Producer木村天山 告知板

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2006年12月1日(金) 書くということは

読ませるということである。誰にか
自分にである。書いて金にする人は、書き捨てている。書き捨てなければ、書けるものではない。ブログとか、HPとか、様々な文がすき放題に読める。
しかし、その多くは読むのではなく、眺めている。
恐ろしい時代である。
私は、自分が読むために書いている。そうでなければ、全く意味が無い。
たまたま私の文を読んで触発されて行動する人がいたとしても、それは私に関係ないことである。書くことは自己陶酔の極みといえる。
この世に、絶対なものも、信じられるものもない。と言いつつ、絶対とか、信じよ,という言葉がある。そのことに、矛盾を感じない。
例えば、健康食品である。内容を読むと、今すぐに飲むべきだと思う。思い込む。そして飲む。何のことは無い。幻想である。
安心を求めて人は、右往左往する。
同じものを飲み続けて良いはずはない。体は、完全なものである。無いものは、必要ならば、何でも作ることが出来る。
野菜は、昔の栄養価の十分の一以下である。だから、ビタミン、ミネラルを補う。そう思い込む。それらが、体に入る時、あまりの強烈さに、肝臓が異物として認識し、特別な働きをすることを知らない。物言わぬ肝臓である。
さて言う。適当であること。
兎に角、体は適当を好む。健康に留意しても死ぬときは、死ぬ。
この世に確実なことは、死ぬことである。それは絶対であり、信じても良い。
書くということは、読み捨てられるということである。
書いた後は、自分が読んで納得する。表現とは、そういうことである。
つまり私は自分のために書いている。
お解りか愚かな人々。眺めていても、何にもならない。私は、自分のために書いている。
親鸞は自分のことを大愚と言う。大きな愚かさである。自虐的思考は、因縁である。卑下し過ぎは、傲慢になる。私は、自分を愚かと言わない。ただ、知らない者であると言う。
知らない者が書くものなど、屁でもない。

2006年12月2日(土) もののあわれについて

尼崎の脱線事故で恋人を失った女性が一年後に、その喪失感に耐えられず自殺した。
その一年の悲しみと切なさを思うと、身が凍る。よくぞ一年を生きたと思う。
子供を殺された親の心を思うと断腸の思いである。
私も、藤岡のことを思わない日はない。
前回も紹介したが、再び書く。
月をこそ眺めなれしか星の夜の深きあわれを今宵知りぬる
深きあわれという。あわれとは、憐れであり、哀れである。そして慈しみに至る。
人は、慈しみの以前に耐えられず倒れることがある。
悲しみを過ぎて、超えて到達する心境が慈しみに至る時、もののあわれという心象風景が広がる。ものとは、あるものであり、現実である。そのあわれとは、悲しみであり、痛みであり、存在の孤独である。それを超える時、慈しみという心象風景が現れる。
私は、藤岡の歌、特に日本の歌を「もののあわれ」だと言う。もののあわれを歌った歌い手であると。
慈悲とは仏教用語である。実に、意味深い。仏は、慈悲の存在だと言う。これはキリスト教、イスラム教には無い考え方である。先に悲がある、そして慈がくる。仏とは、そういう存在であると言う。対立概念を持たない仏陀の教えである。
仏陀は、はじめから敵を想定しない。仏教で敵を想定する者どもは、仏教徒といえない。日本に仏教が無い所以である。日本の仏教は、仏教に真似た、中国思想である。
これ以上は詮索しない。
もののあわれを、やまとことばで語ると、解らないゆえに慈悲という言葉を使う。
もし、やまとことばで言うならば、祓いたまえ清めたまえである。ものが留まると穢れる。ゆえに流れる、風を吹かせる。朝風、夕風の吹き払うごとく、祓い清めをする。
水が流れる、風が吹く。そして、もののあわれが観える。
これ以上は、理解不可能になるゆえ、書かない。
現実は、あわれなのである。慈しむものなのである。悲しみに満ちているから、慈しむものなのである。
そのためには、次元の高い世界からの目が必要である。第三の目が必要になる。ただ自然科学が知りえないことであるから、信じられないのである。
私が藤岡の後を追って自殺しても理由がつく。しかし、私は、死ぬまで生きる。いずれ必ず死ぬからである。私は、生きながらに、慈悲を行為できる。藤岡のお陰である。
藤岡は、もののあわれを歌った。私は、もののあわれを生きる。
もはや、これ以上の説明は避ける。

