちがいである。
ドーキンス

私は、ドーキンスが、いいたかったことの、すべてを、上記の言葉にみる。
21世紀を、生きる子供たちに、幸せでいて欲しいと願えば、ドーキンスは、渾身の力を込めて、それを、説こうとするだろう。

目覚めて、祈れ、と、イエスキリストが、聖書の中で言う。
それは、セクトの宗教団体の、言葉であるが、目覚めて、祈れとは、疑問を持ち、自分の信念を、よく見て、行為せよという、意味である。
つまり、人間の知性を、覚醒させ、感性を磨き、理性によって、行為、行動する人間たれ、ということである。

その一つ、たった一つに、宗教の教義等もあり、それは、信仰するものではなく、一つの知識として、活用するものであること。

この世に、絶対という言葉は無いとも、キリストは言う。
その通りである。
この世に、絶対という、モノは、無い。あるわけが無い。

2008年03月31日

神仏は妄想である。87

バートランド・ラッセル「私が信じるもの」より

私は、自分が死んだら腐り、私の自我の何一つとして残らないだろうと信じている。私は若くはないし、人生を愛している。しかし私は、自分がこの世から消えてなくなることを考えて恐怖に震えるなどという人を嘲らずにはいられない。幸福にはかならず終わりがあるといっても、それが本物の幸福であることに変わりないし、永遠につづかないからといって、思考や愛がその価値を失うわけでもけっしてないのである。多くの人間が刑場で誇り高く振舞ってきた。きっと、同じ誇りが私たちに、人類が世界の中で占める地位についてどう考えるべきかを教えてくれるに違いない。昔ながらの人を導く神話のぬくぬくした世界に、科学によって開けられた窓から冷たい風が吹き込んで、たとえ私たちを震えあがらせたとしても、最終的には、新鮮な空気が活力をもたらし、広大な空間はそれ自体のすばらしい輝きをもつようになる。

マーク・トウェインの言葉

死んでいるのは生まれていないのと何のちがいもないだろう。

上記、ドーキンスが、引用する。

死ぬことは、消滅すること。
何も無くなること。
死後の世界は無い。
等々、人間の死に関して、科学は実に冷静である。

死後の世界が無いということになれば、おおよそ、すべての宗教の意味は、消滅する。

死ねば、消滅する、無くなる、死後の世界は無い。
その通りである。

この次元では、その通りである。
次元を別にするのであるから、この次元にいたことは、消滅する。死後の世界というものも無い。
次元の違う世界は、死後の世界ではない。

次元を、別にした世界である。
その次元は、断絶している。
ただし、三次元に、二次元、一次元が、含まれているように、四次元には、三次元が含まれている。

霊学の、私の立場から言う。
次元の差は、隣にいても、永遠に遠い。

おおよそ、宗教、それに準じるものは、死後の世界や、霊について、云々する。

迷う先祖の霊が、子孫に助けを求めて、云々。
それにより、病も起こる。
先祖を供養することで、病が、癒えて、運も好転する。
実際、そういう体験をする者、宗教に多い。

奇跡もどきの、ことが、起こる。

眼が暗くて見え難いというようなのは、近親者の霊魂が霊界へ往ってまだ迷っておって、暗黒の冥府―――光の無いくらい世界―――に居る。そんな霊魂が暗い世界に向かって「救われたい」と念ずると、その「念力」すなわち精神波動が、丁度テレビ局の放送の電波みたいになってやってくるわけです。それで暗い精神波動を常に放送するわけですから、それを受信感応した人は光が見えないで暗く見えることになるわけです。
人生を支配する先祖供養 谷口雅春 成長の家創立者 より

もっともらしく、素直に受け入れると、本当だと、思う。
霊魂が、迷う。それが、救いを求める。そして、念ずる。それが、この世の人に、感応する。そして、病になる。

心理学、脳科学は、それに、答えを出すことが出来る。

それらは、すべて、主観である。客観性がない。
そのような、カラクリ、意味があるという、信念が、病を、癒すのである。

彼らは、病は、無いという。すべては、影だと言う。
人間、本来神の子であり、完全である。実相世界のみ、本当の世界である。この世は、仮りの世界である。

実相世界とは、霊界のことである。
あちらを、主、こちらを、従に、見立てる。
様々な、霊的現象を、元に、そのような、考え方を、作り出したのであろう。

否定はしない。
それも、一つの考え方である。

医学で、解決出来ないことは、霊魂による。
確かに、突然、病が、癒えるということもある。
先祖供養しなくても、癒えることがある。

神霊治療として、名を馳せる宗教団体もある。
すべて、霊障害であると、断定する。

否定はしない。

極めて、解り易く言う。
マイナス波動と、プラス波動である。
マイナス波動を、脳内に持つ人は、そのように、なる。それを、受ける、という。要するに、受信するという、言い方をする。

極めて、ありそうに思える表現、この世は、仮の世界で、霊界が、実相世界であると。

霊主体従と言い、霊が主で、体が、従だと、公言して憚らない、宗教である。

在り得ない。
体は、そのまま、霊である。
どちらが、主とか、従とかは、無い。

霊を、感じる、見る、とは、すべて、主観である。
その人の内で、起こることである。

磁気の乱れというものがある。霊的なものとは、磁気の乱れである。

霊学から言えば、霊的なものの、影響を、考えるが、この次元では、この次元の物事である。霊界を、関与させては、誤る。

次元違いは、隣にいても、永遠に遠いと、言った。

ちなみに、教祖で、最も、教祖たる、仏陀は、霊的なことを、一つも言わないのである。
霊界についても、触れない。
何故か。
必要ないからである。

この世で起こることは、この世で、解決するのである。
生老病死とは、この世の姿である。

暗い霊界で、救いを求めている霊とは、妄想である。
もし、そうであるならば、それは、宇宙の法則、自業自得であり、それを、解決するのは、その、霊のみである。

自ら、赴く所に行くのである。

病が癒えるのは、別問題である。
脳波による。
聖教読経して、癒えるとは、脳波の、心得の、変化である。
だから、否定しないと、言う。

寒い地方にいて、寒さからの、病にある人が、南の島で、暮らして、病が癒えるという。
環境を変えた、脳波の、変化である。

酷い肩凝りの人を、霊視して、肩に、きつねの霊がついていると、それを、取り除いて、肩凝りが治ればいいが、心臓病の前兆、それも、大きな心臓病の前兆である場合がある。
医学が、進歩しなかった時代なら、それは、通用するが、矢張り、心電図をとり、対処すべきである。

人間の、想像力とは、無限に広がる。
人道的問題はあるが、ヒトゲノム解読により、一生の病が、見て取れる。

霊学から、言う。
次元の違う、世界のこと、この世の云々に、堕落せしめては、誤るのである。
病の辛さにあるものを、見つめ続ける行為に、人間の尊厳がある。
決して、供養では治らない病を、彼らは、何と言うのか。

2008年04月01日

神仏は妄想である。59

世論調査によれば、米国の全人口の約95パーセントが自分は死後も生き続けるだろうと信じているということだ。そのような信念を心のなかに抱いていると公言する人間がそんなにもたくさんいることに、私は驚きを禁じえない。
ドーキンス

つまり、ドーキンスは、死後の世界は、無いということなのである。
私の、霊学と、矛盾するか。
しない。
この世の延長に、死後の世界は、無い。
次元を、別にする世界である。
これについては、更に、後に、詳しく書く。
何故、ドーキンスが、上記のことを、言うのかは、以下である。

もし彼らが本当に嘘偽りなくそう思っているのなら、彼らはアンプルフォース修道院長のように振舞うべきではないだろうか? ベイジル・ヒューム枢機卿が自分が死ぬといったとき、この修道院長は彼のために大喜びした。「おめでとうございます。これは素晴らしい報せです。私もおともしたいくらいです」この修道院長は本当に嘘偽りなく信じていたように思われる。しかし、この例がまれで予想外なものであればこそ、私たちがそれに注目し、ほとんど面白がりさえする。ということになるのだ。―――実際にこの話は、若い女性が真っ裸で「戦争する代わりに愛し合おう」という旗印を掲げ、その横にいる人間が「これこそ、私が誠実と呼ぶものだ」と叫んでいる漫画を思い起こさせる。なぜすべてのキリスト教徒やイスラム教徒は、友達が死にそうだと聞いたときに、この修道院長と似たようなことを言わないのだろうか? 
ドーキンス

つまり、死後の世界、とりわけ、天国に入ると、信じる者は、死ぬことは、大喜びになること、間違いなしであろうと、言う。

なぜ、信仰をもつ人々は臨終の席で、このように語らないのだろうか? 彼らは自分が信じているふりをしている代物を実は一つも信じていない、ということなのだろうか? ペットとちがって、苦痛を感じないように安楽死させることが許されていない唯一の種がヒトである。ということを考えれば、もっともなことかもしれない。しかし、もしそうでなければ、安楽死や自殺幇助にもっとも声高な反対の声が宗教から出てくるのはなぜなのか?

信心深い人々がこの世での生にみっともなくしがみつくというのはまずありえないことと予想してしかるべきではないのだろうか? しかし、安楽死にはげしく反対する、あるいは自殺幇助を激しく批判する誰かに会ったとき、その人が信仰をもつ人であると判明する確立がかなり高いというのは、衝撃的事実である。表向きの理由は、あらゆる殺人は罪だということかもしれない。しかし、天国へ旅立つ時期を早めているのだともし心底から信じているならば、なぜそれを罪とみなすのだろう?

真っ当な、疑問であり、やや、意地悪な、疑問である。
信仰深い人に、限って、死を恐れるということ、あまりにも、多いのである。

歎異抄でも、親鸞が、本当は、弥陀の元に行けるという、死を、喜ぶはずだが、喜べないのは、何故かと、問う。
その訳は、罪人だからであると、言う。

唯円の文章は、名文であるから、原文を、載せたいが、あまりに、気の毒なので、省略する。

罪人だから、死ぬのを、恐れて、弥陀の元に行くことを、拒むという、どうしようもない、人間の罪深さであると、考えるところに、心の病がある。

思索を、深くすることは、よいことであるが、それに、酔うな。

死にたくないのは、死にたくないので、いいのである。
それを、罪深いから、そう思うのだという、自虐は、病である。

それとも、親鸞は、もっともっと、深く物を考えていたというのだろうか。
頭が悪かっただけである。

更に、ズレていたのである。
おおズレである。
頭が悪くて、ズレていたら、拘る拘る。そして、その思索に、振り回され、更に、出口を見出せず、一人相撲を取って、死ぬ。
ただ、自分を、大愚と、呼んだのであるから、まだ、救いがある。
その通りである。

後の世の人、親鸞を、考えて、思索に、似たような、ことをするが、頭が悪ければ、そのままでいい。
それは、深さではなく、頭の悪さである。

征服王ウィリアムの時代、恐竜の時代、あるいは三葉虫の時代にいたとしても、私は私だっただろう。そこには何も怖れることはない。しかし、死んでいく過程は、運が悪ければ、苦痛に満ちた不愉快なものになる可能性も十分にあるーーー私たちは、虫垂炎を切除してもらうときのように、その種の苦痛を体験することからは、全身麻酔で保護されるのが慣わしになっている。―――
しかしもし医師が、あなたが苦しみながら死にかけているときにまったく同じ慈悲にもとづく処置を施せば、彼は殺人罪で起訴されるリスクを冒すことになる。私は自分が死ぬときには、虫垂炎の場合と同様、全身麻酔のもとで命を取り出してもらいたいと思う。

ドーキンスが、悟った者であること、明々白日である。

私は私だっただろう。
いつも、私は、私である。
いつの時代も、私は、私だった。
これを、悟りと言う。

死んでいるのは生まれていないのと何のちがいもない
マーク・トウェイン

科学者は、悟りと、遠いと、思う人は、考えを、改めるべきである。
科学者こそ、悟り得るのである。

私たちのなかに安楽死や自殺幇助に反対する者がいるとすればそれは、死を移行としてではなく終末として見る人間だろう。
ドーキンス

更に、ドーキンスは、死を恐れるのは、信仰を持った人間に多いという、事実を言う。

喜んで神の元に行けない人の群れ。信仰者の群れである。

勿論、妄想の天国であるから、そんな所は、霊界に無い。
この世から、おさらばするということは、虚無に帰すということである。
霊界は、別次元である。
この次元に無いということは、無くなるということである。
科学者は、冷静に、それを、知る者である。

2008年04月03日

神仏は妄想である。60

煉獄の教義は、神学的精神がどのようにしてはたらくかについて、馬鹿馬鹿しい事実を暴露してくれる。煉獄は、神の国において一種のエリス島(ニューヨークにあり、かつての移民局がここに存在し、移民を希望する入国者はここで選別を受けた)のような役割を果たす。地獄に送られるほどの悪い罪を犯していない死んだ魂が行く、黄泉の国への待合室である。しかし罪人のいない天国に入ることを許されるまでには、もう少しばかり矯正的な審査と浄化が必要である。中世においては、教会はよく金で買える「免債」を発行していた。これは、煉獄にいる日数を何日か免じてもらうために金を払うのであり、教会は文字通り(私は僭越にもほどがあると言いたい)購入された減刑日数を書き込んだ署名入りの証明証「免罪符」を発行した。こうした不正利益のために「不浄」という表現が発明されたのではないかと思われるのが、ローマ・カトリックという組織である。金を稼ぐためのあらゆる詐欺行為のなかでも、免罪符の販売こそ、ちまがいなく歴史上、最高に位置するペテンであり、ナイジェリア・インターネット詐欺の中世版に相当するが、こちらのほうが、はるかに成功をおさめた。
ドーキンス

上記、恐るべし、宗教というものの、正体である。

皆々、宗教とは、上記のような、金集めをするのである。
問答無用に、そうである。

何という、馬鹿馬鹿しいことをと、思っても、信じる者は、騙されるのである。
喜んで、金を払うという、愚かさ。

日本の宗教も、同じく、家計が苦しいから、ご供養に、金を出すことを言うのである。
生活が、苦しいほど、献金をする。そうすれば、福がもたらされる。
このように、説いて、信者から、金を集める宗教は、数限りない。

更に悪いのは、信者から集めた金の、数パーセントを使い、慈善事業をしているように、見せかけるという、あくどさである。
信者も、社会も、それに、騙されるのである。

どうしようもない、罪人、それが、宗教組織である。

宗教と、名のつくもの、すべてが、そうであると、言っても、間違いではない。

凶悪事件を、起こす宗教のみならず、精神的凶悪事件を、皆々、起こしているのである。
どんなに、立派な宗教であると、言えども、そこから、のがれることは、出来ない。
つまり、宗教を作るということは、詐欺組織を作るということと、同じなのである。

カトリック教会は、日本にて、学校、福祉施設、病院等々の、社会的活動をする。
キリスト教精神に則って、活動する。
その金は、どこから、出るのか。
世界中の信者の金から出る。

それが、評価出来るということではない。その程度で、人や社会は、騙されるということである。

ドーキンスは、それらの実に、馬鹿馬鹿しい、証拠を書くが、省略する。

煉獄の教義が私を本当に魅了するのは、神学者がそのためにもちだす証拠である。その証拠は目を見張るほど薄弱なものなので、それが断言している空虚な確信をさらに滑稽なものに感じさせてしまう。「カトリック百科事典」の煉獄の項目には、「証拠」と題する節がある。煉獄の存在を示す基本的な証拠は次のようなものである。もし死者が、現世における罪をもとにして単純に天国または地獄に行くのであれば、彼らのために祈る必要が無いということである。「もし、神の眼差しをまだ注がれていない者たちに施しを与える力を祈りがもっていると信じないのであれば、何の理由で死者のために祈るのか」。だが私たちは実際に、死者のために祈っている。そうでしょう? 証明終わり。冗談抜きに、これが神学を扱う専門家たちのあいだで理屈として通用しているものの一例なのである。

実は、私も、少年の頃、教会で、煉獄にいる、霊のためにと、祈っていた。
そう、教えられた。

日本のお盆に、当たる、死者の月が、10月である。
その月には、ロザリオの祈りを、煉獄の霊のために、毎日のように、祈るのである。
ロザリオの祈りとは、聖母マリアに対する祈りである。
聖母マリアに、取り成してもらう、祈りが、ロザリオの祈りという。

聖母出現の土地では、更に、ロザリオの祈りが大切にされる。

その、出現の聖母が、プロテスタントの信者を、カトリックに改宗させる、メッセージを発するという、面白いことを言う。

勿論、誰も、それを、聖母であるとは、知らない。
悪霊の場合もある、と、言っておく。

カトリック信者の中でも、あれは、良い聖母、あちらは、間違った聖母などいう、話がある。ローマ法王庁が、認定しないと、駄目である。

その際は、特に、奇跡の認定が、決め手になる。
その最大の特徴は、病が、癒えるというものである。

ご多分に漏れず、宗教の宣伝文句は、病が癒えるである。

イエス・キリストも、病を癒すのである。
単純明快である。

そして、最大の奇跡は、死後の復活である。

このような、奇想天外のお話を、信じることによって、キリスト教徒となる。

イエスは、雲に乗って、天に上がられたのである。
そして、いつか、雲に乗って、この世に、来るという、妄想。

雲に乗るのは、日本の神々であるが、違うらしい。
冗談です。

この驚くべき不合理な推論がさらにスケールアップされた上で、もう一つの一般的な神の存在証明である。(慰めからの論証)の展開に反映されている。神は存在するにちがいないと、この議論は進む。なぜなら、もし存在しないならば人生は空しく、無駄で、不毛で、無意味で取るに足りないことばかりの砂漠になってしまうだろう。この論理が最初の障害物で破綻していることを、わざわざ指摘する必要がどうしてあるのだろうか? ひよっとしたら人生は空しいかもしれない。ひよっとしたら私たちの死者への祈りは無駄かもしれない。そうではないと仮定するのは、証明しようとしている結論が真実だと仮定することである。この三段論法と称するものは、見え見えの循環論法である。・・・

自分が息災であるのはほかの誰かのおかげにちがいなく、もし自分が怪我をすれば、ほかの誰かが非難されなければならない。神なるものを求める「欲求」の背後に本当に横たわっているのは、このような幼児性ではないだろうか? ・・・

誠に、私は言う。
幼児性である。

思考法には、三段階がある。
外省、がいせい、思考である。
事が起こるのを、すべて、他のせいにして、考える思考法である。

そして、反省思考である。
通常の成長をすれば、反省思考になるのだが、今は、実に、少ない。
私も、悪かったし、相手にも、誤りがある、注意しょうと考える。

次に、内省、ないせい、思考である。
この事態は、私に、何を教えるのであろうかと、考える思考法である。

宗教は、残念ながら、外省思考である。
すべて、神仏に、帰納する。

実に、幼児性である。

超えられない苦しみを、神は、与えたもうはずがない。
誰も、苦しみなど、与えていない。
自業自得であろう。
しかし、敬虔なクリスチャンになると、特に、そう言うのである。

自分が、種を蒔いたことでも、神のせいにするという、アホ、馬鹿である。

幼児性と、妄想性による、撹乱を、起こす。
その名を、宗教と、呼ぶ。

神仏は妄想である。61

私は「虹の解体」で、DNAの文字の組合せによって潜在的に生れ落ちることができたはずの膨大な数の人間が実際には生まれないということを考えると、私たちが生きているということがどれほど幸運であるかを伝えようと試みた。その一環として、ここに存在するだけで幸運な私たちのために、巨大な時間の定規の上をゆっくりと進むレーザー光線のスポットライトを思い浮かべることで、人生の相対的はかなさを描いた。スポットライトの前あるいは後ろにあるすべてのものは、死せる過去の闇、あるいは未知の闇に包まれている。私たちは、このスポットライトのなかに自分がいると知るだけで途方もない幸運である。
ドーキンス

これは、神は妄想である、の、最後の章の、最終である。

科学者が、総力を上げて、人生の相対的、はかなさを、描いたという。

生きているという、スポットライトの中にいるということが、途方もない幸運であると、いう。

たゆみない、知性と、感性の、磨き、そして、理性によって、人間は、自立した、人間になるのである。

私たちが太陽のもとにいられる時間がどんなに短くとも、もし、その一秒でも無駄にすること、あるいはそれが退屈だとか、不毛だとか、あるいは(子供のように)つまらないとか不平を言うのは、そもそも生命を与えられることさえなかった無数の生まれなかった者たちへの、無神経きわまる侮辱ではないだろうか?

科学者の、謙虚さを、十分に知る、文章である。
さらに続けて

多くの無神論者が私よりももっとうまく言ってきたように、私たちがたった一つの命しかもたないという知識は、命をいっそう貴重なものにするはずだ。無神論者のこの見方は、人生の肯定という態度に通じるものだが、同時に、生命はこの私に何か借りがあるはずだと感じている者たちの、自己欺瞞、希望的観測、あるいは自己憐ぴんの泣き言には染まっていない。

自己欺瞞、希望的観測、そして、自己憐ぴん、とは、宗教のことである。

知識ということの、本当の意味は、上記のことを言う。
妄想の、教義、教理、教学による、知識ではない。
それは、知識とは、呼ばないのである。

知識とは、裏付けられるものである。

もし、神の消滅が隙間を残すのであれば、それぞれの人がちがったやり方でそこを埋めるだろう。私の選ぶやり方には、科学をふんだんに用いた、現実世界についての真実を見つけだすための誠実かつ体系的な営みが欠かせない。

実に、説得力のある言葉である。
まったくもって、宗教には、無い、言葉の数々である。

私は、宇宙を理解しようとする人間の努力を、モデル形成の試みとして見ている。私たちの一人一人は、自分の頭のなかに、自分がいる世界のモデルを築き上げる。世界の最小モデルは、私たちの祖先がそのなかで生きのびるのに必要なモデルである。このシュミレーション・プログラムは自然淘汰によって構築され、修正されたもので、アフリカのサヴァンナにすんでいた私たちの祖先が慣れ親しんでいた世界、すなわち、中くらいの大きさの物体が、互いに中くらいの相対速度で動いている三次元の世界に、もっとも熟達したものである。予想外のおまけとして、私たちの脳は実は、祖先が生き残るために必要とした凡庸な功利主義的モデルよりも、はるかに豊かな世界モデルを収容できるほど強力なものであった。芸術と科学は、このおまけの暴走がもたらす現われである。

芸術と、科学である。
決して、宗教とは、言わない。

私は、宗教は、芸術の変形、あるいは、逸脱、あるいは、狂いと、観るものである。
芸術的情熱と、宗教的狂信は、非常に近い。

さて、ドーキンスは、量子論についても、書く。
それは、多宇宙についてである。

実は、私は、多次元の世界の証明を、量子論に、期待していた。
しかし、事情は、違った。

それは、次に書く。

ここで、言いたいことは、宗教や、神学等々の、虚妄であるとうことだ。
頭で、考えたことは、単に、それだけのことであり、何の、根拠も、証明も、出来ず、客観性も無いということである。

創造性とは、芸術である。
よって、宗教の、ものの考え方は、創造性の、何物でもない。

人間が、作り出した、ものである。

神も、仏もである。
人間が、創造したもの、それが、神であり、仏である。
ゆえに、神仏は妄想である。

知らないことの、隙間を、埋めるための、神仏の創造は、限りなく、不毛である。

その、根拠を、埋めるための、奇跡というものは、科学で、解明される。
知らないだけである。

キリスト教宣教師が、未分化な、土地に行き、細心の、発見により、持つ、科学的道具により、未開の人を、撹乱させた。
それは、未開の人が、知らないことだったからである。

知ってしまえず、当たり前のことである。

宗教の妄想も、知ることで、妄想であることは、明白である。

ゆえに、私は、神仏は妄想であると、言う。

2008年04月06日

神仏は妄想である。62

量子力学が、霊界の存在、あるいは、多宇宙について、画期的な、存在の様を、証明するのではないかと、私は、期待していた。
ところが、トーキンスに言わせると、そうでもないらしいのである。

量子論があまりにも奇妙なのか、物理学者たちは何らかの矛盾した「解釈」に頼ろうとする。
ドーキンス

「多宇宙」解釈によれば、ある宇宙ではネコは死んでおり、別の宇宙では生きているということになる。どちらの解釈も、人間の常識や直感を満足させるものではない。しかし、力技の得意な物理学者たちは気にしない。問題は、その数学がうまく機能し、予測が実験によって達成されることである。私たちのほとんどが、彼らのやっていることをフォローすらできないのは、ふがいないことだ。結局、私たちは、「現実に」起こっていることについて、何らかの連鎖の視覚化というものがともなわなければどうにもならないらしい。
ドーキンス

連鎖の視覚化という。
つまり、はやい話が、目に見えない物である。目に見えない物でなければ、どうにもならないという。
科学的姿勢とは、そういうものである。
何の、違和感も無い。

更に、目に見えない物も、目に見える方法によって、目に見えるようにするのが、科学の姿勢である。それで、多くの、目に見えない細菌等々を、発見し、人類に貢献した。

私の立場である。
私は、霊学を、持つものである。
つまり、目に見えない世界というものを、考える立場である。
それは、多く、心理的状態によって、知る得るものであり、それは、心理学の分野で、おおよそ、解決される。
しかし、どうしても、それでは、解決できない問題もある。

だが、ギリギリのところまで、私は、ドーキンスを支持する。

私たちが進化した限られた世界では、小さな物体のほうが大きな物体よりも動いている可能性が大きく、大きいほうは動く際の背景と見られる。世界が回転するにつれて、近くにあるために大きく見える物体―――山、樹木、建物、そして地面そのものーーーは、太陽や恒星のような天体との比較で、互いにまったく同調して、観察者とも同調して動く。私たちの進化によって生じた脳は、前景にある山や樹木よりも、そうした天体のほうが動いているという幻影をつくりだすのである。
ドーキンス

ここに、重大な問題が、隠されている。
奇跡の、問題である。
互いに同調して、観察者とも、同調して動く、という。

つまり世界がなぜいま見えているように見えるのか、そして多くの事柄は直感的に把握しやすいのに、別の事柄は把握しにくいのはなぜか、といったことがあるのは、私たちの脳それ自体が進化によってつくられた器官だからという点をさらに突っ込んでみたいと思う。私たちの脳は、世界で私たちが生き残るのを手助けするために進化した搭載型コンピューターであり、その世界―――私はミドル世界という名を使うつもりであるーーーでは、私たちの生存にかかわる物体は極端に小さいことも、極端に大きいこともない。そこでは事物はじっとして立っているが、光速に比べればゆっくりとした速度で動いているかである。そしてそこでは、非常にありえなさそうなことは、起こりえないこととして処理しても問題はない。私たちの精神的なブルカの窓が狭いのは、私たちの祖先が生き残るのを助ける上で、それを広げる必要がなかったからなのである。

ブルカというのは、イスラム教徒の女性が、かぶる顔を覆う布のことである。
つまり、私たちの、ブルカの窓とは、視野のことである。

私たちの脳は、その体が自分の動き回る規模での世界の様子を知るのを助けるように進化してきた。私たちは、原子の世界を動きまわるようにはけっして進化してこなかった。
ドーキンス

ミドル世界で進化した私たちは、「一人の将校が、将校たちや他のミドル世界の物体が動く中程度の速度で動いていくとき、壁のような別のミドル世界の固い物体と衝突すれば、彼の前進は、苦痛をともなって阻まれる」といった事柄なら、直感的に、容易に把握できる。しかし、私たちの脳は、ニュートリノが壁を、つまりその壁を「現実に」構成している広大な瞬間の中を、どんなふうに通り抜けるかを想像できるようにはつくられていない。また私たちには、ものが光速に近い速さで動くとき起こる事態にうまく対処する知覚能力も備わっていないのだ。

ドーキンスは、実に、重大な、人間の認識能力について、語るのである。

これ以上の、引用は、避けることにする。

私は、ここで、ドーキンスが、最後に、最後の章で、奇跡の、有り得なさについて言う言葉を、聞く。

ありえなさの一方の極には、私たちが不可能と呼ぶまだ起こっていない出来事がある。軌跡とは極度にありえないような出来事である。マリア像が私たちに向かって手を振るということはありうる。結晶構造をつくっている原子はすべて前後に振動している。原子はあまりにもたくさんあり、その動きには一致して好まれる方向がないため、ミドル世界で私たちが目にする手は、石のようにじっと動かない。しかし、手の揺れ動く原子のすべてが、たまたま同時に同じ方向に動くということはありえる。またしても、何度でも言うが、・・・この場合、手は動くだろうし、私たちに向かって手が振られることを見ることになるだろう。それは起こりうるが、それが起こらない確率は非常に大きく、もしあなたが宇宙の起源からその数を書き始めたとしても、現在でもまだ依然としてゼロを書き終わっていないだろう。そのような確率を計算する能力―――ほとんどありえないことを、あきらめて両手を上げずに計算する力―――は、人間精神の解放のために科学が授けてくれる恩恵の、もう一つの例である。

奇跡には、すべて、裏がある。
そして、奇跡として、認識するものは、撹乱である。

ドーキンスは、進化生物学者として、渾身の力を込めて、神は妄想である、と言う。

私は、霊学として、神仏は妄想である、と言う。

新約聖書に、書かれる、イエスの奇跡は、悪霊祓いと、病気治しである。
更に、教祖と言われる人々は、多く、病気治しの奇跡を、行った。人は、それで、信じるようになる。

私の、知る、奇跡の例を、上げると、ある、拝み屋に行き、腰痛が、全快したということである。
そのカラクリは、簡単である。
その、拝み屋の、狂いの精神波動、つまり、ヒステリーの、力によるものである。
境界例という、精神疾患がある。
多くは、精神疾患による、狂いの、エネルギーが、痛みを取り、病を、癒すかのように、働く。

心理学で、解決される。
それは、多くの世界的、奇跡の場においてもである。
名医は、言葉によって、患者を癒す。
それは、心理学である。

霊的現象により、病や、奇跡を、起こすことを、私は、魔界関与という。
前世の因縁により、あなたの、足が、痛むということで、その因縁を消滅させることによって、痛みを取るという場合も、心理学が、有効である。

想像力は、病を、癒すのである。

何故、仏陀が、人生を、生老病死という、苦しみにあると、言うのか。
仏陀は、合理主義者であり、現実認識の、主である。
人生は、生老病死にあると、見抜いたこと、それが、端的に、それを、現すのである。

更に、因果の法を説いた。
原因が結果を、もたらし、また、結果が、原因になり、それが、死ぬまで、終わることが無い。

更に、オリジナルとして、仏という、人間の完成した、姿を描いた。

しかし、仏陀もまた、生老病死に、死んだのである。

もし、前世の因縁消滅によって、痛みや、病が、治るものであれば、因縁消滅しなくても、治るのである。

実相世界を、説く、宗教は多い。この世は、仮の世界であり、実相世界は、痛みも、病も無いという。更に、人は神の子であり、仏である。この世の姿は、肉体という、借り物を、着ている状態であると。

それは、実に、感性的である。
しかし、知性と、理性に関しては、論外である。

感受性の強い人は、それを、文字通り受け入れて、自らを、癒す。

この現実を、仮のものとして、思い込み、実は、よく解らない、死後の世界を、実相、真実の世界として、信じ込むことでの、詐欺行為により、撹乱させる。

霊学として、言う。
この世の、現実を、実相世界と、感じないで、よく解らない死後の世界を、実相世界、あるいは、神や、仏の世界として、信じ込ませるもの、それは、罪悪である。

仏陀は、すべては、心の、在りかたであると、観た。
心とは、想念の場所、想像の場所である。
思えば、在る世界である。
その、思えば、在る世界に、宗教は、目に見えない世界を、作り上げて、心を撹乱させる。

例えば、死後の世界で、苦しむ霊の、波動を、キャッチして、同じように、その箇所が、病むという。ゆえに、その霊に、悟ってもらい、それにより、病を癒すという。
もっともらしくの、想像力である。
しかし、それは、心理学が、出来ることである。

霊というものを、確実に、説明する、科学的根拠は無い。

だが、科学が、すべてを、知るかとえば、知ることは出来ない。

私の、霊学も、私の妄想である。

その、妄想を、いかに逞しくしても、神仏は妄想である。
霊界には、神仏は、無い。
霊は、在る。

そして、空とか、無という、状態も、宇宙を出ると、在る。

霊界は、宇宙の中にあり、未だ、空や無という、空間は、無い。
ブラックホールという、暗黒物質の世界は、あるが、それは、空でも、無でも無い。在るのだから、だ。
在るものを、空とか、無とは、言わない。

すべて、人の頭で、捏ね繰り回された、言葉の世界である。

神仏は妄想である。63

多くの信仰篤い人々は、宗教がなければ、人がどうして善良でいられるのか、あるいは善良でありたいと望むことができるのか、想像し難いと感じている。

道徳とは何の実際的な関連ももたない他の話題に対する宗教的な態度の背後に道徳的な動機が潜んでいることがあるからだ。進化論を教えるなと主張する人々は、実は進化論そのもの、あるいは科学的な事柄とは何の関連もなく、道徳上の憤慨によって煽り立てられていることが多い。
ドーキンス  第6章 道徳の根源 なぜ私たちは善良なのか ? より


