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神仏は妄想である。第二段 アーカイブ

2008年03月23日

神仏は妄想である。53

ヒト胚は人間の生命の見本である。したがって、絶対主義的宗教に照らしてみれば、中絶は単純に悪である。つまりれっきとした殺人なのである。胎児の生命を奪うことにもっとも熱心に反対している人の多くが、成人の命を奪うことに人並み以上に熱狂的であるようにも思えるという、確証に乏しいことを認めざるをえない私の観察を、どう判断していいのか確信がない。(公正のために言うと、通常もっとも苛烈な中絶反対論者とみなされるローマ・カトリック教徒は、これに当てはまらない)
ドーキンス

私も、同じように、考えている。
そこで、次の記述である。

けれども、生まれ変わったキリスト教徒のジョージ・W・ブッシュは、現代の宗教的支配勢力の典型である。彼と彼らは、それが胎児の命(あるいは末期患者の命)であるかぎりは、人間の生命の熱烈な擁護者―――まちがいなく多くの命を救うことになるばすの医学研究さえ阻止することも辞さないーーーである。

最悪の、クライスターという武器で、平然として、人殺しを命ずる者が、胎児となると、突然、守れと、言う、矛盾。

イラクで、アメリカの若者が、どれほど、命を失ったのか。
まるで、感じていない様子である。

これ程の、矛盾を抱えても、平然としていられるというのは、ご病気ではないかと、私には、思えるのだが・・・

人格障害の中でも、嘘をつくことを、平然と出来る病がある。
彼の地の、大統領は、人格障害であると、断定出来るのである。しかし、それが、宗教的絶対主義から、出ていると、すると、あるいは、宗教、そのものに、病の、種があると、思うのである。

次に、ドーキンスは、世界的、聖者と言われる、マザーテレサについて、言及する。私も、ここまでは、言わないが、ここまで、言うのである。

カルカッタのマザー・テレサは、ノーベル賞受賞講演において実際に、「妊娠中絶こそ、最大の平和破壊者です」と言った。なぜなのか? このような偏った判断力しかない女性の発言を、どんな話題についてであれ、真面目に受け止めることがどうしてできるのだろう。まして、ノーベル賞に真面目に値すると考えることがどうしてできるのだろう? 聖人ぶった偽善者マザー・テレサに騙されたいという誘惑に駆られた人間は誰でも、クリストファー・ヒッチェンズの「宣教師の立場」―――マザー・テレサの理論と実践」を読むべきである。

霊学の立場から、言えば、中絶は、三ヶ月以内に行うべきであると言う。
つまり、霊体が、肉体に定着する前である。

日本の場合を見ると、中絶によって、子供を下ろした場合は、水子供養という、商売が、大流行である。
供養商売は、日本仏教の、得意分野である。

更に悪いのは、水子による、霊的障害を、云々する、霊能者の多数である。
何を、基準に、それを、言うのかは、解らない。多分、気分的なものだろうと、思う。

水子を供養して、息子や娘の、行状が、良くなった等の、話があるが、果たして、それが、どれ程、信憑性があるのだろうか。
それは、先祖供養にも、言える。

運が悪く、先祖の墓参りをしてから、とんとん拍子に、運が良くなり、商売はじめ、すべてが、好転したというが、果たして、たった、一人の経験談を、掲げて、先祖供養、絶対必要と、言えるものだろうか。

中絶した、女性の、弱い心を、弄ぶ、とんでもない、商売であると、言っておく。

更に、水子という、霊なるもの、勝手な、妄想の想念の、場合、多々あり。
胚を、流して、それが、どうして、一人前の、霊と、認定するのか、不思議である。

それならば、昔から、口減らしとして、生まれた子供を、すぐに、殺した場合の、多数の霊は、どうするのか。
人間の一生は、供養で終わるのだろうか。

アメリカのタリバンに話を戻して、妊娠中絶に手を貸す人間を脅迫するための組織である(オペレーション・レスキュー)の創設者、ランドール・チリーの言い分を聞いてみよう。「私、あるいは私のような人間がこの国の実権を握ったら、あなたたちは逃げ出したほうがいい。なぜなら、われわれはあなたたちを見つけ、あなたたちを裁き、あなたたちを処刑するからである。私は掛け値なしに言っているのだ。私は彼らが裁かれ、処刑されるよう取り計らうことをこれからも使命の一環としていく」。チリーがここで呼びかけているのは、中絶手術をおこなう医師たちであるが、彼を動かしているキリスト教的な霊感がどのようなものか、別の発言に明確に示されている。

私はおまえたちの上に、不寛容な波がどっと押し寄せることを望む。そうだ、憎しみは正しいのだ。・・・われわれが目標とするのはキリスト教国家の建設である。われわれには聖書に定められた義務があり、われわれはこの国を征服するよう神に命じられている。われわれは敵に自分たちと同等の時間を与えるつもりはない。われわれは多元主義を望まない。
われわれの目標は単純でなければならない。われわれは神の法、十戒にもとづいて構築されたキリスト教国家をもたなければならない。言い訳は無用だ。

キリスト教ファシスト国家を、望む者。そして、イスラム教ファシスト国家を、望む者。
これで、世界平和など、望むべくもない。

甚だしい程、馬鹿げたことであるが、現実である。

彼らは、違う意見を、持つ者を、平気で殺す。しかし、胎児や、胚を、流すことを、禁じるという、大きな矛盾である。

旧約聖書にある、ユダヤ十二氏族の、子孫というものは、余程、野蛮極まりない者なのだろう。
アブラハム、イサク、ヤコブの神という、旧約の神である。
ヤコブから、ユダヤ十二氏族が、現れる。

それらの、遺伝を受け持つ者、このように、野蛮極まりない者なのである。

そして、アラブの民は、アブラハムが、召使の、エジプトの女に産ませた、子供の、子孫であり、聖書にあるように、野蛮極まりない者と、言われる。
それが、イスラムの元。

多元主義を、排斥する、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教である。

世界が、国境により、区分けされているのではない。よく言えば、文明により、区分けされている。最悪に言えば、宗教により、区分けされている。

それらは、すべて、妄想の産物である。
胎児と、胚については、次に続ける。

神仏は妄想である。54

彼らにとって、問題ははるかに単純である。胚は「赤ん坊」であり、それを殺すのは殺人である、それだけのことだ。これで議論はおしまい。
ドーキンス

しかし、この絶対主義的な立場をとるとするなら、いろいろな問題が引き起こされることになる。手始めに、胚幹細胞を使った研究は、医科学にとって大きな可能性を含んでいるにもかかわらず止めさせなければならない。なぜなら、それは胚細胞の死をともなうからである。社会がすでに人工授精を受け入れていることを考えてみれば、その一貫性のなさは明らかだろう。

つまり、受精卵を、十数個も作るが、使用するのは、一個か二個である。他の受精卵は、殺される、という、表現が出来る。

さらに、アホなことに、その、受精卵を救えという、絶対主義的立場を取る者も、出始めたという。

強迫神経症である。

帰結主義者あるいは功利主義者なら、おそらくこれとは非常に異なったやり方で、中絶問題をアプローチするだろうーーーすなはち、苦しみの軽重を判定するのである。胚(胎児)は苦しむだろうか(おそらく、神経系ができる以前に中絶されればそうではないだろう。神経系ができているだけの月齢に達していてさえ、たとえば屠畜場の成牛ほども苦しまないことは確かだろう)? 妊婦、あるいはその家族は、もし彼女が中絶をしなければ苦しむだろうか? その可能性はきわめて高い。そしていずれにせよ、胚が神経系を欠いていることを考えれば、母親のよく発達した神経系のほうをとるべきではないだろうか?

絶対主義的宗教の、感情論によって、多くの無明が、まかり通るという、実際を、見るものである。

胚をわざわざ「赤ん坊」と呼び、それを守るために殺人をする用意のある人々がいる。
ドーキンス

胚は、殺すな、しかし、胚を殺す者は、殺すというのだから、話に、ならないのである。

人道的とか、道徳的とか、全く話しにならない、絶対主義的宗教の、有様である。

ドーハンスは、彼らの矛盾を、徹底的に、炙り出している。

アメリカは、キリスト教原理主義によって、中絶の反対、同性愛の、反対、等々、聖書主義にのっとって、判定する。
そして、それを、国家意識にまでも、高めようとしている。

そして、同じように、聖書主義にのっとっている、イスラムも、そうであるが、両者が、決して、和解しないのは、何故か。
不思議である。

問題の核は、聖書絶対主義にあるのだ。

さらに、イスラムは、イスラム帝国を、キリスト教徒は、世界のキリスト教制覇である。

妊娠中絶の、問題は、単なる、一つの、方法である。

そして、それを、誰が指揮するのか。
宗教指導者である。
彼らの、胸先三寸で、決まる。

宗教上の絶対主義がもつ負の側面を明らかにするなかで私は、中絶クリニックを爆破したアメリカのキリスト教徒と、アフガニスタンのタリバンに言及した。彼らの、とくに女性に対する一連の残虐行為については、あまりの痛ましさゆえに列挙することができなかった。
ドーキンス

