メイン

キリストの絶唱 アーカイブ

2007年05月05日

キリストの絶唱

キリストの絶唱を書く。
何故、書くか。
カトリック、プロテスタント、その聖職者、聖書研究家、神学者、そして、諸々の識者、作家等々のイエスキリストに関する考察を批判する。

誰も、他の物の見方から、主イエスに関して、書くことはなかった。
私は、古神道と、私の霊学から、主イエスの言葉を観る。
なんとなれば、多くの聖書解釈は、教会による教義としての解釈であり、それは、人為的に作られたものである。
真実、主イエスの言葉を理解するというのは、霊感による。
主イエスの言葉を借りれば、聖霊による。

聖霊とは、何か。
誰も明確に出来ないでいる。
父と子と聖霊の、三位一体という妄想は、ただ事ではない。
これを唱えた原始キリスト教の一派が、皇帝と結び、正統として、異端審判を行ったのが、あの中世の歴史である。
その反省もないいまに、未だに、それを正統とする。

三位一体とは、古神道の考え方であり、古神道の中にこそある。
天人地である。天と人と、地により、この世はある。天と地を結ぶ者は、人である。

聖霊とは、何か。
主イエスは、父と子の関係に、聖霊が関与することを言う。
聖霊は、別の働きをする。
三位とは、同じ格であるということである。
実は、神と呼ばれる御方は、聖霊のことである。それは、目に見えることは無い。
父とは、主イエスの指導霊である。
聖霊こそ、神である。
聖霊の元に、父と子がある。
キリスト教教義の誤りが、そこにある。

無批判にして教えを信じるのが、信仰ではない。
信仰とは、迷いである。
地の果てまでも、私の言葉を伝えよと言う主イエスの真意は、どこにあるのか。
「主よ、主よ、と言う者が天の国に入るのではない。父のみ旨を行う者が入る」と言う。父のみ旨とは、聖霊のみ旨である。

そして、聖霊として、総称される霊は、単独ではない。
聖霊とは、宇宙に充満するエネルギーである。
聖霊に対する罪は許されないと、主イエスは言う。当然である。それを否定すれば、我が身を否定することになるのである。

旧約には、神の名が出る。ヤーゥエ、エホバ、しかし、それは、魔神であるから、神の名を妄りに呼ぶなと言う。
主イエスが、一人で祈る時に、語り合ったのは、神といわれるものではなく、預言者たちである。
いずれ、おいおいと、それについては書く。

キリストの絶唱は、今も続いている。
大きくズレたきリストの言葉の解釈による。
ただ今、一番、主イエスに近い者たちは、ゴスペルを歌う黒人たちである。
旧約の神ではなく、主イエスにのみ向いている。正解である。

旧約の神から、ユダヤ教、イスラム教が生まれた。
勿論、キリスト教も、それらを神と定める。
主イエスは、旧約を成就するために来たと言う。つまり、旧約の神の正体を観たのである。
そこからの、独立だった。
嫉妬と裁きの神、律法の神と言われる旧約の神との対決である。
でなければ、あの壮絶な言葉は生まれない。
聖霊の、愛の神を伝道したのである。

しかし、古神道では、愛も慈悲の神とも言わない。
自然と共生、共感することにあり、すべてを抱擁する。
仏陀は、慈悲を掲げた。キリストは、愛を掲げた。
その地域にのっとり、説教を繰り返した。
古神道には、それらは必要なかったのである。

今、キリスト教徒であると思い込んでいる者多数。しかし、主イエスに繋がる者であるかは、別である。
教団という組織のキリストであり、主イエスキリストを信奉するものではない。
そして、その誤りに気づかない。
天国に行くと信じているのであろうが、霊界に天国は無い。
あるのは、キリスト教霊界である。非常にレベルが低い霊界である。
キリスト教の霊性は、その低いレベルの霊的波動を受けるのみ。だから、奇跡のようなことが起こる。奇跡は、低レベルの霊界の仕業である。

そして、その霊界には、主イエスはいない。当然である。

私は、唯一、新約で正統と認める、マルコの福音書を引用する。
ルカ、マタイ、マルコは、共観福音書と言われるが、ルカと、マタイは、マルコの焼き写しである。
そして大切なことは、書かれたものがあるということは、書かれなかったこともあるということである。
それを埋めるためには、聖霊による。つまり、霊感による。

キリスト教で言う、原罪説などは、聖霊に対する冒涜であること、誰も疑問に思わない程、やられているとしか言いようが無い。
原罪とは、人間が生まれるということである。それを原罪とは、聞いて呆れる。
生まれたことを、最大の罪とする教義を二千年来教えているという罪である。
端的に言う。
セックスを罪とする、肉の欲望とする、極めて遺憾である。


2007年05月06日

キリストの絶唱2

洗礼者ヨハネから、水の洗礼を受けた後、主イエスは、霊に導かれて、荒れ野に行く。
40日間、サタンの試みを受けるとある。
サタンとは、悪魔の親分である。

サタンから、誘惑されるというものである。
わざわざサタンの試みを受けるとは、どういうことか。

サタンとは、元、大天使ルチフェルのことである。
天使がサタンになるということからして、お話じみている。
アメリカ映画の、SFXのようだ。

仏陀は、悟った後、そのまま死ぬべく準備をすると、ブラフマー梵天が現れて、教えを述べよと促す。
この梵天というのが、魔神であるからして、頭を捻る。

お話の前段階であろうか。序章である。

エクソシストという映画があった。
悪魔に取り憑かれるというものである。それを、エクソシスト、悪魔祓いの司祭が対決する。
神道では、悪魔の存在は無い。皆、荒ぶる神と言う。
悪魔とは、何か。
単なる、馬鹿な霊である。ごろつき、頭の悪い霊である。
そして、奇跡を行う。要するに、奇跡を行う霊である。
それでは、主イエスも奇跡を行った。後で、その奇跡については書く。

サタンの試みは、この世の欲望の誘惑である。
それを主イエスは、すべて跳ね除けた。
しかし、考えてみるに、この世の欲望を捨てたら、生きられるだろうか。生きられない。とすると、すべての人間は、悪魔の側に立つのである。
悪魔の勝ちである。

この世の欲望を、どう捉えるかが、問題である。
欲望否定が、キリスト教の主たる教義になる。おかしい。
欲望を罪として、罪を犯す。それは、罪であるという意識の快感を持って罪を犯すのである。要するに、教義は、実は、悪魔から出でいるのではないかと思わせる。
何故、生きることの欲望を罪とするのか。
ここに、最大の問題がある。

端的に言う。
欲望は、恵みである。人間に与えられた恵みである。
それを、何故、罪に結びつけるのかといえば、それは、人間支配のためである。つまり、教団とは、支配する団体の何物でもない。

人間の世界に、暴力団や、やくざ、マフィア等々がいる。
霊界にも、それらがいる。悪魔とは、そういう集団である。

それに関わって試みを受けるということを、真実考えたキリスト教徒は、いるか。
悪魔の試みを受けるだろうか。
主イエスは、それらと質も次元も違うはずである。
伝道に先立っての自己対話であろうが、悪魔の試みを受けたと書かなければならない事情がある。
悪霊や、悪魔、魔王等々を持ち出さなければ、よく理解できないのである。
神と悪魔との対立。実に解りやすい。
対立の思想は、欧米の考え方の中心である。
中世の異端審判も、正統とされた一派が他を、悪魔の存在として、裁いた。魔女狩りも、そうである。土着の信仰形態をも、悪魔の仕業と考えた。

仏陀も、静かに瞑想している時に、多くの悪魔の試みを受けたとある。
それは、自分の中にある欲望の種である。
美しい女たちが、仏陀を性の快楽に誘う。仏陀は、それを撥ね付ける。すると、彼女たちの本性が現れる。醜い、悪魔の姿である。
どうしても、快楽を罪としたいのであろうか。
快楽の陥ることを、罪とする考え方の、どこかおかしい。

古神道は、欲望を恵みと捉える。
それでは、古神道は、悪魔のものであるかといえば、全く別物、質も次元も違う。

聖書は、この世を悪魔の支配する場所として捉える。
しかし、それは一面的である。
この世は、悪も善も共に在る。味噌も糞も一緒の世界である。

実は、欧米では、神と対立する悪魔に関しての、想念が強く、その想念が生み出した悪魔というものが多い。
キリスト布教の当時は、魔王の働きが強かったことは、事実である。
しかし人間の欲望を手玉にとって、人間を支配するというより、それは、偽善という形で、魔王は、人間を支配した。あたかも、神の側にいるように見せかけて、敬虔に見せかけて、人を指導するという。
簡単に言う。人から尊敬を受ける者の、多くが魔王に支配されていたのである。
キリストは、それとの対決をした。

人間の欲望を手玉に取るのは、悪魔より、教団である。そして、教義を作り信徒を支配する。
信仰は,極めて個人的情緒にある。
内村鑑三は、実に、それを見抜いて、無教会派を名乗り、キリスト教徒となった。
日本の伝統を持って、キリスト教を理解したのである。

悪魔は、その正体を暴かれることを嫌う。
明らかに、悪魔の試みを受けたと書く意図は、何か。
おいおい、それを書くことにする。

2007年05月10日

キリストの絶唱3

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
主イエスの第一声である。

神の国、福音、それは、イエス自身のことである。
当時は、ユダヤ教全盛であり、改めて、神の国、福音を言うまでもないことである。
そのシステムは、完全だった。

悔い改めてとは、物騒である。
今更である。皆々、毎日、悔い改めているのだ。
これは、旧約との決別である。しかし、主イエスは、旧約を完成させるためにと言う。
これには、既成の宗教家たちが、猛反発するひこと、必至である。

「時は満ちた」とは、いかなることか。
それは、過去との決別である。今までの宗教的所作からの開放である。そして、新しく生きること。新しい神の姿を主イエスは、皆に提示する。それが、「愛の神」である。
古きものを否定して、新しい価値を置くとは、過去の遺物を守る人からは、総攻撃される。それを、知っての宣言である。
つまり、死を賭けた。

「神の国」とは、何か。それは心の状態、あり方である。その心のあり方を伝えるというのである。
雁字搦めの教義に支配される人は、主イエスの言葉など聞けない。現に今、主エスが現れて説教を始めたら、確実に、キリスト教徒に殺される。

悔い改めとは、いかなることか。
悔いて、改めるのである。何を悔い、何を改めるのであろうか。
聖書解釈では、悪魔のとりことなっていた人間の世界に云々とある。
欧米の思想は、いつも何か、対立したものを置く。理解しやすいのである。神の存在までも、人間と対立させる。彼らは、この対立から逃れられない。実に、単純馬鹿である。
悪魔の支配にあった人間の世界とは、何事か。それでは、キリスト以前は、悪魔の支配に晒されていたということか。
この程度では、主イエスの言葉など理解も出来ないだろう。
善と悪との対立である。
頭の悪いものが考えることである。

それでは、今でも悪魔の支配が続いている。そう、キリスト教団も悪魔の支配により、成っている。さて、どうする。自分たちだけは、神の側にいると思い込んでいるだけである。当時の人と一緒だ。

キリストは、そこからの解放を言う。
今までのユダヤ教の教えに、全面対決を宣言するのである。
これこそ、命懸けの行為である。

しかし、人は愚かである。単にそういう説教では、如何ともし難い。そこで、主イエスは、奇跡を見せる。
これを私は、悲しむ。
奇跡を見せるということは、魔物のすることである。それで今まで、魔物が人々の支配に君臨していた。それを主イエスも行うという悲劇である。
手品を見せなければ信じない、アホ馬鹿間抜けである。

そして、非常に危険なことが書かれてある。
「ときに、汚れた霊につかれた人が会堂にいて、こう叫んだ。「ナザレのイエスよ、わたしたちをどうしょうというのですか。あなたはわたしたちを滅ぼしに来たのですか。わたしは、あなたがどなたであるかを知っています。神の聖なるかたです」イエスが叱って「黙れ、この人から出て行け」と言われると、汚れた霊はその人をけいれんさせ、大声を上げて出て行った」
悪霊に憑かれた者に、あたなは、神の聖なるかたですと、言わせる。
おかしい。実に、おかしい。
これが、真っ当な霊能者に疑問を起こさせるのである。

果たして、主イエスが、悪魔と、どのような取引をしたのであろうかと。
荒れ野で、悪魔との誘惑を退けて、宣教に立つのであるが、聖書に書かれない部分に疑問を持つのである。
書かれたことより、書かれなかった部分を観る。

神と悪魔の対決、善と悪の対決。それを聖書は提示する。そして、神を強調する。
どこか、シナリオが見える。
ぎりぎりのところで、主イエスは、悪魔から出た者ではないかと疑いが出るのである。
悪魔との、やり取りの筋書きである。
聖書学者等々は、それを知らない。知るはずもない。

仏教で言うところの天上界も、魔神の支配にある。
仏教に極楽など無い。魔界につながる霊界というか、霊界と、魔界は、別物であるが、真っ当な霊界は、無いと断定出来る。
インド魔界の支配にある。

旧約の神というのも、複数であることは、常識である。また、旧約の物語は、アフリカの神話から多く出ている。
果たして、旧約の神は、いつから、神と名乗りを上げたのか。
いずれ、追々と書くことにする。

確実に言えることは、主イエスは、死を持って、自分の言葉を成就させた。これが真実である。
悪魔との取引。それが何であったのか。
新約のテーマである。
そして、悪魔の正体とは。

私は、別波動にて、それを解明する。
古神道に関して、悪魔は、手出し出来ないからである。
つまり、やり取りする次元ではない。そして、古神道の霊界が悪魔と言われる存在とは、異質である。悪魔は、古神道の霊界と、コンタクトする何物もない。

兎に角、主イエスは、高らかに、過去との決別を宣言した。
何を「悔い改める」のであろか。

2007年05月11日

キリストの絶唱4

マルコ福音書の冒頭は、キリストの奇跡、病気治しと、悪魔祓いが多い。
福音を伝える手前の段階である。
奇跡を見せなければ、人は、その説教を聞くことがなかった。

一時、手当てにより、病を癒した者が映画にもなった。
たまたま得た能力である。しかし、その能力の意味を知らず、病気治しをした。突然与えられる、そのような力は、実に、危ない。
低レベルの霊が作用するからである。動物の霊でも、そのような奇跡を起こす。
動物の霊も、霊界では進化する。その過程で、自分の力を過信し、人に憑いて、奇跡を起こす。

キリストの悲しみは、その時点で、すべて始まっていた。
本来は、その病により、あることを知るためのものである。病に、人生の秘密が隠されてある。それを知ることなく、奇跡によって治るということ、その意味を知ることなく、知るチャンスを失ったということである。
しかし、それを行わなければならなかったキリストの悲しみを思う。

奇跡を起こすことは、霊界のあるレベルと接触すれば、簡単なことである。しかし、その後、その霊界の支配を受ける。それが、魔界の場合多々ある。

私も多く、病を癒す気功家を知っている。
霊能力で癒す人も知る。しかし、その多くは、レベルの低い者だった。つまりレベルの低い霊界との接触、または、動物の霊であった。
その証拠は、その人間性である。それを見れば、一目瞭然である。
気功家では、自分を失ってしまった人もいた。痴呆のようになってしまった人もいる。
一時期の隆盛は、瞬く間に消えた。

日本で、病を癒すようになったのは、大陸の呪術が入ってからである。
加持祈祷などは、その典型である。
すべて、魔界のものである。特にインド系は、そうである。霊験あらたかとは、別名、魔物の仕業である。
多く渡来した神によって、大和の人は、奇跡を見た。
しかし、本来の神道では、奇跡を成さない。
奇跡は、神よりのものではない。

キリストは、当時の価値観の転換を図った。
それは大変なことだった。すべての既成の戒律、律法を否定することになった。
何故、断食をしないのかと問われて、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れる」と答える。
これは、既成の価値観を破るものだった。
しかし、その言葉の意味を、彼らはすぐに悟ることがなかった。
キリストは、今までの方法を前面否定したのである。

「安息日は人のためにもうけられたものであって、人が安息日のためにあるのではない。それゆえ、人の子は安息日に対しても主である。」
当時、安息日には、何事を行ってはならないとの掟である。
しかし、キリストは、それを無視した。

今、キリスト教徒は、キリストを神であると信じるから、抵抗が無いが、当時は、それは大変な挑戦だった。

ファリサイ派の人々は、主イエスを訴えようと、人を癒すのを見ていた。
すると、案の定、キリストは、その片手のなえた人を癒した。
「安息日に善を行うことと、また、命を救うこととと、殺すことと、どちらが律法にかなっているか」とお尋ねになったとある。

規則に縛れた者たちに、キリストは、あることを示した。
しかし、それを理解する器が無い。
今のキリスト教徒も、教会の規則により、キリストの真実を忘れた。
キリストは、キリスト教徒によって、殺されること、必至である。

2007年05月16日

キリストの絶唱5

「エルサレムから下ってきた律法学者たちは、「イエスはベルゼブルにとりつかれている」と言い、また「悪霊のかしらによって悪霊を追い出すのだ」とも言った。」
奇跡を起こす者に対する、当時の真っ当な考え方である。

ベルゼブルという名は、ペリシテの都市エクタロンの神の名、バアル・ゼブブからなる。イスラエル人は、憎しみから、敵の神の名をわざと曲げて、滑稽に呼ぶと聖書研究にある。
つまり、ベルゼブルとは、悪霊のかしらという意味である。
これは、イスラエル人は、他の、敵の神を悪魔とするということである。
一神教の特徴であろう。
他の神を悪魔として、戦う。
戦争が終わらない訳である。

イエスは、それに答えた。
「どうしてサタンがサタンを追い出すことができようか。もし国が内輪もめするならば、その国は立ち行くことはできず、かえって滅びてしまうであろう。また、先に強い人を縛らなければ、だれもその強い人の家にはいって家財を奪うことはできない。縛ってのちはじめて、その家を荒らしまわることができる。あなたがたによく言っておく、人の子らの犯すすべての罪と、神に対する冒涜は、ことごとくゆるされる。しかし、聖霊に対して冒涜のことばをはく者は、永遠にゆるしが得られず、永遠に罪の責めを負う。」こう仰せられたのは、「かれは汚れた霊につかれている」とかれらが言ったからである。」

ここでも解る通り、聖霊とは、イエスと、その父とは、別格であることを言う。
三位一体ではない。
イエスが言う聖霊は、神である。
イエスが言う父とは、イエスの守護霊のことである。

ユダヤ教徒に言わせると、ユダヤの神以外は、すべて悪魔ということになる。
神道で解釈すれば、ユダヤの神も、一民族の神であり、それは、地域の神、つまり地霊のことである。
地霊は、産土神うぶすなのかみの支配の元にある。
そして、何と、ユダヤの神と言われる地霊は、アフリカから彼らが連れてきたのである。

それが、勢力を持ち、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神になった。
大変な出世である。今では、世界宗教の中の三大宗教になっている。
そして、今に至るまで、互いに敵視し、戦うあたりは、魔神としか言いようが無い。

ユダヤ教と、イスラム教は、魔神を、そして、キリスト教は、魔神を神とし、その子をイエスとしている。
先に、旧約の神は、複数いたといった。その彼らの勢力争いが、今も続いているということである。

主イエスは、ユダヤ教に侵された人々の心を改心、回心とも言う、それをさせるために、説教を繰り返した。
それは、許しと愛の神である。
それは、非常に強力な意思が必要である。当時の状況を鑑みれば、当然である。すべてを敵にしなければならない。それ程、時は、瀕死の状態だった。

日本のカトリック作家である、遠藤周作などは、全く見当違いのイエス像を描き、日本の読者を騙していたということが解る。勝手すぎる解釈である。
無力な男であった。しかし、泣く人と共に泣き等々、新興宗教の様である。また、プロテスタント作家の三浦綾子などは、旧約の魔神と、主イエスを一緒くたにして、平然として、妄信していた様は、哀れである。

日本のクリスチャンといわれる連中は、ムードの信仰と言っても過言ではない。
ローマ法王を見よ。主イエスの言葉は、実に空しい。
「人の子には、ねぐらも無い」と言う。その前に、狐にも、ねぐらがあるがと、つく。
豪華絢爛たる教会建築を見よ。そこに神がいるか。いるのであろう。魔神である。

仏陀の教えも、主イエスの教えも、結果的に虚無に帰した。
慈悲も、愛も行われることなく、戦争から、今では、いたるところでの、テロ行為である。
仏教は壊滅し、主イエスの教えも、無になり、残るは、怨念と、憎悪である。

西洋が多くの国を植民地化する際に、必ずキリスト教の布教師が着いた。その土地に、キリスト教の信仰を植えつけるためである。
日本も、ある時期、そうであった。
信長は、命懸けで布教する宣教師たちを、手厚く持て成した。比叡山に代表される僧侶たちの堕落に、心底怒りを感じていたからだ。伝統に甘んじている様、許せなかった。比叡山焼き討ちは、当然のことであった。
だが、その宣教師たちも、布教と共に、日本をローマの属国にするべく働く。当然である。ローマが正しいのである。
秀吉が気づいて、弾圧しなければ、とんでもないことになっていたはずである。

実に、今に至るまで、西洋の植民地化の影響が残っている。
アフリカ、アジア等々、皆々、植民地であった。それが、独立するのが、太平洋戦争、第二次世界大戦後である。
日本が、その突破口を開いたのである。
日本は、我が身を犠牲にして、大東亜圏を拓いたといえる。
日本の戦争責任という時、それを、どの程度考えてのことかと、私は思う。
細部をほじれば、色々な問題出てくる。戦争は非常時である。

その根本が、実に傲慢な神の思想である。
一神教の罪深さである。
アフリカの地霊を神として崇めて、それを唯一の神とする程度の信仰である。
誤りも甚だしい。

神武天皇が、大和を平定した時に、その地の、すべての地霊、奉る神々を集めて、奉り事をした。それが、政の初めである。
まつりごと、とは、それを言う。
政治を政から切り離して、近代が開かれたという言い方も出来るが、何が正解なのかは、まだ、これからの話である。

日本のまつりごとは、西洋には無い。
兎に角、敵の神は、悪霊であるから、叩き殺すのである。叩き殺すことから、彼らの政治が始まる。
これは、キリストの絶唱であるから、以下省略する。

2007年05月17日

キリストの絶唱6

「種まく人が種をきまに出て行った。すると、まいているうちに、あるものは道端に落ち、鳥がきてそれを食べてしまった。あるものは土の薄い岩地に落ちた。そこは土が深くなかったので、すぐに芽は出したけれども、太陽が上がると焼けて、根がないために枯れてしまった。あるものはいばらの中に落ち、いばらが伸びてそれをおおいふさいだので、実を結ばなかった。他のものはよい土に落ち、伸びて大きくなり、実を結んで、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
「聞く耳のある者は聞くがよい」

ここまで噛み砕いても、当時のユダヤ人は、改心などしなかったのである。
主イエスは、イザヤ書の一説を言う。
「彼らが見るには見るが認めないように、
聞くには聞くが悟らないように、
こうして改心してゆるされることのないように」
改心してゆるされることのないようにとは、実に、逆説である。

聖書解釈は、面白いことを言う。
イエスを認めないという悪で、善を引き出すというのだ。
結局、主イエスを神としたのは、当時の言葉で言えば、異邦人である。つまり、ユダヤ人ではない。
ユダヤの神としてのイエスをユダヤ人は、拒んだ。それにより、世界的宗教に発展したのだという説である。
ユダヤ人の悪により、イエスの神である善が、表出されたというのである。
それも良い。

「あなたたちはこのたとえ話がわからないのか。そんなことで、どうしてすべてのたとえ話がわかるだろうか。種まく人はみことばをまくのである。みことばがまかれた道ばたのものとは、こういう人たちのことである。すなわち、みことばを聞くと、すぐにサタンがきて、かれらのうちにまかれたみことばを取りさってしまう。岩地にまかれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、かれらには根がなく、一時的なもので、後になってみるとみことばのために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人たちのことである。また、いばらの中にまかれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、またその他のいろいろな欲望が、かれらのうちにはいってきて、みことばをおおいふさぎ、実を結ばない人たちのことである。また、よい土にまかれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、ある者は三十倍、ある者は六十倍、またある者は百倍の実を結ぶ人たちのことである。」

聖書研究の是非について、あるいは、正統、異端については、何の目安も無い。
仏教の経典などは、そういう意味では、論外であろう。誰も、その審議を見極められないのである。
これが正しいとは、誰も言えないのである。それを言うから、おかしい。

イエスの言葉は、実に、冷酷無残である。
世のクリスチャンが、どのレベルで、みことばを受け入れているのかは、歴然としている。
岩地に蒔かれたみことばが、今のキリスト教徒である。
それ以上にならない。

面白いのは、最初に道端に落ちたみことばである。サタンが来て、取り去るという。つまり、みことばなど、受け入れない人がいるということである。
三蔵法師玄奘が起こした、法相宗には、救われない者が確実にいるという教義が在る。実に、正しい。
日本仏教は、最澄から、山川草木皆仏という。そして、皆が確実に救われると説く。耳障りの良い言葉である。誰の心にも、仏が在るという。
人の心の仏を引き出すということでの、新興宗教の活性振りは、凄まじい。
嘘である。
仏の無い者もいる。確実にである。
イエスも、サタンを持ち出しているが、確実に救われない者がいることを言う。
人間に皆、神が宿ることはない。

神道系の霊的能力者であれば、それは常識である。
魔界転生の者がいるのである。

当時のユダヤ人は、サタンがきて、取り去ってしまうのである。
つまり、ユダヤ人とは、サタンのお友達である。
そんな中で、何故、あえて仰天する説教を繰り返したのか。殺されることは、必至である。
そこに、イエスキリストの存在意義がある。

ローマカトリックに代表される教団の前に、原始キリスト教の集団があった。
派閥である。しかし、一つの派閥が、支配者と結びついて、正統とされる。それがローマ教会である。
果たして、それでいいのか。とは、誰も考えない。思考停止にされた。それが中世の異端審判である。
異端を皆殺しにした。それで成った、教会である。
信じられるだろうか。
そして、権威を持つ。
壮大な建物を建てて、人の目を眩ませた。
法王は、権威をかさに、国王よりも、その支配力を行使するという暴挙に出る。
これは、このテーマではないので、以下省略する。

プロテスタントの一派に、聖書を、どのように解釈してもいい。皆、それぞれの解釈があっていいという宗派もある。聖書主義というが・・・

ここで言う、みことばとは、主イエスの言葉である。それは、主イエスである。
ここで、聖書解釈が、すべて教会に都合のようように解釈されることを言う。
以後、それについては、書く。

対照的に詔について言う。
みことのり、とは、天皇の言葉である。
それは、天皇が皇祖皇宗に代わって、述べる言葉である。
御言葉を、みことばというのだろう、みことばとは。
大和言葉では、命、みとこの、葉である。
命葉は、言の葉と同じである。
みこと、ば、と大和言葉では、分ける。
聖書のみことばは、み、ことばと分ける。
格段の違いがある。

みこと、とは、尊称である。神に対する尊称である。
言葉は、神であるという言霊の思想である。
あちらの、みことばは、主イエス自身のことである。神は、沈黙の存在である。言葉を発するのは、主イエスか、サタンである。
大和言葉は、言葉に尊称をつけて、みことばと言う。
音自体が神である。言葉に神格がある。

ここで、あちらが、言葉遊びの場所であることが解る。言葉で語りつくすということを、主にする。
また、語り尽くせると思い込むのである。
語れば語る程、空しくなることを知らない。
膨大な旧約聖書を見れば解る。

サタンが登場するが、サタンは、言葉の世界で活躍する。あちにの哲学、思想を見れば、一目瞭然である。そして、それゆえに、安心するという。
まだ、ギリシャ哲学の時代は、ソクラテスのように、多くを言葉にしない哲人がいたが・・・
そのギリシャ哲学の言葉は、ロゴスである。
聖書のみことばも、ロゴスと言われる。
ロゴスについて書くには、膨大な言葉が必要であるから、省略するが、キリスト教神学も、ギリシャ哲学より成るということを言う。

実は、そのギリシャ哲学も、イスラムから入ってきたものである。ギリシャからイスラム帝国へ、そして、ヨーロッパに戻ってきた。
イスラムを通してのギリシャ哲学であることを、加えておく。

2007年05月21日

キリストの絶唱7

「ともしびを持ってくるのは、ますの下や寝台の下に置くためであろうか。燭台の上に置くためではないか。まことに、隠されているものであらわにされないものはなく、また、秘密にされたもので公にならないものはない。聞く耳があれば、聞くがよい。」
「注意して話を聞きなさい。あなたが量るそのますで、あなたがたも量りあたえられ、しかもさらに増し加えられる。持っている人はさらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられる。」

実に、解りやすい例えであるが、実際、この話を理解するのは、至難の業である。
お目出度いクリスチャンは、その言葉通りに受け取り、頷くが、全く理解していないことは、明白である。
解ったつもり、というのが、最も悪い。

聖書研究を見る。
一時的に隠されているが、将来、もっと多くの人に表されるという。
もっとも、世界宗教となったキリスト教であるから、その通りであろうが、知られたことが、大切なことではない。
信者が多いから良いのではない。

聞く者は聞け。注意して聞けと、何度も主イエスは言う。
それ程、重大なことを言うのである。

隠されているものとは、何か。
秘密にされているものとは、何か。
聖書解釈は、単純に、それは、主イエスの言葉であり、その存在であるという。

隠されているものと、あなたが量るそのますというのは、連動している。
隠されているものとは、人の因縁である。それゆえの、量りである。人は、自分の器でしか、ものを量ることは出来ないのである。その原因は、因縁である。
解るということは、実行出来るということである。
単なる理解は、頭だけのこと。本当の理解は、即実行出来るということである。

秘密にされたことで公にならないものはない。
秘密とは、人の因縁である。
それは、その人を見れば、すべて出るのである。
話は、それからの問題である。

実に、量ることなど出来ないということを言う。
あなたが量るますで量られるというのは、自業自得を言うのである。
これを、聖書研究は、イエスの言葉を実行する人は、ますます真理を悟り、そうでない人は、ますます真理から遠のくという。
一体、真理に近づく、遠のくとは、どういう意味か。
イエスに従う人が、真理に近づくと単純に思う。
イエスに従うということが、どんなことであるのか、知らない。
すべてを捨てて私について来なさいというイエスに、従えるのか。