宗教信者は、宗教より、道徳というものが、生まれると、信じている。
しかし、彼らが、他宗教、他宗派に対する時、そこには、道徳的、かけらも無いほどの、行動をするのである。

それを、彼らは、知ることがない。

宗教から、出る、道徳とは、完全無欠に、紛い物である。
要するに、偽物である。

ダーウィン主義の論理によれば、自然淘汰のふるいの目をくぐった生き延び伝えられる、生命の階層秩序のなかで、自分と同じレベルにいるライバァルを犠牲にして生きのびることに成功したものである。厳密にはそれこそが、この文脈で利己的という言葉が意味するものである。問題は、その作用の舞台となるレベルはどこか、ということだ。力点を正しく、後ろのほうの単語(遺伝子)に置いた、利己的な遺伝子という考えの趣旨は、自然淘汰の単位(つまり利己主義の単位)は利己的な個体ではなく、利己的な集団でも、利己的な種でも、あるいは利己的な生態系でもなく、利己的な遺伝子だということにある。情報という形で、多数の世代にわたって生き残るか、残らないかというのは遺伝子なのである。
ドーキンス

それは、利己性の、単位としての意味における、利己的な遺伝子である。

つまり、利己的な遺伝子という、ドーキンスの、道徳に対する考え方に、利己的という、言葉が、先行して、道徳を、考える際に、利己的という言葉が、僭越するということである。それに、対する、誤解を説く。

いわゆる利他行動のうち、それを支えるダーウィン主義的な理論的根拠についてよく解明がなされているもう一つの主要なタイプは、互恵的利他行動「ぼくの背中を掻いておくれ、そしたら、お返しに掻いてあげるから」である。
ドーキンス

一体、宗教が言うところの、道徳から発する、考え方は、何であろうか。
利他行動というものを、宗教では、愛の行為、布施等々を言うが、すべて、布教活動の一環となる。

やたらに、親切に接してくると、思ったら、宗教だったということは、多々ある。

それならば、愛は地球を救うという、気持ちの悪いテレビ番組の方が、まだ、救いはある。
あれは、イベントであり、教えの、強制はない。

実際にそれは、大幅に異なった種のメンバー間でもまったく同じように、おそらくはそれ以上にさえ機能するのであり、その場合は共生と呼ばれることが多い。この原理は、人間のあらゆる交易や物々交換の基礎でもある。
ドーキンス

科学者の、考え方の方が、真っ当である。

道徳の基本は、生きるための、最低限の基礎なのである。

生物界には、そのような相互扶助的な関係がどっさりある。と、ドーキンスは、言う。

自然淘汰は、必要と機会の非対称的な関係において、自分から与えることのできるときには与え、できないときにはくれるようにせがむようにさせるような資質を個体にもたせる遺伝子を選択する。義務を記憶し、恨みを抱き、交換的な関係を監視し、もらうだけでお返しの番がきたときに与えないごまかし屋を罰し、といった傾向も選択され、生き延びる。
ドーキンス

長年に、渡って、人類が築いてきた、利他行為、互恵的利他行為、そして、多種との、共生。
道徳の基礎は、ここにあり、宗教の教えの、云々には、何ら関係ないのである。

更に、ドーキンスは、それらの、誤作動に関して、記述する。

人間は、万物の霊長であるという、勝手な解釈は、何の役にも立たない。
生き延びるために、経てきた、積み重ねた、経験というものが、重要である。

さて、日本では、道徳といえば、孔子である。
論語から、道徳という観念が生まれた。
更に、江戸時代になると、朱子学である。
まあ、中国の書物から、多くを学んだので、儒教、道教、そして、中国仏教である。

教えられる、道徳である。
しかし、人間の心の、発露としての、行為は、古代からある。当たり前である。
その、古代からの行為こそ、ドーキンスが言う、利他行為である。互恵的利他行為、更に、共生というものである。

万葉集を、読めば、すべて、理解できるのである。

親孝行などは、万葉集では、孝行を超えている。
親に対する、恋心である。
親乞う心である。

宗教により、人間が善になるという、考え方は、無い。
宗教が、教えるものは、例えば、仏教だと、来世とか、死後の世界の、地獄、極楽である。
要するに、脅しの、言葉による、道徳的行為を、強要する。
勿論、道徳というものの、何物も無い。
単なる、教義としての、道徳的行為の、推奨である。

それは、実に、計算高いものであり、人間を、取引させる。
一神教になると、それは、実に、甚だしい。

新約聖書で言われる、善きマサリア人の話は、有名であるが、あの土地によって成る、お話である。
イエスの、隣人愛というものも、実に、あの地域性による。
汝の敵と、敵を、最初に想定するという、土地柄である。

別の神を、拝む民を、排斥する地域にあっての、隣人愛を、イエスは、押し広げて、教えた。
というより、それは、イエスの教えというより、セクト教団の教えである。
祖先の時代、私たちは利他行動を近親者と潜在的なお返し屋にのみ向けるような暮らしをしていた。
ドーキンス

イエスの言葉は、それを、押し広げたのである。
つまり、近親者のみではなく、出会う人に、広げたのである。

しかし、それは、画期的なことではあった。

2008年04月09日

神仏は妄想である。64

性的な情熱(情欲)は、人間の野心のや闘争心の相当大きな部分の背後にある原動力であり、その発露の多くは人間のメカニズムの誤作動の結果である。気前の良さや同情への情熱についても、もしそれが、田舎暮らしをしていた祖先の生き方が誤作動を起こした結果であるとすれば、同じことがあてはまってはならない理由は存在しない。祖先の時代に、自然淘汰が私たちの中にこれら二つの情熱を築きあげるには、脳に経験則をインストールするのが最善の方策であった。そうした規則は現在でも私たちに影響を与えており、もともと機能にとって不適切な効果をもたらす状況においてさえ、この仕組みは変わらない。
ドーキンス

科学者は、実に、冷静に分析するものである。
人間が経てきた、道のり、つまり、ドーキンスは、進化であるが、それが、実によく理解できるというものだ。
この地に、生きるために、人は、学び続けてきたということである。

更に、性欲というものを、このように、分析するという、冷静さは、科学者の面目である。

何度も言うが、日本の伝統では、欲望、性欲も含めて、生きるための、欲望を、恵みと、捉えてきた。

これが、宗教に言わせると、罪になるという、驚きである。
人間の欲望を、支配しての、人間把握であるから、実に、偏りがある。
ただし、支配者が、それを、罪を、避けて生きるということはない。
被支配者には、命ずるが、自分たちは、のうのうとして、欲望の限りを尽くすのである。実に、子供騙しをする。

宗教家を、見よ。皆々、そうである。


そのような経験則は、カルヴァンの予定説で言うごとき決定論的なやり方ではなく、文学や習俗、法律や伝統―――そしてもちろん宗教―――のもつ開明的な影響のフィルターを通じて、現在でも私たちに影響を与えている。性的情熱という原始的な脳の規則が、文明のフィルターを通過して「ロミオとジュリエット」に描かれたラヴ・シーンとして具現化するのとまったく同じように、身内かよそものかを区別する原始的な脳の規則は、キャピュレット家とモンタギュー家の長年にわたる争いという形をとって現れる。やがて、利他主義と思いやり(共感)の規則が最後に誤作動して、いさかいの罰を受けた両家の者たちが和解するというラストシーンとなって、私たちを感動させるのだ。
ドーキンス

カルヴァンの、予定説とは、救いにある者は、すでに決定しているというものである。実に、都合の良い教義である。
要するに、その集団に所属すること、すなわち、救われている者、ということになる。

すべての、宗教は、皆々、そのようである。

偽物の、日本仏教も、最澄の、すべての人に、仏性があるというものである。
悉皆仏性である。
すべての物にも、仏性があるという、耳障りの良い言葉である。

その、仏性に、目覚めることが、悟りであるという。
勿論、仏性が、無い者は、妄想によって、そう思い込むのである。

三蔵法師玄奘は、救われない者もいる、という。
つまり、すべての人に、仏性があるとは、言わなかった。
大乗の教えを網羅し、その、経典を訳した、玄奘である。

最澄の天台宗から、すべて、狂ってしまった。
そして、空海の、密教という、とんでもないモノである。
バラモンの、呪術と、マントラを、真言として扱うという、魔物。
マンダラという、誤魔化しをもって、日本の善人善女を、煙に巻いた。
そして、更に悪いのは、鎌倉仏教といわれる、新興宗教である。

妄想の、経典から取り出した、念仏から、経典の、題目に、帰依するという、仰天である。
真っ当な、神経の者なら、決して、触れないものである。

予定説などは、笑うが、念仏、題目は、笑えないのである。
何故か。
日本仏教の大半が、それである。

彼らは、末法という意味が、よく解っていない。
末法とは、仏陀の、教えが、無に帰すということである。
つまり、末法の世に現れたもの、すべては、仏陀の、教えではないということを、知らない。
魔界のものである。

最大の自己矛盾である、末法思想である。

そこには、知性の欠片も無く、感性の鈍さと、理性の、崩壊があるのみ。

末法の、衆生は、気づかないのでしょう、ね。

2008年04月10日

神仏は妄想である。65

サム・ハリスが「キリスト教国への手紙」に載せている次のデーターは、相関を示す決定的な証明にはなっていないが、それにもかかわらず衝撃的である。

米国における党派関係は、宗教性の完璧な指標ではないが、「赤い(共和党の)州」はもっぱら保守的なキリスト教徒が圧倒的な政治的影響力をもっているおかげで赤いのである。もし、キリスト教保守主義と社会的健全性のあいだに強い相関があるならば、その何らかの徴候を赤い州のアメリカに見ることができると予想していいだろう。しかし見つからない。暴力犯罪の発生率がもっとも低い二十五州のうち、六十二パーセントは「青い」民主党の州にあり、三十八パーセントが「赤い」共和党の州にある。もっとも危険な二十五の都市のうち、七六パーセントは赤い州にあり、二十四パーセントは青い州にある。実際に、米国でもっとも危険な五つの都市のうちの三つは敬虔なテキサス州にある。押し込み強盗のもっとも高い発生率をもつ十二州はどれも赤である。窃盗の発生率がもっとも高い二十九州のうち二十四州が赤である。もっとも高い殺人の発生率をもつ二十二州のうちで十七州が赤である。

ドーキンス

「あなたが本気で、自分が善人であろうとつとめる唯一の理由が神の賛同と褒美を得ること、あるいは非難や罰を避けることだとおっしゃるのですか? そんなものは道徳ではなく、単なるご機嫌取りかゴマすりであり、空にある巨大な監視カメラを肩越しにうかがったり、あるいはあなたの頭のなかにあって、あなたのあらゆる動きを、あらゆる卑しい考えさえ監視している小さくて静かな盗聴器を気にしているだけのことじゃあないですか」

もしあなたが、神が不在であれば自分は「泥棒、強姦、殺人」を犯すだろうということに同意するのなら、あなたは自分が不道徳なことを暴露しているのであり、「それはいうことを聞いたから、私たちは、あなたのことを大きくよけて通らせていただく」。反対に、もしあなたが、たとえ神の監視のもとになくとも自分は善人でありつづけると認めるのであれば、私たちが善人であるためには神が必要だというあなたの主張は、致命的に突き崩されてしまったことになる。私は思うのだが、非常に多くの信仰心のある人間が、自らを善人たらしめるように衝き動かしているのが宗教だと本気で考えているのではないか。個人的な罪の意識を組織的に悪用しているような宗教に所属している場合、とりわけそうではないだろうか。
以上、ドーキンス

ただ今、ドフトエフスキーの、新訳が出て、多く読まれているという。
読むことは、いいことだが、あれを理解することは、日本人には、やや不可能ではないのかと、思っている。

キリスト教的、神の存在というものを、知らなければ、理解するのは、難しい。
文学としては、非常に評価出来るが、罪と罰、カラマーゾフの兄弟に、代表されるように、神の存在という、忌まわしいものの中で、七転八倒しているような、人間を描いている。
要するに、妄想の神と、一人相撲をしている人間の、七転八倒を、読んでいるのである。

トルストイも、そうであるが、彼らは、神観念の中から、抜け出せないでいる。
それも、嘘の聖書を、母体にして、何やら考えているのてあるから、ご苦労さんである。

ロシアには、伝統というものがない。
極めて、悲しいことに、ロシア正教があるのみ。

ロシアほど、悲劇的な国はない。
帝国ロシア、そして、共産主義による、革命である。その中で、細々と、ロシア正教が、流れていた。それは、共に、領土拡大、つまり、侵略を、国是としてきた国である。それ以外のものは皆無である。

支配者のための国である。
市民の伝統など、生まれる訳が無い。

個人的な罪の意識を組織的に悪用しているような宗教に所属している場合、とりわけそうではないだろうか。
と、ドーキンスは、言う。
すべての、宗教は、そうである。

神仏の名に置いて、信者を、脅し、透かし、支配する。
勿論、支配者は、悪行の限りを尽くすという、オマケである。

信者には、質素倹約を教え、献金、布施、寄付を、求めて、上層部は、たらふく食べて飲んで、更には、贅沢三昧である。

人に前では、修行者のような面をして、顔付きだけは、一人前、いや、三人前である。

偽善の、傲慢ぶりは、甚だしい。

本堂より、庫裏の方が立派な、寺院は多い。
仏の住まいより、僧侶の住まいの方が、立派だということである。

さて、宗教による、道徳は、実に、不健全である。
神仏の罰が当たると、平然として言う。

キーワードは、神仏の罰である。
無いものが、罰を下す訳が無いが、信じる者は、騙される。

道徳心とは、信仰に支えられるものではなく、人間の知性に支えられ、理性によって、行為される。
そして、感性によって、満たされるものである。
それが、真っ当な、道徳感覚である。

科学者である、ドーキンスは、実に、高尚な切り口で、それを、語る。

日本語の、道徳とは、特に至る道である。
その、徳を、儒教的、徳として、考えていた時期が、長い。
その、原点は、孔子の論語である。

孔子は、平面思想である。
神鬼を、語らずという、冷静さである。
それは、十分に、真っ当である。
しかし、日本にては、垂直思考により、それが、実行された。

簡単に言う。
孔子は、目に見える世界のみに、語る。
日本には、目に見えない、もののあわれ、という、情感がある。
カミの世界である。つまり、自然の核にある、恐れ多く、賢いもの。
畏れ多くも、畏くもである。
おそれおおくも、かしこくも。
畏れ、という、字は、畏敬である。

孔子の、徳は、日本にて、完成したといえる。

日本の道徳感情は、細々しく、相手のことを、思う行為にある。
その、根本は、もののあわれ、あはれ、という、感覚である。
つまり、極悪な、行為を犯す、罪意識というものではない。
ゆえに、罪を憎んで人を、憎まず、という、言葉が、出来たほどである。

人間は、罪を、犯すようなものではないという、根本的考え方があったのである。
もっと、言えば、欧米で言う、罪という意識はなかった。

日本で、ツミとは、恵みのものである。
海神、わだつみ、山神、やまつみ、とは、海の恵み、山の恵みである。
それを、カミと、称した。

これはついては、まだまだ、説明が必要である。

神仏は妄想である。66

私たちが道徳的であるために神を必要とするということが、たとえ真実であったとしても、それで神が存在する可能性がより高くなるわけではなく、単に望ましくなるだけのことにすぎない( 多くの人はこの違いがわからない) 。しかし、それはここで論じる問題ではない。私の想像上の宗教擁護者は、神様へのゴマすりが善行をおこなうための宗教的動機であることを認める必要をまったく感じなていないようである。むしろ彼の主張は、善人であることへの動機がどこから来るにせよ、神なしでは、何が善であるかを判断する基準が存在しないだろうということだ。私たちはそれぞれが善についての自分の判断をつくり、それに従って行動することができる。宗教のみにもとづく道徳原理( たとえば「黄金律」「あなたが人にしてもらいたいと思うようなことを人にもしてあげなさい」というように説く宗教上の教え) のように、しばしば宗教と結び付けられるが、ほかからも由来しうる原理に対立するものとして) は、絶対論的であるということができよう。善は善、悪は悪であり、特定の場合に、たとえば誰かが苦しむかどうかによって、判断に手間取ったりはしない。私の想像上の宗教擁護者ならば、宗教だけが、何か善であるかの根拠を提出することができると主張するだろ。
ドーキンス

哲学者は、神ではなく、人間の義務としての、道徳を考えた。
例えば、カントである。
「普遍的な法則となるべきことをあなた自身が同時に望むことができるような格率(基準)に従ってのみ行動せよ」

ところが、ドーキンスは、これにも、誤りがあると言う。

更に、読み進めると、宗教、特に、旧約聖書に基づく、道徳観念についての、検証は、見事である。
全く、道徳などない、逆に、人間の悪の様を見せ付ける、聖書の悪行、つまり、聖書の神の悪行を、炙り出すという。

一部の哲学者、とりわけカントは、非宗教的な源泉から絶対的道徳を導こうと試みた。彼自身は、その時代の人間にはほとんど避けがたいこととして、宗教的な人間であったが、道徳の根拠を、神のための義務ではなく義務のための義務に求めようと試みた。かれの有名な至上命令(定言命法)は、私たちに「普遍的な法則となるべきことをあなた自身が同時に望むことができるような格率(基準)にしたがってのみ行動せよ」と命じる。これは、たとえば嘘をつくという例についてはみごとにうまくいく。嘘をつくのが善いことで、しかも道徳的なことだとされていて、原則的に嘘をつくような人々から成る世界というものを想像してみてほしい。もしそのような世界があれば、嘘をつくことそのものが無意味になるだろう。嘘は、まさにその定義のゆえに、真実を仮定する必要がある。もし道徳的な原理というものが、すべての人間がそれに従うとみなしてよいものであれば、嘘をつくことは道徳上の原理になりえない。なぜなら、この原理そのものが意味を失い、機能しなくなるからである。
ドーキンス

カントも、キリスト教の、神絶対主義から、逃れられなかったといえる。
普遍的という言葉自体に、神観念が、まとわりつくのである。

義務のための義務という言葉も、おかしい。
義務を、宗教的絶対主義と、置き換えれば、宗教と、なんら変わらないのである。

すべての絶対論が宗教に由来するわけではない。にもかかわらず、絶対論的な道徳が正当であると弁護したいなら、宗教的なもの以外に根拠を見いだすのはかなりむずかしい。・・・ドーキンス

日本の場合は、儒教が、最も道徳に対する観念となったが、それ以前を、みると、人の道ということで、おのずからなるもの、おのずから発するものと、なっている。
それは、自然を観て、自然の有様から、学んだ、生き方の方法である。
道徳は、自然から、自然発生的に、起こったものである。

仁義礼知忠信孝悌とは、人倫の道の、順番だった。
しかし、それは、儒教の言葉の世界である。

日本人には、それ以前に、自然の様から、たゆたう、という心的状態にある、思いに、人の道の有り様を学んだ。
つまり、絶対というもののない、状態である。
絶対という状態に陥ると、それを、穢れとして、清め祓いをしたのである。

いつも、事は、流れている、動いている。
ある場面では、善いことだが、違う場面では、悪しきことである。
臨機応変に、対応するという、たゆたう、心の状態を、善しとした。

そして、それの基準というものを、もののあわれ、というものに置いたゆえに、定義も、無い。言葉で、明確にすることもなかった。
ここが、欧米の思想との、最大の相違である。

倫理学者たちは、善悪について考えるということにかけては、プロである。ロバート・ハイドンが簡潔に述べているように、「道徳的教えは、かならずしも理性によって構築されているわけではないが、理性によって弁護できる」ということで、彼らのあいだの意見は一致している。彼らは自らをさまざまなやり方で分類するが、現代用語では、大別して「義務論者」(カントのような)と「帰結主義者」(ジェレミー・ベンサムのような「功利主義者」を含む)の二派があるようだ。義務論というのは、道徳が規則に従うことから構成されるとていう信念につけられた名である。それは文字通りには義務の科学という意味で、「縛りつけられたもの」を意味するギリシャ語に由来する。義務論は道徳絶対論とまったく同じものではないが、宗教について書かれた本では、その目的からしては、この区別にこだわる必要はほとんどない。それに対して、絶対的な善と悪、その正さが結果とまったくかかわりがない命令(義務)が存在すると考えるのが絶対論者だ。帰結主義は、より現実主義的に、一つの行為の道徳的性はその結果によって判断されるべきだと考える。帰結主義のバリエーションの一つが、ベンサム、彼の友人のジェヘムズ・ミル、およびその息子のジョン・スチュワート・ミルらが説いた功利主義である。功利主義はしばしば、「最大多数の最大幸福が道徳と法の基礎である」という、ベンサムの残念ながら不正確なキャッチフレーズに要約される。
ドーキンス

2008年04月14日

神仏は妄想である。67

神仏は妄想である、を、書いている。

イージス艦と、衝突した、清徳丸の、親子の捜索が、打ち切られて、つまり、親子は、海を漂流しているということである。

防衛省は、大量の人員を、罰したというが、そんなものは、どうでもいい。

二人の親子が、海に漂流していることを、言う。

私の、故郷は、北海道の、漁村である。
漁師の生き方を、見て育った。
海は、恵みの海であり、命を落とす、危険な海でもあった。
特に、冬の海は、命懸けである。
こうした、漁師の漁によって、食生活が、出来る。

生長の家の、初代総裁の書くものに、突然の死、大量の死に対して、それを、浄化と言うのである。
すでに、使命を終わり、速やかに、霊界入りすべくの、神の計らいという。
戦争の死もそうである。
原爆の死も、そうである。
しかし、実に、矛盾していることも書く。
何とでも、書ける。

突然の急激なる打撃(例えば不慮の災禍)で肉体が死に、霊界へ移転する霊魂は、急激に、その人の霊魂が今までの業を離脱して急速に浄化向上するための摂理です。地球の一周期の終わりに世界的な大戦争や、大々的な天変地異などで多数の人類が大量死滅することもあるのも、地球の一周期の終わりには、地球上の人類のうちの或る周期に他の天体から移動して来た霊魂の総決算期が近づいているので、浄化すべき霊は、速やかに浄化して置かなければならないからであります。

上記、全く、主観である。客観的なものは、一つも無い。
そして、旧約聖書、新約聖書、多くの仏典等々を、持って、それらを、証明するという、驚きである。
それらが、嘘八百の書き物だとは、知らないとは、正に驚きである。

この人の、書物は、多くの人の、気の病などを軽くしたが、あまりの、誇大妄想に、愕然とするのである。

突然の災禍で肉体が死に、霊魂が肉体を抜け出す時には、急に大急ぎでその家から住む人が何物もとりあえずに飛び出すのと同じように、その人の霊魂は自分の身についた業を持たずに、謂わば丸裸で肉体を飛び出すので、その人の業が速やかに潔められるので、その人の霊魂にとって寧ろ祝福さるべきことなのです。

それを、そのまま、信じれば、ある特定の人は、安心するのであろう。

この人が、物を書く時を、霊視したという信者は、その背後に、神のごとき、霊人が、立っていたという。
つまり、その霊人の、情報である。

人間は”神の像”に創造されたと「創世記」にある通り、その実相は完全であり、「全て善し」と神によって宣言せられ、全てを支配する権能を与えられているのだけれども、その完全なる神の像の上に、もっとも、素晴らしい先生の油絵の上に、弟子が再び絵具を塗って拙い絵を描いたために、先生の折角立派に描いた絵が覆い隠されてしまっているのと同じように、神の真創造なる世界が、人間の迷妄心によって覆い隠されてしまっているのである。このことを「創世記」第二章には、「霧たちのぼりて・・・」という風に書かれている。迷いの霧を晴らしてしまわなければ実相の完全な相を見ることはできないのである。

創世記の、神が、如何なるものであるかを、知らないようである。

創世記にある通りと、聖書を根拠にするのである。

あらゆる、経典を、使用し、混濁した、考え方を、述べる。
果たして、それが、本当なのか、嘘なのか。なんとも、判断できないのである。
更に、交霊術による、証拠を、持ち出すのである。

人のことならば、何とでも言える。
私は、イージス艦と、衝突して、未だに、海を漂うであろう、二人の親子の、死を悲しむ者である。
私の、親兄弟だと思うと、悲しみは、更に深い。

悲しみを、軽減するために、方便として、教えるというなら、少しは、理解する。

それは決して神罰ではなく愛ふかき神の摂理です。魂の発達の傾向があまりに方法が外れているときは、不慮の災禍で肉体が死に、魂がとるものも取り合えず「肉の宮」を飛び出すために、今までの業(即ち心の習慣性)を霊界へもって出るひまが無く魂が浄められるように摂理の手が導いているのです。

随分と、都合の良い、話である。
仏教の業について、様々に、論じるのだが、ここにきて、いきなり、神の摂理によって、業を、霊界にもって出るひまがなく、という。

こうして、手品のような、論述を、繰り返すのである。
つまり、何とでも、言えるということである。

ところが、信者は、騙されるから、病が消えたと、大声で、喧伝するという、有様。

治らなかった、病が、癒えるという、宣伝は、多くの人を動かす。
魔法のようであるが、心理学である。

霊学から、言えば、その教団の背後霊団である。

さて、私は、清徳丸の、親子の、冥福を祈る。
すでに、亡くなっている。
この時期の海で、生存するのは、無理である。

因縁による、業を、神の摂理で、無きものにするなど、有り得ない。
一体、何を根拠にしているのか。
単なる、主観であり、一切の、客観性は、無い。

信じることである。
信じることで、救われるという、ご存知、宗教の、手口である。

信じるという、妄想に身を入れて、病が癒えても、問題の解決には、ならない。

催眠術の、一時的な効果である。
それが、来世に、持ち込まれることを、何故言わないのか。

あちらの、物には、こう書かれている。こちらの、物には、こう書かれてある。だから、こうである。
その、書かれた物が、妄想のものであれば、どうする。

実に、書かれた物は、妄想である。

仏陀も、イエスも、書き物を、一つも、残さなかった。
お解りか。
何故、書き物を、残さないか。
このような、者が、大勢出て、書き物を、根拠に、あること、無いことを、喧伝するからである。

更に、後々に、書き続けることにする。

2008年04月24日

神仏は妄想である。68

すべての絶対論が宗教に由来するわけではない。にもかかわらず、絶対論的な道徳が正当であると弁護したいなら、宗教的なもの以外に根拠を見いだすのはかなりむずかしい。私が思いつくことができる唯一の対抗馬は愛国心、とくに戦時における愛国心である。スペインの高名な映画監督であるルイス・ブニュエルは、「神と国は無敵のチームだ。抑圧と虐殺のあらゆる記録が、彼らによって破られる」と言った。徴兵制は、狙いをつけた若者の愛国的義務感に強く訴える。
ドーキンス

私は、戦争犠牲者の、追悼慰霊を、始めてから、それを、とみに考えるようになった。
愛国心というものである。
それは、状況によっては、絶対的なものになる。

敗戦で、終わった太平洋戦争の時には、とんでもない、愛国心が、国民に伝播した。勿論、軍部と、大本営の、喧伝である。

現人神と、天皇を、祭り上げて、若者を、戦場に送り出し、果ては、特攻として、死ぬことを命じたのである。
絶対主義である。

もし、本当に、天皇を、奉じていたならば、また、国民が天皇の子であるというならば、国民を、もっと、大切に扱ったであろう。

アメリカの、ブッシュは、イラクで、どれだけの若者の、命を、捨てたか。
あれは、愛国心か。
キリスト教原理主義と、その、愛の思想等々、すべてに、矛盾する様、それは、病気というしかない。

愛国心が、絶対主義に陥る時、それは、宗教の絶対主義と、変わらなくなる。
私は、愛国心の、教育は、必要だと思うが、絶対主義の愛国心は、病であるとみるから、漢語での、愛国心ではなく、国を愛する心としての、大和言葉にある、国を思うことの、情操教育を言う。
しかし、これだけでは、説明不十分である。
いずれ、書く。

人々は良心的徴兵拒否を、たとえ敵国の人間であっても軽蔑した。なぜなら、愛国心は絶対的な美徳であるとみなされていたからである。将来いつの日かあなたが敵と呼ぶことを選ぶかもしれない政治家を誰であっても殺すことに加担させるスローガンとして、職業軍人の「善かろうが悪かろうがわが祖国」よりも絶対的なものを探すのはむずかしい。帰結主義者の推論は戦争に向かう政治的決断には影響を与えるかもしれないが、ひとたび戦争が宣言されると、絶対論的な愛国心が、宗教以外では見られないような暴力と権力をもって、すべてを支配する。
ドーキンス

宗教以外では、見られないと、トーキンスは言う。

しかし、その、戦争は、何によって起こるのかという時、そこに、宗教の匂い、あるいは、宗教の浄化という、命題がある。
民族浄化は、宗教浄化の、別名である。
特に、欧米の戦争は、宗教戦争であった。勿論、アラブもである。

絶対主義の、宗教と、絶対主義の愛国心との、相乗効果抜群の、絶対主義である。
ホント、やってられないのである。

倫理学に関する本章の議論のたたき台は、神がなければ道徳は相対的で恣意的なものになってしまうという、宗教の側から出されることを想定した、仮想上の主張であった。カントやその他の倫理学者は別にして、また愛国的情熱をしかるべく評価した上で、絶対論的な道徳をよしとする素地をつくるのはふつう、歴史が正当化できる限度をはるかに超える権威をもつと考えられている、いわば聖典の類である。実際、聖典の権威の信奉者は、彼らの聖典の(ふつうはきわめて疑わしい)歴史的な起源について、悲しくなるほどわずかな好奇心しか示さない。
ドーキンス

聖典の、信奉者は、無知蒙昧であるということである。
その証拠に、ドーキンスは、旧約聖書を、徹底的に、検証するのである。

実際、私も、長年、旧約聖書を、読み続けてきたが、改めて、その、偏狭さに、気付かされた。
洗脳によって、聖書の神に対する、絶対服従を、強いられていたのである。

何故、疑問を、持たずに、聖書という、権威に、従っていたのか、よく解らないのである。
要するに、信じてしまえば、簡単さ、ということである。
兎に角、信じ込んでしまえば、簡単なのである。

ステンドグラスの、教会の聖堂で、祈ることが、兎も角、心地よいのである。つまり、ムードの信仰である。
そこで、聖人ぶった、偽善者である、司祭や、牧師から、説教されて、何やら、その気になって、神を仰ぐという、偽善に気付かない、偽善である。

主よ、
今日、ここに、集まれる、あなたを求める人々の祈りを、
聞き入れたまえ。
あなたの、愛の光に、包まれて、私たちは、明日も、よりよく生きられますように。
主よ。
更に、本日、ここに、来られなかった多くの、罪人、迷える人にも、光を、お与えください。
一時も、早く、罪人なる人々が、悔い改めて、あなたの愛を受け入れますように。

と、いう具合に、何とでも、言えるというのが、特徴である。
延々と、ゴタゴタと、祈りの言葉を、続けることが出来る。
常日頃使用する、話し言葉での、祈りであるから、延々と、愚痴のように、続けることが出来る。

初めて、古神道の、祈りを、知り、言挙げせずという、祈りを、知った。
言の葉である。
口にだして言うことは、成る、というものであり、多くを語ることを、戒めるものである。

偏狭な、宗教や、行者と言われる者の、祈りではない。
日を拝する。
太陽を拝する。
そして、黙祷である。

日本人は、所作の中に、祈りを、取り入れた民族である。
作法の中に、祈りを、取り入れた民族である。

私は、しないが、食事の前に、手を合わせて、「いただきます」と言う。
宗教信者が、神仏に、祈りを、捧げるという、偽善ではない。
「いただきます」と、言葉にすることが、祈りになるのである。
更に、食事後は、「ごちそうさまでした」という。
所作の中に、祈りがある。

グッバイ、とは、神と共に、である。
さようなら、とは、左様である。そのようである、という意味であり、別れというものを、そのあるようにと、言う。
それは、徹底した、実存である。

神の朝、神の昼、神の夜。
すべて、妄想の神の名を語る語源とは、全く違う。

お早う、今日は、今晩は。
すべて、実存である。
以下省略。

2008年04月25日

神仏は妄想である。69

聖書が道徳ないし生き方のルールに関する典拠となる道筋は二つ考えられる。一つは、たとえば十戒を通して、直接に指令することによってで、アメリカの後進地域で繰り広げられる文化戦争において、きわめて激しい争いの主題である。もう一つは、お手本として、すなわち、神あるいは聖書に出てくる誰か他の人物がーーー現代風の業界用語を使えばーーー役割モデルをつとめるのである。この聖書を生き方の指針とする二つの「道」を、もし宗教的に(この副詞は、比喩的な意味で用いられているが、その起源を視野に入れている)たどっていくならばどちらも、宗教を信じているかいないかを問わず文明化されたあらゆる現代人が、醜悪―――これ以上に穏当な言い方を私はできないーーーと感じるような道徳体系を推奨することになるだろう。
ドーキンス

さて、そこで、キリスト教では、聖書を、どのように、捉えるか。
1965年11月18日のバチカン公会議で可決承認された「神の啓示に関する教義憲章」11章でこういっている。