聖戦主義者を突き崩す最良の方法は、イスラム教徒女性の反乱を引き起こすことだ。
ロンドン・インディペンデント紙の、コラムニスト、ジョアン・ハリ

旧約聖書の、女性蔑視は、半端ではない。
家畜以下の、存在である。

人間とは、男のことを言うのである。
つまり、女は、人間もどき、ということになる。
その、女性蔑視は、ただ事ではない。

勿論、ウーマンリブ行為などは、完全に、皆殺しにあうだろう。

「旧約聖書」の神は、おそらくまちがいなく、あらゆるフィクションのなかでもっとも不愉快な登場人物である。嫉妬深くて、そのことを自慢している。けちくさく、不当で、容赦のない支配魔。執念深く、血に飢え、民族浄化をおこなった人間。女嫌い、ホモ嫌い、人種差別主義者、幼児殺し、大虐殺者、実子殺し、悪疫を引き起こし、誇大妄想で、サドマゾ趣味で、気まぐれな悪さをするいじめっ子だ。
神がいるという仮説 より

日本のキリスト教、作家たちは、この、旧約聖書の神を、神として、受け入れ、それぞれが、旧約聖書について、非常に好意的に、書いているという、驚きである。
さらに、熱心に、その神に、祈りを、捧げるという、仰天である。
更に、驚くことは、日本の天照大神などを、神話、御伽噺の、神様と、信じきっていることである。しまいに、日本には、神不在などという、馬鹿げたことを、平然として言うという、様である。

日本に、このような、変な神観念が、なかったことが、実に、幸いであった。

旧約聖書には、近親相姦など、平然として行う人物が、登場するという、驚きもある。

兎に角、野蛮であるということは、疑い得ない。
それを、信奉している、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教である。

何度も言うが、そこにある、霊性というものを、考える時に、それは、魔界からのものと、判断する以外にないのである。

ヨブ記という、章があるが、神への信仰の篤い、ヨブの話であるが、どうみても、サドマゾなのである。
苦しみを与える神、それを、一つ一つ、耐え忍ぶヨブ、そして、最後の最後に、祈りは、聞き入れられるという、オチである。

それは、信仰深い者の、話なのであるかと、疑うが、そのように、解釈するという、教会の教えである。
このような、感受性を持つ、民族というのは、矢張り、生きた動物を、生け贄として、神に捧げる民族の、感受性なのである。
ちなみに、日本には、生き血を流すような、生け贄の儀式は、無い。

2008年03月27日

神仏は妄想である。55

あるいはキリスト教に話を転じれば、先にも触れたアメリカの「ラプチャー(携挙)」キリスト教徒を引き合いにだしてもよかった。彼らは、イスラエル人はパレスチナのすべての土地に対して神に与えられた権利をもつという、聖書にもとづいた信仰に支配されていて、アメリカの中東政策に重大な影響力をもっている。一部のラプチャー・キリスト教徒はさらに一歩進んで、核戦争を「アルマゲドン」と解釈するがゆえに、それを実際に待望しさえする。不安をかきたてられるほど一般によく知られた、彼らの奇妙な「黙示録」解釈によれば、アルマゲドンはキリストの再臨を早めるだろうというのだ。次に引用する、サム・ハリスの「キリスト教国への手紙」における身も凍るようなコメントに、私が付け加えるものは何もない。

したがって、もしニューヨークの市街が突然の火の玉に取って代わられたとき、アメリカの人口のかなりのパーセンテージが、そのあとに起こるキノコ雲のなかに、一条の希望の光を見ることになるだろう。なぜならそれは、いつか起こるだろうと思われていた最良のこと、すなわちキリストの再臨が、いままさに起ころうとしていると彼らに示唆しているからである。こういった類の信念が、私たち自身の永続的な―――社会的、経済的、環境的、あるいは地政学的にーーー未来をつくりだす上でほとんど何の助けにならないことは、疑いの余地なく明白だろう。もし米国政府の要人のうちの誰かが、世界はいま終末に近づいており、その終末は輝かしいものになるだろうと本気で信じていると想像してみてほしい。アメリカの人口のほとんど半数近くが、純粋に宗教的な教義にのみもとづいて、どうやらこれを信じているらしいという事実は、道徳的かつ知的な緊急事態とみなされるべきでろあう。

第8章 宗教のどこが悪いのか なぜそんなに敵愾心を燃やすのか?
信仰における「中庸」がいかにして狂信を育むか  より

知り合いの、カトリック信者の女性が、真顔で、キリストの再臨を望むというのを、聞いた時、私は、返答する、言葉がなかった。

それは、ノストラダムスの、1999年に、世が終わるという、妄想の解釈、による、終末思想と、同じ程度の、つまり、その程度のレベル、知的レベルであるということを、感じたからである。

早く、主が、来られることを。
何と言う、馬鹿馬鹿しい、ことか。
それも、聖書に、書かれてあるからである。
そして、その聖書が、どうのように、書かれたものであるかを、知らないのである。
聖書作者たちの、願望による、言葉である。

「私が雲に乗って来るのを、見るであろう」
雲に乗って来るのは、日本の神々であり、主イエスではない。
これは、冗談。

旧約聖書の、神が、雲に乗って来たことはない。
精々、芝の木の中で、光る程度であった。

それは、兎も角、何と言う恐ろしい、考え方であろうか。

聖書に、書かれてあるから、パレスチナ全土は、神に与えられた権利であるという。
こんな、無茶苦茶な、論法が通るとしたら、まさに、終末である。
つまり、解釈の仕様で、如何様にも、なるということである。

この無明は、悪魔的であるというより、魔界であり、破壊を、希求する、つまり、地球滅亡のシナリオである。

しかし、アメリカの様を、心配している日本ではない。

日蓮宗の一派は、国立戒壇をと、平気で言うのである。
つまり、日本の国教としての、宗教をと言うのである。

法華経を、奉じる、巨大新興宗教のみならず、日蓮宗は、日蓮の強情な教え、法華経のみ、正しいという、狂信に支えられて、一神教と、同じように、行為するのである。

一神教は、日本には、無いと、考えている人は、改めた方がいい。
日蓮は、すべての、他宗のみならず、日本の伝統である、古神道、神道までも、断罪し、一人悦にいって、法華経の行者と、任じたのである。

さらに、驚くべきことは、東から、仏の教えが、元に戻る。つまり、仏陀の地へ、行くとまで、妄想を、繰り広げたのである。

千葉の、寒村に生まれた、日蓮の、劣等意識が、ここまで、病んでしまったこと、気の毒に思えるが、鎌倉時代の、一現象として、見れば、納得がゆくが、それを、現代にまで、持ち越すのは、大きな無理がある。というより、誇大妄想に尽きる。

多くの新興宗教が、法華経を使用するのは、その、魔力であるから、認めるが、法華経が、誰によって書かれたのか。何を目的にしたのかである。

大乗経典という、文学である。
仏陀、最後の教えなどという妄想は、書いた本人が言うのか、後の人が言うのか。
何の根拠も無い。

更に、それは、漢訳されたものである。

ここに、大きな問題がある。
漢訳した者は、誰か。
何度も書いたので、省略するが、その、名訳に、迷ったのである。

妙法蓮華経、という、名訳を、作り上げた者は、誰か。

冷静に、判断して、南無「吾輩は猫である」とは、唱えない。
それと、同じことであると、言っても、理解出来ないだろうか。

したがって、自分のもつ宗教上の信念によって私のいう「時代精神」の啓蒙的な見解の一致のすぐ外側に出てしまう人々が存在する。彼らは、私が宗教的絶対主義の負の側面と呼んだものを代表しており、彼らはしばしば過激主義者と呼ばれる。しかし、この節で私が言いたいのは、穏健で中庸的な宗教でさえ、過激主義が自然にはびこるような信仰風土をつくりあげるのに手を貸しているということである。
ドーキンス

正気で、まともな人間を、狂気に駆り立てることが、できる、強い力は、宗教的な、信念以外にない。ということが、解るのである。

私は、再度、問う。
なぜ、人は、妄想の信念に、没頭するのか。
なぜ、知性と感性を、生かし、理性によって、行動しないのか。

人間の尊厳とは、何か。
人間であることの、最も大切な、知性を、何故、捨てるのか。

2008年03月28日

神仏は妄想である。56

わが西側の政治家たちはR(宗教)という単語に言及するのを避け、その代わりに、自分たちの戦争を「テロ」との戦いとして性格づけており、まるでテロが独特の意志や心をもつ一種の霊ないし力であるかのようである。あるいは、テロリストを純粋な「悪」に衝き動かされた人間として性格づける。しかし彼らは悪によって衝き動かされているわけではない。そう考えるようどれほど誤って導かれていようとも、彼らは中絶医を殺すキリスト教徒の殺人犯と同じように、自分たちが正義であり、彼らの宗教が語りかけることを忠実に追求しているのだと感じることによって、衝き動かされているのである。
ドーキンス

彼らは、正義であると、信じるのである。
つまり、それは、宗教が語りかけることを、忠実に追求する。
問題は、何か。
どんな、悪事も、宗教の信条に従うということで、彼らの中では、肯定される。

世界に、正義の数は、宗教の数だけあるということだ。
近代法、云々の問題ではないということだ。
国家の法より、宗教の教え、教義を、主として、行動するのである。

ここで、注意深く、考える必要がある。
人間は、知性と、感性により、理性によって、行動する存在である。
しっかりと、その教育が、なされていれば、バランス良く、正義の、有り様を、考えることが、出来る者である。

しかし、宗教は、その人間に、早いうちから、子供の、柔軟な、脳の中に、ある一つの定義を、植えつけるのである。そして、それを、至上命令の如くに、教える。

人間の尊厳と、自由とは、何か。

ドーキンスは、続ける。

彼らは精神異常者ではない。彼らは宗教的な理想主義者であり、自分なりに理性的なのである。彼らが自らの行為を正しいと感じるのは、何らかの歪んだ性格のせいではないし、悪魔に取り憑かれたせいでもなく、彼らが生まれ落ちたときから、全面的かつ疑いを抱くことのない信仰をもつように育てられてきたからなのである。