2006年12月3日(日) 歌の道こそ床しけれ

日本人が歌という時、それは和歌のことを言う。歌とは和歌のことである。声に出す歌は、謡いである。
床しいとは、奥床しいという言い方をする、床しいである。奥座敷に座っているという風情である。つまり、静かに物事を見つめる行為である。
歌は、そういう風情から生まれる。
声楽といわれるものとは、意を異にする。楽とは、孔子が言う楽を言った。礼樂など・・音楽とは、音の楽である。それでは声楽は、声の楽である。当たり前のことであるが、こういうと歌という場合と違うことが解る。
これ程、文明文化が進んだといわれるが、今、時世の句を読む人が、どれ程いるだろうか。歌の道が廃れて久しい。
というより、文化などという言葉など、実は実体がない。昔は、ドロボーでも、時世の句を読んだ。偉そうにしているが、時世の句も読めないアホが、世の大半を占めているという寒さである。死を前にして、即座に時世の句を読む人を教養人とか、知識人という。今なら、文化人ともいうだろう。
今、私が死を前にしたならば、即座に時世を読む。
名残おく 枯れ葉に落とす 涙かな 思い捨てるか この別れなり
駄作である。
歌とは言の葉のなぞりである。言霊の幸はう日本である。
声に出して歌を謡うものは、今一度、歌の道を考えるべきである。特に、日本語を歌うものは。しかし謡うとは言わない・・・今は歌う、または唄うという。実は、詠うともいう。日本を見直せ。

2006年12月4日(月) 新しいカレンダー

来年の新しいカレンダーが送られてくる
夢と希望に溢れている
輝いていて
来る年が新鮮に思える。
と、耳障りのよい言葉を羅列したいが、無理である。
私の主が言う。
明日をも知れぬ者が、何を言う。来年も生きていられるという保障があるのか。
お前が生きているのは奇跡であろう。愚か者。今日一日で足りる。今日を生きることのみに専念せよ。今しかない。明日など考えるな。今を永遠に結び付けなければ、生きている意味がない。
明日の予定など、思い煩いと同じであろう。
本日は、藤岡の生誕を記念してのコンサートである。
それは私のためである。私の思いを具現化しているのである。
この世は、具現化しなければないことと同じである。
今年、数多くのコンサートを開催した。それが私の心である。
心の在り処を知りたければ、何を成したかを見ればいいのだ。
難しい議論より、何を成したかを見ればよい。
あなたの宝のあるところに、あなたの心があると主イエスは言う。

2006年12月5日(火) 本日より

タイに出掛けます。
タイという国が好きです。民主化を目指していますが、少し前に、無血クーデターがありました。98パーセントの国民が支持するという国王が承認することによって、平和裏にそれが行われる国であるということに驚嘆します。
国王という権威を認めるという姿に、国の理想を見ます。国家幻想を支えるものが権力ではなく、権威というところが理想だと思っています。
また私は、バリ島が好きです。生活の中心が信仰であるということです。独自のバリヒンドゥーを起こしました。多神教は神道に似ています。
今回は、タイ北部に向かいます。少数部族に縁したいと思っています。非常に貧しい中に暮らしている人々に、未来に続く、生き方のヒントがあるように思えます。
タイは、小乗仏教の国です。原始仏教の姿が生きています。イスラムに変更しなかったのは、国王の存在が大きいと思います。仏教は戦闘的なイスラムにことごとく、乗っ取られました。仏陀の地がイスラムになっているという現実です。インドには仏教がありません。かろうじて日本人が、仏教を打ち立てています。
平等と慈悲の思想が行われにくいということ。旧約聖書の対立の思想を持つ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が世界を把握する訳です。
敵を想定することで成り立つ宗教の行く末は、見えています。仏陀は、敵を想定しませんでした。主イエスでさえ、汝の敵と、敵を想定します。国取り合戦をしなければならなかった因縁の故でしょうか。
悪魔の共産主義も、タイでは起こらなかった。共産主義に染まったカンボジアなどは、ご覧の通り、大量虐殺が起こりました。ナチスの大量虐殺を言うが、共産主義における大量虐殺を言わないのは何故か、よく解りません。
経済など最優先せずに、タイは、持つべき良さを生かして国を成り立たせて欲しいと思います。私は、タイに学校を建てたいと思っています。
タイの地方の問題は、経済だけではなく、エイズ問題です。貧しいゆえに体を売る人々がいます。日本の少しのノウハウを持ってすれば、地方の経済をある程度、活性化することが出来ると思われます。
タイ南部ではイスラムによるテロが起こっています。イラクでは、宗教対立ではなく、同じ宗教の宗派対立が内戦化しているという仰天で、イスラムというのは、本当に手がつけられません。剣を持って教えを伝えた開祖に習っているのでしょう。
北朝鮮崩壊後に、その武器がテロリストに流れることを世界は、最も恐れています。核兵器など流れると世界は地獄と化すでしょう。