聖書に含まれ、かつ示されている神の啓示は、聖霊の霊感によって書かれたものである。・・・
神は、聖書の著作にあたって、固有の能力と素質をもった人間を選んで、これを使用した。それは神が彼らの内に、また彼らによって働く間に、彼らは、神が臨むことをすべて、そしてそれだけを、真の作者として書くためである。・・・したがって、聖書は、神がわれわれの救いのために書かれることを望んだ真理を堅く、忠実に、誤りなく教えるものと言わなければならない。

まず、誰が、可決承認すれば、それが、正しくなるのだろうか。
神の言葉を、可決承認するという、傲慢であろうが、気付かない。

そして、憲章の言葉にある、聖霊の霊感によって・・・カトリックは、それらを、悪魔の仕業として、承認したではないのか。
聖霊の、云々を、誰が、承認するのであるのか。
聖霊の仕業であると、承認するという、傲慢である。

宗教家というものは、勝手な解釈の、大好きなものであるから、何とでも言う。
これに、解説として、日本の司祭が、付け加える。

人はただ神のオルガノン(道具)となって、神のみことばを聖霊の導きのままに文字で表現し、それを編集したにすぎません。霊感とは、神がまず編集者の心を動かして執筆の意欲を起こさせ、次に編者の知覚や心や知恵を照らして、ご自分が伝えようとお望みになることを知らせ、最後にこれを忠実に書きとめさせ、書いているうちにまちがわないように絶えず筆の動きを導いたという一種のインスピレーションであります。

上記、支離滅裂なものである。

要するに、信じなさいと、言うのである。
信じてしまえば、それで、よし。

何とでも言える、典型である。

更に、本当に旧約聖書を、読んでいるのかと、思わせる、記述である。

また慈悲深い神は、全人類の救いを切に望んで、これを計画かつ準備し、アブラハムやモイゼを通して神の民と契約を結び、ことばとわざをもって、ご自分を啓示し、人びとを約束の地に導き、保護したのです。

慈悲深い神。
聖書の神は、全く、慈悲深くない。
全人類の救いとは、何か。
約束の地に、導きというが、未だに、そんなことは、無い。

完璧に、頭を、やられている。
架空の、お話より、悪いのである。
妄想。
信じ込むと、このように、無明になる。

すべての、宗教に言えるのである。
例えば、日本、仏教の、お話。
極楽に、いらっしゃる、お釈迦様。
霊界に、極楽などないのである。
適当に、言うのである。

言う、自分たちも、よく解らない、地獄、極楽を、説教して、成仏するかしないか、解らないが、信者には、成仏を、解くのである。

更に、悪いことは、開祖を、拝む。
開祖が、霊界の、どこにいるかを、知らず、拝むという、愚行である。

もっと悪いことは、何一つ、根拠がない。
経典に書かれてあるとの、一点のみ。その、経典さえ、真面目に、読んでいないという、仰天である。
そして、経典が、嘘であることを、知らない。

ここでも、要するに、信じてしまえば、よし、なのである。

馬鹿は、死んでも、治らない、とは、本当である。
死んでも、馬鹿のままである。

ご苦労なことに、このようにまで、書く。

なお聖書の宇宙創造は科学的にどうか、聖書の内容は現実性があるのかどうか、いろいろ問題があるでしょうが、とにかく聖書は、聖パウロもいうように「われわれの教訓のために書かれた」ものですから、聖書の中に救いに関する神のご計画を読み取り、宗教的な教訓をわが身にあてはめ、実行にうつすように努力しなければなりません。

そんなことを、しては、いつも、人を殺していなければならないのである。と、知らない。
本当に、聖書を、読んでいるのであろうかと、疑う。

要するに、信じてしまいなさい、ということである。

とにかく聖書は、聖パウロもいうように・・・
どうして、ここで、聖パウロが、出るのか。
パウロが、正しいのか。何故、パウロが、正しいのか。

カトリック教義は、イエスの、教義ではなく、パウロの教義である。
強迫的、キリスト教を、作り上げた人物が、パウロである。
要するに、彼の好みを、教義にしたのである。

問題があるでしょうが、と、言うが、それが、もっとも、問題であろう。

こういうのを、薄ら馬鹿という。

宗教とは、皆々、そのようである。
日本仏教の、お話は、妄想、想像を、更に、飛躍させて、支離滅裂である。
更に、言うことと、やることが、全く違う。
一々例を上げないが、僧たちを、見ていれば、よく解る。

本人も、解っていないことを言うから、どうしようもない。
聖書が、終われば、それらを、徹底検証することにする。

神仏は妄想である。70

公正のために言えば、聖書に書かれたことのほとんどが首尾一貫して悪いものだ、というわけではない。しかし、私たちには縁がなく、お互い同士も交流のない何百人という無名の著者、編集者、書写生によって九世紀にわたって編纂、改訂、翻訳、歪曲および「改善」されてきた支離滅裂な文書を、雑然と寄せ集めてこしらえ上げた集成であることから予想される通り、聖書は奇妙としか形容のしようがない書物なのである。こうした来歴を考え合わせればたしかに、聖書の純然たる奇妙さのいくつかは説明できるかもしれない。しかし遺憾なことに、熱狂的な宗教信者が私たちの道徳と生き方のルールにかんするまちがいのない典拠として掲げるのが、この同じ奇妙な書物なのだ。
ドーキンス

ところが、カトリック司祭の、書くことは、以下の通り。

キリスト教と他宗教との著しい相違点は、聖書が神の啓示であるという点にあります。人間の知恵では、はかり知れない神の奥義の一部分、すなわち神のみ心の感じ方、神の考え方、行動の仕方などが聖書を通して人間に明らかに示されたのです。

勝手な解釈、勝手な想像であることは、間違いなし。
コーラン、仏典は、それでは、何かということになる。
皆、それぞれが、勝手な解釈、勝手な妄想で、何やら言う。

他宗教との著しい相違点は・・・
とんでもない、誇大妄想である。

他の、経典は、神のものではない。
当然である。
聖書の神は、キリスト教、中でも、カトリックのみに、与えられたと、解釈する、支離滅裂である。

彼は、聖書の民は、教会であると言う。
つまり、教会が、神に選ばれた、民であるというのである。

こうして、自己催眠、自己陶酔して、どっぷりと、妄想に漬かり、更に、人に、それを、説くという、傲慢である。

彼らが、神というモノ、どんな、モノなのかを、聖書を検証してみる。
案内は、ドーキンスである。
まず「創世記」の非常に好まれているノアの物語から始めよう。この話はバビロニアのウトナピシュチィム神話に由来し、いくつかのさらに古い神話でも知られている。動物が二頭ずつ箱舟に乗せられるという伝説は魅力的だが、ノアの物語に込められた教訓は唖然とさせられるものだ。神は人間をあまりよく思っておらず、そこで(一家族だけを例外にして)子供を含めた多数の人間を溺死させた、というのだから。
ドーキンス

いずれにせよ、学識ある神学者の善意にもかかわらず、驚くほど多くの人間がいまでもなお、ノアの物語を含めて聖書を文字通りに受け取っている。・・・
また、2004年のスマトラ沖地震による津波が、地殻プレート運動のせいではなく、バーで酒を飲んだりダンスをしたりしたことから馬鹿げた安息日の規則を破ることにまでいたる人類の罪のせいだと非難したアジアの聖職者たちの多くも、そうであるのは疑いない。ノアの物語が頭に染み付き、聖書以外の知識をまったく知らなければ、誰が彼らを非難できよう? 彼らの受けた教育全体が、自然災害を、プレートテクトニクスのような非人格的なものよりもむしろ、人間界の出来事と密接に結びついたもの、たとえば人間の品行不良の報いとみなすように仕向けられてきたのである。

更に、続けて

ついでながら、神(あるいは地殻プレート) が起こすような規模で地球を揺すぶるような出来事が、つねに人間と結びついていなければならないと信じるというのは、なんという思い上がった自己中心性だろう。創造と未来のことを気にかけている神が、なぜ、ちっぽけな人間の不品行などという些細なことを心配しなければならないのだ? 私たちは、人間だからこそ、たとえ宇宙的な意義のレベルではないほんの小さな「罪」でしかなくとも、そんなに大袈裟にもったいぶるのだ !


2005年の、カトリーナ台風の時に、ニューオリンズの町が、洪水によって、壊滅的な被害を、受けた。
アメリカで、もっとも、有名な、テレビ伝道師パット・ロバートソン牧師は、この台風を、たまたま、ニューオリンズに住んでいた、レズビアンの、コメディアンのせいだと、非難したという。

この程度の、頭の持ち主が、有名牧師である。

無知蒙昧を、曝け出すが、知らないものは、知るはずがない。
こういう者を、聖書原理主義という。
要するに、聖書しか、知らない。他の、知識と、教養は、何も無い。

更に、驚きは、こういう者が、多くの人に対して、説教を、繰り返しているという、事実である。

そして、更に、驚きは、神に代わって、人を、裁くのである。
何ゆえ、そのような、傲慢な、思い上がりを、持てるのか。
神の側にいるという、妄想である。

寄せ集めの、聖書が、神のお考えであり、教えであるという、神経は、ただ事ではない。

更に、聖霊とまで、言う。
聖霊に導かれた、霊感によると。
霊感を、悪魔のものだと言うのは、誰か。
教会であろう。
しかし、教会の中での、霊感は、聖霊なのである。

私の霊学から、言う。
聖霊の霊感は、魔界の霊の仕業である。
と、こういう、私も、妄想のもの、更に、彼らからは、悪魔のものと、言われる。

ゆえに、私は、霊感という言葉を、使用しないようにした。
感受性という言葉に、置き直す。

支離滅裂な、お話を、神のものであるという、根性は、正に、魔のものであろうが、それを、知ることはない。
信じると、完璧に騙される。
更に、強迫的に、信じる行為に、没頭する。

知性を、持たない、信仰、感性を、磨くこと無い、信仰、そして、理性の行為を、捨てる信仰である。

人間の、すべての、資質を、神という、妄想に、明け渡すのである。
人間の、尊厳とは、何か。
人間性とは、何か。

2008年04月28日

神仏は妄想である。71

私は二度と人ゆえに大地を呪わない。人の心は若いときから悪に傾いているからである。私は、もう二度とすべての生き物を滅ぼすようなことはしない。地のあるかぎり種まき時と取り入れ時、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜は、やまないであろうろ。

ノアの洪水の後に、神が、彼らに言う言葉である。

大地は、自分が作ったものである。
更に、人は若いときから悪に傾くと、言う。
これが、罪の意識である。

そして、神は、ノアと、その息子たちを祝福して、言う。

生めよ、増えよ、地に満ちよ。野のすべての獣、空のすべての鳥は、地をはうすべてのものと海のすべての魚とともに、おまえたちを恐れおののくだろう。これらはおまえたちの手に渡される。

これが、自然支配の、根拠となる。

自然を支配するという、傲慢は、ここから、きている。

ちなみに、日本の伝統である、自然との、共感、共生という、考え方は、全く、見当たらない。

食べ物、それ自体に感謝する、日本民族と、神に感謝する民族の、大きな違いが、ここにある。

さて、創世記を、ドーキンスと、読んでゆく。

ノアの箱舟に匹敵する大事件といえる、ソドムとゴモラの破壊において、格別に正義漢だという理由で選ばれて家族ともども許されたのが、アブラハムの甥ロトであった。二人の男の使いがソドムに遣わされ、ロトに向かって地獄の業火がやってくるまえに町を出るように警告した。
ドーキンス

ソドムと、ゴモラは、有名な、悪の、罪の人々の、町と言われる。
特に、同性愛に関しての、差別は、ここから、強く始まった。
ソドミーといえば、同性愛者のことを言った。
不品行の町である。

ロトは使いを家に招き入れもてなしたが、ソドムじゅうの男がまわりに集まり、使いの者を強姦してやるから(ソドムだけに当然か?) その男をさしだせ、とロトに迫った。「今夜おまえのところにきた男たちはどこにいるのか? そいつらをここに出せ。われわれはその者を知ることになるだろう」そうなのだ。「知る」というのは欽定訳聖書でいつも使われる歪曲な意味(性交する)をもっており、この文脈では非常に可笑しいものである。ロトがこの要求をはねつける勇気をもっていたことから考えて、彼がソドムでただ一人の善人として神によって選び出されたとき、神は何か知るところがあったのかもしれない。しかし、ロトの勇敢さは彼が要求をはねつけるときにつけた条件で色あせてしまう。
ドーキンス

少しの説明が、必要である。
旧約聖書の、女性観である。
実に、仰天するような、女性観が、至るところに、表れる。

そして、ドーキンスとは、別の見方から、私は、同性愛について言う。
古代、同性愛は、ギリシャのみならず、実に、神聖な行為の、一つであった。
残されている、絵画でも、古代エジプト時代の、男性の交わりが、描かれる。

メソポタミア文明の、担い手も、同性愛者による。
しかし、それで、同性愛者が、優秀だと、誤解されては困る。

まだ、男女に、関する、意識の未分化だった頃の、男女の関係というものを、冷静に、検証して欲しい。
男女は、別物だったのだ。

未開部族では、少年が、一人前の男になるために、年長の男と、一時的に、愛情関係、つまり、性交の関係を持つという、風習がある。
極端なことを、言えば、年長の男の精液を、飲むことで、一人前の男になると、考えた。
それを、野蛮とか、無知とか、言えるものではない。

人類は、試行錯誤を、繰り返して、現在の男女関係をも、築いてきたのである。

アフリカの、一部では、大地と、男が性交して、豊穣を祈るという行為もあった。
大地に、精液を、蒔くのである。

それらに関して、善い悪いという判断は、出来ない。

さて、ロトの話である。

「どうかみなさん、乱暴なことはしないでください。実は私には、まだ男を知らない二人の娘がおります。あなたがたに娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから」

聖書の、女性蔑視の、甚だしいことを、ここで、知る。
このような、記述が多く、真っ当に聖書を、読むと、とんでもない、女性差別を生むのである。

女は、子供を産むための、家畜同然の存在であり、当然、真っ当な感覚での、交わりは、同性愛の行為にあると、考えられるのである。
考えられたと、いってもよい。

現代感覚では、計り知れない、古代感覚である。

この奇妙な物語がほかにどんな意味をもつにせよ、聖書に描かれた著しく宗教的な文化において、女性に払われる敬意について何ごとかも語っていることは確かである。結局のところ、ロトの娘の処女を安売りする必要はなかった。というのは、使いの二人は奇跡の力で打ち据えて男たちの眼をつぶし、襲撃者たちを撃退することに成功したからである。
ドーキンス

旧約聖書の、女性蔑視を、徹底させているのが、イスラムである。
これで、イスラム圏の、女性たちの、置かれている立場を、理解できる。

女は、家畜と、同じであるから、何人持っても、いいのである。
そして、同性愛は、神が嫌うゆえに、徹底的に、差別し、殺すのである。

ドーキンスは、また、

この、ロトとソドムの人々の物語は、「士師記」第九章において奇妙な形で再現されることになる。こちらの物語では、名の無いレビ人が側女(妾)と一緒にギブアに向かって旅をしている。彼らは親切な老人の家出一夜を過ごした。彼らが夕食を食べているとき、町の人々がやってきて家の戸を叩き、老人にその男の客を渡すことを要求した。「そうすれば、われわれがその者を知るであろう」。老人は、ロトと同じ言葉でいう。「兄弟たちよ、それはいけない。悪いことをしないでください。・・・ここに処女であるわたしの娘と、あの人の側女がいる。この二人を連れ出すから、辱め、思い通りにするがよい。だがあの人には非道なふるまいをしてはならない」。ここでまたしても、女性蔑視的な精神が声高に、明瞭に表明されている。
ドーキンス

何故、男には、相当な敬意を、払えというのか。
聖書で、人を言うときは、男のことである。
人とは、マンなのである。

レビ人は、側女を、差し出し、結果、側女は、強姦され、死ぬ。
更に、レビ人は、実に冷酷に、女を、十二に切り離して、イスラエルの全土に送るという。

寛容の心をもって言うが、これもまた、聖書のいたるところに見せれる奇妙な記述の一つなのだ。この物語はロトの物語とあまりに似ているので、写本のある断片が事故によって、どこかの久しく忘れられてい写字室で、場所をまちがえられてしまったのではないかという疑いを禁じえない。聖典の来歴に一貫性が見られないことの例証である。
ドーキンス

一貫性が、見られないが、最初に男を、要求する。そして、男には敬意を、払い、女を、差し出し、女は、強姦されて死ぬ。
更に、男たちは、男を、知るというのである。
同性愛行為を、求めるが、それが、叶わず、女を殺すほど、犯すという。
何か、ここに、重大な問題と、秘密が隠されてある。

私は、当時、神が嫌いな、男性同性愛行為が、通常にあり、女性に対しては、驚くほどの、蔑視があったと、考える。
これ以上書くと、論旨が、変わるので、省略する。

ドーキンスは、明確な、女性蔑視と、聖書に、一貫性が見られないことを言う。
つまり、聖書は、神からのものではなく、人間ものであり、それも、大きな誤りのあるものであるということだ。
奇妙な物語という言葉は、そのまま、奇妙と、受け取っていい。

簡単に言えば、何故、これが、聖典なのであるのか、ということだ。

しかし、驚くべきことは、これからである。

神仏は妄想である。72

ロトの二人の娘は、この物語で少しだけ再登場する。母親が塩の柱に変えられてしまったあと、二人の娘は山に登って洞穴で父親と一緒に暮らしていた。男に飢えた娘たちは、父親を酔わせて、彼と交接することを決めた。ロトは、姉妹が彼の寝床に入ってくるのも出ていくのにもまったく気付かなかったが、妊娠させることができないほど酔っ払っていたわけではなかった。次の夜、二人の娘は、次は妹の番であることで意見が一致した。今度もまたロトは酔っ払っていて気付かなかったが、妹も妊娠させた。もしこの異常な家族が、徳の手本として選び出しうる最良のソドム人であったとすれば、神と彼がソドムの町に与えた天罰の業火にある種の共感を抱きはじめる人がいるかもしれない。
ドーキンス

母親が、塩の柱になったのは、ソドムから逃げる時に、後ろを振り返るなという、命令に、背いたからである。
それで、主なる神は、彼女を、塩の柱にしたという。
一体、何故。
女だったから ?

後で、出てくるが、女は、異教徒の女でも、いいのである。
処女であれば、生かして、子供を産ませる。
家畜同然であるからだ。

しかし、女は、異教徒の男と、寝るくらいなら、近親相姦をするのである。

だが、

道徳上の正しさに関する霊感源として聖書を引き合いに出す人は、そこに実際に何が書かれていることを少しでも考えたことがあるのだろうか? 「レビ記」第20章によれば、次のような罪を犯したものは死刑に値する。すなわち、両親を呪う者、姦淫する者、義母または義理の娘と寝る者、同性愛者、女とその娘とを一緒に娶る者、獣姦する者(そして、不運な動物のほうも、泣きっ面に蜂のこどく、殺されなければならなかった)である。もちろん、安息日に働いた者も処刑された。この点は「旧約聖書」全編を通して、繰り返し何度も述べられている。
ドーキンス

そのように、何度も、述べられているということは、そういう者が、多数いたということである。

そして、驚くべきことは、その罪の対象は、皆、男であるということ。
女は、無いのである。

ロトの娘たちは、罪を、犯すも何も、数のうちに、入らないのである。

女性蔑視ではない。
女性、無視である。

これ以上、何を語ることが、あるだろうか。

だが、女性蔑視は、何も、ユダヤ、イスラム、キリスト教だけではない。
仏陀も、女人救い難しと、言う。

女は、男より、一段も二段も、三段も、四段も、五段も、限りなく、低い地位にある。
何故だろうか。
仏陀も、王子の頃は、女の体を、味わい尽くしたのである。
選り取り緑、糞緑まで、女を、セックスの道具として、扱ったのである。

そして、人生の無常を感じ、出家する。

実は、これを、いい気なものと、言う。

仏陀の、一族は、皆、滅ぼされるのである。
自業自得であろう。

日本の神道も、女は、穢れたものという意識がある。
唯一、古神道だけは、伊勢神宮の、斎女を見ても、お仕えするのは、女である。

私の知る限り、古神道、民族伝統宗教にのみ、女に対する差別はない。

バリ島ヒンドゥーなどは、生理の時だけ、礼拝を、遠慮する程度である。
タイ、仏教も、然り。
アボリジニの、儀式は、男の儀式、女の儀式と、明確に区分けして、行う。
両方、同じ重要さである。

掟は、何故、作られるのか。
それを、行う者がいるからである。
旧約時代は、実に、上記に書かれている罪を、犯す人がいたということが、理解できる。

同性愛者という時は、男のことに言える。
何故、女蔑視、無視なのに、同性愛を、嫌うのかは、簡単である。
支配者の、都合である。
同性愛を、容認すれば、支配に、支障が出る。
彼らが、団結すれば、とてつもない、勢力を、持つと、知っているのである。

今でも、一神教が、ゲイを、毛嫌いするのは、支配者の都合である。

聖書以前の、古代の、司祭たちの多くは、同性愛者が多い。
何故か。
特別な、存在として、認められていた。
それでは、聖書の神の、支配が、真っ当できないのである。

雁字搦めの、支配をするべくの、同性愛、嫌悪である。
そして、女性の能力の高さを、見抜いた者が、女性を、貶めた。

どこに、旧約聖書に、道徳の原理を、見いだすことが、できるのか。

余談である。
男の、戦闘意識、戦闘能力を、最大限に生かすのは、飢えである。
あらゆる飢えである。
同性愛を、承認すれば、戦闘意識が、薄らぐのである。

満たされぬ、性欲の捌け口を、戦闘能力に、生かすべくの、ゲイに対する嫌悪である。

だが、アレクサンダー大王に、見るように、同性愛によって、団結を、絆を、堅くした集団は、最強にも、なる。
それを、怖れる。

聖書の神とは、人間である。
もっとも、人間の、愚かさと、儚さを、持った、人間を、神とするのである。
ドーキンスに、言わせると、もっと、酷い言葉になる、のだが。

2008年05月03日

神仏は妄想である。73

ロトのおじのアブラハムは、三つの「偉大な」一神教すべての始祖である。家父長的な地位にあるアブラハムの場合、神に比べていくぶんではあるが役割モデルとして受け止めづらくなっている。しかし、どんな現代の道徳家が彼に従いたいと望むのか? 長い生涯の比較的早い時期に、アブラハムは飢饉を耐え忍ぶために、妻のサライとともにエジプトに行った。彼は妻のように美しい女性はエジプト人が自分のものにしたがり、そのために夫である自分の命が危険にさらされるかもしれないことに気付いた。
ドーキンス

以下、長くなるので、私が、簡潔に書く。

そこで、アブラハムは、妻を、妹として、偽らせる。
サライは、ファラオのハーレムに入り、その結果、アブラハムは、ファラオの寵を受けて、金持ちになる。当然、妻は、女として、扱われた。
神は、その馴れ合いを、許さず、ファラオと、その家に、疫病を与えた。
ドーキンスは、何故、アブラハムにではなく、ファラオにかと、疑問符である。

当然、憤慨したファラオは、何故、嘘をついたのか、訳を知りたいと言う。
サライを、アブラハムの元に返して、二人を、エジプトから追放した。
これは、創世記の、第12章にある。

そして、また、同じことを、ゲラル王アビメレクの時代に、行う。
創世記、第20章にある。

よく似た、記述は、テキストが信用できないものではないかと、ドーキンスは言う。

アブラハムの物語におけるこのような不愉快なエピソードも、彼が自分の息子イサクを犠牲にした悪名高い物語(イスラム教の聖典も、アブラハムの別の息子イシュマエルについて、同じような物語を述べている) に比べれば、ほんの微罪でしかない。神はアブラハムに、久しく待ち望んで生まれた息子を焼き尽くす献げ物として供えるように命じた。アブラハムは祭壇を築き、薪を並べ、イサクを縛って薪の上に載せた。そこへ天の使いが劇的に登場し、土壇場の計画変更の報せをもって割ってはいる。
ドーキンス

この物語は、私が、カトリック教会に、通っていた時に、アブラハムの信仰の深さということで、何度も、毎年、少なくても、一度は、聞かされていた。

太祖の一人としての、アブラハムは、聖人を超えた、神に近い人物の一人だった。
クリスマス前の、待降節という、四週間にわたる、時期の最初の人物が、アブラハムである。

ちなみに、ムハンマド、イスラムの開祖も、このアブラハムの信仰に、回帰することを、掲げて、イスラムを、作った。
私の、イスラムについて、を、参照してください。

結局のところ、神はたわむれにアブラハムを「誘惑」し、彼の信仰を試していただけだった。現代の道徳家なら、子供がそのような心理的トラウマからどうしたら回帰できるのかという危惧を禁じえない。現代の道徳基準では、このような恥ずべき物語は、児童虐待の実例であると同時に、二つの非対称的な力関係の板ばさみとなって起こったイジメの実例でもあり、「私は命令に従っていただけです」というニュンルンベルク裁判の弁護記録に残る、有名な台詞の最古の用例である。なのにこの伝説は、三つの一神教すべてにおいて、偉大な基本神話の一つとされているのである。

・ ・・もう一つは、もし文字通りの事実ではないとしたら、この物語を私たちはどう受け止めるべきなのか、ということだ。寓話として? だとすれば、何のための寓話なのか? 称賛すべきことではないのは確かだ。道徳的教訓として? しかし、この恐るべき物語からいったいどんな種類の教訓が引き出せるというのだ。思い出してもほしいのだが、いまここで私たちが確認しようとしているのはまさしく、事実の問題として、聖書は道徳の根拠や手本ではないということにほかならない。
ドーキンス

そして、もし、聖書の中から、道徳的なものを、取り出すとしたら、何か、独立した基準が必要だという。
その基準は、聖書から、くるのではなく、私たち、すべてが利用できる、規準であろうともいう。

追い討ちをかけるように、ドーキンスは、次の物語を、言う。
士師記、第11章である。

軍隊の指揮官エフタは、もし神がアンモンの人々に対する勝利を、保障するならば、「私が帰ったとき、私の家の戸から出てきて、私を迎えるものは誰であれ」その者を、焼き尽くす捧げ物として、必ず捧げるという誓いをする。
そして、非常に多くの人を、殺して帰った。
出迎えたのは、一人娘だった。
娘は、それを、承諾したが、処女であることを、嘆くために、二ヶ月、山に入ることを願う。そして、二ヵ月後に、父親によって、焼き殺される。

このような、野蛮な物語は、聖書以外に無いと、言ってもよい。

罪の無い者を、生け贄にするという、根性は、どこからのものか。

ここでも、女は、焼き殺されるが、男は、残るということである。
これは、私の見解である。
女は、家畜と同じ扱いなのである。
これが、不思議でしょうがない。

この、神もどきは、女嫌いで、同性愛を、憎むのである。
何故。
心理学では、答えられるはずである。

大量虐殺の話が、あまりに多いのも、気になる。

そのまま、司祭や、牧師の話を信じているうちは、いいが、矢張り、どこか、おかしいと気付く時、それを、宗教家は、信仰の、揺らぎだと言う。また、信仰が、確固たるものになっていないと、言う。

実は、疑問を、持つことが、通常の神経である。
疑問を、持たずにいると、簡単に、テロリストになる。

スペインが、カトリックの名で、南米で殺した人の数は、一億人である。
清教徒が、アメリカインディアンを、殺しつくして、アメリカを、建国した。
大量虐殺が、当たり前なのである。

オーストラリアでは、アボリジニの、先住民族を、無きものにしようとしたが、生き延びている。
漸く、今年、オーストラリア政府は、アボリジニに対して、謝罪した。
謝罪して、許されるものではないが、謝罪した。
何もとりえの無い、オーストラリアは、アボリジニ文化を持って、オーストラリアだといが、現在、アボリジニに対する政策は、実に、みすぼらしいのである。
聖書を、奉ずる民族の有り様を、見る、思いがする。

自戒を込めて、日本の場合を見る。
琉球に対する、薩摩藩の有様は、琉球を、地獄に突き落とした。
沖縄である。
アイヌに対する、和人の有様は、どうだったか。
無情な差別である。
しかし、皆殺しは、なかった。
それでも、対応は、甚だしく、無礼なものだった。

生殺しも、切ないものである。
日本は、謝罪外交で、有名であるが、琉球と、アイヌに対する、謝罪は、聞いたことが無い。

勿論、謝罪して、済むことではない。

沖縄や、アイヌの人が、独立したいと言えば、独立させるべきである。
沖縄と、北海道を、返すといい。

限りなく、不可能ではあるが、その位の、気持ちを、持っていいと、思う。

さて、聖書である。
野蛮極まりない、記述の多い、書物であるということ。
道徳の、規準など、見いだせないということ。

自分の選んだ民がライヴァルの神に気を引かれたときにつねに見せる、神の途方もない激怒は、恋愛における最悪な種類の嫉妬とこれ以上はないというほどよく似ており、現代の道徳家に、これは到底役割モデルにはできないという印象を与えるにちがいない。
ドーキンス

続けて、旧約聖書を、検証してゆく。

神仏は妄想である。74

アブラハムよりむしろモーセのほうが、三つの一神教信者にとっての役割モデルになれそうである。アブラハムは最初の家父長であったかもしれないが、もし誰か一人を、ユダヤ教およびそれから派生した宗教の教義上の始祖と呼ばなければならないとすれば、それはモーセである。
ドーキンス

ここで、実に、不思議だと思うことを書く。
いずれにせよ、聖書の神は、ユダヤ人、セム族の神なのである。
それが、何故、世界宗教にまで、発展し、今では、全世界を、救うなどという、巨大宗教になったのかということである。

例えば、イスラム、アラブの始祖は、アブラハムの、妾の子である、イシュマエルである。
彼は、聖書の中で、はっきりと、野蛮な人種とされている。

そして、ユダヤの十二支族は、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨハネの、子孫である。それが、ユダヤ教である。

新約の、イエスから、キリスト教が、生まれたが、それも、ユダヤ人の宗教だった。

何故、ユダヤ人の宗教、神を、このようにして、信じて、拝むようになったのか。
一民族の、神を、すべての人の、世界の人の、神とすることには、無理があると、思うのである。

侵略して、キリスト教、イスラム教を、布教するということは、理解するが、例えば、日本の場合は、全く関係が無いのである。

ところが、カトリック、プロテスタント、そして、日本の新宗教の中でも、聖書の神を、すべての人の神として、喧伝するのである。

本当に、内容を知ってのことかと、思うが、知っても、知らなくても、どうでもよくて、兎に角、それらしき、神というものを、拝みたいのか。

私の場合は、小学四年の時から、学校の図書館から、伝記物を借りて読むようになり、その中に、キリスト伝もあり、更に、六年生の時に、犬飼道子の、聖書物語を読み、感動して、中学の時に、近くのカトリック教会に行った。本当の聖書を、読みたかったからである。

本当の聖書を、手にしたのは、バルバロ訳だった。
それを、暗記するほど、読んだ。
そして、15歳の時に、洗礼を受ける。

熱心な、カトリック教徒だった。
しかし、それから、勉強などせず、他の宗教の本を、読むようになる。
キリスト教との、相違を知るためである。

ゆるやかに、変化が、起こったのは、二十歳を過ぎた頃である。

感動したのは、文学としての、鎌倉仏教である。
見事なものだった。
私は、多く、文学を、鎌倉仏教の開祖たちから、教えられた。

仏教経典も、読経するようになる。
宗派、問わずである。

疑うことなく、邁進した。学ぶことにである。

更に、新興宗教の、経典、聖典様々なものを、読んだ。
更に、今で言えば、心霊研究である。
こういう変転を、過ぎている。

さて、何故、ユダヤ人の神を、拝むのか。

一つの例を、上げる。
イギリスの産業革命により、時代が変わったと、教えられた。
それは、見事なものだった。
授業では、イギリスの素晴らしさを、学んだ。
そこから、日本も、明治期に、多くを学び、新しい時代が始まったと、ここまではいい。

それから、イギリスの産業革命の、裏を知ることになる。
多くの、植民地からの、搾取により、成ったものであること。
大英帝国は、単なる、搾取の国である。それも、甚だしい、人種差別を行い、黒人を奴隷として、売り渡していた。
イギリス、オランダ、ポルトガル、スペイン等々、皆、植民地からの、膨大な利益により、成ったのである。
それはそれは、とんでもない、人権無視の様である。

さて、そこである。
未開の地に行く。その時に、必ず同行したのが、宣教師である。
まず、神の教えを、伝えるべくの、行動である。
植民地政策に、信仰は、欠かせないのである。

キリスト教が、絶やした民族の数は、数知れない。
従わない民族、部族は、皆殺しにしたのである。

そして、更に、ローマ法王の、物という意識である。
豊臣秀吉が、それに、気付いての、キリシタン禁止であった。
このままでは、ローマの属国にされると、政治家の勘である。

もし、キリシタン禁止をしていなければ、今の日本は無かったかもしれない。
ローマ法王を、戴く国になっていたかもしれない。

要するに、ユダヤ人の神を、拝ませるべくの、行為があったということである。
勿論、武力、暴力によりである。

南米は、大半がカトリックである。
それは、上記のことゆえである。

未開の部族に、正しい神というものを、伝える使命を、宣教師は、持ったのである。
勿論、支配のためである。
宗教による、支配、それは、政治による支配に、成る。
政教分離など、有り得ないのである。
今も、そうである。