あの当時も、画期的な説教であるが、今も、イエスの言葉は、画期的である。

イエスの言葉は、対立を生む。
その対立が、今も続く。
汝の敵を愛せよという言葉にあるのは、敵を想定するということである。最初から敵を想定する様は、いかなることか。
「わたしは、世に剣を持ってきた」とも言う。
何故、キリスト教徒が戦いを好むのかは、イエスの言葉にある。
すでに戦闘状態を言うのである。

仏陀は、一切の敵を想定しなかった。
だから、慈悲の思想が生まれた。
イエスの愛の思想は、対立の思想である。
時に、慈悲と愛を、同じように定義するアホな、宗教家がいるが、全く違う。
愛は、戦い抜くのである。
慈悲は、戦わない。戦いの観念が無い。

当時のユダヤ教徒との、全面戦争を想定した説教であること、明白である。
キリスト、救い主という思想については、後で書くが、ユダヤ教徒の、メシアは、政治的メシアを言うのであり、精神的支柱を言うのではない。
最初イエスに付き従った者たちも、イエスが、この世の王になることを信じたのである。
勘違いである。

イエスの言葉を解くには、キリスト教論理を超えなければ解るものではない。

イエスの教えは、教会ではなく、世界的視野に立った、多くの思想からの解釈が必要なのである。
なんとなれば、今も、イエスは語り続けているからである。

マザーテレサが、ある時、キリストが目の前に現れて言う。
「私は乾く」と。そこから、マザーテレサの活動が始まる。
その時、キリストとは、主イエスであるのか。
それは、主イエスの眷属である。眷属とは、主イエスの多くの霊界の仲間である。
波動が違う世界に、メッセージを送るということは、同じ波動にならなければならない。受信機の波動になってから、メッセージを発するのである。主イエスの波動は、もはや、この世にコンタクト出来ないはずである。派動が、違い過ぎる。

この世は、味噌も糞も一緒の次元であるから、高い次元の波動の者も、低い次元の波動の者も、一緒である。
それが、この世の意味である。

2007年05月25日

キリストの絶唱8

「神の国は人が土に種をまくようなものである。かれがよるひる寝起きしているうちに、種は芽を出し成長する。しかし、かれはどうしてそうなるかを知らない。土は自ら働き、はじめに苗、つぎに穂、つぎに種の中に豊かな実を生ずる。実がみのると、かれはただちにかまを入れる。刈り入れの時がきたからである。」
聖書研究では、種は、適当な条件さえそろえば、実を結ぶ。人間の世界に建てられる神の国も、条件さえともなえば、人間の気づかぬうちに、多くの実を結ぶ。神の国は、教会をも意味する。人間に与えられる、超自然の恩恵にもあてはまる。
以上、何とも、寝ぼけた解説である。

「神の国を何になぞらえようか。また、どんなたとえで言いあらわそうか。それは一粒のからし種のようなものである。からし種は土にまかれるときは、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、伸びてどんな野菜よりも大きくなり、そのかげに空の鳥が宿るほど大きな枝を張る」
「イエスは人々の聞く能力に応じて、このような多くのたとえ話をもって、みことばを語られ、たとえ話なしには語られなかった。しかし、自分の弟子たちだけのときには、すべのことを解き明かされた。」

人々の聞く能力に応じて・・・そう、豚に真珠は与えられない。

神の国のたとえ話というが、たとえ話であろうか。
事実、自然の事実を言うのである。それが、神の国であるという。
はい、ここから神の国ですという、線引きは出来ませんという。すでに、神の国が、この世に存在するという。
この世の自然の恵みに、神の国がある。
すなわち、ここにこそ、神の国があるという。

弟子たちの時には、すべてを解き明かされたというが、一体、他の何を解き明かすのか。
もし、超自然の神の国の存在を説明するとしたなら、妄想である。
超自然を理解することは出来ない。
すべては、自然の働きの延長にある。
それを、そのまま、神と観た、大和民族、日本民族、それが、古神道である。自然を神と観たのである。自然と共生、共感する民族は、あえてたとえはいらない。
そのこと自体に、恵みがある。

イエスは、神の国、つまり天国を説明すべく、たとえで話たのであろう。
それなら、天国は、今、ここにあるということである。
ここで重大なことを言うが、キリスト教徒は、神の国、天国を、この世ではない、特別の場所とか、空間だと思い込むのである。
そこでは永遠の命を与えられる等々。

一神教の大きな誤りは、超越した絶対者である神という定義を置く。
しかし、それを誰も、認識することは出来ない。なんとなれば、超越した存在を確認するには、こちらも超越しなければならないからだ。

たとえで話たというが、たとえでも何でもない。そのままである。それが真実、神の国である。
すでに神の国に在る存在が人間である。

イエスが、「信仰薄い者たちよ」と言う。信仰とは、何か。イエスは、何を信仰と言ったのか。
親鸞も、ただ信じる心を説いた。法然の教えを信じるのである。それが嘘でも信じる。なんとなれば、この身は、地獄に行くべき身だからである。しかし、弥陀の本願によって救われるというならば、地獄行きの私でも、救われると説く法然の言葉を信じるという。

何とも、おめでたい信仰であるが、当時は、それで精一杯だった。
しかし、今に至るまで、その親鸞の苦悩というか、救われない者でも、救われるという云々という、哲学的ともいえる言葉の世界に嵌る人がいる。
親鸞の思索の過程を、共に楽しむのは、それでよい。
しかし、信仰というものを、明確にしなければならない。
どうしても、超越者を置くというところに、何故、疑問を持たないのか。
何故、超越者が必要なのか。

嘘でも、妄想でも、在ると仮定して、信じ込むことが信仰であろうか。

これは信仰ではなく、拝むという行為になる。

自分が空想した世界を拝むとは、何とも悲しいものがある。

実際、私は、死者が自分の墓を拝んでいる様を観たことがある。死んでから、自分の墓を拝むのである。実に、人間は、拝むものが欲しいのであると、その時、感じた。

さて言う。
自然の有様を神の国のたとえとして話すということは、自然にすでに神の国の栄光が現れているということである。
つまり、どこか別の空間、別の次元に神の国が在るのではない。
今、ここが神の国である。
それには、心の目覚め、それを改心という、それが必要である。

イエスは、政治的なものに、一切触れなかった。
イエスは、心の状態のみを見つめていた。

神の国を、教会のことでもあるという、解釈は、全くの誤りである。イエスは、組織についても、一切語らない。
ただ、心の在り方のみに、目を向けていた。

イエスの弟子の多くは、当時の下層階級である。漁師が多い。自然の恵み無しには、生活の出来ない人々である。
当時の宗教観、及び、信仰が、いかに、イエスが言う信仰とかけ離れていたか。
どうでもいい、規則と作法に、汲々として、それを信仰と思い込むユダヤ教徒たちに、何とか、真実の信仰、つまり、儀式、作法ではない、心の状態を伝えるべく、当時の言葉を通して教えるという、実に、大変な労力を使ったのである。

モーゼの律法という名で、煩雑な規則作法を創造していた、偽の信仰生活を、真っ当にすべく、心血を注いだのである。

しかし、今のキリスト教徒も、当時のユダヤ教徒と同じく、教会という組織の中で、汲々として、規則作法を作り、それが信仰生活だと思い込む。
同じ繰り返しをしていることに気づかない。

拝み崇める神ではない。
共に生きる神である。
裁きの神ではない。共に生きる愛の神である。
心に宿るべく在る神である。

「主よ、主よ、という者が天国に入るのではない。神の国と、その義を行う者が入る」と言う。
雁字搦めの、形式ではなく、心の在り方、心の有り様によって、心に天国を有する者になるべくの、イエスの説教である。
これが宗教というものである。
しかし、古神道では、それも語らない。宗教ではないからだ。
それを伝統として、存続されている民族の伝統を、今更ながら、見事だと思うのである。

2007年06月02日

キリストの絶唱9

「汚れた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスを迎えた。」

聖書には、よく汚れた霊につかれた、または、悪霊とか、悪魔、サタンにつかれた人が登場する。
それをイエスが祓うという奇跡だ。

汚れた霊とは、仏教では、不成仏霊ということであろうか。
要するに、成仏せずに、この世に留まっている霊ということだ。幽霊とか、お化けになるのか。
汚れた霊を悪霊というのが、聖書の特徴である。

ここで、霊というものの存在が確かだということである。
目に見えない霊を、明確にしている。イエスに反対する者も、霊の存在は、否定しないのである。

霊、というものも、観念である。
ただ今は、スピリチュアルという言葉が流行っているが、明確に出来ないでいる。単に、目に見えないもの、それを霊としているのみ。まして、死者と話すということを、平気でする。死者と、話すということは、死者と同じレベルであるということである。送信と受信は、同じレベルで行われる。レベルが違えば、合わない。ということは、話をする死者は、生きている者と、違わないレベルにいるということである。つまり、不成仏霊に近いのである。もし、死者が、遥かなレベルに存在するならば、受信は、出来ないのである。

もはや、目に見えないものは、無いということが出来ない時代にある。目に見えないものが沢山あることが、科学で解ったからである。見えないから無いとは、言えない。
ただし科学的に霊の存在を云々するというのは、いただけない。科学は、その次元までに至らないからである。

実に、霊能者には注意が必要である。
その人にしか、解らない事を言うのである。

さて、イエスが汚れた霊を取り除くことの意味は、何であるのか。

「かれは墓に住んでいたが、もはやだれもかれを縛っておくことはできなかった。鎖をもってしてもだめであった。かれはたびたび足かせや鎖で縛られたが、そのつど鎖を引きちぎり、また足かせを打ち砕いたからである。それで、だれもかれを取り押さえることができなかった。かれは夜となく、昼となく、墓や山で叫びたて、自分のからだを石で傷つけていた。かれはイエスを遠方から見つけると、走りきてひれふし、「いと高き神の子イエスよ、わたしをどうしようというのですか、神かけてお願いです。どうかわたしを苦しめないでください。」と大声で叫んだ。それは、イエスが「汚れた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。またイエスが「おまえの名は何か」とお尋ねになると、かれは、「わたしの名はレギオンです。わたしたちは大勢いますから」と答え、そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、懇願した。」

今ならば、精神疾患である。
これを読む限り、精神疾患の人は、霊に憑かれているといえる。
二千年前のことである。
医学の知識も無かった。今のようにである。
当時、このような人を治すことができなかったということが解る。
ところが、主イエスは、悪霊を祓い、治すのである。
当時のユダヤ教にも、大司祭や、律法学者等々がいたのである。しかし、誰も、霊につかれた人を治すことが出来なかったということである。
これが問題だ。

「おびただしい豚の群れがそこの山のふもとで草を食べていた。そこで、汚れた霊どもは、「わたしたちが豚に乗り移れるように、そのほうに行かせてください」と願った。イエスがそれをお許しになると、汚れた霊どもはその人から出て行き、豚の中にはいった。すると、およそ二千頭の豚の群れが、がけから湖へなだれ落ち、おぼれて死んでしまった。」

実に、おかしい話である。
霊は、死んでいるから霊であろう。
豚に入り、もう一度死んでも霊であろう。
これで消滅したのだろうか。そんなはずはない。

その後で、人々が来て、その話を聞き、恐れをなしたという。
芝居じみている。

こういう霊の集団がいるということである。
今もそうであろう。
ただ、それが別の形に変わった。
生きている人間より、死んだ人間の方が多い。実際、霊の方が圧倒に多いはずである。
と、これは、質より量の話であるが、単純に言うとそうである。
さて、このイエスの行動には、どんな意味があるのか。
悪霊が、神かけてのお願いですというのも、おかしい。悪霊というより、仏教で言う不成仏霊という方が、当たっているようである。

この箇所が、霊的能力のある者にも疑問を持たせる。
何故、豚に入れたのか。そして豚を死なせたのかである。
イエスほどの力のある者が、何ゆえに、こんな程度の低い扱いをするのだろうか。
一つだけ言えることは、この地方の人は、異邦人といわれる人が暮らしている土地であるということだ。ユダヤ人からは、異邦人である。
別の信仰を持つ者。仲間ではない者。
聖書研究では、政治的な存在としてイエスを見ないからだという。政治的に利用されないからだということ。
イエスは、この後で、霊につかれた男に、自分の身の上に起こったことを話せと言うのである。大変な宣伝である。

この記述から解ることは、ユダヤ人とは、実に偏狭で、差別意識が強いかということである。新約聖書の中には、多く、このような記述がある。
これで、一神教のユダヤ教というものが見える。排他的であり、非寛容である。
そして、選民意識を持つ。

イエスも、ユダヤ人である。そのユダヤ人に、何を説くのであろうか。聞く耳のある者は、聞くがいいという説教だが、ユダヤ人が聞くはずもないことを、一番知っていたはずである。規則と作法に、雁字搦めにされている者である。それを信仰として、成す者である。

イエスの宣教は、実に空しい。

そして、奇跡である。それゆえにも、恐れられ、批判される。そして、結果は、磔である。
何を、イエスは、成したかったのか。

当時も、こうであるならば、今なら、もっと理解されないはずである。

エクソシストという、悪魔祓いといわれる行為は、今でもある。
しかし、一向に成果を挙げていないはずである。
悪霊として対座するからである。
何度も言うが、同じレベルでなければ、送信、受信は適わないのである。
この世の次元で成す霊は、この世の次元以下でも、以上でもない。ゆえに、この世の人のように扱うのである。
つまり肉体というものが無い状態の、想念体である。
霊とは、想念体のことである。特有の気を発する。
それが浮遊している場合もあり、自縛している場合もある。そして、怨念を持ち、怨霊と言われる場合もある。
祟り霊といわれる場合もある。

イエスの霊祓いは、いつも、その力で、追い払う形である。どうも理解できないのである。ここでも、対立の思想なのが不思議だ。
何故、悪と善という形の対立をさせるのか。
神と魔の対立である。
キリスト教徒の対立概念は、イエスから始まっているのか。いや、その根底には、ユダヤ教の対立概念がある。
イエスも、ユダヤ人であることから、免れていないといえる。

しかし、霊的に解釈すれば、主イエスの行動は、当時の人に明確に、神と魔とを対立させて教えを伝えたのであることが解る。
誰もが解るようにしたのである。

ところ変われば、その方法も変わる。
古神道では、対立させることはない。
説き伏せて、奉るのである。鎮まることを願うのである。また、次元を移動させる。霊的空間に、戻すのである。戻らない場合は、この世に、別空間を作り、奉る。
そして自然移行を願う。
霊は、荒ぶる霊でも、時を経て、本来の場に戻る。気づく。それを促すのである。
力づくでの行動は、取らない。
だから、イエスのような、超人的な存在はいない。
古神道には、教祖がいない訳である。

しかし、祟り霊という観念も、仏教伝来以降からのものである。それ以前は、そんな観念は無い。日本人の信仰形態が、恐れから始まるという学者もいるが、全く見当違いである。それは、平安期以降の話であり、それ以前は、恐れからの信仰などない。

すべての事柄が、讃歌であった。万葉集を読めば、そこに証拠がある。
生老病死に苦を観ることもなかった。
苦ではなく、それは、悲であった。
以下、省略する。

2007年06月03日

キリストの絶唱10

マルコによる福音書は、奇跡のオンパレードである。

十二年間、出血症をわずらっている女がいた。多くの医者に大変苦しめられた。持っているものを、すべて使い果たしても、治らない。イエスの噂を聞いて、群衆に交じって、イエスの服を触る。
「私の服を触れたのは誰か」とイエスが言う。弟子は、こんなに大勢の人がいますので、誰かは解りませんという。
女は、身の上に起こったことを知り、イエスの前に出る。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行け。病気が治り、元気でいるように」とイエスは言う。

「あなたの信仰があなたを救った」
この言葉を書くために、マルコは、これを書いたとしか思えない。

あなたの信仰であり、イエスの恵みではない。
しかし、別の箇所では「あなたが私を選んだのではない。私があなたを選んだ」と言う。
賜りたる信仰である。

聖書解釈は、いかようにでも出来る証拠である。
兎も角、奇跡によってしか、イエスを判断出来なかった当時の人の様が見える。

現在も、奇跡を行う者を信じる。
空間から、物を取り出す、インドのサイババという人も、そうである。
その奇跡を見て、人は、驚嘆し、信じる者と成る。
しかし、イエスは「見ないで信じる人は、幸いである」とも言う。

ここで、私は、きっぱりと言う。
奇跡は、魔界から出る。
霊界の常識である。
それでは、イエスは、魔界の者か。
違う。
どうしても、奇跡を見せなければならなかったのである。その悲しみは、いかばかりか。
いかに当時のユダヤ教が、堕落していたかである。
それは、今に至る。そして、イエスを神として戴くキリスト教も、然り。
主イエスの名において奇跡を成しても、教会は認めないだろう。
だが、マザーテレサのように、世界的に有名になると、死後、速やかに、福者とし、いずれ聖人として認定する。
マザーテレサは、カトリックの広告塔になったといえる。

病にある者は、病の癒えることを願うが、病の意味を問うことは少ない。
病は、何故病なのかを問うことが必要であるし、そのための病である。

仏陀は、生老病死を苦と観た。病も苦とみた。それは、人間の生涯なのである。
人間の生涯は、苦であるという。それも、一つのものの見方である。

奇跡を見せることほど、悲しいことは無い。
奇跡は、悪魔の最も好むものである。
それで、すぐに結果が出るからである。
そんな安易なことならば、生まれる必要も無い。
何故、この世に生まれたのか。それは、生老病死を体験するためであり、その意味を知るためである。

イエスは、最も悪魔に近づいたといえる。

人は必ず死ぬ。出来れば、楽に安らかに死にたい。自然死、老衰が一番良いが、そう簡単なものではない。様々なことを経験して生きるために、生まれたのであるから、病も必要である。

生長の家という新興宗教がある。ある霊能者は、開祖の何がしが、高い霊界に上がったというが、私は、それを知らない。
その開祖は、病は、影だと言う。本来は無いものであると。実相世界は、病など無いと。しかし、では、何故生まれたのか。
肉体を持つ人間として生まれた。生老病死が、当たり前であろう。

よしんば、奇跡によって病が癒されても、人は死ぬのである。
人は神の子であるから、云々という。その通りである。しかし、だからこそ、生老病死を経験するために生まれたのであろう。
病になれば病を生きる。それでよし。
病を癒して、10年長く生きても、何であろうか。
実相世界が主であれば、死ぬことが一番であろう。
長く生きることはない。

生きるというこが、何であるかを、開祖たちは知らないのである。
それで、教祖として、のうのうと生きたのである。
運が良いとしか、言いようが無い。

教祖として成功したのである。良かった良かったである。

教えもどきに、信仰して、救われた人は多い。しかし、また転生するであろう。
何度も繰り返して、同じことを繰り返す。
仏陀は、そのからくりから、逃れることが本当の道だと教えた。
要するに、二度と転生しないことである。

しかし私は言う。
永遠に転生してもいい。迷いを迷っていればいい。
繰り返しをして楽しめばよい。
愚かなままで、いい。そして、精根尽きて、もういいと思った時、消滅を願う。

全くの消滅である。

宇宙の外でいいのである。
宇宙の外は、無である。
神も仏の世界もいい。消滅を願う。
それが、最大唯一の救いであろう。

すべては、観念に尽きる。

キリストの絶唱 番外編

創世記の話を続けるつもりだったが、書き込みに、キリストの奇跡は、創作だった、史実ではなかったという。
聖書研究家、研究者たちの間でも、多く、奇跡は、史実ではないという者あり。
嘘である。
奇跡はあった。

奇跡は、史実ではないという者、奇跡はあったという者、いずれもその証拠を提出できない。奇跡だからだ。

超自然現象は無いと断定できる、何物も無い。
そして、多くは、自分の頭で理解できるものしか、理解できないのである。
奇跡を知らない人は、奇跡を無いという。
知らないものは、無いものだからだ。

日本人好みのイエス像を描いた、遠藤周作という作家も、イエスは、ただ弱い男だったと書く。何も出来ず、泣く人と共に泣いたという。そんな嘘を平気で書く。それこそ、創作である。小説家の創作を、信じて、真実のイエスを知らないのである。

新約聖書を、じっくりと読むと、あることが解る。
イエスの言葉である。
あれ程の言葉を吐くには、それだけの証拠が無ければならない。
一粒の信仰があれば、山をも動かすという。それを、自らが示して、始めて、言葉が成る。

イエスは、湖の上を歩いたという。奇跡である。
しかし、琵琶湖を歩いた人もいる。
ある程度の、能力さえあれば、そんなことは、簡単に出来る。
ただし、私は、そんなことを勧めない。

役の行者は、空を飛んだ。
魔界と接触すれば、軽いことである。
イエス程度の奇跡ならば、信じられる。普通である。

日蓮は、佐渡島に流された時、満潮の海に棒で縛られて置かれた。しかし、海水は、日蓮を守った。その時の、祈りの言葉が凄い。
悪霊、邪霊、あらゆる霊よ、日蓮がために働け。さすれば、お前たちも、救われる等々。
また、雨乞いの祈りも、成就させている。他の僧では駄目で、日蓮が成功させた。
ある新興宗教の教祖も、空間から、物質を出していた。
そんなことは、当たり前に出来る世界がある。
それを、科学で証明出来ないだけである。

私は、心霊手術を受けたことがある。
実際、自分の体で確認した。
指で、体を切る。血が出る。そして、病の物質化したものを、取り出す。当たり前である。
何も、不思議は無い。

聖書の記述を簡単に、創作だとなど言わない方が、身のためである。
少なくとも、書いた者は、2000年を経ている。つまり、相当な霊体になっている場合あり。もし、悪霊の方になっていた場合は、簡単に言えば、祟られる。

ある法華経信奉者が、空海の批判をした。堂々とである。
単に、単純な信仰者である。空海を批判出来るようなことをしていない。
たちまち、原因不明の体の痛みに、のた打ち回った。

長く歴史に残る教祖、開祖は、実に霊力がある。
こちらが、相当な力が無い場合は、批判は禁物である。
特に、公の場では注意である。
私は、それを知って、日本仏教を批判している。
しかし、開祖たちを、批判することは無い。それを別な形で、認めている。

さて、聖書の奇跡は、事実ではないという。それで話が終われば、目出度しであるが、そうは問屋が卸さない。
新約聖書を読み込まない者が、半端な知識で物を言う。
注意せよ。注意せよ。

ある奇跡の時に、イエスは、弟子たちに言う。
このようなことは、祈りと断食が必要であると。
悪魔祓いの奇跡である。
これ以上説明すると、オカルトになるので省略する。

2007年06月13日

キリストの絶唱11

奇跡は続く。
今度は、12歳の死んだ娘を生き返らせる。

イエスは多くの人が、泣いたり叫んだり、大騒ぎしているのをごらんになり、中に入って、「何を泣きさわいでいるのか。子供は死んだのではない。ねむっているのだ」とおおせられた。人々はかれをあざ笑った。・・・
子供のいるところにはいり、子供の手をとって、「タリタ・クム」とおおせられた。それは、「娘よ、私は命じる。起きよ」という意味である。すると娘は起き上がって歩き出した。

イエスは、このことを誰にもしらせるなと、かたくかれらをいましめ、また、娘に食べ物を与えよとおおせられた。

人に知らせるなという意味は、近くにいた人のメシアニズムがあまりに未熟だったからだと、聖書解釈にある。
嘘である。
死人が生き返ったのだ。話は、瞬く間に広がる。
こういう箇所に、イエスの悪魔的行為の瞬間を見るのである。大きな誤解を招く。

当時の、エセ信仰家たちの反感は、その神か悪魔かという、混乱である。
もし今、死人を生き返らせる人がいたら、どうだろうか。
あまりの、驚きに、判断を迷うだろう。
一時期、病を治す力を得た、普通のサラリーマンがいた。映画にもなった。本人の自覚なしに、そのような能力を得たということが、おかしい。必ず、背後に、霊的存在がある。それが、何であるのか。それが問題である。

奇跡を見せられて信じるとしたら、あまりに、愚かである。

だが、科学のみを信じる者も、あまりに、愚かである。

要するに、蒙昧であるものがある。
蒙昧とは、解らないことである。解らないことは、解らないと、言うべきである。
人は、見えないものを見ない。
心の内にあものを、見る。

イエスの奇跡を、どう解釈するかによって、イエスの本当の姿が解る。
聖書の奇跡の記述は、教えを伝えるための、方便だという考え方があるが、それも違う。
要するに、自分の意識に起こらないことは、無いと信じきるのである。
イエスの復活も、信じられないのである。
死んだ人間が生き返ることはないという、観念である。

ここに、キリスト教の限界がある。
人は、生き通しの存在であるという教義がない。
つまり、転生を教会は、認めない。教会が認定しなければ、無いものなのである。
そして、人間は最後の審判の時に、肉体を持って甦ると教える。
全くの誤りである。

だがしかし、教会は、人は塵から造られ、塵に帰ると教える。
徹底した矛盾を平気で教える。

原始キリスト教団、初めは、多くの派閥があった。統一されたものではない。
専門的なことは、暇な専門家に任せる。
ローマカトリックは、皇帝と結びついて、正統であるとされた、一派である。それが、中世、異端審判として、どれ程多くの人を殺害したか知れない。
ローマのキリスト教徒迫害の様より、酷い。
お解りか。
カトリック教会という団体の真実を。そして、ルターが起こした、プロテストである。教会の、あまりの絶対権威と、その、とんでもないあり方を、批判し、それでは、イエスの教えから、あまりに遠いと、革命を起こした。それに、賛同した人の多いこと。

ローマカトリックが偽者であること、明々白日である。
イエスは、政治に関して、きっぱりと言った。
「私の国は天にあり」と。それで、総督ピラトは、手を洗う。つまり、私は、関係ない者であるという意味である。その後は、ユダヤ人に任せた。すると、皆々、イエスを殺せと叫ぶ。イエスは、ユダヤ人、ユダヤ教徒に殺されたのである。

ユダヤ教を完成させるために、現れた者が、ユダヤ教徒に殺されるという様を、何と見るか。
旧約聖書の神々の勢力争いである。
創世記
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」
神は、第七の日に、すべてを完成させ、仕事を離れて、安息した。
これが天地創造の由来である。と書かれる。
この、一週間という期間に、今は、世界中が、従っている。

この由来は、アフリカのものである。
それを借用したのである。

エジプトから、モーゼがイスラエルの民、ユダヤ人を引き連れて、さ迷うのである。今も、さ迷う、ユダヤ人である。
神から選ばれた民である。
地方の神々による民族である。
イエスは、それを世界の神に格上げした。
それが、ローマカトリックである。本当であろうか。

選民意識というものは、実に恐ろしい。
宗教と、民族は、この選民意識に、やられる。
対立と戦争が終わらない訳である。
いずれ、イスラムについて書く時に、さらに詳しく言う。

キリストの絶唱12

イエスは、古里、ナザレに入った。
そこで、安息日になり、会堂で教え始めた。それを聞いた人々は
「この人は、どういうことを授かったのだろう。かれは大工ではないか。マリアの子、またヤコブ、ヨセフ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。そしてまた、かれの姉妹たちは、わたしたちといっしょにここにいるではないか」こうしてかれらはイエスを理解しようとしなかった。それで、イエスはかれらに「預言者が尊敬されないのは、郷里、親族の間、またその家においてだけである」と仰せられた。

そこでは数人の病人に手を置いて、かれらをなおされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことができなかった。そして、かれらの不信仰に驚かれた。

自分たちと同じ者が、どうして神の子であるのか・・・
自分たちと同じ地域の、親族の者が、どうして神の子であるのか・・・

不思議なもので、人は、自分の量りでしか計れない。それ以上になると、理解不能、または、それを、つまり自分以上に才能がある、優れていると思うと、嫉妬する。甚だしい場合は、排斥するのである。

ここで、面白いのは、奇跡を行うことができなかったということである。
奇跡のエネルギーが、極度に落ちるのである。
信じるという力が、いかに強いものかが、解る。

不信仰に驚かれたというのは、見抜く力が無いということである。
イエスは、もはや皆が知るところのイエスではない。別なイエスになっていたのである。それを、見抜くことが出来ないのは、自分たちの身内だという、曇りである。

これで解ることは、人間は、ある年齢からは、成長しないものだということである。余程、毎日を学ぶ繰り返しをしていなければ、人間は、ある年齢から、成長が止まる。
ただ、年を取るだけである。
人によって、10年という年月が違うのである。
容姿は、10前と変わらなくても、内的、心理的状況は変化する。それを、見抜く人、見抜けない人がいる。

イエスの内的変化を見抜くことが出来ない、それを、不信仰だとイエスは言う。
それはまた、危機意識皆無なのである。
勿論、誇大妄想の、とんでもない人物も現れる。
だが、見ても信じないのである。
イエスの奇跡も、郷里では、奇跡にならなかった。単なる病気治しである。

そのほかには何も奇跡を行うことができなかった。と、ある。
行うことが出来ないほど、皆、愚鈍だった。

ここで面白いことは、母マリアの名は出るが、父ヨゼフの名は出ない。すでに、亡くなっていたということだと、聖書解釈はいう。
イエスの宣教は、30歳から、三年間であるから、早く亡くなっていたといことだ。
聖書には、父ヨゼフの存在が、実に希薄である。
何故か。
役割として、嵌るところがない。
イエス誕生の場面にだけ出る。
まして、マリアは、処女降誕である。それをヨゼフは、受け入れた。

ヨゼフの最大の役割は、家系である。
アブラハム、ダビデからの家系にある。
ヨゼフがその子孫である。
母マリアの家系ではない。父ヨゼフの家系が、ダビデの家系である。
アブラハムからダビデまで、14代、ダビデからバビロンへの移住まで、14代、バビロンへ移されてから、イエスまで、14代である。
その子孫である、ヨゼフの存在が必要だった。