恐るべき、洗脳である。
しかし、それを、宗教教育と、掲げて、善として、教える。
また、宗教教育の必要性を、善として、認める。
日本の場合も、宗教教育により、人間性を、高めると、考える人がいる。
宗教法人が、経営する、学校は、宣教、布教を、柱に、掲げて、行われる。

キリスト教精神に、基づきとか、仏法に基づきとか、それが、人間性を、あたかも、高める如くに、喧伝される。

長年、大学にて、キリスト教を講義してきたという、牧師、教授の、回想録を、読んで、驚いたことがある。
信仰に生きることの、大切さと、人間性を、聖書に基づいて、教えたこと、そして、学生たちが、聖書の神への認識を深めたことを、誇っている。
そこには、批判の精神、つまり、知性と、感性を養い、理性により、行動する人間を、育てたのではないということ。
キリスト教の神を、拝む人を、養成することに、賭けた人生であることを、言うのである。

悪意ある霊を、神と掲げる聖書の、霊を、拝む人を、養成できたことを、誇るのである。

日本人ならば、自分が、信じているモノを、人に、勧める、あるいは、押し付けるということは、基本的に、僭越行為であると、認識する、能力を、持つ。
それは、極めて、個人的な行為であると、知っている。

私の家の神があるならば、そよ様の家の神もあると、知っている。

郷に入れは、郷に入り、粛々と、他人の信仰に、抵抗せず、無視しない程度に、従う作法がある。

それが、実に、理性的な行為なのである。

―――これらの人々は、自分たちが信じていると言うことを実際に信じているということである。宿題として持ち帰るべきメッセージは、宗教上の過激主義を責めるーーーあたかも、それが、本物のまっとうな宗教が堕落してできたおぞましい変種ででもあるかのようにーーーのではなく、宗教そのものを非難すべきだということなのである。
ドーキンス

ヴォルテールがはるか昔に正しく理解していたように、「不条理なことをあなたに信じさせることができる人間は、あなたに残忍な行為にかかわるようにさせることができる」バートランド・ラッセルもそうだった。「多くの人間は、考えるよりも先に死んでしまうだろう。実際、彼らはそうしている」。

宗教の布教は、実に、暴力的である。精神的な暴力である。

キリスト教は、罪意識を、強調して、人を追いつめたところで、神の救いを説く。
日本の新興宗教の多くは、現世利益を強調する。

病にある人や、心弱い人を、狙って、布教活動をしていた、多くの宗教を、知っている。

兎に角、良くなる、回復する、開運する、道が開ける、運勢が向上する、ありとあらゆる、甘言を用いて、勧誘する。
天理、金光、大本はじめ、仏教系の新興宗教等々、更に、歪な新興宗教、科学的であると、喧伝する、新宗教、教祖の偽の、霊能力を全開しての、宗教とは、言えない、稚拙な教義を持つ新宗教等々。

人の弱みに、付け込むという、実に、卑劣な、方法を、持って、差し出がましく、やって来る。
勿論、それに、騙される人多数。

甚だしいのは、最初から、戦う姿勢で、論破するという、折伏などと称する、狂信の新興宗教もある。

私は、歴史上、仏陀が、最も宗教的人間だと、知っている。
それは、生き方指導、生活指導を、説いて、地に足のついた、人間愛を、行為したからである。
仏という、オリジナルを、想定して、それを、目標に、生き方指導を、繰り返した。実に、平和的に、である。
それは、人間に対する、深い洞察力である。
限りある、人生を、味わい深く生きるべく、心というものの、有り様を、捉えて、生きる姿勢である。

仏陀を、支持出来る、大きな理由は、奇跡を、行わなかったからである。

更に、ここが、孔子との、分岐点であるが、鬼神を知らない孔子であったが、仏陀は、知っても、それを、知る必要を、説くことがなかった。
霊と、霊界についても、触れなかった。

それなのに、その生きる姿勢に、人は、心曳かれて、仏陀の元に集ったという、事実である。

人からの、恨みも、憎しみも、受け取らないという、平和的行為を持って、人の心に、語り掛けた。
それは、宗教行為ではなく、宗教的行為であり、伝統と、なった。
仏教とは、伝統なのである。
いずれ、また、書くので、以下省略する。

宗教上の信念は、それが宗教上の信念であるという理由で尊重されなければならないという原則を受け入れているかぎり、私たちは、オサマ・ビン・ラディンや自爆テロ犯が抱いている信念を尊重しないわけにはいかない。ではどうすればいいのか、といえば、こうして力説する必要もないほど自明なことだが、宗教上の信念というものをフリーパスで尊重するという原則を放棄することである。それそこが、私がもてるかぎりの力をつくして、いわゆる「過激主義的な」信仰に対してだけではなく、信仰そのものに対して人々に警告を発する理由の一つなのである。「中庸な」宗教の教えは、それ自身には過激なところはなくとも、門を開けて過激主義を差し招いているのである。
ドーキンス

加えて、私の霊学の立場は、この世の宗教の信念というものは、霊界とは、全く関係ないということである。

以下省略。

神仏は妄想である。57

キリスト教は、あるいはイスラム教でも事情はまったく同じことであるが、疑問を抱かない無条件の信仰こそ美徳であると、子供たちに教える。こと信仰の問題に関しては、自分が信じていることを論証する必要はない。もし誰かが、それは自分の信仰の一部であると宣言すれば、その社会の残りの人間は、同じような信仰をもっていようが、別の信仰をもっていようが、あるいは無宗教だろうが、根深い慣習によって、疑問を発することなくそれを「尊重」するよう強いられる。ただしそれは、世界貿易センタービルの破壊、あるいはロンドンやマドリードの爆破事件などにおける大虐殺という形でその信仰が表明される日がこないかぎりのことである。そういう事態が起きたいま、この過激主義が「真の」信仰からの逸脱であると説明するために、聖職者や「共同体の指導者」(ついでながら、誰が彼らを選んだのか?) たちが雁首を揃えて、自分たちにはかかわりないという大合唱がなされている。しかし、もし信仰が客観的な正当化の理由を欠き、何が逸脱かについていかなる明白な基準ももたないのであれば、そもそも信仰の逸脱なるものがなぜ存在するのか?
ドーキンス

この疑問に、明確に答えられる、聖職者、及び、指導者は、いない。

テロリストたちより、よほど、性悪なのは、彼らだからである。

自分たちの、手は、一切、汚さなくていいのである。皆、信者が、それを、行う。

サリンを、撒かせた、教祖は、たらふく食い、居眠りをして、最悪の、事態を引き起こした。その、教祖と、何ら、変わらない。
恐るべき、悪人である。極悪人とも、言う。

3月6日、エルサレムのユダヤ教神学校に、パレスチナ人が、侵入し、銃を乱射して、8名が死亡、約10名が、負傷した。
政治の問題ではない。
宗教の問題である。

二月下旬に、イスラエル軍が、ガザ地区に、攻撃して、120名が、死んだ。それの、報復である。

更に、同じ日に、バグダッドでも、連続テロにより、55名が死亡。
問題は、宗教である。

さて、日本は、それらを、遠い話と、聞いている。
しかし、もし、本格的テロ攻撃が、開始された場合、特に、世界的メッセージをテロリストが、発する場合、日本攻撃が、最も有効であることを、知っている。
何故か。
日本には、同胞が、少ないからである。
大規模テロは、同胞をも、巻き込むのである。
それを、最小限に食い止める大規模テロは、経済大国、日本である。

大規模テロとは、核兵器を使用する、テロである。

万が一、それが、実行されると、即座に、中国、北朝鮮、ロシアが、日本攻撃を開始する。

日本人は、大陸の人種の、野蛮さを、知らない。

話を戻す。

本当の意味で有害なのは、子供に信仰そのものが美徳であると教えることである。信仰は、それがいかなる正当化の根拠も必要とせず、いかなる議論も許さないという、まさにその理由によって悪なのである。
ドーキンス

宗教の蒙昧は、救いようが無いのである。
例えば、鎌倉仏教の、日蓮である。
他宗を、すべて、排斥して、これのみ、正しい、これのみ、唯一の、仏法として、法華経を、掲げた。
それは、真っ当な、批判ではない。
単に、あちらではなく、こちらである、という、挿げ替えを行っただけである。

そっちを、拝めば、不幸になる。こっちを、拝めば、幸せになる。という、程度の、認識である。
それが、今では、大聖人と言われる。

法然、親鸞が、島流しにされたのは、単に、既成集団の、嫉妬であるが、日蓮の場合は、混乱を、招くとの、良識ある、僧侶たちの、排斥である。
それを、御受難として、捉える。

勝手な解釈、勝手な妄想は、宗教家の、独断場である。
何ほどの、艱難辛苦も、法華経がためり。
今、日蓮が、法華経を、云々しなければ、日本は滅びる、云々。

手が付けられない。

キリシタン弾圧当時の、キリシタンと同じく、盲信、妄信、狂信の様である。

死ぬまでの、暇つぶしに、心の大半を、それに占領されて、人生の真実を、見ずに、死ぬという、あまりにも、愚昧な行為を、犯す。

他宗教を、鼻でせせら笑うという、傲慢極まりない人格を、養成されて、自己陶酔に、浸るという様、憐れである。

それは、一神教すべてに、言えるのである。

子供に、疑問を抱かない絶対的な美徳であると教えることは、彼らにーーー手に入れることがむずかしくないいくつかの他の要素が与えられればーーー、将来のジハードまたは十字軍のための潜在的な凶器となるべく育つ素地を与えることにほかならない。殉教者の天国を約束されることによって、恐怖に対する免疫力を与えられた正真正銘の狂信者こそ、長弓、軍馬、戦車、クライスター爆弾などとならんで、武器の歴史において高い地位を占めるに値するものだ。もし子供たちが、疑問を抱くことのない信仰という高い美徳を教えられる代わりに、自らの信念を通して疑問を発し、考えるように教えられれば、自爆者はきっといなくなるだろう。
ドーキンス