しばらく告知板をお休みします。

2006年12月17日(日) 帰国しました。

タイより戻りました。
14日の藤岡の誕生日をチェンマイにて祝いしまた。
チェンマイにての滞在の様子は、私のホームページ時事放談にて書きます。
結論を言います。タイとの文化交流と、学校を建てることを決めました。日本のみに、目を向けていると、大切なことが見えなくなってしまうということに気づきました。
王政を廃止したヨーロッパの国々の過ちを、タイにて実感しました。権威ある王政は必要です。世界で唯一2660年の歴史ある建国の日本の歴史を誇りに思います。
タイでは、仏陀暦2550年という年代を目にします。
西暦が幅をきかせている世界とは、別世界があります。
欧米に迎合していた日本を、哀れに思います。
タイに隣接しているカンボジア、ラオス、ミャンマーそしてベトナム、貧しい国ですが、日本が最も親しくなるべく国です。
日本の天皇を尊敬できる彼らと親しくすることが、アジアの平和と、そして世界の平和を共存、共栄出来る手立てでしょう。
日本の識者や学者は、欧米を主にして議論しますが、片手落ちです。単に核兵器の有無についてのみの議論ですから、知れています。
白人の、傲慢不遜は、終わっています。日本人の一部も、それに真似て、いい気になって欲望と、傲慢に行動しますが、そんなものは吹けば飛ぶようなものです。
白人支配の時代は終わります。終わりを知らないというのは、いつの時代も滅びる者の定めでしょう。白人というのは、どうして、ああアホなのか、私には、よく解りません。余程、先祖の因縁が悪いのでしょう。
白人であるということだけで、何か特別な人間であると思い込むあたりは、救いようがない。単に、貨幣価値が高いということだけで、あとは何にも取り柄がないということに気づかない、本当にアホですす。
アジアに旅すると、いつも思うことです。

2006年12月18日(月) ビュティフルドリーム

木村天山作詞 田原奈津代作曲

ビュティフルドリーム 朝の光に
ビュティフルドリーム 一杯の水に
ビュティフルドリーム 人生を生き抜くために
大きな夢 ささやかな夢
ビュティフルドリーム ビュティフルドリーム
「繰り返し」

この曲は、何度か藤岡の歌声で流しましたが、素晴らしいとの皆様の声をいただいています。「逢いたくて」「ビュティフルドリーム」「アガスティア」と、特別に録音をしたことを、本当に良かったと思っています。
この歌詞は、私の祖母をテーマにしたものです。
両親を失い、叔父を頼って青森から北海道に渡った祖母の、人生です。
何ひとつの夢を持つこともなく、ただ生きることのみに喜びを見出す人生でした。当たり前のことを感謝して生きた祖母の崇高な人生を、私は、この歌詞に託しました。
朝の光と、一杯の水に感謝した祖母の人生です。
私が死ねば、祖母の存在も死にます。こうして人の存在は忘れ去られてゆく。それを善しとする。しかし、虚とか空とか言う、妄想にはない、存在の確かさがあります。
学問に哲学があっても生死学がないことを、私は嘆きます。もっとも、それを教えられる人がいないということもあります。宗教家や霊能者等々は、単なる妄想に過ぎません。哲学者は孔子のような謙虚さもない。生を知らず、いずくんぞ死を知るという。
西洋哲学にやられてしまっては話にならない。学者が行く霊界が、どんなところか知れば、驚くでしょう。以下省略。

2006年12月19日(火) 出会い

昨日、ウイーンで活動するカウンターテナー石塚たすく君と会う。まさに本場で活躍する声楽家である。これから日本でも活動したいとのこと。しかし、何も手づるがない、さてどうするかということである。
簡単に言う。実は、その前の日に、事務所のディレクターが、やはりウイーンから来て、日本学を学んでいる女性と会っている。
日本人のウイーンに対する大いなる勘違いは、音楽の町であるという意識で、今は、若者はクラシック音楽など聴かないという。日本と同じであると。
そしてカウンターテナーも少ない、そして仕事も少ないと。
もっと驚くことを聞くが、今は書かないでおく。
別な話題であるが、日本で権威あるコンクールの入賞者の演奏と、歌を聴いて、私は愕然として、笑った。ピアノ弾きは、まさに人格障害であり、声楽の日本の歌は、何語で歌うのかわからないという、仰天。本当に、クラシックの人間は、そろそろ目覚めた方が身のためである。しかし、結局、滅びに至る道を歩むのであろう。悲劇である。誰が、あんな歌や、演奏を聴くのか。作曲に至っては、もう言葉がない。
罵倒する言葉も浮かばない。あえて言うならば、クルクルパーであろう。
声楽の入賞者は藤岡のCDを聴いて自害して果てるべきであろう。
それよりもっと悪いのは、審査員である。自害するより、殺された方がいい。
自害する敬意も持たない。
あれが最も権威があるとしたならば、日本のクラシック界は終わっている。よくもまあ、やるものである。
一度、審査員を邦楽の方にお願いしてみるといい。そして素人である。いや、もうこの話は止める。
さて、石塚君の日本での活動を考えることにする。あの演歌歌手のスラバをカウンターテナーと信じているものどもである。本場で活躍する者でも、日本のアホんだらの客には、理解できないであろう。あちらではスラバなどは無名である。イギリスのプロデューサーに、してやられたのである。
そしてテレビに出れば、それだけで善しとする日本のアホんだらに、彼のような本場で通用する歌い手の力量が理解できるか否か。
音楽の良し悪しなど、プロと称する者も知らないのであるから、終わっている。有名ピアノ弾きのおばさんが、あちらで演奏したと言う。石塚くんは、聴いて恥ずかしくなったという。あれが日本で今一番売れているピアノ弾きだとの紹介に、愕然としたという。日本人は、ピアノの良し悪しが解らないと披露したことになる。
言いたいことが山ほどあるが、長くなるので止める。以下省略する。