日本統治時代にも、日本は、神社などを、作ったし、それを、拝ませたが、ユダヤ人の神の教えとは、根本から違った。
根こそぎ、その地域の伝統を、壊滅させることはなかった。
また、日本の神の総称、天照大神を、布教、宣教するという、アホも、いなかった。

ただし、仏教の中には、アホがいて、少しばかり、布教をしたものもいる。

今でも、仏教国といわれる、国に行き、仏教の、それも偽物の仏教を、布教、宣教する、馬鹿馬鹿しい、新宗教もある。

武力と、暴力によって、ユダヤ人の神を、拝むように、仕向けられた多くの民族、部族である。

今では、その信仰が、浸透して、神もどきの神を、信仰し、拝んでいるという状態である。
ちなみに、日本の場合は、キリスト教徒は、人口の3パーセントである。
多くも、少なくもなく、推移している。

クリスチャンで、神社の神主をしている者もいて、驚くが、神社は、お勤めである。
仕事の感覚で、ある。
それが、御祓いなどをするから、終わっている。

何を、どう説教しても、キリスト教の、教えには、無理がある。
ユダヤ人の神を、一部族の神を、拝むというのは、どう考えても、おかしい。
勿論、彼らは、世界人類の神と、信じている。

その神が、どんな神かを、知らないのは、聖書を、読んでいないからである。

聖書を、読まずに、信じているということは、考えられないが、読んでいないのである。これは、致命的である。

ちなみに、クリスチャンに、旧約、新約聖書の、すべてを、読んだのかと、尋ねてみるとよい。ほとんどが、読んでいないだろう。

また、それほど、主イエスに、命懸けの信仰を持っているとしたならば、新約聖書など、すべて、暗誦できるはずである。

しかし、私は、未だかつて、そんな、キリスト教徒を、知らない。
これからも、知らないだろう。

私の方が、暗誦しているはずである。
よくよく、言っておく、知らないものは、語れないのである。

2008年05月07日

神仏は妄想である 75

モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって言った。さあ、われわれの先に立って進む神々をつくってください。エジプトの国からわれわれを導き上がった人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです。
出エジプト記 第32章1節

人々が、山に触れると、死刑になる、その山で、モーセは、神と語らい、二枚の石版を得ていた。神の怒りに、触れず、神に近づくことが、できるのは、モーセ一人である。

アロンは、人々に、金を集めさせて、それを、溶かして、金の子牛を作った。人々は、それを拝んだ。

そう、人々はそのように神に背を向けるなどという馬鹿なことをしないだけの分別をもっているべきだった。神は山の上にいたかもしれないが、結局のところ全能であり、即座にモーセを執行人として送り出した。モーセは、神が十戒を書き記した石版を手に持って、大急ぎで山を駆け下った。麓に到着し金の子牛を見たとき、彼は怒りに燃えて石版を投げ打ち、砕いた(神はのちに代わりのものを彼に与えた)。モーセは金の子牛をつかみ、火で焼いて粉々にすりつぶし、それに水を混ぜ、人々にそれを呑み込ませた。それから、聖職者の部族であるレビに属するすべての人間に対して、剣を執り、できるかぎり多くの人間を殺すようにと告げた。殺された人間の数は三千にも達し、これだけ殺せば、嫉妬に駆られた神の不機嫌をなだめるのに十分ではなかったのかと思う人もいるかもしれない。しかしちがった。神はそれだけではすまさなかった。この怖ろしい章の最後の一節で下された神の最後の一撃は、「民が子牛を、アロンにつくらせたから」という理由で、残った人々に災厄をもたらすことだった。
ドーキンス

「民数記」は、神がモーセにどのようにしてミディアン人を攻撃するように仕向けたかを述べている。彼の兵たちは、あっという間にすべての男を虐殺し、ミディアン人のすべての町を焼いたが、女と子供は殺さなかった。部下の兵たちがこのように慈悲深い自制をはたらかせたことにモーセは激怒し、すべての男児と、処女でないすべての女を殺せと命じた。「女のうち、まだ男と寝ず、男を知らない娘は、あなたたちのために生かしておくがよい」第31章18節。

不幸なミディアン人は、聖書の記述から言える限りにおいては、自分の生まれ育った国で虐殺された犠牲者であった。
ドーキンス

キリスト教徒よ、見えるか
聖地にいる彼らが
どんなふうに、ミディアン人の群れが
うろつきまわっているか
キリスト教徒よ、立ち上がり、彼らを討て
勝利を考え、敗北を思うな
彼らを打ち倒せ
聖なる十字架の霊験によって

ああなんということか、中傷を受け虐殺された哀れなミディアン人が、ヴィクトリア朝時代の賛美歌で、普遍的な悪を象徴する詩的表現としてのみ記憶されるとは。
ドーキンス

一体、何事か。
何故、なにゆえに、彼らは殺されたのか。
部族、民族、拝む神が違うからか。
異教徒は、殺す、殺せということか。

これか、果たして、道徳の、基本になるものだろうか。

成るわけが無い。

自分に取って代わられるかもしれない神に対してヤハウェが狂気のような嫉妬を繰り広げる悲劇的な茶番劇は「旧約聖書」を通して繰り返し何度も現れる。
ドーキンス

そして、驚くべきことに、神は、自分で言う。
主はその名を妬みといい、妬みの神である。

これで、この神の正体が、解るというものである。

ここ、ここに至ると、何も言葉が無い。

キリスト教徒、マジ、なの、ホント。
全知全能の神。
誰のこと。

在って在るものである。

何とでも、言える。

すべての、神と名を置く宗教は、この程度である。

ちなみに、日本の、教派神道という、新興宗教も、神という言葉を使用する。
例えば、天理、金光、大本等々、である。
神、カミという、言霊を、知らない者が、カミを、言うから、笑う。
大本は、言霊学を、立てたというが、邪霊、悪霊の、類から聞いた言霊の、説明をしても、解るわけが無い。

出口王仁三郎というが、鬼三郎の、間違いであろう。
確かに、巨人であった。誇大妄想の、巨人である。
出口ナオに懸った神と名乗る、その正体を知らないのである。

多くの人、出口に、相当な感激をしているが、性格異常である。
強烈な、精神の狂いによる、霊的能力を、発揮して、人々の心を掴んだといえる。

今でも、大本教を、古神道と思う人がいるようだが、古神道は、開祖、教祖無く、教義も無い。
宗教組織を作るということ、自体に、古神道という、目覚めがないのである。

古神道とは、伊勢神宮である。
勿論、今は、神社本庁という、宗教法人が、何やら、当たっているが、元々、古神道であるから、本来は、関係ないのである。
あるとすれば、天皇陛下のみである。

誇大妄想は、宗教家の、独断場である。
主観のみであり、全く、客観というものがない。
精々、悪霊、邪霊の類で、奇跡めいたことを、行い、人を撹乱させる程度である。

神は、奇跡を、起こさないと、相場が決まっている。

神と名乗るほどの、馬鹿でなし、ということである。本当は。

神仏は妄想である76

・ ・・あなたたちは、彼らの祭壇を引き倒し、石柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒しなさい。あなたはほかの神を拝んではならない。主はその名を妬みといい、妬みの神である。
出エジプト記 第34章13節

そう、私はもちろん、当然のことながら、時代が変わり、今日の宗教指導者の誰も(タリバンやアメリカのキリスト教のような過激な原理主義者は別にして) モーセのように考えてはいないことを知っている。しかし、それこそが私の言いたい要点なのだ。私がここで確認しようとしているのは、現代における道徳は、それがどこに由来するにせよ、聖書に由来するものではないということにつきる。・・・・選び出した聖書の言葉を、文字通りのものではなくむしろ「象徴的な」ものとして解釈するというお気に入りをたとえ使ったとしてさえ、言い逃れるのは無理だ。なぜなら、いかなる基準によって、どの文章が象徴的なもので、どの文章が文字通り理解すべきものであるかを判断しろというのだ。
ドーキンス

象徴的なものとして、解釈する。
その通り、実に、宗教を、やる者、勝手な解釈、何とでも、言う。
そういう意味では、詐欺師の上前を行くのである。

何とでも、いえるのである。
何故か。
それが、宗教である。
妄想なのであるから、何とでも、言う。
嘘でも、そのうちに、本当のように思えてくるから、不思議である。
聞いている方ではない、言っている方である。
それを、おめでたいと、言う。

日が昇るのも、神、花が咲くのも、神、ご飯が食べられるのも、神、何から何まで、神である。勿論、何からなにまで、仏の人もいる。
しまいに、南無阿弥陀仏が、南無阿弥陀仏を唱えるのであるという、禅的妄想の、言葉遊びに至り、恍惚としている様、哀れである。

悟り病というのである。
だから、仏教徒が、逝くと、仏魔の世界に行くと言われる。
頭の中で、捏ね繰り回しているから、霊的上昇など、出来ない。
三次元の少し上の方で、悟り済ましているのである。

方法を目的にしているということに、気付かないのである。

モーセの時代に始まった民族浄化は「ヨシュア記」において血まみれの成果をもたらすが、「ヨシュア記」のテキストは、そこに記録された血に飢えた大虐殺と、その模様を描く上でこれでもかと盛り込まれるよそもの嫌いの感情において注目すべきものである。魅力的な古い黒人霊歌は得意げにこう伝えている。「ヨシュアはエリコを攻めた。崩れ落ちる城壁・・・エリコの戦いにおける古のヨシュアにかなうものなんていない」古のヨシュアは、イスラエルの民が「男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽く」すまで、休むことがなかった。
「ヨシュア記第6章21節」

驚くべき、民族浄化であり、これを、真っ当に読んでいるとしたら、イスラエルが、神に与えられた土地ということで、軍事行動を起こすことが、理解できるというものである。

本当に、聖書を理解すべきである。
何が、書かれているのか、である。

肝心なのは、真実であろうがなかろうが、聖書が私たちの道徳の源泉として引き合いに出されることである。そして、聖書のヨシュアによるエリコの破壊や約束の地全般への侵略の物語は、道徳的には、ヒトラーのポーランド侵略やサダム・フセインによるクルド族やマーシュ・アラブ族の大虐殺と区別しがたいものである。
ドーキンス

日本の古事記には、日本が世界の中心の、中津国であるから、他の国は、皆、日本に恭順しなければならないのである、と言ったら、どうなるか。
気違いである。
我らの神、天照大神を、拝せよと、言ったら、アホである。

どうであろうか。
こうして、比べると、良く分かる。

排他的、非寛容の、聖書の記述は、恐るべき、蒙昧である。

世界の三代書物に、聖書、コーラン、仏典と、挙げられるが、全く、誤りである。
ギリシャ神話、源氏物語、千夜一夜物語であろう。

ついでながら、この物語における「神」という人格が、約束の地の占領にともなう大虐殺や民族殲滅について、何らかの疑念や罪の意識を抱いていたとは思わないでほしい。逆に、たとえば「申命記」第20章における神の命令は、情けのかけらもなくあけすけである。彼は彼自身にとって必要な地に住んでいる人間と遠く離れたところにすんでいる人間を明確に区別した。後者は平和的に降伏するように勧告しなければならない。もし拒絶すれば、男は殺し、女は繁殖のために連れ去られ。この比較的人道的な扱いと対照的に、あまりにも不運なことは、すでに約束された生存圏に定住してしまっていた部族にいったいどんなことが用意されていたか、見るがいい。「あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、エプス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさなければならない」
ドーキンス

スペインが、平気で、南米にて、一億人を殺す。
アメリカインディアンを、殺して、建国する、等々の、意味が分かるというものである。

私を愕然とさせるのは、現在でも人々が、ヤハウェのような怖ろしい役割モデルを生き方の基盤にしているということであり、こちらはもっと始末におえないことだが、彼らがその同じ邪悪な怪物(事実であれフィクションであれ) を、残りの私たちに居丈高に押し付けようとするにちがいないことである。
ドーキンス

どんなに、穏健な宗教家によっても、それらを、止めることは出来ない。
穏健な、宗教家も、元は、それから、発しているのである。
穏健は、それらの、過激な原理主義を、やんわりと、後押しするということである。
それは、実に、また、怖ろしいことである。

世界各国に、穏健な宗教家たちが、福祉や、ボランティア活動を通して、教えを広めている。そして、その原動力は、邪悪な人格を、持つ、主なる神なのである。
その、神の名を述べ伝えるための、活動である。

本人たちも、羊のようにと、思うが、皮を剥ぐと、狼なのである。
しかし、本人たちも、それに気付かない。

核兵器以上に、危険な武器を、持つと知らずに、善意を行うという。

その国、地域の伝統を、破壊し、そして、邪悪な主なる神の教えを、伝える、所業は、悪である。

日本人が、世界各地に行き、ボランティア活動をしても、決して、天照大神を、伝えるものではない。
まして、何かの、イデオロギーを伝えるものではない。
それを、思えば、単なる金儲けと、見られる活動も、甘いものである。
金で、片をつけるのである。
惨殺、虐殺など、頭に無い。

いかに、表面を、装っても、これで、大元が、解られたということである。

末端の宣教師たちは、きっと、信仰の情熱に駆られて、宣教活動を、繰り返したのであろうが、その後は、見て御覧の通りである。
虐殺、虐殺、また、虐殺である。

最初は、羊が来るが、後で、狼が来る。

最も、罪深いものは、宗教指導者、それらである。
手を汚すことなく、悪行の限りを尽くす。

霊界には、天国も極楽も、地獄も無いが、できれば、地獄というもの、彼らのために、開かれて欲しいと願う。

宗教の開祖、教祖は、多く、ナメクジのように、霊界で、這っているが、それだけでは、済まされないということを、私は、願うものである。

ちなみに、私見であるが、この世は、地獄である。
見て御覧の通りである。

2008年05月08日

神仏は妄想である。77

2005年5月8日 ロンドン・インディペイント紙
歴史的に名高いメッカ、かのイスラム教揺籃の地が、宗教的狂信者による前例のない猛攻撃によって埋もれつつある。この聖地の豊かで何層にも積み重なった歴史のほとんどすべてがいま、消えてしまおうとしている。・・・いまや、預言者ムハンマドの実際の誕生の地は、サウジの宗教権威者たちの黙認のもとで、ブルトーザーで壊される危機に直面している。宗教権威者のなかでも強硬な一派によるイスラム教解釈が、自らの遺産を消滅させることを強いているのである。・・・・

だが、メッカーーーあるいはシャルトル、コークミンスター、ノートルダムの大聖堂、シュダゴン・パゴダ、京都の寺院、あるいはもちろんバーミヤンの大仏像―――をブルトーザーで壊そうとする無神論者がこの世にいるとは、私には信じられない。ノーベル賞を受賞したアメリカの物理学者スティーブン・ワインバーグが言うように、「宗教は人間の尊厳に対する侮辱である。宗教があってもなくても、善いことをする善人はいるし、悪いことをする悪人もいるだろう。しかし、善人が悪事をなすには宗教が必要である」。ブレーズ・パスカル(パスカルの賭けのパスカルである)も似たようなことを言っている。「人間は、宗教的な確信をもっておこなっているとき以上に、完璧かつ快活に悪をなすことはない」
ドーキンス


私は、ドーキンスの「神は妄想である」という本を、引用して、神仏は妄想である、を、書いている。

ドーキンスは、一神教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を、主にして、神というものの、正体を書く。
私は、それに、仏という、ものも、取り上げている。

神と、仏の違いは、神とは、完全無欠に、人間と、隔絶したものである。対立しているのである。
人間は、神の子であるといっても、決して、神には、なれないし、ならないのである。
仏は、人間が、成ることの出来るものである。
仏に成るために、仏教という、宗教がある。

しかし、その、仏教も、矢張り、仏というものを、隔絶しているのである。
仏というより、その手前の、菩薩を見ても、良く分かる。

つまり、菩薩を拝む対象としているのである。
更にまた、開祖、教祖を、拝むということもある。

極めて、一神教の要素が、漂うのである。

勿論、多くの、如来、菩薩、等々があり、それぞれが、信仰の対象になっている。
勿論、それらは、皆、人間の妄想の、産物である。
観念である。

日本の仏典の、多くを漢訳した、玄奘三蔵法師は、天山山脈を越える時に、観世音菩薩を、念じて、越えた。
だから、観世音菩薩が存在するのではない。
多く、玄奘を論ずるものは、観音様の加護により、等々の、気味の悪い話をするが、玄奘ほどの、頭脳明晰な者が、それに、迷うはずもない。

しかし、玄奘は、次に生まれる時には、観世音菩薩の元に、生まれたいと願うという、可愛らしい祈りを捧げている。

その、玄奘が漢訳した、般若経では、観自在と、訳している。
観世音と、訳したのは、クマラジューである。

死ぬ思いをしての、天竺大旅行を終えた、玄奘が、観音様を、観自在と、訳したのである。
つまり、それを、観念と知っていたということである。
故に、自らを観るところに在るものと、訳したのである。

大乗仏教を、徹底的に学んだ、玄奘は、それらを、人間の観念であると、見抜いていた。しかし、それは、方便であると、知っていた。
方便がなければ、教えは、成り立たないのである。

定義を、置かなければ、話が、始まらないのである。

方便は、定義であった。

人間の、無明を知る者、それは、無明を知らない者に、まず、対立したものを、置くことで、説教が始まると、知っている。

仏という、超越したものを、置くのである。
しかし、それは、仏陀が、教えたものではない。
仏陀は、超越したものを、認めなかった。
超越するとしたならば、それは、私である。と、気付いたのである。

更に、重大なことは、仏陀は、行為を持って、行為したのであり、その教えは、行為するものだった。
故に、人は、行為によって成るものに成るというのである。

教えは、一代で、終わるように、仏陀も、一代で、終わった。
以後、仏陀の教えは、堕落し、今、現在の如くである。

仏教の教義は、皆、古代インドの、思想を、持っての、言葉遊びである。

私が言いたいことは、宗教というもの、すべて、一神教に似るということである。
つまり、対立したものを、置いて、それに、祈る、拝むという行為である。

仏陀は、祈ったか。
静かに考え、静かに行為し、静かに、歩くのみである。

崇めるという、気持ち、心理は、古代信仰の、太陽信仰から、発している。
それは、すべての民族の元の、心情である。
崇拝するものは、太陽であった。
それの、名残が、対立した、神や仏を、置くという、宗教というものに、出来上がった。

ちなみに、宗教という観念は、キリスト教から出たものである。

侵略した、土地土地の、部族の信仰を、見た者が、キリスト教とは、違う信仰形態がある、と、それを、研究するべく、宗教という観念が出来上がった。非常に、歪なものである。
それらの、部族信仰は、発達途上のものであり、いずれは、キリスト教に行き着くと考えた。
しかし、根がアホである。
行き着くはずなどない。

要するに、キリスト教という、ものの見方、考え方しか、頭に無いから、理解出来ない。アホであろう。
人間は、自分の内に無いものは、見えない、理解出来ないのである。
宗教学というものが、他信仰の理解と、相違点を考えるものになっていったのである。

人間は、単細胞の者が多い。
一神教は、そういう人間にとって、理解しやすいものである。


この節の目的は、私たちが聖書から道徳を得るべきではないと立証することではない(私は個人的にはそう思うが)。私の目的は、私たち(そしてここにいる大部分の宗教を信じる人々が含まれる)が事実の問題として、聖書から道徳を得ていないと実証することにあった。
ドーキンス

しかし、道徳もなにも、宗教指導者たちの、傲慢な、無知振りを見れば、明らかであるが、手の付け様も無い、状態に、陥っているのである。

私は、提案する。
是非とも、精神医学の立場から、彼ら、宗教指導者の、病理を、解明して欲しいと。

あれは、病気であろう。
そう、こころの病である。

一人が、狂えば、病院行きだが、大勢が狂えば、宗教となる。
つまり、宗教とは、狂った者たちの、集団であるということである。

と、言うことは、手のつけようが無いと、判断する。

それらが、世界を、指導しているのである。

この世は、地獄である。

2008年05月10日

神仏は妄想である78

さて、道徳的な観点からして、イエスが「旧約聖書」の残忍な鬼畜よりもかなりまともになっているのは否定できない。実際イエスは、もし実在したのであれば(あるいは彼でなければ、実際に聖書を書いた誰かでもいいのだが)確かに、歴史上の偉大な倫理革新者の一人であった。
ドーキンス

私は、新約聖書のイエスに、少年時代、浸りきった者である。
イエスの言葉、つまり、新約聖書の言葉を、拡大解釈する、司祭、牧師の話を、支持していた。
ところが、イエスの言葉は、世界的に、拡大解釈して、考えられないものであると、知る。

ユダヤ教と、二千年前の、当時の、ある地域を、検証すると、それが、解る。
イエスは、日本のことを、知っていたのか。
イエスが、日本にまで、やって来たというような、お話は、楽しいものだが、それは、ほら吹き話である。

聖書を、書いた者は、日本の存在を知らない。
世界の果てにまで行き、私の言葉を、述べ伝えよ。
あの当時の地域の人の、世界というものが、如何なるものだったのか。

拡大解釈をして、世界の果てまで行き、人殺しをしたのは、誰か。

私が、キリストの絶唱を、書いたのは、イエスの奇跡を、絶対肯定した。
教祖たるものになるには、奇跡が、必要不可欠である。
今でも、病が、癒えると、ほら吹き嘘を、喧伝して、信者を集める宗教もどきが、多い。
普通のことを、言っていては、信者は、集まらない。
奇跡を起こすのである。

宗教を、立ち上げた時、教祖、及び幹部たちは、まず、伝言ゲームのように、奇跡話を、広める。
関西にある、有名教団の最初も、そうだった。
関西弁で、おもろ奇跡の話を、広めた。
なおるんやて
何が
病気が
ホンマ
ホンマ
銭かからんって
ホンマカ
ホンマ
行こ
ほな、行こか

そして、紙袋を渡されて、毎日、一円でも、十円でも、百円でも、いいから、感謝の心で、入れなさい。それを、教団に持ってゆくという、愛は地球を救うという、胸糞悪いテレビのように、金を集めた。
金は、貧乏人から、広く集めるというのが、大阪商人である。いや、近江商人か。いや、瀬戸内商人か。どうでも、ええは。

兎に角、人を集めることなのである。
人が集えば、金が集う。
どんなに、いいことを、言っても、それは、透けて見える。
それで、会館、学校、あらゆる施設を建てる。
信者は、我が教団は、と、誇るが、皆、信者の金である。
ところが、指導者、教祖を、崇めるという、愚かさ。

拝みたい、騙されたいと、いう人多く、矢張り、この世は、地獄である。
拝まれたい、騙したいという、者あり、この世は、地獄である。

山上の垂訓は時代のずっと先をいくものだった。彼の「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」は、ガンジーやマーティン・ルーサー・キングを2000年も先取りするものである。

イエスは自らの倫理を、彼の成長のよりどころとなった聖書から導き出すだけでよしとしなかった。彼ははっきりと「旧約聖書」と決別し、たとえば、安息日の掟を破ることについての怖ろしい警告を諌めた。「安息日は人間のためにつくられたのであり、安息日のために人間がつくられたわけではない」という彼の言葉は、賢明な言葉として一般化されている。本章の主要なテーマは、私たちの道徳を聖書から導き出していないし、また引き出すべきではないということだから、イエスは、まさにこのテーマを実践した模範として、讃えられるべきである。
ドーキンス

イエスの言葉が、当時画期的だったことは、安息日に行動することは、死刑なされたということである。信じられないことだが。

つまり、イエスの言葉は、当時のユダヤ教に対する、最大の挑戦であり、いずれは、殺されること、必至なのである。

これは、聖書作家の、イエスの十字架への道の、伏線でもあると、私は、見ている。

まず、人の心を、掴むには、二つの方法がある。
特に、宗教においては。
まず、既成の教えを、延長したところから、新しいものを、重ねる方法である。
新興宗教の方法である。

しかし、中には、日蓮のように、すべて否定して、斬新、新鮮な、教えを、掲げる者もいる。それでも、既成のものから、抜けてはいないのだが。

神道系の教団は、必ず、古事記からの、お話を、盗み、教団の教義、経典を、作る。
仏教系は、既成宗派の、教義を、盗む。

何とでも、言えるのだから、何とでも言う。

天理教は、天理王の命、大本教は、丑寅の金神とか。
教祖の妄想、彼らは、霊能力と言うが、それが、どこのレベルの霊能力かを、知らないのであるから、哀れである。

普通の生活が出来る程度の、狂いが必要なのである。
その、狂いが、教祖たる、資格を持つ。

そして、教祖を、見ていて、私も、教祖になって、拝まれたいと思う者が、また、宗教を、作る。
懲りない面々である。

一々例を上げるが、面倒なので、言わない。

「もし、だれかが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない」アメリカのコメディアンであるジュリア・スウィーニーは、自分のワン・ウーマン、ショー「神様さようなら」の中で、自らの困惑を次のように表明している。「それはカルトがやることじゃない? あんたに教えを授けるために、あんたが自分の家族を拒絶するようにさせるなんて? 」そのいくぶん危なっかしい家族観にもかかわらず、イエスの倫理上の教えはーーー少なくとも「旧約聖書」が倫理に関しては惨憺たるものであったことに比べてーーー賞賛すべきものた゛った。
ドーキンス

ここでも、私は、気付くことがある。
夫を、捨ててとは、出てこないのである。
男に対する言葉であるということだ。
イエスは、女を弟子にしなかった。
何故か。
以下省略。

さて、ルカの福音書では、
私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架をせおって私に従え。自分の命を救おうと思うものは、それを失い、私のために命を失う人は、それを救うのである。

明らかに、イエスの死後を経て、解釈したものであること、明々白日である。
新約聖書の、四つの、福音書は、すべて、後からの解釈により、書かれたものであることが、解る。

上記の、訳は、私が中学の頃から、読んでいた聖書である。
実に、最低の訳である。
そのせいで、私の文章も、このようになったと、思う。しかし、今更、変えられない。

さて、キリスト教徒は、旧約に、問題があっても、新約に救いがあると信じる。
しかし、新約にも、重大な、キリスト教の中心教義にある、暴論がある。
それが、パウロ神学として、現在のローマカトリックの教義を作っている。

決して、イエスの教義ではないところが、ミソである。
パウロという、イエスを知らない者が、打ち立てた教義である。

ちなみに、聖書の最初にある言葉である。

カトリック教会は、ヴァチカン公会議において、聖書を次のように定義した。
聖書は、最初普通の本のように書かれ、後に公教会の認可を得たか、あるいは、啓示された教理を純粋に含んでいるという理由のためではなく、実に、聖霊の霊感のもとにしたためられ、その著者として神をいただき、またそうした著書(霊感によるもの)として公教会にまかせられたという理由のために、「正典」として認めるものである。

上記、この感覚が、カトリックの、まとも、なのである。

支離滅裂な、暴言としか、言いようが無い。

平然として、嘯くあたりは、宗教の見本であり、手本である。

世にある、宗教の経典とは、皆々、この類なのである。

いかに、ギリシャ神話、源氏物語、千夜一夜物語が、真っ当であるかが、解る。

聖書を定義する。聖霊の霊感という。霊感とは、教会が魔と決定しているのではないか。公教会に任せられたという。誰か任せた? 勝手に、そう言うだけである。
単なる、権力により、ユダヤキリスト教徒から、奪ったものではないか。
そして、だから、正典として認めるという。何の根拠も無いのである。

明日から、私が、主イエスキリストの、唯一の、後継者であると、言ってもいいのである。

韓国の、イエスキリストの生まれ変わりだという、最低最悪の統一教会の教祖と、変わらない。金集めには、手段を選ばないという。今でも、霊感商法をもって、日本で金集めをしているのである。

話にならない。

神仏は妄想である

「新約聖書」神学の核心に位置するこの教えは、道徳的には、イサクを焼き殺す準備をしたアブラハムの物語とほとんど同じくらい胸くその悪いもので、またよく似ているーーーそれは、ユダヤ学の専門家、ゲザ・ヴェルメンシュが「イエスの変貌」で明らかにしているように、偶然ではない。原罪そのものは、「旧約聖書」のアダムとエバの神話から直接に由来するものである。彼らの罪―――禁断の木の実を食べたことーーーは、単なる叱責ですみそうな、軽微なものに思える。
ドーキンス

この、アダムとエバの、話は、よくよく、考えてみれば、如何に、聖書の神というもの、捻くれたものであるかが、解る。
旧約聖書の神が、どんな人格であったのかは、すでに、述べたが、手のつけられない、自作自演のものであることが、理解できる。

魔神、悪霊と、呼ぶに相応しい、これ以上の、魔神は、いないという存在である。

人間に、生まれ持った、原罪という罪があると、信じるという、精神異常は、計り知れない、妄想を、人間に抱かせた。


しかし、この実の象徴的な性質(善悪についての知識、実際上は、自分たちが裸だという知識であることが明らかになる)のゆえに、リンゴを盗むといういたずらが、すべての罪の源泉とみなされるのに十分だった。彼らとその子孫すべての子孫はエデンの園から永遠に追放され、永遠の命という天からの贈り物を奪われ、田畑と出産においてそれぞれ、何世代にもわたる苦痛に満ちた労働を強いられることになった。
ドーキンス

私も、更に、しかし、と言う。
田畑を耕すという、苦痛に満ちた労働を、強いた神は、それさえも、否定することになるのである。
それは、アダムとエバの子供である、カインとアベルの、話に出るものである。
これは、後で、書く。

旧約聖書、創世記から、神は、その正体を明かすのである。

まず、エバをそそのかした、蛇に神は言う。

「おまえは、このことをしたので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最も呪われる。おまえは腹で、這い歩き、一生、ちりを食べるであろう。わたしは恨みをおく、おまえと女のあいだに、おきえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おきえは彼のかかとを砕くであろう」

そして、エバには、
「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」
そして、アダムに言う、
「神はあなたのために呪われ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る」

ここでは、呪い、恨み、苦しみ、という言葉が、ずらりと、並ぶ。
通常、呪いというのは、悪魔のすることである。
神は、呪うということを、しない。
あらゆる宗教の原点をみれば、呪うのは、悪魔、悪霊である。

旧約聖書に、悪魔というものが、出てこない。
何故か。
神が悪魔だからである。

余談であるが、ユダヤと、日本の関係が深いという、想像をもって、語る人々がいる。
旧約聖書と、日本の古代史の、接点や、統合である。
有り得ない。
事後預言と同じで、如何様にでも、意味をつける。想像、妄想できる。

ユダヤ十二支族の一つが、日本だという、大ばか者もいる。
文様や、言葉を取り出しての、接点である。
一つは、日本が先だ。一つは、ユダヤが先だと、言う。
妄想もほどほどにと、言っておく。

カインの捧げた、農産物より、アベルの捧げた、血の滴る羊の捧げ物を、何の意味も無く、アベルの捧げ物を、善しとしたのである。

はっきり言っておくが、日本には、血の滴るような、獣を神に捧げるという、伝統は無い。

そして、更に、神は、善良なカインに、弟を殺させるという、人類最初の殺人を犯させる。
この、捻くれた神は、そこでも、更に、カインを、追い詰める。

「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の上からわたしに叫んでいます。今あなたは呪われてこの地を離れなければなりません。この土地が口を開けて、あなたの手から弟の血を受けたからです。あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」

これは、完全な、イジメである。

地を耕せと言う。しかし、その実りを拒み、血の滴る獣を受け取る。更に、嫉妬を起こさせて、弟殺しをさせ、それで、更に、あなたが土地を耕しても、実を結ばないという。

完全に、人間を、捏ね繰り回している。

更にである。
まだ、ある。

カインは主にいった。「わたしの罰は重くて負いきれません。あなたは、今日わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならなければなりません。わたしを見つける人はだれでもわたしを殺すでしょう。主はカインに言われた。「いや、そうではない。だれもイカンを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」そして主はカインを見つける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。

善良なカインを、散々弄び、結果、カインは、ならず者として生きるしかなくなるという、おぞましい、話である。

善良なカインは、主から受けた、しるし、によって、今でも、その末裔は、殺戮を繰り返している。
それが、復讐という言葉に、現される。

神が、復讐を言うのである。

自作自演も、ここまでくれば、完全に狂っている。

勿論、私が、教会で、習った、カインとアベルの話の、意味合いは、全く別の解釈により、
神の本当の姿を、考えないようなものになっていた。

物語から、神の正体を逸らし、弟殺しをした、カインは嫉妬により、人類最初の殺人を犯した。すべての罪は、嫉妬からはじまった。
さらに、サタンという、悪魔も、神が人間を愛するのを、御覧になり、嫉妬を起こして、大天使だったが、サタンに落ちたと、教えた。