信仰とはきわめて危険なものになる可能性を秘めたものであり、罪もない子供の抵抗力のない心に、意図的にそれを植えつけるのは重大なまちがいである。
ドーキンス

私は、ドーキンスが、いいたかったことの、すべてを、上記の言葉にみる。
21世紀を、生きる子供たちに、幸せでいて欲しいと願えば、ドーキンスは、渾身の力を込めて、それを、説こうとするだろう。

目覚めて、祈れ、と、イエスキリストが、聖書の中で言う。
それは、セクトの宗教団体の、言葉であるが、目覚めて、祈れとは、疑問を持ち、自分の信念を、よく見て、行為せよという、意味である。
つまり、人間の知性を、覚醒させ、感性を磨き、理性によって、行為、行動する人間たれ、ということである。

その一つ、たった一つに、宗教の教義等もあり、それは、信仰するものではなく、一つの知識として、活用するものであること。

この世に、絶対という言葉は無いとも、キリストは言う。
その通りである。
この世に、絶対という、モノは、無い。あるわけが無い。

2008年03月31日

神仏は妄想である。87

バートランド・ラッセル「私が信じるもの」より

私は、自分が死んだら腐り、私の自我の何一つとして残らないだろうと信じている。私は若くはないし、人生を愛している。しかし私は、自分がこの世から消えてなくなることを考えて恐怖に震えるなどという人を嘲らずにはいられない。幸福にはかならず終わりがあるといっても、それが本物の幸福であることに変わりないし、永遠につづかないからといって、思考や愛がその価値を失うわけでもけっしてないのである。多くの人間が刑場で誇り高く振舞ってきた。きっと、同じ誇りが私たちに、人類が世界の中で占める地位についてどう考えるべきかを教えてくれるに違いない。昔ながらの人を導く神話のぬくぬくした世界に、科学によって開けられた窓から冷たい風が吹き込んで、たとえ私たちを震えあがらせたとしても、最終的には、新鮮な空気が活力をもたらし、広大な空間はそれ自体のすばらしい輝きをもつようになる。

マーク・トウェインの言葉

死んでいるのは生まれていないのと何のちがいもないだろう。

上記、ドーキンスが、引用する。

死ぬことは、消滅すること。
何も無くなること。
死後の世界は無い。
等々、人間の死に関して、科学は実に冷静である。

死後の世界が無いということになれば、おおよそ、すべての宗教の意味は、消滅する。

死ねば、消滅する、無くなる、死後の世界は無い。
その通りである。

この次元では、その通りである。
次元を別にするのであるから、この次元にいたことは、消滅する。死後の世界というものも無い。
次元の違う世界は、死後の世界ではない。

次元を、別にした世界である。
その次元は、断絶している。
ただし、三次元に、二次元、一次元が、含まれているように、四次元には、三次元が含まれている。

霊学の、私の立場から言う。
次元の差は、隣にいても、永遠に遠い。

おおよそ、宗教、それに準じるものは、死後の世界や、霊について、云々する。

迷う先祖の霊が、子孫に助けを求めて、云々。
それにより、病も起こる。
先祖を供養することで、病が、癒えて、運も好転する。
実際、そういう体験をする者、宗教に多い。

奇跡もどきの、ことが、起こる。

眼が暗くて見え難いというようなのは、近親者の霊魂が霊界へ往ってまだ迷っておって、暗黒の冥府―――光の無いくらい世界―――に居る。そんな霊魂が暗い世界に向かって「救われたい」と念ずると、その「念力」すなわち精神波動が、丁度テレビ局の放送の電波みたいになってやってくるわけです。それで暗い精神波動を常に放送するわけですから、それを受信感応した人は光が見えないで暗く見えることになるわけです。
人生を支配する先祖供養 谷口雅春 成長の家創立者 より

もっともらしく、素直に受け入れると、本当だと、思う。
霊魂が、迷う。それが、救いを求める。そして、念ずる。それが、この世の人に、感応する。そして、病になる。

心理学、脳科学は、それに、答えを出すことが出来る。

それらは、すべて、主観である。客観性がない。
そのような、カラクリ、意味があるという、信念が、病を、癒すのである。

彼らは、病は、無いという。すべては、影だと言う。
人間、本来神の子であり、完全である。実相世界のみ、本当の世界である。この世は、仮りの世界である。

実相世界とは、霊界のことである。
あちらを、主、こちらを、従に、見立てる。
様々な、霊的現象を、元に、そのような、考え方を、作り出したのであろう。

否定はしない。
それも、一つの考え方である。

医学で、解決出来ないことは、霊魂による。
確かに、突然、病が、癒えるということもある。
先祖供養しなくても、癒えることがある。

神霊治療として、名を馳せる宗教団体もある。
すべて、霊障害であると、断定する。

否定はしない。

極めて、解り易く言う。
マイナス波動と、プラス波動である。
マイナス波動を、脳内に持つ人は、そのように、なる。それを、受ける、という。要するに、受信するという、言い方をする。

極めて、ありそうに思える表現、この世は、仮の世界で、霊界が、実相世界であると。

霊主体従と言い、霊が主で、体が、従だと、公言して憚らない、宗教である。

在り得ない。
体は、そのまま、霊である。
どちらが、主とか、従とかは、無い。

霊を、感じる、見る、とは、すべて、主観である。
その人の内で、起こることである。

磁気の乱れというものがある。霊的なものとは、磁気の乱れである。

霊学から言えば、霊的なものの、影響を、考えるが、この次元では、この次元の物事である。霊界を、関与させては、誤る。

次元違いは、隣にいても、永遠に遠いと、言った。

ちなみに、教祖で、最も、教祖たる、仏陀は、霊的なことを、一つも言わないのである。
霊界についても、触れない。
何故か。
必要ないからである。

この世で起こることは、この世で、解決するのである。
生老病死とは、この世の姿である。

暗い霊界で、救いを求めている霊とは、妄想である。
もし、そうであるならば、それは、宇宙の法則、自業自得であり、それを、解決するのは、その、霊のみである。

自ら、赴く所に行くのである。

病が癒えるのは、別問題である。
脳波による。
聖教読経して、癒えるとは、脳波の、心得の、変化である。
だから、否定しないと、言う。

寒い地方にいて、寒さからの、病にある人が、南の島で、暮らして、病が癒えるという。
環境を変えた、脳波の、変化である。

酷い肩凝りの人を、霊視して、肩に、きつねの霊がついていると、それを、取り除いて、肩凝りが治ればいいが、心臓病の前兆、それも、大きな心臓病の前兆である場合がある。
医学が、進歩しなかった時代なら、それは、通用するが、矢張り、心電図をとり、対処すべきである。

人間の、想像力とは、無限に広がる。
人道的問題はあるが、ヒトゲノム解読により、一生の病が、見て取れる。

霊学から、言う。
次元の違う、世界のこと、この世の云々に、堕落せしめては、誤るのである。
病の辛さにあるものを、見つめ続ける行為に、人間の尊厳がある。
決して、供養では治らない病を、彼らは、何と言うのか。

2008年04月01日

神仏は妄想である。59

世論調査によれば、米国の全人口の約95パーセントが自分は死後も生き続けるだろうと信じているということだ。そのような信念を心のなかに抱いていると公言する人間がそんなにもたくさんいることに、私は驚きを禁じえない。
ドーキンス

つまり、ドーキンスは、死後の世界は、無いということなのである。
私の、霊学と、矛盾するか。
しない。
この世の延長に、死後の世界は、無い。
次元を、別にする世界である。
これについては、更に、後に、詳しく書く。
何故、ドーキンスが、上記のことを、言うのかは、以下である。

もし彼らが本当に嘘偽りなくそう思っているのなら、彼らはアンプルフォース修道院長のように振舞うべきではないだろうか? ベイジル・ヒューム枢機卿が自分が死ぬといったとき、この修道院長は彼のために大喜びした。「おめでとうございます。これは素晴らしい報せです。私もおともしたいくらいです」この修道院長は本当に嘘偽りなく信じていたように思われる。しかし、この例がまれで予想外なものであればこそ、私たちがそれに注目し、ほとんど面白がりさえする。ということになるのだ。―――実際にこの話は、若い女性が真っ裸で「戦争する代わりに愛し合おう」という旗印を掲げ、その横にいる人間が「これこそ、私が誠実と呼ぶものだ」と叫んでいる漫画を思い起こさせる。なぜすべてのキリスト教徒やイスラム教徒は、友達が死にそうだと聞いたときに、この修道院長と似たようなことを言わないのだろうか? 
ドーキンス

つまり、死後の世界、とりわけ、天国に入ると、信じる者は、死ぬことは、大喜びになること、間違いなしであろうと、言う。

なぜ、信仰をもつ人々は臨終の席で、このように語らないのだろうか? 彼らは自分が信じているふりをしている代物を実は一つも信じていない、ということなのだろうか? ペットとちがって、苦痛を感じないように安楽死させることが許されていない唯一の種がヒトである。ということを考えれば、もっともなことかもしれない。しかし、もしそうでなければ、安楽死や自殺幇助にもっとも声高な反対の声が宗教から出てくるのはなぜなのか?

