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神仏は妄想である。第六弾 アーカイブ

2009年05月11日

神仏は妄想である。220

人間行動進化学の観点に立つと、人間は「利己的」であること、そして、われわれが行う各種の利他行動も実は「自分の利益」につながっていることが明らかになる。愛情や友情、良心といった、利他行動の元になる感情作用は、それを持つことが「自分の利益」になるがゆえに人間が備えた、そのための装置である。その装置に動かされて各種の利他行動をすることで、われわれは、人間関係、社会関係を通じて「自分の利益」を確保して暮らしている。
内藤淳 進化倫理学入門

宗教によって、道徳が、成り立つというのは、嘘なのである。
人間が、生きるための、進化によって、得た、理知的な、行動なのであるということが、解る。

神や、仏を、持ち出さなくても、十分に、人間は、道徳的に生きることが、出来る。

道徳とは、
一定の行為を「善い」「すべき」こととし、一定の行為を「悪い」「すべきではない」こととして、それに従って行動するようわれわれに教え、命じる行為規範である。その中には、個人的な生き方に関する信念・信条(個人道徳)が含まれる場合もあるが、一般的には、対人関係や社会関係の中で「やっていいこと/いけないこと」を、「善」「悪」を通じて示す社会道徳がその中心と考えられる・・・・
内藤淳
ということなる。

宗教は、個人的、生き方に関する、信念、信条の内に入る。
それを、肥大させると、とんでもない、全体主義に陥る。

特に、一神教の、キリスト教と、イスラム教などは、信仰の対象が、違うということだけで、対立し、争う。果ては、戦争も、辞さない。
今に至るまで、中世の、十字軍の形相がある。

更に、イスラムのムハンマドは、武器により、信仰を強制もしたのである。

更に、イスラム法というもので、支配するという、愚行を今も行う。
信じられない、蒙昧が、まかり通るのである。

それでは、仏教の道徳である、慈悲の行為は、どうであろうか。
何一つ、今は、実行されていない。

仏教は、上座部から、大乗にいたるまで、何一つ、慈悲の行為を、実践していない。
また、仏教系の新興宗教も、である。

それらは、皆、教団に向けて行われる。また、行われるように、仕向けるのである。
布施の行為は、広く、多くの人々に、行われることだが、それらは、皆、教団に向けられて、莫大な布施を、教団が、頂くのである。

小乗が、行われる、東南アジアの国々の人も、広く多くの人に、タンブンという、布施行為をするのではない。皆々、寺院にタンブン、布施をして、来世の幸せを願うのである。

教えは、歪みっぱなしである。

日本の、新興宗教を見れば、更に、それに、拍車がかかり、信者や、会員から集めた布施、浄財を、土地取得、建物を建てることに、使われる。

信者、会員から得た、金で、本尊を作り、お守りや、護符を作り、更に、信者や会員に、買わせて、利益を得るという、その悪度さは、計り知れない。しかし、信じた者は、騙される。
嬉々として、布施をして、金を、教団に納めるのである。

少し、冷静に、教団を見ていると、そんなことは、すぐに解ることであるが、信じてしまうと、めくらになり、見えなくなる。

更に、恐ろしいことは、社会道徳という、基本的な道徳行為も、忘れ、教団が教える、規範に従い、行動する。

例えば、政党を持つ、宗教団体は、憲法に違反しているが、政党を持たない宗教団体も、政治家に、信者の、票を取りまとめるという、選挙権の自由を侵害する。

更に、政治家に、政治献金をする、宗団もある。

政治家も、票のために、宗教団体を利用するという。

甚だしいのは、選挙運動も、信仰の功徳を得るための、行為だと、教える教団である。

時の、権力者が、帰依する宗教を保護するというのは、歴史的事実であるが、これほど、時代が、進化し、政治にも、理想思想が、現われたのであるから、宗教と、政治は、明確に、分かたれなければならない。
更に、日本では、憲法に、政教分離が、謳われているのである。

宗教が、政治的になるということは、宗教の堕落である。
宗教は、人間の、心と、魂の、分野における、他が侵すことの出来ない、極めて、情緒的な世界である。

宗教団体自らが、それを、捨てるとは、何と言うことか。
嘆かわしいにも、程がある。

さて、
道徳とは、社会生活の中で、長い目で見てわれわれがしっかり利益を確保していくための、一種のセオリーを表している。
内藤淳

「嘘」をはじめ、盗み、人殺しなど、道徳的に「悪い」行為は、たとえその場でそれをして得するように見えても、原則として「しない」方に「自分の利益」がある。言い換えれば、そういうことをしないのが、社会生活の中で「自分の利益」を守っていく方法なのであり、それゆえ嘘や盗みは「すべきではない」。そうやって社会の中で生きていく上での「利益獲得の方法」をわれわれに指示してくれる「セオリー集」が道徳である。
内藤淳

宗教の教えは、道徳ではなく、教えの、強制である。
それには、罰というものが、用意されている。
進化倫理学の、道徳は、罰則はない、ただ、自分の利益を失うだけである。
しかし、宗教の場合は、妄想の、罰というものが、生まれる。作られる。

地獄に落ちる。

宇宙には、地獄という空間は、無い。
地獄というのは、人の想念が、作り出すものりである。
勿論、天国、極楽というものも、人の想念が作り出す、幻灯である。
要するに、妄想である。

地獄、極楽、天国というものも、妄想の産物。人の想念により、蜃気楼のように、現われる、幻である。

西方浄土というが、西方に行っても、果てない、宇宙空間が、広がるだけである。

天国といっても、単なる、教会の上空に、信者が、想像した、空間が広がるのみである。

霊界というものも、神社仏閣の上空、一メートル程度の場所に、あるものである。

馬鹿馬鹿しくて、話にならない。

神仏は妄想である。221

道徳というのは、結局のところ利害損得で成り立っている。道徳に従って「すべき」ことを為し、「すべきことでない」ことをしないのは、「自分の利益」になる。もちろん、現実には、必ずしもその通りにならず、泥棒したのに誰にもばれなくて丸儲けしたというケースも出てくるだろうが、原則として、道徳に従って行動することは「自分の利益」になる。と同時に、それは相手にとっても利益であり、このようにして、「私」にとっても「あなた」にとっても、自分が行為者の立場でも相手の立場でも妥当する「利益獲得の方法」として道徳は成立している。道徳とは、「自分の利益」に向けて動くようにできている人間が、血縁や互恵に基づいて集団を作り社会生活をする中で、まさにその目的を成就する、そのための行動の基本原則なのである。
内藤淳

その、道徳、それぞれの、利益を社会が、監視また、罰則を定めて、それぞれの、利益を守る、道徳の、補完を、法が、行うというのが、現代社会、法治国家である。

刑事、民事、共に、それらの法は、道徳を、補完する。

・ ・・われわれは、道徳を身に付け、「べし」「べからず」の意識を内面化する。もっとも、この点、進化倫理学では、人間はもともと先天的に道徳的な意識や感覚を備えているという主張もあり、道徳的に「こうすべき」という規範意識が先天的・生得的なものなのか、それとも個々人が後天的・経験的に身に付けるものなのかは、そこでの大きな論点でもある。
内藤淳

ただし、先天的とされる場合も、後天的な経験や、教育の影響は、絶大である。

ここで、もう一度、釈迦仏陀の、倫理観である、諸悪莫作衆善奉行という言葉を、振り返る。

般若心経、能除一切苦 真実不虚 のうじょいっさいく しんじつふこ、の、部分である。

一切の苦を取り除くことができる。それは、空想でも、幻想でもなく、ダルマ、法による、摂理である。ということになる。

この苦は、顛倒夢想、てんどうむそう、ということから、現われる、苦、である。

それは、社会を形成した時に、人間が望んだ、秩序のことである。

この秩序を維持するために考えられたのが序列です。この序列を制度化したものが階級や身分です。そして人種や性別や長幼や貧富や地位や身分などを縦の関係で分ける序列という思想が定着しました。しかしこうした序列という思想は後に差別の原因になります。
藤見紀雄 般若心経の思想


倫理という言葉を使用するにしても、釈迦仏陀の、倫理と、バラモンの倫理では、全く違う。

「倫理」という言葉が使われているときその「倫理」がどんな思想に基づいているかで内容が異なるのです。近代以降の国々はベンタムの思想による「倫理観」の影響を強く受けています。このように「倫理」の内容も社会的な観念の影響を強く受けて様々であるために釈迦牟尼は「倫理」の根拠を「ダルマァ」に求めたのです。
藤見紀雄

進化倫理学では、宗教というものを、一端、置いて、倫理学という学問から、研究されている。

それぞれの、地域や、国、民族による、倫理というものは、相違する。

進化倫理学には、大いに、共感するが、更なる、追及を求める。
宗教に変わる、学問としての、成果を期待する。

シッダールタの誕生したバラモン教の社会でも人間の尊卑を測る物指しは獲得された権益に置かれていました。釈迦牟尼の提言はその社会の思想に対しての反逆だったのです。
藤見紀雄

価値の変換を測った仏陀は、理性と論理に裏打ちされた、知恵、般若波羅密多、パンニャーパーラミータである。

つまり、
現実を丁寧に観察し、帰納的な思考をした上で倫理的な妥当性を検証し、倫理的な妥当性に添った思想を演繹することによって現実的な提言を繰り返したのです。
藤見紀雄
ということになる。
顛倒夢想こそ、人々の福利を、妨げる元凶である。
つまり、それは、観念の中の、正常な心象を破壊するものだからである。

進化倫理学で言うところの、利益とは、対等の原理であると、私は、判断する。
自他を差別しない。
つまり、利他行為も、そこによって、行われる。

序列の原理をはじめとした、様々な、歪な原理の中では、利他行動も、利益を持つものとは、思われないのである。
対等であるから、こそ、利他行動も、利益を獲得することが、できるのである。

対等の原理というのは自他を差別することなく福利の保証を一元化することによって実現する思想です。この思想はその社会を構成する人々が「自分のことだけを心配する気持ち」をもっている間は実現しません。しかしこのような社会の形を決定する「原理」というのは人為的な原理ですから自然の法則ではありません。このような原理は情報によって広められたある種のヴァーチャルリアリティーに過ぎません。人々がこのようなヴァーチャルリアリティーによって形成された知識に見切りを付ければ序列の原理に縋り付く謂われはなくなります。
藤見紀雄

恐ろしいことは、
人々をヴァーチャルリアリティーに誘い込むシミュレーターはそれを恰も自然の法則に従った至上の世界であるかのようなプロパガンダを用意して情報操作を行います。そして人々に自身で考えるよりは提供された情報を素直に記憶して他人より少しでも多くの知識を身に付けることが自分にとって最も幸福なことだと信じ込ませます。
藤見紀雄
である。

そして、
序列の原理というのは何時その基準が変わるか人間には判りません。ある序列の原理が別の序列の基準の序列の原理に変われば折角昇った序列も元の木阿弥になってしまいます。一つの文化の中でももて囃されている具体的な知識が別の文化においても有効であるか否かは判りません。この不安を解消することができるのは自他の差別をなくし、対等の原理を実現する外にないのです。
藤見紀雄
となる。