しかし、果たして、それが必要だったのか。
その家系から、救世主が現れる。それがシナリオだった。
しかし、確かめる術はない。ただ、信じるしかない。

イエスには、兄弟がいたのであるから、今も、それらの子孫はいるということになる。
だが、イエスで、その家系は絶えた。
以後、語られることはない。
それは、家系の完成だからだ。イエスによって、アブラハムの家系は完成した。

アブラハムの家系を辿ると、ノアに行き着く。そして、更に辿ると、アダムに行き着く。
聖書の創世記の最初の人である。

創世記には、地上に人が増えて、悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを見て、神が、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛めて、言われた。
「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけではなく、家畜も這うものも、空の鳥も。わたしはこれらのものを造ったことを後悔する」
そして、ノアの箱舟の話となる。
全知全能の神が後悔した・・・
さて、教会は、何と答える。

この話は、次に続ける。

2007年06月21日

キリストの絶唱13

天地創造の神が、それを後悔するという図は、笑える。
全知全能でもなんでもない。人間と同じである。

地上に人の悪が増しということは、どういうことであるのか。
つまり、神を拝まないということであろう。
それが、人格神たるゆえんである。

天地創造から、進化論との戦いが、今でも行われているが、古神道から見れば、また、真っ当な霊能者から見れば、真実は、明白である。

人類発生は、一面的ではない。
まず、進化論である。その通り、進化論で出来た人間もいる。
天地創造で、造られた人間もいる。
そして、ギリシャアに代表される、地球外惑星から、降り立った人類もいる。

進化論のアメーバーは、イザナギの命と、イザナミの命の最初の子である、ヒルコが、障害を持って生まれた、アメーバーである。それを、海に流した。辿りついたところが、今のアフリカであろう。

天地創造で造られた人間は、旧約の神々の、つまり、彼らはアンドロイドであるから、この地球に、自分たちに似せた人間を造ったのである。
われわれに似せてという、言葉通りである。

さて、日本人は、アメーバーから進化した人間と、天孫降臨した高天原霊界からの霊人とのハーフということになる。

旧約聖書の天地創造は、たかだか、一万年程前を言う。
日本列島が、大陸から、離れたのは、一万二千年程前である。
ただ今、人類の歴史は、どの程度のものであろう。

実に、しかし、旧約聖書の創世記は、アフリカの言い伝えからの借用であり、それを、イスラエルの民に、結びつけたものである。
選ばれた民、イスラエルの民と壮大なドラマに仕立てたのである。

ノアの箱舟で、生き残った者に、神は「生めよ増やせよ地に満ちよ」と言う。そして、その通りになった。
イスラエルの民どころではない。
セム族といわれる民は、メソポタミア文明を築き、後のイスラム帝国までに至る。

旧約聖書がイスラムの聖典でもある訳である。

出エジプト記で、モーゼが、あなたたちの先祖の神であるという、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神から、啓示を受ける。
主なる神はモーゼに言う。
「さあ、行って、イスラエルの長老たちを集め、言うがよい。「あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしに現れて、こう言われた。わたしはあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た。あなたたちを苦しみのエジプトから、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと決したした」と。
ここから、イスラエルの民の放浪が始まる。

簡単に言う。
主なる神は、先住の人の地に行き、そこを与えると。
恐ろしい囁きである。

ユダヤの12支族という言葉がある。
昔、日本も、その一つだというアホがいた。
それらは、選ばれた民であるという。

旧約の神は、アフリカのある一部の地霊である。
唯一絶対の神ではない。
多くの地霊の一つである。

その流れの中にある、イエスキリストの教えであること、重々考慮せよ。

2007年06月22日

キリストの絶唱14

私は、キリストの絶唱を書いているのであり、キリスト教を書いているのではない。

信仰とは、極めて個人的な情緒である。
それを犯すことは、何人も出来ない。
ただし、信仰にも、八方位の広がりがある。

宗教というものを辿れば、行き着くのは、太陽信仰である。
あらゆる地域に太陽信仰があった。
当然である。太陽が無くなれば、すべは死滅する。実に、真っ当な信仰である。
その時の信仰は、拝むという行為である。崇拝するという単純な行為が、信仰であった。
日蝕があれば、この世の終わりを思った。
何という素直さであろう。
そして、自分たちのあり方を反省した。

さて、現在、キリスト教とは、ローマカトリック、そして、プロテスタントに、大きく分けられる。
勿論、キリスト教の新興宗教は、数多くある。特に、それらは、プロテスタントから派生した。
エホバの証人などは、日本でも有名になった。輸血を拒否するということで。

ローマカトリックの前身は、アタナシウス派である。三位一体を掲げる。
それが、皇帝と結び、ローマの国教となり、保護された。
異端とされたのは、アリウス派であり、ネストリウス派である。しかし、まだ、派閥はあった。

プロテスタントは、ドイツ人ルターによって、起こされる。
その運動は、新しいキリスト教を多く生むことになる。
カルバン派も、その一つであり、その思想は、哲学者をも動かした。

現在、プロテスタントは、日本キリスト教団として、活動しているが、それに加わらない団体もある。
プロテスタントが、正統プロテスタントと名乗るから、おかしい。
要するに、モルモン教や、エホバの証人とは、違う。また、新しいキリスト教とは、違うということを言うのである。

いずれにせよ、彼らは、旧約聖書の神、アフリカの土霊を神として、それも唯一神として、伝道する。
ユダヤ人は、それがユダヤの神であるという。民族神に仕立てたのである。
また、イスラムも、旧約聖書の神をいう。

私の霊学から言えば、神といわれる存在の想念は、土地の生きた人の霊体の塊であること多々あり。
土霊という意味である。
ユングが言う、民族の集合意識である。
ただし、それを神と定義すればである。
霊学からは、神は、無いといえる。
一番近い言葉で言えば、命と言える。すべてのエネルギーの元である、命、大和言葉では、いのち、と書いた方がよい。
大命、おおいなるいのち、となる。

日本で言う神は、尊称である。
ゆえに、尊、命とも書く。みこと、と読ませて、神とする。

日本には、欧米人が言う神、キリスト教諸派が言うところの、神観念は無い。
これを、ゆめゆめ誤ってはならない。
日本には、神不在であるから、云々という、耳障りの良い言葉に誤魔化されないことである。
日本には、欧米人が言う、神観念は、必要無い。
神観念が無いから、大和魂という、おおいなる、やわらぎの、たま、があるのである。
たま、とは、心と捕らえていい。

大和言葉の、たま、について言う。
たは、手のことである。まは、間のことである。たまとは、手の手の間である。つまり、収穫したものを、分配するという意味である。それが、たまの、意味である。
魂というのは、分配を言う。
そして、分配される集団の心を、総称して、魂という。
これ、明確である。

欧米で言う、スピリットとは、霊とか、魂も含めるが、聖霊という場合もある。
また、精霊である。
目に見えない働きである。
しかし、彼らは、そのスピリットを神と思い込むが、神は無いのであるから、神もどき、あるいは、神に似たもの、そして、とんでもない霊の集団の場合、多々あり。スピリットは、神聖なものではない。つまり、正しいものではない場合、多々あり。端的に言えば、悪霊である。それをも、スピリットと言う。
悪霊とは、何か。キリスト教では、神に対立するもの、神から人間を切り離すものとしているが、実は、この世を支配している場合、多々あり。
だから、悪霊というより、この世の支配霊といった方がよい。

キリストが、悪霊祓いをする。
それは、霊界に行かずに、この世の次元を住処とする霊である。大半が、霊の塊になっているから、強力である。
仏教的に言えば、不成仏霊である。
ただし、成仏というのも、不明瞭である。成仏とは、仏になるということであるから、往生と言う方が当たっている。
成仏せずとも、往生すればよい。
往生霊とでも言う。

さて、多く宗教は、この世の支配霊に、支配されていること多々あり。それを、神と勘違いしている。それだけのこと。

主イエスは、私の国は天にありと、この世の政治とは、関わることがなかった。それが、イエスキリストの真実である。
故に、政治と関わるキリスト教は、皆々、贋物である。

主イエスは、人の心に抱く、心的状態を言うのである。
つまり、生きることの主体は、私であるということ。それを、総称して、信仰と言った。信仰薄い人々よと言うのは、私の心に従う私を、促したのである。
簡単に言えば、主体性である。
主イエスの説教は、すべて、方便である。

キリストの最大の教えは、神の国と、その義を求めること。そのためには、私があなたたちを愛したように、互いに愛し合うことであるという。
簡単に言う。
人は一人では生きなれない。人は人と人の関わりで生きる。
当時は、血族社会である。別の血族の者は、別の者である。新しい時代は、それでは生きられない。故に、血族を超えて愛し合うことを言う。
これ、キリストの最大の教えである。
世界的宗教になることは、愛し合うということでは、実に有意義なことである。
しかし、現実は、どうであろうか。
キリスト教徒は、愛のイエスの教えを、破棄している。
これが、現実である。
イエスキリストの教えは、今も続いている。
今も、イエスは、語りかけている。

2007年06月23日

キリストの絶唱15

イエスは、十二人をよんで、二人ずつ派遣し、汚れた霊を制する力をさずけ、旅をするために、杖以外のなにものももたず、パンも袋ももたず、帯の中に小銭も持たず、「サンダルをはきいけ。二枚の上着を着てはいけない」とお命じになり、そして「誰の家に行くにしても、出発するまでは、そこにとどまれ。ある所で、あなたたちをむかえず、あなたたちの話をきかないなら、そこを去って、かれらへの証拠として足のちりをはらえ」とおおせられた。
弟子たちは、くいあらためを、のべに行き、多くの悪魔をおい出し、油をぬって、おびただしい数の病人をなおした。

悪魔を追い出し、病を治す力を与えたという。
そして、問題は、くいあらため、を述べさせた。

新約聖書のテーマの一つは、天の国は近づいた、悔い改めよ、である。

悔い改めるとは、いかなることか。
キリスト教の教義は、それには、一切触れない。
ただ、罪人である。原罪を持つ人間である。キリストの十字架が、それを負った。ゆえに、洗礼を受けることと、言う。洗礼は、入信の証となる。

上記の教義は、人間の創作したものである。
それを、成して、教会という団体がある。

今、イエスは、キリスト教徒に言うであろう。
悔い改めよ、と。
お解りか。
当時の、ユダヤ教徒の、偽善的信仰を、悔い、そして、改めよというのである。つまり、それらは、皆、人間が作った、規則だからである。
キリスト教団も、今は、それと同じである。

ここで、私の霊学から言う。
悪魔を追い出す力とは、何かということである。
当時、悪魔が跋扈している時代だったといえる。悪魔が跋扈する時代と、地域であったということは、ユダヤ教自体が、悪魔の巣であったといえる。

話を転ずる。
アフリカから、奴隷として、アメリカに送られた黒人たちが、唯一の救いとして、キリストを頼りにした。彼らの信仰は、実に、純粋で正しい。ゴスペルという歌を聴けば、それが、よく解る。
しかし、彼らを奴隷として、酷使した人間、白人も、キリスト教徒である。
だが、彼らがしたことは、悪魔的行為であろう。
要するに、何一つとして、白人のキリスト教徒は、キリストの教えを知らないのである。
キリストの教えではなく、人間が作った教会というものの、教えに従う。

私は、多くのカトリックの司祭、そして、プロテスタントの牧師を知る。だが、彼らは、キリストの教えを知らない。教会の教えを知っている。
愕然とする。
勝手に、教会を作られるプロテスタントの牧師もどきには、呆れて言葉も無い。
汚れた霊を、収めることも出来ず、病を癒すことも出来ずにいる様は、哀れである。そして、主の云々というから、笑う。大いに、笑う。

まずもって、悪魔を追い出すという行為からして、実は、おかしい。
仏教では、不成仏霊は、回向して、浄化する。最低でも、である。
悪魔と、神を対立させるということ自体に、非常に問題がある。

妄信、狂信、誤信の信仰を持っての、クリスチャンであるから、救われない。
キリストの十字架によって、救われるというのは、無い。
手前勝手な解釈であることを、知らない。

悔い改めるとは、神の国とその義を求め、互いに愛することを言う。
神の国とは、自分の心に従うことである。
これについては、いずれ書く。

この世は、地獄である。
悪魔が支配して当然である。
欲望までも悪魔の技と言うから、話にならない。
それでは、生きるということは、何かと問う。
断食して、死ぬべきであろう、キリスト教徒は。
しかし、平然として、肉を食らい、人種差別をして憚らない。どこに、悔い改めがあるのか。

日本人が、キリスト教を理解するのは、至難の業である。
ゆえに、日本人が、キリスト教徒になることは、至難の業である。
キリシタン弾圧の時に、殉教したという、キリシタンが、キリスト教を理解していたとは、思われない。
勝手な解釈、思い込みであろう。

信仰とは、神道である。
戦後、アメリカの占領政策で、神社を回った。その信仰に問題があるのではないかとの疑いである。当然である。自分たちの宗教は、戦争をする宗教である。
しかし、彼らは、愕然とした。
神主は、ただ御幣を振るだけで、何も語らずいる。
式だけがあり、特別な教義も無い。
皆、拍手を打ち、頭を下げて終わりである。
拍子抜けしたという。

そして、ご神体である。
山川草木であるから、また、驚いた。
ただ、石が置かれてある社もある。
神道は、偶像崇拝ではない。
太陽信仰である。つまり、自然崇拝である。

あの素晴らしい仏陀の教え、慈悲の思想が壊滅したのは、ひとえに偶像を作ったからである。それを、美術品として、評価するのは、理解するが、仏教の堕落は、仏像、寺院に、凝り過ぎたのである。
イスラムに、根こそぎ破壊された。
以下、省略する。

キリストの絶唱16

イエスの教えを聞いた多くの人を去らせようとした弟子たちにイエスは言う。
「パンがいくつあるか見てきなさい」かれらはそれを調べてきて、「五つあります。それにさかなが二匹です」と言った。イエスはみんなを組に分けて青草の上にすわらせるように、弟子たちにお命じになった。人々は百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまってすわった。
イエスは五つのパンと二匹のさかなを手に取り、天を仰ぎ、賛美をささげてパンをさき、弟子たちに渡してみんなに配らせ、また二匹のさかなもみんなに分け与えられた。
みんなは満腹するまで食べた。そして残ったパンとさかなを拾い集めると、十二のざるいっぱいになった。パンを食べた人は男五千人であった。

青草の上とあるから、春である。
聖書研究は、パンの奇跡を、聖体の秘跡と捉える。教会のミサの聖体である。
勝手な解釈である。

食べ物は、命に象徴される。
人はパンのみによらず、神の言葉によると言うイエスは、パンが命の糧であることを示している。
食べなければ人は死ぬ。

パンを食べた人は男五千人という。女は数に入らない。
この奇跡の意味を教会の教義上で考えると、何も解らない。

これは、イエスが言うところの天の国の有様である。

天の国、つまり、霊界の有様をいう。
この世、この次元では、物質は、あるものだけである。しかし、霊界は、想念の世界であるから、物質に似せた物は、いくらでも増える。というより、思えば、何でも目の前に現れる世界である。
イエスは、大衆を異次元の世界に誘導したのである。

青草の生える、その場の霊界にイエスは大衆を次元移動した。
これが真相である。

科学的な言い方を好む人には、集団催眠だと言う。
しかし、残ったパンは、どうだろうか。
聖書には、その後のことは、何も書いていない。
群集に上げたのか・・・
弟子たちが、もって行ったとは、書かれていない。

霊界からの物を、この次元に持ち込むことが出来る。
四国の神道家、宮地という方は、生きながら霊界に出入りして、霊界の物を持ってきている。

聖書を読み込むためには、霊学が必要である。
奇跡は無かっただの、神学的に云々だの、教会の手前勝手な教義にこじつけるた解釈は、無いも同然である。

キリストの目になって、読み込むことである。
とすると、大変な霊界能力者であったといえる。
まさに、神の子といってよい。

新興宗教の教祖には、奇跡的な話がつき物であるが、イエス以上の力のある者は、皆無である。
ただし、イエス以前、500年前には、インドに仏陀が現れている。
この二人を持って、以後の宗教の根本が出来た。
イスラムのムハンマドは、別物である。

「それから、イエスは、すぐに弟子たちを舟にのせ、ご自分が人々を帰らせている間に、向かいのベトサイドのほうに、先に行けとお命じになった。人々を去らせてのちイエスは、祈るために山にいかれた。」
私は、感動するのである。
矢張り、弟子たちは、残りのパンを持たなかった。
そして、イエスは、祈るために、山にいかれたとある。
ここに、重大な秘密がある。

イエスは祈るために山に行くのである。
天地が滅びても、私の言葉は滅ぶことなしと言う、イエスが祈る。
イエスの祈りとは、どんなものだったのか。

大和言葉では、いのり、とは、い、のり、と分けられる。
イとは、受け入れるという意味。
のりとは、宣ることである。
まず、天地の神々を受け入れて、彼らに宣るのである。
宣るとは、述べるのである。何をか。言葉である。
その言葉は、言霊であり、神である。神に向かい、言葉である神を宣る。
祈りとは、呼応である。

しかし、仏陀、イエスの祈りとは、瞑想を言う。
この瞑想とは、何か。
沈黙のうちに宿る思い。それが、宇宙とつながるという人もいる。

実は、誰もが、無意識に瞑想を行っていることに気づかない。その程度の差はあれ、瞑想しているのである。
これを説明するには、多くの言葉が必要なため、省略する。

いずれ、ゲッセマニの祈りで、イエスの祈りを観ることにする。

2007年06月29日

キリストの絶唱17

夕暮れになり、舟は海の中央にいたが、イエスだけは陸に残っておられた。
逆風が吹いたので、弟子たちが舟をこぎなやんでいるのをごらんになったイエスは、朝の三時ごろ、海の上を歩いて彼らのほうにきて、行き過ぎようとされた。
海の上を歩いておられるイエスを見て、弟子たちは、幽霊だと思って大声に叫んだ。みな、それを見ておびえたのである。イエスは、すぐ、かれらに、「安心せよ、私だ、恐れるな」とおおせられ、弟子たちとともに舟にお乗りになると、風はやんだ。かれらは心中大いにおどろいた。かれらは、まだパンのことを悟らず、その心は閉ざされていたからである。

パンの奇跡を弟子たちが、悟らなかったというのである。
海の上を歩くということも、奇跡である。

最も古い信頼できるマルコの福音書には、このような奇跡の場面が実に多い。
以前にも書いたが、奇跡は無かったと簡単に言う聖書研究、聖書学者等々、聖書を食い物にする輩が多いが、聖書の、イエスの奇跡は、無かったとする、イエスに対する無礼である。

あり得ないことはない。と、簡単に考える程度が、科学万能時代である。そして、聖書解釈の、勝手な思い込みである。
イエスに奇跡が無ければ、新約聖書の存在は、半減する。
その説教にも、迫力が欠ける。

弟子たちにも、悪霊を祓う力を与えた。
要するに、イエスの奇跡を認めると、今、イエスの弟子である、奇跡の起こせない者どもが、困るのである。
今、イエスの弟子とは、誰か。
ローマ法王に連なる、カトリック司祭、そして、プロテスタントの牧師面々である。

糞の役にも立たない、空虚な言葉による説教のみで、信者から搾取する様は、実に、哀れである。
良いことは、神の恵み、悪いことは、試練であるという。
嘘である。
すべては、自業自得、因果応報である。

キリスト教徒の面々は、平気で、言葉遊びをして、信仰と勘違いする。
私も、数えられない程、そういう多くの信者を見てきた。

奇跡の記述は、イエスの神格を表現するための、方便だと言うとは、恐れ入る。
私は言う。
イエスは、奇跡を行った。
方便ではない。現実的に、奇跡を行ったのである。

しかし、当時の弟子たちのように、奇跡を見ても、何も感じないという状態である。

イエスの弟子である、ヨハネの福音書にも、水の上を歩くという奇跡が書かれている。
「イエスが海の上を歩いて舟に近づいてきた。かれらはこれを見て恐れた。イエスは言った、「わたしだ。恐れることはない」かれらはイエスを舟に乗せようとした。すると、舟はただちにかれらの目ざす陸地に着いた」

ここでは、イエスを舟に乗せようとしたが、舟に乗らずに、ただちに陸地に着いたという。

ヨハネは、イエスの精神性を重んじたゆえの福音書を書いた。
他の、ルカ、マタイ、そしてマルコとは、別の角度からイエスを見ている。
それでさえも、奇跡を証明するのである。

イエスは、多次元を生きていた。それゆえ、奇跡は、何の不思議も無い。
この次元と、あの次元である。
簡単に言う。
三次元と、四次元である。そして、時に、五次元までに至った。
死後に復活して、弟子たちと、会話しているのは、幽体である。つまり、生きながらも、幽体を使用したのである。

そして時に、弟子たちを四次元の空間に連れて、説教をしている。

虫の世界から、人間の世界を理解出来ないように、人間の世界から、上の次元の世界を理解出来ない。しかし、理解出来ないから、無いのではない。知らないのである。知らないものを無いと言うことは、出来ない。
私は言う。
知らないものも在るのである。
それを、理解して、謙虚という姿勢がある。

2007年06月30日

キリストの絶唱18

かれらが舟からあがると、人々はすぐにイエスをみとめ、その全地方をめぐって、イエスのおいでになるときいた所に、床のまま病人を運んできた。イエスがおいでになったところでは、村でも、町でも、部落でも、病人を広場において、お服の房にでもふれさせてくださいと願い、ふれた人々はみないやされた。

マルコ第6章の終わりである。
世界の宗教家、教祖で、これ程、奇跡をおこなった者は、いない。
理屈づくめとか、怪しいカリスマで人を惹きつけるが、奇跡を行って、惹きつけた人は、イエスのみである。

ただ今、日本でも、神霊治療として、病を癒すことを中心にしている宗教団体がある。

すべての病は、霊障であるとする。
霊の障りによって、病があるという。その障る霊を浄化することによって、霊も受けた人間の病も癒されると説く。

神霊というから、神からの力であろう。
それでは、イエスの力は、どこからのものか。
それも、神である。

さて、神と呼んでも、様々な神がいる。
勿論、キリスト教は、一神教を名乗っているゆえ、唯一神であろう。
神霊治療の神の名は、イエスの言う神の名と違う。
生長の家、創立者は、神に名は無いという。その通りである。
なんと呼んでも、その波動に合えば、感応するという。

空海も奇跡を行った。それは、インドの呪術である。マントラを唱えての加持祈祷である。
それで、働く、霊、神と呼ばれる存在がいる。

驚くべきは、人々は、服の房にでも触れれば、治ると信じたことである。
それ程、イエスの噂が広がっていたということである。

病人は、病気を治すことによって、治るのである。それ以外は、思想や哲学によって、病を通して、癒されもする。しかし、多くは、呻吟して生きる。
さて言う。
何故、治るのかという、言葉の理屈はない。ただ、信じる行為で治るのである。すると、暗示である、催眠であるとか云々と言う。
しかし、精神的病ならば、それも叶うが、肉体的病は、どうしようもない。イエスは、それも癒すのである。

除霊、浄霊の力がとてつもなく強力だったといえる。
単なる念力などというものではない。
次元を超えた力である。

人に憑く霊は、霊ではなく、幽霊、幽体が、大半である。
悪霊と言われる霊体になるためには、相当な年月が必要である。それも、霊力の一つである。

霊力も無いのに、あるかのように装うと、詐欺になる。大半の病気治しの霊能者は、その部類である。

イエスの霊能力を検証しても、悪霊の類ではない。
その比ではない。
実は、イエス自身が霊界の主なのである。イエス霊界の主である。
キリスト教霊界ではない。
そこに集うのは、旧約聖書の登場人物が多い。
モーゼや、預言者である。
ただし、旧約の神と名乗った存在との協調はない。
新しい存在としての神への、変更である。
裁きと、試しの神ではない。怒りの神ではない。
その神との決別を言う。
それが、愛の神である。

つまりそれは、戦いである。旧い神と、新しい神との、壮絶な戦いである。
新しい神は、イエスの守護霊、守護神である。
旧約の神々からの、離脱である。
そうしてみると、新約聖書が理解できるのである。

イエスは、旧約聖書の言葉を、時々用いての説教をする。特に、律法学士や、ファリサイ人である。
その言葉をもってしてでなければ、彼らは理解出来なかったのである。
それも、かろうじて、である。
ゆえに、多くたとえ話に頼った。
仏陀も、そうである。

たとえ話とは、解りやすくということである。
しかし、それさえも、理解出来ない人がいる。
縁がないのである。その教えというものに、縁が無い。

仏教経典、お経のはじめに、百千万劫にも、会い奉ること難し、という。
逢うことすら、難しであるから、その教えに逢うというのも、縁である。
縁が無ければ逢えない。

さて、たとえ話も、解釈によって、まちまちになる。
何が正しいのか、誰も知らない。
だから、勝手に解釈して、新興宗教を立てる。

甚だしいのは、イエスの生まれ変わりだという。
実に恐ろしい。それは、つまり、私は、悪霊ですと言うことと同じである。

輸血を拒否するというキリスト教系の宗教があるが、聖書解釈が出来ないゆえである。
時代錯誤という。
そのくせ、電気ガス水道は使う。
乗り物にも乗る。飛行機にも乗る。
添加物一杯の食べ物を食べる。
信じられないのである。

キリスト以前、おおよそ500年前、仏陀は、輸血を行っていたのである。
知らないというのは、恐ろしい。

キリストの絶唱19

キリスト教には、聖書主義という、考え方がある。
それは、プロテスタントから出た。
簡単に言えば、聖書解釈である。どのように解釈しても、良いのである。勿論、それぞれの派閥には、それぞれの教義がある。
しかし、結果、その本人の聖書の読み込みを許すのである。

伊勢神宮に参拝した折に、一冊の雑誌を手にした。
生命の光という雑誌である。
キリストの幕屋という団体である。

その雑誌の最後のページにある言葉に、佇んだ。

我らの信条、とある。
我らは、日本の精神的荒廃を嘆き、大和魂の振起を願う。
我らは、日本人の心に宗教の復興を願い、原始福音の再興を祈る。
我らは、無教会主義に立つ。従っていかなる教会、教派にも属せず、作らず、ただ旧新約聖書に学ぶものである。
我らは、キリスト教の純化を願うが、日本の他の諸宗教を愛し、祖師たちの人格を崇敬するものである。
我らは、政党、政派を超越して、愛と善意と平和をもって、日本社会の聖化を期し、社会正義と人間愛を宣揚するものである。

実に素晴らしい。と言う。
しかし、これも、キリスト教の一派であり、新興宗教である。

最後に、キリストは言いたもう、
すべて労する者、重荷を負う者、われに来たれ、われ汝らを休ません。
と、ある。

信仰とは、素晴らしいものである。
信じる行為によって、救われる、つまり、気が楽になる。

霊界には、段階がある。
そして、宗教にも、段階がある。
皆、それぞれの宗教は、己が一番、高い段階にあると信じる。
私は、それでよいと思う。
信仰は、情緒であり、何人も、それを犯すことは出来ない。

最初の言葉、日本の精神的荒廃を嘆きということは、日本の精神が荒廃していると、認識するのである。

私は、日本の精神が荒廃しているとは、思わない。
もし、それならば、いつも、日本の精神は荒廃しているのであろう。
日本人の精神が荒廃していると、認識するのである。
であれば、彼らの精神も荒廃に晒されているのであろう。

言葉遊びは避けるが、原始福音とは、何か。
福音は、原始ではない。
それならば、イエス生存の時であろう。
原始福音というのは、妄想である。
もしくは、原始キリスト教ということか。

キリスト教の純化を願うということは、絶対、唯一神を願うということであり、キリスト教の神を知らないといえる。つまり、想像の神を、聖書の神とするということである。

他の宗教を愛せないから、キリスト教である。
手島何某という方が始められた活動である。つまり、手島教である。
それを、キリスト教に結びつけたのである。
要するに、オリジナルを想像出来ず、イエスキリストと、聖書を持って、新興宗教を作ったのである。

愛と善意と平和をもって、日本社会の聖化を期しというが、何を持って聖化というのか。
聖化ということ自体に、無理がある。
キリスト教の神によって、聖化されるというのだろうが、あの神は、土霊である。聖化も何も、そんな力は無い。
あの地域のみに通用するものである。

聖化とは、何か。
迷いである。
誰が、何を聖化するのか。

勿論、私は、信者の一人も否定しない。
それにより、心安らかならば、何をかいわんやである。

もう一つ言う。
社会正義とは、何か。
正義にも、多々ある。
何を持って、正義と言うのか。
自分たちは、正義であると思い込むのである。その辺りは、白人の考え方と変わらない。要するに、聖書を信じる私たちが正義であり、他は、正義にあらずである。
白人は、そうして、色着き人間を徹底的に、差別し、殺したのである。

スペインが、アメリカ大陸で、キリスト教、カトリックの名の元に殺した数は、一億人である。それを、知っているのか。

アホも、いい加減にせよ。

2007年07月06日

キリストの絶唱20

マルコ福音書第七章に、ファリサイ人と、律法学者が登場する。
それらが、イエスの弟子たちが、手を洗わずにパンを食べるのを見て言う。
ファリサイ人や、ユダヤ人は、古人の言い伝えを守り、腕をひじのところまで洗ってから食事をする。
「何故、あなたの弟子たちは、古人の言い伝えにしたがわず、汚れた手でパンを食べるのか」と問う。
イエスは言う。
「イザヤはあなたたち偽善者について、実によく預言した。かれはこう書いている。「この民は口先だけで私を敬うが、その心は私から遠くある。人の作ったいましめを教え、空しく私を礼拝している。」また、あななたちは、自分の伝えを守るために、よくも神のおきてをすてたものだ。モイゼは「父母をうやまえ、と教え、父や母を呪う人は死刑に定められる、といっている。それなのにあななたちは、ある人が父や母にむかって、「私があなたを助けるはずのものを、コルバン、すなわち供え物にします」といえば、もう父や母にその人がすることを、何一つゆるそうとしない。そういう風に、あななたちは、自分の伝える伝承によって、神の掟を空しくし、その他にも同様のことを数々おこなっている」とおおせられた。