信心深い人々がこの世での生にみっともなくしがみつくというのはまずありえないことと予想してしかるべきではないのだろうか? しかし、安楽死にはげしく反対する、あるいは自殺幇助を激しく批判する誰かに会ったとき、その人が信仰をもつ人であると判明する確立がかなり高いというのは、衝撃的事実である。表向きの理由は、あらゆる殺人は罪だということかもしれない。しかし、天国へ旅立つ時期を早めているのだともし心底から信じているならば、なぜそれを罪とみなすのだろう?

真っ当な、疑問であり、やや、意地悪な、疑問である。
信仰深い人に、限って、死を恐れるということ、あまりにも、多いのである。

歎異抄でも、親鸞が、本当は、弥陀の元に行けるという、死を、喜ぶはずだが、喜べないのは、何故かと、問う。
その訳は、罪人だからであると、言う。

唯円の文章は、名文であるから、原文を、載せたいが、あまりに、気の毒なので、省略する。

罪人だから、死ぬのを、恐れて、弥陀の元に行くことを、拒むという、どうしようもない、人間の罪深さであると、考えるところに、心の病がある。

思索を、深くすることは、よいことであるが、それに、酔うな。

死にたくないのは、死にたくないので、いいのである。
それを、罪深いから、そう思うのだという、自虐は、病である。

それとも、親鸞は、もっともっと、深く物を考えていたというのだろうか。
頭が悪かっただけである。

更に、ズレていたのである。
おおズレである。
頭が悪くて、ズレていたら、拘る拘る。そして、その思索に、振り回され、更に、出口を見出せず、一人相撲を取って、死ぬ。
ただ、自分を、大愚と、呼んだのであるから、まだ、救いがある。
その通りである。

後の世の人、親鸞を、考えて、思索に、似たような、ことをするが、頭が悪ければ、そのままでいい。
それは、深さではなく、頭の悪さである。

征服王ウィリアムの時代、恐竜の時代、あるいは三葉虫の時代にいたとしても、私は私だっただろう。そこには何も怖れることはない。しかし、死んでいく過程は、運が悪ければ、苦痛に満ちた不愉快なものになる可能性も十分にあるーーー私たちは、虫垂炎を切除してもらうときのように、その種の苦痛を体験することからは、全身麻酔で保護されるのが慣わしになっている。―――
しかしもし医師が、あなたが苦しみながら死にかけているときにまったく同じ慈悲にもとづく処置を施せば、彼は殺人罪で起訴されるリスクを冒すことになる。私は自分が死ぬときには、虫垂炎の場合と同様、全身麻酔のもとで命を取り出してもらいたいと思う。

ドーキンスが、悟った者であること、明々白日である。

私は私だっただろう。
いつも、私は、私である。
いつの時代も、私は、私だった。
これを、悟りと言う。

死んでいるのは生まれていないのと何のちがいもない
マーク・トウェイン

科学者は、悟りと、遠いと、思う人は、考えを、改めるべきである。
科学者こそ、悟り得るのである。

私たちのなかに安楽死や自殺幇助に反対する者がいるとすればそれは、死を移行としてではなく終末として見る人間だろう。
ドーキンス

更に、ドーキンスは、死を恐れるのは、信仰を持った人間に多いという、事実を言う。

喜んで神の元に行けない人の群れ。信仰者の群れである。

勿論、妄想の天国であるから、そんな所は、霊界に無い。
この世から、おさらばするということは、虚無に帰すということである。
霊界は、別次元である。
この次元に無いということは、無くなるということである。
科学者は、冷静に、それを、知る者である。

2008年04月03日

神仏は妄想である。60

煉獄の教義は、神学的精神がどのようにしてはたらくかについて、馬鹿馬鹿しい事実を暴露してくれる。煉獄は、神の国において一種のエリス島(ニューヨークにあり、かつての移民局がここに存在し、移民を希望する入国者はここで選別を受けた)のような役割を果たす。地獄に送られるほどの悪い罪を犯していない死んだ魂が行く、黄泉の国への待合室である。しかし罪人のいない天国に入ることを許されるまでには、もう少しばかり矯正的な審査と浄化が必要である。中世においては、教会はよく金で買える「免債」を発行していた。これは、煉獄にいる日数を何日か免じてもらうために金を払うのであり、教会は文字通り(私は僭越にもほどがあると言いたい)購入された減刑日数を書き込んだ署名入りの証明証「免罪符」を発行した。こうした不正利益のために「不浄」という表現が発明されたのではないかと思われるのが、ローマ・カトリックという組織である。金を稼ぐためのあらゆる詐欺行為のなかでも、免罪符の販売こそ、ちまがいなく歴史上、最高に位置するペテンであり、ナイジェリア・インターネット詐欺の中世版に相当するが、こちらのほうが、はるかに成功をおさめた。
ドーキンス

上記、恐るべし、宗教というものの、正体である。

皆々、宗教とは、上記のような、金集めをするのである。
問答無用に、そうである。

何という、馬鹿馬鹿しいことをと、思っても、信じる者は、騙されるのである。
喜んで、金を払うという、愚かさ。

日本の宗教も、同じく、家計が苦しいから、ご供養に、金を出すことを言うのである。
生活が、苦しいほど、献金をする。そうすれば、福がもたらされる。
このように、説いて、信者から、金を集める宗教は、数限りない。

更に悪いのは、信者から集めた金の、数パーセントを使い、慈善事業をしているように、見せかけるという、あくどさである。
信者も、社会も、それに、騙されるのである。

どうしようもない、罪人、それが、宗教組織である。

宗教と、名のつくもの、すべてが、そうであると、言っても、間違いではない。

凶悪事件を、起こす宗教のみならず、精神的凶悪事件を、皆々、起こしているのである。
どんなに、立派な宗教であると、言えども、そこから、のがれることは、出来ない。
つまり、宗教を作るということは、詐欺組織を作るということと、同じなのである。

カトリック教会は、日本にて、学校、福祉施設、病院等々の、社会的活動をする。
キリスト教精神に則って、活動する。
その金は、どこから、出るのか。
世界中の信者の金から出る。

それが、評価出来るということではない。その程度で、人や社会は、騙されるということである。

ドーキンスは、それらの実に、馬鹿馬鹿しい、証拠を書くが、省略する。

煉獄の教義が私を本当に魅了するのは、神学者がそのためにもちだす証拠である。その証拠は目を見張るほど薄弱なものなので、それが断言している空虚な確信をさらに滑稽なものに感じさせてしまう。「カトリック百科事典」の煉獄の項目には、「証拠」と題する節がある。煉獄の存在を示す基本的な証拠は次のようなものである。もし死者が、現世における罪をもとにして単純に天国または地獄に行くのであれば、彼らのために祈る必要が無いということである。「もし、神の眼差しをまだ注がれていない者たちに施しを与える力を祈りがもっていると信じないのであれば、何の理由で死者のために祈るのか」。だが私たちは実際に、死者のために祈っている。そうでしょう? 証明終わり。冗談抜きに、これが神学を扱う専門家たちのあいだで理屈として通用しているものの一例なのである。

実は、私も、少年の頃、教会で、煉獄にいる、霊のためにと、祈っていた。
そう、教えられた。

日本のお盆に、当たる、死者の月が、10月である。
その月には、ロザリオの祈りを、煉獄の霊のために、毎日のように、祈るのである。
ロザリオの祈りとは、聖母マリアに対する祈りである。
聖母マリアに、取り成してもらう、祈りが、ロザリオの祈りという。

聖母出現の土地では、更に、ロザリオの祈りが大切にされる。

その、出現の聖母が、プロテスタントの信者を、カトリックに改宗させる、メッセージを発するという、面白いことを言う。

勿論、誰も、それを、聖母であるとは、知らない。
悪霊の場合もある、と、言っておく。

カトリック信者の中でも、あれは、良い聖母、あちらは、間違った聖母などいう、話がある。ローマ法王庁が、認定しないと、駄目である。

その際は、特に、奇跡の認定が、決め手になる。
その最大の特徴は、病が、癒えるというものである。

ご多分に漏れず、宗教の宣伝文句は、病が癒えるである。

イエス・キリストも、病を癒すのである。
単純明快である。

そして、最大の奇跡は、死後の復活である。

このような、奇想天外のお話を、信じることによって、キリスト教徒となる。

イエスは、雲に乗って、天に上がられたのである。
そして、いつか、雲に乗って、この世に、来るという、妄想。

雲に乗るのは、日本の神々であるが、違うらしい。
冗談です。

この驚くべき不合理な推論がさらにスケールアップされた上で、もう一つの一般的な神の存在証明である。(慰めからの論証)の展開に反映されている。神は存在するにちがいないと、この議論は進む。なぜなら、もし存在しないならば人生は空しく、無駄で、不毛で、無意味で取るに足りないことばかりの砂漠になってしまうだろう。この論理が最初の障害物で破綻していることを、わざわざ指摘する必要がどうしてあるのだろうか? ひよっとしたら人生は空しいかもしれない。ひよっとしたら私たちの死者への祈りは無駄かもしれない。そうではないと仮定するのは、証明しようとしている結論が真実だと仮定することである。この三段論法と称するものは、見え見えの循環論法である。・・・

自分が息災であるのはほかの誰かのおかげにちがいなく、もし自分が怪我をすれば、ほかの誰かが非難されなければならない。神なるものを求める「欲求」の背後に本当に横たわっているのは、このような幼児性ではないだろうか? ・・・