これが、般若心経の、空の思想なのである。

釈迦仏陀の、思想に基づいた、倫理観を実現することが、浄土なのである。

つまり、今までの、般若心経講義が、いかに、御伽噺の域を出なかったのかが、解るというもの。

現実逃避のような、説教に、明け暮れた、日本仏教愛好家たちには、そろそろ、退出していただく時期が来た。

私が言う、神仏は妄想である、は、まさに、彼らの、神仏である。
私は、神仏が、人間であることを、知っている。

釈迦仏陀も、人間に、仏を観たのである。
西方浄土など、あるわけが無い。

釈迦仏陀は、死後の世界のことについては、一言も、言っていないのである。

死後の世界は、死んでからで、十分であり、今は、今、目の前の、生きることを、生きるのみである。

2009年05月12日

神仏は妄想である。222

「自由」主義をとる人に対しては「なぜ平等ではなく自由を社会の基礎とするのか」、「平等」主義に対しては「なぜ自由ではなく平等なのか」という反論がすぐに生ずる。これに対して「平等ではなく自由が大事」「自由ではなく平等が大事」であることを客観的に論証するのはなかなか難しく、そこには個人の価値観がどうしても関わってくる。そうなると、「正しい社会のあり方」を示すのは、「人それぞれの価値観」による主観的な問題となってしまい、それを超えた客観的な条件を見出すことができなくなる。
内藤淳

正しい社会とは、何かと、考える議論は、法哲学の領域で、正義論と呼ばれ、古代ギリシャ時代から、様々な、理論、主張がなされてきた。

自由と、平等という、価値を根本に据える、社会制度が、正しいと、言われた時期、今も、そうであるが、果たして、それが、正しいのか。

また、一時期の、共産主義という、理念も、今では、崩壊している。

自由な社会というのも、経済的、社会的不平等とつながりやすく、格差社会に、陥りがちである。
また、共産主義の、平等も、経済活動が停滞して、社会の、活力や、豊かさが、失われる。

そもそも、「個人が自分の能力と努力に応じた成果を享受する」というのは「正しさ」の重要な要素だと考えられるが、「能力に応じて、働き、必要に応じて受け取る」という理念はそれに反してしまう。そうした意味で、「誰もが平等である」ということ自体に、「正しさ」と衝突する側面があることは否定できない。
内藤淳

ここで、釈迦仏陀の、人々の福利という考え方は、より多くの人が、または、すべての人が幸福になる道ということである。

これに近い考え方が、最大多数の最大幸福という、原理を掲げる、功利主義である。

この功利主義は、19,20世紀に、多くの人の支持を受けた。

この、功利主義に対しても、批判がある。
その最大の批判は、多数の人の幸福の裏には、少数の人を、犠牲にするというものである。

それでは、釈迦仏陀の、福利にはならない。

そして、進化倫理学も、そこで躓く。

では、誰にとっても、利益的な社会とは、どんな社会なのであろうか。

そこで、内藤淳氏は、利己的という、原点に戻って、考えるという。

・・・大前提は、「人間は自分の利益に向けて動く」ことにある。この場合の利益が「生存・繁殖とそのための資源獲得」を指すことはそこで言った通りで、個々の人間が求める具体的な資源の中身は、お金だったり土地だったり地位だったりと多様だが、いずれにしろ人間は、そうした資源の獲得に向けて「利己的」に行動するというのがここでの話の原点である。
そんなふうに「利己的」な個々の人間にとって、「あるべき」社会とは、何よりも自分が利益を得られる社会である。いかに崇高な理念が実現されていようと、どれほどの言葉でそのすばらしさが強調されようと、その中にいて「私」が生きるための資源を得られない社会では、「私」にとってちっともすばらしくない。そこにいて自分が無事に資源を確保でき、生存と繁殖が図れる社会であることが、「正しい」なり「よい」なりとポジティブに位置づけられる社会の条件である。
内藤淳

ということになる。

しかし、問題は、それぞれの人の利益が、しばしば、衝突することである。

私は、儲かるが、あなたは、損をするという、簡単なカラクリである。

「私」にとって利益になると同時に、「あなた」や他の人にも利益になるという、利益獲得機会の配分が、テーマになるのである。

そんな、都合の良いシステムがあるのか・・・

内藤氏は、こう述べる。

それは「その社会のメンバー全員に一定の利益(資源)獲得機会が配分されること」である。
と、言う。

みんなが幸福な社会の、みんなは、全員のことである。

どんな人にも、その機会が、得られる、行き渡るような、制度や、ルールが、作られることである。
全員に、配分される社会が、正しい社会であると、する。

ここから、私の言葉で、書くが、この世は、地獄であるから、必ず、自分だけが、富を独占したいという、強欲な者が現われる。
他の人に、配分したくないという人である。

必ず、そういう人は、いる。
生まれながらに、どうしようもない、魔界人である。

だが、そこで、独占していると、それは、増えませんよという、囁きがあると、考えるのが、進化倫理学である。

独占により、上位の人が得られる、利益は、目先の短期的利益であり、資源獲得機会を、みんなに均等に配分することで、結局は、利益になるのだという、壮大な、考え方である。

それを、内藤氏は、解り易く、解説する。

それは、省略して、先を続けることにする。

何故、人が、集団生活をするのか、が、問題である。

個々人が、バラバラで、暮らすことよりも、集団で、暮らした方が、自分の生存、繁殖、資源獲得に、遊離であると、人が気づいたのである。

人間は、普遍的に集団生活をする。
内藤淳

人間の天敵は、脅威を克服した他の人間の集団が、最も、脅威なのであると、内藤氏は、言う。

戦争である。

「自分の利益」に向けて動く人間は、単独でいたり少人数でいたりしては他の人間集団に襲われ、食料や土地を奪われたり、女性を掠奪されたりするので、それに対抗して自分たちの資源を確保するために集団生活をする。これを個々のメンバーかの立場から言うなら、自分が生存して各種の資源を確保するためには、まず「他集団の脅威」から身を守らなくてはならないので、その利益のために、単独ではなく集団で暮らす。
内藤淳

そうすると、集団に中に、支配者や、権力者が、現われる。
さて、すると、次の、段階は、どのようなことになるのか。

2009年05月26日

神仏は妄想である。223

支配層・上位層も、立場と実力にまかせて集団内で思うがままに資源(獲得機会)を占有するのではなく、はじめから一定の「配分」を下位層に行い、彼らの資源確保を保証して集団の安定と存立を図った方が利益的である。つまり、集団内で優位な立場にいる支配層。上位層にとって、可能な限り自分たちで資源を占有する、そういう体制を作ることが一見「得」なようだが、実はそうではない。それは目先の「短期的な利益」にはなるが、「長期的な利益」を考えるなら、優位な立場にあっても資源占有を控え、下位の者に相応の「配分」をして集団の安定、規模の維持を図った方が「自分の利益」にかなう。そしてそれは、農民その他の下位層にとっても、専制や重税に苦しめられ反乱や抵抗運動で命を危険にさらすより明らかに利益になるので、集団の中で「資源獲得機会の配分」がなされる、「配分」的な体制が設定されることは、上位層/下位層を問わず、誰にとっても利益になる。
内藤淳

誰の立場からも、利益になるということで、正しい社会のあり方ということになる。

そして、その配分における、人為による、配分と、身分による、配分という、テーマに移ってゆく。

それは、このエッセイの主旨ではないので、省略して、配分原理としての、人権を見る。

近代以降の国家では、憲法の基本原理として、基本的人権の尊重が、謳われる。
憲法学では、人権とは、国家が成立する以前の、自然状態において、人間がもともと持っていた自然権ということになる。

これが、進化倫理学では、配分原理として、優れた意味を持つことになる。

人権には、自由権と、社会権の二つがある。
自由権には、思想・良心の自由、信教の自由、表現の自由、という、精神的自由権と、職業選択の自由、営業の自由、財産権という、経済的自由権がある。
これらは、国家集団の、国民誰もが、資源獲得のための、活動が出来るというものである。

権利保障という、形での、配分の具体化になっている。

社会権は、その中で、運や能力に恵まれない人、病気や、障害によって、働けない人などの、現実に必要な、資源を得られない人に、資源獲得機会が、行き渡るように、配慮した制度を、作る、保証するものである。

人権保障は、国家という、集団において、すべての人に、資源獲得機会を行き渡らせる、優れた、配分体制であると、いえる。

そして、それが、釈迦仏陀の、目指した、すべての人の福利なのであり、空の思想の、理念である、平等の、福利の姿である。

つまり、人間は、進化の過程で、それらを、選び取ってきたといえる。
それは、宗教ではなく、人々の、願いとして、政治に生かされてきたものである。

目先の利益にとらわれると、たとえば国家の指導者や支配層にとっては、国民の人権を抑圧して現体制に批判的な言論を封殺し、自分たちを批判する人を余計な手続きや審理を経ずに投獄したり、そういう人の財産を好きなように没収できたりした方が一見利益的に思える。しかし、そうやって「現体制に都合の悪い主張や活動は抑圧される」という社会体制を作ってしまえば、それは明白に「現体制の支配層には利益的だがそれ以外の人には不利益な社会体制」であって、「それ以外の人」の不満や抵抗の元になる。

そして、それは、

ある程度は実力や武力でそれを抑えられても、そうした抑圧的な支配体制には根強い抵抗が生じるのも世の常で、なにかのきっかけでそうした不満が爆発し大規模な暴動や反政府運動が広がるといった現実をわれわれはあちこちで目にする。
内藤淳

例えば、私は、ミャンマーを見たが、このままでは、いつまで、現政権が、それを、意地出来るのかは、時間の問題であると、見た。
更に、中国の人権問題も、然り。

人権を保障し、言論規制などを、控えた方が、現体制への批判的言論が、多少あろうと、社会全体が安定し、活性化するのである。
結果、体制も、安定し、支配層にも、利益になる。

人権保障は、国家の支配層にとっても、長期的展望に立つと、国民を含めて、国家の皆々に、利益的な、正しい、配分体制だといえる。

それが、また、釈迦仏陀の、平等の福利のあり方であるということ。

日本の国家体制は、釈迦仏陀の、方法に実に近いと言える。

このように、「正しい社会のあり方」もまた、われわれ個々人の利益に基づいて考えられる。われわれの社会が、人間という「利己的」存在の集まりであることに鑑みて、その社会の「正しいあり方」は、構成員各人の利益を基礎として決まる。メンバーのいずれにとっても利益になる「資源獲得機会の配分」はその重要な基準であり、人権保障の「正しさ」もまた、その中にいる個々人の人間の「利益」に還元して判断できる。個人の善悪と同様、社会的正義もまた、われわれ自身の利害損得によるのである。
内藤淳

倫理、道徳という、考え方に関して、進化倫理学は、とても、これからの時代に、貢献するであろうと、思う。

そして、それは、宗教という、偏狭なモノに、支配されずとも、人間が、人間として、その、人権と、権利を持って生きられるという、社会、国家政治に生かされるのである。

すでに、宗教の時代は、終わった。

結局、人間は、進化によって、より、人間であることを、追及してきた。
更に、神や仏という、化け物に、何ら左右されることもない。

信仰が、単なる、蒙昧であることに、気づく時代が、来たのである。

超越した存在を置かずとも、人間は、その進化の過程で、より、人間としての、特性、つまり、大脳を有する、人間として、未来に向かうのである。

勿論、この日本でも、問題は山積みであるが、これから、また、一つ一つと、進化を経て、進歩発展してゆくのである。

アジア各地を、回っている私は、あの、第二次大戦から、日本が、ここまで、理想の国に成り上がったことに、驚いている。

その、福祉も、福利も、日本は、断然トップを、行く。
アジア各国と、比べてであるが、大変なことである。

善悪、正不正はわれわれの利益にかなっている。「善いことをすると得」「悪いことをすると損」であり、「正しい社会」はわれわれひとりひとりにとって「得」である。・・・・
原則として人間一般社会に妥当する、普遍のセオリーである。そして、まさにそうであるからこそ、われわれにとって道徳や正義は大切であって、われわれは道徳を守り、正しい社会を作らねばならない。
内藤淳

空の思想が、このように、進化倫理学で、説かれるとは、考えもしなかったのである。

それとも、まだ、空とは、言葉で、表現しえないものであり、悟りを目指して、云々と言うのであろうか。

釈迦仏陀は、この世に生きるということを、説いたのであり、あの世に生きることを、説いたのではない。

転生輪廻云々は、個々人の勝手な、思いであり、今、この現実を、生きるという、生きる意味意識を、問うときに、はじめて、現実を逃避するのではなく、現実を最大限に利用し、生きるということになる。