当時は、人々に尊敬されていた律法学士たちに向かって、きっぱりと「あななたち偽善者」と言う。
それだけで、彼らは、イエスの言葉が耳に入らないだろう。

イエスは、彼らの形式主義を徹底して嫌う。
つまり、心の離れた信仰を成していると言うのである。

さて、簡単に言う。
仏教である。
寺に行って教えを聞く人は少ない。せいぜい、葬式の時や、法事の時に寺に行く。
そして、寺では、すべて形式にのっとり、儀式をする。それで終わりである。
説教をする僧がいても、寝ぼけた話をして終わりである。

茶道というものがある。
茶を立てるという手前に、延々と時間をかけて、形式に身を入れて、茶の湯云々と言う。
この形式が、曲者で、彼らには、彼らの理由がある。その形式の中に、悟りがあると言うのである。一理あるが、矢張り形式から、抜け切れない。それだけで、事が終わる。特に、
女に茶道をする者が増えてから、一気に堕落した。
茶の道を理解しないのである。
茶の湯が成立した時は、男にのみ許された。

イエスは、その形式主義に徹底して対決したのである。
当時、ユダヤ教は、完全とした体制を取っていた。
伝承とは、数々の掟であり、それは、皆、彼らの先祖が作ったものである。決まりごとて゛ある。

父母に、供物をしますと言えば、もうそれで、父や母を捨てるという。作法が一番である。
すべて、決まりごとを優先する。形式である。老いた父母の面倒をみない口実として、決まりを優先するということである。

式次第を作れば、楽である。それに則り、事を行えばよい。
道元なども、多くの作法を制定して、弟子たちを教育した。創始者が生きているうちは、まだよいが、死ぬと、それが単なる形式に陥り、その心が死ぬのである。

形式だけを伝承して、結局、肝心要を忘れる。

当時のユダヤ教徒も、それに陥って久しい。
イエスは、激怒するのである。

最も激怒することは、それを生活の糧にしていることである。
これ以上は省略する。

ただし、一つだけ、宗教の中で、形式のみに意味のある神道がある。
しかしそれを理解するには、多くの霊感が必要である。
二礼二拍または、四拍する。伊勢神宮は、二拍、出雲大社は、四拍である。
礼については、省略する。
拍は、縄文時代からの挨拶である。その名残である。
二と、四の違いは、神の居られる場所の違いである。

勿論、すべての宗教の作法には意味がある。茶道の作法にも意味がある。その意味づけを行う者がいる。そして、それがすべてになる。
利休は、茶の湯を、ただ湯を沸かし、茶を立てると言うのみ。
作法は、後でどんどんと付け加えられて、複雑怪奇になった。

目に見えない世界の主は、何を見るかとえば、人の心のみを見る。
作法や形式をしている様を見るのではない。
人の心を見抜くのである。

私は、読書を多くするので、部屋には、本が、どんどんと溜まる。さて、整理をするが、追いつかず、どんどんと、部屋を本が占領する。
部屋は、私の心であるから、整理整頓と思うが、追いつかない。
そこに人が入ると、その乱雑さに、目をそむける人もいるだろう。
しかし、私の部屋には、糞などは、落ちていない。
汚くないのである。
しかし、それを汚いと見る人もいる。

以下、省略。

2007年07月07日

キリストの絶唱21

「あなたがたはみな、わたしの言うのを聞いて悟りなさい。外から人の中に入ってきて人を汚すことのできるものは何一つない。人の中から出てきくるものが人を汚すのである。」

「「人から出てくるもの、それが人を汚すのである。内部、すなわち人の心の中から邪念が出る。姦淫、盗み、殺人、姦通、貪欲、悪行、詐欺、卑猥、ねたみ、そしり、高慢、愚かさなど、これらの悪はすべて内部から出て、人を汚すのである。」

我がうちから我を汚すものが出るという。
おもしろいことに、イエスの口から、罪という言葉で出るものは、そういうものであり、教会が教義とする、原罪という言葉は、出ないのである。

生まれ持った罪を原罪として、認識するという驚きである。
それが、カトリック、プロテスタント問わず、言う。
生まれながらの罪、原罪である。

その原罪をイエスの十字架が取り成して、無くするというのが、原罪の教義である。
人の作った、教えである。

生まれながらに罪人であるという意識は、親鸞にも、あった。
地獄が住処の自分が、救われるのは、ただ、弥陀の本願に、頼る、絶対的に頼るしかないというものである。
これは、一種の病である。

罪悪感。
太宰治の「生まれて済みません」ではないだろうが。

キェルケゴールの、死に至る病、それは、不安。
つきまとう不安感。それを、原罪とする。
確かに、生きるということは、毎日、断崖絶壁の前にいるようなものである。
それを意識すると、不安になる。意識しないと、散漫になる。

カトリックの洗礼を受けた高校生だった私は、多くの宗教の集いに参加した。
キリスト教関係の集いは、必ず、あなたは、罪人ですというものだった。
原罪のことを言うのであろうが、いきなり、あなたは、罪人ですという、その傲慢に辟易した。
洗礼を受けることによって、その原罪が消えるというものであるから、笑う。
入信すれば、許されるというものである。

上記、イエスの、邪念に、姦淫、姦通というものがある。要するに、セックスである。結婚していない男女のセックスは、すべて、これに当たる。
盗み、殺人、詐欺という、悪行は、行動である。
内面的な状態である、卑猥、ねたみ、そしり、高慢、愚かさ。
皆、人間の自然な感情である。
その自然な感情を邪念という。

近代法の出来る前は、宗教的、規範が法律の代わりとしてあった。
当時の大罪は、不敬罪である。神への冒涜である。
神の子イエスも、最後は、神への冒涜で、十字架にかけられた。

イエスの説教を、どの次元で聞くかということで、解釈が様々になる。

この説教によれば、生きるということは、邪念を生きるということである。誰も、上記の言うことから、逃れられないのである。
しかし、クリスチャンは、自分たちは、救われていると思い込むのである。洗礼を受けているから。
教会には、罪人のみ集うのである。

宗教的暴力である。
人を支配するためには、とっても良い説教である。
罪を犯さない人は、いない。

邪念を持つなということは、生きるな、ということである。

宗教の暴力は、人間の一番弱いところを、支配し、それによって、従わせるのである。

人間の基本的欲望を支配するという。
特に、性欲は、最も、支配しやすい。それの皆無の人はいない。

イエスは、後に、旧約のセックスのあり方を正す。一夫一婦制である。旧約は、一夫多妻である。日本流に言えば、側室を持ってもいいのだが、イエスは、それを禁止する。
それのみか、離婚を禁じるのである。
離婚した者と、セックスをするのは、姦通に当たるという。
仏陀も、セックスには、厳しく対処した。
修行僧には、絶対に、女の膣にペニスを入れるなと、厳命している。

人間の一番弱いところを、支配して、成り立つのが、宗教というものなのであろう。

ある新興宗教の教祖は、弟子たちに、セックス禁止、マスターベーションも禁止して、自分は、女弟子たちと、セックス三昧だったというから、笑う。

イエス当時のセックスは、姦淫、姦通の大盛りの時期である。勿論、今も、そうである。
それから逃れられないのか人間でもあると言う。
マスターベーションも罪とするのであるから、拷問である。
それを禁止して、真に受けた少年、青年が、多くノイローゼになったのを、私は、多くみた。真面目に掟を守り、性欲を我慢するのである。
性欲とは、自然である。
自然を自然に扱うべきである。
それさえも、罪にするという、宗教の掟の、暴力を私は、裁くものである。

独身であるカトリックの司祭が、女と交わることを、私は、知っている。勿論、内密である。すべての司祭ではない。また、特に、アメリカでは、司祭にゲイが多いのも、事実である。性的虐待を受けた少年たちに、訴えられている司祭もいる。
牧師も、売春婦を買う。

しかし、誰も彼らを裁くことは、できない。
皆々、そのレベルでは、同じである。

日本仏教の僧などは、終わっている。
一般の人より、激しい性欲であるから、笑う。

仏陀と、イエスの性欲に関するものを、徹底的に調べることも、彼らの思想を知る手立てになる。
イエスは、できれば、人は、一人で生きた方がよいという。独身である。何故か。
仏陀の最初のサンガには、女は入ることが出来なかった。
そして、矢張り、独身を生きる。

霊学として、考える。
女の膣は、子供が通る産道である。と、共に、霊界の入り口にもなる。
女が、霊に感応しやすい訳である。
体の中に、霊界の入り口を持つ女は、男と違う。体質が違う。

男が、仏陀やイエスの言葉を生きれば、人類は、消滅する。
しかし、決して、そんなことにはならない。そこまで意識の高い男の数は少ないからである。

セックスとは、何か。
実は、雄と雌という区分けが出来た歴史は、浅い。それ以前は、長い間、分裂によって、数を増やしていた。
雄、雌の区分けも、進化であろう。

同じもの、ホモによって、命は、つないできた。クローンというのは、それへの回帰であろう。

複雑になるということは、弱体化したといえる。

これから、セックスをせずとも、子供が作られる時代になる。
それでは、セックスとは、何か。進化の一つの過程である。
いずれ、進化により、人間の性欲が、基本的欲望ではなくなる。それに、鑑みて言えば、セックスは、ボディランゲージ、体の会話という役割になる。
それは、性差を超える。

仏陀もイエスの教えも、古い教えになる。
その頃になると、人類は、宇宙へ旅立つ。

勿論、神や仏という、妄想も無くなる。

2007年07月15日

キリストの絶唱22

ファリサイ派の人々がやってきて、イエスに議論をしかけ、イエスを試みようとして、天からのしるしを求めた。イエスは心から深く嘆息して仰せられた、「どうして今の時代はしるしを求めるのか。あなたがたによく言っておく、しるしは今の時代には決して与えられない」イエスはかれらから去り、再び舟に乗って向こう岸に行かれた。

ファリサイ派の人は、メシア的なしるしを見せよというのである。
要するに奇跡を見せよということである。それも、驚くような奇跡である。個人的病治しではない。
イエスの力を試すのである。
しかしイエスは、自分の栄光のための奇跡は、起こさないのである。
ただ、去るのである。

イエスに偽善者といわれる者どもである。
こういう輩は、いつの時代も、どこの場所にもいる。
自分たちは、知識と教養があり、善人だと信じている者である。

「しるしは、今の時代には決して与えられない」のではなく、お前たちには、与えられないということである。
自分たちが、滅びていることさえ、気づかない者である。

大学の名誉教授というものがいる。
社会的地位が高い。しかし、最低最悪の人間の場合、多々あり。しかし、それを彼らは知らない。要するに、社会的な目でしか、自分を見ることが出来ない。
自分を見る、自分の目を持つことが無い。
特に、社会的地位の高いと言われる人に多いから、驚く。
この、ファリサイ人というものも、そういう者たちである。

だから、イエスが言う。
「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種とにじゅうぶん気をつけよ」と。

パン種とは、彼らの認識するもの、そして、彼らの教えである。
しかし、その頃の弟子たちも、アホゆえに、イエスの言葉の意味を理解出来ない。それを、イエスは嘆くものである。

ちなにみ、アホは、死んでもアホである。馬鹿は、死んでも、馬鹿である。
死んでも治ることはない。
浮遊する幽霊を見れば、それは、解る。
生きていた時と、同じく、頑固な者は頑固であり、愚かな者は、愚かである。
悲劇は、自分が死んだことに気づかないという、アホもいる。

死んでいるのに、死んでいないと言い張る者もいる。

ファリサイ人は、今でも、霊界、幽界で、ファリサイ人としているのだろう。哀れである。

それにしても、聖書解釈というのは、事後予言のように、すべてを教会の教義にこじつけて、解釈する。
イエスの奇跡に関しても、教義に結びつけるのである。
それらを、一々書くのは、面倒であるから、省略する。

イエスの名言がある。
「わたしのあとに従いたい者は、おのれを捨て、自分の十字架をになって、わたしに従いなさい。自分の命を救おうと望む者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、命を失う者は、それを救う。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を
失ったならば、なんの益があろうか。また人は、自分の命を買い戻すために、何を与えることができようか。神を捨てた罪深いこの時代において、わたしとわたしのことばを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光に包まれて聖なる天使たちちちもに来るときに、その者を恥じるであろう」

ここでも、聖書解釈は、的外れである。何も解っていない。要するに、霊学を知らないからである。
この言葉の意味は、霊界を知らなければ理解出来ない。
何せ、全世界を得てもという譬えは、譬えにならない。誰も、全世界など、手に入れられないからである。

神を捨てた罪深いこの時代という。
当時が、そうである。
つまり、ユダヤ教の堕落と、惰性を言うのである。
今の日本の仏教の形式主義、形骸化した信仰に似る。
そして、今も、そうである。
それでは、イエスを主とする、キリスト教は、どうであろうか。同じであろう。
そして、その新興宗教である。同じであろう。
手前勝手な解釈で、我は、云々というから、救われない。
いや、救いなどない。
救いというのは、妄想である。

死ぬまでの暇つぶしの救いである。

それでは、イエスは、何を言いたかったのか。

私は言う。
生まれた時から、人は、十字架を背負っている。
カルマ、因縁である。
勿論、自分が撒いた種である。

おのれを捨て、自分の十字架をになって、私に従いなさいという言葉は、矛盾である。
おのれを捨てて、おのれの十字架である。そんなもの、ある訳が無い。

第一、おのれを捨てられるか。
そんなことが、ある訳が無い。
何を言うのか。

道元も、同じ事を言う。
仏の家に投げ入れてという。私を仏の家に投げ入れて、自我を捨てるのである。
自我を、捨てたら、精神疾患である。

そこで、編み出された理屈が、自我と、自己である。
自我を捨て、自己の十字架をになってということになるのであろうか。

言葉の遊びは、止めたい。

要するに、救いという言葉の観念が曖昧である。

救いとは何か。ということになる。

実は、救いは妄想である。救われる必要は無い。すでに救われている。この宇宙に在るということは、救われてあるということである。
宇宙以外に在る場所は無い。宇宙外は、無である。
霊界も宇宙に在る。
神というものも、サタンというものも、宇宙の内にある。神もサタンも救われている。在るからである。無いものは、無い。在るものは、在る。

存在は、救いである。

聖書解釈は、第一の死は、この世の死である。第二の死は、来世における死であるという。永遠の命を、失うとある。
嘘である。
人間の霊は、永遠のものである。
つまり、それは、救いではない。
永遠に存在することが救いであるというのだ。
違う。
本当に救いを求める人は、永遠など求めない。

消滅を求める。
次の宗教の問題は、消滅の教えである。
この宇宙から、消滅することである。

仏陀は、転生を超えて、この世に生まれないことを救いという。
私は言う。
救いとは、この世と、あの世からの消滅を言う。

悟って仏になる、永遠の命を得る等々、まだまだ、救いには、遠い。

多次元にも、宇宙にも、存在しない、消滅を願うことが、救いである。

2007年07月16日

キリストの絶唱23

「イエスはペトロとヤコブとヨハネを連れて、高い山にお登りになった。そこにはかれら四人しかいなかった。そのとき、弟子たちの前でイエスの姿が変わり、その衣は真っ白く輝いた。その白さはこの世のいかなる布さらしでもなしえないほどのものであった。そして、エリアがモーゼとともに現れて、ふたりはイエスと語り合っていた。ペトロは口を出してイエスに「先生、わたしどもはここにいてしあわせです。三つの仮いおを造りましょう。一つはあなたのために、一つはモーゼのために、一つはエリアのために」と言った。ペトロは何を言ってよいかわからなかった。かれらは恐怖におそわれていたからである。すると、雲が現れてかれらをおおい、雲の中から声が聞こえてきた。「これは我が愛する子。かれに聞け」かれらはすぐに、周囲を見回したが、自分たちといっしょにいるイエスのほかには、だれも見えなかった。」


モーゼ、エリアと、どうしても旧約聖書の知識が必要になる。

ここでは、旧約とイエスの関係を明確にしている。
あくまでも、イエスの存在は、旧約からのものであるということ。
旧約の完成という存在のイエスであるということ。

しかし、ユダヤ教は、イエスを預言者の一人として認めても、メシアとは、認めない。
ユダヤ教のメシアは、政治的な意味も含めてのメシアである。
例えば、旧約のダビデ王などのような、である。

結果、ユダヤ人は、イエスを神を冒涜するものとして、十字架刑にした。

ユダヤ人とは、アブラハムの子のイサクの子、ヤコブからはじまる。
ヤコブの十二人の息子から、イスラエルの十二族が出る。

神はイサクに「おまえの名を改めてイスラエルと名づけなさい」と言う。それからである。
別名、ヘブライ人とも言う。それが、ユダヤ人である。そして、彼らは、神から選ばれた民としての選民意識を持つ。

この十二族の一つのユダ族から、ダビデ王、ソロモン王、そして、イエスと続くとは、キリスト教の考えである。
しかし、現在も、ユダヤ教では、メシアは、まだ来ていないという。
イエスはメシアではない。

ちなみに、イスラムも、旧約の神をアッラーとして奉る。そして、イエスを預言者として扱う。
ムハンマドは、アブラハムを、最初のイスラムとし、最初のムスリムとするのである。

天から声が聞こえるというのは、イエスが洗礼者ヨハネから、洗礼を受けた時も、天から声がした。
「これは我が愛する子」と。

旧約聖書の中でも、多く神や天使の声を聞くが、それは、三次元のものではない。
空間から声を聞くことはない。
声を聞くのは、別次元にワープしているからである。
だから、同じ場所にいても、聞こえない人もいる。

イエスの体が光り輝くのも、別次元だからである。
弟子たちは、知らずに、別次元に連れられたのである。
そうでなければ、モーゼやエリアの姿を見ることもない。

新約聖書の作者が、モーゼやエリアとイエスの会話の様子を書くのは、イエスの存在は、旧約からのものであるということを言うためである。
イエスは、間違いなく、アブラハム、イサクから出た、イスラエル人であり、ダビデ王、ソロモン王の末裔であり、旧約に言われるメシアであるということを言う。

イエスもイスラムのムハンマドも、ユダヤ教の人の作ったトーラ、律法を、旧約の彎曲したものであり、誤りであるとする。
そして、イエスの後600年後のムハンマドは、イエスを預言者として認めるが、メシア、神としては認めない。

それが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の違いである。

聖書の記述は、霊学をもってしか理解出来ない。
キリスト教会は、事後予言の形で、解釈するが、それは、教会の教義に合わせてのものである。要するに、都合よく解釈する。
そして、矢張り、ユダヤ教と同じく、イエスを彎曲して、組織としての教えと、規則作法を決めて、現在に至る。

イエスの霊性と、教会が言う霊性は、全く違う。また、多くの聖人と言われる者たちの、霊性も、イエスの霊性とは、別物である。

別次元を感じるというのも、百人百様の様がある。
日本といっても、北海道から沖縄まである。しかし、別次元というと、日本であるというのみにで、日本のどの場所かを言わないのである。それに似るのである。


キリストの絶唱24

マルコ福音書、9章14節から、またも、悪霊につかれた子を癒す。

子の親が言う。
「霊がこの子にとりつくと、所かまわず、かれを押し倒します。かれはあわを吹き、歯がみをし、からだが固くなってしまいます。あなたのお弟子たちに、霊を追い出すように頼みましたが、だめでした。」
イエスが言う。
「ああ、不信仰な時代よ、わたしはいつまであなたがたとともにおればよいのか。いつまであなたがたにがまんしなければならないのか。その子をここに連れてきなさい。」

霊は、イエスを見るや、その子をはげしくけいれんさせた。
かれは地に倒れ、あわを吹きながら、ころげまわった。
父親は「どうかあわれんで、助けてください」と言う。
イエスは「できるならばというのか。信じる者にはどんなことでもできる」と言う。

そして、汚れた霊をしかりつけて言われた。
「おしとつんぼの霊よ、わたしは命じる。この子から出て行け。二度とこの子にはいってはならない」
霊は、叫び、その子にひどいけいれんをおこさせて、出て行った。

弟子たちは「どうしてわたしたちには、霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねる。
イエスは「このたぐいのものは、祈りによらなければ、どうしても追い出すことは出来ない」と仰せられた。

心霊治療とか、神霊治療とか言う人がいる。
私も多く、そいう人に逢った。
心霊手術も受けた。沖縄の王朝に仕えた琉球気功も、縁あり、受けた。
皆々、嘘ではない。
ただ、霊能者で、治療する者は、いない。皆々、嘘である。

要するに、人知では計り知れない力が働くのである。
しかし、心霊治療家は、患者に訴えられて、裁判で負けた。治せなかったというものである。実に、患者とは、愚かな者である。治せなかったのではなく、治らなかったのである。
その方は、治すとは、言わない。出来るだけのことをすると言う。
しかし、多くの人を癒した。それを聞きつけて、患者がくる。治らなかった者が、詐欺だと訴えたのである。問題は、患者自身であることに気づかない。
これを、愚かという。
イエスも言う。
信じることで治ると。
信じ切るということである。

ただし、能力のある者に対してである。
能力の無い者を信じ切っても、詮無いこと。

さて言う。
キリスト教信者で、祈りで、病を癒す者がいるか。
一億人に一人くらいはいる。
つまり、彼らの信仰は、贋物である。

私の立場を言う。
私は、病を、生きる意味意識として受け取る。ゆえに、祈りにより、癒すことを求めない。

イエスは、このような霊は、祈りによならければだめだという。
その、イエスの言う、祈りとは、何か。
瞑想などという、流暢なものではない。
祈りの力である。
それを、解明するのは、古神道である。
しかし、これは、省略する。別の場で書く。

この聖書の記述が、誤解を招くのである。
イエスは、霊を追い出すというのである。
それでは、その霊は、どこへ行くのか。
ある霊的能力者は、イエスも、悪魔の側にある者だという。追い出すならば、霊的能力者ならば出来る。しかし、その霊は、どうなるのか。また、人を捜して憑くのか。

聖書の中にも、このイエスの行為に、彼は、悪魔の頭であるという人々がいる。当然である。悪霊を追い出すのである。頭ならば、追い出せる。

イエスが悪霊の側にいるのか、どうかは、別にしておく。

ローマ法王庁には、悪魔祓いの専門家である司祭がいる。前ローマ法王、ヨハネパウロ二世も、悪魔祓いを行っている。
すると、今度は、悪魔とは、何かということになる。
教会の定説では、大天使ルチフェルが、神が人間を愛する様を見て嫉妬し、下野して、サターンとなったと言われる。
それと、戦うのが、大天使ミカエルである。

しかし、現実は、教会の中にも悪魔といわれる存在がいる。
欧米で言うところの悪魔とは、相対的なものであるようだ。

そして、悪霊と、悪魔は違う。
悪霊とは、浮遊する霊である。その死後、次元移動出来ずに、この次元に幽霊、つまり、幽体で浮遊するのである。時に、それらが、人に憑き、病や、人生に関与する。悪霊と言われる所以である。

悪霊が、悪魔の支配にあるものではない。

それでは、魔界という考え方がある。
それは、霊界、この世と別次元の世界のことである。
各国には、魔界が存在する。
最大の魔界は、アメリカであり、その世界は無限であるとみる、霊的能力者もいる。
インド魔界は、大陸をすべて包括する。ロシアに至るまで、である。

唯一、魔界の存在しない国がある。
日本である。

日本には、地獄界から、高いレベルの霊界のみであり、魔界は、存在しない。

と、ここまでくると、妄想、誇大妄想になる。
以下、省略する。

ちなみに、日本の霊的能力者は、霊を追い出すという行為は、しない。
霊を鎮めるのである。そして、行くべき、次元の世界に送る。当然である。追い出しても、解決にはならない。故に、日本の霊的能力者から見ると、イエスの行為には、疑問を持つのである。

ちなみに、仏教は、供養するという言葉で、霊を取り扱うが、それは、一時的なものである。奈良の寺には、まだまだ、武士の霊が多い。
供養しても、あちらに行かない、行けない。何故か。
読経により、霊は、次元移動しないということである。
奈良の寺は、日本仏教の初期の、宗派が揃うのである。にも関わらずである。

この辺で、やめて、置く。

2007年07月23日

キリストの絶唱25

「人の子は、人々の手にわたされ、殺され、そして、殺されて三日目によみがえるだうろ」
イエスは、弟子たち言う。

人の子とは、イエス自身である。
何故、人の子と言うのか。
それは、神が人間になったという、教会の教義の証明になる。
イエス自身が、人の子として、宣言するのである。

人は、皆、人の子であり、蛙や蛇の子ではない。
あえて、人の子というところに、意味がある。

これは、マルコ福音書の8章31節にもある。
二度目の受難の予告である。

さて、イエスは、預言の通りを実行したのか、預言通りになったのか。
イエスの宣教期間は。三年である。
30歳からで、33歳に十字架刑に処せられる。

新約聖書の最大の山場であり、最大の奇跡は、イエスの復活である。
死からの復活、これが、キリスト教の教義の最高である。
勿論、カトリックでは、処女降誕も、信仰告白の一つになる。

このイエスの受難を、人間の原罪を救うという、最大の教義にする、キリスト教である。
しかし、どこを捜しても、イエスの口から、原罪を救うという言葉は出ない。

原罪とは、最初の人間、アダムとエバの犯した罪ということになっている。
蛇にそそのかされて、エバが知恵の木の実を食べたという、神話からである。
それは、どうも、性の目覚めのことであるようだ。
性、というものを、罪と定めるのである。

知恵の木の実を食べてから、二人は、裸であることに、恥ずかしさを覚ええて、腰に葉を巻きつけたという。
生殖の喜びではなく、性の喜びに、目覚めた。それが、気に入らないらしい。

旧約聖書には、産めよ増えよ、地に満ちよという、神の言葉がある。
子を産むためには、セックスをしなければならない。生殖のセックスは、正しく、性の快感のみを求めるのは、罪である。
その罪を、原罪とする。
そして、それにまつわる、人間の無明、つまり、無知を、罪とする。

無明とは、仏教用語であるが、仏教も無明を罪とする。

性の前には、無知になってしまう人間の、性、さが、である。

性を、セイ漢語で読むのと、さが、と大和言葉で読ませる。セイは、さが、なのであろう。
さが、という言葉から、定めという言葉が出来る。
さが、とは、与えられてある、逃れられないもの。人生では、宿命である。

さて、この原罪説を、どう扱うのか。
何故、原罪というものを、教義として掲げるのか。
ひらたく言えば、生まれたことを、恥じるともいう。

ちなみに、日本の伝統には、そういう考え方は、一切無い。
キリスト教信者の作家が出て、日本人には、この原罪の意識無く、ゆえに、神不在である等々の、屁理屈を並べての作品を書き、少しの読者を得たが、全く、見当違いであり、誤りである。
あちらの神観念を持ち出し、原罪意識を持ち出して、云々するという、無明である。
つまり、日本に関しての無知は、救いようがない。

しまいに、原始キリスト教だの、原始福音宣教だの、キリストの幕屋だのとの、激しい妄想は、如何ともし難いのである。

福音宣教と言うが、奇跡の起こせない者が、一億人いても、福音宣教など出来ない。
イエスは言う。信じることで、叶わぬことは無いと。

ちなみに、カトリックの聖人認定は、奇跡の有無が、最大のポイントである。そのための、調査団までいる。
マザーテレサが、死後、即座に、聖人の手前の福者に認定された。
あれは、世界的に影響力が強く、教会の宣伝には、もってこいだったからである。

イエスの宣教は、奇跡である。
奇跡が無ければ無に、空に等しい。
イエスは、奇跡を起こさなかったという者は、死後、七転八倒しているはずである。

少なくとも、旧約聖書から、新約聖書として、歴史を経て、残るということは、意味がある。深い意味がある。たとえそれが、魔界や、魔神のものであっても、人類に対するメッセージである。

私の立場を明確にする。
唯一の神は、無い。
魔界や、魔神は、霊界という次元にはない。
別空間のものである。
古神道の場合は、次元の高い人霊を、便宜上、神と尊称して言うが、セム的、一神教の神観念は無い。
霊界は、人霊が在る空間である。勿論、それは、宇宙にある。次元の違いがあるのみ。
故に、日本の、古神道の伝統では、死という観念も無い。
身を隠すという意味で、死は、一時の別れとして認識する。

さて、イエスの、人の子発言である。
神の受肉という思想がある。それは、教会の教義にあるものだ。

私の解釈は、イエスの自覚である。
同じアジアの中で、イエスの在世から、500年前に、仏陀が、慈悲と平等の教えを説いていた。それと、連動しているのである。
怒りと嫉妬、裁きと、脅しの神からの開放であり、愛と許しの神の教えを、イエスは、伝えた。
旧約の神観念からの、離脱である。
それは大変な価値の転換である。
命を懸けるものである。

歴史は、それを望んでいた。

イエスは、旧約の神々を凌駕したのである。

2007年07月24日

キリストの絶唱26

マルコ第9章33節から。
弟子たちが、誰がもっとも偉大な人かと争うとある。
子供のような、弟子たちである。

イエスは言う。
「もし、第一の人になりたいなら、みなのあとになり、みなの召使にならなければならない」
一人の子供を、真ん中に立て「私の名のために、こういう子供を受け入れる人は、私をうけいれるのであり、私をうけいれる人は、私をうけいれるのではなく、私をおつかわしになったお方をうけいれる」

これは、徹底的にユダヤ教に対決しているのである。
形式に陥り、堕落する信仰と、それを指導する者たちの、傲慢と、すさまじい怠慢である。危機意識皆無であり、その地位に安住している様を、徹底的に攻撃する。
そして、甚だしい選民意識である。
異邦人、つまり、他民族に対する態度は、甚だしい。

ゆえに、イエスは、こうも言う。マタイ第7章21節。
「私にむかって、主よ、主よ、という人がみな天国にはいるのではない、天にまします父のみ旨を果たした人だけがはいる」