大天使ルチフェルが、悪魔サタンになった。
嫉妬で。

妬みの神と言ったのは、誰か。
最初に、嫉妬したのは、誰か。

神自身が、悪魔であることを、宣言しているのである。

復讐、報復という、言葉は、旧約聖書から、始まる。
これを、正典としている、ユダヤ、キリスト、イスラム教の、本当の姿が、解るというものである。


このあたりを見ると、あまりに容赦がなさすぎる。これは「旧約聖書」では当たり前のことだった。だが、「新約聖書」神学はそれに、その悪質さにおいて「旧約聖書」さえも凌ぐほどの、新しくサドマゾヒズムで仕上げをした不当な処置を付け加える。宗教が、しばしば首にかけられる聖なるシンボルとして、拷問と処刑の道具である十字架を借用しなければならないというのは、よくよく考えてみれば、驚くべきことである。
ドーキンス

2008年05月11日

神仏は妄想である。80

しかし、その十字架を支える神学と懲罰理論は、それよりさらに悪いものだ。アダムとエバの罪は男系の系譜に沿って伝えられてきたと考えられている。―――アウグステイヌスによれば、精液によって伝達されることになっている。すべての子供に、生まれてくる前にさえ、はるかに遠い祖先の罪を受け継ぐように強調するというのは、いったいどういう種類の倫理哲学なのか? ついでながら、アウグスティヌスは当然のように、自らを罪に関する個人的な権威をもつ人間だとみなしていて、「原罪」という表現を造語した張本人である。彼以前には、それは「先祖の罪」と呼ばれていたのである。
ドーキンス

この、アウグスチヌスというのは、カトリックでは、教父とされ、聖人である。
ちなみに、彼は、さんざん女遊びをして、飽きた。そこで、改心して、神の信仰に、のめり込んだ。
女の次に、神にである。
聖人の中には、そいう者、多数。
いい気なものである。

女と、365日セックス三昧で、三年も続ければ、飽きるに決まっている。
その次に、改心をして、神の信仰に生きたという。
これが、聖人という者の、定番である。

更に、悪いのは、そのセックスを罪、罪、罪、罪、更に、罪と、よく言うものである。

人の人生に君臨しようという人物にしては、なんという意地悪くけちくさい偏見であることか。サム・ハリスは、「キリスト教国への手紙」において、爽快なまでに手厳しい。
「あなたがたの主たる関心は、宇宙の創造主が、人間が裸でするような行為に腹を立てるだろうか、ということにしかないようだ。あなたがたのこの潔癖さが、日々、過激なほどの人間の悲惨さに貢献しているのだ」。
ドーキンス

宗教は、夫婦の寝室を、監視することで、成り立つという、不自然さである。
セックスに介入することで、人間を支配しようとする。

本能を、罪とするのだから、終わっている。

ちなみに、日本の古神道、及び、民族伝統宗教は、多く、本能を、恵みとして、捉える。
欲望を、恵みという、健康的なものとして、捉えるのである。
更に、欲望を、命の讃歌とする。
実に、真っ当である。

罪の意識を、抱いて、シコシコセックスするという、真似はしない。

さて、このキリスト教神学を作ったのは、イエスではない。
その弟子たちでもない。
イエスの死後に、一人の強迫神経症の男が、イエスに、突然改心したのである。
その名を、パウロという。

話をサドマゾヒズムに戻そう。神は、アダムから受け継いだ罪の贖いとして拷問され処刑されるために、人間イエスとして自らを顕現させた。パウロがこの不快な教義を説いて以来ずっと、イエスは私たちすべての罪の救い主として崇拝されてきた。アダムの過去の罪だけではない。未来の罪までも救うのだ。本来の人々がまだその罪を犯そうとしてもいないのに。
ドーキンス

ここで、主イエスの十字架により、我々の罪が許されているのだ、さあーー、遊び尽くせという、教義が、現れないのが不思議だ。
親鸞ならば、主イエスが、すでに、未来の罪も許している、私は罪人だから、どんどん、女と寝る。この、どうしょうもない、罪深い人間である、私は、主イエスに救われている。
南無イエスと、念仏、いや、念主を、作り上げるだろう。

手のつけられない、屁理屈を、作り上げるのが、宗教家の、得意技である。

それを、後世の人が、あんたら、こんたらで、こんたら、あんたら、である。と、解説するという、愚劣である。
深い迷いこそ、信仰の深さである、等々、しょうもない、屁理屈を、あたかも、考えているかのように、考えるという、頭の悪さである。

空海ならば、その悪魔の神を、縦横無尽に使い、護摩を焚いて、招霊し、おどろおどろしく、ヤーウェ曼荼羅を作り上げて、奇跡を行い、密教の上前を跳ねるだろう。

知能レベルが、低いほど、あの、曼荼羅というものに、曳かれるらしい。
さらに、宇宙を表すものだというから、呆れる。

芸術というなら、解るが、拝むものでも、奉るものでもない。

ユダの失われた福音書と称される写本が最近になって翻訳され、その結果、広く世間に知られることになった。その発見の状況には論争があるが、1970年代あるいは60年代のいずれかの時にエジプトで発見されたように思われる。それはパピルスに書かれた62ページのコプト語写本で、炭素年代決定法によって西暦300年前後のものとされるが、おそらくは初期のギリシャ語原本から写されたものである。著者が誰であれ、この福音書はイスカレオテのユダの視点から書かれたものであり、ユダがイエスを裏切ったのは、イエスが彼にその役割を演ずるように頼んだからこそであったことを証拠立てている。イエスが磔になったのはすべて、人類を救うための計画の一部だったのだ。この教義は胸くその悪いものであるが、ユダがそれ以来ずっとけなされてきたという事実は、不愉快さをさらにいっそう募らせるように思われる。
ドーキンス

私も、すぐに、ユダの福音書を読んだ。
その手の、危険な書物は、最初、日本語に訳される。
日本では、ユダヤ教もキリスト教も、騒がないからである。

ちなみに、「キリストの棺」という、本が出て、センセーショナルを巻き起こしている。勿論、キリスト教国である。
イエスの妻の、マリアと、息子との、墓が、見つかったというものである。
新約聖書に、出ている、マグダラのマリアが、妻だという。息子もいた。
その墓が、見出されたというものである。

科学で、実証されたものである。
しかし、すべての、キリスト教は、無関心を装う。
当然である。
すべてが、覆る。

イエスの死体は、無い。
昇天したからである。
今更、墓が、見つかり、死体があったなどと、認めるはずが無い。

事実は、どうでもいい。
宗教とは、妄想で、いいのである。

2008年05月13日

神仏は妄想である81

私はここまで、キリスト教の中心教義である贖罪が悪質で、サドマゾヒズム的で、不快なものであると述べてきた。それがあらゆるところに身近なものとして存在し、私たちの客観的なものの見方を曇らせてきたということさえなければ、狂人の遠吠えとして片付けてしまえたかもしれない。もし神が私たちの罪を赦したいと望んでいるなら、なぜ、その代償として自分が拷問を受け、処刑されたりせずに、ただ赦さなかったのか。ついでに言えば、神がそんなことをするから、ユダヤ人のはるか未来の世代までも、「キリスト殺し」として虐殺と迫害を受けるべく運命づけられてしまったことになるのだろう。この連綿と受け継がれる罪も、精液を通じて子孫に伝えられるものだと言うのか。
ドーキンス

実際、イエスの、原始キリスト教とは、ユダヤ人のイエスキリストであった。
しかし、それが、ユダヤ人のキリスト教徒は、皆殺しされて、ローマカトリックが、正統とされた。
勿論、権力によってである。
ドーキンスも、後で言うが、イエスの教えは、ユダヤ人に向けてのものである。
隣人愛という、教えも、ユダヤ人に、与えられたものである。
それが、何故、こんな、歪な世界宗教になったのか。
すべては、フランク王国時代からの、いや、それ以前からの、ゲルマン人の野蛮さによる。

彼らは、インド大陸においてさえ、インドの伝統と、宗教を徹底的に、壊して、滅茶苦茶にしたのである。
バラモンなどは、彼らからのものである。
野蛮極まりない教えである。

大航海時代に、野蛮な彼らは、キリスト教の十字架を、未開の地に、掲げて、その土地の民族を皆殺しにして、平然と、侵略行為を行い、我らこそ、神に選ばれた者であるという、実に、傲慢な意識で、好き放題にやったのである。

イエスが、ユダヤ人ではなく、白人に、変容させたのも、彼らである。

イエスは、ユダヤ人である。


パウロは、・・・・
血を流さずして贖罪はないという古いユダヤ教的な神学原理にどっぷり漬かっていた。実際、彼は「ヘブライ人への手紙」において、それに等しいことを言っている。だが、今日の進歩的な倫理学者は、いかなる種類の応報刑論も擁護しがたいものであると考えており、とすれば、罪人の犯した罪の代償として無実のものを処刑する、いわゆる身代わり説などは論外ということになる。いずれにせよ、神はいったい誰のためにアピールしようとしていたのか。(という疑いを禁じえない)? おそらく彼自身であろうーーーなにしろ彼は、処刑される犠牲者であると同時に、判事でも陪審員でもあったのだ。挙句の果てに、原罪に手を染めた張本人と想定されているアダムは、そもそもけっして存在しなかった。この、なんとも無様な事実―――パウロが知らなかったとは仕方が無いが、全能の神(そしてもしイエスが神だと信じるならばイエスも)おそらく知っていたーーーは、このもってまわった、胸くその悪くなる理論全体の前提を根本的に突き崩すものである。
ドーキンス

これで、キリスト教の根本教義は、成り立たなくなる。
全人類の罪の贖いによる、十字架というもの、である。

キリスト教徒は、本当に、聖書というものを、読んでいるのか。
読んではいない。
旧約聖書から、真っ当な感覚で、読み進めば、その、知性と理性によって、おかしいと、気付くはずである。
要するに、惰性と、習慣、慣習によって、成り立ったもの、それが、キリスト教である。
だが、それは、手加減して言うことである。

すべては、教会という、お化けが、人を支配するために、掲げた、教えである。

ローマが、突然のように、キリスト教を、国教と、公認したのは、皇帝の支配に善しとしたゆえである。更に、ローマに、教会を建てた、カトリックは、皇帝と結んで、人の心の支配を、確実にした。

そして、そうだ、もちろんアダムとエバの物語は、象徴的なものでしかなかったはずだーーーあくまで象徴的な。ということは、自分自身にアピールするために自らを拷問し、処刑したイエスは、実在しない個人が犯した象徴的な罪のために、身代わりとして罰を受けたことになるのだろうか? 何度も言うようだが、これは狂人のたわごとであるだけではなく、不愉快この上ない言い草である。
ドーキンス

真っ当な、神経の者から、見れば、こういうことになる。

カトリック教会のみならず、すべての、キリスト教徒に言えることだが、信仰は、極めて個人的行為であるから、信じるというならば、言うことは無い。
ただし、それを、喧伝する、更に布教する、そして、宣教ということになれば、多くの混乱を、引き起こすこと甚大である。
聖書を、読むというのは、他人には、趣味のようなことである。

自分の趣味を、人に押し付けるような、無礼な者は、いないであろうが、いるとするならば、それは、僭越行為以外の何物でもない。

全く、悪魔のような、神の思想と観念であること、真っ当な者ならば、知る。
いや、悪霊としか、いいようがない。

イエスが、悪霊に支配されていた、ということも、有り得るのである。
自作自演の、大芝居ならば、拍手を送るが、それを、正しい教えであり、人類を救うというのならば、認められない。

人間は、救われる、必要も無ければ、更に、仏教が言う、仏に成ることも無い。
人間は、人間であれば、いいのである。

救われるという、妄想、神の存在の妄想、果ては、仏に成るという、妄想は、如何に、人生が、暇つぶしであろうと、あまりに、愚かである。
何故、天国に入る必要があるのか、何故、仏に成る必要があるのか。

知恵を、得ることは、大切なことである。
それが、霊的能力を、目覚めさせるというなら、解る。
それが、生きるということを、肯定するというなら、解る。

旧約聖書、箴言の書に、神を恐れることは、知恵のはじめ、とある。
神という、妄想を、想定しなければ、考えることができないというほど、妄想の観念に、やられてしまうということ、である。

「旧約聖書」「新約聖書」の両方で一見推奨されているように見える、他者に対する道徳的配慮の多くが、もともとは非常に限定されたもので、そこに属する個人が帰属意識をもちやすい、いわゆる内集団に対してのみ適用されたものであったことを、キリスト教徒はほとんど認識していない。「汝の隣人を愛せよ」は、私たちが現在考えているようなことを意味するものではなかった。それは、「ほかのユダヤ人を愛せよ」という意味でしかなかったのである。この点は、アメリカ人の医師で進化人類学のジョン・ハートゥングによって、衝撃的な形で論証されている。彼は、内集団の道徳の進化と聖書における変遷について、その裏の側面―――外集団への敵意―――にも重点をおきながら、一つの注目すべき論文を書いたのだった。
ドーキンス

次に、この、ジョン・ハートゥングの論文を、見る。

2008年05月14日

神仏は妄想である82

ハートゥングの聖書解釈が示すところによれば、聖書はキリスト教徒のあいだにおけるそのような独善的な自己満足に、何の根拠も提供しない。イエスは自分によって救われる内集団を厳密にユダヤ人に限定しており、その点で彼は「旧約聖書」の伝説を継承しているのであって、それが彼の知っていることのすべてだった。
ドーキンス

それは、私も、そう考えた。
二千年前の、あの地方の世界の情報が、如何なるものであるかを、知ることである。世界という、意識が、どのようなものであったのかをである。

当時のユダヤは、ローマの属国である。
ローマの、情報を得て、細々と、ユダヤ人は、ユダヤ教を信奉して暮らしていた。実に、偏狭な教えに、縛られていたのである。
どのような、情報が、もたらされるのか。
その中での、イエスの宣教である。

最初、イエスに従った者たちは、イエスが、ローマからの独立を目指す、指導者になると、信じていた。
その程度である。

そして、ハートゥングは「汝殺すべからず」というのはもともと、現在の使われ方とはまったく異なった意味で用いられていたということを、明快な形で示す。つまり、それは非常に特異的に、汝ユダヤ人を殺すべからずということを意味していたのだ。そして「汝、隣人を」と言及されたあらゆる戒律は、同じように排他的なものだった。「隣人」というものは仲間のユダヤ人を意味するのである。12世紀の高い尊敬を受けていたラビで医師であったマイモニデス(モーシェ・ベン・マイモーン)は、「汝、殺すなかれ」が厳密にはどういう意味であるか次のように解説している。「もし、誰かが一人のイスラエル人を殺せば、彼は禁止命令に違反したことになる。なぜなら、聖書は汝、人殺しをするなと言っているからである。もし誰かが目撃者のいるところで故意に殺人をなせば、彼は刃にかけて殺されることになる。言うまでもないことだが、その人間がもし異教徒を殺したのであれば、殺されることはない」。言うまでもない、ときた!
ドーキンス
ハートゥングとは、進化人類学者である。

驚くべき、頑迷であり、明確な、蒙昧である。
イスラムと、同じようなことを、言う。
異教徒は、殺せ、である。

更に、キリスト教徒は、未開の部族、キリスト教徒ではない、民族を、人間とは、思わないという、仰天である。

イギリスは、植民地時代、アフリカの黒人を、奴隷として、アメリカ大陸に送った。
アメージング・グレイスという歌は、その、奴隷船の船長が、罪悪感を痛切に感じて、聖職者になり、作った歌である。
今では、民謡のように、黒人霊歌のように、歌われている。

罪悪感を感じて、聖職者になるという、ズレた行為であるが、事実である。

この章は、「よい」聖書と移り変わる「道徳に関する時代精神」というテーマである。

結果的に、ドーキンスは
宗教を信じようと信じまいと、私たちの道徳心は聖書とは別の源泉からやってくるのであり、そしてその源泉というのは、それが何であれ、宗教のちがいや宗教をもたないことにかかわりなく、私たちの誰もが手にすることのできるものである。
と、言う。

宗教による、と、思われている、道徳感覚は、実に、偏狭なものであり、それ自体が、歩き出すと、宗教の違いで、大きな、摩擦、あるいは、紛争、闘争を伴うものである。
人類は、宗教ではなく、別のもの、を、道徳の源泉として、知るものである。
ドーキンスは、それを、言う。

それは、進化の過程における、生き延びるための、方法だった。
何のことは無い、実に、単純明快なものである。

道徳の、一つの側面として、礼儀作法というものがある。
それを、一つとっても、その地域、その国の、伝統や、習慣、慣習による。そして、それによって、摩擦はあっても、互いに知るということで、摩擦を、避けることができるのである。しかし、宗教によれば、それは、戦いに成る。

一歩も、譲ることのない、宗教というものの、愚昧で、偏狭な教義では、最早、平和裏に事を行えない。

宗教間の、対話という、茶番が、時々行われて、理解を深め、互いに、尊重しあうということが、まことしやかに、行われるが、単なる、世間へのアピールに過ぎない。
そんなことが、本気で、行われることはない。

それが、行われれば、こんな事態にはなっていないのである。

宗教から、抜け出すというのは、麻薬中毒の人が、麻薬から抜け出すのと、同じ程度に、大変なことである。

一見して、平和的に見える、宗教団体の活動も、すべて、偽善である。
それは、道徳的でも、平和的でも、無い。
単なる、宗教の宣伝である。
それも、実に、心の狭い、教義に絞られたものである。

ドーキンスも、言うように、生きるための、ある情熱の誤作動による、信仰という行為を、軌道修正して、人間の知性と、感性を育て、理性により、行為するという、人間教育が必要である。
それは、まず、疑うこと、考えることから、はじまる。

価値観の、先入観を取り除くという、実に、大胆な手術が必要である。

先入観とは、神仏が、存在するという妄想である。

キリスト教徒は、虚心胆管に、聖書を読むということが、大事である。
そして、聖書を、検証すべきである。

教会の教えではなく、自分で、読んで考えるべきである。

ちなみに、信じるということから、発する行為は、愚昧である。

聖書というのは、旧約や、新約と言われるように、契約のことである。
神との、契約なのである。一見、何事もないように、思えるが、契約とは、取引である。何と何を、取引するのであろうか。
相手は、悪霊である。

神というものは、神と、名乗ることはない。神は、いないからである。

神仏は妄想である。83

タマリンがこの実験において導入した、面白い対照郡がある。168人の別のイスラエルの子供の集団に「ヨシュア記」からとった同じテキストが与えられたが、ヨシュアという名前が「リン将軍」に、「イスラエル」が「3000年前の中国の王国」に置き換えられていたのだ。すると、結果は正反対になった。つまり、わずか七パーセントだけがリン将軍の振る舞いを是認し、七五パーセントが不同意だった。言い換えれば、ここで得られた数字からユダヤ教への彼らの忠誠心を取り除けば、このイスラエルの子供たちが示した道徳上の判断は、大部分の現代人が共有する道徳上の判断と一致するのである。ヨシュアがしたことは、野蛮な大量虐殺という所業である。しかし、宗教的視点からはまったくちがったものに見える。そして、この区別は人生の早い時期に植えつけられる。大量虐殺を非難する子供と容認する子供のあいだのちがいをつくるのは、宗教だったのだ。
ドーキンス

宗教という、迷いがなければ、真っ当な判断が出来るのである。
しかし、宗教の観念が入ると、それは、邪になる。
つまり、判断基準を、宗教が洗脳するのである。

無いものを、掲げて、一体、宗教というものは、何を望んでいるのだろうか。
人間の救いを説くが、一向に人間を救うことないもの、さらに、人間を、愚昧の行為に走らせる宗教というものは、何か。

日本でも、一神教に似た、日蓮宗系の信者は、宗旨が違うというたでけで、嫌悪の表情になる。
宗旨が、違えば、親の仏壇にも、手を合わせないという、強情さである。
手のつけられない、傲慢な、連中となる。
同じ地域、町内に、住んでも、単に宗旨が違うということだけで、対立する。

その、あまりに単細胞化した、心の様には、唖然とする。

要するに、宗教団体の兵隊になっている状態なのである。
仲間に出来そうだと、見れば、その親切は、限りなくなる。
同胞には、天使であるが、そうでない者には、悪魔になるという、矛盾である。

ある大学に入学し、同じ研究グループにいた者たちが、一人のS会の会員に、折伏されて、順に会員になった。残った一人は、最後まで、それを、拒んだ。
すると、イジメが始まった。
ついに、大学にいられなくなり、退学した。
このような、話は、実に多い。
兵隊になった信者は、後先が見えない。ただ、上の命令に従うだけである。
我を失い、我ならぬ者に、指揮されて、行為する。

更に、驚くのは、選挙運動まで、功徳を積むものだと、言われて、選挙運動させられる者たちである。

宗教団体になると、タブーというものが、なくなるという、よい見本である。

信じてしまうと、支配者の思うままである。
こうして、人生を騙されて送るという、一連の哀れな人々がいるのである。
勿論、賢い人は、近づかない、また、賢い人の中には、支配者に、取り入って、利益を得るために、画策するという者もいる。

ハートゥングは論文の後半で、「新約聖書」に話を移す。彼の論旨を簡単に要約すれば、イエスは、「旧約聖書」において自明のこととされていたのと同じ、内集団で通用する道徳意識―――外集団に対する敵意と表裏一体のものーーーへの帰依者であった、ということになる。イエスは愛国的なユダヤ人だったわけだ。ユダヤ教の神を非ユダヤ教徒が取り入れるという発想をひねりだしたのは、むしろパウロだった。ハートゥングはこのことを、私なら躊躇しそうなあからさまな言い方でこう述べる。「イエスは、もしパウロがその計画をブタにまでひろげることを知っていれば、墓の中で吐き気を催していたことだうろ」。
ドーキンス

要するに、キリスト教神学というもの、パウロなしでは、有り得なかったということである。イエスの、教えが、神学となったのではない。パウロである。
強迫思想のパウロによる、神学である。
パウロが、理屈づけした、考え方を、教義として、掲げたのである。

ハートゥングは、「黙示録」の二つの節に注意を喚起する。そこでは「刻印を受けた」(エホバの証人など、一部の宗派は、それを”救われた”を意味するものと解釈している)人間の数は14万4千人に限られている。ハートゥングの論点は彼らはすべてユダヤ人だったにちがいないということである。12の部族それぞれから1万2千人ずつというわけだ。ケン・スミスはさらに踏み込んで、この選ばれた14万4千人は「女に触れて身を汚したことのない者」だったことを指摘する。このことは、おそらく彼らのうちの一人として女ではありえないことを意味する。まあ、これは予想される類の事柄である。
ドーキンス

ユダヤ人の神を、世界人類の神として、崇めるという、キリスト教の狂いというものが、何故起こったのかということである。
パウロという、一人の男の妄想からである。
最初、パウロは、イエス集団の迫害者だった。それが、いつしか、というより、聖書には、イエスが現れて、パウロを改心させるという、お話になっている。
初期、イエス集団を、取りまとめて、公広流布させるべくの妄想である。
彼から、異教徒への、布教が始まった。
聖書は、内集団特有の道徳意識の青写真であり、外集団の虐殺と奴隷化、および世界支配のための指示といった必須要素が完備されたものだ。しかし聖書は、そういった目的をもっているから、あるいは殺人・虐待・強姦を賛美することまでしているから邪悪なのではない。それを言うなら、多くの昔の著作はみんなそうだーーーたとえば、「イーリアス」アイスランド・サガ、古代シリアの物語や、古代マヤの碑文などを見てほしい。しかし、「イーリヤス」を道徳の手本として売りこんでいる人間は誰もいない。そこに問題がある。聖書は、人々がどう生きるべきかの手引きとして売り買いされている。そしてそれは、世界でつねに郡を抜いたベストセラーなのである。
ハートゥング

ドーキンスは書く。
伝統的なユダヤ教徒がもつ排他性が宗教のなかで特異なものだと思われてはいけないので、英国の作詞家、アイザック・ワッツの賛美歌から確信に満ちた次の一節を見てみよう。
主よ、私はそれを、あなたの恩寵のゆえとします
偶然のせいにはしません、ほかの人間たちのように。
私がキリスト教徒の人種に生まれたことを
異教徒やユダヤ教徒の人種に生まれなかったことを。

すさまじい、独善である。
こう考えて、いる人と、どのように、話し合いが出来るだろうか。

この一節で私を困惑させるのは、そこに現れた排他性そのものというよりも、その論理である。他の多数の人がキリスト教以外の宗教のなかに生まれたのだから、神は、本来においてどの人種がそのような恵まれた生を受けるのかを、どのようにして決めたのか? なぜ神は、アイザック・ワッツと、彼が自分の賛美歌を歌っていると思い描いた人々に恩恵を与えるのか? いずれにせよ、アイザック・ワッツが受胎される前は、いったい何に対して恩恵が授けられたのか? これらは深刻な問題だが、神の声に耳を傾ける精神にとっては、それほど深刻ではないかもしれない。ワッツの賛美歌は、正統派で保守派(改革派ではない)の男性ユダヤ教徒が暗唱するように教えられる三つの日々の祈り、「私をキリスト教徒にしなかったことであなたを祝福します。私を女としなかったことであなたを祝福します。私を奴隷にしなかったことであなたを祝福します」を思い起こさせる。
ドーキンス

本当に、吐き気がする。

2008年05月16日

神仏は妄想である。84

宗教は疑いの余地なく、不和を生み出す力であり、これが宗教に対して向けられる主要な非難の一つである。しかし、宗教集団あるいは宗派間の戦争や反目が、神学的な意見の不一致についてのものであることは現実にはほとんどないということが、しばしば、そして正しく言われている。アルスターのプロテスタントで準軍事組織に属する男が一人のカトリック教徒を殺したとき、彼は「これでもくらえ、化体論者の、マリア崇拝の、抹香臭い畜生め! 」というようなことを呟いていたわけではない。彼は、世代を越えて持続する過程で、別のカトリック教徒によって殺された別のプロテスタントの死の仇を討とうとしていた可能性のほうがはるかに高い。宗教は、内集団、外集団の対立を巡る敵意と確執を物語るラベルであり、肌の色、言語、あるいは好きなサッカー・チームといった他のラベルよりもかならずしも悪いとはいえないが、ほかのラベルが使われないときに、しばしば使われる。
ドーキンス

差別的発言になることを、あえて言うが、欧米人、アラブ人は、どうして、あのような単細胞的行動を取って、人を殺すのか、理解に苦しむのである。
そして、殺人にまで、至るものは、すべて、宗教、宗派間の対立による。
もっとも、平和的であろうはずの、宗教により、暴力、紛争、戦争に、至るのである。

ヨーロッパの歴史は、宗教戦争に、明け暮れている。

現在のテロリストの、原理も、世界イスラム帝国へのための、テロなのである。
果たして、ユダヤ教、キリスト教が、それを、非難する、権利があるのか、疑問である。


そう、もちろん、北アイルランドにおける紛争は政治的なものである。そこには一方の集団による他方の集団の経済的、政治的抑圧が存在し、それは数世紀以前にまでさかのぼる。そこには現実に不備とか不正が存在し、それらは宗教とほとんど関係がいなように思われる。ただ一つーーーこれは重要であるが、ひろく見過ごされてきたーーー宗教がなければ、誰を抑圧し、誰に復讐するのかを判断するラベルがなくなってしまうだろうということを除いて。そして、北アイルランドにおける本当の問題は、このラベルが何世代にもわたって受け継がれてきたということである。・・・・・この二組の人間たちは、同じ肌の色をもち、同じ言語をしゃべり、同じことをして楽しむが、まるで別の種に属しているかのようであり、両者の歴史的な分裂は根深い。そして宗教と、宗教的に分離された教育がなければ、そうした分裂は絶対に存在しなかっただろう。コソボからパレスチナまで、イラクからスーダンまで、アルスターからインド亜大陸まで、対立する集団間の手に負えない反目と暴力が見られる世界のどの地域でもいい、注意深く見てほしい、内集団や外集団のしるしとして用いられるラベルのうち、宗教が大勢を占めていることに、たぶんあなたは気付くだろう。かならずそうだとは言えないが、その可能性は高いはずである。
ドーキンス

ドーキンスが、ここまで、分析していることを、宗教集団の人々が、読んで、何を感じるだろうか。
ほとんど、空言、戯言に、感じるだろう。
それほど、冒されているのである。宗教という、妄想に、である。

例えば、現在の日本の宗教に関しても、最澄の天台宗は、誤りである、空海の真言宗は、誤りである、等々を、仏教思想によって、解説しても、聞く耳を持たないだろう。
それほど、信じてしまうと、他の、客観的な、ものの見方を、受け入れなくなるのである。

仏陀本人が、仏に成ることが、出来なかったという、事実を、言う。
仏陀最期の、時である。
それを、知らない。
まして、それらの、伝言仏典によって、起こした、日本仏教の教祖たちが、何をか言う。
単なる、迷いの、宗派を、立ち上げただけである。

誰か、我、仏になれり、として、立教しただろうか。
誰一人としていない。
仏陀さえ、そうなのである。

極めつけは、悪魔の好む、法華経を、仏陀最期の教えとして、唱える者たちに、言っても、理解しないし、解らないのである。
また、聞く耳を持たない。

この、蒙昧は、計り知れないのである。
生活クラブ、仲良しクラブのような、組織にいて、仏法だと、喧伝しているのであるから、終わっている。
さらに、悪いことに、信者からの、金を、組織の社会的地位のために、さんざん使い、学校から、美術館から、何から何まで、やるのである。
騙されている、信者は、せっせと、教団に、金を運ぶ。
嬉々として、金を運ぶのである。

三次元に、少しかかっている、幽界のレベルの、狐の霊に憑依されている、ある教団は、平然と、手かざしにて、清めるという。
一体、何を清めるのか、解っていない。
邪霊、悪霊を、祓うというのか。
それを、指導している者が、邪霊、悪霊なのである。
笑う。

いずれ、日本の仏教の開祖を、徹底的に、検証する。

北アイルランドにおいて、このような事態を、引き起こしたものは、宗教指導者である。実に、無知蒙昧の指導者が、この、蒙昧な、状態の種を、蒔いたのである。
単に、宗派が違うというだけで。同じ神を奉じていても、である。

インドが分割された当時、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の宗教的な騒乱で100万人以上の人間が虐殺された(そして1500万人がすんでいた土地から追い出された)。誰を殺すかのラベルを貼るのに、宗教的なラベル以外には何もなかった。詰まるところ、彼らを区別するものは宗教以外になかったのだ。サンマル・ランシュディは、より最近に起こった宗教的虐殺の勃発に心を動かされて、「宗教は昔も今も、インド人の世に混じった毒である」というエッセイを書いた。ここに示すのは、その結びの文章である。

このどこに、あるいは畏れ多き宗教の名において世界中ではほとんど毎日のようにおこなわれている犯罪のどこに、尊敬すべき何があるというのか? たとえいかに致命的な結果がもたらされようと、宗教はなんと巧みにトーテムを立てることか、そしてわれわれはなんと唯々諾々とそのために人を殺すことか! そして、われわれはしばしばそれを十二分にやり遂げ、その結果として起こる感情の鈍磨は、それを繰り返すことを容易にする。
ゆえに、インドの問題は世界の問題となる。インドで起こったことは、神の名において起こったのだ。
その問題の名は神である。

良識というのは、宗教とは、関係なく、有るということである。
宗教以外の人々によって、世界の良識がなるといってもいい。

科学者と、無神論者と、高い霊的能力のある人々によって、新しい、生き方の、指針を学ぶべきである。
妄想の観念から、離れたところのもの、それが、必要である。

今、それを、私は、節に祈る。
世界が最悪の状態に、陥るのは、宗教の、信者たちによる。

神仏は妄想である。84

宗教は疑いの余地なく、不和を生み出す力であり、これが宗教に対して向けられる主要な非難の一つである。しかし、宗教集団あるいは宗派間の戦争や反目が、神学的な意見の不一致についてのものであることは現実にはほとんどないということが、しばしば、そして正しく言われている。アルスターのプロテスタントで準軍事組織に属する男が一人のカトリック教徒を殺したとき、彼は「これでもくらえ、化体論者の、マリア崇拝の、抹香臭い畜生め! 」というようなことを呟いていたわけではない。彼は、世代を越えて持続する過程で、別のカトリック教徒によって殺された別のプロテスタントの死の仇を討とうとしていた可能性のほうがはるかに高い。宗教は、内集団、外集団の対立を巡る敵意と確執を物語るラベルであり、肌の色、言語、あるいは好きなサッカー・チームといった他のラベルよりもかならずしも悪いとはいえないが、ほかのラベルが使われないときに、しばしば使われる。
ドーキンス

差別的発言になることを、あえて言うが、欧米人、アラブ人は、どうして、あのような単細胞的行動を取って、人を殺すのか、理解に苦しむのである。
そして、殺人にまで、至るものは、すべて、宗教、宗派間の対立による。
もっとも、平和的であろうはずの、宗教により、暴力、紛争、戦争に、至るのである。