2006年12月20日(水) 行き交う年もまた旅人

10日あまりで暦が新しくなる。
大晦日を昔、年取りといった。年を取るのだ。少年も爺さんに、少女も婆になる。人生は、浦島太郎のようなもの。気づくと、あっという間に爺さんである。
一日一日は長いが、一年は短い。過ぎれば、あっという間であるということだ。
私は、説教をするつもりはない。野たれ死ぬことが私の希望であるから、人に何事か言う者ではない。
自分で生死学を打ち立ててから、死ぬ身である、この身を見据えて生きるのみ。
死ぬために生きているのみ。
藤岡の誕生日をタイのチェンマイで一人祝った。街中の雑踏の中にあるパブに入り、女の子たちにお祝いだと、ビールを振舞って、過ごした。
そして、子供を抱いて、薔薇の花を売る女から、二本の薔薇を買い、ホテルの部屋に飾った。
その前日に、私は、運河沿いの道を歩いていて、突然涙が流れ始めた。そして太陽に向かって、藤岡に呼びかけた。
一年を過ぎて、藤岡の口癖「僕は木村さんより、早く死ぬからね。木村さんは、僕を見取ってね」という言葉をかみ締めていた。人生最後の死を見取ってと言われる程、私は藤岡に信頼されたと思うと、また涙が出た。
私は死ぬまで藤岡の信頼を裏切ることなく生きられるようにと願った。

ここからは信用せずに読んで欲しい。
藤岡の臨在感を感じていたが、やはり藤岡はメッセージを発していて、同行の者に、存在を示していた。藤岡は、私には間接的に存在を示す。ヤッパリ、宣男君も来ていたと確信したのだ。
次元移動した者は、いつでも、どこにでも、神出鬼没である。その手口が、スマートなのである。藤岡らしい。
古神道の奥義は、ただ風が吹くのみである。この風は、心であり、霊である。私は、どこにいても藤岡の風を受けている。千の風という詩がある。僕が死んだら千の風になるというものである。その通りである。
主イエスは「風がどこから来て、どこへ行くのか解らない」と言う。それがキリスト教の限界である。神学は、この言葉の意味を明確に出来ないでいる。ギリシャ哲学を母体にして、多くの言葉の羅列による、神学なるものを打ち立てたが、結果、真理を理解出来てはいない。古神道は、明確に、風を心であり、霊であり、魂であると判断する。そして一言も教義を言葉にしない。言葉にしないという、禅も、語りに余りあり、それがうそであることが解る。不立文字と言うが、お喋り好きな禅宗である。簡単に言う。古神道は、すべて自然に学べということを言う。古神道の教義は、自然に満ち溢れている。その最もたるものは太陽を礼拝することである。物事の本質を「あ」という音霊にしている。あアまアてエらアすウとは、「あ」をもって始まる。世界のすべの神の名に「あ」音がある。すべての宗教は太陽崇拝から始まった。それ以外を神とする教えは、まさに、魔界のもの、魔物のものである。
以下省略。

2006年12月21日(木) 少し説明します。

タイ、チェンマイに学校建設と書きましたが、建設はオーバーでした。設立です。それも最初はセミナー形式です。
TW2日本セミナーです。
コンサートは、2008年3月を予定しています。それ以前に準備のためにチェンマイに行く予定です。来年10月を予定していますが、早くなるかもしれません。
来年のコンサート予定が、どんどん決定するので、それを調整しつつ考えています。
なお、この企画に準じて、寄付を募ります。ただし、私に面識のない方の寄付は、受け付けません。そのためのチャリティコンサートも企画します。

もうひとつは、私のお弟子さんがバリ島に家を建てます。来年六月に完成する予定です。それにより、私もバリ島にて、活動を開始します。文化交流です。
お弟子さんの夫がバリ人なので、彼と相談しつつバリ島での活動を考えたいと思っています。
前々から占い講座をバリ島でという話がありましたが、中々時間がなく、実現出来ませんでした。いよいよ、これから本格的に考えたいと思います。

さて更に、ニューヨークでの活動も考えています。以前、ニューヨークにて、私の書のTシャツを販売したことがあり、大変好評でした。更に、それを進めて、コンサート活動も開始したいと考えています。

今回、10日間タイに行ったことで、大変多くの人に迷惑をかけました。
この時期、多くの贈り物が届きますが、留守にて、返送されてしまいました。これからは、予め、告知して海外に出掛けたいと思います。

