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言霊について アーカイブ

2006年11月25日

言霊について

私は言霊研究をしている。しかし言霊の本を書くつもりはない。研究をすると本にすると勘違いする人がいる。研究して、それを実践するから研究が生きるとは思わない。本にすると、偉いともう。馬鹿な学者がするようなことはしない。
藤岡宣男の日本語の歌が美しかった訳を、今、考えている。しかし藤岡も最初は、舞台用の発声、発音を練習していた。
ある時、初恋の歌詞の、思いいずる日という歌詞の、ヒという発音が、ヒを強く、母音のイが
弱くて、シという音に交じることに気づいたので、それを言った。藤岡は、即座に正して、練習した。ヒは弱く、母音のイを強くすることによって、最後のヒが、見事に美しくなった。
それでは、シはシをやや強く、母音のイを弱くすると、美しい。
日本語は、母音に返って美しくなる。それは母音に深い意味があるからだ。
ただ奈良時代には母音は、七つあった。それが五つになった訳がある。それは省略する。
言霊は、母音の解釈に帰結する。それは音霊、おとたまと呼ばれる。それも省略する。
声楽家で日本語の美しい者は、藤岡以外を知らない。他は、日本語もどきである。
驚いたことは、佐賀県の人、そして沖縄の歌い手に、見事な日本語の名手がいることである。
佐賀県は日本語の発祥の地てあろうか。そして沖縄は・・・
さて、これは結論を避ける。
もう一つの面目は、日本語の心的模様である。「もののあわれ」を言うことにする。藤岡は、それも兼ね備えた。
言葉は記号と考える野蛮な欧米人の言う声楽と、言葉の一音に神が宿ると考える古の日本人では、格が違う。言霊である。欧米の声楽家の真似をして日本語を歌うと、それは醜いを超える。酷いのは、日本語に聴こえない。
日本語を叫んで、どうするのだと思う。しかし、日本語のプロがいない。指導者にである。
言霊など知らない者が、日本歌曲などを教えるという仰天である。これ以上は詮索しない。
初恋をテノールに歌わせて、その風情の無さに愕然としたことがある。アホ馬鹿間抜けを超えた。ソプラノも然り。
ファルセットのカウンターテナーであったから、あの風情と「もののあわれ」を表現できたのかと思いつつ、私は、藤岡宣男を歌うことにした。これで止めて置きたいが言う。
説明不足であろう。藤岡を歌うとは、藤岡の心を歌うということである。それは藤岡の「もののあわれ」を突き抜けて行かなければならないということである。
そうすると忙しくて、死ぬ暇がなくなるのである。ああ無情・・・
本日は、藤岡宣男「神上がり」425日祭である。
さきはえたまえ まもりたまえ

2007年09月15日

般若心経について

般若心経について。

私は、青年の一時期、毎日、それを唱え続けていたことがある。
そして、自分なりに勉強して、その深遠な思想と呼ぶものに、共感していた。

研究書は勿論、様々な人の書いた、それの解説書等も、多く読んだ。

そして、今である。

猫も杓子も、その無の思想について書く。

玄奘三蔵法師の訳をもって、広く知られているお経である。
私は、玄奘の小説を書くに当たって、色々と、調べた。
そして、今までの、知識等々をもって、再度、考えてみた。

玄奘の名訳のお陰で、実に、皆々、漢字の意味に捕らわれて、解釈、解説している。

解ったような気分になるお経である。

私が唯一、気になった解説をした人に、作家の水上勉がいた。
彼は、無い、無であるといって、私の障害のある娘は、それを負って生きなければならない。そして、私の死後も、彼女が生きられるようにと、お金を貯めている。無いと言っても、この現実はあるというものだった。
その妻は、娘の障害を負うのではなく、抱くと解釈したという。

そう、実に、不思議なお経である。

その後、言霊による、解釈を試みて、実に、あれは、嘘偽りのある、迷いのお経であることが解った。
大般若経というお経の心臓部だというが、大般若経自体が、とてつもない、嘘偽りなのであるから、その心臓部であるということは、実に嘘偽りである。

何故、それなのに、人気があるのかといえば、短いものだからである。
そして、漢字の意味合いの、あたかも意味あるが如くのお経だからである。
玄奘の訳の天才的なことが、解る。