実に、福音書には、秘密が隠されてある。

マルコ福音の次を読む。

ヨハネがイエスに言った。「先生、私たちの仲間でない人が、あなたの、み名によって悪魔を追い出しているのを私たちは見ました。その人は私たちの仲間でなかったので、それをさまたげました」
イエスは言う。
「さまたけではならない。私の名によって奇跡を行いながら、すぐにあとで私をそしてることはできまい。私たちにさからわない人は味方である。キリストについている者であるからといって、あなたたちに一杯の水をのませてくれる人があったら、実に私はいう、その人はむくいを失わないだろう」

形ではなく、見えない真実をイエスは言う。
これで、イエスの教えが、世界的なものになるベースがある。
イエスは、キリスト教を立ち上げたのではない。
教祖になったのでもない。
何が重大なのかを、教え伝えた。それを、福音という。
福音宣教と言う者がいる。多く、キリスト教の各宗派である。
しかし、違う。
イエスの言う、福音とは、彼らの福音と違うのである。
それは、信仰があっても、霊感が無いからである。霊感の無い信仰は、蒙昧である。
彼らが言う、信仰とは、単なる依存症である。そして、多くの宗教は、そうである。そして、恐ろしいことに、妄想に依存しているから、救いようがない。

一体、何を持って信ずるということなのか。
信仰とは、何か。
イエスを信じるという時、それは、イエスに成るということである。
イエスのようにではない。
イエスに成るのである。

仏陀を信じるというのは、仏陀に成るということである。

ある有名な哲学者が、高齢になって、ようやく、「仏教とは、仏になることとみつけたり」というような本を出した。今更である。彼は、ようやく、第一歩を踏み出したのである。しかし、もうすぐ死ぬ。次の転生で、仏陀への道が始まるのだろう。
ご苦労である。

イエスの仲間でない人が、イエスの名において悪魔を追い出したという。
キリスト教徒の皆々は、よく聞くがいい。
キリスト教徒でなくとも、イエスのみ名によって、悪魔を祓うことが出来るのである。何故か。
そうすると、天国に入るという者も、キリスト教徒が入るのではないということである。
それを、イエスは言う。

ここで、霊学から言う。
キリスト教徒の皆々が行く霊界は、キリスト教霊界と言っておく。
それが天国というならば、それでよし。
しかし、そこにイエスは、いない。
イエスの次元ではないからだ。
イエスにならなければ、イエスの次元に行くことは出来ない。
キリスト教霊界は、実に、低い次元にあり、イエスの次元は、より高い。故に、イエスに逢うことは、出来ない。

ただし、魔界ではないことが救いである。もし、魔界であれば、霊界に縁することは無い。魔界は、次元が違うのではなく、別次元だからである。
宇宙には、ブラックホールという場所があるという。それに似ている。
霊界と、魔界は、接触しない。
唯一、この三次元にのみ、接触するから、不思議であり、意味深い。

さて、私はカトリックの洗礼を受けた、キリスト教徒でもある。
でも、という。
12歳から、聖書を読み始めて、15歳で、洗礼を受けた。家族は、誰もキリスト教徒ではない。
父方は、法然の迷いの念仏宗であり、母方の親は天理教という、レベルの低い神もどきの宗教の信者であった。
私は子供の頃から、そういう信仰者の中で、育った。
そして、町の神社の祭りにも参加した。

私の周囲に、カトリック、念仏、天理教、そして、神社神道があった。
時に、中学生から高校の間には、様々な新興宗教の誘いがあり、様々な、教義を聞かされた。
それ以後も、しかし、おさまることなく、新興宗教の様を知ることになる。

自分で確かめる方法は、唯一、霊能であった。
それゆえ、次に霊的能力者を訪ねた。
大半が、人格破綻者であった。または、入院しない精神的病の人であった。

嘘と、妄想の世界は、甚だしく、病を癒すといっても、精神的狂いの強い波動で、治すということはするが、全く、検討違いの信仰と、狂いを持つ者であった。
霊能者の別名が、自己顕示欲であった。
地位も名誉も、金も、身分も無い者が、唯一、先生として、少しばかりの尊敬を受けるべく、嘘八百の世界に身を投じる様、哀れであった。

最終的に、私は、彼らの背後にある物を、見た。
皆々、動物の霊であった。仰天した。

決別するべく、最後に行った、霊能者の玄関に入ると、すでに、限りない蛇が、その部屋中に満ちていた。
何故、今まで見えなかったのか。
不思議なことは、多くあったが、皆々、邪霊、悪霊のたぐいであり、奇跡的なことを行う者は、神に遠いものであることを、知った。

知るということは、信仰を超える。
故に、仏陀は、無知を嫌った。

自分で確認できないものを、信じてはいけない。それならば、障らぬ神に祟りなしという、古人の言葉が、正しく、真っ当である。

イエスの言葉は、教団、教派を超える。

主イエスのみ名によって、誰もが悪霊を追い出すことが出来るのである。

そして、悪霊の多い場所は、すべての宗教施設である。
そこに集う人々が、悪霊に感応するからである。

よく効く薬は毒である。
出来れば、薬を飲まずに癒す方がよい。

2007年07月28日

キリストの絶唱27

「私を信じているこの小さな人の一人にでも罪を犯させる者が、あれば、その人は、ろばのひく臼を首にかけられて海に投げ込まれるほうがましである。
あなたの手があなたに罪を犯させるなら、その手を切り捨てよ。かたわで命にはいるほうが、両手をもってベケンナの不滅の業火にはいるよりもましである。
あなたの足があなたに罪を犯させるなら、それを切り捨てよ。片足で命にはいるほうが、両足でゲヘンナに投げ込まれるよりもましである。」

「またもし、あなたの目があなたに罪を犯させるなら、それを抜き取れ、片目で神の国にはいるほうが、両目があってゲヘンナに投げ込まれるよりもましである。そこでは、うじがつきず、その火は消えることがない。」

イエスの激しい性格が伺える。

これを、実行出来るクリスチャンは、いない。

ゲヘンナとは、地名である。
エルサレムの南西にある、大きな渓谷である。旧約時代には、この谷で、子供を火に投げ入れて、神に捧げるという、極悪な迷信行為が行われていた。
後に、刑場となり、また、罪人の死体を放棄したり、火葬した場所である。
この名は、罪人の死体が、うじと、火の罰を受けることから、地獄と言われるようになる。
ゲヘンナとは、地獄という意味である。

ゲヘンナという場所が、そのまま、地獄であると言ってもよい。
この世に地獄があるということだ。

イエスの、この説教にみる、激しさとは、何か。
そして、罪ということの、罪とは、何か。

人間の罪悪感は、どこから、来るのか。
罪悪感は、何かということである。

イエスの、罪意識も、旧約からきている。
旧約の最大の罪は、神との契約を遂行しないことである。
それでは、旧約の神の掟とは、何か。
モーゼの十戒をみる。

わたしをおいてほかに神があってはならない。
いかなる像も造ってはならない。
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
安息日を心に留め、これを聖別せよ。
あなたの父母を敬え。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
隣人に関して偽証してはならない。
隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。

掟とは、それが出来ないが故に、掟になる。
ここでも、原罪なる言葉はない。
土台、原罪などというものは無い。妄想である。支配者の支配しやすい罪の意識、それが、原罪である。

カトリック教会は、像だらけである。
いかなる像も、造ってはならないという掟に背いている。

実は、イエスの罪とは、差別意識のことであった。
それは、仏陀と同じである。
イエスは、身に沁みて、差別の意識を感じていた。
それは、自分の生まれである。

これを書けば、私は、全世界のキリスト教徒から、迫害されるでろあろう。
イエスの出生は、ユダヤ人の女と、ローマ軍の兵士の間に出来た子である。
処女降誕は、カトリックの教義である。プロテスタントには、それが無い。

現在の医療なら、処女妊娠は、可能である。
しかし、二千年前では、不可能である。
神は、全能であるから、処女妊娠もあると信じることには、何の問題も無い。

イエスには、兄弟がいた。
マリアと、ヨゼフの子である。

イエスは、自分の出生に悩み、宣教をする30年間の生活は、闇に包まれている。
15歳の頃に、神殿で、律法学者たちとの、やりとりがあったという記述があるが、後は、全く不明である。

イエスは、ユダヤ人であること、ユダヤ人になることを、生きた。自分の自己同一性を、徹底検証した。
そして、仏陀が言う。人は生まれによらず、行為による、という、レベルに達した。

また、自分の霊の出た場所を突き止めた。
自分は、どこから来たのかということである。
甚だしい霊能力により、イエスは、自分の霊の在り処を観た。

肉体は、仮の宿りである。
本体は、霊である。

イエスは、モーゼ、エリア等の預言者たちと、霊的会話をする。
そして、私の父と呼ぶ神が、旧約で言う神とは、違うことを知る。
キリスト教も言う、人格神だと。
神も霊的存在である。
神にも、レベルがある。

神観念とは、後々、教会が勝手に理屈をつけたものである。
しかし、イエスは実感として、霊的存在と語ったのである。

さて、イエスの激しい教えは、差別意識からのものであると言った。
イエスは、当時のユダヤ人が嫌う、税金取立ての者や、遊女等々を大切にする。
弟子たちも、漁師が多い。

マリアがヨゼフと結婚した。ヨゼフは、ユダ族、つまり、ユダヤ十二支族の最大の支族の子孫である。
イエスは、旧約の預言にある、ダビデ王の子孫でなければならなかった。ヨゼフの存在は、そこにある。
その支族から、メイアが現れるのであるから。

聖書を深読みするためには、霊感が必要である。

当時、血族というものが、どれ程貴重なものだったか。
自分の血に流れている、その血の一端により、差別を受けては成らないのだった。
人は、霊的存在である。

何度も言うが、神に人格は在り得ない。
人格があるのは、霊的存在である。

それでは、神とは、何か。
それは、宇宙である。宇宙そのものである。
偏在している。すでに、すべての存在は、神の中に在るのである。
人格などというものを、超えているし、そんなものと、対比できるものではない。

神と名乗る者は、すべて霊的存在である。
だから、レベルがある。
イエスは、旧約の神との決別を促した。
怒りと嫉妬、裁きと、恐れの神というレベルの旧約の神との、決別である。
そして、血縁による神との関係である。
誰にも、開かれてある神の存在を、イエスは、伝えるべく、預言の通りを実行して、メシアとなるべく、行動した。

人は行為によって、成るべきものになる。
仏陀の言葉を、イエスは身を持って示した。

イエスは、その行為によってメシアに成ったのである。

2007年07月29日

キリストの絶唱28

マルコ福音書第10章
ファリザイ人が来て、イエスをこころみようとして、「夫は妻を出してもよいものですか」とたずねた。イエスが「モイゼはなにを命じているか」とお問いになると、かれらは、「モイゼは、離縁状を書いて去らせよ、と命じました」と答えた。
そこでイエスは、「あなたたちの性質が強情だから、あなたたちのためにそう掟をしるしたのだ。しかし、創造のはじめから、人間を男と女におつくりになった。ゆえに、人は、父母をはなれて二人は一体となるのであって、もう二人ではなく一体である。人は、神がお合わせになったものを、離してはならない」とお答えになった。

ここで、イエスは、モーゼの掟を改めたのである。
あなたたちの性質が強情だと、言い放つ。

カトリックでは、婚姻の秘跡である。離婚は許されない。
それは、このイエスの言葉からくる。

ファリザイ人は、何を試みたのか。
当時のユダヤ人は、妻の方から、離縁を申しだせなかったのである。
ローマ人、エジプト人は、それが出来た。
そこで、夫からなら、離縁できるのかと、尋ねたのだ。

そこで、イエスは、モイゼが何を命じているのかと問う。
すると、離縁状を書いて去らせよと言う。
それは、性質が強情だからと、突き放す。
ユダヤ人が強情だと、言い放つのである。

イエスは、彼らに、新しい掟を言う。
神の合わせたものを、離しては成らないと。
離婚を否定する。

しかし、どうして、神が合わせた二人であるということが、証明されるのか。
勝手に結び合ったものであろう。

これは、イエスがファリザイ人に言ったことであり、彼らに対する掟である。
それを敷衍して、キリスト教徒に言うのは、愚かである。

あなたたちの性質が強情だから、そう掟にしたと言うのである。つまり、ユダヤ人の掟であり、他の民族のものではない。

神が合わせた男と女であることを、誰も証明できないのである。
だから、離婚は否定出来ない。

日本人は、仏教用語の縁という言葉を使う。
これを、大和言葉で言えば、えにし、である。
縁がある。縁があれば、果がある。その、果が、過ちなら、正すべきである。要するに、離婚は成立する。

男と女を合わせるものは、神ではない。欲望である。
そんなことを、改めて言うまでもないことだ。
それが、性欲の場合もあり、支配欲の場合も、生存欲の場合も、様々ある。

男と女の間に、神を持ち出すことなかれ。
それを言うなら、人間の間のことである。

契約と、掟の好きな人種がいる。
おおよそ、日本人以外は、そうである。
結婚も、契約である。それをイエスは言う。つまり、契約と掟の好きな民族に、当てはまる。

ユダヤ人は、一夫多妻であるから、一人の妻を離縁しても、困らない。
そして、一夫多妻は、自然である。人間も動物であるから、多くの種を、多くの異性に撒くものである。

アホらしい、律法や、掟に捕らわれていて、物事の本質を知らない者に、イエスは、辟易している。

ちなみに、カトリック信者は、離婚をすると、教会には、行けない。秘跡を守らないからだ。罪人である。
今は、教会法である。

人間は、ルールを作って遊ぶ者である。
スポーツなども、そうだ。要するに、ゲームのルールを作るから、面白い。
100メートルを何秒で走るとか、見ている者は、面白いが、やっている者は、真剣である。そうして、人間は、遊びを作ってきた。それが、文明となる。

国家というものも、ゲームのルールを作り、国家を成す。

ルールが複雑であればあるほど、熱心になる。これが、人間の本性である。
それは、前頭葉のお陰か、それゆえである。

イエスは、それを笑う。
しかし、それを生き甲斐にしている者がいる。それ故、それに答える。
実は、どうでもいいことである。

イエスは、出来れば、人は一人で生きた方が良いと言う。
当然である。
人は、絶対孤独の存在である。
誰も、人の孤独に介入出来ない。しかし、介入出来ると、思う者がいる。信仰者である。
人に余計な世話を焼く。
大きなお世話である。しかし、それによって、救われたと、妄想する者もいる。

実に、人間とは、愚かな者である。

イエスは、それをお見通しである。

私も、それを見通している。

結婚しなくても、子供は生まれる。家系とか、血縁というものも、夢幻である。
だから、仏陀も、先祖供養などを言わない。
皆々、ルールを作り遊ぶのである。しかし、それに真剣になってしまったが故の、哀れさである。

カトリック教会も、離婚を罪としていては、信者が離れる一方である。それは、過ちの結婚であったと認める器量が必要になる。

イエスは、結局、結婚をするな。人は、一人で生きてゆく者だと、言いたかったのである。
一人に耐えられない人が、実に、宗教を好む。

イエスの言葉を言い直す。
神は、創造のはじめから、人を作った。その人は、区別と差別を好んだ。故に、男と女と区別した。男と女が結び合うのは、一時のこと。後は、それぞれ、一人で生きる者としてある。
と、なるのである。

子育ては、全く別の意味である。
それについては、いつか書く。

ちなみに、古代信仰は、太陽信仰と、大地信仰、そして、男根と、女陰信仰があった。
男根と、女陰は、豊穣の祈りと共にあった。
素晴らしい男根からは、男も女も、その気を貰った。
これ以上は、省略する。

2007年08月05日

キリストの絶唱29

一人の人が、イエスに
「よい先生、永遠の生命をうけるために、私はどうしたらいいのでしょうか」とたずねた。
イエスは、かれをじっとみつめ、いつくしんで「あなたには一つだけ足りない。帰ってあなたのものものをみな売り、貧しい人々に与えよ。そうすれば、あなたは天に宝をつむだろう。それからわたしについてくるように」
その人は、そのことばをきいて心配し、悲しそうに去って行った。かれは、大金持ちだったからである。

そして。イエスは言う。
「金持ちが神の国にはいるのは、なんとむずかしいことだろう。」
弟子たちは、それを聞いて驚く。
イエスは言う。
「子供たちよ、神の国にはいるのは、実にむずかしいことだ。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」
弟子たちは、更に驚いた。
「すると、救われるのは、どんな人ですか」
イエスは言う。
「神にはおできにならないことはない」

当時、金持ちとは、神の祝福のゆえに、富を得ると考えていたから、弟子たちが驚いたのである。

その時、ペトロが、イエスに「ごらんのとおり、私たちは、すべてをすてて、あなたに従いました」といいだした。イエスは「実に私は言う。私のため、福音のために、家や兄弟や姉妹や母や父や田畑をすてる人は、今から、いや今、家、兄弟、姉妹、母、子、田畑の百倍をうけ、迫害もあろうけれど、またのちの世では、永遠の命をうける。しかし、先の人があとに、あとの人が先になることがある。」とおおせられた。

聖書解釈では、お金の使い方である等々と、述べるが、違う。
イエスの言葉、そのものズバリである。
金持ちが天の国に入るのは、らくだが針の穴を通るより、難しい。

所有しない者には、所有する者の気持ちは、解らない。
世界の金持ちは、子々孫々に至るまで、暮らせるようにと、金持ちである。金が金を生む。金持ちは、滅びることがない。

ここて゛、別の宗教の教祖を上げる。
天理教を開いた、中山みき、である。
施しで、家を潰した。徹底して、人を助けるという信仰である。
その神のレベルは、置いておく。
兎に角、中山みきは、身上潰すほどの施しで、一派を立てた。勿論、現在の天理教は、その逆である。信徒から、奪うことを良しとする。
信徒の家屋敷まで奪う。どうして、そうなったのか。それは、奉る神の正体である。
人を助けて、自分が助かるという、屁理屈を言う。
人を助けて、自分が沈没するとは、言わない。
大半が沈没する。

連帯保証人になって、皆、首吊りしている。

さて、捨てろというイエスの真意は何か。
それは、価値の転換である。
すべてを捨てて、私に着いて来なさいと言う。

昔の日本の女は、すべてを捨てて、男に着いて行った。その男の男振りにである。それ程、男に魅力があった。今は、どうか。
身長から、年収、その他諸々、最後に、チン長まで調べるようである。

ユダヤ教からの、価値の転換である。
富は、神の祝福を受けたと考える、また、教えた、ユダヤ教に対決するのである。

ある時、こずるい、ファリザイ人が、イエスにたずねる。
お金は、誰のものかと。
イエスは、そのコインの肖像は誰かと問う。
チェザルだと言う。すると、イエスは、チェザルのものはチェザルに、神のものは、神に返せと言う。

一世紀と、今の二十一世紀に大差はない。
地獄の沙汰も金次第という、ことわざがある。
都会では、黙っていても、金がかかる。
一に金、二に金、三に金、四、五がなくても、六に金である。

このイエスの言葉の問題は、解決していない。
ローマカトリックは、世界有数の金持ちである。
天の国には、入ることが出来ないのである。
あらっ、どうしょうと、思わないで、堂々と、ローマカトリック、福音宣教とやっているところは、甚だしく、厚顔無恥である。

ある、新興宗教の教祖は、幹部に言う。
30人、信者を作れ。そうすれば、生活が出来ると。
一人30人の信徒をもって、皆、生活をしているのが、宗教家である。それ以上になると、貯蓄である。

寺を見よ。
表面も、金を使う。本尊も金である。皆々、金まみれである。
どこに、仏陀の教えがあるのか。
驚くことは、僧侶も、金ぴかである。
袈裟から、帽子まで、金ぴかである。
口を開けば、先祖供養を言う。そして、金を集める。
商売でなくて何か。
イスエは、言う。
地獄に落ちろ、と。

宗教団体の信徒は、大半がアホだから、選挙の票になる。故に、政治家は、法律で、宗教を、特別視して上げる。宗教法人というから、笑う。
税金のかからない、商売法人と言えば、もっと、支持を集めるだろう。

私も、昔、知り合いの不動産業者から、「先生、ここだけの話、宗教法人付きの寺買わないかい」と誘われたことがある。
一度や二度ではない。
要するに、幽霊寺になってしまって、誰も手がつけられなくなったのである。
そのもの、ズバリ、幽霊が出る寺である。

住職の奥さんが相談に来て、寺に幽霊が出る、何とかして欲しいと言われたこともある。
こういうのを、空いた口が、塞がらないという。

キリスト教系の国の大金持ちになった人は、必ず、ボランティア活動、福祉活動、そして、公の奉仕をする。それは、このイエスの言葉が潜在的にあるからだ。

しかし、代々の金持ちは、そんなことをしない。
血の中に、所有欲の塊が入っている。容易なことでは、取り出せない。

しかし、貧乏人の中にも、その塊がある。
同じものである。
所有欲の塊である。

仏陀の弟子である、目連が、神通力を得た。そして、仏陀に言う。亡き母の姿を見たいと。三度、駄目だと言われる。しかし、四度目に、仏陀は、許す。
目連は、母が地獄で牛になり、引かれて苦しんでいる姿を見て、悲しみ、仏陀に言う。
「だから、見るなといったろう、馬鹿が。お前の母親は、施すということを一切しなかった。だから、地獄で、その心根を、叩き潰されている。しかし、アホならなー、それでも、解らないだろうなー」と、言ったかどうかは、解らないが、目連は、仏陀に、母のために、何か出来ないとたずねる。
仏陀は、そこで、「それなら、本当は、自業自得なんだけど、応援するというのは、どうか。地獄のおかあさんに、頑張れと言うのは」と言ったかどうか、知らないが、それから、盂蘭盆会が始まった。
先祖励まし大会である。
それが、日本に来て、日本の御親祭りに、便乗して、お盆を作り、寺が主導権を握った。汚い奴らである。
元々、日本にあった、先祖祭りである。

ちなみに、供養という言葉の意味は、尊敬すべき聖者をみなば、彼の人に供養せよ、である。つまり、生きている人、尊敬する人に、差し上げるものである。

正しい仏教の言い方にすると、回向という。また、慰霊という。
ちなみに、神道では、一切しない。
御親、みおや、奉りである。

死んでからも、世話をかけるな、アホと、私は言う。

もう一つの極めつけ、先祖供養というブッキョウの皆々、どこからが、先祖でしょうか。
あの、アフリカ東南部からの、先祖でしょうか。
それとも、30代まえくらいからのでしょうか。それでも、一億人になります。

先祖に祟られるならば、先祖を捨てればよい。
先祖と縁を切ればよい。

さて、イエスの言葉である。
捨てた後で、百倍になるという。
それが、嘘である。
聖書を書いたマルコの誤り。

百倍になるとか、ならないとかの話ではない。
そんな問題ではない。

報いを受けるということを前提にする、宗教のお話は、すべて、嘘、大嘘である。

そんな問題ではない。
それを語るに、もう、私のエネルギーがないので、以下、省略する。

キリストの絶唱30

新約聖書の記述に、奇跡がなければ、無に等しい。
聖書になる意味が無い。

イエスの奇跡は、無かったと簡単に言う者たちがいる。聖書学者と言われる者にも、そういう者もいる。

それでは、聖書の価値は無い。

イエスキリストの神は、奇跡の神である。

そして、教祖の多くは、奇跡を行った。
奇跡は、何も不思議なことではない。

今、現在も奇跡を行う者は、多い。
私も、数名知っている。

奇跡が無いという者には、奇跡は、起こらないだろう。必要ないからだ。

一時期、普通のサラリーマンが、手のひらで病を癒す力を得た。
映画にもなった。

奇跡とは、今、現在の時点では、ありえ得ないことを言う。
キリスト教布教に、最新の物を持って当たった宣教師は、神と思われた。要するに、考えに及ばないことが、起こると、人は奇跡と言う。しかし、それを得た人に取っては、当たり前のことである。

イエスの奇跡は、当然あった。
ただし、重大なことは、その力が、どこからのものかということだ。
彼のサラリーマンが得た力は、どこからのものだったのか。偶然に与えられたと、考えるが、決して、そんなことはない。前世に原因がある。
前世、そのための修行をしていたのである。しかし、前世で、その力を得ずして、死んだ。今世で、それが目覚めたのである。
と、そうだとすると、まだ、マシである。
しかし、特別な霊団によって、それを得たならば、非常に危険である。

それを、古神道では、サニワするという。要するに、霊の審判をするのである。
マルコ福音の第10章46節にも、めくらの乞食が現れる。

めくらは、上衣を投げ捨てて、おどりあがってイエスに近づいた。イエスが「あなたは、私になにをしてもらいたいのか」とおたずねになると、めくらが「先生、見えるようにしてください」と答えた。イエスは、「行け、あなたの信仰があなたを救った」とおおせられた。めくらはたちまち見えるようになり、イエスについていった。

病気治しは、教祖の教祖たるところである。
イエスの奇跡に無いものは、天候を左右するものである。
天の様を変えることは、病を癒す奇跡より、簡単である。
例えば、台風の進路を変える。曇りを晴れにする、とか。

イエスの奇跡は、最も、厳しいものである。
自分にである。
福音宣教を言うならば、奇跡の力があって、言えるのであり、奇跡を成せない者は、福音宣教など出来ないのである。
何と無ければ、イエスは、弟子たちに、悪霊を追い出し、病を癒す力を与えている。
世界のキリスト教徒に言う。奇跡を成せない程度の信仰ならば、無いと同じである。

奇跡を精神論で、云々することなかれ。
そんなものではない。
奇跡は、奇跡として、成って、奇跡である。精神論の入る隙は無い。

奇跡を成せない者が、苦し紛れに作ったものが、教義である。
そんなもので、誤魔化されない。

からしだね一粒の信仰があれば、山をも動かすとイエスは言う。

祈りは叶えられる。
叶えられないならば、叶えられない力しかない。

インド、バラモンには、呪術がある。それが、ヒンドゥーにも、引き継がれ、しまいに、密教に引き継がれた。勿論、魔界の力である。
バリ島などにも、それが伝わり、今でも、ブラックマジック、ホワイトマジックというものがある。
ブラックマジックは、相手を不幸にし、病に、果ては、殺す。
それを、ホワイトマジックで、解消する。

陰陽師安倍清明は、矢張り、式神を用いて、マジックを掛けたり、解いたりした。勿論、式神とは、インド系の魔界に縁するものである。

魔界系は、使いやすいのである。
しかし、その後が悪い。

イエスは、言葉で癒した。
凄まじい、言葉の力である。
これを、古神道で言えば、言霊である。

立って行け、あなたの信仰があなたを救った。
これ程の、権威ある奇跡を行った者は、イエス以降いない。

狂いのエネルギーでも、無理である。
矢張り、次元のマジックを使用した。
それは、一度、別次元に連れて、そこで癒し、現実に戻すのである。
それを、周囲の人は、見抜けなかった。

簡単に言う。
肉体の病は、この次元のものである。それが、霊的な病によるものであれば、霊的な病を癒すことで、肉体を癒すのである。
ただし、霊団による病の場合は、その霊団と対決する。ゆえに、祈りが必要になる。

多くの霊に憑かれた人という場合が、そうである。

悪魔祓いというものがある。
それには、霊界の力が必要になる。

イエスには、アブラハムからエリア、モーゼ等が、援軍に当たった。

大陸を支配する霊界、ヒマラヤである。
その下に、それぞれの地域の霊界がある。

イエスの言う父なる神も、ヒマラヤ霊界である。
それでは、ちなみに、日本には、高天原霊界、タカアマハラ霊界という。
その主宰神として、総称して、天照大神が存在する。

イエスの奇跡の大本が理解出来れば幸いである。

2007年08月06日

キリストの絶唱31

マルコ福音、第11章からは、イエスの受難が描かれる。
エルサレムに近づき、イエスは、小ろばに乗って、入城すると、人々は、自分たちの上衣を敷き、あるものは、木の枝を野原から取り、道に敷いた。
そして前を行く人、後を行く人も「ホザンナ、賛美されよ、主のみ名によって来るおん者。祝福あれ。今ぞ来る、われらの父ダビデの国。いとたかきところにホザンナ」と叫んだ。

ホザンナとは、ヘブライ語で、私たちを救ってくださいという意味。この時は、歓呼の叫び、万歳との意味になる。

イエスはエルサレムに来て、神殿にはいり、まわりを見まわされたが、もう夕ぐれになっていたので、十二人をつれてベタニアに出ていかれた。

イエスを歓迎した人々は、イエスを、この世の王になるべくある人だと信じていた。
しかし、と、すると、大変、お目出度い人々である。
イエスには、軍隊も、国を作る何物も持たないのである。
貧乏な、宣教の一派だった。

当時は、イエスのように、メシアだと言う者、多数。
要するに、新興宗教の形相である。
しかし、それらの人から、抜きん出たのは、十字架刑である。

神殿に入り、周りを見渡したが、夕暮れになっていたので、ベタニアに出ていかれた。
この、何でもない記述を説明する人はいない。

イエスが、神殿で教えを説いたが、神殿で祈るという、記述は、一つも無い。
イエスが祈るのは、すべて、人里を離れての、山である。

ここに、重大な意味があることを、知らない。

神殿は、イエスにとって、祈りに相応しい場所ではない。

神殿とは、その名の通り、神の住まいである。イエスも、神の玉座という。
しかし、そこで祈ることはない。

祈り、とは、何か、である。

隠れたところに、おいでになる神には、隠れて祈れと、イエスは言う。

ただ今、教会がある。
チャーチは、カトリックに、チャペルは、プロテスタントの教会をいう。

祈りにも、ピンからキリまである。
ピンは、イエスの祈りのように、人里を離れての場所である。キリの祈りは、建物の中で行われる。

建物の中で行われる祈りは、妄想、自己催眠程度のものになる。

イエスは、弟子たちに、どのように祈るのかと問われて、天にまします我らの父よ、との、祈りを教える。
それは、今でも、すべてのキリスト教徒が、唱える主の祈りと言われるものである。

ユダヤ教で、さんざん、祈りについてを、教えられても、実際は、祈りを知らなかったのである。

祈りとは、自己対座、自己観照である。それが、第一である。
そして、レベルが高くなると、祈りは、語り合いになる。誰と、語るのか。霊人とである。

祈りという言葉を、もっとも解りやすく言うには、言霊の古神道の祈りを言うと、解る。
イ、ノ、リ
イを宣べるのである。
イとは、意識の意である。
祝詞は、宣る言葉である。