藤岡が生前、海外に行く時は、仕事で行くと言っていました。私は、それを実現したいと思います。藤岡と共に、舞台を海外に広げたいと思います。
生意気なことを言えば、日本は、もう十分という気持ちもあります。それを書きはじめれば、切りがないので、省略します。
ひとつだけ言えば、日本に希望が持ててないということです。ただし、日本の伝統を捨てるような馬鹿なことはしません。
多くエッセイに書いているので、そちらを読んでください。
日本人は、宝物に気づかなくなって久しいようです。クルクルパーになってしまったようです。
面白い日本人に関する話です。日本人は病院に通う狂った人と、病院に通わない狂った人の二通りだと言われています。私も、その通りだと思います。病者の自覚のないことほど恐ろしいことはありませんね。
最も、私が一番狂っていることは、証明済みですが・・・

2006年12月22日(金) うつろう季節

木村天山作詞 高嶋みゆき作曲

しずしずと しずしずしずと しずしずと
秋は来るなり そして行くなり

ひたひたと ひたひたひたと ひたひたと
冬は来るなり そして行くなり

うらうらと うらうらうらと うらうらと
春は来るなり そして行くなり

あかあかと あかあかあかと あかあかと
夏は来るなり そして行くなり

ひそやかに 季節は巡る ひっそりと
風宿るごと 目には見えねど

本日で、今年のコンサートを終了しました。
1997年に藤岡に出会ってから、五年目に、コンサート開催を始めて、今年で五年を経て、走り続けてきたことを思い起こします。利益を考えずに、ただ藤岡の歌をという思いで、続けてきました。
そして藤岡亡き後も、こうして続けている自分を不思議に思います。
どうしてこんなことをと思いつつ、続けています。
ただ藤岡と会うためです。藤岡に逢いたいがために、続けています。
しかし終わりがきます。必ず終わりが来ます。その終わりを真っ当するために、こうして続けているのです。

年暮るる その寂しさの その果ての 明日の夢をも 切り捨てて行く

2006年12月23日(土) クリスマスについて

キリストのミサ、つまり主イエスの最後の晩餐を記念して行うカトリックのミサを言う。主イエスは四月生まれである。十二月にしたのは、四月が復活祭があり、誕生祭を十二月にしたのである。そして、サンタクロースは、聖ニコラスのことで、彼は孤児院などを作り、子供のために生きた聖人である。そのお祝いが、十二月五日であるから、クリスマスと関わることになった。
クリスチャンでも、あまり本当のことを知らない。要するに、教会の定めたことであり、主イエスとは何も関係がない。
主イエスは、毎日生まれて死に、復活している。それが信仰である。人を支配する者の考えることは実に、愚かである。
ただ一般の不幸な人々は、せめても主イエスの誕生祭であるということで、脱日常するのである。特別な日であるという思い込みは、信仰と関係ない。
毎日、主イエスは、生まれている。
信仰とは、そういうものである。毎日、クリスマスの喜びを感じて生きる。それがキリスト者である。
食事をし、飲んで歌って、そして男は女にプレゼントをし、ムードを作りセックスをして、ただ過ぎ去る。それだけ。何の意味もない。
救い主が生まれたということで付近の男の子が皆殺しにあったことなど、知る人しか知らない。クリスチャンは、その犠牲を知っているが、誰一人、殺された男の子たちのことを言わない。
一人の男の子が生まれるために、多くの男の子が犠牲になっている。
西暦2006年は主イエス誕生からのものである。仏陀暦は、2549年であり、皇紀、つまり日本建国から言えば、2659年である。来年は、仏陀暦2550年であり、皇紀では2660年である。
西暦を取り入れているということは、欧米の支配にあるということであり、タイに出掛けた時には、ほとんど西暦を見なかった。仏陀暦だけが目立っていた。
極悪非道のキリスト教が、その大元ローマカトリックの支配に屈して、世界は、ここまできた。もうそろそろ、目を覚まさなければならないだろう。
主イエスは、旧約の神の契約を成就するためではなく、嫉妬と裁きの神もどきからの開放を説教したのである。それゆえ、ユダヤの神に殺された。同じ民族であるユダヤ人に殺されたのである。
その主イエスの愛の教えを実行している人は、教会ではなく、信者の中にいる。
エロス、フィリア、アガペーと愛の種類を言うが、そんなものは空である。愛とは、すべてである。性愛、友愛、与える神の愛と、分けることなく、愛はすべてである。
クリスチャンの中に、隣人を愛する者は、皆無といえる。遠くの人を愛して、愛だと錯覚する。目の前にいる人を愛さずに誰を愛するというのだろうか。
目の前にいる親兄弟、友人、知人、縁する人。それだけでも手に余る。
アメリカの大金持ちが、福祉活動を開始したという。それは主イエスの「金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」と言った言葉が潜在的にある。大金を持てば、後は、天国に入りたくなるのが人情である。
「神の国と、その正義を行う者が天の国に行く」とも言う。
「先の者が後になり、後の者が先になる」という言葉もある。
聖書解釈をしているような者に、その意味が解る訳もない。勿論、神父や牧師という者に解る訳がない。霊性を持ってしか解らない。霊性とは、太陽から頂くものであり、キリスト教が言う霊性とは魔界のものであり、魔物である。
霊界にも段階がある。この次元より少し上の霊界も霊界であり、高く高い霊界も霊界である。それを知らなければ、インドのサイ何とか言う聖人といわれる、いや神といわれる者の正体も解らない。
脳の間脳の空間にある者を知らない者が、解るはずもない。脳の空である。そこに、霊性が宿る。心の正体は、胸の水落の空間にあり、魂は、脳の側面にある。そして脳の空間には、神への道がある。
肉体から心と魂が分離する時、心と魂は体内をくぐり霊界、別次元に行く。戻るのである。神の道とは、宇宙のエネルギーであり、神と言われる正体は無い。
神法も仏法も無い。妄想である。真実の覚者は、虚無に帰すことを願う。死んで霊になることも拒むのである。実相とは、宇宙のエネルギーに戻ることを言う。その実相の世界から、この世に来たということは、肉体というルールを持ってゲームに来たのである。これ以上は、理解不能であるから、以下省略する。