誠に、私は言う。
幼児性である。

思考法には、三段階がある。
外省、がいせい、思考である。
事が起こるのを、すべて、他のせいにして、考える思考法である。

そして、反省思考である。
通常の成長をすれば、反省思考になるのだが、今は、実に、少ない。
私も、悪かったし、相手にも、誤りがある、注意しょうと考える。

次に、内省、ないせい、思考である。
この事態は、私に、何を教えるのであろうかと、考える思考法である。

宗教は、残念ながら、外省思考である。
すべて、神仏に、帰納する。

実に、幼児性である。

超えられない苦しみを、神は、与えたもうはずがない。
誰も、苦しみなど、与えていない。
自業自得であろう。
しかし、敬虔なクリスチャンになると、特に、そう言うのである。

自分が、種を蒔いたことでも、神のせいにするという、アホ、馬鹿である。

幼児性と、妄想性による、撹乱を、起こす。
その名を、宗教と、呼ぶ。

神仏は妄想である。61

私は「虹の解体」で、DNAの文字の組合せによって潜在的に生れ落ちることができたはずの膨大な数の人間が実際には生まれないということを考えると、私たちが生きているということがどれほど幸運であるかを伝えようと試みた。その一環として、ここに存在するだけで幸運な私たちのために、巨大な時間の定規の上をゆっくりと進むレーザー光線のスポットライトを思い浮かべることで、人生の相対的はかなさを描いた。スポットライトの前あるいは後ろにあるすべてのものは、死せる過去の闇、あるいは未知の闇に包まれている。私たちは、このスポットライトのなかに自分がいると知るだけで途方もない幸運である。
ドーキンス

これは、神は妄想である、の、最後の章の、最終である。

科学者が、総力を上げて、人生の相対的、はかなさを、描いたという。

生きているという、スポットライトの中にいるということが、途方もない幸運であると、いう。

たゆみない、知性と、感性の、磨き、そして、理性によって、人間は、自立した、人間になるのである。

私たちが太陽のもとにいられる時間がどんなに短くとも、もし、その一秒でも無駄にすること、あるいはそれが退屈だとか、不毛だとか、あるいは(子供のように)つまらないとか不平を言うのは、そもそも生命を与えられることさえなかった無数の生まれなかった者たちへの、無神経きわまる侮辱ではないだろうか?

科学者の、謙虚さを、十分に知る、文章である。
さらに続けて

多くの無神論者が私よりももっとうまく言ってきたように、私たちがたった一つの命しかもたないという知識は、命をいっそう貴重なものにするはずだ。無神論者のこの見方は、人生の肯定という態度に通じるものだが、同時に、生命はこの私に何か借りがあるはずだと感じている者たちの、自己欺瞞、希望的観測、あるいは自己憐ぴんの泣き言には染まっていない。

自己欺瞞、希望的観測、そして、自己憐ぴん、とは、宗教のことである。

知識ということの、本当の意味は、上記のことを言う。
妄想の、教義、教理、教学による、知識ではない。
それは、知識とは、呼ばないのである。

知識とは、裏付けられるものである。

もし、神の消滅が隙間を残すのであれば、それぞれの人がちがったやり方でそこを埋めるだろう。私の選ぶやり方には、科学をふんだんに用いた、現実世界についての真実を見つけだすための誠実かつ体系的な営みが欠かせない。

実に、説得力のある言葉である。
まったくもって、宗教には、無い、言葉の数々である。

私は、宇宙を理解しようとする人間の努力を、モデル形成の試みとして見ている。私たちの一人一人は、自分の頭のなかに、自分がいる世界のモデルを築き上げる。世界の最小モデルは、私たちの祖先がそのなかで生きのびるのに必要なモデルである。このシュミレーション・プログラムは自然淘汰によって構築され、修正されたもので、アフリカのサヴァンナにすんでいた私たちの祖先が慣れ親しんでいた世界、すなわち、中くらいの大きさの物体が、互いに中くらいの相対速度で動いている三次元の世界に、もっとも熟達したものである。予想外のおまけとして、私たちの脳は実は、祖先が生き残るために必要とした凡庸な功利主義的モデルよりも、はるかに豊かな世界モデルを収容できるほど強力なものであった。芸術と科学は、このおまけの暴走がもたらす現われである。

芸術と、科学である。
決して、宗教とは、言わない。

私は、宗教は、芸術の変形、あるいは、逸脱、あるいは、狂いと、観るものである。
芸術的情熱と、宗教的狂信は、非常に近い。

さて、ドーキンスは、量子論についても、書く。
それは、多宇宙についてである。

実は、私は、多次元の世界の証明を、量子論に、期待していた。
しかし、事情は、違った。

それは、次に書く。

ここで、言いたいことは、宗教や、神学等々の、虚妄であるとうことだ。
頭で、考えたことは、単に、それだけのことであり、何の、根拠も、証明も、出来ず、客観性も無いということである。

創造性とは、芸術である。
よって、宗教の、ものの考え方は、創造性の、何物でもない。

人間が、作り出した、ものである。

神も、仏もである。
人間が、創造したもの、それが、神であり、仏である。
ゆえに、神仏は妄想である。

知らないことの、隙間を、埋めるための、神仏の創造は、限りなく、不毛である。

その、根拠を、埋めるための、奇跡というものは、科学で、解明される。
知らないだけである。

キリスト教宣教師が、未分化な、土地に行き、細心の、発見により、持つ、科学的道具により、未開の人を、撹乱させた。
それは、未開の人が、知らないことだったからである。

知ってしまえず、当たり前のことである。

宗教の妄想も、知ることで、妄想であることは、明白である。

ゆえに、私は、神仏は妄想であると、言う。

2008年04月06日

神仏は妄想である。62

量子力学が、霊界の存在、あるいは、多宇宙について、画期的な、存在の様を、証明するのではないかと、私は、期待していた。
ところが、トーキンスに言わせると、そうでもないらしいのである。

量子論があまりにも奇妙なのか、物理学者たちは何らかの矛盾した「解釈」に頼ろうとする。
ドーキンス

「多宇宙」解釈によれば、ある宇宙ではネコは死んでおり、別の宇宙では生きているということになる。どちらの解釈も、人間の常識や直感を満足させるものではない。しかし、力技の得意な物理学者たちは気にしない。問題は、その数学がうまく機能し、予測が実験によって達成されることである。私たちのほとんどが、彼らのやっていることをフォローすらできないのは、ふがいないことだ。結局、私たちは、「現実に」起こっていることについて、何らかの連鎖の視覚化というものがともなわなければどうにもならないらしい。
ドーキンス

連鎖の視覚化という。
つまり、はやい話が、目に見えない物である。目に見えない物でなければ、どうにもならないという。
科学的姿勢とは、そういうものである。
何の、違和感も無い。

更に、目に見えない物も、目に見える方法によって、目に見えるようにするのが、科学の姿勢である。それで、多くの、目に見えない細菌等々を、発見し、人類に貢献した。

私の立場である。
私は、霊学を、持つものである。
つまり、目に見えない世界というものを、考える立場である。
それは、多く、心理的状態によって、知る得るものであり、それは、心理学の分野で、おおよそ、解決される。
しかし、どうしても、それでは、解決できない問題もある。

だが、ギリギリのところまで、私は、ドーキンスを支持する。

私たちが進化した限られた世界では、小さな物体のほうが大きな物体よりも動いている可能性が大きく、大きいほうは動く際の背景と見られる。世界が回転するにつれて、近くにあるために大きく見える物体―――山、樹木、建物、そして地面そのものーーーは、太陽や恒星のような天体との比較で、互いにまったく同調して、観察者とも同調して動く。私たちの進化によって生じた脳は、前景にある山や樹木よりも、そうした天体のほうが動いているという幻影をつくりだすのである。
ドーキンス

ここに、重大な問題が、隠されている。
奇跡の、問題である。
互いに同調して、観察者とも、同調して動く、という。

つまり世界がなぜいま見えているように見えるのか、そして多くの事柄は直感的に把握しやすいのに、別の事柄は把握しにくいのはなぜか、といったことがあるのは、私たちの脳それ自体が進化によってつくられた器官だからという点をさらに突っ込んでみたいと思う。私たちの脳は、世界で私たちが生き残るのを手助けするために進化した搭載型コンピューターであり、その世界―――私はミドル世界という名を使うつもりであるーーーでは、私たちの生存にかかわる物体は極端に小さいことも、極端に大きいこともない。そこでは事物はじっとして立っているが、光速に比べればゆっくりとした速度で動いているかである。そしてそこでは、非常にありえなさそうなことは、起こりえないこととして処理しても問題はない。私たちの精神的なブルカの窓が狭いのは、私たちの祖先が生き残るのを助ける上で、それを広げる必要がなかったからなのである。

ブルカというのは、イスラム教徒の女性が、かぶる顔を覆う布のことである。
つまり、私たちの、ブルカの窓とは、視野のことである。

私たちの脳は、その体が自分の動き回る規模での世界の様子を知るのを助けるように進化してきた。私たちは、原子の世界を動きまわるようにはけっして進化してこなかった。
ドーキンス

ミドル世界で進化した私たちは、「一人の将校が、将校たちや他のミドル世界の物体が動く中程度の速度で動いていくとき、壁のような別のミドル世界の固い物体と衝突すれば、彼の前進は、苦痛をともなって阻まれる」といった事柄なら、直感的に、容易に把握できる。しかし、私たちの脳は、ニュートリノが壁を、つまりその壁を「現実に」構成している広大な瞬間の中を、どんなふうに通り抜けるかを想像できるようにはつくられていない。また私たちには、ものが光速に近い速さで動くとき起こる事態にうまく対処する知覚能力も備わっていないのだ。