アジア各国の、貧しい人々は、篤い信仰を持つ。
しかし、それを、見詰め続けていると、そこには、現実に、希望出来ない、諦めの、心と、絶望の心が、見える。
信仰が、現実逃避になっている、様を、見るのである。

ヤンゴンの朝早く、人々は、それぞれの、寺院に出向いて、祈りを、捧げる。
現政権の、退廃と、人権無視、国民無視、一部支配層だけの、政治の体制の中で、どうしようもない、絶望感から、逃避する姿に、私は観たのである。

神仏は妄想である。
神仏は、現実を変える力は無い。
人間が、この現実を、変化させ、変容させる力を持っている。

再び、インド思想史と、法華経に戻ることにする。

神仏は妄想である。224

南インドで、竜樹が活躍していた時期、南インドの、ドラヴィダ民族は、独自の文化を、花咲かせた。
西暦後、二世紀ごろ、クラルという詩句集が作られた。
それは、タルミ語で書かれた、二行詩形の、1330の格言の集まりである。

真の施しは報酬を求めない。いったい世界は、雨を与えてくれる雲に対して何を報いるだろうか。

慈愛という富こそ富の中の富である。財産という富は愚民でも所有できる。

上記は、どこの、格言にも見られる言葉であり、考え方である。
つまり、人は、皆、多く、そのように生きることが、皆の、自分の、利益に適っていると、考えたのである。
そのまま、進化倫理学である。

仏教と、共に、ジャイナ教も、盛んだった。
教団のために、寺院を作り、ジナ像、石版などを、信者達は、寄進した。
ジャイナ霊場への、巡礼も、行われた。

ジナは、益々、超人化され、神格化されて、崇拝の対象となる。
これも、多くの宗教に見られる。教祖、開祖が、神格化されるというもの。

更に、仏教と同じく、ジナの、伝記が書かれて、更に、その前世物語も、出来るという、寸法である。
そして、仏教と、同じように、経典、宗教譚を、読誦することが、功徳あることとされた。

物語は、インドの、伝説、物語を、豊富に取り入れて、布教に利用したという。

仏教も、然りである。
純粋な、釈迦仏陀の、教えが、インド、バラモンなどから、取材されて、大量に取り入られた。

それが、次の時代には、更に、顕著になるのである。

それを、まともに信じてしまった、中国、日本仏教の、愛好者達である。

西暦三世紀に入ると、クシャーナ帝国および、アンドラ帝国が、次第に、衰微し、多数の、群小国家が、対立する。
中でも、マガダから起こった、チャンドラグプタ一世が、西暦320年に、即位して、グプタ王朝を、興した。

次の、サムドラグプタは、南北にわたる、全インドを制服し、マウリヤ王朝以来の、統一国家が、形成された。

この時代に、インドの古典文学が、花開き、更に、天文学、数学も、この前後の時期に、発展した。

しかし、五世紀には入ると、半ばに、匈奴が侵入し、グプタ王朝は、衰退し、六世紀には、また、インドは、分裂国家となった。

グプタ王朝時代の、社会構成は、インド古来の、バラモン教学が復興し、社会の固定化を基礎付ける理論として、採用された。

バラモン教の、国教化である。

社会秩序の維持のために、バラモンの法典が、規準とされた。

その間に、ヒンドゥー教諸派は、バラモン教の、学問、神話、習俗を取り入れ、バラモン教と、融合すべく、社会の上層階級に入り、支持を受ける。

更に、ヒンドゥー教の、壮大な寺院も、多数建設された。

ここで、注目すべきことは、バラモンの用語である、サンスクリット語が、全インドにわたり、公用語とされたことである。
つまり、言葉が、決定されれば、その言葉の、持ち主である、バラモンが、精神世界を、主導するということである。

仏教、ジャイナ教は、学問的研究は、盛んだったが、社会的趨勢は、弱まりつつあった。
更に、仏教も、ジャイナ教も、サンスクリット語を用い、後には、バラモン哲学の、術語を用いて、哲学的議論を交わすに至ったということである。
これは、見逃せない、点、である。

言葉の、概念を、バラモンから、取り入れたということは、バラモン流になるということである。

ここにおいて、仏教も、ジャイナ教も、ある種の伝統が、死んだといえる。

更に悪いのは、この時期に、諸派の、仏教も含めて、根本経典、教科書が、作成されたということである。

確かに、諸宗教は、宗派意識が、強くなったが、バラモンの身分制度を、受け入れる、それに、妥協するという、傾向が、顕著になった。

後に起こる、密教などは、完全に、バラモンに、影響を受けている、亜流の仏教である。
仏教とも、実は、言い得ないのである。

バラモンの、亜流とでも言うか。

社会組織に関する、理論体系としては、グプタ王朝時代前後に、諸種の法典が、作成されたが、西暦後300年頃に、出来た、ヤージニャヴァルキア法典が、特に、規制力のあるものとなった。

集権的国家成立とともに、国家神聖視の思想が、グプタ王朝時代と、それ以降、絶頂に達した。

そこでは、国王は、神的権威を持ち、人民は、国王に対して、絶対従順であるべきとされた。
国王の神聖視である。

王は、過去に、宗教的修行をしたゆえに、その功徳によって、王になったという、思想である。

それらは、仏教、ジャイナ教の経典を見れば、解る。
インドの、俗説を取り入れて、経典を作成したのである。

その、国王観を、仏教も、ジャイナ教も、容認したのである。


2009年06月07日

神仏は妄想である。225

正統バラモン系統哲学体系を、六つの教え、六派哲学と呼ぶことがあり、それは、サーンキヤ学派、ヨーガ学派、ヴァイェーシカ学派、ニヤーヤ学派、ミーマーンサー学派、ヴェーダーンタ学派と、それぞれ、連動している。

その他には、ことばの形而上学が文法学者によって、唱えられた。

これらの、諸派は、何らかの意味で、ヴェーダー聖典の権威を認め、またバラモンの階級的優越性を認めるゆえに、正統と、考えられている。

ただ、ヴェーダー聖典の教えと、矛盾したことを、説く者もいる。

これに対し、仏教、ジャイナ教、唯物論は、ヴェーダー聖典の権威を認めず、バラモンの社会的優位性も、認めない。
勿論、バラモンからは、そちらの方が、異端として、みなされた。

この、正統バラモン系統の、成立年代は、同一時期ではないが、グプタ王朝前後には、興隆したと、考えられる。

それぞれの、哲学的考察を、見ると、少なからず、仏教の教えにも、影響を、与えているのである。

更に、より、仏教に取り入れられた、学派もあると、いえる。

仏教を、理解するには、バラモンの哲学を、学ぶことも必要である。
何故なら、それらは、互いに影響し合いながら、その教えの、完成度を、高めたからである。

更に言えば、仏教の教えも、それらによって、大きく影響されて、複雑奇怪になっていったとも、言えるのである。

大乗の教えの中に、それらが、交じり込んでいると、考えても、間違いではない。

大乗の成立過程を、理解する上でも、それらの、教養が必要である。

そこで、簡単に、各派の、教えを、俯瞰することにする。

サーンキヤ学派は、ウパニシャドの哲人ウッダーラカの思想を、批評的に改革して、唯一なる、有の代わりに、二つの実体的原理を想定した。

ひとつは、精神原理としての、純粋精神、プルシャとか、アートマンと、呼ばれる。
もうひとつは、他の物質的原理は、根本原理であるが、現象世界の原理であり、未開展者といわれる。

純粋精神は、実体としての、個我であり、原子大で多数存在し、本質は、知、または、思、であるとする。

それは、活動することなく、根本原質を観照するだけである。非活動者といわれる。
それ自体は、常住不変で、純粋清浄であり、生も死も、輪廻も、解脱も、すべて、純粋精神そのもので、本質的関係は無い。

これに対し、根本原理は、本来、物質的で活動性を、有し、純質、激質、いん質という、三つの構成要素を持つ。

この、三つの、要素が、相互に安定しているときは、静止的状態にあるが、純粋精神の観照によって、激質の活動が起こると、開展が、開始される。

その際に、根本原質から、最初に生ずるものを、根源的思惟機能、または、大なるものと、呼ぶ。

それは、確認の作用を本質とする。
精神的な作用の元となるのである。純物質的なもので、身体の一機官である。

次に、根源的思惟機能が、激質によって、開展を起こして、自我意識を生ずる。

これも、純物質的な、一機官であり、三つの、構成要素よりなるが、自己への執着を特質とする。

これが、われが為す、このものは我に属する、これが、我であると、自己本位の見解を持つのである。
この、自我意識は、元来物質的な、根源的思惟機能を、自我と、誤認して、根源的思惟機能と、純粋精神とを、同一視する。
この、自己中心的な自我意識の、誤認が、輪廻を成立させるというのである。
その、自我意識から、更に、十一の機官と、五元素が、生じる。

この、開展から、人間の、感覚、知覚、思考、意欲などの作用は、物質に属するという。
純粋精神は、それらを、照らして、意識させるだけである。
精神には、道徳的、責任は無い。
微細なる、身体が、道徳的、責任を負う。

純粋精神は、本来、純粋清浄なものだが、物質によって、制されているため、この生存が、苦しみとなる。
それは、純粋精神が、根本原質を観照して、物質と、結合している間は、輪廻が、存在するから。

この、輪廻から、離脱するためには、特別の修行をもって、純粋精神を、汚れから、清め、純粋清浄な本性が、現れるようにしなければならない。

解脱の、直接の原因は、智である。

その、智のために、外的な智、ヴェーダ聖典の知識と、内的智、すなわち、純粋精神の、智とを、区別しているが、解脱をもたらすものは、内的智を、得ることである。

解脱の智を得るために、補助的に、ヨーガの修行を勧めている。

だが、その解脱も、根本質料因に起こり、純粋精神には、何の変化もないという。

解脱しても、生存しているのを、生前解脱。
死後、二元が完全に分離して、離身解脱と呼ぶ。

これにより、純粋精神は、独存となり、本来固有の、純粋精神性を発揮する。

実存するものは、二元のみで、創造神とか、主宰神というものを、想定しない。

以上、簡単に、俯瞰した。

この一つを、取り上げても、仏教思想に、大きな影響を、与えていることが、解る。

仏教が、どこまで、仏教のオリジナルかと、言われれば、解らない。
多く、バラモンの教義に、依るものと、思われる。
特に、大乗は、そうである。

2009年06月08日

神仏は妄想である。226

ヨーガ学派は、ヨーガの修行によって、解脱するということを、唱える。

その、根本経典は、ヨーガ・スートラである。
それは、西暦400から450年頃に、編纂された。

ヨーガの起源は古く、インド文明成立とともに、存在していたと、考える。そして、理論体系化されたのが、そのあたりである。

この学派は、仏教の影響も、ある。
しかし、形而上学説は、サーンキヤ学派と、ほぼ同じである。
ただ、最高神を認める点が違う。

最高神は、一個の霊魂である。
それは、永遠の昔から存在する、個我である。多数の霊魂の中で、ただ一つ威力に満ちる。そして、完全性を備えている。一切のものを、支配するが、世界創造は、行わない。

インダス文明初期から、森林樹木の下で、静座瞑想に耽る行為があった。
それは、境地の安楽を楽しむものだった。それが、次第に、宗教的な意味合いが加わり、意思を、制御する方法として、尊重された。

日常の、相対的な、動揺を超えた彼方の境地に、絶対静の神秘境地が、啓ける。その境地において、絶対者と、合一が実現する。
この、修行を、ヨーガと呼び、修行者を、ヨーガ行者と呼び、その完成者を、牟尼と、呼ぶ。