字義に捕らわれている。

パンニャパラミーターとは、完全な知恵である。
そんなものは、この世に無い。ある訳が無い。そこからして、嘘である。

インドの言葉の遊びに、引っかかっているだけである。

大乗という仏教は、外道という仏教にはあらずの思想体系である。

インドバラモン等々の影響を受けて、本来の仏陀の教えを、煙に巻いた。

仏教の経典は、仏陀滅後、500年を経て書かれた物である。
それから、500年ほどして、仏陀の教えは、衰退してゆく。
それは、バラモンから派生し、インドの土着信仰を巻き込んで、ヒンドゥーに取り込まれてゆく。
そして、ついに、仏陀もヒンドゥーの一人の神にされる。
また、新たに生まれた、イスラムに乗っ取られるのである。

仏陀の教えは、遂に、滅びる。
今ある、仏教というものは、亜流である。
日本に伝わった仏教も、勿論、亜流である。
そして、その多くは、中国思想に、犯された。

玄奘は、観世音菩薩の加護を願いつつ、天竺を目指す。
玄奘は、仏陀よりも、観念としての、観世音菩薩を信仰していた。

この、観世音とは、玄奘の前に訳した、クマラジュウという天才的、翻訳家の訳である。
玄奘は、それを、観自在と訳した。

この、観自在とは、自らを観ると書くところが、玄奘の翻訳の核心である。
漢字の字義をもって、見れば、観音様とは、我が内にあるものとなる。
それは、玄奘の願いであった。

つまり、般若心経は、玄奘の願いのお経なのである。

我が内にある、観である。
観とは、感じる目である。
観とは、聴くことである。
我が内に聴くことが、観自在という訳になる。

玄奘の頭脳明晰は、半端なものではない。
当日のインドの最高学府で、第一になるほどの明晰さである。
語学の堪能さばかりではない。霊能力をも、備えていた。超人である。

悟りを超えた頭脳明晰であり、それは、当時の仏教の教えをも、超えた。

唐の太宗は、国禁を犯した玄奘を、迎えでた程であり、帰国の後は、国を上げて、玄奘を保護した。

その玄奘の起こした、法相宗という宗派は、日本の南都の一派でもある。
その最大の特徴は、救われない者もいるというものである。
仏になれない者もいるという。

皆、仏になるものだという、最澄の耳障りの良い教義は無い。
日本仏教の堕落は、最澄から始まる。
それ以後、皆、仏性を持つ者であるとの、耳障りの良い教義にて、鎌倉仏教が出来上がる。

念仏然り、題目然り、座禅然り、ことごとく、日本の新興仏教は、堕落した。

学び尽くした玄奘が、言う。
仏になれない者もいるのだ、と。

玄奘は、ユガ経というものを、求めて天竺に向かった。それは、大乗の経典である。
ヨガによる、救いの行法である。
バラモンから派生した、ヨガの行法に、玄奘は惹かれた。
当時すでに、小乗、大乗の教えが生まれていた。
玄奘は、大乗の教えを求めて天竺に行く。しかし、大乗は、小乗と共に、学ぶことが出来るものだった。
玄奘は、唯識説に、疑問が百あったという。
その、唯識説を唱えていたのが、ヨガを実修する人たちから生まれた。

唯識論の基本は、あらゆるものは、心のはたらきで作り出された影像にすぎないというものである。すなわち、すべて仮の存在であるということ。

インドの最高学府である、ナーランダーに行かなければ、疑問は解けないと、玄奘は、思い立ち、単独で天竺へ向かうのである。

ヨガとは、心の作用の止滅である。
からだを宇宙とみなし、独特の体操法によって、心の統一をする。
これは、紀元前500年前後に成立した、バラモンの経典、ウパニシャドにある。
つまり、仏陀在世当時の頃である。
仏陀も、このウパニシャドの教えを汲むものである。
輪廻、その原因である業の思想は、ウパニシャドから、継承したものである。
仏陀は、この輪廻からの解脱を説く。

唯識派は、ヨガを通して、信仰より、哲学的に思索を繰り返した。
そして、空観というものに辿り着く。
それが、大般若経という経典に結実する。
あまりの難解さに、辟易するものである。
実は、難解であるということは、嘘であると同義である。
その、エッセンスが、心経に集約されていると、いわれる。

玄奘は、頭脳明晰のあまり、その頭脳に、やや溺れた。疑問を解くという大義に、人生を賭けたが、玄奘自身、晩年に、私は、学ばかりをやってきた。そろそろ、行、つまり、ヨガの行法をしなければと言いつつ、亡くなったのである。

実は、唯識論の始祖は、マイトレーヤであるとされている。
弥勒と呼ばれる。
仏陀滅後、56億7千万年後に下生して、仏陀の救済から、漏れた人を救済するという。インド人の好きな、奇想天外な、膨大な時間を掛ける。
3世紀から4世紀にかけて実在した人物とも言われ、アサンガ、無著に、唯識説を授けたといわれる。
マイトレーヤの講義をアサンガが受けて、ヨガ行法を、17段階にして説いたという。それを、17地論という。