ドーキンスは、実に、重大な、人間の認識能力について、語るのである。

これ以上の、引用は、避けることにする。

私は、ここで、ドーキンスが、最後に、最後の章で、奇跡の、有り得なさについて言う言葉を、聞く。

ありえなさの一方の極には、私たちが不可能と呼ぶまだ起こっていない出来事がある。軌跡とは極度にありえないような出来事である。マリア像が私たちに向かって手を振るということはありうる。結晶構造をつくっている原子はすべて前後に振動している。原子はあまりにもたくさんあり、その動きには一致して好まれる方向がないため、ミドル世界で私たちが目にする手は、石のようにじっと動かない。しかし、手の揺れ動く原子のすべてが、たまたま同時に同じ方向に動くということはありえる。またしても、何度でも言うが、・・・この場合、手は動くだろうし、私たちに向かって手が振られることを見ることになるだろう。それは起こりうるが、それが起こらない確率は非常に大きく、もしあなたが宇宙の起源からその数を書き始めたとしても、現在でもまだ依然としてゼロを書き終わっていないだろう。そのような確率を計算する能力―――ほとんどありえないことを、あきらめて両手を上げずに計算する力―――は、人間精神の解放のために科学が授けてくれる恩恵の、もう一つの例である。

奇跡には、すべて、裏がある。
そして、奇跡として、認識するものは、撹乱である。

ドーキンスは、進化生物学者として、渾身の力を込めて、神は妄想である、と言う。

私は、霊学として、神仏は妄想である、と言う。

新約聖書に、書かれる、イエスの奇跡は、悪霊祓いと、病気治しである。
更に、教祖と言われる人々は、多く、病気治しの奇跡を、行った。人は、それで、信じるようになる。

私の、知る、奇跡の例を、上げると、ある、拝み屋に行き、腰痛が、全快したということである。
そのカラクリは、簡単である。
その、拝み屋の、狂いの精神波動、つまり、ヒステリーの、力によるものである。
境界例という、精神疾患がある。
多くは、精神疾患による、狂いの、エネルギーが、痛みを取り、病を、癒すかのように、働く。

心理学で、解決される。
それは、多くの世界的、奇跡の場においてもである。
名医は、言葉によって、患者を癒す。
それは、心理学である。

霊的現象により、病や、奇跡を、起こすことを、私は、魔界関与という。
前世の因縁により、あなたの、足が、痛むということで、その因縁を消滅させることによって、痛みを取るという場合も、心理学が、有効である。

想像力は、病を、癒すのである。

何故、仏陀が、人生を、生老病死という、苦しみにあると、言うのか。
仏陀は、合理主義者であり、現実認識の、主である。
人生は、生老病死にあると、見抜いたこと、それが、端的に、それを、現すのである。

更に、因果の法を説いた。
原因が結果を、もたらし、また、結果が、原因になり、それが、死ぬまで、終わることが無い。

更に、オリジナルとして、仏という、人間の完成した、姿を描いた。

しかし、仏陀もまた、生老病死に、死んだのである。

もし、前世の因縁消滅によって、痛みや、病が、治るものであれば、因縁消滅しなくても、治るのである。

実相世界を、説く、宗教は多い。この世は、仮の世界であり、実相世界は、痛みも、病も無いという。更に、人は神の子であり、仏である。この世の姿は、肉体という、借り物を、着ている状態であると。

それは、実に、感性的である。
しかし、知性と、理性に関しては、論外である。

感受性の強い人は、それを、文字通り受け入れて、自らを、癒す。

この現実を、仮のものとして、思い込み、実は、よく解らない、死後の世界を、実相、真実の世界として、信じ込むことでの、詐欺行為により、撹乱させる。

霊学として、言う。
この世の、現実を、実相世界と、感じないで、よく解らない死後の世界を、実相世界、あるいは、神や、仏の世界として、信じ込ませるもの、それは、罪悪である。

仏陀は、すべては、心の、在りかたであると、観た。
心とは、想念の場所、想像の場所である。
思えば、在る世界である。
その、思えば、在る世界に、宗教は、目に見えない世界を、作り上げて、心を撹乱させる。

例えば、死後の世界で、苦しむ霊の、波動を、キャッチして、同じように、その箇所が、病むという。ゆえに、その霊に、悟ってもらい、それにより、病を癒すという。
もっともらしくの、想像力である。
しかし、それは、心理学が、出来ることである。

霊というものを、確実に、説明する、科学的根拠は無い。

だが、科学が、すべてを、知るかとえば、知ることは出来ない。

私の、霊学も、私の妄想である。

その、妄想を、いかに逞しくしても、神仏は妄想である。
霊界には、神仏は、無い。
霊は、在る。

そして、空とか、無という、状態も、宇宙を出ると、在る。

霊界は、宇宙の中にあり、未だ、空や無という、空間は、無い。
ブラックホールという、暗黒物質の世界は、あるが、それは、空でも、無でも無い。在るのだから、だ。
在るものを、空とか、無とは、言わない。

すべて、人の頭で、捏ね繰り回された、言葉の世界である。

神仏は妄想である。63

多くの信仰篤い人々は、宗教がなければ、人がどうして善良でいられるのか、あるいは善良でありたいと望むことができるのか、想像し難いと感じている。

道徳とは何の実際的な関連ももたない他の話題に対する宗教的な態度の背後に道徳的な動機が潜んでいることがあるからだ。進化論を教えるなと主張する人々は、実は進化論そのもの、あるいは科学的な事柄とは何の関連もなく、道徳上の憤慨によって煽り立てられていることが多い。
ドーキンス  第6章 道徳の根源 なぜ私たちは善良なのか ? より


宗教信者は、宗教より、道徳というものが、生まれると、信じている。
しかし、彼らが、他宗教、他宗派に対する時、そこには、道徳的、かけらも無いほどの、行動をするのである。

それを、彼らは、知ることがない。

宗教から、出る、道徳とは、完全無欠に、紛い物である。
要するに、偽物である。

ダーウィン主義の論理によれば、自然淘汰のふるいの目をくぐった生き延び伝えられる、生命の階層秩序のなかで、自分と同じレベルにいるライバァルを犠牲にして生きのびることに成功したものである。厳密にはそれこそが、この文脈で利己的という言葉が意味するものである。問題は、その作用の舞台となるレベルはどこか、ということだ。力点を正しく、後ろのほうの単語(遺伝子)に置いた、利己的な遺伝子という考えの趣旨は、自然淘汰の単位(つまり利己主義の単位)は利己的な個体ではなく、利己的な集団でも、利己的な種でも、あるいは利己的な生態系でもなく、利己的な遺伝子だということにある。情報という形で、多数の世代にわたって生き残るか、残らないかというのは遺伝子なのである。
ドーキンス

それは、利己性の、単位としての意味における、利己的な遺伝子である。

つまり、利己的な遺伝子という、ドーキンスの、道徳に対する考え方に、利己的という、言葉が、先行して、道徳を、考える際に、利己的という言葉が、僭越するということである。それに、対する、誤解を説く。

いわゆる利他行動のうち、それを支えるダーウィン主義的な理論的根拠についてよく解明がなされているもう一つの主要なタイプは、互恵的利他行動「ぼくの背中を掻いておくれ、そしたら、お返しに掻いてあげるから」である。
ドーキンス

一体、宗教が言うところの、道徳から発する、考え方は、何であろうか。
利他行動というものを、宗教では、愛の行為、布施等々を言うが、すべて、布教活動の一環となる。

やたらに、親切に接してくると、思ったら、宗教だったということは、多々ある。

それならば、愛は地球を救うという、気持ちの悪いテレビ番組の方が、まだ、救いはある。
あれは、イベントであり、教えの、強制はない。

実際にそれは、大幅に異なった種のメンバー間でもまったく同じように、おそらくはそれ以上にさえ機能するのであり、その場合は共生と呼ばれることが多い。この原理は、人間のあらゆる交易や物々交換の基礎でもある。
ドーキンス

科学者の、考え方の方が、真っ当である。

道徳の基本は、生きるための、最低限の基礎なのである。

生物界には、そのような相互扶助的な関係がどっさりある。と、ドーキンスは、言う。

自然淘汰は、必要と機会の非対称的な関係において、自分から与えることのできるときには与え、できないときにはくれるようにせがむようにさせるような資質を個体にもたせる遺伝子を選択する。義務を記憶し、恨みを抱き、交換的な関係を監視し、もらうだけでお返しの番がきたときに与えないごまかし屋を罰し、といった傾向も選択され、生き延びる。
ドーキンス

長年に、渡って、人類が築いてきた、利他行為、互恵的利他行為、そして、多種との、共生。
道徳の基礎は、ここにあり、宗教の教えの、云々には、何ら関係ないのである。

更に、ドーキンスは、それらの、誤作動に関して、記述する。

人間は、万物の霊長であるという、勝手な解釈は、何の役にも立たない。
生き延びるために、経てきた、積み重ねた、経験というものが、重要である。

さて、日本では、道徳といえば、孔子である。
論語から、道徳という観念が生まれた。
更に、江戸時代になると、朱子学である。
まあ、中国の書物から、多くを学んだので、儒教、道教、そして、中国仏教である。

教えられる、道徳である。
しかし、人間の心の、発露としての、行為は、古代からある。当たり前である。
その、古代からの行為こそ、ドーキンスが言う、利他行為である。互恵的利他行為、更に、共生というものである。

万葉集を、読めば、すべて、理解できるのである。

親孝行などは、万葉集では、孝行を超えている。
親に対する、恋心である。
親乞う心である。

宗教により、人間が善になるという、考え方は、無い。
宗教が、教えるものは、例えば、仏教だと、来世とか、死後の世界の、地獄、極楽である。
要するに、脅しの、言葉による、道徳的行為を、強要する。
勿論、道徳というものの、何物も無い。
単なる、教義としての、道徳的行為の、推奨である。