釈迦牟尼とは、釈迦仏陀のことであるが、彼が、静座して、悟った者という意味である。

更に、各学派は、ヨーガの修行を、実践法として、取り入れている。

ヨーガの語義は、心の作用の止滅である。

外部の束縛を離れ、内部の心の動揺を、静める。
五感を制して、誘惑を退け、進んで、心の集中に陥ることである。

そこでは、不殺生、真実、不盗、不淫、無所有という、五戒を定める、制戒があり、内外の清浄と満足、学修と最高神に専念する、内制、座法によって、身体を安定不動にし、呼吸によって、調息する。感覚機能を対象から離して、心をくつろがせる、制感、心を一箇所に、結合させる、総持、そして、静慮によって、念ずる対象に、観念が一致すること、最後に、三昧によって、対象のみが、輝いて心自体は、空になる。
以上を、ヨーガの、八実践法という。

ただし、三昧にも、有想三昧と、無想三昧がある。
有想は、対象の意識を、伴う三昧であり、対象に縛られ、心の作用の、潜在力を持つ。
無想三昧は、対象の意識を伴わない。対象に縛られることなく、そこには、心の作用も無く、無種子三昧とも言われる。

そして、この無想三昧が、真のヨーガであるとする。

プルシャは、観想者として、その自体のうちに安住し、ただ、精神が物質から、完全に、分離するのである。

さて、もう一つの、学派を紹介する。
それは、仏教にも大きな影響を与えたものである。

ニヤーヤ学派である。

ニヤーヤとは、理論、正理という意味である。
後に、論理学的研究一般の、呼称さなり、その本質は、理論をもって、真理を探究することと、考えられた。

仏教では、論理学のことを、因明と、呼ぶ。
方便心論というものが、著された。

ニヤーヤ・スートラは、西暦250年から、350年頃に、編纂された。

ニヤーヤ学派の、形而上学に関する部分は、ヴァイシェーシカ学派と、類似する。

認識の対象は、アートマン、つまり、霊魂と、身体、感官、感官の対象、思考作用、内官、活動、過失、死後の生存、行いの報い、苦しみ、解脱であると、定める。

ヴァイシェーシカ学派と、同じく、無数に多くの原子が、永遠の昔から存在し、不変不滅である。
それを、作り出した第一原因は、存在しない。
それらが、合して、自然世界を成立させている。

元素としては、地、水、火、風、そして、虚空を含めて、五つとする。

アートマンは、身体、感覚作用とは、異なったものであり、別に存在するものである。
アートマンの存在を、積極的に、論証している。
だが、世界主宰神については、若干の異説がある。

この、学派は、仏陀の、教えに近いものがある。

人生は、苦に悩まされる。
それは、人間が生存しているからである。

その人間の生存は、人間が、活動を起こすことから、起こる。それらの、欠点は、誤れる知である。

故に、人間に起こる苦しみの根源を突き詰めてゆくと、結局、誤れる知が、苦しみの起こる、究極の根源である。

この、根本的な誤った認識を、除去し、万有の真実相を認識して、苦しみから、離脱する。これが、解脱である。
解脱に達した人は、輪廻の輪を脱して、何物にも束縛されない。

かかる境地に到達するために、戒律を、守り、ヨーガの実践をする。

この学派が、もっとも力を入れたのは、認識方法と、論争の仕方である。

正しい知識を得るための、認識方法は、四つある。

直接知覚、推論、類比、信用されるべき人の言葉であり、それは、ヴェーダ聖典なども、含まれる。

論証がなされるにあたり、最初に、疑惑がある。
疑惑を解決しようとする、動機が働く。
動機とは、ある目的を目指して、人が働くところの、目的である。

そのためには、世人でも、専門家でも、万人が承認する、実例に基づいて、考察するものである。

そうして、出される見解は、定説として、示される。
それには、一切の学説の承認する定説と、特殊な学説の承認する定説と、他の事項を含む定説と、仮定的な定説がある。

論争に当たっては、五分作法と称する、論式の型で示される。

主張、理由、実例、適用、結論である。

最後に、叙事詩の完成を言う。
バラモンの社会的優位性が認められると、叙事詩も、おのずと、その線に則って、改変された。

西暦400年頃の、マハーバーラタが、ほぼ現形の如くに、まとめられた。

このような、環境にあって、仏教も、影響を受け、また、それらに、影響も与えた。

つまり、仏教を、理解することは、当時の、また、インド社会の、更に、そこから生まれた、様々な思想体系を理解して、はじめて、仏教、更に、大乗仏教というものを、理解できる。

単に、単独に、仏教を理解すると、誤る。

多くの仏教経典を、漢訳した、三蔵法師玄奘は、その、インドの、思想界の中で、様々な、学派を、論破し、ナーランダ一の存在になり、天竺から、当時の、中国、唐に帰国した。

それでは、もう一度、仏教の、変転に戻る。

神仏は妄想である。227

法華経から、遠回りをして、ここまで書いてきた。
ここで、解ることは、空、の思想というものも、解釈によって、多々意味が違うということである。

空、というものの、観念を作り上げるのは、大変なことである。
そして、何故、空、というものを、必要としたかである。

空、というものは、何も無いという状態ではないということが、朧に解ったと、思うが、それは、また、行為によってでなれば、体得できないのかもしれない。
更に、本当は、そんなものは、無いが、有るかの如くに、対応しているともいえる。

無というものが、有と、対立するもので、無という状態は、心の、置き方の問題であることも、解った。

空とは、違い、無とは、単独に存在するものではない。
また、無とは、存在しないということでもない、ということが、解った。

更に、インドの空、無、というもの、中国思想、その言葉によって、一度、解釈されているものを、日本が、取り入れているということである。

漢語に、拘ると、本来の、無、空、という言葉の、意味が、変容する。

老荘思想の、無の境地というものに、近い感覚が、禅でいうところの、無に、近いということも、解ったのである。

だから、日本の仏教という場合は、中国仏教というものが、前提にあるということ。

であるから、仏典が、その、解釈ものが、バラモンの、サンスクリット語によって、書かれることによって、その言葉の観念は、バラモンよりのものとなり、それが、果たして、釈迦仏陀の、教えにあるものなのかという、疑問が起こる。

実に、釈迦仏陀の言葉とは、遠い仏法なるものが、誕生した。

法華経による、久遠実成の仏陀とか、秘密仏教、密教による、大日如来とかは、全く、妄想の産物であり、更に、神格化するなどとは、初期仏教には、無いことである。

真言密教などは、全く、仏教とは言えないものである。
バラモンの呪術の部分を取り出して、大日如来を創作し、更に、仏典を勝手に、解釈して、仏になるなどというのは、大嘘である。

空海によって、日本に伝えられたが、彼は、野心が強すぎる。
しかし、鎌倉仏教の開祖たちは、空海に、束になってかかっても、適わないだろう。

魔の力の強いことと、いったらない。
大魔であり、鎌倉時代の開祖たちは、小魔である。

それらの、流れを汲む仏教愛好者たちである。
程度が、知れる。

時代の風雪に耐えてきたのは、建物であり、その精神は、今は、堕落の一途である。

誰一人、開祖たちの中で、仏になったというものは、いなかった。
今でも、迷い続けている。

どこを、どう探しても、極楽などはないし、更に、阿弥陀如来というのは、地獄から、天国までの、間があり、ただただ、広い宇宙空間が広がるだけ。

仏典に入れ込んだだけ、迷うのである。

久遠の仏という存在も無いので、相変わらず、南無妙法蓮華経と、唱えて、迷い続ける様は、哀れである。

結局、建物の上空に集い、何やら、そこでも、生前のように、侃々諤々である。

中には、指導者もろとも、とんでもない、空間にいて、茫然自失の者もいる。

理屈、言葉遊びに始終した者ども、死んでからも、それを、続けているという様。

我が心の中にある、仏というものを、信じていたが、一切、仏など無かった者は、一体、どうすれば、いいのか。
すべての人の心に、仏性が宿ると、詭弁の最澄は、今頃後悔しているだろうが、後の祭りである。

人の心の中に、仏性など、あるわけが無い。
それは、キリスト教徒が、人は皆、神の子であるというのと、同じ。
人が、神の子であるなどというのは、真っ赤なうそである。

何より、仏や、神など、無いのである。
無いものが、どうして、宿るのか。

信じきれば、救われるという、大ばか者の言葉に、騙されて、ここまで、やってきたが、もう、お終いである。

三蔵法師玄奘は、頭脳明晰で、志高く、天竺に出掛けて、一度覚えたことは、二度と、忘れなかったが、膨大な経典を、持参して、それを、漢訳した。
それが、日本に伝わり、混乱の極みである。

玄奘の、描き出した、仏典の解釈によって、更に、日本仏教は、歪になり、どんでもない、宗教というものに、成り果てた。

仏典解釈が、漢字の解釈となる、という、驚きである。

それは、玄奘の、解釈を探るということで、釈迦仏陀を、探ることではないと、気づかない、アホどもである。

作られた、教え。
人間が作り上げたもの、それは、完全ではない。
しかし、それが、完全であるかの如くに、説くとは、笑止千万である。

中には、それを、取り上げて、仏教は、作られてゆくものであり、今、私の教えが、もっとも、正しいと、新興宗教並みのことを、行う者多数。

いずれにしても、仏教に迷うという、姿は、哀れである。
いや、宗教に迷うということは、哀れである。

宗教というもの、人間の、ファンタジー性が、いかに、高いものであるかということの、現れである。
それは、人間の、大脳化ゆえである。

2009年06月24日

神仏は妄想である。228

グプタ王朝の、集権的国家体制が、バラモン教思想を主軸として、思想の固定化、体系化を目指していた情勢に応じて、伝統的、保守的仏教諸派も、体系化を目指した。

更に、当時の、公用語である、サンスクリット語を採用したのである。

幾多の書が作成されたが、後世、もっとも、重要視されたのは、ヴァスバンドゥ、つまり世親の、書だった。

更に、大乗仏教も、哲学思想は、あったが、理論体系をもたなかった。
グプタ王朝に入り、体系化するに至ったのである。

サンスクリット語にての、著作であり、学派が確立する。

中でも、特出したのは、唯識説である。
中観哲学は、諸々の事物、つまり、諸法の空であることを、種々の論法によって、論証したが、体系的哲学説を持たなかった。
そこで、現実存在が、何故、かくのごとき、秩序に従い、成立しているのかと、その所以を、一定の体系的原理に基づき、組織的に、説明したのが、唯識派である。

唯識派を、ヨーガ行派ともいう。
ヨーガの行によって、唯識の理を観ずるからである。

唯識派の開祖は、マイトレーヤーである。
後世の、伝説により、弥勒菩薩と、同一視された。

マイトレーヤーの教えを受けて、唯識説を組織的に、論述したのは、アサンガ、つまり、無著である。

先の、ヴァスバンドゥは、アサンガの、弟であり、小乗を研究して、倶舎論を著したが、後に、アサンガの指導により、大乗に帰依し、多数の著書を著した。

唯識説は、人間の現実存在を構成している諸々の法は、実有ではなく、実相は、空である。
しかし、無差別一様な空という、一つの原理に従い、一定の秩序ある現実の差別相が、現れることはない。
諸々の法が、現にあるごとく、成立するためには、それぞれ空に裏付けられた、原因がなければならない。
それを、種子、しゅうじ、と呼ぶ。
種子とは、法を生ずる可能性である。
可能性は、それ自体、有でも、無でもなく、空である。
客体的なものではなく、純粋の精神作用、すなわち、識である。
それは、分別して、知る働きである。