ヨーロッパの歴史は、宗教戦争に、明け暮れている。

現在のテロリストの、原理も、世界イスラム帝国へのための、テロなのである。
果たして、ユダヤ教、キリスト教が、それを、非難する、権利があるのか、疑問である。


そう、もちろん、北アイルランドにおける紛争は政治的なものである。そこには一方の集団による他方の集団の経済的、政治的抑圧が存在し、それは数世紀以前にまでさかのぼる。そこには現実に不備とか不正が存在し、それらは宗教とほとんど関係がいなように思われる。ただ一つーーーこれは重要であるが、ひろく見過ごされてきたーーー宗教がなければ、誰を抑圧し、誰に復讐するのかを判断するラベルがなくなってしまうだろうということを除いて。そして、北アイルランドにおける本当の問題は、このラベルが何世代にもわたって受け継がれてきたということである。・・・・・この二組の人間たちは、同じ肌の色をもち、同じ言語をしゃべり、同じことをして楽しむが、まるで別の種に属しているかのようであり、両者の歴史的な分裂は根深い。そして宗教と、宗教的に分離された教育がなければ、そうした分裂は絶対に存在しなかっただろう。コソボからパレスチナまで、イラクからスーダンまで、アルスターからインド亜大陸まで、対立する集団間の手に負えない反目と暴力が見られる世界のどの地域でもいい、注意深く見てほしい、内集団や外集団のしるしとして用いられるラベルのうち、宗教が大勢を占めていることに、たぶんあなたは気付くだろう。かならずそうだとは言えないが、その可能性は高いはずである。
ドーキンス

ドーキンスが、ここまで、分析していることを、宗教集団の人々が、読んで、何を感じるだろうか。
ほとんど、空言、戯言に、感じるだろう。
それほど、冒されているのである。宗教という、妄想に、である。

例えば、現在の日本の宗教に関しても、最澄の天台宗は、誤りである、空海の真言宗は、誤りである、等々を、仏教思想によって、解説しても、聞く耳を持たないだろう。
それほど、信じてしまうと、他の、客観的な、ものの見方を、受け入れなくなるのである。

仏陀本人が、仏に成ることが、出来なかったという、事実を、言う。
仏陀最期の、時である。
それを、知らない。
まして、それらの、伝言仏典によって、起こした、日本仏教の教祖たちが、何をか言う。
単なる、迷いの、宗派を、立ち上げただけである。

誰か、我、仏になれり、として、立教しただろうか。
誰一人としていない。
仏陀さえ、そうなのである。

極めつけは、悪魔の好む、法華経を、仏陀最期の教えとして、唱える者たちに、言っても、理解しないし、解らないのである。
また、聞く耳を持たない。

この、蒙昧は、計り知れないのである。
生活クラブ、仲良しクラブのような、組織にいて、仏法だと、喧伝しているのであるから、終わっている。
さらに、悪いことに、信者からの、金を、組織の社会的地位のために、さんざん使い、学校から、美術館から、何から何まで、やるのである。
騙されている、信者は、せっせと、教団に、金を運ぶ。
嬉々として、金を運ぶのである。

三次元に、少しかかっている、幽界のレベルの、狐の霊に憑依されている、ある教団は、平然と、手かざしにて、清めるという。
一体、何を清めるのか、解っていない。
邪霊、悪霊を、祓うというのか。
それを、指導している者が、邪霊、悪霊なのである。
笑う。

いずれ、日本の仏教の開祖を、徹底的に、検証する。

北アイルランドにおいて、このような事態を、引き起こしたものは、宗教指導者である。実に、無知蒙昧の指導者が、この、蒙昧な、状態の種を、蒔いたのである。
単に、宗派が違うというだけで。同じ神を奉じていても、である。

インドが分割された当時、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の宗教的な騒乱で100万人以上の人間が虐殺された(そして1500万人がすんでいた土地から追い出された)。誰を殺すかのラベルを貼るのに、宗教的なラベル以外には何もなかった。詰まるところ、彼らを区別するものは宗教以外になかったのだ。サンマル・ランシュディは、より最近に起こった宗教的虐殺の勃発に心を動かされて、「宗教は昔も今も、インド人の世に混じった毒である」というエッセイを書いた。ここに示すのは、その結びの文章である。

このどこに、あるいは畏れ多き宗教の名において世界中ではほとんど毎日のようにおこなわれている犯罪のどこに、尊敬すべき何があるというのか? たとえいかに致命的な結果がもたらされようと、宗教はなんと巧みにトーテムを立てることか、そしてわれわれはなんと唯々諾々とそのために人を殺すことか! そして、われわれはしばしばそれを十二分にやり遂げ、その結果として起こる感情の鈍磨は、それを繰り返すことを容易にする。
ゆえに、インドの問題は世界の問題となる。インドで起こったことは、神の名において起こったのだ。
その問題の名は神である。

良識というのは、宗教とは、関係なく、有るということである。
宗教以外の人々によって、世界の良識がなるといってもいい。

科学者と、無神論者と、高い霊的能力のある人々によって、新しい、生き方の、指針を学ぶべきである。
妄想の観念から、離れたところのもの、それが、必要である。

今、それを、私は、節に祈る。
世界が最悪の状態に、陥るのは、宗教の、信者たちによる。

2008年05月17日

神仏は妄想である。85

神仏は妄想であるを、書き続けて、85回になった。

ドーキンスの、神は妄想であるという、著作の紹介が、長くなった原因であるが、これからも、延々と書き続けなければならないと、思っている。
まだまだ、足りないのである。

日本仏教の、誤りについて、書くことが、必要だと思っている。
すべての、仏教家を、検証する。
つまり、すべての、宗派を、叩き斬る。

仏陀の、もし、仏教というものがあればであるが、それを、根本仏教と、一応呼ぶことにする。その、根本仏教というものは、日本の仏教には無い。
すべて、中国思想に、侵された仏教もどきの、思想である。

さて、ただ今、ドーキンスの、対処する、聖書の宗教についての、検証をしている。
その、宗教の蒙昧である。

私は、カトリックの洗礼を受けている。
つまり、私も、キリスト教徒の一人である。

そこで、私の立場を明確にしておく。
ドーキンスは、カトリックを、最も、反吐の出る集団だと、言い切るが、それは、実によく理解している。

私は、今でも、イエスキリスト信仰を、持つ。
それは、私の作り上げた、イエスキリストのことである。
つまり、教会の信仰を、持つ者ではない。
その証拠に、私は、私の信仰を、布教、喧伝するという意志は無い。

私は、少年時代に、イエスキリスト、つまり、新約聖書によって、多くのことを、学んだ。日本人として、その、聖書の語句を、理解した。それは、実に、有意義であった。
日本人の感性を、持っての、イエスキリストの言葉であるから、欧米人のように、理解しなかったということが、幸いした。

つまり、私は、私が、創作した、イエスキリストの信者であるということだ。
それでは、プロテスタントの、聖書主義と、同じかといえば、そうではない。
プロテスタント主義の、聖書解釈も、していない。
それでは、内村鑑三のようにというのも、違う。
詳しい説明は、避けるが、勝手な解釈、勝手な理解が、私の聖書解釈である。
勿論、カトリック教理というものに、大きな影響を受けたが、結局、私が、辿りついたイエスキリストは、私のだけの、イエスキリストなのである。

その最大の特徴は、私のイエスキリストを、宣教しないということである。

私が、新しいキリスト教会を、創立しないということであり、それは、実に画期的なことだ。

多くの、日本の、新興キリスト教は、私のように、勝手な解釈勝手な想像、創作を、教理として、宗教団体を、起こして、信者を作るという、愚かなことをしている。

そこでは、必ず付き物なのは、病が、癒えた、運勢が良くなった等々の、現世利益のような、宣伝文句である。
信者になって、苦難苦悩ばかりが、続くとは、誰も言わない。
万が一、それを、言うと、必ず、神の摂理によって、その苦難も苦悩も、消滅したというオチになる。

信仰しても、何も変わらないというのが、真実の信仰である。

何かを、変えるのは、私自身である。

ところが、私自身を、変えることが、出来たのも、信仰の、おかげと言う、アホがいる。

信じるということを、知らない。
信じるというのは、疑い、思索するという意味である。

法然は、称号念仏を、唱え、親鸞は、更に、唱える前の、信じるという心の在り方を、追求したというが、とうだろうか。

弥陀の本願を信じるといっても、弥陀というものが、妄想、架空のものである。
何故、それを、信じると言えるのか。
観念を、信じて、それで、救われると、思う根性が、怪しい。
だから、怪しい霊界に、行くのである。

選択仏教といい、鎌倉仏教は、一つの教えだけを、多くの中から抜き出して、念仏や、題目、座禅と、絞ったが、時代性である。
しかし、今の時代には、通用しない。
通用させているのは、邪悪なものだからである。

邪ま、よこしま、なものほど、広がるという、この世は、地獄である。

念仏を持って、仏法などと、言えば、仏陀が、泡を吹く。

題目を持って、仏法などと、言えば、仏陀は、吐くであろう。

仏陀は、そんなことを、一言も言っていないからである。

日蓮などは、仏陀を、引き摺り下ろそうとする、ある、霊界というか、魔界のエネルギーを、受けて、あろうことか、仏陀を、更に越えた道が、法華経にあることを言うという、仰天である。

だから、東から、仏陀の、西へ、新しく仏法が、戻るというような、誇大妄想を抱くという。
手のつけようの無い、狂いを、持つのである。

道元などは、座禅こそ、仏陀の法統を継ぐものであり、我こそ正統な道であると、思い込んだ。
勿論、彼の著作は、日本文学の中でも、実に、見事なものであるが、それは、別にして、仏法の道としては、勘違いである。
座禅とは、仏陀以前の、バラモン、ヨガの修行法である。
確かに、仏陀も、座ったが、座禅による、悟りという、妄想ではなかった。

仏陀の教えは、行為であった。
生き方の、考え方と、その行為である。

いずれにせよ、それらを、検証する。

さて、私は、イエスキリストを信奉し、仏陀の教えを、信奉する。
そして、やはり、古神道の、あり方に、生きる者である。
古神道の、魂鎮めと、ニルバーナという、涅槃の境地は、同じものである。

仏や、神を、対立したものとは、考えない。

更に、古神道は、カミとは、御親、みおや、つまり、祖先に続く者であるという、意識である。

どこにも、断絶は無い。

ただし、仏教教団が言う、仏に成るという、観念とは、違う。あれは、断絶している。

更に、仏陀も、仏にはならなかったということが、仏陀の言葉で、証明されている。
それを、見落としている、仏教家の、面々であるから、終わっている。

また、仏陀が、苦行を、嫌った意味を、知らないのである。

寒中に寒修行するという、アホ振りである。氷点下の海に入って、一体、何を修行するというのか。とても、信じられない真似をする。水をかぶるという、馬鹿馬鹿しいことをして、修行も何も無い。
逆に、それによって、思考が固まり、とても、通常の神経とは、思われない、歪な性格を作り上げる。傲慢で、頑固な、手のつけられない、性格である。
あれは、サドマゾである。

厳しい修行に耐えて、大半が、頑迷な者に、成って行く。
ただ、念だけは、強くなり、レベルの同じ霊を相手に、戦うという、オチである。
それを見て、信者は、驚く。そして、洗脳される。

こういう、者どもを、救い難しという。

2008年05月18日

神仏は妄想である。86

神は妄想である。
リチャード・ドーキンスによる、論文から、これを書いている。
第7章 「よい」聖書と移り変わる「道徳に関する時代精神」より

本章は、いかに好意的な見方で臨もうとも、私たちがーーー宗教を信じる人間でさえもーーー道徳上の判断を下す根拠は聖書からは得られないと示すことからはじまった。それならば、私たちは何が正しくて何がまちがっているかを、どのようにして判定するのだろう?
この疑問にどう答えるかにかかわらず、私たちが事実の問題として、正しくあるいはまちがっているとみなすものについては意見の一致が、驚くほどひろく行き渡った見解の一致が存在する。この見解の一致は、宗教とは明白な結びつきをもたない。けれどもそれは、本人たちが自らの道徳が聖書に由来すると考えていようといまいと、信仰をもつ人にまで及んでいる。
ドーキンス

見解の一致は、聖書主義や、信仰を持つ人、無神論者、多々幅広く、それは、存在するという。

ここでいう、時代精神というものは、実に、重大である。
人類の歴史は、この時代精神によって、成る。
試行錯誤を繰り返して、人類は、論証しつつ、進んできた。

時代精神を、認識しない人は、歴史を理解できない。
端的に言う。
その時代だから、行為することが、出来たのであるということ、歴史を見れば、解る。

ドーキンスの、論述と共に、それを、見てゆく。

私たちは言論の自由を信じ、たとえ言われている内容に同意できない場合でも擁護する。税金を払い、人を騙さず、人を殺さず、近親相姦に走らず、自分がしてほしくないことは他人にしない。こうした善行に関する原則の一部は聖書に見出すことができるが、それはまともな人間なら従いたくないと思うようなことと一緒に埋め込まれている。そして聖書は、善行に関する原則を悪行に関する原則と区別するためのいかなる基準も提供していない。
ドーキンス

聖書解釈は、断片主義であると、私は言う。
こじ付け、捏造を得意として、支配者の都合に合わせて、解釈される。

多くの宗教、特に、教義というものを、掲げる宗教は、時に、驚くべき、素早さで、その解釈を変更することがある。
それは、時代精神ではなく、時代迎合である。
または、集金能力を上げるためにである。

カトリック教会が、最初は、ラテン語で祈り、次には、文語体で、祈り、更に、口語体での、祈りに変更した。
このような、変更は、取り立てて、問題は無い。
しかし、教義解釈や、聖書解釈に関しての、変更は、何か、魂胆がある。

例えば、冒すことが出来ない、ご本尊を、ペンダントにまで、印字して、売るという行為などは、唖然とするより、あまりの、変質に、彼らの信仰の、虚偽を見るのである。

一端信じ込んでしまった、信者には、何でも通用するという、驕りが有る。
いくらでも、騙すことが、出来るというものである。
信者は、その信仰により、羊のように、従順になるということだ。

信仰とは、人間改造に、他ならない。
人間革命など、あろうはずがない。
単なる、勘違いである。更に、思い違い、心得違いとなる。

ドーキンスが言う。
次に示すのは現代の「新十戒」の一つで、私がまたまた無神論者のウェブサイトで見つけたものである。

自分がしてほしくないと思うことを他人にするな。
あらゆる事柄において、人を傷つけないように努めよ。
あなたの仲間である人類、あなたの仲間である生物、そして世界全般を、愛、誠実および敬意をもって扱え。
悪を見逃さず、正義を執行することにひるむな。しかし、進んで認め、正直に後悔しているならば、いつでも悪事を許す心構えをもて。
喜びと驚き感覚をもって人生を生きよ。
つねに何か新しいことを学ぶように努めよ。
あらゆる事柄を検証せよ。つねに、あなたの考えを事実に照らしてチェックし、どんな大切な信念でも、事実と合わなければ棄てる心構えをもて。
けっして反対意見を検閲したり、耳を傾けることを拒絶したりしてはならない。つねに他人があなたに反対する権利を尊重せよ。
あなた自身の理性と経験をもとにして独立した意見をつくれ。むやみに他人の意見に導かれることを許してはならない。
あらゆることに疑問を発せよ。

更に、ドーキンスは、それに、付け加えた。

あなたの性生活を( ほかの誰にも危害を及ぼさないかぎり)楽しみ、他人が個人的に楽しむものを、それがいかなる性癖であろうと、ほうっておくこと。それはあなたに関係ないことなのだから。

性別、人種、あるいは( 可能なかぎり)生物の種のちがいをもとにして、差別や抑圧をしない。

子供を教化しない。子供には自分で考える方法、あなたに異議を唱える方法を教えよ。

本来を自分のもつ時間のスケールよりも大きなスケールで評価せよ。

以上である。

どこかの、新興宗教が、即、採用するような、実に良い内容である。
だが、上記の新十戒も、ドーキンスも、無神論者である。

奴隷制は、聖書の時代および歴史の大部分を通して当然のこととして受け取られてきたものだが、文明国では19世紀に消滅した。選挙および陪審員としての女性の投票権は、1920年代まで広い範囲で否定されていたが、現在ではすべての文明国が男性と同等の権利を認めている。現代の文明化された社会(ここには、サウジアラビアは明らかに含まれない)では、女性はもはや財産とみなされないが、聖書の時代には明らかにそうだった。――――
かように、宗教を信じていようといまいと、私たちは誰しも、何が正しくて何が悪いかという態度において大きな変化をとげてきた。この変化はどういう性質のものであり、何がその原動力なのだろうか?
ドーキンス

どんな社会にも、どことなく謎めいた見解の一致が存在し、それが、十年単位で変化する。それを、ドーキンスは、ドイツ語から、借用した、時代精神という言葉に当てたのである。

このような、考え方を、知性の産物と言う。
さらに、それを、感じ取る力を、感性が養う。そして、理性が行為させる。

人類は、そうして、歴史を進んできた。

宗教は、その、人類の進んできた、道のりを、無知蒙昧で、覆い尽くす。
神や仏で、突然、その、進んできた道のりを、解釈し、裁断する。

更に、一本進んで、何故、人は、神や仏という、絶対者というものに、曳かれるのだろうかということだ。
そして、祈りを上げ、そのために、膨大な時間を費やす。

一つは、行為自体に、安心感を得る。
そして、個としての存在感に対する、不安である。
もし、一人で、神や仏に対座していたら、どうだろうか。
生活集団としての、仲間意識よりも、何か、特別なモノを、拝むという、集団に属していなければという、分離不安ゆえに、宗教の集いに参加する。

奴隷としての、黒人が、信仰によって、最低の生きる意味意識を得ていた事実がある。
それは、悲しいほど、悲劇的なことである。
生きるために、必要不可欠な、信仰というものがある。
それを、考慮しても、宗教というものは、団体になると、集団になると、悪行になるということである。

アメージング・グレイスという歌がある。
黒人霊歌としても、イギリス民謡としても、歌われる。
これは、イギリスの奴隷船の船長だった、男が、ある航海で、大嵐に遭遇し、九死に一生を得た。そして、自分のしている、奴隷を売るという、悪行に気付いたという。
彼は、即座に、改心して、宣教師になった。
そして、書いた曲が、それである。

内容は、私は、今まで罪を犯していました。どうぞ、私を許してください。というようなものだ。

一見して、納得するような、話だが、どうも、腑に落ちない。
何故、神に改心したのだろうか。
それが、時代精神、時代性である。

今なら、違う形になった、可能性がある。
19世紀も後半のことである。
まだ、宗教の蒙昧の中にある、時代である。
改心の方法は、一つだけしかなかった。

よく、キリスト教会で、言われる話がある。
宇宙船の乗組員が、宇宙を見て、神の存在を確信し、宣教師になったというものである。
人知を超えたモノを、感じた時に、神というものに、傾倒するというのは、神という言葉に、その、人知を超えたものを、置き換えるのである。

計り知れないモノを感じた時に、絶対者という、存在を置くという、感覚は、矢張り時代性である。

それが、何故、神でなければならないのか。
大いに疑問である。

実は、簡単なことである。
それ以外に、考える言葉か無いからである。
要するに、思考停止状態に陥るのである。
この、思考停止状態に、陥ることを、宗教指導者、支配者は、待っている。
思考が停止すると、人間は、兵隊のようになる。

罪意識を、徹底的に植え付けて、思考停止状態にさせて、教義に雁字搦めにする。
すると、信者は、兵隊になり、宗教の思うままに、行動する。
それを、洗脳という。

教育は、緩やかな、強制を伴う。
しかし、その、緩やかな、強制の中に、疑問を発する精神を、養い、自分の頭で考える力を、養うべくの、教育が、最上の教育となる。

私の霊学から、言う。
一人一人の、神や仏があっていい。しかし、それを、集団としての、宗教に、委託するのは、完全に誤りであるということだ。

2008年05月27日

神仏は妄想である。87

すぐれた歴史家は過去の発言を自分たちの基準で判定しないというのは決まり文句である。エブラハム・リンカーンは、ハクスリーと同じように時代の先を行っていたが、それでも、彼の人権問題に関する見方は私たちより後退した、人種差別主義者のもののように思われる。 ドーキンス

したがって、言わせてもらえば私は、白人と黒人の社会的・政治的平等をどんな形にせよ実現することに賛成ではないし、これまで賛成したこともない。黒人を有権者や陪審員にすることにも、公務員になる資格を与えることにも、白人との人種間結婚にも私は賛成しないし、賛成したこともない。そしてまた、さらに加えて言わせてもらうならば、白人と黒人のあいだには身体上の相違があり、そのゆえに、両人種が社会的・政治的平等の名のもとに一緒に生活する日などは永久に来るまいと私は信じている。そして、両者が平等な生活を送ることなどできないにもかかわらず一緒にとどまるのであれば、優劣の立場は存在せざるをえず、私はほかの誰にもまして、白人が授けられた優位な立場をもつことに賛成するものである。
リンカーン

奴隷解放をした、リンカーンであるが、驚くべき、差別を持っている。が、それが、時代精神である。

ゆえに、ドーキンスは

ハクスリーとリンカーンが現代に生まれて教育を受けたとすれば、自分たちのヴィクトリア朝的で慇懃無礼な物言いに、ほかの誰よりも真っ先に身の縮む思いをするのは彼ら自身だっただろう。私がこれらの文章を引用したのはひとえに、時代精神がいかに移ろいいくものかを示したかったからにほかならない。
と、言う。

ワシントン、ジェファーソンその他の啓蒙主義的な人々が奴隷制を支持していたことは、もちろんよく知られてる。時代精神は移ろい、それはあまりにも容赦ないものであるため、私たちはときにそれを自明のこととみなし、その変化自体が現実の現象であることを忘れてしまう。
ドーキンス

時代精神という物の見方により、実に、明晰に見えるものがある。
そして、この時代精神というものを、持つことで、歴史を、より理解できるのである。

その、時代精神であったから、と、納得する事柄が、多い。
しかし、宗教における、時代精神というものを、考えれば、それには、全く、関知しない。

時代精神も何も、棚上げするか、無視して、今でも、700年前の、鎌倉仏教などを、奉じているという、形相である。

歴史があるというのと、伝統があるというのとは、別物である。

芸術活動も、時代精神に支えられてあるから、市川猿之助などの、新歌舞伎が、今では、当然のように、受け入れられている。
当時は、飛ぶ猿と、揶揄された、市川猿之助は、歌舞伎の古色蒼然とした世界に、新しい息吹をもたらした。
更に、世襲制を廃して、才能ある、若者を起用するという、新しい歌舞伎役者の、養成も画期的だった。

このように、何一つを、とっても、時代精神というものを、理解しなければ、解らないものが多い。

当時、限られた者の、仏教というものを、一般市民にまで、疑いを持っても念仏すれば、救われると、説いた、法然は、時代精神の、典型である。
その活動は、画期的なものだった。
鎌倉仏教の、幕開けをしたのは、実に、法然である。

僧兵を抱える比叡山や、高野山、そして、南都六宗の、既成仏教に対して、仰天するような、専修念仏を唱えた法然は、実に、時代精神の、最もたるものだった。

誰もが、その説教を聞くことが、出来た。
遊女も来た。武士も来た。更に、既成仏教に、疑問を持つ者も、集った。

いよいよ、大衆に、仏教が布教される、幕が開いたのである。

しかし、それを、今現代に、通用するかといえば、無理である。
時代精神が、移ろうものであるということに、気付くべきである。
その、時代ゆえに、必要であったものが、今も、必要であるとは、ならない。

「もろもろの知者たちの、沙汰し申さるる観念の念にも非ず、また学問をして、念の心をさとりて申す念仏にもあらず」一枚起請文 法然

無知文盲の人々に、その人々が思いつめた、生死の心に、語り掛けたという、法然の布教は、実に、時代精神である。

結果、既成の仏教団体の、有り様を否定するというまでに、高まった。当然、迫害が起こる。

しかし、今、法然を見つめれば、弥陀の本願という、無明に、迷ったものであり、心を深めて、更に心を見つめるという意味では、為るほどの、価値はあるが、それは、それで、終わった。

私が、法然を評価出来る事は、開祖にあるべき、自筆の書き物を、残さなかったこと。
そして、当時の、常識であった、加持祈祷、呪術、巫女や、行者や、修験道などの、病気治療や、現世利益的祈願を、排斥したことである。
迷信、宗教的習慣に、重きを置かない、一筋に、心の問題を、取り扱ったことにある。

信仰が、純化されたという、批評家もいる。

さて、それでは、現代の、浄土宗は、いかがであるのか。
伝統というものに、堕落した。
伝統とは、この場合は、言わないが、歴史が長いということでの、伝統という。

伝統とは、万葉集に象徴されるように、国民の、宝であり、なお、それが、今も、息吹をもっているということである。
古いが、いつも、新しいものである。

伝統に、堕落するというのは、その、教義という、教えに、単に無批判にして、唯々諾々として、既得権益をのみ、守るということをいう。

徳川家の菩提寺などということは、良い。
ただ、それは法然の、思想であり、宗教ではない、それが、色褪せているということである。

このことについては、いずれ、書くことにする。
時代精神ということについて、更に、ドーキンスと、進めてゆく。

神仏は妄想である88

時代精神ということについて、ドーキンスの文を引用して書いている。

アメリカのイラク侵攻は、市民のあいだに犠牲者を出したがゆえに広汎な非難を受けているが、しかしそうした犠牲者の数値は、第二次世界大戦において同様の状況で得られたであろう数字と比べれば、桁違いに少ない。ここには、道徳的に許容できることに関する基準の、着実な移行があるように思われる。ドナルド・ラムズフェルは現代でこそこの上なく酷薄でおぞましいことを言っているように聞こえるが、もし彼が第二次世界大戦中に同じことを言ってたとすれば、なにかといえば事を大袈裟に危惧してみせるリベラル派のように見られるだけのことだろう。この数十年に何かが移り変わってしまったのだ。それは私たちすべての中で移り変わっており、宗教とはなんの関連もない。どちらかと言えば、それは宗教のゆえに起こったのではなく、宗教があるにもかかわらず起こるのである。
ドーキンス

宗教があるにも関わらず起こる、という言葉に、同感する。
それが、時代精神である。

時代精神は、宗教を超えたものである。
いかなる、宗教といえども、それには、敵わない。
逆に、宗教のみの、価値観が、時代精神というものに、対立している、または、逆行している。しかし、宗教は、多くの善なることにおいて、それは、我々のゆえのものだと言うはずである。
宗教というものは、厚顔無恥だからである。

時代精神の移行に関して、ドーキンスは、

この移行には、はっきりと認められる首尾一貫した方向性があり、その方向性を私たちの多くは改善と判断するだろう。悪の外延を前人未到の領域まで推し進めたとみなされているアドルフ・ヒトラーがチンギス汗よりも多くの人間を殺したことは疑いないが、彼は20世紀の技術を思うままに使うことができたのだ。そしてヒトラーといえども、チンギス汗が公然としたように、犠牲者の「涙にくれる愛しい近親者」を見て無上の喜びを得ただろうか? 私たちはヒトラーの悪の程度を現在の基準によって判定するが、道徳に関する時代精神もテクノロジーと同様、カリギュラの時代以来移り変わってきたのだ。ヒトラーは、私たちの時代のより慈悲深い基準で測られればこそ、格別に邪悪に見えるのである。

と、言う。

これ以上に、語ることが、あるだろうか。
ドーキンスは、神は妄想である、との、論旨であり、私は、神仏は妄想であるとの、論旨である。

ドーキンスの主は、聖書を聖典とし、その神を奉ずる、ユダヤ、キリスト、イスラム教を、言うが、私は、それに、仏教、とりわけ、日本仏教の、仏を、加えるのである。

勿論、時代精神に、現れても、なお、残存している、宗教というものの、ある意味での、価値というものも、無視してはいない。
しかし、その価値は、教義にあるものではなく、その外側、つまり、芸術、文化的行為にあるものである。
それなくしては、成り立たなかった、芸術作品等々である。
それを、破壊せよとは、言わない。
タリバンのように、破壊しないのである。
そういう意味である。

明治に、廃仏毀釈が、行われた。
その時に、重要な、文化財としての、仏像なども、破壊された経緯がある。
美術工芸としての、価値までも、破壊するという、傲慢な、行為は、無い。

長野の善光寺は、国宝である。
しかし、タリバンなどによると、偶像となり、破壊される。
歴史は、そうして、他宗教、それは、他民族にもなるが、それらを、破壊しつくして、支配が成り立ったが、さて、現代は、どうだろうか。
最早、そのような、時代精神ではない。

果たして、漢訳された、仏典を、漢語で、読経するという、呆れた状態に、時代精神は、合うのだろうか。

例えば、般若心経を、見る。
玄奘訳である。

かんじざいぼさー
ぎょうじんはんにゃはらーみーたーじ
しょうけんご おんかいくう どいっさい くやく

様々な人々によって、解釈がなされ、ハウツー物で、満足する、大勢の人。
知った振りになって、読経し、写経するという。

更に、その深遠な、解釈に酔う。
深遠と、思うのは、単に理解できないということであるが、それを、深遠であると、認識する程度である。
だから、国語能力の無い者が、多く騙される。

それらに、ついてゆけない者は、新興宗教の、耳障りの良い言葉に、騙される。
修行という言葉の意味さえ、知らずに、修行を求めるという、豚のような教祖に騙される。

何の所作も、なくても、感受性の強い者には、簡単に、理解されることが、特別なものになるという、宗教的行為というもの。

文学としての、芸術評価とされるべきものを、信仰するという、仰天である。

時代精神、時代性というものを、理解するならば、宗教の、無知蒙昧に、気付き、騙されることはない。
要するに、解らないことを、解るように、神や仏の名に、すり替えているということに、気付くぺきだが、解らないのである。
そして、神や仏の名において、解った、つもりになるという、傲慢である。

それは、例えば、仏陀の、教えた、憎冗漫であると、気付かない、傲慢さである。
すでに、教義自体に、行為自体に、傲慢があるということに、気付かないのである。

万事休す。

ただ、人間は、見えない物、感じない物、知らない物に、興味を曳かれる。
それが、結果は、神や仏という妄想と、結びつく。
占いというのが、廃らないのも、それである。
占いの、基本は過去を見るというものである。が、それが、未来を見るというものに、変質しても、気付かないでいる。
過去を見るから、未来が見えるという、基本があった。それが、いつしか、未来を予言する、予知するものとして、占いを、誤解して、今まで来た。

宗教も、同じである。

2008年05月28日

神仏は妄想である89

私の目的にとっては、それが宗教からはやってこないのは確かだとわかればそれで十分である。もしどうしても一つの理論として展開せよといわれれば、私は次のような線に沿ってアプローチするだろう。私たちは、道徳に関する変わりゆく時代精神が、非常に数多くの人々のあいだでそれほどひろく同調が見られる理由を説明する必要があり、またその比較的首尾一貫した方向性についても説明する必要がある。
ドーキンス

ツガイトガイスト、時代精神という意味である。
道徳が、宗教からではなく、時代精神から、発しているのであると、言う。
同感である。

道徳教育とは、その時代精神を、見つめる行為であるということが出来る。
具体的に言えば、社会で起こる様々な、問題を、考えることによって、自然と、時代精神というものを、身につけてゆく。
批判や、同調から、様々な感情を、抜き出し、それを、次に知性により、判断し、理性により、行為する。
勿論、そこには、柔軟な感性を要する。
更に、感性が、実に、素晴らしい感受性を生み出し、それを、芸術行為にまで、高める者も、出るだろう。

これは、理想であろうか。
理想ではなく、現実である。

宗教による、講話のような形から、何がしか、人の道なるものを、探るという、行為は、時代精神から、すでに、掛け離れたものになっている。
しかし、まだ、出版物などを、見ていると、宗教家が、あたかも、人の道を、説くかの如くのイメージを持つ。

私個人として、言えば、宗教家より、精神科、精神医療に関わる人の、エッセイや、論文、などを、読むことで、人の道というものを、考えた経緯がある。
人間の心に関する、深い洞察力は、精神科医の、特に、人間性溢れる方々によって、多く理解した。


第一に、なぜそれほど多くの人々のあいだで同調が見られるのか? 道徳に関する時代精神というものは、バーやディナーパーティーにおける会話を通して、本や書評を通じて、新聞や放送を通じて、そして現代ではインターネットを通じて、人の心から心へひろまっていく。道徳的風潮の変化は、論説で、ラジオのトークショーで、政治演説で、コメディアンのしゃべりで、メロドラマの台本で、議会に提出された法案の投票で、そしてそれを解釈する判事の判決に示されている。それを表す一つの方法は、ミーム・プール内におけるミーム頻度の変化という観点からのものになるだろうが、私はそれに深入りするつもりはない。
ドーキンス

神というものに、また、聖典とされる、聖書により、道徳観念というものが、生まれるのではないという。
ここで、私は、時代の進化という言葉を、用いる。
時代は、進化しているのである。

例えば、仏陀在世当時は、ブッダの言葉が、時代精神として、生かされた。
生き物を、殺すななどである。殺生禁止である。
それは、また、普遍的な、道徳感情になったが、それを行為するのは、時代精神である。

如何に、殺生禁止であろうが、人間は、戦い続けてきた。
日本に、仏教が伝来した時でさえ、それを、取り入れるか否かで、争いが起こり、さらに、仏教の教えが、伝統化されてきた時代でも、争いは、絶えなかった。
仏に祈りつつ、人を殺した。
今、現在も、そうである。