言葉にすることは、成就するというのが、言霊である。
沈黙することを、黙祷といい、それを、意識的に、あるレベルの心の状態に置くことを、瞑想という。
座禅の座るという行為も、瞑想に近い。
しかし、この瞑想とは、何かというと、非常に難しい。

インドのヨガから、瞑想が始まった。
それが発展して、チャクラを開く等々の、怪しい、教えというか、妄想がはじまった。
七つのチャクラ、または、九つのチャクラ等々、皆、嘘である。
体は、すべての部位がチャクラである。

三蔵法師玄奘は、このヨガ、つまり、大乗仏教におけるユガ論を、求めて天竺に旅した。
だが、実際、ヨガは、インドバラモンから発したものであり、それが仏教にも、受け継がれて、修行の一つとなった。

ヨガで痩せるという程度のヨガならば、大したことはないが、それで、妄想の悟りなどというと、おかしなことになる。

玄奘は、理屈攻めで、その教えを学んできた。
ただ今、日本で読経される、仏典の翻訳も、玄奘のもの多数である。

私は、下手な小説で、玄奘を書いたが、玄奘の創設した、法相宗の教義にまで至ることろまでは、書くことが出来なかった。

玄奘は、晩年、自分は、学を為してきたが、実際、それを実践しなかったと、言う。そして、亡くなった。

ヨガは、禅宗に受け継がれて、中国禅を創作し、それを、道元などが学んできた。
仏に至る道は、多数ある。
日本の仏教は、皆、中国思想を加味されたものである。

祈りは、自己対座であり、自己観照である。
そして、祈りは、次元を超えた霊人との対話である。

日本の伝統は、言葉が神であるから、一切の手続き無しに、言葉に発することによって、祈りの行為が成った。
口から発する音が神であるから、それは、多くを語らない訳である。

西洋思想、西洋宗教学等々は、語るをよしとする。

イエスは、長々と言葉を発する祈りをする、ユダヤ教徒を徹底して、攻撃した。
それを、偽善者と呼んだ。

イエスの奇跡の言葉は、治れである。
言霊である。
治れと言えば治るのである。

祈りに至る手前で、皆、躓いているのである。
イエスが言う信仰に至らない者が、延々と、言葉の祈りを繰り返す。

弥栄と言えば、弥栄がくるのである。
イヤサカという音霊、オトタマが働く。

人は祈り続けてきた。
これからも、祈り続ける。
しかし、神殿で祈る程度では祈りにならない。

これを語るに、死ぬまでも、それ以上もかかる。
故に、以下、省略。

2007年08月12日

キリストの絶唱33

イエスは、たとえ話をする。

ある人が、ぶどう畑をつくり、垣をめぐらし、見張り所を立て、それを農夫たちにまかせて、遠方に旅立った。時節がきたので、ぶどうの収穫のわきまえをうけとらせるために、農夫たちにしもべをおくると、農夫たちは、かれをとらえてうちたたき、空手で追い返した。

何人も、おくったが、なぐられたり、殺されたという。
そして、最後に、息子をやると、農夫たちは、跡継ぎだと言い、殺せば、財産は、われわれのものになると言い、殺した。

さて、ぶどう畑の主人は、どうするだろう。と、問いかける。

自身でやってきて、農夫たちを亡ぼし、他の人々に、ぶどう畑を任せるにちがいない。
あなたたちは、「家つくりの、捨てた石が、すみの親石となった。これは主のみわざで、私たちの目にとってはおどろくべきことだ」という聖書のことばを読んだことがないのか」と言う。

この聖書の言葉とは、詩篇118章22,23節のことである。

聖書解釈をみる。
神は、ぶどう畑の主人で、ぶどう畑は、イスラエルの国である。
神は時機に応じて、預言者、義人を使わしたが、イスラエルの悪辣な指導者たちは、彼らを虐待した。そして、最後の息子まで、殺すということ。
神の子イエスも、殺されるということを言う。
このため、神は怒り、イスラエルの遺産を、キリストの教会に譲るという、ものである。

このイエスの、たとえ話は、実に、悲惨であり、驚くほど、暴力的である。
あちらの民族の性質を、よく表すのである。

この、キリスト教会とは、どこの教会かといえば、カトリックである。

カトリック教会というものも、一つの派閥であったが、皇帝と組んで、絶大な権威と権力を持った。
それが、イエスの言うことなのかと、疑問である。

イエスの説教からは、世界宗教に発展する要素は、無い。
あくまでも、イスラエルの宗教で、止まる。

アブラハム、イサク、ヤコブの神である、旧約の神である。
ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、主とする神である。

聖書解釈によれば、イスラエルの民は、メシアを拒み、殺した。故に、神は怒り、その契約を、キリスト教会に譲るということになる。
完全に、ユダヤ教との、決別であり、和解のなにものもない。

ユダヤ教は、いまだに、メシアを待ち、キリスト教は、イエスをメシアとし、イスラム教は、ムハンマドを、最後の預言者として、旧約の神を、奉る。

ユダヤ教、イスラム教は、偶像を嫌い、カトリックのように、イエスの像も、マリア像も、聖人たちの像も置かない。

三者は、決して妥協することなく、いつまでも、敵対し、対立する。

イエスの言葉が空しい。
祈る前に、敵を許せ。そうすれば、父なる神も、あなたがたを許す。

この世で、最低、最悪の観念は、宗教である。

観念まみれ、である。

誰もが認めることだが、原始宗教形態は、太陽信仰である。
そして、土地、地球であり、自然界のあるもの、水や、樹木等々のものである。
そして、人間の男根、女陰信仰である。

観念として、宗教が現れたのは、4000年から5000年前である。
旧約聖書の最初も、4000年前ほどである。
実は、旧約聖書は、ペルシャ、現在のイランに起こった、ゾロアスターに影響を受け、アフリカの土着信仰に影響を受けている。

エジプトのラーという神も、自然神であり、太陽信仰からのものである。

そして、日本も、同じく太陽信仰である。
大陸から切り離されたのは、12000年前である。
列島になり、それ以前の太陽信仰を、そのままに、引き続き、縄文へと至る。

アマテラス、天照という方は、実在の人物である。
太陽信仰を説いた、夫である、天皇、大王としておくが、その死後、引き続き、民に太陽信仰を説いていた。
富士王朝という人もいる。
大和朝廷は、その、富士王朝を、凝縮して、その続きだとした。

ただ今、遺伝子研究により、言語の系統研究が、大きな成果をあげている。

遺伝子学の知見によれば、現代人の祖先は、今から15万年から20万年前に、アフリカに発生し、その後、枝分かれした。

アフリカ中北部、ナイル川上流にさかのぼる。
ヒトの集団が、アフリカの中で、東西に分裂しはじめたのが、20万年ほど前である。
西に行くものは、大西洋に阻まれて、南下し、アフリカ南部で行き止まる。
東に行くものは、北に向きを変えて、スエズ運河を通り、カスピ海南部に至って、5500年ほど前に、南北に分かれる。
南に下ったものは、インドからインドネシアを経て、中国南部と、オーストラリアに行き着く。
北上したものは、カスピ海の北で、35000年前から40000年ほど前に、コーカサスの北を通り、西のヨーロッパ方面に行くものと、中央アジアへ行くものに、分かれる。
東に向かい、東北アジアを経たものは、今から、30000年前から15000年前に、再び細分化し、ベーリング海峡を越えて、アメリカ大陸へ行くもの、満州、モンゴル、チベット、朝鮮半島、そして、日本へと別れた。

列島が大陸から、切り離された記憶が、古事記の、国産みの記述としてある。

言語については、いずれまた、書くことにする。

こうして、人類が生き延びて、今に至る。
彼らは、生きるに必死だった。
原始宗教体験とは、その生きることに関わるのである。
つまり、自然との折り合いである。自然の脅威を、現在の神という観念に近く持ち続けたはずである。
しかし、名は無い。
一日を、支配するのは、太陽である。
それが、太陽信仰への、第一段階であった。

遺伝子学からの言語についてが、人類の有様を言う。
この言語とは、人間の最も素晴らしい創作であり、創造であった。
そして、一気に言うが、言語が、観念の生みの親である。

エジプトの言葉の発生は、実に神聖なものだった。

私がいいたいことは、そこに立ち戻る時、現在の宗教の誤りが、理解できるということである。
作られた言語による観念の産物が、宗教である。
つまり、宗教は、人間が創造したものであること。それは、つまり、神というものも、人間が、創造したものである。

加えて、霊的存在の関与である。
この霊的存在の、問題は、後日に譲る。

いずれにせよ、書かれたものがあるということは、書かれなかったものがあるということである。
そして、書かれなかったものの、方が、当然、レベルが高いのである。

2007年08月17日

キリストの絶唱34

一人の律法学士がイエスに問う。
「すべての掟の中で、どれが第一のものですか」と。
するとイエスは言う。
「第一の掟は、こうである。
 イスラエルよ、きけ、私たちの主なる神は唯一の主である。
 あなたは、すべての心、すべての霊、すべての知恵、すべての力をあげて、主なる神を愛せよ。また、第二は、これである。隣人を自分と同じように愛せよ。これより、重大な掟はない。」

イエスの言葉は、すべて旧約聖書に書かれている言葉である。

私たちの主なる神は唯一の主である。
これは、旧約からの伝統である。
唯一の神である。
アブラハム、イサク、ヤコブの神という。
彼らにコンタクトした神である。

イスラエルにとっての、主は唯一なのである。
当時のイエスの世界観は、どんなものだったのか。
新約時代のパレスチナの世界観は、ローマ帝国である。そして、エジプトやギリシャ。さして広くはない。

ただし、イエスは違う。
30歳から、宣教するイエスの、その前の生活を知ることはない。
15歳で、神殿にて、司祭たちと会話するのを聖書は、書くのみである。
それでは、それ以外の時間は、何をしていたのか。
父ヨゼフの大工の仕事をしていたとは、言えない。
イエスは、旅をしていたのである。

旧約の地である、シナイ半島、アラビア、ペルシャ、そして、インド、中国である。
その説教の内容を見れば、旧約の神を凌駕している。
また、新しい説教の内容は、当時としては、画期的なものである。

律法学士や、ファリサイ人たちは、イエスの権威ある説教に、いつも驚いていた。しまいに、あなたの権威は、どこから来るものかと、問う者もいる。
イエスは、知ったのである。
様々なものの考え方、様々な信仰形態を。

知能優秀な者を、優秀ではない者は、理解できない。
例えば、本のページをめくると、すべて頭に入る人などを、覚えることが、やっとの人は、理解できない。天才を凡才は、理解出来ない。

頭の悪い人が素直にならないのは、素直になれないからである。要するに、理解が出来ないのである。
人間は、実に不平等である。

イエスは知っていて、イスラエル人に、イスラエルの言葉で、説教するために、旧約聖書からの言葉を引用し、方便をもって、説教を繰り返した。

方便といえば、仏陀も、そうである。
難しい話を、難しく話しても、誰も理解できないのである。
そこで、たとえ話ということになる。
方便を便利な方法という人もいるが、言葉遊びである。

仏典は、仏陀の方便を、説いたものである。しかし、その解き方も、人それぞれである。全く、見当外れもある。
権威により、定説とされるが、違う。
権威にある者に、都合よく、解釈される。

カトリックは、法王の権威によって、解釈を限定するが、プロテスタントになると、聖書主義といい、その解釈は、百人百様である。

イエスは、ペルシャに起こった、ゾロアスターの教えも学び、インドにては、古代インドの教えを学び、中国に行けば、道教、儒教の教えも、学んだ。
そして、改めて、旧約聖書の神と対座した。
そして、そこにあるメシア思想に、自分が関与する者であることを、知る。

創世記からはじまる五つの書を、モーゼ五書と呼び、また、それを律法と呼ぶ。
それから、千年以上を経て、未だに、旧約の迷いにあるイスラエルに、イエスは、対峙する。
この民の神を、より広く、世界に通用すべくの教えに変容させることであると、気づくのである。
ゾロアスターの愛の思想、仏陀の平等と慈悲の思想、そして、為政者のための、儒教、様々な術の道教、それらに、相応しい世界的教えを、旧約の神の言葉を通して、イスラエルに語ること。

知る者は、苦しむのである。

主なる神という、核を持たなければ、混乱極まりなくなるイスラエルの人々に、旧約の神の言葉から、刷新させるべく、宣教を繰り返すことになる。

その、第一の掟が、主なる神を愛すこと。そして、隣人を自分と同じく愛すこと。
限定された、旧約の神観念を、広げるべくの宣教である。

イエスの教えの、斬新さは、隣人愛である。
これが、当時では画期的なことだった。価値の転換である。
敵を愛せよ。
敵とは、異教徒である。つまり、他の宗教、他の神を拝む者である。
これ程、画期的なことは無い。

隣人とは、敵のことである。

イエスキリストの十字架は、人間の原罪の救いではない。
それは、異教徒を愛する、許すということの、証明である。
命懸けで、それを、伝えたのである。
そのために、命を捨てた。捨てるに値する、思想である。
世界は、そうしなければ、いずれ滅ぶのである。

狭い民族主義、選民意識を捨てること。それなくして、人間の生きるべき道は無い。
主なる神を愛することは、敵を愛することなのであるという、人類への、語り掛けである。

さて、その教えは、どうなったか。

全く、逆になった。
イエスの思想は、その信者によって、全く別物になったのである。

民族意識旺盛、選民意識旺盛、そして、敵を殺し尽くすこと。異教徒は、殺せである。
旧約の神が、その威力を発揮して、イエスの教えを、無に帰すことをする。
そして、イスラムの登場である。
旧約の神、ムハンマドに懸かり、対立をもたらすのである。

2007年08月18日

キリストの絶唱35

イエスは、神殿で教えておられたとき、「律法学士は、どうしてキリストをダビデの子だといっているのか。
ダビデは聖霊によって、主は私の主におおせられた、私があなたの敵を、あなたの足の下におくまで、私の右にすわれ、とみずからいっている。ダビデ自身が、キリストを主だといっているのに、どうしてダビデの子なのか」とおおせられた。

マルコ福音書12章35,36,37節である。

私がマルコ福音を引用するのは、最古の、極めて、信憑性が高いといわれる、書き物だからだ。
マルコは、洗礼者ヨハネの存在から、書き出している。
54年から、60年にわたって書かれたといわれる。
イエス死後である。

新約聖書の信憑性は、実に薄い。
マタイ、ルカ、ヨハネの福音は、マルコより、もっと後のものである。
その他、カトリック教会が、認可しない福音が、数多くある。しかし、それらを載せると、とんでもない書物になってしまうのである。
奇想天外、嘘八百である。

メシアは、ダビデの家系から出るとは、旧約聖書にある。
そのため、マタイ、ルカの福音書は、そのための記述をするが、実に苦しいものである。
こじ付けである。その矛盾に、キリスト教徒は、気づかない。
例えば、マタイが、ヨゼフをダビデの子孫とするのに、28世代を言う。ヨハネは、41世代を言う。

「19世紀以来、学術的な神学研究者たちは、「福音書は現実世界の歴史で起こったことについての信頼できる記述ではない」という決定的な論証をおこなってきた。すべてはイエスが死んでからずっと後になって書かれたものであり、パウロの手紙よりも後であるが、この手紙には、イエスの生涯にあったとされている事実のほとんど何一つとして触れられていない。すべてはその後に、多数の伝言ゲーム世代を通じて、いずれにせよ自らの宗教的大義をもち、誤りを犯しがちな筆写者たちによって、何度となく繰り返し書き写されてきたものである。」
利己的な遺伝子を書いた、リチャード・ドーキンスの「神は妄想である」から。

イエス誕生の、お話の本質は、すべて、地中海、および近東地域にすでに存在した他の宗教から借用しているという経緯も解った。
イエス伝説の本質的な特徴のすべてである。
東方の星、処女懐胎、王による赤子への虐殺、奇跡、復活と昇天を含めてである。

「この四人の福音伝道者がどんな人物であったかは誰にもわからないが、彼らが直接イエスに会ったことがないのはほとんど確実である。彼らが書いたことのほとんどは、正直な歴史を書こうとする試みではけっしてなく、「旧約聖書」の単なる焼き直しにすぎなかった。なぜならば、福音書の書き手たちは、イエスの生涯は「旧約聖書」の預言をかなえるものでなければならないと心底から信じ込んでいたからである。」
ドーキンス

こうした、学者たちの試みは、実に有意義である。
それは、妄想を廃するためである。
歴史と伝説は、違う。
しかし、神話であれば、伝説より、意識の深い、何かを探ることは、出来る。
宗教の経典には、皆、このような、とんでもない、妄想、空想が潜んでいる。

イエスの説教も、すべて、旧約聖書の言葉から発している。
つまり、旧約聖書とは、ユダヤ人の共通言語であるから、それを使用しなければ、会話が成り立たないのと同じである。

盛んな新興宗教を見れば解ることだが、突然変異のようにして、出たものより、既成のものから、出る方が、人が集う。
日本の場合で言えば、神道系、それを、教派神道という。そして、仏教系ならば、断然、法華経である。
何も無いところからは、何も生まれないのである。

それらを、ちょこちょこと、アレンジして、新しい宗教のように装うのである。
頭の悪い者を、騙すのは簡単である。

そんな中で、上席を占めるのは、知能の高い者、あるいは、寄付金を多く払う者である。
後は、雑多として、頭数である。それらを、集金マシーンにして、宗教は成り立つ。マシーンになっても、気づかないというのは、実に、気の毒であるが、それを喜んでいるから、世話はない。
そういう者は、すでに、十分救われている。
子供に飴を与えて、喜ばすに似る。
実に、おめでたい、のである。

死ぬまでの暇つぶしに、宗教ほど、楽なものは無い。
無いモノを在ると、信じているのである。こんな、おめでたいことがあるか。そして、もう一つ、人間は、妄想の産物を必要とするということである。

私の霊界という、話も、その一つである。
私の妄想である。
ただし、一つだけ言えることは、この世は、妄想であるというこどた。何一つとして、絶対的なものはないから、妄想でも持たないと、やってられないのである。

実に、人生とは、悪い冗談である。

呪いが叶うなんて、楽しいではないか。
どうだろうか。
祈りが叶うなんて、実に、楽しいではないか。

「精神病院にいる人間は、自分がナポレオンやチャーリー・チャップリンだとか、世界全体が自分に陰謀を企てているとか、あるいは自分の考えを他人の頭の中に吹き込むことができると思い込んでいる。私たちは彼らに調子を合わせるが、彼らの心の内に啓示された信念を真面目には受けとらない。その主たる理由は、彼らと同じ体験を共有する人が多くはいないことである。宗教的な体験がそれと異なるのは、そういう体験をしたと主張する人間が無数にいるという点だけだ。」
ドーキンス

サム・ハリス「信仰の終焉」から。
「合理的に正当化できるような根拠がないあれやこれやの信念をもつ人々を指す名称はいくつもある。そうした人々の信念が極端にありふれたものであるとき、私たちはそれを「宗教的」と呼ぶ。そうではないときは、おそらく「狂気」、「精神病的」、あるいは「妄想症」・・と呼ばれる。明らかに、大勢いれば正気とみなされるのだ。」

「だから、宗教的な人間一般が狂っているとは言わないが、彼らの核心にある信念はまちがいなく狂っている。」

信仰とは、理性を麻痺させる。
麻薬を打つ者は、麻薬を打つという感覚を失う。
そして麻薬患者となる。

信仰も同じで、感覚を失い、聖人と言われるようになる。
人間とは、実に不思議なものである。

2007年08月19日

キリストの絶唱36

イエスはみ教えの中で、「律法学士たちに気をつけよ。かれらは長い服をきて歩きまわることと、広場で敬礼をうけることと、会堂の上座、宴会の上席につくことを好み、やもめの家をむさぼり、長く祈るまねをするが、かれらのうける審判は、ひとしおきびしいことだろう」

モーゼ律法の教師たちである。ユダヤ教の代表である。彼らを、ここまで叩き切るとは、凄まじい迫力であり、彼らを敵にすることは、ユダヤ人を敵にすることになる。
何故、イエスは、そこまで、彼らを糾弾するのか。
偽善者だからである。

現在の日本では、僧侶たちのことである。
宗教指導者の、有様には、辟易するのである。

門主、門跡、管長、座主、特に血筋を持っての、宗教団体の有様は、腐りきっている。
広く貧乏人から金を集め、その嘘八百の教義なるものを持って、妄想を信徒に与えて、弥陀の本願、成仏等々の言葉で、撹乱させる。
一般人より、仏陀に遠い生活をして、僧侶という。呆れる。

果ては、幼稚園経営から、墓地、納骨堂経営までなし、仏陀の教えとは、遥かに遠い。

乞食、を、彼らは笑うことは出来ない。
彼らこそ、華麗なる乞食である。

全く、仏典の教養も無く、他力だの、自力だのと、のうのうと、ブッから、呆れる。
その、食肉妻帯の様にも、呆れる。

仏陀は、出家者には、厳しい掟を与えた。
女の膣に、ペニスを入れてはならない。
それを、堂々と、やっているのである。

ひとしお厳しい審判が待っているだろう。との、イエスの言葉は、なにも、律法学士たちだけではない。

仏陀の仏教を見捨ててもいい。
では、道元の曹洞宗は、どうか。
二年程度の修行を経て、寺の跡取りになれば、安泰した生活を送る。
後は、やりたい放題である。
信じられないの一言。そして、尊敬されるというから、開いた口が塞がらない。

ヤクザと、僧侶の見分けがつかないと言われるほどであるから、そろそろ、信徒も、目を覚まして、寺から見切りをつけるべきである。

何度も言うが、日本の仏教は、仏陀の仏教ではない。
全く関係ないのである。
大乗仏教ということろから、誤っている。
それが仏教の発展という人がいるが、単に、堕落したのである。

勿論、多くの識者や、論者は、日本仏教を擁護する。金になるからである。
宗団に、取り入れれば、金になるのである。

少しの常識的見解があれば、それに迷うことはないが、少しの常識的見解も無いのである。

矢張り、騙される者が悪い。

さて、イエスの言葉である。
自ら、苦境に立つであろうことを言う。

すべて、重荷を負う人、疲れたる者は、我に来たれ、我、汝を休ません。
と言えば、私は、この世に剣を持ってきた。対立を持ってきたと、言う。

キリスト教徒は、前者を使い布教をするが、後者を言うことはない。その意味が解らないからである。

イエスキリストが行いたかったこと、それは、人間が作り出した、神観念からの、脱却である。
神は、人間が創造したものである。
旧約聖書の神観念のみにしか、頭が回らない者たちに、その神の言葉を持って、つまり、それを方法として、教えを説いたのである。

勿論、そのイエスキリストの言葉も、後に、教会が、権力を保つために、支配するために、都合よく作られたものである。

実は、世界は、もはや、一神教の教えでは、限界に来ているのである。
滅びる前の、消え入る前の、盛況を今は、現している。

古代から、ヒトは、畏敬の思いを抱いて生きた。
それは、自然である。
ヒトが人間になっても、潜在意識の奥底で、古代の記憶が残る。
その、畏敬すきべきものを、神という観念にすり替えたのである。

あらゆる宗教の七割以上の人は、本当に、信じている訳ではない。慣習、習慣によるものである。
どちらかと言えば、信じていない人の方が多い。そして、それは正しい。

イエスが言うところの、天国とは、霊界の話であるが、当時の人に合わせて、旧約の観念から、それを説いたのである。
旧約聖書の観念に、雁字搦めにされている者たちを、正常に戻すには、どれほどの、方便が必要だったか。

念仏を信じている、老婆に、教えを説くことは、容易ではない。
念仏によって、極楽に行くと、信じ込む者に、説く、言葉はない。
それなら、念仏を通して、正しい霊界の話を説く方が易い。

イエスはメシアと、呼ばれる。メシアとは、救い主ということである。そして、宗教は、救いという観念を説くが、実は、救いという観念は、観念のみあり、実体が無い。

生きるということが、実に不安定なことである。そこに、付込んでの、不安増大を煽り、その不安からの開放を救いという言葉にするのである。
悩む者を、餌にして、この壷を買えば、悩みが解消するという、悪徳商法の手口と同じなのである。
宗教とは、合法的悪徳商法である。

人間は、宗教的であれば、よい。
宗教的とは、自然に対する畏敬である。それは、生命に対する畏敬である。
それを、神や仏の観念として、人間から引き離し、対立したものとして、教えるから、誤るのである。
宗教は、完全に誤りである。
人間は、宗教的であれば、よい。

2007年08月23日

キリストの絶唱38

夕暮れになったので、イエスは十二人をつれていかれた。みな席について、食事をしていたとき、「まことに私はいう。私と一緒に食事するあなたたちのなかに、一人、私をわたす人がいる」とおおせられた。彼らが心配して、それぞれ「私ですか」とたずねた。イエスは「十二人の一人で、私と一緒に鉢に手をかけるのがその人だ。人の子は、自分について書かれてあるとおりにいくが、しかし、人の子をわたすその人はのろわれたものだ。この人にとっては、むしろ生まれないほうが、よかったものを」とおおせられた。

この箇所は、完全に創作である。
たとえ、神の子と言えど、それは、決して口にしてはいけない言葉がある。

むしろ生まれないほうが、よかったものを
とは、全くの、出鱈目である。

裏理切り者のユダの存在がなければ、新約聖書の、大切な役者がいなくなるのである。ユダは、イエスの最大の功労者である。
実は、このユダの書物も、残っている。
ユダの福音書と呼ばれる。

ユダは、イエス集団の経理係りのような世話をしていた。
いくらイエスでも、毎日奇跡を起こして、食べ物を得ているわけではない。
食事の世話から、寝泊りする場所の確保などを手配していた。

生まれを否定する者は、悪魔以外にない。
つまり、存在の否定は、無い。あってはならない。
まして、神の子であるならば、それを言えば、神の存在さえも否定することになる。

ヒットラーも、ポル・ポトも、毛沢東も、その存在を否定できない。彼ら一人で、殺した人の数は、星の数になるとしても。

福音書のユダの裏切りは、下手な芝居より悪い。

ユダは、周到に計算して、自分の役回りを演じた。
他の弟子たちは、アホだが、ユダは違った。
アホは、何人いても、アホである。アホに、11人掛けてもアホである。
しかし、ユダは、現実をしかと見つめていた。そして、イエスのメシアであることを、遂行させた。
イエスがメシアなら、ユダもメシアである。

最後にユダは、木に首を吊って死ぬことになっているが、違う。
イエスとの対比である。同じく、木で死んだとした。
ユダは、生き続けて、最後まで、その真偽を見つめていた。

新約聖書の中で、イエスの次に存在感を持つ者、それは、ユダである。

イエスの弟子のほとんどは、後に殉教する。
イエスの胸で甘えていた一番年下のヨハネだけが、長生きである。

宗教的天才は、身の回りに男しか、集わせない。
仏陀も、女を遠ざけた。どうしても、弟子にという女が現れた時も、仏陀は、許可しなかった。修行の妨げになるからである。
女には別の生き方があると知っていた。
しかし、仏陀も、弟子たちに懇願されて、女も弟子に加えることになる。

孔子も、弟子は、皆男である。
思想集団に女は入れない。
入れると、乱れる。
女を集団に入れたら、確実に分解してしまう。
つまり、女は、思想集団に向かないのである。

イエスにも、大勢の弟子の集団があったが、女を近づけなかった。

思想集団に内助の功は、いならない。それが、命取りになってしまうのである。
女は、過ぎるから、墓穴を掘る。
女は、人や子供を救う時に、我を捨てて行動する。しかし、そうすると、冷静な判断ができない。助けようとして、自分も死ぬのがオチである。

男の思想集団に理想的なものは、同性愛感覚である。

男同士が愛し合っても、冷静でいられる。
それでも、アレキサンダー大王は、男の愛人に裏切られたのである。
実に、ここのところは、微妙である。
女性性の強い男と、愛し合う時、男も注意を要する。
男として、男を愛するという強い意識のみが、同性愛を確固たるものにする。

ユダは、イエスを精神的に愛した。それは、徹底していた。この人のためになら、鬼に悪魔にもなろうと、腹を決めた。それほど、賢かった。

最も愛されたヨハネは、ユダの愛と違う。
多分に情緒的なものである。が、逃げ出した弟子たちと違う。最後の最後まで、愛してくれた師匠を見つめ続ける。それも、また、一つの愛である。
イエスの母マリアと、イエスの最後を見つめ続ける。

イエスの唇の温かさを知るヨハネの心は、最後を遂行した師匠を、哀しみつつ、誇りに思ったであろう。
そして、確信する。
神の子であったと。
ヨハネだけは、その宣教の仕方が、他の弟子たちと、違う。

イエスの肌の温かさに眠ったヨハネにしか解らない人間イエスの、真実である。

女の体は、円やかで柔らかい。しかし、男の体は、硬く冷たい。
少年が、男の体に抱かれて眠ることを覚えた時、それが実に安定した安らぎを得ることを知る。少年は、生涯、男の体に安らぐのである。

そして、思想集団には、それが必要だった。

女人禁制は、意味がある。

親に愛されて育つ子供は、人を愛することができる。
同じように、男に愛された男は、人を愛することができる。

イエスは、できれば、独身で生きる方がよいという。
それは、多くの人のために生きられるからである。
一人の女を愛することもよし。しかし、多くの人を愛する男は、男に愛された方が易い。
これ以上、説明しない。

女のように男に愛されることを望む男の話をしているのではない。
男として、男に愛される男の話をしている。
理想に生きる男は、皆、男に愛されて、生きる。
古代、男衆、女衆に分かれて作業をしていた意味が解る。
男は、男によって、男になる。
女は、女によって、女になる。
そして、その男と女という、性差のある、違う者同士が家庭を作る時、その経験が生きるということを、古代から知っていた。