万有は、識によって、顕現したものにほかならないとして、唯識を主張する。

外界の対象は、夢の如きであり、実在しないものである。
識の分別により、仮に映し出されたものである。
この動きを、識体の転変という。

識体が転変して、三種の識を成立させる。
第一に、アーラヤ識であり、根本識と呼ぶ。
一切の諸法の種子による。

第二に、思量の働きを成す、マナ織である。
アーラヤ識を、よりどころとして、それに依存して起こる。
アーラヤ識を対象として、我執を起こす。
我見、我疑、我慢、我愛を伴い、これによって、汚され、染汚意と、称する。

第三に、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六識であり、それぞれ、色、声、香、味、触、法を認識するというもの。

人が、自己の対象を、空と悟り、実在するものを、認めない場合は、心は、唯識性に住する。

その、究極の、境地において、無心であり、無得である。
その境地は、生死と、ニルヴァーナとが、異なったものではない。
そのいずれにも、住しない。
それは、真如の智慧、般若を有するゆえに、生死に、住しないのである。

そして、慈悲を有するがゆえに、衆生を救うことに努め、ニルヴァーナに住することもない。

このような、理屈を延々として、考え続けたのであるから、驚く。

如来蔵思想というものがある。
唯識説と似る。

凡夫の心のうちに、宿る、如来たる可能性を持って、如来蔵という。

その、観念に基づき、衆生の迷いと悟りを、成立させるという、説を唱える思想である。

これが、日本の仏教に、大きな影響を与えたと、思われる。

大乗とは、衆生心である。
心に、如来の本姓が宿るという、思想で、日本仏教の説教が、ここから、出る。

心の本来の面は、あらゆるものの、総体である。
不生不滅という、絶対の世界と、生滅するという、相対世界とが、一体をなしていて、同一でも、異なるものでもない。それを、アーラヤ識という。

いずれにせよ、当時の、バラモンの、思想的体系に、対抗して、出来上がったものである。
互いに影響を与えたことは、歴然である。

それを、進歩発展というのか、屁理屈というのか。

ただ、仏教は、バラモンの階級的差別に関しては、徹底抗戦したようである。

つまり、平等主義である。
これだけは、評価できる。

グプタ王朝以降の、動きについては、いずれまた、進めることにする。

再度、法華経に戻り、書き続けることにする。

唯識についても、また、登場させて、議論したいと、思う。
空の思想から、何故、慈悲の思想が出るのか、それが、疑問である。

随分と、それは、飛躍していると思うが、空が、何故、慈悲を生ずるのか、である。

2009年06月25日

神仏は妄想である。229

さて、法華経、如来寿量品第十六という、経典には、インド人の、驚くべき、数の世界が、書かれている。

結論から言うと、勿論、こけおどしである。

これまでおっしゃった無量無辺の世界というのは、「無限の空間」のことでした。それは、じつは「無限の時間」のことをおっしゃるための前提だったのです。
庭野日敬

この人は、本当に、無限という言葉の、意味を知っているのだろうか。
単なる観念として、使用しているのである。
悟ったつもりになれば、いくらでも、そう思うことが出来る。

信じる者は、騙される。

この世界を粉にして、それを一粒ずつ置いていった世界というのさえ、もはや考えることもできない広大無辺のものだったのに、こんどは、その微塵を置いた星も、一粒置くために通過した五百千万億那由他阿僧祇という星を全部合わせてすりつぶし、微塵とした数というのですから、こうなるともう数というものではなく、絶対というほかはありません。
庭野日敬

絶対、無限ということを、言いたいがために、そういう解き方をしたというのである。
釈迦が、である。
違う。釈迦ではなく、インド人の、妄想である。

ごひゃくせんまん おく あそうぎこう
という、長い年月という、アホ振りである。

無限の過去と、表現する、庭野さんである。

無限の過去から、無限の未来に存在する、仏という、化け物を、説明しているのである。

こんな、化け物に、救われると、言われて、はいそうですかと、答えられるものだろうか。
それは、すべて、人間の想像した、妄想した、世界のことである。

見ることも、聞いたこともない、架空の話を、信じて、お任せして、救われるのは、どこの、話だろうか。

彼ら、宗教団体の、救いというのは、その仲間を増やせということである。
一人から、二人、そして、三人と、増やしていきなさい。
そうすれば、お金になります。
金が集まれば、大きな建物も、建てられます。
教祖一家の生活も安泰です。
楽に暮らしてゆけます。
と、どうして、言えないのか。
それを、救われるという、詭弁にして、信者に言わせる。

人間は、人間を救うことは、出来ないのである。
それを、釈迦仏陀は、はっきりと、言明している。

すべては、自業自得である。

驚くべきことは、多々あるが、庭野さんは、こうも書く。

当時インドでいちばん勢力のあったバラモン教の神々、自国天、増長天、広目天、毘沙門天といったような諸天も、やはり仏の教えをきいて救われる衆生のうちであり、また人間より神通力のすぐたれ存在であっても、その神通力をもって仏法を守る善神として認めておられるのです。
庭野日敬

これは、認識不足も、いいところである。

それが、今では、バラモンから、移行した、ヒンドゥー教によって、釈迦も、一人の神にされているのである。

更に、インド魔界の神々を、取り入れて、善神、仏を、守る神々として、拝み奉るのは、日本だけである。

神も、仏を守るという、考え方は、日本でも起こった。
だが、それは、正式の日本の、カムではない。
あくまでも、インドの神々である。
そして、それらは、日本で、呼ぶところの、神、カムではない。

甚だしいのは、本地垂迹という、考え方まで、現れた。
つまり、仏は、日本の神の姿を取るというものである。

神の本当の姿は、仏なのであるといもの。
空海は、大日如来を、天照大神と、重ねた、非道振りである。

物事を、分析することに、長けたインド人であることは、認めるが、しかし、それは、ひとつの思想であり、それを、信じるというのは、全く、別の問題である。

インド思想史を、見回してみれば、思想というものも、どんどんと、進化発展してゆくのである。

この、仏教、更に、法華経の言葉の世界に、人が迷うと、そこから、抜けられなくなる。
あたかも、知ったと、勘違いする。

何も、事は、変化していないのに、である。

面白いのは、信心というものの、種類まで、考えていることである。
信根、精進根、念根、定根、慧根の、五個があるという。

そうして、分析をして、どんどんと、その迷いの世界に、脅して入れるのである。

結果は、完全、心が、それらに、侵略される。
洗脳以上の力である。

もう、そこからしか、ものが考えられないのである。

一度、信じさせてしまえば、楽なもので、次から次と、新しい言葉を与えて、迷わすのである。
こういう、教えというものを、学び、覚えても、糞の役にも立たないのであるが、何かの役に立っていると、思い込み、更には、救われると、信じる様は、実に、哀れである。

そして、結果は、どうだ。
皆々、死ぬ。
死ねば、口無しである。
口無しであれば、その後のことは、聞くことが出来ない。
つまり、宗教、ぼろ儲けである。

悲惨すぎる。

ちなみに、庭野さんは、仏に成ったと、表明したのか。
悟りを得て、菩提に入ったと、宣言したのであろうか。

一人の開祖も、誰一人として、我、仏になれり、と、宣言した者は、いないのである。
こういうのを、説き逃げという。

釈迦仏陀、死んだ。
開祖も、死んだ。
すべての、理屈を築いた者も、死んだ。
さて、どうして、本当の事が、解るのか。

更に、彼らは、霊界の何処にいるのか。
誰も、知らない。
その、信者も知らない。

見たところ、宗教家の大半は、あくどいだけであり、世のためには、何も、利益が無いのである。
それは、すべての宗教に、言えることである。

2009年07月06日

神仏は妄想である。230

ただ今、庭野日敬さんの、新しい法華経の解釈という、本を読んでいる。

とてつもなく、驚くべきことが、書かれてる。
勿論、それも、法華経から出ていることである。

その前に、もう一度言うが、法華経は、漢訳されたものである。
クマラジューバによって、漢訳された。
その時に、どのように手が入れられたのか、である。

法華経の重大な部分にも、彼の手が入っている。

妄想の経典から、更に、訳した者の、妄想が、入り混じるということである。

たとえば、経典を読誦すれば、仏の教えが深く心に植えつけられ、魂が清められますから、もともと読経ということは自分自身の成道のためにする行であります。ところが、これを祖先の霊前において行えば、自分が受けるべき功徳を祖先に「ふり向ける」ことになります。祖先の霊の成仏をたすけることになります。だから、亡き人の霊前で読経することを回向というのです。
庭野日敬

自分の魂を清めるということについては、主観的なものなので、いいとして、祖先の霊を、成仏させることができると、断言する何物も無い。

すべて、人間の行為は、自業自得に、尽きる。
因果応報である。

子孫の読経により、祖先が、仏に成るということは、決して無い。

それならば、釈迦仏陀の、考え方と、真っ向から、対立する。

あなたが、したことの、報いは、あなたが、受けのである。
それを、誰も、介入できない。
と、釈迦仏陀は、言う。

更に、驚くべきことは、

しかし、回向はけっして亡き人に対してばかりするものではありません。その本義からいえば、生きている人びとに対して行ってもさしつかえないどころか、もっと意義のあることといえましょう。すなわち、われわれ人類全体の幸福を念じながら読経をすれば、自分が受けるべき功徳を人類全体に「ふり向ける」ことになります。
庭野日敬

これが、宗教団体の手である。

あたかも、それが、世界人類の幸福に、関わるかのように、指導する。
そして、妄想の、どつぼに、嵌める。

世界人類が幸福でありますように
と、掲げる、宗教団体がある。

彼らの言う、世界とは、どんな世界なのか。
キリスト教徒の言う世界とは、どこの、世界なのか。イスラム教徒の言う、世界とは、どこの世界なのか。

イスラム教徒、キリスト教の対立の、激しい場所に、行ってみるがいい。
相手を、殺しても、いいのである。

どこに、人類の、幸福があるのか。
それは、宗教の無い、世界である。

一つの、宗教観念により、世界は、いつも、乱れ、戦い、不幸である。
それを、知ってのことか。

あまりの、認識不足である。

更に、話を、もっと、レベルを下げて、人のために、読経して、された相手が、具合が悪くなるということを、知ってのことか。

ありがた迷惑である。

読経は、人間として、もっとも大切な法の功徳を他へ布施するという。
それは、大変な、自己犠牲であるとも、いう。


布施の中でも、もっとも、尊い行為が、読経だというのである。

この人は、読経、つまり、お経の暗誦のために、はじまったという、読経の歴史を知らないらしい。

経典を、読むとは、覚えるために、はじめられた行為である。

それが、いつしか、経典のために、経典を読む。つまり、その経典こそ、正しいものであるという、作者の意向を実行するものとなったのである。
法華経こそ、仏が、説いた、最後の教えであるという、喧伝をするために、功徳があると、人に、喧伝するために、唱えさせたものである。

法華経を、奉ずる、どこの、宗教各派も、当初は、集団催眠のようになり、おかしくなる人が続出した。つまり、霊が憑いたという、やつである。
狐や、蛇の霊から、先祖の霊まで、続々と出た。