2006年12月24日(日) 455日祭

藤岡が崩(神上がり)して一年と三ヶ月になる。
よくぞ生きてきたものである。私のことである。その後を追うことなく、いずれ死ぬと言い聞かせて生きている。
その間に起きたことを見つめると、多くの真実が現れた。
それを書くことはしない。悲しみを超えるべく、沈黙を破るを書いたが、それも今は消えている。
ある人が、私を励ます意味でなのか、藤岡さんは、やるべきことをやって逝ったと言う。後は、時代が、藤岡さんを生かすのかどうかが問題であると言う。そうであろう。無名のカウンターテナーが、亡き後に、どのようになるのか、私は知らない。

突き詰めれば、この世は、どうでもいいことで溢れている。
人も大切な人と、どうでもいい人の二通りである。私が、どうでもいいと思う人は、向こうも、私を、どうでもいい存在と認識する。それでよし。マザーテレサのような人は、突然変異のようなものである。
ある次元から人間を見れば、人間がゴキブリを見るのと一緒である。識別もつかず、人間として認識されるだけである。
それを知っての、個性であり、一人一人の存在の尊さであろうが、世界は、そんなものではない。戦争、テロによって、虫けらのように殺されること多々あり。
今この瞬間も、子供が餓死して死んでいる。虫けらのようにである。
命が尊くないことが行われて、命が尊いものだと、教えられる訳が無い。

この世に、自由と平等、博愛などないことが、毎日証明されている。
さて、私は、マイナーなことを書いているだろうか。本の宣伝を読むと、この本を読んで救われた等々、プラスイメージの言葉が並ぶ。前向きに、プラス思考で等々、それならアホであろう。この次元には、陰と陽があって、つまり表と裏があって成り立っている。表しかないものは、化け物である。またそんなものは存在しない。
成功哲学は、耐えずプラス思考で考え行動せよと言うが、それを疑いも無く行動するアホはいないだろう。必ず、マイナス思考が、その裏にある。
主イエスが、一粒の信仰があれば山もを動かすと言ったが、未だに山を動かした者は、いない。
仏陀は一切、そのようなことを言わない。仏陀の観たものは、心の姿のみである。

プラス思考で死ななかった人はいない。皆死んだ。
建前は本音に支えられてある。
見えるものは見えないもみのによって、聞こえるものは聞こえないものによって、感じるものは感じないものによって、成り立っている。
徹底的に自分を打ちのめす本は、文学にあった。それを読まなくなって、ハウツーの単純明快な文しか読まない。きっと現実が打ちのめすものに溢れているだろう。だから夢のような本を読んで、簡単に事を済ませる。若いときのハウツーものは、思考の命取りになる。

私は藤岡に、今でも宣男君と話しかける。建前は、藤岡宣男の命と尊称をつけるが、私の中では、宣男くんである。そういうことを作法という。
以下省略。

2006年12月25日(月) 地方公演

多く来年の地方公演が決定しています。告知していないものでも、札幌、京都、名古屋、長崎があります。
出演希望者は、基本的に、その地方の方を優先します。お問い合わせください。

さて、本日は、藤岡の命日です。
毎年、札幌の伊藤さんからターキーを頂いていました。それを藤岡と、ある時は、行き着けのバーで、ある時は、藤岡のお弟子さんの家で、食べました。
本日は、藤岡と共に、皆で頂きます。
貧しく育ったという藤岡ですが、ある年齢から、色々と美味しいものを、年上の方にご馳走になったといいます。
私といることによっても、北海道の美味しいものを食べて、喜びました。今は、それによって、私が慰められます。藤岡を、どけだけ喜ばせたかを考えています。
よく二人分を作っておくと、ぺろりと食べてしまうことがありました。一人っ子のせいで、あるものは、全部自分のものだと思うと言いました。今は、それも思い出です。