そういう、普遍的な、道徳の指針に対しては、あれかし、という、希望であるが、生活の中にある、様々な問題解決は、時代精神が、受け持つ。

輸血拒否するという、エホバの証人、ものみの塔という、キリスト教新興宗教があるが、最も、愚かしいことに、気付くこともない。
聖書に、輸血を禁止しているからだとの、説明と、解釈は、時代精神に、逆行している。
結果、医療の現場では、成人以外の、子供の場合は、人道的に、輸血をする。
当然である。

頑なさを、戒める聖書の教えもあるが、彼らは、それに、気付くこともない。
輸血しないという、喧伝により、逆に、彼らの宗教を、宣伝するかの如くである。
カトリックや、プロテスタントに、大きな批判の声を上げるが、根は、同じものであることに、気付かないのは、蒙昧だからである。

要するに、話にならないのである。

私たちのなかには、道徳に関する変わりゆく時代精神の進歩の波に遅れている人もいれば、わずかに先を行く人もいる。しかし、二十一世紀に生きている私たちの大部分はは一団をなしており、中世、あるいはアブラハムの時代、あるいは1920年代という最近の人間と比べてさえもずっと先を行っている。波そのものは絶えず先へと動いており、前世紀の先駆者でさえ(T,Hハクスリーはその顕著に例)、一世紀後の遅れた人々よりも自分が後方にいることに気付くだろう。もちろんこの進歩はなめらかな上昇をたどるわけではなく、鋸の歯のように蛇行しながら進むのである。
ドーキンス

試行錯誤をしつつ、人類は、道徳というものを、考え続け、訂正し、修正し、時代精神に合わせ、築いてきた。
そして、それは、終わることなく、続けられる。

昔の人とは、ここでは、老人のことを言う。
自分たちの時代と、違い、道徳観が、失われた、礼儀が失われた云々と言う。それは、いつの時代も、そうであった。
若者は先を行き、老人は、自分たちの、若者の頃を、言う。
しかし、大きな断絶にはならない。
その、相違から、若者と、老人は、語り合うことも出来た。

最も、愚かなことは、宗教の教えにあることからの、道徳教育である。いや、道徳的教育、つまり、洗脳である。
今でも、キリスト教会は、性行為は、正上位で、行えと、教えるのであろうか。
今でも、マスターベーションは、罪であると、教えるのか。
異性を、同性も、含めて、性欲を覚えるのは、罪であると、教えるのか。

新約聖書の中の、イエスも、思いだけでも、姦淫を犯すという。
余程、好き者が、そのセクトにいて、自分の性欲に、恐れおののき、イエスに言わせたのであろう。自らの、戒めとして。

ドイツから、始まった、ダッチワイフの、性能は、実に、素晴らしいものである。
今では、マスターベーショングッズの、性能の素晴らしさに、私は、感嘆している。

相談者の中に、相手の男性が、自分をイカせた後に、グッズで、イクのですが、という相談を受けたことがある。
グッズは、それほど、性能が良くなっている。

一人暮らしの人の、生前の部屋を整理処理する、業者に聞くと、驚くほどの、大人のオモチャがあるという。
実に、大人のオモチャの、世界は、飛躍的に、発展した。

激しい、欲望を、オモチャで解消できるというなら、言うことは無い。

何故、宗教は、性欲を怖れたのか。
いずれ、書くことにする。

私の言いたいことは、個人の、非常に個人的な、情緒に、入り込む宗教というものの、傲慢を言うのである。
尻を拭くことから、指導したいとする、宗教とは、何か。
ほどほどに、いたせ、と言う。

人を一律にして、家畜のように、扱う宗教団体というもの、世の害毒である。

時代精神については、もう少し、続ける。

2008年05月31日

神仏は妄想である90

アメリカでは、人種的平等という理由は、有能なマーティン・ルーサー・キングのような政治的指導者、およびポール・ロブソン、ジドニー・ポワチエ、ジェシー・オーウェンズ、ジャッキー・ロビンソンのように、芸能人やスポーツ選手、その他の有名人や役割モデルとなるような人物によって育まれたのである。奴隷と女性の解放はカリスマ的な指導者に多くを負っている。そうした指導者のうちには信仰をもった人間もいたし、そうではない人間もいた。ある者は、自らが信仰をもつがゆえに正しい行いをした。別の場合には、彼らが宗教を信じていたのは付随的なことだった。マーティン・ルーサー・キングはキリスト教徒であったが、彼の非暴力的な市民的不服従の哲学はガンジーから直接受け継いだものであり、ガンジーは宗教を奉ずる人間ではなかった。
ドーキンス

宗教を持ち出すような人は、いなかったのである。
実に、素晴らしい。
人間としての、行為である。そこには、宗教の教義等々、なんらの欠片も無い。
人間性というものの、尊さである。

それを、神や仏というものを、持ち出すと、汚れる。

何が、素晴らしいかと言って、人間性というものほど、素晴らしいものはない。

霊性というものを、持つから、人間が素晴らしいのではなく、人間性というものを、持つから素晴らしいものなのである。
霊性とは、付随的なものである。

霊主体従といって、のうのうとしている、宗教ではなく、霊も体も、同じく主なのである。
何故、肉体を持つのか。
肉体が素晴らしいからである。
そして、肉体の持つ欲望により、生きられるのである。

さて、創価学会は、ガンジー・キング・池田展というものを、世界的に開催している。
この、恥ずかしき行為は、目に余る。
ガンジー・キング・池田と、並べる傲慢は、甚だしい。
会員にとっては、鼻高々であろうが、他の日本人には、穴があったら、入りたくなるほど、恥ずかしいことである。

世界的指導者として、池田という人物を、掲げるが、単に、信者会員の、金を、思う存分に使えるというだけの、話である。

生きているうちに、どうしても、名誉というものが、欲しいのである。宗教家というより、野心家であり、更に、アホである。

あまりの、軽薄短小さに、愕然とする。

裏千家という、千利休を流れを汲む、茶道の家元が、青年の船というもの、毎年開催し、中国青年との、交流等々を、行っている。
勿論、会員からの、金集めである。
世に喧伝して、裏千家という、華麗なるペテンの、家元制を、喧伝するために、行う。
それと、何の変わりもない。

内容が、空洞である。

その、中国の反日感情を、彼らは、何がしか、緩和させたか。
そのような事実は、一切無い。
すべて、金で、中国側の、称賛の声を集めて、紹介する。
金で、称賛を買うのである。

話にならない。

さて、ドーキンスを、続ける。

それから、教育の改善というものも推進力の一環であり、とくに、私たちのそれぞれが他の人種や異性の人間性を分かちもっているーーーどちらも生物化学、とくに進化論に由来するもので、まったく聖書とは縁が無いーーーという知識の増大がある。黒人や女性が、そしてナチスドイツの時代にはユダヤ人やジプシー「差別用語なので、現在はロマと呼ばれている」が酷い扱いを受けたのは、一つには彼らが完全な人間とは認められてなかったからだ。倫理学者のピーター・シンガーは、「動物の解放」という著書において、私たちはいま、「ポスト種差別主義」の段階へと移行すべき時期を迎えているのだという見解を、きわめて雄弁に主張している。ポスト種差別主義というのは、人間が人間らしく扱われるような、しかるべき扱いを、自分がそう扱われたことを評価できる知性をもつすべての種にまで適用すべきだ、という考え方である。ひよっとしたら、これは道徳上の時代精神が、本来の世紀において向かうべき方向を示唆しているのかもしれない。それは、奴隷制の廃止や女性の解放といったかつての改革からの自然な延長ということになる。

聖書の中からは、決して、起こりえない、考え方であると、私は思う。
ポスト種差別主義とは、画期的である。

神は死んだ。そして、人間が生まれたのである。

時代性、時代精神が、それを、示すのである。

神の知性よりも、人間の知性が、勝るということを、知るものである。
勿論、神と呼ばれるモノは、人間の変形したものである。が。


道徳に関する時代精神が、大まかに一致した方向を目指して動いていく理由についてこれ以上深く追求するのは、私のアマチュア哲学や社会学の範囲を超えている。私の目的にとっては、観察された事実として実際にそういう動きがあり、またそれが宗教によってーーー聖書によってではないことはまちがいがないーーー推進されていないということがわかるだけで十分である。それはおそらく重力のような単一の力ではなく、コンピューターの能力が指数関数に増大することを表現したムーブの法則のように、さまざまな力の複雑な相互作用なのであろう。その原因が何であれ、時代精神の前進という明らかな現象の存在がわかっただけで、私たちが善人であるために、あるいは何が善であるかを判断するために神が必要だという主張を突き崩すのには十分である。
ドーキンス

私は付け加えて、仏典でによってでもないことは、間違いなと、言う。
さらに、コーランによってでも、ないことは、間違いないと、言う。

神や仏の名において、道徳を、説くという、傲慢不遜な態度は、更に、改めた方がよい。
それは、人間の知性によって、説かれ、感性によって、感得させられ、そして、理性によって、行為されるものである。

あと、一回で、ドーキンス氏と、お別れすることにする。


神仏は妄想である 91

スターリンとヒトラーは極端な悪行をそれぞれ、独善的かつ教条的なマルクス主義と、ワーグナーふうの狂乱の色合いをもつ、正気の沙汰ではない、非科学的な優生理論の名のもとにおこなったのである。宗教戦争は実際に宗教の名のもとで戦われ、それは歴史上おそろしいほど頻繁に見られる。一方、無神論の名のもとで戦われたいかなる戦争も、私は思い浮かべることができない。なぜそうなのか? 戦争が経済的な強欲、政治的な野心、民族的ないし人種的な偏見、深い不満や復讐心、あるいは国家が向かうべき方向に関する愛国的な信念によって推進される、ということは確かにあるだろう。しかし、戦争をおこなう動機としてより妥当な候補といえるのは、自分たちの宗教が唯一本物であるという不動の信念なのである。そしてこの信念を補強するものこそ、すべての異教徒やライヴァル宗教の信奉者に対して公然と死罪を宣告し、神の戦士はまっすぐに殉教者の天国に行けると露骨に約束する、聖典にほかならない。
ドーキンス

ヒトラーが、その残虐行為を単独で実行したわけではないことを、私たちは、ここで、思い出さなければならないと、ドーキンスは言う。
つまり、兵士や、その上官は、キリスト教徒だったというものである。

実際、ドイツ国民のあいだに根付いたキリスト教信仰こそ、私たちがまさに論じている仮説―――すなわち、ヒトラーがおこなった宗教にかかわる発言が偽りのものであったのではないかと疑われることーーーを支える土台の一部にちがいあるまい。つまり、ひょっとしたらヒトラーは、キリスト教に対してなんらかの共感を、形だけでも示さなければならないと思ったのかもしれない。
ドーキンス

ここで、問題なことは、時のローマ法王ピウス12世が、ナチスに反対する態度を取ることを、執拗に拒んだということである。
そのことは、現代のカトリック教会にとって、実に深い困惑になっている。

ヒトラー体制は、無神論に源を持つ者ではないと、ドーキンスは、言う。
スターリンは、完全に無神論者である。
しかし、個々の無神論者は、悪事を起こすかもしれないが、無神論の名において、悪事を成すことはない。
スターリンが、その典型である。

更に、私見であるが、スターリンの主義は、宗教から生まれた子供である。
マルクス主義は、プロテスタントの、ガンビンの思想から生まれたものであると、私は、考えている。

サム・ハリスはこの一件に関しても、「信仰の終焉」において的の中心を射抜いている。

宗教的信念が危険なのは、その他の点では正常な人間を狂った果実に飛びつかせ、その果実が聖なるものだと思い込ませるところにある。次々に生まれてくる新たな世代の子供たちは、宗教上の信条というものは他の事柄であれば必須とされる正当化の手続きを踏むことをかならずしも求められないと教えられるため、文明の依然として、不合理の徒から成る軍勢に包囲されたままである。私たちはいまこの瞬間も、大昔の文献をめぐって自分で自分の身を滅ぼしつつある。このような、悲劇的なまでに愚かしいことが起こりうると、いったい誰に想像ができたことだろう?

逆の言い方をするなら、信仰のない世界をつくるために戦争に行く者がどこにいるのか、ということだ。
ドーキンス

随分と、ドーキンスの、神は妄想である、から、多くを引用してきた。

ここで、ドーキンスの著作と、お別れする。

宗教の、蒙昧は、限りない。
同じ、キリスト教でも、カトリックとプロテスタントの、宗教戦争を、見よ。
また、新興キリスト教と、各宗派の争いを見よ。

そして、同じ旧約聖書を、聖典とする、ユダヤ、キリスト、イスラム教の、争いを、見よ。
アメリカの、ブッシュは、中世の十字軍という、イメージを、持って、イスラムに立ち向かった。
呆れる。

更に、世界各地で、行われる、紛争、戦争の種は、その多くを、宗教に負う。
インドならびに、アジアでは、平和志向の仏教徒まで、戦うのである。
更に、ヒンドゥーも、然り。

インドネシアは、政府が、打ち上げた、一神教のみ、宗教としての活動を、許したが、それが、根本的、紛争の種になった。
一神教を、認めるということは、唯一本物であると、信じる様々な、宗教紛争の種を、植えたということである。

日本の場合は、宗教戦争というより、為政者と、宗教団体の争いがあった。
特に、門徒の一揆に、端を発した、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康たちの、戦いである。

それ以前は、比叡山の僧兵に、象徴される。
比叡山で、僧兵である。信じられないのである。
延暦寺とは、天台宗である。最澄の天台宗である。
法然の念仏を、迫害し、虐殺等を、行ったとは、信じられないのである。

そして、念仏と、題目宗との、争い。

戦国時代を、戦いの歴史と、見るが、その底では、日本でも、宗教に絡む争いが多くあった。

神道が、仏教を受容したように、仏教の派閥が、そのようなことが無いというのが、私は、不思議である。

最も、今現在は、宗派が、集って、傷の舐め合いから、談合をしている、状態である。
すぐに、先が見える、日本仏教の、愚か者どもが、既得権益を、守るべく、仏教の現代化などと、言うが、なんのことはない。
食って寝る場所の確保であり、教義の云々でもなんでもない。
ただ、安穏とした暮らしを、続けるために、談合するのである。

彼らが、この世に、地獄を、作っていることを、知らない。

何度も言うが、仏陀の、教えなど、日本の仏教には、毛ほども無い。

次に、それらを、ランダムに、そう、無造作に、取り上げて、徹底的に、叩き切る。

最澄、空海、法然、親鸞、日蓮、道元等々、何ほどのことは無い。
妄想、想像の、蒙昧の世界である。

日本仏教の、名僧、高僧等々、言葉遊びの、何物でも無いと、断ずる。
文学というなら、話は、解るが、宗教、更に、信仰させるという、傲慢極まりない、その姿勢を、私は、断罪する。

2008年06月04日

神仏は妄想である。92

前回まで、ドーキンス氏の「神は妄想である」という、著書から、多く引用して、書いた。

次に、仏教、そして、また、新約聖書について、書くつもりだが、再度、私の立場を、書く。

私は、主イエスと、書かれる聖書と、キリスト教、すべてのである、それと、何の関係も無いものだと、考えている。

ナザレのイエスは、キリスト教の主イエスキリストであるというのは、後世の人の勝手な、思い込みであるし、勝手な解釈である。
仏陀も、そうすると、そういうことになる。

ナザレのイエスが、私の神と、呼んだ方は、自分の守護神であり、いつも、傍について、指導をしていたのである。

単純に言えば、イエスは、ユダヤ人であり、ユダヤ教の中での、革命を、起こしたのである。世界宗教など、何ほどの意識もなかった。

新約聖書に書かれている、イエスの言葉は、それぞれのセクトの、考え方から成った、イエスの言葉である。

私の中では、私のイエスがいる。

イエスの墓が、見つかったという、「キリストの棺」という本が、少しばかり、キリスト教国で、話題になったが、それ以上にはならない。何故か。
最早、真実など、どうでもいいのである。

妄想を、信じ込んでいれば、それでいいのである。

学問と、宗教の違いである。

事実より、妄想を、信じるのであるという、この世の、真実が、よく解るというものである。

いずれ、新約聖書の、セクトの人々が書いた、言葉を、検証するが、そのように、作られたものほど、有り難がるのである。
誰も、イエスが、糞して、小便をしていたと、思いたくないというのと、一緒である。
イエスも、人間であった。
人間である、イエスを、神の子として、認定したのは、後世の人々である。

更に、宗教として、レベルが低いのは、思い違い、心得違いを、起こしているということである。
何より、聖書を、神との契約と、考えるのであるから、終わっている。

取引というのが、一神教の特徴である。
こうしたから、神は、こうしてくれるというのである。

私は、カトリック信徒でもあるから、特に、その、教会の嘘は、解る。
クリスチャンは、自己本位の人が多い。
それは、教会の教えが、そうだからである。
しかし、自己本位などというと、とんでもないと、言うだろう。その逆だと、信じ込んでいる。

神本位であると、全く信じ込めるというのも、終わっているが、レベルが低い証拠である。

私の、霊学の立場は、イエスと、主イエスとの、差が甚だしいということである。

ただし、信者になるというのは、個人の極めて個人的情緒であるから、私は、決して、それを、犯すことはしない。
尊重する。

それは、私と、同じように、自分のイエスというものを、抱いている人も多いと、思うからだ。

仏に至る道も、八千の法門というが、それぞれ、人間には、無限の道がある。

仏に成るという言葉は、方便である。

私の霊学からは、人間は、人間であるということで、善しとする。
何も、仏というものに、限定する必要は無い。
きっと、理想的人間、それを、仏というのであろう。

肉体を、持っている人間が、仏になる必要は、さらさら無い。
何故、肉体があるのかということに、気付くべきである。

更に、多く、人は死ぬまでの、暇を潰さなければならない。ゆえに、まあ、仏の道でも、目指しましょうかということであり、それを、人に強制したり、ましてや、教えを説く必要は無い。
説くというのは、布教である。

宗教団体は、信者を、兵士に仕立てて、新会員獲得を、目指す。人を引き入れれば、徳が得られると、教える、宗教は多い。
商売である。
人が多くなれば、金が集まるからである。

最初から、組織を作ろうとして、努力したという、仰天する、告白をする、宗教指導者もいるほどである。

教えを、広めるという、堕落に陥る様を、感得できないほど、宗教的感覚というのは、何かに、麻痺させるのである。

自分一人で、行っていれは、事足りる。

仏陀も、そのまま、死ぬことを、考えたが、梵天という、魔界のモノが、現れて、その、悟ったものを、人々に、教え広めよと言う。
そして、語り始めたのであるが、それで、収まらず、仏教という宗教に、発展した。

今、仏教の混乱は、甚だしい。
また、仏教誕生の地は、仏教が、廃れて、久しい。

アホな、偽の仏教である、日本の仏教が、逆布教するという、驚きである。

イエスと、同じように、私の仏陀は、生き方指導の方である。
霊的に、高いレベルにあろが、なかろうが、生き方指導者として、素晴らしいと、考える。

ちなみに、仏陀は、仏教で言うところの、仏にはなっていない。仏典に、仏陀自身が、明確にしている。
それを、知らない仏教者たちの、親の顔が、見たいものである。

2008年06月05日

神仏は妄想である93

宗門の人、特に学識ある僧侶の書くものを見ると、述べてある真理が、深く教学に立ち入るにつれ、余りにも専門化されて門外の者には疎遠な感じを起こさせやすい。それに枝葉な問題に精細になると、とかく本質的なことが置き去りにされる。むしろ学問のための宗論で、活きた信仰とはかけ離れてしまう。宗学はそれ自身、立派な存在理由を持つとしても、それが知識の羅列に陥る危険は極めて多い。しばしば特殊な専門家の特殊な問題に終わりやすく、その煩瑣な宗論が、どんなに若い人々と仏教との間に、深い溝を作っているか分からぬ。
柳宗悦 南無阿弥陀仏 より

さて、仏教について、書くことにする。
最初は、浄土教から、始める。

しかし、その前に、結論から、書くべきだと、思っている。

上記、南無阿弥陀仏は、昭和26年から、27,28年にかけ、大法輪という雑誌に、連載されたものである。
広く、多くの読者を、曳きつけたようである。
現在も、上記のことが言える。

暇な坊主の、暇な、宗論研究は、実に、いい気なモノである。
時代は、切迫している。

仏教の専門書は、何を言うのか、よく解らないもの、多い。
さらに、教学なるもの、支離滅裂であることに、気付かない。
単なる、妄想である。

私は言う。

仏教の、悟りや、救いという、観念が、何故、必要なのであるかと。
何故、人間は、悟りが、必要なのか。
何故、人間は、救われなければならないのか。

そして、本当に、悟りとか、救いというものが、あるのか。

更に、万が一、悟って、救われても、私は言う。
人間は、孤独な存在である。
いや、絶対孤独が、人間の存在理由である。

宗教は、その、真理を、誤魔化し、更には、死後の世界までも、誤魔化しで、満たす。

これ程、罪深いものが、あろうか。

死ぬまでの、暇つぶしとは言え、何程の、価値があるというのか。


ただし、仏教の開祖、仏陀を、はじめ、それぞれの宗派の開祖たちの、活動に関しては、私は、敬意を、表するものである。
また、日本仏教の開祖たちにも、敬意を、表する。
それは、時代性と、時代精神が、求めたものだからだ。

また、文学としての価値は、思う存分にあると言う。

浄土教を、先に取り上げるのは、実に、日本人に、浄土宗系の信徒が多いということ。
そして、日本仏教の巨峰といえば、空海と、法然であると、思うからだ。

空海は、いずれ書く。
法然は、仏教に縁の無かった人々に、仏教というものを、提供した功績である。
更に、貴賎別なく、教えを説いたという、行為は、注目に値する。
法然によって、仏教が、一般化したと、言ってよい。

法然は、浄土宗を開いた。
そこからである。

南無阿弥陀仏を、唱えるだけで、救われると、説いたのだ。
救われる。
一体、何からの救いなのか。

これを、見つめつつ、進める。

さて、
柳の文を、続ける。

第二の仏教に関する書物の難点は、漢語による熟字や熟語が、余りにも多いことである。使用された経文のほとんどが一切が漢訳であるから、漢語の表現を用いずして仏教を語ることは容易ではない。のみならず、長い歴史の間には数多くの特殊な術語が培養された。それ故教学に詳しくなると、術語を豊富に知るから、それを誇示するような弊さえ見える。無学な者はそれに近づくことが出来ぬ。今の学生たちは漢字の素養が乏しく、近頃は進んで漢字の使用に制限を施すほどであるから、ますます仏書を読みづらいものにさせる。

ところが、ハウツー物の、仏教入門書などにより、読みやすくなったが、内容も、薄くなる。
薄くなるというのは、解った気にさせる、ということである。
般若心経などの、入門書なのか、エッセイなのか、論文なのか、知らないが、膨大な著書があるが、いい気なものである。
般若波密多 パンニャパラミーターという、知恵という言葉を、語っているのだろうが、知恵など知らない者が、知恵を語るという、仰天である。

語れないものは、語らない方が、いいのである。

仏教を平易に説くということは、それを民衆に近づけるためである。もとより平易は卑俗の意味であってはならない。いつだとて易しさは深さに支えられていなければならない。
柳宗悦

心の、より処を、求めて、般若心経などの、経文に、興味を示すのだろうが、あれを、マジに、読むということは、マジに、おかしくなるということである。

三蔵法師玄奘訳の、般若経の、心臓部であるが、あの、空観というものは、虚無の世界に引きずり込む。
つまり、深さを感じさせて、迷うのである。
その、迷いを、安心立命と、勘違いするのである。

仏教の、教学というものは、実は、それに、尽きる。
迷わせて、それを、安心と、思い込ませるのである。

仏法とは、別名、迷いである。

膨大な仏典というものがあるのは、迷いに迷うからである。
いくら、書き綴っても、終わらないことを、真理を語るのに、終わりが無いというのは、誤魔化しである。

真理とは、単純明快なものである。

太陽は、東から上り、西に、沈むのである。

日蓮は、たとい、日が西から出ても、法華経の揺らぐことは無いなどと、アホなことを言うが、太陽が西から出たら、どうなるのか。

強い信念は、強迫を生み、更に、誇大妄想に突進する。
宗教とは、実に、それである。

神仏は妄想である。94

私はここで、大体私の立場を述べておく方がよいであろう。今までの著者と違う点が幾つか見いだせると思うからである。私はこれから南無阿弥陀仏の意味を述べるのであるから、必然この六字の念仏に立つもろもろの宗派について記さねばならない。これらのものを総称して念仏宗とか、あるいは浄土門とか呼びならわしている。
それ故私はこの一篇で、仏教の多くの流れのうちから浄土門、即ち念仏による浄土往生を説く宗門について語るのである。・・・・・そこでどうしても法然、親鸞、一遍の三祖師のことが重要な題材となってくる。それに浄土門の最も徹底した思索がこれらの人々によって成されたのであるから、どうあってもこの三大上人のことを差し置くわけにはゆかぬ。そうしてこのことは必然的に、法然によって建てられた浄土宗、親鸞によって築かれた真宗、一遍によって始められた時宗のことを述べることになる。この三宗こそは、日本における念仏門を最もよく代表する。
柳宗悦

しかし、柳は、それいずれもに、属する者ではない。
それらの、宗派を引き離して考えたくない立場であると、言う。
解説、手引きとしては、常に客観的と、いってよい。

信者というのは、愚かであるから、浄土宗の信者は、真宗より、こちらが上とか、真宗信者は、浄土宗を超えたものであるとか、色々と、アホなことを言うのである。

宗教の、アホさは、同じ経典を、戴いても、派閥が違うと、実に、反目する。
それでいて、宗教者会議とか、世界宗教者云々といって、会議を、開き、嘘八百の、平和的云々の声明を出すという、茶番である。

それは、すべての宗教に言える。
実に、救われない者こそ、宗教であると、私は言う。

三人の、始祖の中で、一番、真っ当な感覚は、「我が化導は一期ばかりぞ」と言った、一遍である。

この時のみの、化導であると、言い切る心意気は、正に、見事である。
現在の時宗は、ほとんど、無いに等しい。
柳も、一遍により、日本浄土門の結末があるという。

一遍は、捨て聖、すてひじり、である。
実に、真っ当な、求道者であった。
たった一人の教えこそ、宗教という、極めて個人的な情緒の産物であり、それを、そのままに、行為するのが、宗教家の、面目である。
また、信者もそうである。
そこには、絶対孤独の境地がある。
私が、唯一、納得するのは、そこである。

法然という礎の上に、親鸞の柱、一遍の棟が建てられているので、法然なくして親鸞も一遍もなく、また親鸞、一遍なくして法然もその存在の意味が弱まる。一人格が法然より進み、親鸞より一遍へと移るのは、時代的展開であり、内的推移である。それ故法然は彼自らを親鸞に熟さしめ、更に一遍に高めしめたといってよい。三者はこれを異なる三者に分かつことが出来ぬ。
柳宗悦

さて、浄土門の、別名は、他力信仰である。
他力があれば、自力がある。

日本の仏教は、この、二つの道で、実に反目し、議論を尽くしたが、私に言わせれば、同じものである。
行き着くところは、同じ場所である。
その場所は、誇大妄想という、場所である。

無いものを、在ると、信じるのである。
妄想以外の何物でもない。
だが、それを、否定しない。
時代性と、時代精神による。

法然の、選択本願念仏集を、読むと、彼が、実に、お勉強したことが、解る。
三十年間を、学びに尽くした。
法然は、鎌倉時代の人と、いわれるが、鎌倉幕府が成立した時、法然は、六十歳である。
平安末期の人であった。
平安期とは、言わずと知れた、阿弥陀信仰の盛んな時期である。

だが、平安期の、阿弥陀信仰は、貴族や、その女房たちの、アクセサリーのようなものであった。
更に、抑鬱気味の時代である。
その、不安感を、鎮めるものとしての、阿弥陀信仰である。

法然は、その、偏狭だった、阿弥陀信仰を、一般に開放したと言ってよい。
更に、我が身のことである。

ここで、法然、親鸞共に、自虐的性格であることを言う。
つまり、末法という時代にある我と、戒定恵という、僧侶としての、器ではないという、自覚。
簡単に言う。
私は、駄目人間だという自覚。
親鸞にいたっては、どうしても、セックスがしたいと、その欲望を、抑えられないのだという、自虐が、こんな者でも、救われるという、念仏の教え、浄土門の教え、法然の教えに、ただ、任せるのだという、徹底した諦め。それを、後で人は、他力の甚深なる教えと、称えるのである。

一人で、やっているうちは、良かったが、それを、人に説くなと、言う。
ところが、親鸞は、それを、人に説いた。そして、信者まで、現れた。
そして、言うことが、親鸞は、弟子一人も持たない。皆、同行者だと言う。
それも、思索の深さとして、理解されている。

どうして、女を、二三人引き連れて、山に籠もり、セックス三昧の、日々を過ごさなかったのか。どうして、浄土宗から、さらに、浄土真宗という、教団にまで、いったのか。
ちなみに、最初は、浄土新宗であった。
お解りか、新である。つまり、新しいと、つけて、呼んだのである。
後に、真と、直した。

ここに、親鸞の迷いがある。
自虐趣味の、告白本、歎異抄は、文学的価値の、実に、高いものであるが、それは、弟子の唯円の筆である。

その子孫の、蓮如も、セックス好きで、多くの女に多くの子を産ませた。そして、浄土真宗という、教団を、強固なものとしたのである。
時の、為政者と、渡り合うような行動も取るという、宗教家というか、政治家でもあった。
彼の著作も、文学的価値の高いものであるが、果たして、宗教という、情緒にあるものか、疑問である。
真宗王国を、作らんとした、野心は、どこからのものか。

島崎藤村も、自らの罪深いことに、嘆き、破壊という、小説を書いた。
しかし、彼らは、自らの罪深いことに、嘆き、宗教を、作ったのである。
この、様を、迷いと、言わず、何と言うのか。

そして、その迷いを、多くの人に、共用させた。

知らないことを知るということは、知識である。
宗教の教えは、知識を、出ることはない。それを、知恵、更に、仏の知恵、涅槃の境地などと、アホなことを言うのである。

要するに、人間を、何故か、超えたところにあるような、物言いをするのである。
それが、彼らの手なのである。
いつまでも、信徒を、縛り付けて、搾取するという、手である。

勿論、彼らも、涅槃の境地、仏の知恵などという、境地など、知らない。知るはずがない。知るというならば、妄想である。
何故なら、そんなものは、無いからである。
空の思想ではない。
無いものなのである。

それを、追々書いてゆく。

2008年06月06日

神仏は妄想である95

自力、他力の二道は、互いに異なることに意味はあるが、異なったままに一つに即することに、更にその威儀がありはしまいか。もし一つに即することがなくば、二つの道は中途に止まっているものとして、厳しく批判されてよい。私は何も自他二道が始めから同一だと主張するのではなく、異なることによってかえって一つに即する所以に、驚嘆を覚えるのである。
柳宗悦

自力、他力という観念は、どこからきたのか。
中国思想である。インド大乗思想では、まだ、未分化であり、まして、仏陀の教えに、自力も他力も無い。言えば、そんな観念は無い。
仏陀は、人は行為によって、成るものに成るという。仏になりたければ、仏として生きればよい。ただ、それだけである。

例えば、禅宗は、座禅によって、悟りを求める。
自力である。

他力は、弥陀の本願を信じて、ただ、信心による。
後で、弥陀の本願というものを、見る。

両者は、結果的に、同じところに行き着くものだという。

むしろ一つに即するための分化だと見るべきであろう。男女が分かれるのは、分かれたそのままがよいということではない。一つたるがための差異なのである。分化することに目的はない。まして対立し反抗するということに、意味があるのではない。分化することで結合があり、結合し得るのは分化があるからだといえるのであろう。一方を肯定することで他方を否定すべきではなく、お互いが相即されるために差異が要請されているのである。
浄土門に絶大な意義があるのは、その要請のためだといわねばならぬ。
柳宗悦

押しても駄目なら、引いてみな、である。
要するに、同じ穴の狢である。

柳氏の、文を、茶化すのではない。
その通りである。
仏教においては。

客観的に、見れば、自力も他力も、同じものである。
要するに、仏になるとか、悟るとか、往生するとか、救われるとか、と、いうことのためにである。
同じであろう。

いずれにしても、目的は、同じである。
どちらにせよ、性格であろうし、方法であろう。

問題は、それ以前のことである。

柳宗悦氏は、実に、有意義な活動をしている。
民芸品の、価値の再確認である。
それを、浄土門の、教えから、説いているのである。
それも、一つの価値付けといえる。

だが、
平凡な常識ではあるが、ひとわたり事実を語ってゆこう。日本の文化史の中で何が最も高い位を占めるか。何としても偉く深いのは、幾人かの仏徒たちの行跡である。仏教が培った高僧たちの言葉や行為である。あるいはまた妙好人の如き篤い信者たちの一生である。「妙好」とは白蓮華の意で浄い心を意味する。見渡しても彼ら以上の日本の姿は見えぬ。それらの人々のことを想うと、仏教がどんなに深いものであるか、または人間がどれだけの高さまで行き着けるものなのかが分かる。実にそれらの僧侶や信徒たちが現れたばかりに、日本の文化には千鈞の重みが加わる。もしそれらの人々がいなかったら、日本は何を中外に誇り得るであろう。
柳宗悦