それは、実に、計算高いものであり、人間を、取引させる。
一神教になると、それは、実に、甚だしい。

新約聖書で言われる、善きマサリア人の話は、有名であるが、あの土地によって成る、お話である。
イエスの、隣人愛というものも、実に、あの地域性による。
汝の敵と、敵を、最初に想定するという、土地柄である。

別の神を、拝む民を、排斥する地域にあっての、隣人愛を、イエスは、押し広げて、教えた。
というより、それは、イエスの教えというより、セクト教団の教えである。
祖先の時代、私たちは利他行動を近親者と潜在的なお返し屋にのみ向けるような暮らしをしていた。
ドーキンス

イエスの言葉は、それを、押し広げたのである。
つまり、近親者のみではなく、出会う人に、広げたのである。

しかし、それは、画期的なことではあった。

2008年04月09日

神仏は妄想である。64

性的な情熱(情欲)は、人間の野心のや闘争心の相当大きな部分の背後にある原動力であり、その発露の多くは人間のメカニズムの誤作動の結果である。気前の良さや同情への情熱についても、もしそれが、田舎暮らしをしていた祖先の生き方が誤作動を起こした結果であるとすれば、同じことがあてはまってはならない理由は存在しない。祖先の時代に、自然淘汰が私たちの中にこれら二つの情熱を築きあげるには、脳に経験則をインストールするのが最善の方策であった。そうした規則は現在でも私たちに影響を与えており、もともと機能にとって不適切な効果をもたらす状況においてさえ、この仕組みは変わらない。
ドーキンス

科学者は、実に、冷静に分析するものである。
人間が経てきた、道のり、つまり、ドーキンスは、進化であるが、それが、実によく理解できるというものだ。
この地に、生きるために、人は、学び続けてきたということである。

更に、性欲というものを、このように、分析するという、冷静さは、科学者の面目である。

何度も言うが、日本の伝統では、欲望、性欲も含めて、生きるための、欲望を、恵みと、捉えてきた。

これが、宗教に言わせると、罪になるという、驚きである。
人間の欲望を、支配しての、人間把握であるから、実に、偏りがある。
ただし、支配者が、それを、罪を、避けて生きるということはない。
被支配者には、命ずるが、自分たちは、のうのうとして、欲望の限りを尽くすのである。実に、子供騙しをする。

宗教家を、見よ。皆々、そうである。


そのような経験則は、カルヴァンの予定説で言うごとき決定論的なやり方ではなく、文学や習俗、法律や伝統―――そしてもちろん宗教―――のもつ開明的な影響のフィルターを通じて、現在でも私たちに影響を与えている。性的情熱という原始的な脳の規則が、文明のフィルターを通過して「ロミオとジュリエット」に描かれたラヴ・シーンとして具現化するのとまったく同じように、身内かよそものかを区別する原始的な脳の規則は、キャピュレット家とモンタギュー家の長年にわたる争いという形をとって現れる。やがて、利他主義と思いやり(共感)の規則が最後に誤作動して、いさかいの罰を受けた両家の者たちが和解するというラストシーンとなって、私たちを感動させるのだ。
ドーキンス

カルヴァンの、予定説とは、救いにある者は、すでに決定しているというものである。実に、都合の良い教義である。
要するに、その集団に所属すること、すなわち、救われている者、ということになる。

すべての、宗教は、皆々、そのようである。

偽物の、日本仏教も、最澄の、すべての人に、仏性があるというものである。
悉皆仏性である。
すべての物にも、仏性があるという、耳障りの良い言葉である。

その、仏性に、目覚めることが、悟りであるという。
勿論、仏性が、無い者は、妄想によって、そう思い込むのである。

三蔵法師玄奘は、救われない者もいる、という。
つまり、すべての人に、仏性があるとは、言わなかった。
大乗の教えを網羅し、その、経典を訳した、玄奘である。

最澄の天台宗から、すべて、狂ってしまった。
そして、空海の、密教という、とんでもないモノである。
バラモンの、呪術と、マントラを、真言として扱うという、魔物。
マンダラという、誤魔化しをもって、日本の善人善女を、煙に巻いた。
そして、更に悪いのは、鎌倉仏教といわれる、新興宗教である。

妄想の、経典から取り出した、念仏から、経典の、題目に、帰依するという、仰天である。
真っ当な、神経の者なら、決して、触れないものである。

予定説などは、笑うが、念仏、題目は、笑えないのである。
何故か。
日本仏教の大半が、それである。

彼らは、末法という意味が、よく解っていない。
末法とは、仏陀の、教えが、無に帰すということである。
つまり、末法の世に現れたもの、すべては、仏陀の、教えではないということを、知らない。
魔界のものである。

最大の自己矛盾である、末法思想である。

そこには、知性の欠片も無く、感性の鈍さと、理性の、崩壊があるのみ。

末法の、衆生は、気づかないのでしょう、ね。

2008年04月10日

神仏は妄想である。65

サム・ハリスが「キリスト教国への手紙」に載せている次のデーターは、相関を示す決定的な証明にはなっていないが、それにもかかわらず衝撃的である。

米国における党派関係は、宗教性の完璧な指標ではないが、「赤い(共和党の)州」はもっぱら保守的なキリスト教徒が圧倒的な政治的影響力をもっているおかげで赤いのである。もし、キリスト教保守主義と社会的健全性のあいだに強い相関があるならば、その何らかの徴候を赤い州のアメリカに見ることができると予想していいだろう。しかし見つからない。暴力犯罪の発生率がもっとも低い二十五州のうち、六十二パーセントは「青い」民主党の州にあり、三十八パーセントが「赤い」共和党の州にある。もっとも危険な二十五の都市のうち、七六パーセントは赤い州にあり、二十四パーセントは青い州にある。実際に、米国でもっとも危険な五つの都市のうちの三つは敬虔なテキサス州にある。押し込み強盗のもっとも高い発生率をもつ十二州はどれも赤である。窃盗の発生率がもっとも高い二十九州のうち二十四州が赤である。もっとも高い殺人の発生率をもつ二十二州のうちで十七州が赤である。

ドーキンス

「あなたが本気で、自分が善人であろうとつとめる唯一の理由が神の賛同と褒美を得ること、あるいは非難や罰を避けることだとおっしゃるのですか? そんなものは道徳ではなく、単なるご機嫌取りかゴマすりであり、空にある巨大な監視カメラを肩越しにうかがったり、あるいはあなたの頭のなかにあって、あなたのあらゆる動きを、あらゆる卑しい考えさえ監視している小さくて静かな盗聴器を気にしているだけのことじゃあないですか」

もしあなたが、神が不在であれば自分は「泥棒、強姦、殺人」を犯すだろうということに同意するのなら、あなたは自分が不道徳なことを暴露しているのであり、「それはいうことを聞いたから、私たちは、あなたのことを大きくよけて通らせていただく」。反対に、もしあなたが、たとえ神の監視のもとになくとも自分は善人でありつづけると認めるのであれば、私たちが善人であるためには神が必要だというあなたの主張は、致命的に突き崩されてしまったことになる。私は思うのだが、非常に多くの信仰心のある人間が、自らを善人たらしめるように衝き動かしているのが宗教だと本気で考えているのではないか。個人的な罪の意識を組織的に悪用しているような宗教に所属している場合、とりわけそうではないだろうか。
以上、ドーキンス

ただ今、ドフトエフスキーの、新訳が出て、多く読まれているという。
読むことは、いいことだが、あれを理解することは、日本人には、やや不可能ではないのかと、思っている。

キリスト教的、神の存在というものを、知らなければ、理解するのは、難しい。
文学としては、非常に評価出来るが、罪と罰、カラマーゾフの兄弟に、代表されるように、神の存在という、忌まわしいものの中で、七転八倒しているような、人間を描いている。
要するに、妄想の神と、一人相撲をしている人間の、七転八倒を、読んでいるのである。

トルストイも、そうであるが、彼らは、神観念の中から、抜け出せないでいる。
それも、嘘の聖書を、母体にして、何やら考えているのてあるから、ご苦労さんである。

ロシアには、伝統というものがない。
極めて、悲しいことに、ロシア正教があるのみ。

ロシアほど、悲劇的な国はない。
帝国ロシア、そして、共産主義による、革命である。その中で、細々と、ロシア正教が、流れていた。それは、共に、領土拡大、つまり、侵略を、国是としてきた国である。それ以外のものは皆無である。

支配者のための国である。
市民の伝統など、生まれる訳が無い。

個人的な罪の意識を組織的に悪用しているような宗教に所属している場合、とりわけそうではないだろうか。
と、ドーキンスは、言う。
すべての、宗教は、そうである。

神仏の名に置いて、信者を、脅し、透かし、支配する。
勿論、支配者は、悪行の限りを尽くすという、オマケである。

信者には、質素倹約を教え、献金、布施、寄付を、求めて、上層部は、たらふく食べて飲んで、更には、贅沢三昧である。

人に前では、修行者のような面をして、顔付きだけは、一人前、いや、三人前である。

偽善の、傲慢ぶりは、甚だしい。

本堂より、庫裏の方が立派な、寺院は多い。
仏の住まいより、僧侶の住まいの方が、立派だということである。

さて、宗教による、道徳は、実に、不健全である。
神仏の罰が当たると、平然として言う。

キーワードは、神仏の罰である。
無いものが、罰を下す訳が無いが、信じる者は、騙される。

道徳心とは、信仰に支えら