目に入る あれもこれもと 思い出の ひと品にあり 生きた証を

年を越す 時の重みを しみじみと 袖にこぼるる 酒と涙と

雪深き 故郷よりて 寒風を 思い出させる 幸の数々

2006年12月26日(火) 時間について

一年とは地球が太陽の周りを回りきって一年という。365日は、地球の自転である。365回自転して太陽を一周するという。それを直に感じることはない。しかし、そうであると信じている。自転は目に見えないのである。
それを一年と仮定して、私の年は幾つだと言う。アホらしい。
5歳の子供が理解することを、50歳になっても解らない人もいる。何故か。転生の過程を知らないからである。物事の理解度とは、転生輪廻の長さである。

時間に関しての確たる定義は無い。
それは宇宙に出掛けると解るが、簡単なことではない。
地球の一回の自転を一日とするが、他の惑星であれば、それは違ってくる。兎に角、地球に生まれたということが、ポイントなのであろう。
年齢に関しても、要するに、そういうことで、私の思惑外のことである。

10年前のことが昨日のことのように思える場合がある。それは昨日が昨日のままであるからだ。
歳月は慈悲を生ずるという言葉を発した思想家がいる。しかし過ぎるということも、定義は無い。
人間の存在の不確かさは、ただ事ではない。しかし平然と生きている。
過ぎ去れば、一瞬、刹那の間である。その間に生きるのが人間であろう。
賢く生きるのも、ずるく生きるのも、愚かに生きるのも、因縁である。そのようにしか生きられないのである。人を正すことはできない。
宿命転換という言葉で、何事か変化したかのように思うのは、妄想である。何も変化していない。小手先の事象だけが少し変わっただけである。
整形しても元は元である。
運勢と宿命は変化しない。運命のみ、少しの選択により変わる。だが、それとて、宿命から逃れることは出来ない。
宿命とは何か。人間として生まれたということである。この迷いから救われることは無い。あり得ない。人間は脳の3パーセント程度を使用して生きる。それでは他の脳の働きは休んでいるのかといえば、そんなことはない。フル回転している。
97パーセントは、次元の違う世界にいる。それを知らないということが不幸である。

脳を作り出すのは奇跡である。つまり人間の存在は奇跡なのである。
時間という妄想を作り上げて、人間は堕落した。時間に安住したのである。
理解不能であろうから、以下省略する。

2006年12月27日(水) 歳々に

歳々に 我悲しみは 深くして いよいよ華やぐ 命なりけり (岡本かの子)

年を経て生きれば生きるほどに、悲しいことが多くなる。だが、しかし、命はいよいよと華やいでくる。益々命の炎が燃えてくる。

返歌
悲しみは 深くともよい 生きること ゆえに生きること ただ生きること
歳々を 迎えるべくの 悲しみを 善しとしてこそ ただ生きるなり

2006年12月28日(木) 帰り来ぬ風

副題 116万人の戦没者遺骨戻らぬ悲しみの歌
木村天山作詞 田原奈津代作曲

かの南の島に吹く風はやさしい
一筋の突風が去り
悲しみの慟哭が満ちる
故国への想い深く
そこに佇む魂 そこに佇む魂

かの南の島に吹く風はやさしい
深い緑に包まれて
無念の想いが満ちる
故国への声届かぬ
国を愛した魂 国を愛した魂

かの南の島に吹く風はやさしい
潮騒に包まれて
父母への想いが満ちる
故国へ帰る願いは
未だ叶わぬ魂 未だ叶わぬ魂

他人の家の神棚を拝むなとは誰が言えるのか。他人の家の奥座敷にある、説明し尽せない神棚の意味を誰が、とやかく言えるのか。それは甚だしい無礼である。
信仰とは何人も犯してはならない、極めて個人的な情緒である。
その成立過程と、伝統に裏打ちされた信仰を、誰が否定するのか。
世界で唯一、建国2660年を来年迎える、尊き伝統の国が日本である。
仏陀暦は2550年、西暦は2007年である。
伝統とは、建国であり、言葉であり、言葉を、この国では、言霊という。
言葉が記号ではない、唯一の国である。
国を愛して逝った多くの尊い人々の魂の、幸あらんことを、私の御霊より、深く深く祈り、願わくは、高祖皇宗の天照大神おわす、高天原(たかあまはら)神界に連なることを、かしこみかしこみ申す。
唯一、神界といえる霊界が開ける国も日本である。
ただし幽かに神界は、遠のきつつある。日本の祭司である天皇の祈り、今こそ強く強く願う者である。
平和の魂、大和魂を有する、唯一の国でもある。
聞く者は聞くがいい。
言挙げせずという神道の奥義、知る者は少ない。
私は、古神道を行ずる者である。古いとは、古(いにしえ)という。
いイにイしイえエ、である。受けて受けて受けて、それを留まらせるという言霊の意味がある。
聞く者は聞くがいい。