このアサンガの代表作は、摂大乗論である。これが、大乗の教えの核となる。
アサンガには、弟のヴァスバンドゥがいる。世親として、有名である。
はじめは、大乗非仏説を唱えたが、兄の影響を受けて、大乗に転じた。
彼の書いた、倶舎論は、仏教の基本論書となる。

四世紀後半に、この二人の兄弟によって、今の仏教学が確立される。

では、中国に、唯識論を伝えたのは、西天竺の出身である、パラマールタである。中国名は、真諦と呼ばれる。六世紀の半ばである。

さて、マイトレーヤによって興されたという、唯識論であるが、実在の人物であるとも、天界の菩薩でもあると言われる。
弥勒菩薩であるが、天界にいると言われると、インドの天界は、魔界であるから、大変残念だが、そこから出た、教えとは、お勧めできない。

唯識論は、心理学である。
空観は、哲学である。
仏陀の教えは、現実を生きる、生き方の教えである。

真理というものがあるならば、如何様にも、解釈できるものである。

般若心経は、どの宗派も、唱える。
というか、これだけは、宗派の教え、つまり、拘りに抵触しないという。

宗派とは、教えの拘りであり、本当の仏陀の教えならば、拘りなど持たないはずであるが、違うらしい。

私が観たところ、仏陀滅後は、好き勝手に、教えが作られていった。
とどまるところを知らないのである。仏陀をダシにして、皆々、妄想を膨らませたといえる。

人生は、すべて心の影である。つまり、無いものである。故に、空である。
ああそうですか、と、聞いていられないのである。

しかし、あらゆる宗教は、これを言う。
確実に、これが、宗教の大本の考え方である。
つまり、唯識論から、逃れられないのである。

そして、この世は、現象の世界であり、あの世は、実相の世界であるということになる。

そうすると、どんな奇想天外なことも言える。
そして、空観というものを取り出せば、教義が出来上がる。

唯識論こそ、影であるという。

仏陀の教えは、古神道に似る。
慈悲と、共生の教えである。共生は、共感を伴う。
この共感とは、心理学では、最高の心のシステムである。

私は言う。
この世のもの、この世に、拘り、捕らわれているから、生きられる。
すべては、影である。そうして、信徒を騙して、金儲けをするから、やり切れない。

人生の艱難辛苦も影である。
よく、言うものである。
人から施されている、偽善者である宗教家が、宗教家だから、のうのうと言えるのである。

蒔いて、耕してみよ。命掛けで、捕ることをせよ。
案じて、経営をしてみよ。
のうのうとして、空観、すべては、無である。すへでは、影である。
嘘であろう。
すべては、真実、現実であろう。

ほら、お前がボケ老人になるのである。
ボケても、無か、空か。
誰が、それを面倒みるのだ。

妄想に、救いを求めるより、近くにいる人に、優しく、今目の前にいる者に、最大限に出来ることをせよ。
この世の救いは、共生と共感に生きるしかない。

仏陀と、古神道が一緒なのは、現実を生きることを言う。
死んだ後は、実相世界に行くのである。
生きている内は、影に、大いに、生きるべきである。
それより、無とか、空の影に生きたいのか。
嘘である。

黙っていても、老いる。
黙っていても、死ぬ。

仏陀の教えは、単純明快である。
生老病死である。
それを生きるから、人生の、そして生まれた価値がある。

人生は、そして、霊界は、空でも、無でもない。

すべてが、存在する。
存在が充満している。

般若心経は、完全無欠に、妄想である。

死ぬまでの暇つぶしにはよい。

今のインドは、唯識など、何処吹く風。経済成長に躍起である。
それでよい。

人は、無意味であることに、耐えられないというのは、普遍的真理である。前頭葉のせいである。
ゆえに、実に難解、あるようで無い言葉の世界に遊ぶのである。

ボケた人を見よ。
食って寝て、ぼんやりと、日がな一日、朦朧としている。
人生は、それが一番幸せであろう。
彼らには、すべてが、無であり、空である。
あれを、悟りという。

行などしなくても、必ずそのようになる。
そして必ず死ぬ。

人間に、救いというものがあるならば、それは、死である。
死ぬまで生きるから、人生は、尊い。楽しい。面白い。愉快だ。
ホント、下手な芝居をしているようなものである。

苦しいようなら、糞して、寝ると良い。
人間の生理は、救いである。

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