それを、読経によって、収めることが、出来たと、信じた。また、その様を見て、信じ込んだ者もいる。

人間の潜在意識を、少し開くと、とんでもないものが、出てくる。
説明できないゆえに、霊だと、信じる。

特に、ヒステリーの女などは、完璧に、嵌る。

法華経を、唱えて、霊もどきを、引き出す集団は、実に多い。

自作自演の演技であるが、霊であると、信じるのである。

祖先の霊を回向すると祖先の霊が成仏する。そうすれば、かならずその功徳は自分の身に返ってくるのです。それだけ業が消滅するからであります。
庭野日敬

上記、恐ろしい、考え方である。

読経をすると、祖先の霊が、仏になるというのである。
ここまで、無知蒙昧であると、手が付けられない。

釈迦仏陀は、一言も、そのようなことを、言っていない。
我が身のことは、すべて、我が身が引き受けるのである。

ちなみに、霊というものは、ただ、思い出すだけで、十分に、満足する。
そして、我が身の、行ったことに対する、我が身の決算は、我が身がすると、知っている。

霊界という世界があるならば、そこは、ただ、想念の世界である。
他の一切は、関わりが、持てない世界である。

法華経を唱えている人が、行くべき、霊界は、法華経を唱えて、迷っているもの達の、霊界である。
決して、釈迦仏陀の、霊界には、行かない。

釈迦仏陀の、霊界に行くには、釈迦仏陀にならなければならい。つまり、妄想ではなく、行為によって、釈迦仏陀になることなのである。

2009年07月07日

神仏は妄想である。231

分別功徳品第十七を、見ている。

これは、われわれが心の底から仏の無量寿を信解 しんげ することができたとき、達しえられる境地を説いてあるのです。仏がいつも霊鷲山におられるのを見ることができるというのは、自分の現在住んでいる所にいつも仏さまがいらっしゃることを確信するようになるという意味です。そして、自分の周囲ではいつも仏の教えが説かれているのだということを、如実に感じ取ることができるのです。
庭野日敬

そのように思いなさい。までは、解る。

また、娑婆世界がそのような美しい国土に見えるということは、信仰がそこまで達すれば、娑婆世界がそのままで浄土となるという意味です。
庭野

これは、全く、全体主義である。
更に、為政者に、都合の良い教えである。

どんなに、支配されても、信仰が深ければ、この世が浄土に見えるという。

ミャンマー・ビルマの独裁政権の中で、人々は、篤い信仰を持つ。持たざるをえない。
しかし、それは、信仰というより、篤い祈りは、逃避である。現実逃避なのである。

如何ともし難い、政治に、無力であることを、諦めて、信仰によって、幻想を抱くしかない。

悪徳政治家が、宗教を推奨するのは、目に見えてる。

生かさず殺さず、民衆は、宗教の、妄想に浸っていれば、足りるのである。

現実の世界に、目覚めてもらっては、困る。

実に、馬鹿馬鹿しい。

更に、庭野は、続ける。

仏の教えによって、心がつねに法悦に満たされておれば、この現実の世界が楽しくて楽しくて仕方のない所に一変するのです。どこを見ても美しく、だれを見ても菩薩に見えるのです。すなわち、その人の表面のみにくさを突き抜けた奥の奥にある平等の仏性を見ることができるのです。
庭野

全く、嘘である。

平等の仏性など、ありはしない。
これは、最澄の、その教えを受けた、中国の仏教思想である。

誰もが、仏性を有するという教えである。
一見、耳さわりがいいが、こんな馬鹿なことはない。

これも、支配者には、もってこいの思想である。

どんなに、現実が、哀れで、惨めでも、信仰により、楽しくて楽しくてならないと、言わせるとは、何という、傲慢な考え方であろうか。

だから、共産主義も、宗教と同じく、信仰させるのである。
主義というものに。
二つは、同じ根から出るものである。

宗教は、アヘンであるが、主義もまた、アヘンである。

それによって、どれだけの人の命が、失われたか。

ホロコースト、ユダヤ人大量虐殺を言うならば、何故、共産主義と、宗教による、大量虐殺を言わないのか。

そこに、目くらましがある。

この人は、法華経を説いているつもりだが、大変重大な、幻想と、妄想を説いているとは、知らない。

更に、経典を訳して
如来の滅後に、もしこの教えを聞いて、疑ったりそしったりすることなく、素直にありがたいという心を起こしたならば、もはやそれで真実の信仰を得たものと知るがよろしい。

ということだ。
呆れて、物も言えない。

疑うな、信ぜよ。
この蒙昧により、どれほど、多くの人が、迷い、その死後も、迷い続けているか、知れない。

それで、この人は、仏になったのだろうか。
今、一体、どこにいるのか。

立正佼成会という、宗教団体を立ち上げて、成功者と呼ばれた。
信じられないのである。

勿論、法華経を信奉する、団体は、多い。
霊友会や、創価学会、その他、諸々。

法華経は、悪魔に至る道である。

我を失い。仏という、妄想に身を委ねるとは、人間として、完全に誤っている。

人間は、人間であり、死後も、人間の霊である。
決して、仏という、化け物には、ならない。

釈迦仏陀は、人間であった。
抑うつ症の、欲望希薄、神経過敏の人間だった。

だから、静かに生きるべく、心を見つめて、生きた。
釈迦仏陀は、外の世界を説いたのではない。
内の世界を見つめたのである。

それを、内道という。
内道、心のあり方である。
何か、超越した化け物を信じろとは、決して、言わなかった。
法、つまり、物事の有り様を、頼りに、わが身を頼め、である。

物事の有り様を、真実とか、真理というのは、勝手である。
信じるべきは、我が心である。
その心には、仏性という、妄想があるのではない。
その心には、人間性というものがあるのである。

頼りは、人間性である。

2009年07月23日

神仏は妄想である。332

宗教は、迷いである。
いかに、古典である、経典を解釈しようが、迷いである。その成立過程を、俯瞰してみるだけで、十分に、創作であることが、解るのである。

更に、様々な考え方の一つであり、その実践も、死ぬまで、暇つぶしである。

私は、宗教的行為の、実践を否定しない。
そのようにしか、生きられない人もいるからである。

しかし、それを、人に強要したり、人に説くということに、誤りがある。

何故、教祖や、開祖は、己一人で、実践し、己一人で、それを捧持して、よしとしないのか。

単なる、顕示欲の強い霊が、現れて、我は、天の将軍なりとか、我は、観音菩薩とかと、言うことを、即座に信ずるというのも、アホらしいが、更に、真っ当に、それに対処して、その言うことを、人に伝える。

これは、実は、姿を変えた、自己顕示欲である。

更には、宗教に似つかわしくない、野望である。
それは、実に、見事な人間のみに、備わった、精神的欲望である。

支配欲という。
神仏を利用して、我を拝ませ、我に、従わせるという、支配欲。

空海は、天皇を我が支配下に置くべき、加持祈祷を持って、病気治しなどをした。
治るも、治らないも、その時代は、知識も、医学の方法もない。

信じさせれば、足りる。
そして、未だに、信じさせれば足りるという方法をもって、信者を獲得する。

宗教は、伝統に成り得ることは、決して無い。

すてべは、伝統が先である。
伝統から、宗教が、後についてくるという場合は、ある。


宗教による、教学、教理、という教えを学んで、少しばかり、賢くなったと思うのは、馬鹿の証拠である。

小難しい言葉を、知って、賢くなったと、思う、学問お宅に、似る。

神や仏は、妄想であるから、いくら、想像力を逞しくして、妄想しても、よい。
限りなく、妄想を膨らませて、蜃気楼を作る。
更に、馬鹿馬鹿しいのは、救いという、曖昧な、言葉と、その定義である。

一体、何から、救われるのか。

人間は、大脳化によって、他の動物以上に進化した。
この、大脳化が、宗教という妄想を、編み出したといえる。
そして、思想、信条もである。
更に、主義というものも、である。

主義というものによらなければ、人間は、生きられなくなった。
実は、嘘である。

人間は、何によらずとも、生きられる。

私という、妄想によってのみでも、生きられるのである。

神によって、我は有るというものも、仏の世界に、我は有るというものも、すべて、妄想である。

人間は、大脳化によって、絶対孤独というものを、得た。
それに耐えられないゆえである。

大脳化によって、絶対孤独に耐えられないがゆえに、妄想を、編み出すものである。

どんなに、気を許す、相手、今流に言えば、愛しても、人は、孤独から、開放されないのである。

その孤独は、絶対なのである。

たった、一人でいるということに、耐えられない。が、ゆえに、宗教は、発展生成してきた。

私は言う。
神仏は妄想であり、人は、絶対孤独である。

死ぬことで、その孤独を開放することも、開放されることもない。
輪廻転生、それも、孤独である。

日本、神話の独り神なり、というのは、正しい。
独り神とは、そのまま、人間のことである。

独りなのである。
それを、教える宗教はない。
つまり、あなたの、神や仏は、私の神や仏と、違うということである。

百人百様の、神や仏が在る。

それに、気づくとき、人は、その孤独に、戦慄する。
それでも、孤独なのかと。

私は言う。
だから、人は、家族、兄弟、友人、知人、更に、誰かと、一緒の、会合に、付属したいと。
残念ながら、それは、嘘である。

どこにも、所属できないのが、人間の、常であり、定めである。

私は、絶対孤独で、私以外の、人の、思いというものを、想像する意外に無い。
それを、私は、救いという。

人の思いを、想像する、少しは、理解する、もう少し、考えるという、それが、宗教でいうところの、最後の、救いである。

要するに、宗教という、妄想はなくて、よい。
伝統があれば、人は、生きられるのである。
そして、伝統の別名は、神話である。
神話は、創作であるという、純然たる証拠がある。

ものの、言われというものを、伝統と言う。
言い伝えである。
民族という、共同幻想は、そこにあり、それで、人は、十分に生きられる。

神話が、崩壊してしまうと、人間は、狂う。

仏陀の修行は、私の神話というものを、築くためのものであった。
仏陀は、見事に、仏という、オリジナルを築いたのである。

要するに、孤独に耐えられたのである。
自己同一性というものを、仏陀は、試みて、成功したのである。

絶対矛盾の自己同一ではない。
こんな、言葉遊びをするのは、禅のアホどもである。

脳が、矛盾したら、人間は、生きられない。
馬鹿馬鹿しいのも、程が有る。

禅の高僧が言う。
朝から、晩まで、いや、24時間、禅なのですと。
アホらし。

それで、糞小便垂れ流して、作ることも、採ることも、捕ることもせず、のうのうとして、信者から、大枚を得て、言葉遊びをする。

クリエイティブなことは、何一つ無い。
死んだ方が、増しだ。

こういうのを、糞でも、食らえというのである。

2009年07月24日

神仏は妄想である。233

法華経は、オウムのように、繰り返し、繰り返し、この経典の、功徳と、読経、そして、伝えることの、貴さを語る。

作者の、強迫神経症である。
繰り返しは、ノイローゼの特徴である。
カウンセラーは、ノイローゼの人の同じ話を、三回まで聞いているが、四回目に、カウンセラーが、それを、繰り返して、話すのである。そして、共感したことを、伝える、感じさせる。

大衆を騙す時には、同じ話、スローガンを、何度も何度も繰り返す。
馬鹿な大衆は、それで、やられる。

見宝塔品第十一にある、六難九易というものを、みる。

六難
仏の滅後の悪世において、法華経を説くことは、困難なことである。

仏の滅後に法華経を自分で書いたり、人に書かせたりすることは、困難なことである。

仏の滅後の悪世のなかで法華経を少しでも読むことは、困難なことである。

仏の滅後に法華経をたもち、一人のためでも説くことは、困難なことである。

仏の滅後に法華経を聴聞し、その意味を質問することは、困難なことである。

仏の滅後によく法華経を受持することは、困難なことである。

以上。
仏の滅後とは、釈迦仏陀、滅後であるから、釈迦仏陀の死後である。
そうして、手続きを、踏んで、更に追い詰める。
日本で、追い詰められた者は、日蓮である。

勿論、自己顕示欲の強い日蓮であり、我が、我がの、日蓮である。

どこかの、巨大日蓮宗系の、新興宗教の、名誉会長も、そのようである。
毎日、世界のどこかの、大学の名誉教授や、名誉何とかを、貰って、悦に入る。
しまいに、ガンジーと同じ聖者であると、名のある人に言わせて、悦に入る。