上記、実に、認識不足である。
彼ら以上の日本は見えぬ。
日本は何を中外に誇り得るであろう。
何という、誤りか。

それでは、あの、シルクロードに、伝わった仏教が、何故、イスラムに取って代わられたのか。
仏教ではなく、日本人だから、仏教を生かせた、また、応用して、更に、精神的に高いものに、仕立てたのである。

仏教によると、思い込むのは、柳氏の自由であるが、全く違う。

更に、彼ら以上の日本は見えぬというのは、本人が見えないだけで、見ていないのである。

私には、万葉の時代の、素晴らしい日本人が見える。
更に、舒明天皇から、庶民に至る面々に、脱帽するのである。

さらに、
日本に仏教が伝わらなかったら、日本は精神的にどれだけの深みを持ち得たであろう。

仏教の前にはまだ薄い淡い影に過ぎまい。

と言う。

精神的深みを、どのように定義しているのか、解らない。
また、薄い淡い影とは、何か。

私の言葉で、言えば、万葉の精神の深みを、知ってのことかと、言う。
そして、薄い淡い影とは、たゆたう心、曖昧微妙な心である。これは、日本人の最大の特徴であり、精神の格調の高さである。

微妙繊細な、心が、もののあわれ、という、心象風景を、描いたのである。

柳氏は、仏教に関わる僧たちの、文学的著述に、没頭しているに過ぎないのである。

勿論、柳氏が、それを、精神的高さと、評価するのは、否定しないが、日本を、知らないと言える。

最も、勘違いしているのは、仏教によるのではなく、それが、日本人によった、からである。

仏教文学を、これだけ、高みに押し上げたのは、日本人だけである。

極めつけは、
わが民族に無限の自信を贈るのは、吾吾の歴史にそれらの人々の足跡を持つからである。
と言う。

私は言う。
我々の民族に無限の自信を贈るのは、万葉集や、源氏物語における、更に、和歌の歌道における、人間の道であると。

決して、人間を、超越したような、化け物を、置かなかったことである。

仏教、更に、それ以前の、インドバラモン等々のように、人間を超えたモノ、化け物を、主に、拝まず、崇めず、呪術を行わず、自然に、共生し、共存し、更に、自然を、カミの依り代、よりしろ、として、自然を、畏敬した心情である。

そこには、何も、超越したモノは無かった。
決して、自然を、超えるという、傲慢な思想はなかったのである。

文字に迷うのが、宗教である。
更に、言葉に迷うのが、宗教である。

南無阿弥陀仏という、六文字というが、なむあみだぶつ、とは、音では、七つである。

日本には、一音に意味があり、ウーと、唱えれば、呼び出しの音霊であり、オーと、唱えれば、送り出しの、音霊となった。

文字の観念に、陥らなかった、民族である。

文字の羅列を、尊ぶのは、構わないが、それで、日本に、深い精神の云々が無いとは、無知である。

最初に、柳氏も、言う。
教学の言葉の、羅列で、得意になる、学者、僧の面々を。

仏教の堕落の甚だしさは、文字による、言葉による。

不立文字という、言葉に出来ない教えとして言う、禅宗さえ、溢れる程の、言葉を使う。
徹底して、言葉遊びをするのである。

それが、精神の深さというものか。
いずれ、禅宗にも、触れるが、最も堕落したのは、禅宗である。
仏陀の、教えを、言葉遊びに始終させたのである。
一本の草木を、育てることもせずに、座禅して、言葉遊びをして、のうのうと、生きていたのである。
働くことも、せずに、信徒から、布施を貰い、乞食を名乗ることなく、悟り済ましているという、傲慢極まりない、その、生き様は、唾棄すべきものである。

その修業というもの、農民や、漁民に生き方に、比べれば、天と地の差がある。
もし、極楽という世界があるならば、勿論、無いのだが、極楽行きは、間違いなく、農民、漁民である。

2008年06月07日

神仏は妄想である96

さて、法然は、日本で民衆に仏教、浄土門を説いた最初の、仏教家であり、それは、画期的な行動だった。
実に、それは、評価に値する。
あの、時代性を、考えれば、行き着くところ、当然である。
更に、法然は、知恵第一と言われたほどの、学識を、持っての、既成仏教との、決別という、行為も成した。

仏教は、最初、天皇、皇室のものであり、国家のものであった。そして、貴族に行き渡り、庶民には、手の届かないものだった。
鎌倉仏教の、衝撃は、余りある。

私は、法然の浄土宗という、宗派を、評価する。
そして、批判し、検証する。

まず、浄土門の、聖典と言われるものは、無量寿経、観無量寿経、そして、阿弥陀経である。浄土三部経と、言われる。
阿弥陀仏を中心とした、経典である。

法蔵菩薩が正覚を成じたその時、呼んで阿弥陀仏といわれ、阿弥陀如来とあがめられた。仏教での仏は基督教などでいう神とは多くの開きがある。仏とは「覚者」である。覚(さとり)を得ることが仏に成ることである。その仏で済度を行ずるものが如来である。如来は「如来る」とも「来るが如し」とも読め、「従如来生」(如より来る生ず)とも解き得ようが、この「如」は如来るもの、真実なるものであるから、「真如」とか「如如」とかいう言葉が生まれた。無上なるもの、無碍なるものを指すのである。
柳宗悦

無上なるもの、無碍なるものを指す、根拠は、上記の、経典である。
それを、信じる者は、それで、納得するが、それを、信じない者を、彼らは、無明にあるという。つまり、迷いにあるという。

覚者とは、悟りを得た者である。
一体、何をもって、悟りを得たというのか。
そのために、法蔵菩薩というものを、見ることにする。

柳氏の、案内で行く。

法蔵菩薩が成仏して阿弥陀如来と呼ばれるに至ったのである。このことは「大無量寿経」に述べられてあるが、いわば本生譚の一つである。釈迦如来にも本生譚があるが、つまり仏となる前世の譚で、仏と成ったのは由って来たる深い因の報いであるのを告げる。この因縁の物語こそ、なかなかに意味が深い。
柳宗悦

譚とは、ストーリィーである。
前世からの、お話である。
前世とは、科学で言えば、仮設に止まっている。
それは、証明されなければならない。
現在、確実に、前世調査というものが、科学によって、成されている事実がある。

今は、それに、触れずに、法蔵菩薩について書く。

経によれば、一日、ある国王が、世自在王仏の説法を聞かれ、翻然と省みるところがあり、その地位を捨て、国土を去り、一沙門となって、つまり、僧のようになって、名を法蔵と改めた。
行を積み、仏を讃え、覚を願う。
生死の苦の根を絶とうと求めた。
そのため五劫という、長い間苦慮し、思索し、徳行に励み、ついにもろもろの大願を起こすに至った。
いずれも、衆生を済度し、浄土に導こうとする切なる願いである。そうして、その願いが満たされないならば、成仏はせぬとまで、誓いを立てた。
いわゆる「正覚を取らじ」という強い決意である。
その、誓願は、四十八にも、及び、ひたすらに、仏土の具現を求めた。

経に「法蔵菩薩、今すでに成仏して西方に在す。ここを去ること十億刹なり。その仏の世界を名づけて安楽界と日う」
阿弥陀経には「これより西方十万億の仏土を過ぎて世界あり。名づけて極楽と日う。その土に仏まします。阿弥陀仏と号す。今現にいまして説法したまふ」

極楽思想の、はじまりである。
ここで、劫とか、刹とかの、時間を計る言葉が出る。
膨大な、気の遠くなる時間である。

法蔵が、菩薩の位から、如来の位に入ってこのかた、十劫を経たと、経には、記してある。これを、「十劫正覚」という。

変だ。

如来にならないと、願をかけたではないか。
と、このように、仏典は、長ければ長いほど、矛盾が、続出する。

ここでよく問いを受ける。法蔵菩薩とは架空の人物ではないのかと。そういう菩薩を描いて何を意味しようとするのかと。ただの比喩に過ぎぬのなら、弥陀といい浄土といい、何の確実さがあろうかと。そもそもどうその物語を解したらよいのか。数々の質疑が集まるであろう。
柳宗悦

柳氏は、懇々と、架空であっても、その意味があると、続けるのであるが、省略する。

物語である。

面白いのは、

実は凡ての大乗経典は、その法の深き真を伝えようとするのである。たとえ外面的な歴史としては架空だといわれても、内面的な法の歴史としては、これより真実な説話はないともいえよう。
と、言う。

歴史を歴史たらしめるもの、それを「法」と名づける。
とも、言う。

内面的な法の歴史としては、これより真実な説話はないともいえよう。とは、一体、どういう意味として、受け取ればいいのか。

ドーキンスの、神は妄想であるの中でも、聖書を道徳の、手本とするという話で、どの部分を、誰が、何の基準で、計るのかという、話があった。
それと同じで、内面的な法の歴史として、誰が、何を基準として、決められるのか、ということになる。

全ての、大乗経典と、言う。
全ての、大乗経典は、そのように、書かれてあるということである。
これには、驚きであろう。

桃太郎や、浦島太郎のお話を、どう解釈しても、誰も、太郎たちを、崇拝し、信仰することはないが、何故、仏典になると、信仰するのか・・・

ここで言う、法とは、インド哲学の、ダルマという言葉から、きているのだろう。
法とは、真理である。宇宙の真理。

一体、誰が、宇宙の真理として、証明出来るのか。

彼を架空の人だというが、この架空なものより真実なものは考えられない。と、柳氏は、言うのである。

あるいはこれを人間の原素なるもの、本有なるものの姿と解してもよい。とも言う。

これは、ただ事ではない。
つまり、人間の本質的な、姿を、創作して、作り出した仏であり、それは、真実の姿であるということなのだ。
それを、別名、仏という、ということになる。

柳宗悦氏の、南無阿弥陀仏は、信じるということを、前提に書かれてある。
信じない者には、何の興味も、関心も、持たれないのである。

それは、人間は、仏を目指して、救われなければならないという、強迫観念を、持たせるというものである。

私の、提案である、何故、悟りという、観念が必要か、救われなければ、ならせないのかを、再度言う。

架空であるが、真実であるという物語の、阿弥陀仏を、信仰して、創作の極楽に、行くために、何故、念仏を唱えるのか。

次に、その理由を、見ることにする。

2008年06月08日

神仏は妄想である97

一切の衆生を成仏せしめねばおかない、とする、法蔵菩薩、つまり、阿弥陀仏の、願が、念仏の、根本義である。

その、願が、無量寿経に書かれてあり、四十八の願がある。

ただし、法蔵菩薩は、もし、願が、成就されなければ、「正覚を取らじ」つまり、仏の位を得ないというが、阿弥陀如来となって、成仏しているという、不思議である。

正覚とは、悟りである。
仏の位の悟りという。

今日までこれら四十八個の中で、浄家が最も深く注意したのは、第十一、十七、十八、十九、二十、二十二などの願であって、概に百千の書物がその意味を解くに捧げられた。そのうちなかんずく重大な意味を持つのは第十八願で、一般に「念仏往生の願」と呼ばれるものである。
柳宗悦

たとえ、我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して、我が国に生まれんと欲して、乃至十念せんに、もし生まれずんば、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんとばをば除く。

これが、第十八願である。

信楽とは、信じきる。
我が国とは、浄土。
生まれんとは、浄土に往生すること。
乃至十念とは、十度ばかりも、念仏を称えること。
五逆とは、五種の逆罪で、父を殺す、母を殺す、阿羅漢を殺す、仏身より血を流す、和合僧を破る、である。
正法とは、正しい仏法である。

ちなみに、法然が、浄土門に、目覚めたのは、中国僧、善導による。

一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず、念念に捨てざるは、これを正定の業と名づく。彼の仏願に順ずるが故に。
観経義疎 より
捨てざるは、とは、称名、念仏を怠らぬ意味。
正定の業とは、弥陀の誓願により、正しく浄土往生が定まるという意味。

仏願は、阿弥陀の大願で、特に十八願を言う。

情報の無い時代である。
仏典という、膨大な書物の中からの、取出しである。

法然は、この一説を、読んで、一心専念弥陀名号と、感涙の涙を流すのである。

罪深い、下品、げぼん、の者さえ、救われる。

称名という易行の道がなくば、凡愚の衆生が救われる術はない。それ故口称念仏の行を、その宗派の眼目とした。
柳宗悦

法然の、浄土宗の、誕生である。

一般庶民は、読み書きが出来ない。下品である。
このような、考え方をするという、時代性である。
さらに、凡愚という。
今の言い方をすれば、アホ、馬鹿である。

何も知らない者たちということになる。

アホ、馬鹿が、救われるのは、易い、念仏の方法しかないと、法然は、気付いた。

何度も言うが、一般庶民に、仏教が伝えられた、きっかけを、法然は、作った。
それは、当時の、既成仏教団を、やわらかく否定することにもなった。

他力本願である。
誰もが、救われる。

浄土に往生することを、救いと、考えた。

これが、親鸞、一遍へと、受け継がれる。

時代性と、私は言った。

法然は、平安後期の人である。
平安とは、抑鬱の時代である。
最澄、空海の、天台と、真言は、国の仏教であり、奈良の六宗は、庶民の手の届かない仏教である。

ただし、当時の僧たちは、色々な宗派を、学ぶことが出来た。自由に、行き来した。唯一、空海の、東寺だけは、他宗の者を、拒んだのみ。

女房文学といわれる、世界最初の小説、源氏物語や、女の日記文学の平安である。
貴族は、危機意識なく、退廃的な生き方を善しとし、アクセサリー的な、仏法の説法を、聞いて、漫然と、過ごしていた。

そして、時代は、武家の登場である。
源平合戦を過ぎて、鎌倉幕府という、武家政権が、誕生する。

誰もが、時代に不安を、抱く。
そこに、法然による、仏法の説法である。

溢れるほどの人が、集った。誰でも、法然の説法が聞ける。
当時の、娯楽である。
その、娯楽が、極楽浄土を、強制する、強迫の教えとは、知らなかった。

はじめて、庶民が、救いという言葉を、聞いた時、何を思ったのか。何も、思わない。救いという、言葉の意味が、解らないのである。

何故、往生しなければならないのか。
死んで、極楽に行くという、妄想を、教えられて、戸惑ったであろう。

極楽を、語るには、地獄を、語ることになる。
地獄は、恐ろしい場所である。
死んで、地獄に落ちると、言われる。

無知な人を、相手にするのである。
何とでも言えるし、何とでも、語れる。

法然には、そんな意識は、全く無かったであろうが、無知な人々を、洗脳したのである。

念仏さえ、称えれば、極楽に行けるというのである。
その、極楽の様を、経は、延々と語る。
法然は、それを、少しづつ、話して聞かせる。

その、語りは、娯楽のない当時、画期的な、娯楽になったと、思われる。
気持ちの良い、極楽の話が、聞けると、友人知人、お誘いあわせの上、どんどんと、人が集ったであろうこと、想像に難くない。

手の届かなかった、仏様の教えが、今、法然によって、語られる。

時代性と、時代精神が、満たされた時である。

その、時代性というものを、考えてこそ、法然の説法が、生きる。
それから、800年ほど、歳月が流れた。
さて、現代は、まだ、法然の説法を、求めるだろうか。

凡て仏教では法を中心にする。そうしてその法は単に静止する理体ではなく、自らを様々に顕示するから、その現れを様々な仏名で呼ぶのである。弥陀はまさにその一つであるが、この弥陀は歴史以後のものではない。以後のものであってはならない。それ故にく歴史をして歴史たらしめる力となるのである。それ故彼の動く世界は、実に衆生のさ中に在る。その衆生は現実の歴史に在るが、もし衆生をして衆生たらしめる法体を欠くなら、存在の意味が現れよう。衆生に働きかけるその法体を弥陀と呼ぶのである。働きなき理体なら弥陀ではない。・・・・それ故彼を離れるなら、私の存在はただ生まれて死ぬというに過ぎぬ。そんな私こそ歴史的意味に欠ける。
柳宗悦


ただ、生まれて、死ぬに過ぎぬ。
人間は、ただ、生まれて、死ぬに過ぎぬ存在ではないのか。

その、ただ、生まれて死ぬ存在として、耐えられぬから、弥陀という、想像の、産物を、作るのか。
ここのところを、深く検証する。

何故、意味を、求めるのか。
生きる意味意識は、架空の存在である、創作の、産物が必要であるのか。

確かに、過去から、現在、未来に、流れる、真理という、法の、中に、歴史というものがあると、捉える考え方があっても、いいと、思う。
それは、しかし、実に、極めて個人的な、物思いであろう。
哲学や、思想の一つとして、それを、容認するが、何故、それを、人に、教え、強制して、強迫するのか。

私は、宗教の誤りを、その、強制と、強迫に置く。

神仏は妄想である98

衆生にむかってひとえに「仏願に乗ぜよ」というのは、この願の上に乗りさえすれば、往生が決定するのを報らせるためである。丁度海を渡るのに舟に乗るのと同じである。これに乗れば易々と港に着くことが出来る。自らの力で泳いだら、いつ着き得るであろう。またいつ力が絶えるか分からぬ。あの沈むべき重い石でさえ大きな舟に乗せられるなら、沈むことはあり得ないではないか。人間の場合も同じだと浄土門の教えは説くのである。それ故、他力門というのである。
柳宗悦

浄土門だけではない。
大乗仏教というもの、すべてに、それが言える。

大きな舟に乗せて、彼岸へ渡るという。

何故、往生して、彼岸へ、渡らなければならないのかという、問いには、答えない。兎に角、往生すべきだという。
極楽へ、行くために。

その極楽は、理想的想像、創作の、阿弥陀如来が居るという。

この願文において最も驚くべきことは、法蔵菩薩の成仏と、我々の成仏とが同時だということである。われわれの往生するその時はまた彼が如来となるその時なのを意味する。言葉を換えると、救いたいという願いと、救われたいという行いとが同時に一体となっている。いつこんな不思議な出来事が起こるか。それは十声でも、否、一声でも仏の名を称える時に起こるのである。
柳宗悦

つまり、十方の衆生が、わがくににむまれんとねがひて、わが名号をとなふる事、下十声にいたるまで、わが願力に乗じて、もしむまれずば、われほとけにならじ

法然の、浄土宗略抄
つまり、十八願の一つである。

柳の文章は、往生するのが、当たり前であり、人は、往生するべきものだとの、前提での、言葉である。

誰でもが出来る、行為、念仏を称えるという行為。
それを、凡夫往生の願、という。

今なら、さしずめ、傲慢不遜と、言われる。
当時の、時代性であるから、認められ、人が集った。

後に、凡夫の自覚等々について、書くが、凡夫であることが、何故、いけないのか。
凡夫のままであることから、何故、救われなければ、ならないのか。

勝手に創作した、極楽という、ユートピアに、往生せよとの、教えは、脅迫であろう。
それに、何故、気付かないのか。

法然も言う。
我れ浄土宗を立てる心は、凡夫の報土に生きるを示さんがためなり

何故、一人で、凡夫として、念仏をし、死ぬことかなかったのか。
衆生を救うとは、僭越至極であろう。

それはとりわけ平のために設けられた宗門である。民衆の宗教、庶民の宗教である。それ故在家仏教とも呼ばれてよい。在俗の者、貧窮の者、下賎の者、無学の者、田舎の者、農民、漁夫、職人、商人等々、社会の低い層に活きねばならぬあらゆる衆生、とりわけそういう人々のために開かれた宗門こそは、この第十八願に依る念仏の一道である。否、それどころではない。罪ある者、愚かなる者、穢れたる者、汚れたる者、邪なる者、高ぶる者、虐げられた者、それら一切の者たちこそ、凡夫ではないか。
柳宗悦

そう、誰もが、救われると、説くのである。

現代では、これは、差別の何物でもないだろう。
人間を、貴賎に分けるのである。

更に、民衆の宗教というところが、面白い。
現在の新興宗教も、おおよそ、皆々、民衆の宗教と言う。
民衆の宗教と、言い、多くの人を集める。集まると、金が集まる。そして、組織を作る。更に、金を集める。
金を信者が、出すことを、供養と言う。徳を積むという。更に、それで、救われるとまで、言う。

この、宗教の、いかがわしさと言ったら無い。
しかし、今も昔も、信じる者は、騙された。騙され続けてきた。
それでも、何かを信じたい、拝みたいと思う。
何故か。

一人では、生きられないからである。
グループ、皆々がいると思う、安心感である。
しかし、そこには、救いは無い。

すでに、救われているという、詭弁を持って、騙すのである。

人間に、救いという観念を、持たせた宗教の罪は、余りに重く、重すぎる。

何度も言う。
何故、救われなければ、ならないのか。
それに、誰も答えぬ。

誠に第十八願の短文が、東洋思想に及ぼした波紋は、終わるところを知らぬほどに無量である。
柳宗悦

違う。
それが、及ぼした波紋は、終わるところを、知らぬほど、人間を迷いの、世界に貶めたのである。

妄想の、救いの観念に、貶めた。
更に、悪いことに、想念として、死後も、その、救いの観念に、迷うもの多く、あるはずもない、極楽浄土を、求めて、さ迷うのである。
更に、悪いことは、それらの、想念が集い、仏魔の世界を、作り出すものである。

さ迷う、念仏宗の人々が、次元を移動できずに、ひたすら、念仏を、称える次元がある。

死後も、念仏について、云々と、そして、延々として、無明に迷う。
南無阿弥陀仏と称えて、一体、どこに、何を求めて行くのか。
生きるという、地獄の世界から、解放されても、まだ、地獄の様を、背負っていること、念仏宗の、開祖、教え親たちに、解るのか。

観念の世界を、極楽だと、思い込む面々である。

その、観念を、より、深めた、次の段階に移ることにする。

2008年06月09日

神仏は妄想である99

念仏とは二つの段階が考えられた。一つは心に仏を観ずることである。即ち憶念であり、思念である。一つは口に仏を称えることで、六字の称名である。観仏にも色々あろう。三十一あるという仏の相好を想い浮かべることもあろう。仏の国、浄土の相を想い描くこともあろう。
柳宗悦

だが、無智な者、遅鈍な者はこの観仏に堪えることは出来ないという。
それゆえ、念仏は、下根の者のために、称名の道を教えた。
ただ、口に仏のみ名を称えるだけであるから、口業念仏という。
源信は、そのいずれも、勧めたが、彼は、観仏が、称名に優ると、考えていた。

観仏は、上根の者のする念仏であり、称名の念仏は、下根の者のする、念仏であるというのだ。
鎌倉初期まで、それを、誰も疑わなかった。
しかし、称名の上位を述べたのが、法然である。

低いとされた、称名念仏に、深い意味づけを、行ったのが、法然であり、それは、中国仏教にも無いものである。
法然の、創造である。

確かに、天台宗などでも、称名念仏の修行という、一つはあったが、それは、一宗になるようなものではなかった。

簡単に言えば、衆生とは、愚かで、修行など出来ない者であり、下賎の者であるという意識である。

下品、げぼん、の者とも、言う。
要するに、愚かなる大衆という意味である。

さらに、
口称に依ることは絶対の他力を立てることである。仏自らが、自らをして残りなく仏たらしめることである。口称の時、人は己を見てはならぬ。仏をのみ見つむべきである。自らに幾ばくの力があってか、仏の力を疑うのであろうか。余分に仏の力を仰げば、口称に何の疑いが起こるであろう。その口称すらも、自らの口称ではないのを、とくと省みるべきではないか。
柳宗悦

ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、疑ひなく往生するぞと思ひとりて申す外には、別の仔細候はず
法然 一枚起請文

疑いなく、往生すると、信じれば、いいと言う。
更に、疑いつつ、念仏しても、救われる、ということになる。
それを、深さというのか、迷いというのか。

創作の経典の、創作の、阿弥陀如来を信じて、念仏して、救われるという、心理は、如何なるものか。

自己完結である。

妄想の、ユートピアを信じて、救われると、思い込んで、念仏するのも、我ではなく、仏であると、信じきって、念仏すれば、救われる。

救いとは、極楽に往生、つまり、生まれると、考える。

念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法を能く能く学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智の輩に同うして、知者の振舞をせずして、ただ一向念仏すべし
法然 一枚起請文

ここには、全く、科学というものが無い。
実証ということは、無い。仮設である。その、仮説を、信じて、ただ、念仏すれば、救われると、信じて念仏せよと言う。

当時の人々には、通用するが、現代には、通用しない。

阿弥陀仏の、おわす、極楽浄土に、生まれるという、意味が無い。
何故、極楽に生まれるべきなのか、という、疑問に、答えられない。

ただ、信じて、善しとする。

それを、深めたのが、親鸞である。いずれ、親鸞について、書く。

かるが故に知んぬ。念仏は易きが故に一切に通ず。諸行は難き故に諸機に通ぜず。しれば即ち一切衆生をして、平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、以って本願とし給ふか。もしそれ造像起塔をもて、本願とし給はば、即ち貧窮困窮の類は、定めて往生の望を絶たん。しかるに富貴の者は少なく、貧賤の者は甚だ多し。もし智慧高才をもて、本願とし給はば、即ち愚鈍下智の者は、定めて往生の望を絶たん。然るに智慧ある者は少く、愚痴なる者は甚だ多し。
法然 選択本願念仏集

要するに、30年間、仏教を学んだ法然は、最早、仏教以外の、考え方というものを、知ることがなかった。
どうしても、仏教の中に、何かを見出さなければ、ならなかったのである。

宗教家の、多くが陥る、救い病である。
救済病である。

人間は、決して、物事を、客観的に、見ることは出来ない。
客観的に、物事を見て、判断するとしても、それは、その人の、主観の内で、行われる。
つまり、客観的という、主観によってしか、物事を、見ることが出来ないのである。
子供が、客観的に、物事を見ることが、出来ないと、同じように、大人になっても、それは、無理なのである。

文明から、離れて暮らす人々は、決して、文明を、理解できない。
どうしても、その場、生きる場からしか、物事を、判断することは出来ない。
同じように、我という意識以外から、我を、観るということは、不可能である。

主観を、深める、高めるしか、方法が無いのである。

法然は、仏教の内から、抜けられなかった。
そこから、雁字搦めにされて、その中からの、救いという観念のみにしか、広げることが、出来なかった。

人は、知ること、以外の世界を、知らないのである。

だから、謙虚に、成らざるを得ない。
仏教という、狭い世界の中で、蠢くことしか、方法がなかったのである。

法然は、大衆に、仏教の救いというものを、開示したという、点では、大いに、評価出来ると、言ったが、それは、その時代で、終わった。

一期のものであった。

更に、この、浄土思想が、多くの人を、抑鬱状態に、陥れたことを、観る。

罪の意識である。

どこの、宗教も、そうであるが、この罪意識というものが、強迫観念となる。
親鸞などは、その、最もたる人物である。

強迫観念から、抑鬱状態を、高じさせて、抑鬱状態が、当たり前のようになるのである。
つまり、念仏は、そのまま、抑鬱神経症のように、念仏する者に、覆いかぶさる。

現在なら、抑鬱剤一つで、解放する。

2008年06月18日

神仏は妄想である100

称名は無観でありたい。無観たるべきなのである。有観ならば、まだ至純な称名とはいえぬ。称名にはどこまでも純他力の声質がなければならぬ。称名とはわれを棄て去って、仏に一切をまかせきることである。それが南無阿弥陀仏の一声である。
柳宗悦

念仏の至境を尽くしたとして、一遍上人の和歌を載せる。

主なき 弥陀の御名にぞ 生まれける となへすてたる 跡の一声
あるじなき みだのみなにぞ うまれける となへすてたる あとのいっせい

我を無くして、称える念仏には、主は無い。
称え捨てたるとは、我を捨てた、跡の南無阿弥陀仏なのである。
要するに、すべてが、念仏になるという心境である。

我を捨てるという、心境を、理想とした、時代である。

確かに、我を失う程、のめり込む念仏はあるだろうが、我を捨てるというのは、詭弁である。

捨てるのではなく、失うのである。
それを、我を捨てたと、思い込む、病である。

一つに、仏典を、歴史書と同じように、認識した、過ち。
事実ではない、創作の物語を、事実と、信じて、阿弥陀仏というものの、世界である、極楽があると、信じた過ち。
我を捨てるという心境を、失うと、認識しなかった、過ちである。

事実ではないが、真実であるとは、詭弁である。
確かに、そのような、真実観というものが、あってもいいが、この場合は、信じさせるための、根拠としているのである。
衆生を、貶めるものである。

我という、意識、我執とも、言うが、それを、捨てるというが、我を、捨てて、果たして、何事かの、行動が、取れるだろうか。
我を、捨てるとは、精神病である。
まして、阿弥陀仏に、すべてを任せきってしまうという、心境は、如何にしても、責任能力の無い、病にあると、いえる。

ただ、私が、理解するに、茶の湯の手前をしている時に、手前に没頭する故に、手前をしている、自分というものの、意識が、無くなる、失う場合がある。
忘我の感なのであるのか。

それでは、鮨職人が、無意識のうちに、握りを作る時、我というものを、忘れているのであろうか。
客と、歓談しつつ、手は、自然に握りを作るという、行為にある、時、我というものを、捨ているのであろうか。

それらは、皆、勘というものである。
これは、甚だしい力と、書く。

人間の、素晴らしい能力として、あるものである。

そのような、状態を、我を忘れると、表現するのならば、理解する。

しかし、念仏を称えるという行為に、我を捨て切るという、境地は、それとも、違うのであろう。
つまり、一種の悟りの境地を言うのである。

念仏を称え続けることは、自力である。
だが、絶対他力でなくなては、ならない。

ここで、空しい、他力、自力の、議論というものがあるが、実に、机上の空論となる。

だから、称えさせていただく。
そして、南無阿弥陀仏が、南無阿弥陀仏を称えるなどという、へんてこりんな、心境になる。

人間は、瞬間的に、我を忘れたように、思える時が、あるといえる。しかし、我を忘れることは、出来ない。
我を失うことは、できる。

更に、ある病理に、拍車をかけるのである。

・ ・・それ故には、選ばれざる者、許されざる者、天才ならざる者、弱き者、愚かなる者等々、無数の大衆があろう。これらの者たちは、ほとんど宿命として聖道の門をくぐることができぬ。だが仏の慈悲はこの悲嘆をそのままに放置するであろうか。これに答えて建てられたのが浄土の法門である。それ故この教門は須らく易行の道でなければならぬ。そうして他力の教えでなければならぬ。
柳宗悦

聖道の門とは、自力の法門である。

次第に、病が深くなる。

選ばれざる者とか、小さく哀れな者とか、脆さ、弱さ、愚かさ、そして、罪に泣く者というのである。
更に、救われる値打ちの無い者とくる。
むき出しの貧しさ、全く無力な、自分というものを、意識する者。


自我を立てぬのが称名である。そのことは何を意味するのか。衆生を済度しようとする慈悲そのものに、凡てを働いて貰うことである。その慈悲を素直にそのまま受け取ることである。称名はここで自力の行ではなく、全く他力の行だと分かる。称えるというより称えさせて貰うのであって、どこまでも受身である。ここで受身とは小さな自己が捨てられたことを意味する。そのことはまた残りなく他力が働いていることを意味する。
柳宗悦

この方の、南無阿弥陀仏という、書は、この繰り返しである。

自分が悩んでいることに、人を引き込もうとする、念仏行者であることに、気付いていない。

我の中で、勝手に、七転八倒している様を、持って、他力というのである。

江戸時代の儒学者の中には、それを見て、彼らは、無きものに、屁理屈をつけて、人を騙すと、見抜いた者もいる。

阿弥陀も、観音も、何もかも、仏教のモノ、存在しないものであると、喝破した。

我が念仏の力で往生が出来ると思うのは間違いである。往生は念仏自らに備わったおのれなりの功徳なのである。

このように、考えることを、迷いと認識しない、病である。

良く解釈すれば、思索を深めていると、いえる。
しかし、それは、策士策におぼれるが、如きものであり、思索に溺れるのである。つまり、それは、迷いである。

念仏自らに備わった、おのれなりの、功徳なのである。
おおよそ、法然から親鸞、一遍までに至る、道である。

この上に、罪悪感という、観念が積み重なり、浄土門は、益々と、病深く、迷いの境地に達するのである。

一人相撲で、七転八倒している様、実に、哀れである。

妄想の、阿弥陀仏、ミーアミダーバという、観念である。
極楽を拓いた仏であるという、観念。
勿論、浄土という、ものも無い。
人の頭で、捏ね繰り回し、作られた観念である。

柳氏も、明確に、大乗経典は、創作であると、いう。
事実ではないが、それは、歴史の真実、人間の真実の姿であるという。

ここには、毛ほどの、説得力も無い。

架空のお話であり、議論のための、議論であり、言葉遊びの何物でもない。

私は、ただ、当時のものとして、それを、否定しない。
その世界しか、知らないのである。
それ以上を、求めることは、酷である。

知らないものは、無いものである。

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