ある部族では、男の成人式に、成人男性の精液を飲む。
また、年上の男に愛されて、一人前になり、部族の中に戻り、女と結ばれる。

イギリスの騎士道も、年上の男に愛され、成長して、また、今度は、年下の男に、それを伝える。それを同性愛趣味とする、また判断することの愚かさといったらない。

ユダと、ヨハネの生き方に、男の生き方を観る。

ユダの裏切りを、小説仕立てにして、福音書は、文学として、最低線をいった。

生まれるものをして、生まれぬ方が良かったという言葉は、自然界の激怒を買う。
神の怒りより、自然界の怒りの方が恐ろしい。

もう一つ言う。
誰がイエスかを、ユダが教えるために、ユダが先導してイエスを捕らえたというが、そんなことがある訳が無い。
イエスは、当時すでに有名である。
誰がイエスかを見極めるために、ユダがそんなことをする必要は無い。
イエスを知る律法学者が一人付き添えば、簡単なことである。
それによっても、福音書の、浅はかな、カラクリに愕然とする。
芥川賞も、取れない。
矛盾だらけだからだ。

キリストの絶唱37

マルコ第13章は、世の終わりについて言う。

宗教は、人を脅すものであるから、当然、終末思想、世の終わり等々の、お話を作る。
1999年に向かって、多くの新興宗教が、世の終わりを喧伝した。
そして、人の不安を煽り、信徒を増やすという。

イエスキリストの、世の終わりというものも、その一つに当たる。
しかし、実に、世の終わりは、毎日繰り返されている。
人の死である。

本日か、明日か、明後日か、百年後か、千年後か、世の終わりは、いつもある。
人は死ぬことによって、世を終わる。

今、人類は、核兵器によって、即座に、世の終わりを演じることも出来る。

イエスは、世の終わりの話の後に、御伽噺のようなことを言う。

「さて、その日には、この苦難ののち、日がくらみ、月は光を失い、星は空からおち、天の力はゆれうごき、そして人々は、人の子が、大勢力と栄光とをおびて、雲にのってくだるのを見るだろう。そのとき、かれは天使たちをおくり、地の果てから天の果てまで、地の四方から選ばれた人々を集める。」

旧約聖書の神の奇跡を信じている者たちに、ここまで譬えて言わなければ、迫力に欠けるるのだろう。
しかし、旧約の神も、雲には、乗らなかった。

思い出して欲しい。日本の古事記を。
雲に乗って、天孫降臨したのは、我がタカアマハラ霊界からの、ニニギの命である。

聖書解釈では、世の終わりについて、旧約のイザヤ書における、バビロンとエドムの滅亡の光景を指し、エゼキエル書でのファラオの滅亡を言うとある。
一部の学者は、エルサレムの滅亡という者もいる。
キリスト教新興宗教は、この、イエスの世の終わりの言葉を、この世の終わり、つまり、世界の終わりと、解釈するのである。

選ばれた人とは、キリスト教徒のことを言うと、手前勝手なことも言う。

キリスト教徒のような、偽善者たちが、選ばれるということは、一切無い。
自分たちが、選ばれるという思い込みは、本当に、救いようがない。

人は死によって、この世の終わりを体験する。

「いちじくの木からこのたとえをくみとるがよい。その枝がやわらかくなって葉を出せば、夏が近いことがわかる。それとおなじことで、そういうことが起こったら、事はもうせまってきた。門口に近づいたと知らなければならない。まことに私は言う、それらが実現するまで、今の代はすぎさらない。天地はすぎさるが、しかし私のことばはすぎさらない。」

「だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰ってくるか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないのである。かれが不意に帰ってきたとき、あなたたちはが眠っているのを見つけられることがないように。わたしはあなたたちに言っていることをすべての人に言う。目をさましていなさい。」

伝言ゲームで書かれた福音書であるから、イエスの言葉、説教は、実に、注意深く読まなければならない。書いた者の、願望や、思い込みが激しい場合は、支離滅裂になる。

それらが実現するまで、今の代はすぎさらない。と言い、天地はすぎさるが、私の言葉はすぎさらない。
今の代は、すぎさらない。天地はすぎさる。
何、言ってんのー
今の代が過ぎ去らないで、天地が過ぎ去って、そして、私の言葉は過ぎ去らない。

こういう、とんでもない言葉遊びを、教会は、あのように、このようにと、屁理屈をつける。
自分たちの、都合の良いように、解釈する。
そして、自分たちは、救われると、思い込む。イエスが嫌った、律法学士と同じであることに、気づかない。

それでは、私は言う。
人は確実に死ぬ。その時、世が終わる。
それが、いつになるのかは、誰も知らない。だから、目覚めていよ。
限りある人生である。
死ぬことが救いなのである。そして、それが世の終わりである。
自然死も、事故死も、戦争死も、天災死も、何もかも、死ねば、世の終わりである。
その時が、いつきてもいいように、目覚めていよ。
そういうことである。

旧約の言葉を意識するゆえに、イエスの言葉が複雑怪奇になるのである。

旧約の神ではない、大和の神は、すでに、イエス在世当時より、一万年前に、雲に乗って、天孫降臨している。
旧約の神は、イエス在世当時から、4千年前である。

何を、たわけたことを言う。

ひとえに、神学という、妄想の酷さである。
その解釈大半が、あの、あのである。中世という、教会支配の暗黒の時期になっているのである。
異端審判の、最低最悪の様は、無知としか、言いようが無い。

頭の悪い者が、いくら考え続けても、良いアイディアは、浮かばない。堂々巡りをするのが、精々である。

ムハンマドの起こしたイスラムが、教会支配の地に、乗り込んで、飲み込んでゆくのに、慌てて、十字軍を興す程度の頭の出来である。
何故、イスラムが、支持を得るのかを、考えることが出来なかった、頭の程度が、あの当時のカトリック教会指導者の、知的レベルである。

複雑怪奇な神学より、イスラムの方が、実に、明確で、解りやすい教えだった。
司祭は、いらない。偶像を拝むな。一人一人が、アッラーと結ばれよ。あなたと神の関係である。

今、現在もイスラムは、増大している。
その勢いを、止めることが出来ない教会の、頭の悪さは、尋常ではない。

カトリックの指導者の、キンキンキラキラの姿と、イスラム指導者の、質素さを見れば、誰もが、イスラムを信奉する。
つまり、偽善者であること、明々白日であるからだ。それに気づかないという、頭の悪さである。
教会と、モスクを比べて見よ。
金に任せてキンキンキラキラの教会と、何も無いモスク。祈りのみが有効なモスクである。

ただし、私は、イスラムにはならない。
私は、自然が神殿で、ご神体が太陽の、古神道という、日本の伝統にある。
これには、イスラムも、適わない。
本当に、何も無いのである。
教祖も、経典も、教義も無い。こうせよ、ああせよ、も、無い。
楽しい時は、歌って踊って、哀しい時は、泣いて、怒る時は、心を鎮めて、喜びの時は、皆に、振舞って、ただ、それだけ。
それなのに、死んだら、最も高い次元のタカアマハラ霊界に行くという、妄想、モウソウである。

イスラムも、唖然某然。

金ピカの杖で、世界を祝福するというローマ法王である。
最も世俗的である。
その権威と権力のために、今まで、どれだけの人を殺戮したのか。
さあーーー言え。
神に選ばれたとは、これいかに。
悪魔であろう、その神は。

まだまだあるが、以下省略。

2007年08月28日

キリストの絶唱39

かれらが食事をしているとき、イエスは、パンをとり、祝福をとなえ、それをさき、みなに与え、「これをとれ、これは私の体である。」とおおせられた。また、さかずきをとり、感謝の祈りをとなえ、かれらに与えて飲ませ、そして、「これは、多くの人のために流される契約の私の血である。まことに私は言う。神の国であたらしいものを飲む日まで、私はもうぶどうの実からつくるものを飲まない」とおおせられた。

マルコ14章22節から、最後の晩餐の様である。

その後で、かれらは賛美歌を歌ったとある。

実は、この賛美歌というのが、西洋音楽の大本である。
つまり、ユダヤ教の歌である。
多くは、旧約の詩篇を歌った。
しかし、西洋音楽は、グレゴリオ聖歌から始まったという、説を取る。何故か。西洋音楽が、ユダヤ人の賛美歌から始まったと、いいたくないのである。
実は、グレゴリオ聖歌というものは、ユダヤ教の賛美歌から、取られたものである。
そうそうに、音楽史を書き改めるべきである。

もう一つ言う。
カトリック教会系の修道会などで歌うものも、詩篇である。すべて、ユダヤ教の様である。
何も、創意工夫などない。ユダヤ教そのままである。
実は、初期キリスト教も、ユダヤ教徒と一緒に、礼拝等をしていたのである。
ユダヤ教の一派としての、キリスト教徒だった。

日本の新興宗教と同じで、仏教の教えを元に、様々な宗派を作るのと同じである。
ユダヤ教の新派であった。

さて、最後の晩餐は、多くの謎がある。

イエスの言葉である。
カトリックは、この晩餐を写し、ミサを制定した。
パンとぶどう酒の変容である。
聖体というパン、そして、ぶどう酒の血である。
「これを記念として行え」とミサ聖祭で言うが、イエスは、そんなことを一言も言っていない。

さて、この記述は、真実か否か。

ユダヤ教の伝統に則りイエスも、それに従った。
パンもぶどう酒も、食前に祝福して、食べるのである。
何も特別なことではない。

一つのパンを分け与えるという行為には、同胞という意識を確認し、また、ぶどう酒も、血族を確認するのである。
要するに、選民意識である。神に選ばれた民であるという。

偶像崇拝を嫌う、ユダヤ教、イスラム教には、このような儀式は、一つもない。

物に、注目させるという、単純素朴な手段である。
人は、それで安心する。

お守り。
霊験新たかな、お守り。
人は、それで安心を得る。

宗教団体では、必ず、物を信者に与える。
本尊、守護符等々。物を与えられると、人は安心する。
錯覚である。

それに救われたと思い込むのは、実に易しい。

宗教は、救いを言うが、決して、救わない。
救えば、宗教は成り立たないのである。
つまり、救わず、いついつまでも、通わせること、献金、布施、奉仕させ続けることをする。
金を集めて、建物を建てて、信者を安心させる。そうして、また、金を出せて、教団は、金まみれになるのである。
最も、世俗的な行為を、神や仏の名で行うのである。

成金趣味の伽藍を建てて、信者を騙す。勿論、騙される者が悪い。

すべての宗教は、悪である。

人間に必要なことは、宗教的であれということである。

神の国で新しいものを飲む日まで、私はもうぶどうの実から作ったものを飲まない。
このイエスの言葉を、勝手に解釈する教会である。
メシアの国、新しい国、キリスト教は、キリスト教の全世界制覇を言うのであろう。
イエスを、全世界と結びつけるのである。

それを、そのまま、全世界とは、受け取れない。
彼らの世界観とは、どこまでなのか。
彼らの世界観と、世界という認識を知らないで、それを解釈することは出来ない。

日本の天照大神を、全世界の人に信じて貰うという、暴挙に出る者は、日本には、一人もいない。
それほど、日本人は、正しいのである。

その地に行けば、その地の神を拝む。
それが、正しい。
この神でなければ、ならぬという、暴挙を行わない。
それが、正しい神奉りの有り様である。

私の知り合いには、多く、バリヒンドゥーや、イスラムに入信した人がいる。
夫の宗教に入信するのだ。
八百万の神を奉ずる日本人には、神の姿が、様々にあるという、当然するぎることを、生まれつき具えている。

所違えば品変わるという、当たり前のことをである。

世界は、唯一神では、もう平和など有り得ないということ、重々解ったであろう。

ユダヤの一地方の神観念を持って、全世界だのとは、笑わせる。
多くの人とは、すべての人であるという、聖書解釈であるが、それを全世界に拡大するとは、呆れる。

旧約からの脱却を図ったイエスの目論見は、新約のイエス伝によって、再び、旧約に引き戻されている。
キリスト教徒は、もっと、聖書を読むべきである。
ちなみに、尋ねるが、キリスト教徒で、旧約、新約共に、すべての聖書を読み込んだという者がいるか。
いれば、手を上げてみよ。
私の前で、手をあげてみよ。

亜流の亜流をもって、クリスチャンだとは、笑わせる。
もう一つ言う。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書の、一つをすべて暗証している者があれば、手を上げてみよ。
命懸けで、信じているならば、福音書の一つくらいは、暗証するはずである。
さあ、私の前で、手を上げてみよ。

2007年08月29日

キリストの絶唱40

イエスは、捕らえられる前に、ゲッセマニという所で祈る。

「アッバ、父よ、あなたにはどんなこともおできになります。このさかずきを私から遠ざけてください。しかし、私の思いのままではなく、あなたのおぼしめしのままに」

これを持って、キリスト教徒は、祈る時、最後に、「あなたのみ旨のままに」と付け加えて、人殺しに行くのである。
その、み旨が、人殺しでも、み旨である。

戦勝祈願という行為がある。

昭和天皇も、行った。
しかし、天皇は、即座に、その誤りを知る。
「私は、間違っている。皇祖は、平和の神である」
深く天皇は傷ついた。
だが、戦争に反対すれば、自分の命まで危うい状態であることを知る。
もし、万が一のことを考えると、殺されては、日本のためにならない。

終戦の詔がなければ、確実に日本人は、一億総玉砕していた。そして、今は、日本に、日本人ではない、他の民族が暮らしていた。

この私の考え方を、右翼、右派と呼んでもいい。
真実を言うのである。

アホは、どうしても、あちらは、白、こちらは、黒と決めて、安心したいようである。
何度、私は、右でも左でもなく、上、カミであると言っても、理解できない。つまり、右と左しか、無いのである。
哀れである。
360度など知らない。
度数は、30度程度であると、信じている。
哀れである。

福音書の最大の矛盾がある。
このさかずきを遠ざけてください、とは、下手な歌舞伎であろう。
源の義経が安宅関を越えるような、芝居に近い。
弁慶が、関所の役人の前で、義経を打つのである。
「主のせいで、あらぬ嫌疑をかけられたのだ」と、義経を打つ。
見せ場である。
客は、それに泣く。

実際にあったことである。
これで、義経と弁慶が、どれほど愛し合っていたのかが解る。
打つ程に愛していた。
大切であれば、打つのである。
日本人は、である。
師匠は弟子を打つ。
大切であれば、あるほど、打つ。サド、マゾの世界ではない。

あの、野蛮な民族でも、日本人の心情を少しは、持っていたという、驚きである。

イエスに、それを言わせて、どうする・・・

あの権威ある説教と、布教を繰り返し、奇跡を数多く行った、イエスに、何を言わせる。

聖書解釈は、さもさもしく解説する。

やがて起こる受難と死の苦しみは、イエスの魂と感情に強く響く。神の子イエスは罪を取り除くすべての点において、われわれと同じ人間性を取り、人類のあがないのために自ら進んで貧困、苦行、宣教などによってこれまでにも多くの購いをしてきた。そして今、最後の償いを受難と死去によって果たし、救世の大業を成就しようとしている。イエスが世のあがないのために自分に要求される受難と死に直面してあとずさりしようとするその人間性の弱さに対して示した内的戦いをさす。

人類のあがない、というが、世界人類のことではないと、はっさきりさせるべきだ。
イスラエルのあがないだろう。ユダヤ人のあがないであろう。

ここで再度言うが、教会は、旧新に関わらず、原罪という説を取るが、イエスは、一言も、原罪のあがないなどということは、言わない。
信者を支配するために、創造した、教義としての、原罪である。
生まれ持って、罪人だとは、実に、愚かしい。

それなら、人間を創造したことを、後悔した、旧約の神と同じであろう。
全知全能の神が、後悔するか。

これも何度も言うが、イエスは、旧約からの、脱却を図ったのである。
嫉妬深く、人を殺すのが好きで、試みを好み、感情的で、同性愛を嫌う、神、神もどきである。そこからの、脱却である。

それから、実際、この時の弟子たちは、イエスの祈りの言葉など聞いていない。皆、というか、三人の弟子は、寝ていたのである。
どうして、イエスの祈りの言葉が、解るのか。
聞いてもいない言葉を書くのは、嘘偽りであろう。

それなら、イエスは、なんと祈ったか。
自分がイエスならば、なんと祈るか。
考えてみよ、キリスト教徒。

イエスキリストを信じるということは、イエスキリストになるということである。
それは、仏陀も然り。
さあ、イエスになるのか、仏陀になるのか。
なれないものならば、素直になれませんと言え。

私は、人間で、神でも、仏でもありませんと言え。
人間に内在している、神性、仏性とは、妄想、モウソウである。

人間の魂は、何にも限定されない、自由を有する。
言葉で限定することができない、融通無碍で自由偏在の魂を有する。

つまり、神も仏も超える。
観念を超える。

イエスは、それを知っていた。

お解りか、アホども。

キリストの絶唱41

実は、この41は、二度書くことになった。
というのは、書いたものが消えてしまったのだ。
機械の操作ミスはしていない。
保存したものが、出ないのである。これを、魔という。
しかし、今、再び書く。

人々はイエスを、大司祭のところにひいていった。司祭長、長老、律法学士たちもみなそこに集った。はなれてついてきていたペトロも大司祭の中庭にはいり、下男たちといっしょにすわっていた。

司祭たちは、イエスを死刑にするために、計っていたのである。しかし、中々、統一した意見が出ない。
子供騙しのような場面である。

最後に司祭が問う。
「あなたは、キリストか。祝されたものの子か」とたずねると、イエスは「そのとおりである。あなたたちは、人の子が、力あるものの右にすわり、天の雲にのって来るのを見るであろう」とおおせられた。そのとき、大司祭は、自分の服をひきさき「どうしてこれ以上の証人がいるだろうか。あなたたちも冒涜のことばを聞いたろう。どう思うか」といった。かれら一同は、死刑に値すると決定した。

アホは、10人いても、アホである。
司祭たちの、アホぶりは、たまらないほど、アホである。
イエスは、それに「天の雲にのって来るのを見るであろう」と言う。

天の雲にのってというのは、世の終わりの譬えのときも、出てくる。

天の雲、とは、実に霊系正しい心霊が、乗るものである。
旧約には、一度も出てこない。
ここで、ああっと、思い出す人もいるだろう。
日本の神話である。
12000年程度前に、大陸から、日本列島が切り離される前後、私は、その後だと思うが、天の雲に乗って、ニニギの命が、天孫降臨するのである。
ちなみに、旧約の神は、4500年ほど前である。

天の八重雲を伊豆の千別きに千別きて天降りよさしまつりき
その時、磐根樹立草の片葉をも語止めて、つまり、自然界すべてのものが、語ることを止めて、天孫降臨を見守ったのである。

私は、この妄想の方が好きだ。

いわねきねたち くさのかきはも ことやめて
何と言う良い音霊の響きであることか。

これが、カンジーザ゛イボーサツ ギョウジンハンニャハーラミータとか
ニジセソン ジュウサンマイとか
ジガトクブツライ ショコショコッシューとか
やられては、たまらない。
仏典により、大和言葉が、破壊された。

それならば、ナムカラタンノートラーヤヤというように、梵語そのままの読みにした方がいい。
これについては、また、いつか書く。

さて、

自然淘汰は、親や部族の長老の言うことは何であれ信じるという傾向を持つ脳をつくりあげる。そのような、「疑いをもたず服従する」という行動には、生存上の価値がある。ガが月によって進路決定するのと似たようなものだ。しかし、「疑いをもたず服従する」という態度は、裏を返せば、「奴隷のように騙される」ことにつながる。そのような姿勢の逃れられない副産物として、その人物は心のウイルスに感染しやすくなる。ダーウィン主義的な生き残りに関するいくつかのすばらしい理由があるがゆえに、子供の脳は親と、親が信じよと教える年長者を信じる必要がある。そこから自動的に導かれる結果として、信じやすい人間は、正しい忠告を区別する方法をもたないということになる。「ワニの住むリンポポ川に足を踏み入れるな」は正しい忠告だが、「満月の夜には子羊を生贄にしなければならない。そうしなければ雨が降らないだろう」はせいぜいよくて、時間とヒツジの無駄遣いにしかならないという、この二つの違いがわからない者が出てくるのだ。
「神は妄想である」より。リチャード・ドーキンス。
心のウイルスとは、宗教のことである。

また、彼は言う。
宗教指導者は子供の脳の脆弱さと、早い時期に脳を教化することの重要性を十分に理解している。と。

だが、と、私は言う。
日本人の脳は、幾つになっても、子供のようであり、その脆弱さゆえに、教化されると、途端に、洗脳されるという。
それは、新興宗教を見れば、よく解る。
何故あのような、馬鹿馬鹿しい教義に、騙されるのかと言っても、知る術を知らない。そして、あまりに、無知なのである。
学問にあらずの勉強をしていると、簡単に洗脳される。

私は、多く、若い人の入信の様を見たが、実に、無知であった。
いとも簡単に騙されるのである。
それらの相談を受けた時、私は、その信仰を否定することはなかった。
入信の相談も受けたが、私の答えは、あなたが必要とするものである限り、あなたの自由であると、アドバイスした。
そして、面白いことに、老若問わず、一つの神を捨てると、別の神を欲するということである。

拝むものを欲するのは、人類の、抜き難い定めである。

宗教のもつ多数の側面のうちの一つとして、一人の超自然的な人格、すなわち神に集中する強い愛、プラスその人格の偶像への尊敬の念というものがあげられる。人間の生活はおおむね、私たちの利己的な遺伝子と、心理学的な教化の過程によって衝き動かされている。正の教化の多くは宗教に由来する。すなちわ、危険な世界にありながら自分は愛され、保護されているという温かく心地よい感情、死の恐怖の消失、困ったときに祈りに応えて、山からやってくる助け(詩篇)といったものである。同じように、自分以外の現実の人間(普通は異性)を対象とする、いわゆる恋愛も、他者への同じような強い集中とそれに関連した正の強化を見せる。こうした感情は、相手のイコン、たとえば手紙、写真、そしてヴィクトリア朝には髪の房さえも引き金となりえた。恋に落ちた状態は、火のように熱いため息といった、多くの生理学的な随伴現象をもっている。
ドーキンス。

イエスを裁いたのは、誰か。それは、キリスト教徒と同質な性格を持つ者たちである。
権威と奢り高ぶりである。
自分たちは、神に選ばれた民であるという、選民意識。

イエスは言う。
主よ、主よというものが、天の国に入るのではない。父のみ旨を果たすものが入る、と。

イエスはキリストだと、宣言しても無駄である。
イエスは、父のみ旨、つまり、敵を愛することを、掟にしたのであるから、それを実行しない者が、天の国に入るはずがない。それを、キリスト教徒は知らない。

残念ですが、キリスト教徒は、イエスの言う天の国には、入れません。
それでは、どこへ行くのか。
それは、キリスト教霊界という、三次元と、四次元の隙間である。
そこに、イエスは、いない。

カトリックでは、煉獄で苦しむ霊魂のためにと、祈るが、それより、その煉獄に入るであろう、自分のために、祈る方が、得策である。

キリシタン弾圧で、殺された多くの騙されたキリシタンの霊が、ハライソを求めてさ迷う姿は、哀れすぎるのである。
世界有数の拷問であった、キリシタン迫害は、目に余るものがある。
私は、それを調べて、絶句した。
これほどまでに、残忍な拷問を考えることができるという、その人間の残忍さを、である。
その拷問を考え出した者を、私は、呪ったものである。

キリシタン弾圧は、両者を共に、地獄に叩き落した。
その種を撒いたのは、イエズス会という、プロテスタントに巻き返しを狙った、戦闘的なカトリック信者の男子の集いである。
イグナチオ・ロ・ヨラ、そして、日本にキリシタンを伝えた、フランシスコ・ザビエルである。
今では、彼らには、聖がつく。聖人になっている。

最強な、同性愛集団といえば、殺されかねないが、言う。
ローマの直轄地といえば、いいのか。ローマ法王の支配する土地を広げるべくの布教である。
前、ヨハネパウロ二世も、自国のポーランドの反共運動に大枚の資金を投じて、今は、その九割が、カトリックに立ち戻っているというから、仰天する。
大陸の人間は、野蛮であると知っているが、実に、やることが、野蛮である。
宗教戦争を起こす程に、狂っているのである。

ちなみに、日本の場合は、宗派の争いはあるが、程度が違う。
歴史では、信長、秀吉、家康が、門徒との、戦をしているが、宗教が、兵を持つという思想に、反対したものである。
宗教の政治的位置付けをするために、戦った。
宗教が、政治に関与してはならないという、思想である。
それは、つまり、ローマ法王のような存在は、戦の元になるというものである。
彼らは、そこで、天皇を掲げた。天皇の平和的存在意義を見抜いていたのである。

何故、近代を拓いた信長が、天皇を破壊しなかったのかと考える。もっとも、亡ぼしやすい相手である。何も持たないのである。兵力もない。皇居は、丸裸である。
しかし、信長は、天皇を打たなかった。不遜な態度で臨んだが、天皇を叩けば、今、敵ではない者もを、敵にしてしまうことを知っていた。そして、未来永劫、この国の人々から、裁かれることを知っていた。
つまり、天皇という存在が、支配者の存在ではなく、国の心に、関する存在であると知っていたのである。
今に至るまで、天皇は、民主的である。
天皇は、国民の総意に基づき、認証するだけである。
天皇制を欧米の専制君主制に似たものであると、考えるのは、誤りである。欧米の思想では、解釈できないのである。
多くの人は、それをする。

国家の共同幻想に持つ、精神的支柱というものは、実に、必要不可欠である。
だから、欧米では、そこに宗教を入れる。
政治的手法では、支配し得ないものを、宗教が持つ。
アラブのイスラム指導者を見れば、よく解る。

一時期、日本には、宗教が無い。神不在だなどと、まことしやかに言われたが、皆々、欧米の思想を持っての、解釈である。
日本には、彼らの言う宗教はいらない。また、神もいらない。
日本には、天皇に象徴される、御祖、御親、みおや、の考え方がある。
それが、精神の支柱としてある。
そして、最大の特徴は、宗教指導者と違い、天皇は、国民の総意によるというものである。
国民の総意が、天皇退位を望めば、そのようになるのである。
あちらは、殺しあう。
見て解る通り。

さて、イエスを亡き者にしようとする、クライマックスが、この程度の、子供騙しであるから、人生は、この程度と、考えておいた方がいい。
キリスト教徒は、である。

私は、宗教も言語と同じように、十分に恣意的な発端から十分なランダム性をともなって進化し、いま私たちの目の前にある、あきれるほどのーーーそしてときには危険なーーー豊かな多様性がもたらされたのだと推測している。同時に、ある種の自然淘汰が、人間心理の根本にある均一性と結びついて、多様な宗教がいつくかの重要な特徴を共有するようにとりはかったということはありうる。たとえば多くの宗教が、私たちの肉体が死んでも人格は生きる延びるという、客観的には信じ難いが主観的には魅力のある教義を教えている。不死という観念そのものは、人間の「願望本位の思考法」に迎合するがゆえに生き残り、ひろまっていく。そしてこの「願望本位の思考法」というものが無視できない。なぜなら、人間の心理は、信念を願望で潤色するという、ほとんど普遍的な傾向をもつからである。「ヘンリー四世」の第二部で、ヘンリーが息子に向かって、「そなたの願いがやがては信念になるのだ、ハリー」と言ったように。
ドーキンス。

知性と理性は、宗教の迷いとなるのである。
欧米の思想では。

幸い、日本には、そのような宗教概念がない。観念も無い。
誰だ。
小さな親切、余計なお世話をするものは。

2007年09月04日

キリストの絶唱42

マルコ第15章である。
ピラトが「あなたが、ユダヤ人の王か」とたずねると「そのとおりである」とお答えになった。

この訳は、別のものもあり、「私ではなくあなたがそういっている」というものもある。

要するに、ピラトは、イエスの罪を、ローマ法では、無実だと思うのである。
ユダヤ人の王というが、武器も、騒ぎも起こしていないのである。

他の福音書では、「私の国は天にあり」とも言う。

革命分子ではないことは、確かである。
しかし、ユダヤ人、その司祭、長老、律法学士たちは、イエスに死刑を求める。死刑にするめには、ローマの許可が必要だったからだ。

ピラトは、司祭長たちがイエスをわたしたのを、ねたみのためだと知っていた。
と、マルコは、書く。

そして、群集である。
ピラトは、イエスの死刑を回避しようと、一人の囚人を慣例に従って許すことにすると、群集に問う。すると、群集は、ピラトの意思に反して、バラバという人殺しの暴動者を許せというのである。

ここが、ユダヤ人を差別する根拠になっている。
イエスキリストを十字架刑にしたのは、ユダヤ人であると。
しかし、違う。
イエスは、旧約の預言通りに、死ぬのであり、ユダヤ人も、役者の一つである。

これで、ユダヤ人が、イエスを許せと言えば、新約の成就が無になる。

ピラトは、再び、群集に「あの人は、どんな悪事をしたのか」と、群集に問うと、彼らは、ただ、「十字架につけよ」と叫ぶばかりである。

勿論、司祭長たちが、画策したことであろうが。

ここで、私の見解を言う。
何度も言うが、当時は、メシアと名乗る者、多数。
イエスも、その一人であり、一派であった。

イエスが、十字架刑につき、死んだ後で、弟子たちが、変容したと言った。それは、共同幻想である。
当時のメシアを待ち望む人々の、共同幻想の中に、イエスの存在が、嵌ったのである。

福音書は、イエス死後、50年から100年を掛けて、伝言ゲームで書き継がれたものである。パウロの書簡より、後になる。実に、パウロが、初期キリスト教の教義の元になるという。

しかし、パウロは、イエス集団の迫害者だった。
そして、パウロの書簡には、一切、イエス在世当時のことに、触れられていないのである。それで、パウロは、共同幻想の、総まとめ役をしたと言える。
パウロの改心は、迫害していた時に、イエスが現れて、何故私を迫害するのかという言葉を聞くのである。
イエスの幻を見たのである。
その真偽については、省略する。
それよりも、イエス死後に、パウロが改心して、何故、あれほどの救世観を持っていたかである。イエスに、触れたこともないパウロが、多くの書簡を残し、さらに、教義の元になるものを、書いているということは、パウロは、すでに、救世観を持っていた。それを、学んでいたということである。そこに、イエスの存在があった。そして、その男は、罪もないのに、十字架刑になり、死んだ。
ここに、パウロが、自分の救世観を投影することが出来るイエスの存在が、突如として啓示のように起こった。イエスを慕う集団の共同幻想に、加担したのである。