2006年12月29日(金) 過激に毒舌

来年から、コンサートが今までの倍に増える。
今までは、故あって、利益を度外視した赤字経営であったが、世の人々の理解の範疇を超えて、逆に理解されなかったことから、来年からは、利益追求の誰もが、理解できる形にする。
その理由は、まだまだあるが、過激過ぎるので、言わない。
さだまさしのプロデューサーは、昔、私のお弟子さんだった。年に一度ほど会って、話を聞く。コンサートチケットは3日で完売するという。ポップス系のコンサートは、実に充実している。それがニーズである。
藤岡は、生前、ポップス路線への転向を考えていた。
語れば切がないが、要するに音楽を楽しまない、クラシックのファンにある。彼らは、楽しむのではなく、あら捜し、そして傲慢にも、評価する。自分は、舞台に上がれば、震えるのにである。何も知らないが、すべてを知っているがごとくに聴くという傲慢さであり、楽しむ音楽の意識など無いのである。
クラシック音楽が高尚であると、何の根拠もなく思い込むのであるから、アホであろう。
さて、私は、それでも声楽家や、ピアノ弾きを引き立てたいと思う。しかし、形を大幅に変える。それは見てのお楽しみである。
アホが、いみじくも自分のことを一番知らないと言った。言った本人が、一番自分のことを知らないという仰天であるが、命の次に大切なお金を掛けている者は、自分のことを知らないはずはないのである。
私は、自分のことを知っている。故に水のごとく、お金を放出した。
お客が少ないのが、私のコンサートである。その理由は、簡単であるが、知る人は少ない。
声楽家、ポップス系、民俗音楽等々、ここからデビューするというコンサートライブを開催するのである。
ある程度、気づいているクラシック関係の人は、参加希望する。アホは、敬遠する。それでいい。大半が下手糞だが、上手だと思い込んでいるから救われない。
無料で来たお客に、賞賛されていい気になっているのが、クラシック音楽の世界であるから、終わっている。
そして知り合いを集めてのコンサートである。

新しいことは、いつの時代も批判される。しかし、それが軌道に乗ると、手のひらを返す。アホらし。
馬鹿を掛け算しても馬鹿である。一人でも賢い人がいれば、それでいい。私のコンサートは、そこにポイントがある。
客がコンサートを選ぶのではない、コンサートが客を選ぶのである。
この意味が解れば幸いである。

音楽的センスのある人は、クラシックの世界に留まることをしない。クラシックは、音楽的センスゼロである。
雁字搦めで、オーブ、つまり許容範囲のない音楽なのである。
ベートーベンから逃れられないはずである。沖縄民謡などは、あれを軽々と超える。
西洋音楽が数学から開放されていないということを気づかないのである。それを総称して馬鹿アホ間抜け、クルクルパーと言う。

2006年12月30日(土) 時代はいつも激動

特別なことではない。時代は、いつも激動の中にある。
その中で生まれ、生きて死ぬのが人間である。ただそれだけのこと。

上記の文を読んで、アホはアホなりに、賢い人は、賢い人なりに、物思う。それが理解度というもの。いくら説明しても、理解度は人それぞれである。
最大公約数的に、理解するものと、最小公倍数的に理解するものがある。
それは、致し方ない。

来る年も激動の年である。
北とイランの核問題。話し合いの出来ないのは、国ばかりではない。多く人は、話し合いなど出来ない。
そんな生易しいものではない。
男女の関係でも、話し合いで解決することはない。話し合いで解ることは、違いである。いかに違うのかということ。それでいい。
誤解により結婚し、理解により離婚するという言葉がある。言いえて妙である。
ほとんど人の関係は、そのようである。

自分が何を理解していないのかと考える時、やや真実というものが見える。見える程度である。
五歳のころの自分と今の自分と、ほとんど変化していないのである。それを知るか、否か。語れば切がないので、以下省略する。

2006年12月31日(日) 繰り返しの中にある真実

毎日、同じことの繰り返しをして生きる。飽きずに、それを繰り返している。
それを高めたり、深めたりしつつ、生きる。
そうして、年の瀬、年の暮れを迎える。何事も無く無事に生きられたことを感謝する。

お正月と、正月に、お、という敬意を表す、正月は、単に暦の一つの月である。最初の月であるから、お、をつけて敬意を表し、祝う。
素晴らしい作法である。

お正月には、日本語の極意が見える。
明けましてと、言う。明けるのであり、開けるのではない。明けるは、太陽の昇るを言う。同じ時の繰り返しの中にある真実である。
新年の太陽を、ご来光として、崇める。太陽は神であった。勿論、今でも神である。
神として、太陽を尊称する。これほど、具体的な神観念もない。
すべて自然から学んだのである。

人生は、死ぬまでの暇つぶしである。いかに、有意義な暇を潰すか。
無常迅速を超えて、暇を潰す。
惚れた、腫れたも、今のうちである。そんなもの、どうでもよくなる年がくる。悩みは、すべて、時が解決するというからくりである。
意地を張らずに生きればよい。
喜怒哀楽も、そこにしかない。

そのようにしか生きられないと、腹をくくる時が来るのである。
あの夢も、この夢も、みんなちりじりになった時に、見えてくる。死を意識した時、すべてが観えてくる。末期の目という、素晴らしい時が来る。
旅する魂である。私というものを求めて旅をしていたことに気づく。一番欲していたことは、本当の私であると。
私に向かって、旅を続ける魂である。

この年に感謝する。


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