日本人で、ここまで、世界に恥を晒した者は、今までにない。

更に、仏法を名乗り、仏意仏勅の団体と掲げる様、哀れである。
自己申請が、通るのなら、誰もが申請する。
数が多いというだけで、この馬鹿馬鹿しさである。

そうかと、思うと、永遠の仏陀などと、悪魔の霊の言葉を、書き付けて、霊言などと、掲げる新興宗教の教祖が、政治団体を作るというから、呆れる。
これも、数が、揃えばこその、話である。

これほど、日本人が、言葉遊び巧みな者どもに、振り回された時代は無い。

それでは、既成仏教教団の僧侶が、建て直しを叫んでも無理。
仏教は、崩壊、死滅の運命である。

葬式仏教といわれても、満足に、葬式を行えないのである。
読経された、霊は、皆々、浮遊しているという、有様。
その、読経する、僧侶も、自分が行くべき、霊界を知らない。

もし、マジに、極楽に行くと、思う僧侶がいたならば、私は言う。
永遠に、舌を抜かれる、レベルの霊界が、精々である。

地獄も、極楽も、霊界には無い。

まして、天国など、あろうはずがない。

六難である。
わざわざ、六難と名付けて、法華経を他の経典から、引き離す企み。
悪魔の経典と、言われるだけある。

要するに、法華経とは、それほど、凄いお経なのです、である。

九易を、見ると、そその目的が、よく解る。

法華経以外の無数の緒経を説いても、まだ困難なこととするには足らない。

須弥山の他方の仏土に投げ置いても、まだ困難なこととするには足らない。

足の指で大千世界を動かして他国に投げても、まだ困難なこととするには足らない。

有頂天に立って法華経以外の無量の経を説いても、まだ困難なこととするには足らない。

手に虚空の世界をつかんで遊行しても、まだ困難なこととするには足らない。

大地を足の爪の上にのせて梵天に昇っても、まだ困難なこととするには足らない。

乾いた草を背負って大火に入って焼けなくても、まだ困難なこととするには足らない。

八万四千の法門、十二部経をたもち、人のために演説して聴衆に神通力を与えても、まだ困難なこととするには足らない。

無量の衆生に阿羅漢果を得させ、神通力を具えさせても、まだ困難なこととするには足らない。

以上。

阿羅漢果とは、悟りである。

日蓮は、この魔力に、まんまと、引っかかり、死身弘法の覚悟をして、度重なる、受難にも、めげず、法華色読という、体で、法華経を読むという、妄想に駆られて、活動した。その、きっかけとなる、部分である。

難を受けたくて、しょうがないという、変質的性格である。

いたぶられれば、いたぶられるほど、快感を感じたのである。

後世の人、彼を賞賛するが、彼の病理に気づいてはいない。
鎌倉時代は、自虐を好む、僧侶多数。
時代性である。

そして、誇大妄想。
我、日本の棟梁たらんと、高らかに、声を上げる。

狂いも、ここまで来ると、狂いとは、考えられず、ただ、その、精神的狂いのエネルギーに、人が巻き込まれる。

今でも、霊能力などという者、大半が、狂いの波動、エネルギーで、人を巻き込むのである。
おめでいたと、言えば、おめでいたが、死ぬまでの、暇を潰せないがゆえに、妄想に浸る。

その、妄想の手引きが、僧侶はじめ、働きたくないが、金が欲しいという、輩である。

天国、極楽、地獄に、煉獄などと、妄想を展開し、アホを、騙して、広く金を集めて、ぬくぬくとして、旨い物を食い、セックス三昧、ゴルフ三昧、果ては、レジャーである。

これほど、社会に役に立たないモノはないのだが、政治家は、票になるから、神妙に、彼らを持ち上げる。

信じさせれば、こっちのもの。

ホント、信じられないのである。

六難九易という教学を、覚えて、賢くなったと、信じるアホも、アホである。

神仏は妄想である。234

ただ今、法華経を書いている。
ちなみに、私は、そのために、日蓮宗系の雑誌なども、取り寄せている。

その一つ、身延の日蓮宗の、機関紙を取っている。

既成宗教の、断末魔が、聞えるのである。
何から何まで、売るという。

面白いのは、ご本尊である。
それも、売る。
その、チラシの中に書かれてある言葉を、見て、笑った。

核家庭を狙う新興宗教などの勧誘に我が家が代々信仰していることを示したい

という文句である。
たかだか、600年程度で、たいそうな、宗教だと、思っている、愚かさ。彼らも、新興宗教である。

お経本は、一人一人に一冊携帯しましょう

そして、お香から数珠、写経道具から、何から何まで売る。
会員から、信者から、取れるだけ取るという精神である。

あの、身延山に、日蓮が、入って、死に物狂いの生活をしたことなど、忘れているのであろう。
ぬくぬくとして、生活している。
修行といっても、厳寒の海に、漁をする漁師のようでも、秋の実りのために、辛苦する、農業のようでもなく、ことさら、修行している様を、見せるという、アホ、馬鹿、間抜け振り。

捕ってみよ、育ててみよ、作ってみよ、と、言いたい。

嘘八百を人に語り、御仏の、云々という、馬鹿馬鹿しさ。
御仏に会うこともなく、知らない、御仏を、語るという、愚かさは、幾度か、死んでみなければ、分からないだろう。

その機関紙も、寝ぼけたことばかりを、書いている。
一体、自分たちを、何様だと、思っているのか。

歴史的建物で、足りる。
もう、役目は、済んだ。

ちなみに、私も、法華経を読経する。
代々の日蓮宗の信徒の、相談を受けたりすると、そのような事態になることがある。

毎日、お経を上げているという、奥さんがいて、お経の意味は知らないが、朝、仏壇に読経するという。
霊的に事柄が多くて、云々との、相談などの場合は、同調して、私も、読経する。

亡くなっても、家にいるという、霊的存在であるから、次元を移動しなければ、ならない。そのための、礼儀として、読経する。

浄土宗系のお経は、長く、くどいので、南無阿弥陀仏で、済ます。
私の、実家が、浄土宗であるから、慣れたものである。

曹洞宗は、まだいいが、真言宗になると、バラモンをやっているようで、気が重い。
加持祈祷、いつまでやっているのだろう。
大半、浮遊霊が、集う。

真っ当に、太陽を崇敬して、日拝をして、よろしい。
それで、十分である。
全く、お天道様があって、生きられるのだから、理に適っている。
一秒でも、太陽が消えると、皆、死滅する。

釈迦仏陀のように、夕日を拝しては駄目。
朝から昼間の太陽である。

仏教が、陰なのは、釈迦仏陀が、夕日を拝したからである。
エネルギーが、引っ張られる太陽を拝して、陰に傾く。
その点、かむながらの道、日本の伝統は、朝日と、昼間の太陽を拝するのみ。

清き、直き、明き心という、おめでたい、少し、能天気な、陽であるから、楽しい。

生きること自体、陰であるから、能天気の太陽崇敬の方が、いい。

ただし、陽気暮らしを勧める、天理教のような、邪霊、悪霊の類の、霊の話を、真っ当に信じているのは、実に危険である。

どこから聞いてきたのか、霊も、言うものである。
我は、何々であるぞと、出る霊に、碌なものは無い。

ましてや、金神様など、泡を吹く。
それを信仰しているうちに、金神様が、憑いて、大本教の出口ナオが、お筆先を書くという、哀れ。
人間とは、寂しいものである。

孤独の極みが、そのような、霊媒をさせる。

更に、自己顕示欲が、拍車をかける。

どれほど、文明が進化、発展しても、人間は、迷う。特に、宗教に迷う。更に、宗教は、心を扱うという。

見事な、知識人が陥るのは、キリスト教である。
えっ、死ぬ前に、カトリックの洗礼を受けたの、ということに。

死ぬのが怖かったんだねーーーーである。
安心したいと、悪魔の神に帰依するという、段取りである。

面白いのは、宗教を渡り歩くという人。
改宗を繰り返しているのである。
その度に、買った物を、ごっそりと、捨てる。

話を戻す。
身延の日蓮宗を信仰していた、ある、真面目な、おばさんがいた。
いつも、病気がちであり、夫も寝たきり。
どうしても、腑に落ちない。
毎朝の、お勤めをして、信仰深いのである。
私に、相談に来た。
すべてのもの、身延に返しなさい。
拝むな、を、勧めた。
拝んで、苦を呼び込んでいたのである。

一人で、小さな花屋を切り盛りしていた。
素直な人で、私の言うとおり、すべてを、返した。
そして、挨拶に来た。
すっきりしました、と。

そういう例もある。
拝めば、拝むほど、どつぼに嵌まる。

一度、花屋に出向いた。
今は、何もしていません。ただ、一生懸命働いています。
それで、いい。

心だに 真の道に かないなば 祈らずとても 神や守らん
菅原道真

真っ当に生きていれば、関わる霊位が、守るのである。

2009年08月03日

神仏は妄想である。235

観世音菩薩普門品第二十五

観世音と訳したのは、クマラジューである。
観自在と訳したのは、玄奘三蔵法師である。

観音様といえば、知らない人がいないほど、有名である。

観音はインドのバラモン教やヒンドゥー教の神々を次々に仏教の内に取り込み、仏教の教化に役立てる役割を演じた・・・
奈良康明

観音信仰は、中国から、日本にかけて、大きな流れとして、現世利益、幸福追求の信仰を占める。

駒澤大学教授 吉津氏は、
教学中心の仏教観からだけでは現世に生きる、人生の支えになる実践はでてこない。
と言う。

つまり、お化けの様な、化け物が必要だということである。

有名なお経の、内容は、無尽意菩薩が、観世音菩薩の、名前の由来を尋ねるところからはじまる。

仏は、
多くの衆生が苦しんでいる。彼らが観世音菩薩の存在を知り、一心に観世音の名前を唱えれば、観音は、ただちに、あらゆる手段を尽くして、苦悩から、解脱させてくれる。だから、その菩薩の称名を得たのだ、と、答える。

更に、観音の力は、火災、水害、海難事故、殺害、悪鬼、捕縛、盗難、淫怒痴の苦しみ、子産みの願望に際して、観音を供養し、名前を称えれば、必ず願いが成就し、災害から、免れるというのである。

釈迦仏陀が、もっとも、嫌った行為である。

自分を誰かに預けるという、行為を、釈迦仏陀は、嫌った。
しかし、法華経になると、堂々と、観音に頼れという。

観音は、三十三の化身をもって、教化するというのである。
仏になったり、魔物の、帝釈天、バラモン、夜叉、比丘、比丘尼、女性などなどである。

兎に角、ありがたいのである。
鎌倉時代ならば、理解するが、現代では、お話である。

ドラエモンや、アンパンマンと、変わらない。

勿論、信じる者は、救われるのだろうが、あまりにも、お粗末である。

ちなみに、私も、観音経は、唱える。
ゴロがいい。

相手が、仏教徒の場合は、とても、喜ぶ。
その程度である。

マジに、観音様などを、信じたら、本当の釈迦仏陀の、仏教、つまり、仏の教えではなくなる。

ここで、先の、吉津教授の教えを、みる。
法華経の教えのポイントは一乗と方便にある。教学的には一乗真実三乗方便を天台や華厳が主張し、三乗真実一乗方便を唯識仏教が説くともいう。私は法華経の原意は一乗と方便が対立するものではないと考える。二乗や三乗の教え、あるいは人天乗の卑近な教えであってもすべて一乗真実への方便として位置付けられる。

上記の意味は、分からなくても、いい。
生きるために、必要のない知識である。

彼らは、食うために、それらを調べて覚え、学生に教える。
ただ、それだけである。
それ以外の意味は無い。

相手のことを顧みず、自己の不満から生きる意欲まで無くして自殺や犯罪に走る事例の多い現代の状況の中で、相手の身になって考える、発言する、そして行動することが求められている。そこでは、この応現も学ぶべきである。
吉津