イエス集団を迫害しているうちに、あることに気づいたのである。
迫害をするということは、相手を知るということである。落馬して、呆然として、しばしの時間を経た後で、ここに、自分の救世観を投影することが出来ると、悟ったのである。
落馬を、イエスの幻出現と、関連付けた。

ローマ支配にあり、部族間の対立があり、ユダヤ教の官僚的信仰形態に、人々は、ある種の絶望を感じていた。
しかし、メシア観はある。何となく、あやふやな時代に生きて、人の心は、不安である。その不安に、幻想が起こる。そこに、一人の男が、登場する。その男は、権威ある者の如くに、説教をする。
司祭や、律法学士たちに対する不満と、貧しい人のストレスである。金持ちは、神に選ばれた者であるという。いつまでも、日の目を見ない生活である。
それが、爆発したのは、イエスという男が現れてからである。
汝の敵を愛せよ。神は愛である。
部族間の対立のストレスや、異教徒に対するストレスは、最高潮に達していた。
村が違えば、口もきかないのである。異邦人として、対処するのである。
そこへ、神は愛であるから、あなたたちも互いに愛し合えという、説教である。
そして、ユダヤ教の指導者たちへの、批判と、非難は、極まった。イエスは、偽善者たちと呼ぶのである。

イエスは、その死後、変容し、キリストとして、認知される。すべて、共同幻想である。

ピラトは、群集の目の前で、手を洗う。それは、このことに、私は、関与しないという印であった。
そして、群集の望むままにさせた。

ローマ法でも、十字架刑は、極刑である。
死期を早めるために、石打の刑を与える。
いよいよ、イエスの受難物語がはじまる。
なんとでも、後で、意味をつけられる、十字架刑である。
イエスの勝利である。
私は、そう思う。

キリストの絶唱43

ローマ人は習慣として、鞭打ってから十字架につけたという。
その死を早めるためである。
ローマ人の処刑のしきたりによれば、裸にして柱に縛り、先端に鉛のついた皮ひもや鎖で、容赦なく鞭打ったようである。

十字架刑は、政治犯に課される最高刑だった。

ピラトは、イエスに、何の罪も見出せなかった。しかし、群集が、それを求めるのである。だから、鞭打ちも、皆の同情を引くために行わせたようであるが、群集、つまりユダヤ人は、益々、感情的になり、エスカレートさせて、いった。
それほど、この頃のユダヤ人は、ストレスを感じていたのである。
ローマの支配か、ユダヤ教の律法か。
出口の無い、不満である。

政治から、私生活に至るまで、縛られる生活である。

十字架刑には、磔と、くぎづけの二種類あった。
イエスは、くぎづけされた。
くぎづけの方が、苦痛激しく、死も早かった。
両手を、そして両足は、揃えて、くぎを打つ。

昼の十二時になったとき、全地は暗くなり、午後三時まで続いた。そして三時ごろに、イエスは大声で「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは、「わが神、わが神よどうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。近くに立っていた人々のうち、これを聞いて、「見よ、エリアを呼んでいる」と言う者もいた。すると、ひとりが走って行き、海綿にすっぱいぶどう酒を含ませ、それをよしの棒につけ、イエスに飲ませようとして言った。「エリアがかれをおろしにくるかどうか見ようではないか」イエスは大きな叫び声をあげて、息を引き取られた。

その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニとは、詩篇の言葉である。
ダビデの詩、詩篇22章である。

わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか
なぜわたしを遠く離れ、救おうとはせず
呻きも言葉も聞いてくださらないのか
わたしの神よ
昼は、呼び求めても答えてくださらない
夜も、黙ることをお許しにならない

その中の一節に、こうある。

犬どもがわたしを取り囲み
さいなむ者が群がってわたしを囲み
獅子のようにわたしの手足を砕く
骨が数えられる程になったわたしのからだを
彼らはさらしものにして眺め
わたしの着物を分け
衣を取ろうとしてくじを引く

まさに、十字架刑を受けた、イエス、そのものである。

兎に角、旧約聖書の成就であり、また、それの凌駕である。

人類の罪の贖いのために、神は、その一人子を、世に遣わして、その死によって、人類の罪を許すという、キリスト教の最大の教義が、ここで、完成する。
しかし、ここに最大の欺瞞がある。

罪の最初を、原罪として、制定するという、あまりに愚かな考え方である。
つまり、人間の存在そのものを罪とするという、傲慢である。
それが、人間の生殖の性を、罪とするという、最低最悪の観念を作る。
人間の生存を支配する、その考え方は、一体、どこからのものか。

旧約聖書の最大の矛盾は、人格神ということである。
神に、人格を有するという。
あまりに愚かである。
それで、墓穴を掘る。

神に人格を認めれば、それは、神もどきであろう。
神ではなく、単なる人霊のことであると、認めているのである。
嫉妬と、試み、そして、殺し合いの神である。差別と、偏見に満ちた神である。

この一神教と、仏陀の思想や、日本の古神道を対比させて、考えると、よく解る。
それは、いずれの機会に書く。

今は、イエスの死である。
イエスの死が、世界に与えた影響は、大きい。
それは、ヨーロッパの歴史から、世界の歴史に関与したのである。
勿論、それは、イエスの思想である。
主なる神が愛であるように、互いに愛し合うこと。汝の隣人を愛すこと。そして、極めつけは、敵を愛すこと。
敵は、殺すべきものである。しかし、イエスは、それをも愛せよという。
しかし、ここに、非常に大切な問題がある。つまり、敵という観念である。イエスでさえも、敵という観念から、逃れることができなかったということである。

敵を想定して生きるという人生である。
結果、キリスト教は、イエスの愛を実践できたかというと、全くの逆である。
今もって、それを実行できずにいる。
異教徒は、矢張り、敵である。
つまり、キリスト教も、イエスの教えを実践出来ず、旧約の神観念のままであるということだ。それは、つまり、イエスの死を無駄にする。

簡単に言う。
あるカトリック教徒に、天照大神という言葉を発すると、同じ日本人でありながら、そんなもの、と言う。そんなものである。
ここに、彼らの、最大の欺瞞と、その信仰の嘘八百が見て取れる。

もう一つ言う。
キリスト教の宣教に、現地の信仰形態に乗せて、布教するという方法が取られた。
例えば、スペインに亡ぼされた国、現在の南米である。ペルーやブラジル等々。
そこには、地場の信仰対象を、聖母信仰に重ねて、キリスト教信仰を打ち立てた。その欺瞞である。

そして、最大の嘘は、従わない者は、皆殺しである。
カトリックは、この反省を一度たりとも、行っていない。
日本が、植民地化したことに、戦後始終しているが、キリスト教の国々の植民地化は、甚だしいのである。
しかし、一度たりとも、それを謝罪しないどころか、当然だと思っているという、傲慢である。
一神教のよって、世界は、救われないどころか、益々と、混迷を深めるのである。
それが、イエスの思想であったのか。

イエスは、十字架にて死ぬということを、受け入れた。つまり、言動一致である。
汝の敵を愛せよと言ったように、敵によって、殺された。それを、受け入れた。
しかし、キリスト教徒は、全く、逆のことをして、この2000年を生きている。
アイルランドなど、カトリックと、プロテスタントが、対立し、平気で、汝の敵を殺すという、愚かさである。

彼らの、言い分を一分も、私は、聞けないのである。

私は言う。
滅びよと。
その唯一の神、もろとも、滅びるがよい。
イエスの死を、最大に利用して、最大に、人類を欺くもの、それは、イエスの名において、罪を許すという、彼らである。
彼らとは、偽のキリスト教徒である。

彼らの言う神は、妄想である。

救いとは何か。
それは、自然との共生、共感に他ならない。
他の理屈は、妄想である。
人類の救いは、宗教ではない。宗教的なものによって、救われる。それによって、自然との、共生、共感が行われる。

それをやまと言葉で、言えば
なにごとの おわしますかは しられども かたじけなさに なみだながれる
ということになる。

信仰は、知性と理性を嫌う。それは、信仰が知性と理性によって、暴かれるからである。
無知を、神や仏に棚上げして、惰眠を貪るのである。

もう一つ言うが、彼らの救いに乗れば、確実に、魔界に通じる。何故なら、それは、妄想だからである。

私は、自分の霊的感覚や、霊界に関する思いを、妄想であると、突き放している。
死ねば解ることを、今更であると、思っている。

人生は、実に、空しく、愚かしく、冗談に満ちている。
なんとなれば、この人生が、たった一度だからである。
後戻りなど出来ない、一度だけの人生だからである。転生輪廻によって、もう一度、生まれ変わって生まれても、今の、私には、ならないという絶望である。

はじめから、絶望の存在なのである。
言葉遊びをするのではない。
最初から、生まれた時から、絶望の存在なのである。
何を、恐れることがあろう。
すべては、絶望から始まっている。

絶望から出発したのである。
生きているだけでも、私は、特上だと思っている。

そして、もっと、最悪なことは、皆、死に向かって生きているということである。
絶望からの開放が、死なのである。
つまり、死は、救いとなるのである。

あらゆる人生の諸相は、ゲームであると得心すれば、生きられる。どんな絶望にあっても、生まれた以上の絶望は無い。この絶望を原罪などという、誤魔化しに、私は、一撃を食らわすのである。

私は、実に宗教的であり、信仰深い者である。
それを、知るからである。

神も仏も、この私には、適わないのである。
先祖も、私の一存で、縁を切る。
祟るような、先祖に用は無い。

新しい時代、新しい世紀は、宗教という妄想からの開放である。

2007年09月05日

キリストの絶唱44

安息日が終わったので、マグタラのマリア、ヤコブの母マリア、およびサロメは、香油を買った。イエスに塗りに行くためであった。そして週の第一日の朝早く、日が出るとすぐ、墓に行った。彼女たちは「墓の入り口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるのでしょうか」と話し合っていた。ところが、顔をあげてみると、石はすでにわきへころがしてあった。それは非常に大きな石であった。

マルコの福音書、第16章である。

死体は、通常洗い清められるはずだったが、イエスの場合は、安息日が迫っていたため、洗い清められず、血みどろの死体を、もつ薬と香料とともに、白麻布に包んで葬った。
トリーノの聖堂に収められている聖骸布は、そのときのものだと言われる。

墓の中に入った彼女らは、右手のほうに衣をまとった若者がすわっているのを見て、非常に驚いた。すると、若者は言った。「驚くことはありません。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのでしょうが、ここにはおられません。復活されたのです。ごらんなさい、ここがお納めた場所です。さあ行って、弟子たちに、特にペトロにこう言いなさい。「イエスはあなたがたより先にガリラヤに行かれます。かねて言っておられたとおり、そこで、あなたがたはイエスに会えるでしょう」と。婦人たちは墓を出て逃げ去った。我を失うほど恐れおののいていたからである。そして誰にも言わなかった。それは、恐ろしかったからである。

イエスの復活である。
キリスト教の最大の教義が、この復活である。

金曜の昼に死んで、月曜の朝には、復活していた。
三日後に復活すると言ったイエスである。

イエスの復活がなければ、その信仰は、空しいと、パウロが言う。

ここで、霊学より言う。
人が死ぬということは、肉体から、霊が出るということである。しかし、死後、その直後は、幽霊である。つまり、幽体を有する。肉体に似せた姿である。
中陰と仏教では言う、死後の直後の幽体である。まだ、この世から、完全に去っていない状態である。
キリスト教も、煉獄という、霊的空間を想像した。迷える霊のいる場所、空間である。それは、正しい。
それでは、イエスの復活とは、幽体の姿を見せたものであろうか。

墓にいた若者とは、誰か。
天使と言うであろう。

霊的能力の非常に高いイエスが、幽体のままでいると考えるのは、不自然なのである。
即座に、霊に変容したと言う方が正しい。
しかし、幽体のままでも、その姿を現すことは、簡単である。

私は、肉体のままに、現れたとは、言えないと言う。
それでは、その肉体は、どうしたのか。
墓の中には無かったという。
誰かが、持ち出したのか。違う。イエスは、肉体を消滅させたのである。

そして、墓にいた若者は、イエスであった。
幻を見せることは、簡単である。

ある、芸能人が、自殺した友人が、部屋に訪ねて来て、一緒に食卓で、お茶を飲んだという。まさに生きている時のようにである。
そして、言った。あなたの右脳に語り掛けていると。
右脳である。
右脳の後頭部は、魂の場所である。霊は、脳全体の側頭部にある。
霊は、光であるから、後光という光が射すのである。

翌朝、彼女は、死んだ友人が飲んだ、茶碗を確認した。夢ではないと。

その死の意味について、友人は語ったと言うのである。

私は、イエスが、復活したというのではなく、死後の世界を見せたと解釈する。

人は、死んでも、死なない存在なのである。

霊的存在になると、自由自在である。どのような姿にもなれる。ただし、この世に未練があればである。
実に、多くの人は、この世の未練を捨てる。
幽霊で残るというのは、余ほどの、捕らわれ、未練である。
ただし、時には、死後、死の苦痛により、気絶してしまい、この世で言う、眠るということになる。それが、目覚めるのは、人それぞれである。
中には、百年、二百年と、眠る場合もある。
目覚めて、祟ると、その子孫は、原因不明の、云々ということになる。
また、祟られる場合もそうである。

さて、復活を最大の教えとして、信仰を築くキリスト教であるが、霊学から見ると、特別なことではない。

イエスの最大の奇跡であるが、霊の世界を知る者には、当然であって、当然のことである。

ちなみに、仏陀は、その死後、姿を見せることがなかった。その必要が無いのである。

再度言う。
霊的存在になると、光の存在になり、光のみを見せる。
それは、青い光だったり、黄色だったりと、その人の好きな光を発する。
そして、それは、数秒である。
亡くなった直後に、霊体になった場合は、数分見せる場合もある。それは、昼間でもである。

イエスの復活の有様を書く、福音書は、そうであれとの願いを書いている。
弟子たちの中に現れて、皆、その姿を見たということも、正しい。そのようなことは、出来る。

私の知り合いで、祖母が亡くなり、家族で食事をしつつ、祖母の話をしていると、祖母の顔が、浮かんだという。
皆、それを見ている。皆に、見せたのである。
私は、在ると。

イエスの奇跡と同じように、弟子たちは、別次元に移行されていたのである。

ただ今、アメリカでは、量子力学の学者たちが、同じ場所で、別空間が存在するとの、証明を始めている。
まだ、翻訳されていないが、私の知り合いが、その書籍を取り寄せて、訳している。これから、私の手元にもくる。
それによると、同じ場所で、別次元が存在し、そこでは、多次元の生き物、人間、つまり霊的存在者が、生活、生きているとする。

それを、ある人は霊界と呼び始めているという。

数学では、楽々と、五次元の世界を説明している。
五次元とは、神と尊称される霊界の次元である。勿論、六、七、八次元が存在する。

日本上空には、八次元の霊界、高天原、タカアマハラ霊界が開けてある。勿論、その霊界は、世界で唯一である。
ヒマラヤ霊界も五次元までである。

何故、日本上空に、八次元の霊界が開けるのかは、人類の正しい太陽信仰を続けていたからである。
太陽を神と仰いできた民族の末裔である。
しかし、選民意識は無い。そんな程度のレベルの低い意識ではない。

2007年09月06日

キリストの絶唱45

復活したイエスの現れた記述が、マルコ第16章に書かれる。マルコの最後の場面である。

そののち、イエスはかれら十一人が食卓についているところに現れ、その不信仰とかたくなな心とをおとがめになった。復活した自分を見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスはかれらに仰せられた、「全世界に行き、造られたすべてのものに福音を述べ伝えよ。信じて洗礼をうける者は救われ、信じない者は罰せられるであろう。信じる者には次のようなしるしが伴う。かれらは、私の名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語る。へびをつかみ、毒を飲んでも、決して害を受けない。かれらが病人に手を置けば、その病人は回復する。」

まずこれは、彼らの願望である。
復活したという、願望が復活したという、信念に変わり、ついに、復活したイエスを描いたのである。

食卓についているところに現れたというのは、イエスの言葉、私の名において、二人以上が集えば、そこに私がいる、という言葉による。
実際、イエスの霊は、弟子たちの場にいたであろう。
そして、弟子たちが、自分たちの、信仰の薄いことを嘆く。
何度も、イエスから、言われた言葉、信仰薄い者たちよ、を思い出す。

そして、弟子たちは、イエスの言葉を反芻して、納得し、ついに、上記のイエスの言葉となる。
しかし、実に、この頃、すでにに教団としての活動の一歩が始まっていたことを、推測できる。
それは、洗礼である。
水による洗礼も、信じることで、変容するという考え方を持った。
当時は、洗礼など、多々あったからである。

イエスを信じる洗礼である。
しかし、主イエスは、水による洗礼ではなく、霊による洗礼と言った。それは、どんなことか。霊による、洗礼とは、古神道の禊である。
禊祓いである。
だが、ここで、キリスト教徒は、躓く。

ただ今の教会の洗礼は、水による洗礼であり、それを秘跡として扱う。
いくらアホが、水につかっても、アホである。
人間が変容するには、それ相応の経験と体験が必要である。
その人生経験を、霊による洗礼という。
信じて洗礼を受ける者は、救われる、と言うが、その救いが原罪からの救いというから、救いにならない。
救い、救いというが、誰も、救いの意味を知らない。
神学などは、妄想一辺倒のものであるから、一人相撲を取るようなものである。

救いとは、その妄想からの脱出である。

助けてくれ、と言うのは、助けて欲しい、問題が発生している時である。
神は、助けてくれると言っても、何をどう助けてくれるのかを、誰も知らない。
何からの救いかを、教会は、ハイ、原罪からの救いですというが、原罪自体、妄想の産物であるから、終わっている。
自分で盗みをして、自首して、自分で裁くような、滑稽な漫才のようなことをしていると、気づかないのである。

イエスの言葉と言うのは、弟子たちの願望である。
信じない者は罰せられる。つまり、ここで、教義の根本が出来上がっているのである。信じない者は、罰が与えられる。
イエスは、一度も、神の罰を言わない。
世の終わりの譬えの時だけ、罰に関する言葉があるのみ。罰に似たものである。

キリスト教徒の神の罰は、キリスト教徒のみに言える。だから、本当に、キリスト教徒は、注意すべきである。しかし、それ以外の宗教や、無神論の人には罰は当たらない。
日本では、罰の変わりに、祟るという神がいる。
罰と、祟りは違う。
罰は、自らが罰だと認めてなる。祟りは、降ってくる。突然、祟りがある。人生とは、そのようなものである。
罪と罰が、凄く好きなキリスト教であるから、何も言うことはないが、死ぬまでの暇つぶしには、ご苦労なことですと、言うしかない。

私の名によって悪霊を追い出し。
これが、キリスト教の最大の特徴である。
エクソシストという、悪魔祓い専門の司祭がいる。
悪魔、悪霊との戦いである。実に、戦いが好きな者たちである。
追い出しという観念には、悪いもの、嫌なものを、追い出すという、単純素朴、悪く言えば、稚拙、お馬鹿である。
霊を追い出して、それで、めでたしめでたしだと、解決には、なにらない。
キリスト教の中に、悪魔や悪霊の場所はない。
これが、仏教系や、我が神道系ならば、必ず、その場所を定める。
仏教では、地獄とかである。そこが、仏教の愚かなところであるが、まあ、地獄を悪魔の場所と定めるから、まだいい。魔界というものを、知らないのである。
神道では、荒ぶる神として、祀る。その場所を設ける。
ちなみに、東南アジアなどでは、仏教と、精霊信仰が交じり、小さな悪魔、悪霊の祠を用意する。そして、そこに、水や花を置く。
タイでは、ピーという霊の祠が、至るところにある。
バリ島では、道端に、花や食べ物をのせた葉を置き、祈る。
皆々、浮遊霊の場所になっているが、あれは、良いことである。その存在を認められているという霊に安心感を与えることにより、あまり、変な悪さをしない。

悪霊を追い出して、どうする。その悪霊は、どこへ行く。
キリスト教は、未だに、この問題の解決をしていない。
対立の思想は、ここでも始まっている。
聖書は、実に対立の思想である。愛の思想を言うイエスも、矢張り、敵というものを想定したのである。
敵を愛せよと、敵を想定している。
これが、仏陀になると、敵はいない。想定しない。

今、キリスト教徒が、へびをつかみ、毒を飲めば、害を受けて倒れる。
かれらが病人に手を置けば、その病人は死ぬ。

このマルコの復活のイエスの言葉は、弟子たちが、頭の悪い弟子たちが、一生懸命に考えて、主イエスなら、こういうであろうということを、言葉にして確認したのである。
勿論、イエスは、その場に霊としていた。
そして、呟いた、信仰薄い者たちよ、と。私の言葉で言えば、頭の悪い者たちよ、になる。

この福音には、その後の記述あるものもある。しかし、私は、それを紹介しない。
聖書の言葉は、あまりに漠然として、捕らえどころなく、混乱するからである。
例えば、私は道であり、真理であり、命である。と、主イエスが言うが、それ一つとして、明確なものはない。どうでも、解釈出来るのである。
道であり、真理であり、命である。
どうすればいいのか、この解釈を。
それをキリスト教は、すべてのすべて、とか、全知全能とか、永遠の永遠とか、しまいに、言葉に出来ない、神の偉大さ等々、皆、言葉にしているではないか。

仏陀もイエスも書き物を残さなかった。何故か。書き物によって、その言葉の意味を探ることに始終し、現実を生きないからである。

無益な議論に始終して、耕しも、捕ることもせず、人の物を貰って、のうのうとして生きるのである。
総称として、宗教家と言われる。
イエスは、彼らを、偽善者であると、言い切った。
モルモン教という、キリスト教新派があるが、教祖は、妄想により、アメリカの始まりを経典として書いた。嘘八百であるが、それを奉じる州があり、大統領まで出そうという勢いである。
単なる創作の夢物語を経典にするという仰天であるが、モルモン教徒は、真剣である。
しかし、聖書も、それに劣らず、である。

ここで、はっきりさせるが、経典というものは、文学である。それ以下でも、以上でもない。信徒は、その経典の信者である。
虫は、人間をどのように認識しているか。
次元の高い世界を、人間は、虫に劣らず認識できない。別次元のことを、この世の言葉にできない。ゆえに、高い次元を知るものは、書き物を残さない。残せば、嘘になるからである。

何でも経典にすることが出来るのである。
兎に角、人間は迷い、苦しみ、呻きたいのである。
それで、人生の本当の苦しみを忘れるという、アホなことをして、死ぬ。
ご苦労サンです。

2007年09月08日

キリストの絶唱・最後

キリストの絶唱と題して、勝手気ままなことを書いた。
しかし、終わりにする。

そこで、最後に当たって言う。
私の友人には、キリスト教徒、特にカトリック信者が多い。シスターもいる。修道院長をしている友人もいる。
その彼らは、私のエッセイを呼んでいる可能性は、大である。しかし、私たちの友情は、これによって、損なわれることはない。

大半は、一つの宗教団体を批判すると、その信者は、私に近づくことをしない。
その程度の信仰なのである。

何度も言うが、私は、信徒に対して、批判する者ではない。信仰は、極めて個人的な情緒であり、それを何人も、侵してはならないのである。

私は、小学四年生から、聖書に親しみ、中学生の頃は、聖書を諳んじていた。今は、すべて忘れている。
実に、多くを聖書から学んだ。その訳の、最悪さが、私の文章の元になっているから、私の文章作法も、最悪である。

すべての学問を身に着けることは、出来ないが、最低、人間としてのお勉強を、私は、宗教を学ぶことで、為してきた。
それは、実に有意義だった。
宗教とは、学ぶに足る妄想である。

さて、日本の宗教という観念は、鎌倉仏教による。
法然、親鸞、道元、日蓮の、書いたものを読めば、日本語の、新しい日本語の格調の高さが知れる。
彼らの思想は、欧米の思想を凌駕する。
それは、一つ日本語の能力にある。
その一行を解釈するに、欧米の言葉では、膨大なものになる。

彼らの日本語の、その大元は、お歌である。万葉集に代表される歌の言葉である。

31シラブルによる、つまり、音による、言葉の組み合わせ。
音の組み合わせは、日本語にしかない。
漢字などは、独立語であるから、一文字に、多くの意味がある。が、今、漢字の文化は、日本によって、花開いている。

また日本語には、一音に意味がある。

さて、この2000年、聖書は、多くの人に、誇大妄想を与え続けてきた。
私は、今、その流れに一石を投じる。もはや、聖書の世界では、世界は成り立たないのである。
進化したのである。

とは言え、日本人の知能指数が、低下していることは、否めない。
それは、テレビ文化による。
テレビは、思考力を低下させる、最もたるものである。
日本人は、テレビに占領されて、その心も占領されて、後は、衰退の一途を辿るのみ。

いやいや、もう無駄口をやめて、まとめる。

あらゆるキリスト教系の宗教は、百害あって一理無しである。
そこまで、極端に言うことはないだろうが、言う。
神学は、ギリシャ哲学から抜け出てなく、そして、ギリシャ哲学より、レベルが低いということである。
西洋の思想は、神との戦いであるというが、無いものと戦っても、詮無いこと。
姿の無いものに戦いを挑んでも、詮無いこと。
自己の観念との戦いに疲れ果てた姿が、西洋思想の、それである。

あの、ニーチェでさえ、神は死んだと、神と言う観念から、抜けられなかった。

宗教的天才は、新しい観念を生み出すのである。
神や仏に対決する、新しい観念を生み出すのである。

聖書が翻訳されてから、神という言葉の観念が定着した。
しかし、日本では、神明と言った。
仏法に惑わず、神明を尊びである。
日本の神は、上であり、守であり、集団をまとめるものを、カミと呼んだ。
日本のカミは、そのようものである。神明のみである。
シンメイと読めば、漢語である。かみのあかり、と読めば、大和言葉である。
神という実体は無いが、その明かりは、ある。神の如くのもの、である。

つまり、明かりを求めて生きるものであるということである。それは、自然界と同じである。自然以外のもの、超自然と言われるものの存在も、無くてよいのである。自然が、人間の上や、守を超えたものであった。
それの総称が太陽である。

太陽は、光り輝く。
それで善しとした。

浪花のことは、夢のまた夢なのである。
後は、野となれ山となれ。
ここに、神学の入り込む余地はない。

天地創造の神とは、人間の願いである。
唯一の神とは、人間の願いである。
その願望が、信念となり、そして、目の前に妄想を広げる。

しかし、再度言う。
信仰とは、個人的な極めて個人的な情緒である。
私は、それを否定しない。

おしまい。

追伸。
私はカトリック教徒として、多くの司祭、プロテスタントの牧師に会っている。
中には、実に素晴らしい方がいた。
それは、人間としての魅力としての、素晴らしさである。
キリスト教徒としては、皆々、最低最悪であった。
つまり、彼らは、イエスキリストを対立したものとして、捕らえ、そのイエスに対する信仰を説くのである。
嘘である。

何度も言うが、イエスを信じるということは、イエスになるとというこである。
つまり、言葉の世界を超えて行動するということである。

イエスにならない者の言葉を、いくら聞いても、詮無いことである。

それでは、私は、どうなのかといえば、唯一、私の知る限り、イエスになろうとした者である。しかし、それは大きくの誤解や、蔑みを生む。
しまいに、異端とされる。
要するに、キリスト教である。
つまり、教義の上のキリスト教である。

今、イエスキリストが存在したならば、キリスト教徒に、殺されること、必至である。

キリスト教徒とは、そういうものである。

お解りか、アホな、キリスト教徒。
イエスは、言う。
主よ主よというものが、天の国に入るのではない。
父のみ旨を行う者が、天の国に入るのである。

何度、イエスが言うか。

父のみ旨とは、何か。
敵を愛することである。
キリスト教発生から、敵を愛したキリスト教徒は、いたか。

全世界に、キリスト教の妄想を広め、主イエスが言うように、剣を世界に、撒き散らしたのである。
お解りか、アホなキリスト教徒よ。

ローマ法王は、億単位の人を、主の名において殺した。
それでも、主イエスというのか。
さあ、私の前に出よ。
そして、申し開きをせよ。
私が取り次げば、主イエスは、聞かれる。

キリスト教の神は、妄想である。

ナザレのイエスは実存した。
諸国を流浪し、心根の優しい、そして、強い性格であった。
今と同じように、当時の宗教家の偽善を許せず、自分一人が犠牲になれば、少しは、何とかなると考えた。
そして、神の子となるべく、決心した。
その第一声は
悔い改めよ
神の国は
近づいた。
である。

これを、理解できる者は、キリスト教徒であることを止める。

キリスト教というものには、主イエスが不在だからである。

さあ、親兄弟を捨てて、父のみ旨を果たすべきである。

すべての財産を捨てて、私に従え。
主イエスは、今も、そう言う。

しかし、誰か、それを為す人がいるか。
ああ、インドのマザーテレサか。
違う。
マザーテレサは、この世の報いを受けたのである。
何と無ければ、聖人として崇められる。

主イエスは、盗人のように、磔られたのである。

主イエスの愛に泣く人よ。
すぐ傍にいる、敵を愛してみよ。
唾棄すべき、敵を愛してみよ。

戦後、アメリカ兵に体を売って、家族兄弟姉妹を養っていた者、女に、キリスト教徒は、適わない。その足元にも、及ばない。

実に、この世の最低最悪の存在、キリスト教徒である。

さあ、この私の前に出よ。
その体の奥に、その後ろにあるものを、透かして見よう。

堂々として、私の前に、キリスト教徒であると言うがよい。

私は、イエスになれず、何と、誇大妄想ばりの、霊的能力を得たのである。

About キリストの絶唱

ブログ「木村天山 告知版(ブログ)」のカテゴリ「キリストの絶唱」に投稿されたすべてのエントリーのアーカイブのページです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のカテゴリはイスラムです。

次のカテゴリは伝統についてです。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。