つまり、観音のように、身を変じて、相手の身になって、考えることなどと、説教する。

観音を持ち出さずとも、そんな説教は、いくらでも、言える。

ここに、宗教学者や、宗教家、更に、宗教の信者、太鼓もちの詭弁がある。

その本人が、自己の不満から、観音経を持ち出して、腹いせのような、説教をしているのである。

簡単に、自己の不満から、自殺をして、犯罪に走るという、その、根性が分からない。自分を、何様だと、思っているのか。

自殺や、犯罪は、そんな簡単なものではない。

どんなに、小難しい言葉を、覚えても、この通り、どうしようもないことを、言って、終わる。

理想的詭弁である。

観音経も、そうである。理想的詭弁で、人を惑わす。

他を理解することが、他を説得する前提である。観音様の応現の姿勢に通ずる。人間関係の根底にこれを活かせば、私たちお互いが潤滑油になり、少しは住みやすい世の中になるのではなかろうか。
吉津

どうであろう。この程度の、認識である。

この人にとっては、世の中が、住みやすいかどうかなど、関係ないのである。
痛くも、痒くもない。
大学教授で、食べて行ければいいのである。
そして、宗教家というモノも、然り。

観音様が、憑いたという、自称霊能者などがいるが、無いモノが、憑くわけが無い。
笑う。

2009年08月04日

神仏は妄想である。236

観音経から、観音様という、実に、身勝手な存在を作り出す、人間の想像力は、凄いと、思う。

真実、観音様に、助けられたと、信じる人もいる。
勿論、助けてもらえなかった人の方が、圧倒的に多い。

妄想を心の、より所とする、時代は、終わったし、妄想の産物で、安心する、時代精神も、終わった。

子供時代に、サンタクロースを信じて、楽しんだ時代から、大人になり、それが、親の心遣いだったと知る。そして、大きな夢を、与えてくれた、親に感謝する。
そして、今度は、自分も、子を持つと、親と同じように、子に、サンタクロースを演じる。

サンタクロースっているの、と、親が問われると、いるよ、と、答える。
いずれは、そんなモノは、いないと、知る時がくる。

遅かれ、早かれである。そうして、子供は、成長する。
想像力を、高めることは、創造力の、原動力にもなる。
そういう時期が、必要であり、あって、よいのである。

いい年をした、大人が、観音様云々ではないだろう。
また、観音様を利用した、説教を聞かなくても、道徳教育は、十分に出来る。
進化倫理学の、ところを、再度、読んでもらいたい。

あらゆる、宗教的妄想の産物は、必要ないのであり、釈迦仏陀も、それを、最も、嫌った。

我の、吐く息、吸う息を、知れ。
呼吸を整えることによって、心を整えるのである。
心は、呼吸に表される。

今、何故、悲しむのか、怒るのか、嘆くのか・・・
その、心を様を、しかと、見つめよ。

釈迦仏陀の、行は、ただただ、内省であった。

相手に対する、感情が、起こる、心というものを、見つめよ、である。
それは、相手に怒るのではなく、我が心の、迷いを、相手に投影して、怒りを表している。本来は、その怒りの元は、我が心にある。

兎に角、冷静に、我が心を、見つめ続けること。

それを、日本では、すべて、所作として、残した。
語りではなく、所作の中に、それを、隠した。

立ち居振る舞いの、所作に、釈迦仏陀という、心のあり方を、見つめる方法を、持ったのである。ゆえに、すべての、行に、道と、名づけた。
武道も、芸道も、すべて、道という上にあると。

その道の先には、かむながらの道がある。
漢字で書けば、唯神道である。
ただ、かみの、みちである。

言霊にすると、
かアむンなアがアのオみイちイ
である。

それは、化け物になる道ではなく、人間の道である。

ちなみに、神という観念は、欧米の、インドの、中国の、それぞれ違うものである。

日本には、カムの感覚であり、観念は無い。

命、みこと、とは、人間のことであり、優れた人間を、命、尊と、奉るのである。
日本の神とは、人間のことである。

ある、病気治しの、新興宗教では、仏界を超え、神界を超えて、ついに、素の大神の居場所に、直結する、道が開けたと、喧伝する。
仏界も、神会も、彼の観念である。

法華経で言えば、仏の下に、神の世界がある。
仏が、上である。

それも、観念である。

そんなものは、無い。
あるのは、次元の違いである。

勿論、次元の違いがあるというのも、観念である。

次元の違いと、言葉にすると、解った、気になるから、不思議である。
次元の違いなど、知る術も無い。

さて、最後は、この、法華経の最後は、陀羅尼というものを、見る。
第二十六である。

サンスクリット語をそのままにした、呪文である。
アニ・マニ・マネ・ママネ・シレ・シャリテ・シャミャ・シャビタイ・センテイ・センテ
というように、その、音のままである。
総持、そうじ、と漢訳された。

解説は、二人の菩薩、薬王・勇施菩薩、二人の天王、毘沙門天・持国天、十羅殺女、鬼子母神が、法華経を説く者、法華経を受持する者、法華経を始業する者を、守護することを、誓うとある。

特に、鬼子母神と、その子らは、自分たちに、従わない者、つまり、法華経を邪魔する者には、頭が七つに割れ、あたかも、父母を殺すような、罪を得ることになると、脅す。

そして、釈尊、つまり、仏陀は、法華経の行者を守護する、功徳は、さらに大きいと、伝え、羅殺女を、励ましたとある。

呪文は、バラモンの、得意技である。
釈迦仏陀が、最も、嫌った、呪文である。
どうして、ここにきて、釈迦仏陀が、呪文を奨励するのか。

日蓮系の行者は、これを、霊祓いに、利用する。
霊に憑かれたと、思い込んだ者に、この、陀羅尼を唱えて、鎮めるというもの。

見世物としては、面白い。
また、行者の得意とするところである。
つまり、傲慢不遜である。

密教系と、日蓮宗系が、多く、そのようなことをするのは、バラモンの流れである。

毘沙門天や、持国天などは、インド魔界の、神のうちにある。

冗談ではない。
魔界のモノを利用して、猿芝居を演ずるということになる。

勿論、彼らは、それを、知らない。知る術も無い。信じるからである。

インド思想史を、俯瞰した通り、仏典の編纂の様子も、理解出来た。

更に、インド思想史を、見ることにする。

2009年08月14日

神仏は妄想である。238

釈迦仏陀在世当時、更に、原始仏教教団においては、世俗の呪術密法行為は、禁止されていた。いや、厳禁である。

大乗仏教は、しかし、部分的に、それを、取り入れた。
何故か。
堕落である。

それは、陀羅尼としての、経典である。

西暦四世紀頃から、呪術だけを説く、教典も製作されることになるのである。

その、呪句を、真言、マントラとも、呼ぶ。

真言陀羅尼を読誦して、それにより、心を統一し、諸々の、仏を供養するという。
更に、それを、いかに、念誦するか、いかに供養するかということの、規定も、行われた。

方形、円形の壇に、仏を安置して、祭祀を行うのである。
この、護摩壇といわれるものは、ヴェーダの祭祀法を受けている。

その、壇を、曼荼羅と呼び、後に、大日如来という、化け物を、創造する。

その、大日如来を中心にして、仏の図を作り、曼荼羅という、奇妙な図を、創造して、意を得るという、堕落である。

そして、恐ろしく、愚かな、印契という、手指の形を作り、その気になったのである。

その印を、手指で作り、その仏になるという、漫画である。
それが、華厳経の哲学と、結びついて、一つの宗教体系が、作られた。それが、秘密仏教、密教といわれる。

開祖は、竜猛、りゅうみょう、である。
西暦、600年頃。

七世紀半ばの、西南インドで成立した、大日経の説く、胎蔵界曼荼羅、そして、七世紀末に、東南インドで成立した、金剛頂経の説く、曼荼羅を、金剛界曼荼羅と、称する。


この、密教は、730-1175年頃の、パーラ王朝の統治下において、盛んになった。

調べてゆくと、仏教とは、全く関係ないのである。
新しい宗教体系である。
ただ、バラモンの影響大であり、華厳経からの哲学を取り入れているということでの、仏教とするには、あまりにも、雑である。

新興宗教である。

密教においては、根本の仏を、創造の産物である、大日如来におく。
更に、その、大日如来が説いた教えが、密教というから、頭が、おかしくなりそうである。

釈迦仏陀という、実在の人間が、説いた、教えを、仏法というのだが、違う。
大乗仏教からは、釈迦仏陀ではなくなる。
すべて、創造の産物を、創作して、語らせるのである。

また、密教は、大乗仏教とも、違うという意味で、金剛乗、こんごうじょう、と、称するのである。

実に、閉鎖的なのが、魔的である。

秘密の教団であり、特有の、複雑な儀礼を創作し、人は、師について、教えを受け、その秘儀によって、灌頂を受けて、一人前である。
灌頂とは、頭の上から、水を注ぐ儀式である。
キリスト教の、洗礼に似る。

水を振り掛けるというのは、原始宗教行為でも、数多く、確認される。
それは、命の水を受けるという、原始的感覚によるものであり、この、密教の灌頂とは、意を異にする。

更に、インド魔界の、従来の仏教にはなかった、神々も、登場させるという、段取りである。

要するに、すべての、インドの宗教のモノを、取り込み、それも、大日如来の化身であるとする。
まるで、ゴミ箱のように、民間信仰も、取り入れて、大曼荼羅を構成させるという、呆れた、行状である。

大乗仏教を、屁のようにあしらうのは、六波羅蜜という、修行実践などしなくても、衆生は、本来、仏性を宿している。ゆえに、諸仏を、念じて、陀羅尼を唱え、密教の特別な儀式にあずかることにより、容易に最高の境地に達する。そして、仏になるというものである。

日蓮が、題目により、六波羅蜜を超えるという、感覚に近い。
共に、釈迦仏陀の、教えには、全く関係の無い、外道である。

即身成仏という、誇大妄想の極みを、唱えるのである。

生きたまま、仏になるという、妄想である。
つまり、仏という、化け物になるということである。

更には、現世の、幸福、快楽を承認する。
人間の、情欲、煩悩は、克服されるものではなく、抑圧もされないという。
それは、尊重されるべきであると。
不純な、愛欲を、一切衆生に対する、慈悲にまで、高めればよいのである。

ここには、古の日本の伝統である、欲望は、恵みであるという、純真な、かむならがのみち、の、考えとは、全く違う。

要するに、密教創設は、インドすべての、思想を包括して、その、魔界の神々までも取り込み、バラモンを超えて、人を、支配しようとする、限りなく、激しい、支配欲が、見られる。

煩悩を、肯定する思想は、当時の俗信に対する妥協と、卑猥な儀式を取り入れる危険性があったと、中村元は、言うが、危険性ではなく、危険だったのである。

インドには、古くから、性愛の手引きが、多くある。
それらをも、肯定して、取り込む作戦である。

結果、一部の、密教の信徒は、男女の性的結合を絶対とする、タントラの儀式の影響をも受けて、左道密教を、立ち上げた。
インドラブーティが、創始者といわれる。
九世紀以後盛んになったが、儀式の中に、性的享楽を、取り入れることで、それ自体の解体を、促したのである。

インドには、周期的に、そのような、セックス賛歌の団体が、生まれる。
ピッピーに、歓迎された、インドの、宗教団体が、アメリカで、盛んになったこともあるが、結果は、崩壊した。

世界の和尚といわれた、バグワン何とかという者の、著書は、決して、何を言っているのか、解らないものである。
寝ぼけた、説教を繰り返す、魔物である。

この、密教を、種に、真言宗、真言密教を立てたのが、稀代の詐欺師、空海である。

内道である、釈迦仏陀の、教えとは、全く関係のない、魔物、魔界の手引きである。

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